愚留米の入院日記
日当たり良好の某法科大学院既習病棟を退院した法務博士の日記。しかし内容はほとんど趣味のディベートの話
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選手の道具化、あるいは新たなる「演劇主義」に対する警鐘(寄稿論文)
本来は立証趣旨との関係で証拠資料の適格や信用性をどのように考えるべきかという記事を書こうかなと思っていたのですが、寄稿記事がありましたのでそちらを優先して掲載することにします。
コメント欄も開放しており、筆者も定期的に覗くといっておりますので、ご感想や反論などあればご自由にお寄せください。

選手の道具化、あるいは新たなる「演劇主義」に対する警鐘(寄稿論文)
Author いちご姫

近時、高校生ディベーターに対して不適切な働きかけを行う大学生がいるということを仄聞したことから、私の経験も踏まえて下記のようにツイートしたところ、望外の反応がありました。








字数の制限や表現の問題から、十分に趣旨が伝わっていないように思われますので、本記事では、なぜ上記のような過激な言辞にて注意を喚起したのか、また、具体的にどのような事態を懸念しているのかということにつき、詳述することにします。

1.「演劇主義」の問題

過去にも論じられていますが(愚留米、2008(a)愚留米、2008(b))、ディベート界においては、顧問が選手に議論の原稿を渡し、それをそのまま読ませるという、「演劇主義」的ディベートが広く見られたことがありました。このような行為は、自分で考える機会を奪い、ディベートの教育性を失わせることや、自分で議論を作る楽しさを奪うことから、極めて問題のあるあり方と考えています。そのようなディベートしか経験できていなかったとすれば、私は今日までディベートを続けることはなかったでしょう(そっちのほうがよかったのかもしれませんが)。

「演劇主義」の根本的問題は、脚本家(顧問や指導者)が選手に自分の議論を回させることを通じて、選手を道具化するということです。ここでいう道具化とは、選手の思考の余地を制約するという側面と、それによって、自己の目的、すなわち、自分の議論で成果を出してもらって満足するという自己顕示欲の実現を達成しようとする側面をとらえた表現です。議論を与えるというのは一応指導然とした行為であり、一定の発達段階では、模範としてシナリオを与えることも有効な指導方法たり得ることから、選手を道具化しているという側面に指導者自身も気づきにくく、また、そのような問題を生徒や若手ジャッジ(私も当時そうでした。)から年長の方に指摘しにくいということから、「演劇主義」は、少なくない関係者から問題視されていたにもかかわらず、永らくディベート界に影を落としてきましたが、上記引用記事中に紹介のある瀧本氏の問題提起や、ディベートの水準向上により脚本家の能力が追いついていかなくなったことにより、過去の演劇主義はほとんど廃れています。

これに対して、最近は、おそらくESSで英語ディベートを学んだりした若手ディベーターが教職に就くようになり、その技術を活かすことで、選手に議論を過度に仕込んでいるのではないかと思われる例もディベート甲子園で散見されます。そのようなチームは、選手の用語法や、議論の内容の不自然さなどから、分かる人が聞けば一発で分かります。
過去の演劇主義時代とは異なり、選手にそのままシナリオを渡すに近いやり方ではなく、議論を理解させようと努めているようには思われますが、用いられている議論の概念のちぐはぐさなどを見ていると、選手に議論を押し付けているのではないかという感覚はあり、程度の差はあれ、よろしくない傾向とは思っています。ただ、正しい方法で指導されれば、大きな成果を上げる可能性もあると思いますので、この点については、私のできる限りの指導ということで、講評の機会がある際には、自分で議論を考えないといけないということを、強くメッセージとして伝えるようにしています(選手に向けてというより顧問や指導者に向けたコメントであり、顰蹙覚悟でかなり露骨に話しているので、対象者にも伝わっており、申し訳なさそうにする態度は見られます。)。

ただ、近時新たな形態として問題になっているように思われるのは、各学校の顧問といった正規の指導者的立場にある人間ではなく、各学校のOBOGや、あるいはその学校と何の関係もない学生が、個人的に選手を指導しようとする中で、不適切な指導が行われているという事例です。冒頭のツイートは、このような問題を念頭に置いたものです。

2.なぜコーチを名乗りたがるのがまずいのか

学生が生徒を指導しようとすること自体は、悪いことではありません。先輩が後輩のことを気に掛けるのは当然のことであり、また、後輩からしても、年の近い先輩に教えてもらうほうが親しみやすい側面もあるでしょう。

しかし、これは先輩後輩関係に限ったことではありませんが、指導については、いくつか留意すべき点があります。
第一に、先輩と後輩では上下関係があり、指導を受ける側としては、おかしいと思ってもなかなか意見を言いにくかったり、指導を受け入れないという選択を取りにくいということです。その結果、誤った指導をした場合、選手の議論の質の停滞・悪化に直ちにつながりかねないという問題が起きますし、指導が適切であるとしても、選手自身で議論を学ぶ契機を失わせたり、自律的な思考能力の育成を阻害するといった弊害が生じ得るところです。特に、議論の指導というのは、評価が見えにくいところがあるので、先輩や指導者がそう言っているのだから正しいのだろうということで、それに従ってしまいがちなものであるため、適切な指導を行うのは大変難しいと思います。特に、こちらから能動的に指導していくという場合、うまくいけば飛躍的な進歩を遂げられる可能性がある一方で、失敗すると選手の可能性を潰してしまう危険があります。そのような難しさに自覚的にならなければ、ディベートの適切な指導はできないと考えています。
第二に、指導を受け入れてくれる生徒や後輩というのはかわいいもので、そういった生徒・後輩に指導をしていくうちに、慕われることが目的になってしまう危険があります。もちろん生徒や後輩に慕われること自体は良いことなのですが、それが目的化してしまうと、指導の合理性を損なうことになります。指導の究極的な目的は、指導者がいなくても自分たちでやっていけるようにするということにありますが、慕われたいという目的ができてしまうと、かかる指導の理念と矛盾してしまうことになります。それどころか、生徒の能力を向上させるということすら目的から外れ、指導の結果を出すために、プロセスは無視して目先の勝利だけを目的にするといったことにもなりかねません。

上記のような難しさは、大学生に限らず、指導者はみんな留意すべきものですが、特に大学生がいきなり指導を行う場合、自分が直前まで選手をしていたという距離の近さから、選手に入れ込んでしまい、上記2点の落とし穴にはまりがちなところがあります。こういった落とし穴にはまらないようにするには、選手と距離をとれるような立場になったり、あるいは、自分も選手としてさらに経験を積み、中高生の選手とは一線を画する実力をつけるというのが効果的です。
私の経験で言えば、やはり卒業して1年2年は後輩や所属支部のことが気になり、連絡を受けると喜んで議論を見ていたものですが、だんだんとそういうことも気にならなくなってきました(出身の部活がなくなった事情もあります)。また、自分も大学でディベートを続けており、大学3年くらいで、高校時代とは違うレベルに一応達することができていたように思われるところで、そういう立場で中高生の議論を見ると、自然と議論と距離が取れるというか、冷静にコメントをすることができるようになったと感じています。
中高時代にディベートを健全に楽しんできて、自分で考えることの大事さを経験している人や、教えることの難しさを分かっている人は、上記のようなことも体感していて、いきなり指導したいとかそういうことは言わず、スタッフやジャッジ、選手経験を経て、早い人だと大学後期くらいから指導の機会を持ったりすることがあるというイメージです。それでも、特定校の「コーチ」を務める大学生は、創価が制度としてやっているような場合を除き、例外的なものだと認識しています。

これに対して、大学に入ってすぐに、指導者を強く希望するような人、特に、自分の出身校だけでなくほかの学校にも教えに行きたいといった希望を持つ人は、上記のような指導の難しさを十分感じられていない可能性が高いと言えます。特に、第二の問題との関係では、慕われたいという動機、あるいは何らかの下心をもって指導をしようとしていることが強く疑われるところです。
そもそも、大学ではやるべきことがいろいろあるわけで、それにもかかわらず、中高でちょっとディベートをやっていた程度で人を教えられると簡単に思うこと自体が安易であり、そこに思い至らず、指導者になりたい、コーチになりたいという思いが前面に出ていること自体が、異常なのです。ディベートに限らず、普通は、指導者になるための実力をつけるにはどうすればいいかということを先に考えるはずで、大学に入ったからすぐ教えられるというのは、はっきり言ってディベートをなめているわけです。あなたは大学に入ったことによって、過去の自分から非連続的な成長を遂げ、指導に足る実力を身に着けることができたのですか?むしろ受験でディベートから遠ざかってしまってリハビリが必要なのではないですか?
私はディベート以外やっていないので実際のところは分かりませんが、例えば、吹奏楽やバスケやサッカーや野球といったその他の競技で、大学に行った人が中高にいきなり指導に行くというのがあるのかというと、おそらくないのではないかと思います。ではディベートなら教えられるのかというと、そんなに甘いものではないです。教えるというのは、議論を代わりに作ってあげるということではないですよ。まぁ、作っている議論も大したことないわけですが。

もっとも、ほとんどディベートをやったことのないチームに、ディベートの基礎を教えに行くということであれば、大学に入りたてでボランティアとして行うことはできるかもしれません(それでも基礎の危うい甲子園ディベーターはトーナメント進出レベルでも散見されますが)。きちんとテキストなどを作るという前提で、そういう活動を展開していくことは、むしろ積極的に検討されるべきかもしれません。
しかし、コーチをやりたがる選手というのは、往々にして、初心者のディベーターには興味がなくて、上手くいけば全国大会に出られるかもしれないレベルの学校に声をかけたりするわけです。そのようなコーチ志願者は、ディベートを教えたいということではなく、ディベートを教えて結果を出し、全国大会の夢の続きを見たいという、自分勝手な動機で、選手を食い物にして自分が気持ちよくなろうとしているわけです。

ディベートという競技は、こういった不純な動機の指導者が活動しやすい競技です。ほかのスポーツであれば、教えられるだけの技量があるかどうかが外から見てすぐ分かりますが、ディベートはそれが必ずしも明らかでなく(実際は見る人が見れば一目瞭然なのですが、経験の浅い選手には分からないでしょう。例えば、高校生のツイッターを見ても、的外れな議論批評が散見されます。)、初心者が超初心者を教えるということが簡単にできてしまいます。また、これは大人が頑張らないといけないところではあるのですが、まだまだ指導のインフラが整っていないので、自分の思うままに指導できてしまうということもあります。

このような自分勝手な動機による指導は、上述した2点の問題にはまってしまう危険性が高いという問題に加えて、自己顕示欲を満たすという動機からくる、固有の問題点がありますので、項を改めて論じることにしましょう。

3.自己顕示目的の指導による問題点

選手のためでなく自己顕示目的で指導者を希望し、コーチを「名乗りたがる」人間がディベートを教える最大の弊害は、長期的な選手の成長ではなく、短期的に勝てそうな対策に走ってしまうということです。分かりやすく言えば、議論を作って選手に渡すという、古典的な演劇主義のやり方です。最後は選手に議論を作らせるとしても、アイデアや資料を押し付けて、実質的に「コーチ」が脚本を書くというのも同様で、こちらのほうが、選手に責任を負わせる余地がある点で、ある意味罪が重いかもしれません。
大学に入りたての選手が作る議論というのはだいたい大したことがないので、論題に真摯に取り組んだ高校生の議論には太刀打ちできません。そういうわけで、こういったコーチが行うのは、他校のそれらしい議論を引っこ抜いてきて渡すブローカー業だったり、いわゆる「びっくり立論」を渡すようなことだったりします。それでたまたま勝ててしまうということはあるかもしれませんが、議論の作り方を教えるでもなければ、模範となる議論を示しているわけでもないので、議論の質は低いままですし、選手の議論構築能力も上がりません。選手指導という観点からは、何の仕事もしていないどころか、むしろ議論を学ぶ機会を失わせているわけで、高校生の貴重な青春、さらに言えば、議論能力を身に着けられたかもしれない未来の可能性を奪う、大変罪深い行為です。このようなことを自覚なく行っている大学生は、今すぐ足を洗って、選手に謝罪しなければなりません。

上記のようなところまでいかないまでも、自己顕示目的で指導をする場合、「より優れた指導機会」から選手を遠ざけるということが生じる可能性が高いという問題もあります。自己顕示目的の場合、選手がほかのジャッジや指導者からアドバイスを受けてうまくなっても、選手から慕われることはないので(実際はそうでもないと思われることは後述)、自分より優れたディベーターに選手を引き合わせることを避けることが懸念されます。
私の経験からすると、優れたコーチは、自分が直接議論を教えるということではなく、ほかのジャッジや指導者に選手を引き合わせたり、練習試合を手配するといった裏方の仕事で選手を支えています。あるチームの面倒を見ていた私より年長の方は、選手の質問に答えるためにいろんなジャッジに協力を仰ぎ、自分自身もどういった指導をすればよいのかということを私も含めたいろんなディベーターとディスカッションし、選手に学びの機会を与えられるよう尽力していました。その結果、選手はコーチだけでなくいろんな人の指導で実力をつけていったわけですが、大会が終わった後、彼らが、コーチ役の方に大いに感謝していたということは言うまでもありません。ほかの成功例を見ても、自分一人で何とかするのではなく、いろんな人の力を借りて指導を行っています。
大学生は知り合いが少ないから…ということはなくて、本当に指導校に伸びてほしいのだとすれば、自分が高校時代世話になった人に聞いてみるとかすることはいくらでもできるわけですが、自分のありがたみが減ってしまうのではないかと思うと、そういう行動には出なくなってしまうというわけです。

さらに、これはあまり深く書きませんが、ディベート界の過去の歴史からは、指導者(スタッフ)が選手に手を出すという例についても警戒する必要があります。ディベート指導という文脈でそういうことをされて問題になった場合、大会の存続に支障を生じさせかねないわけです。ですので、ないとは信じていますが、もしそういう不純な動機をも含めてディベート指導を行っているのであれば、全国のディベーターがディベートを続けられるようにするため、直ちにディベートと関わるのをやめてください。塾業界でも、生徒に手を出すのはご法度で、損害賠償請求もあり得る問題なわけですが、ディベートも同様です。

4.新たなる「演劇主義」に我々はどう対峙すべきか

以上、冒頭のツイートで述べた「高校のチームのコーチを名乗りたがる大学生ディベーター」がなぜゴミなのか、ということの説明です。より正確には、大学生に限らず、殊更にコーチを名乗りたがる人一般が問題なのですが、大学生、とりわけ大学に入ってあまり間がないのにすぐコーチをやりたがるような人に問題が多いので、このように述べた次第です。

ここまでの内容で分かるように、上記発言は、大学生がコーチを目指すこと自体を否定するものではないですし、指導の意義を否定するものでもありません。しかし、まだ経験も浅いのにコーチを「名乗りたがる」(やりたがる)ということが、ディベートを甘く見て(あるいはディベートであれば簡単に指導者面できると見越して)指導を行おうとするものであり、動機において褒められたものでない上、指導の帰結も悪い方向に行く可能性がとても大きいことから、そのような自称コーチは、選手に害をなし、ディベートの意義を損ねるゴミである、ということです。ゴミという言葉が不穏当ということでしたら、「有害」と読み替えていただいて構いません。

上述したような問題は、自分の指導活動の中で自己満足を図ろうとする伝統的な「演劇主義」とは異なり、積極的に選手を食い物にしようとするものであり、水面下で選手に悪影響を及ぼすということからも、大いに警戒する必要のある問題だと考えています。また、指導をしたいという抽象的な気持ちはディベーター一般が持っていることから、そういった邪な大学生(自分の知り合いだったりもする)をほかの選手や大学生も批判しにくく、自称コーチが既成事実化してしまいやすいという問題もあると思います。
しかし、線引きは難しいものの、選手を食い物にする目的で指導をしようとする行為は確実に存在するのであり、そのような行為が許されないのだということは、いくら強調してもしすぎることはないでしょう。冒頭のツイートも、特に誰かを名指しで批判したわけではなく(正確には、伝え聞いたところで余計なことをしている特定人を念頭におきつつ一般的な発言をしたのですが、その本人はあまり自覚がないようで、事実誤認でないとすれば遺憾です。)、コーチを「名乗りたがる」ようなことのないように、地に足の着いた取り組みをしてほしい、というメッセージです。それが誤解を招くものであったとすればその点は謝罪いたしますが、結果的に、問題意識を広く伝えることには成功したのではないかと思っております。

この先、新しい演劇主義を防ぎ、選手の成長の機会を守るためにはどうすべきかということが課題となります。一つの方法は、怪しい大学生に頼らなくてもよい指導体制を作るということですが、そのようなリソースが社会人の側にないという現実的問題のほか、自称コーチの側では個人的なつながりでチームに入り込もうとしているようで、それを完全に見張るということは難しいということもあろうかと思います。
そのような事情を考えると、指導体制を作るというところは、むしろ、心ある大学生がもっと早く、実力のある指導者として指導ができるようにするカリキュラム、裏返せば、そのような経験を経ずに指導をすることがおかしいのだという認識を選手や大学生に強く意識させることで、変な大学生が入っていけないようにする、ということが理想なのでしょう。私自身のイメージとしては、現在NADE関東支部が行っている新規校向けの講座は、少しトレーニングを積めば、アシスタントからであれば大学生でもそれほど苦労なくやれるのではないかと思います。それはそれで進めつつ、骨のある中高生への指導は、コーチ側もある程度の見識を持っていないと対応が難しいところですので、大学後半でジャッジの経験も積んできたあたりから、練習会などで少しずつ指導の機会を持っていくということがあってもよいのかなと思っています。他方、各学校の正式な「コーチ」というのは、その学校の先生なりから正式な依頼があって行われるべきもので、そこで連盟が推薦するコーチは、当然しっかりした人をつける、ということになるでしょう。

個人的な経験からすると、昔に比べて、今はディベートを学ぶ機会が多く、特に関東であれば、怪しい大学生などに頼ることなくディベートをしていくことは十分できると思います。その意味で、新たな演劇主義の発生は、インフラの貧弱さではなく、自称コーチ側の悪意に由来するところが大きいのではないかと感じています。SNSやツイッターなどで選手との交流が容易になったということも関係しているところでしょう。
選手との距離が近くなったからこそ、指導者としての立場からは、選手との接し方には気を付けるべきであり、ディベーターである選手を議論に携わる対等の人間として扱うことがこれまで以上に強く求められているということを、自らへの戒めも兼ねて確認することで、本論考の区切りとさせていただきます。

5.ツイートへの反応に対するコメント

以上を踏まえつつ、ここからは、私の冒頭のツイートに関してコメントされたと思しきツイートのうち、言及を要すると思われたものについて、適宜言及しておくことにします。鍵アカで言及したい方もいらっしゃいましたがここでは省略しております。

(1)甘藷(馬鈴薯)氏のツイート
なぜか冒頭のツイートに過剰に反応されていた方。コーチを名乗りたがる大学生だということなのでしょうか。



営業というのは、コーチをさせてほしいとお願いに行くのでしょうか。そうすると対価がもらえるのでしょうか?率直に言って「営業」を行うという意味が分かりません(私の中で「営業」というのがかなりのパワーワードです。)。
コーチをお願いされるならまだしも、わざわざ自分を売り込みに行ってまでコーチをしようとする動機がどこにあるのか、私には理解できません。そこまでしてコーチとしての地位を(無償で?)獲得しようというのは、自己顕示欲によるものか、はたまたコーチをしている中で何か素敵な出会いがあるのか、よくわかりませんが、自分が指導すれば必ず選手を成長させられるという自信がおありということなのでしょうか。そうだとしたら大変な自信家だなぁと思います。
なお、「営業」なのだとおっしゃるくらいですので、NADEか、指導を希望する各学校の顧問や教務にしかるべき形で連絡を取っているのだと理解しておりますが、そうではなく選手に絡んでいるだけだとすれば、それは「営業」と呼べるようなものではないのではないかと思います。



競技に秀でているから指導力があるわけでないというのはそのとおりで、いくらうまい選手でも、人に押し付けるだけでは、指導としては全く不適切です。
逆に、競技に秀でていない、十分経験がない場合でも指導ができるかという点については、指導をどのように行っているかによるでしょう。ディベートを自身でされない学校の先生でも、ジャッジに引き合わせたり練習試合を企画したり、ディベート経験の浅い目線からコメントするといった形で貢献される例はあるし、それで選手が伸びていくということもあります。しかし、議論の内容にコメントしていくのであれば、選手よりも十分に高い能力ないし経験が必須です。どのような議論が評価されるのか(強い議論なのか)ということを前提として理解していないと、議論の中身にコメントすることはできません。
コーチを名乗りたがるような輩は、議論の中身に口を出そうとしているわけで、そういった方法で指導をしたいのであれば、指導者としての心構えはもちろんのこと、ディベートそのものを相当分かっている必要があります。この方は、自分にどういうところで指導者としての適格があると思っている(どういう営業をしている)のでしょうか?



別にコーチが手続きする必要はなくて、選手か顧問がやればいいと思うのですが(職業ディベーター安藤氏は女子聖の指導をされていた際に手続きまではしていなかったでしょう)、それはともかくとして、私が問題にしているのは、指導の動機がどういうところにあるのか、ということです。別に、「あいつは名乗りたがっている」という認定をしたいのではなくて、選手のことはともかくコーチになりたい(自己顕示欲を満たしたい)という動機で指導をするなという話ですので、各コーチが自問自答すればよろしいのではないでしょうか。外部から見て、質の低い議論が回っていて、それが誰かに仕込まれた結果であるといったことが露見すれば、その際には、裏にいる自称コーチが問題になることもあるでしょう。
なお、選手からお願いされたのであればよいという話でもなくて、能力や時間の関係で自分で責任をもって指導することができないのであれば、人に頼んだり、断るのが筋です。



自分がゴミと名指しされたわけでもないのになぜこんなに毒づいているのか分かりません。「名乗りたがる」の意味が不明確だったかもしれないことはありますが、ツイートでも補足し、上記で詳述した前提からすれば、殊更にコーチという立場にこだわるような大学生(社会人も該当し得る)をゴミと評することは何らおかしくないでしょう。それが大人として品位ある発言かどうかは今回の私の発言においては興味の外であり、問題意識を受け止めて皆様がどうお考えになるかがすべてです。



名乗るだけで何もしないコーチならむしろ害がないのですが、わざわざコーチを名乗りたがる(あるいは営業までしてコーチをしたがる。生活のためとかでもないのに)人間は、有害な指導を行うので問題です。上記をお読みいただければお分かりになると思いますのでここでは繰り返しません。











別に私はコーチの人格を問題にしているわけではありません(ただ、コーチを名乗る以上、その発言が当該チームの評判にも影響することは当然考えるべきです。ですので、この方がどこかの学校のコーチをされているというのであれば、それは学校や顧問の先生の許諾を得ている必要があります。)。
すでに述べたとおり、自己顕示欲に基づいて選手を指導すること自体が、選手に害をなすということを言っているのです。特に、ディベートの場合、指導が選手の議論の内容に直結しやすいので、特に気を付けるべきということも含めて、上記論考をお読みいただければ分かる話なので、再論はしませんが、見苦しさではなく、現に議論の質を下げ、選手の成長機会を奪っていることが問題なのです。したがって、そのようなコーチは、いないほうがましだと考えます。
後でも指摘しますが、自身が批判されていると感じられているのであれば、具体的に自分がどういう指導をして、選手になにをもたらしたのかということを説明されたらよろしいのではないでしょうか。



そういう考え方もあるかもしれませんが、選手に支持される目的だけであれば質に関係なく対応できてしまうので、前提が違うのではないかなと思います。また、一般的には、他者評価を過度に気にする人は、ミスを隠したり、評価を偽装したりするものです。最近だと東芝がそうですね。





火の粉って、誰と戦おうとしているのかよく分かりませんが、私のツイートを読んで信者が逃げていくのではないかということを懸念されたのでしょうか。選手をきちんと指導されているのであれば心配無用でしょう。また、きちんとしたコーチであれば、学校にも当然理解を得ているはずですし、NADEかどこかからクレームが来たとしても、指導内容を含めて申し開きはいくらでもできるはずで、何を恐れる必要があるのでしょうか。それとも、何か隠さないといけないことがあるのでしょうか。

とまぁ、上記のように、非常に過剰な反応があったので、当該ディベーターが過去にどういう指導を行っていたのか気になり、大会前後の時期のツイートを軽く見てみたところ、指導内容とは関係ないですが、下記のようなツイートが見つかりました。





要するに、全国大会の高校決勝の裏で、勝手にエキシビジョンマッチを行っていたというものです。かかる行為が、NADEや大学の許可なく行われていたのだとすれば、それ自体施設の無断利用として問題とされるべき事案ですが、そのことに目をつぶるとしても、その年の議論の集大成となるべき決勝戦を無視して、自分たちで好き勝手に試合を行って遊びに興じるような行為が、指導者の在り方として適切とは到底思われません。このようなイベントに参加するよう選手を教唆した?ことも含めて、指導者の適格性を欠くものと断ぜざるを得ず、少なくとも、かかる行為に出たことに対する真摯な反省がないにもかかわらず、コーチその他の指導者として名乗らせることについては、「営業活動」も含めて、NADEにおいても問題視しなければならないはずです(既にしているのではないかと思いますが、彼のツイートにはそのような経緯の説明や反省は全く見られません。なお、上記ツイートはいずれも保全済みです。)。
別に彼を非難する趣旨でツイートしたものではないので、上記に対する回答を求めるつもりは特にありませんが、火の粉云々ということで自身のコーチとしての適格性を擁護したいのであれば、まず上記の件に対する回答からはじめるべきでしょう。

繰り返しになりますが、私は、特定の人物を念頭に置いて、冒頭の発言を行ったものではありませんし、彼がどういう指導を行っているのか、ということも知りません。ただ、私のツイートを読んで、強く反応されたことからすると、彼は、「コーチ」に対するこだわりについて何かしらの自覚を有していたのだと思います。
私が残念に思うのは、彼が、自分がどのような指導を行っているのかという内容面の話ではなく、(別に彼に対して向けられたわけでもない)私のツイートの語句にのみ拘泥し、自己正当化を図っていたということです。彼において、コーチ(指導者)としての矜持を傷つけられたとして異議申立てを行う必要があったのだとすれば、自分がどのような信念をもってコーチとしての職責を果たそうとしているのか、それによって選手に何を与えようとし、また、何を与えられたのか、ということを説明するのが本筋ではないでしょうか。

(2)Nakanishi, Y.氏のツイート
明示でリツイートされたりしておりませんが、タイミング等に鑑み、下記のツイートも私の主張に対する反応と思われますので(私のツイートを意識された発言との前提でコメントしているため、そうでないとすれば謝罪いたします)、一応コメントしておきましょう。





[2017/5/10追記:コメント欄で上記ツイートの趣旨を訂正したいとの希望がありましたので、コメント欄から以下のとおり転載します。]
まず私のツイート中の「団体の上の方(ほう)」という表現について、少し補足させてください。
ここでの意味は「立場や経験年数から発言に強い影響力のある人」という意味で書きました。もちろん、いちご姫様が既にNADEの委員職を退かれていることは私も存じ上げておりますし、私が行いたかった議論の本筋とは全然関係ないのですが、単語の意味からいちご姫様に誤解されて議論のポイントが逸れてしまうのは本意ではないので、はじめに訂正しておきます。



私が「団体の上のほうとか」いうのは事実誤認も甚だしく(NADEの委員職はずいぶん前に退いており、現状何の役職も有していません)、謎のアウトロー意識の発露と思しき発言には正直困惑させられますが、それは措くとして、私の問題意識からすると、専ら自己顕示欲を満たすために選手を指導しようとするような人間は、「手伝っている」のではなく、選手を食い物にしているのですから、上記指摘は完全に前提を誤っています。そういう動機はむしろ積極的に削いでいかないといけないのであって、そのような安易なかかわり方を「てへぺろ」で許すことはできないということは理解してほしいところです。
「関わり方を間違えていると思しき方に対しては、ご退場頂くのではなくて軌道修正させるという風にしないと」いけないことについては、かかる可塑性が合理的なレベルで存在するという前提の下で同意します。その方法として私の問題提起が不適切であったという批判は大いにあり得るでしょう。しかしながら、かかる問題提起が、お高くとまっていると評されている点については、なぜそのような評価になるのか、まったく理解できません。私は、指導の在り方を問題としているのであり、大学生はディベートを指導すべきではない、といった短絡的な主張をしているものではありません。
事実として、ジャッジとしての技量や経験、年齢などを踏まえた業界的評価(特に意味のある地位とは思いませんが)については、主観的にも客観的にも、大学生や、ここで取り上げている方々より私のほうが上だと思いますし、そういう立場から厳しいことを述べることが萎縮的効果を持ち得ることは自覚しておりますが、そうであるとしても、問題と思われることについてはきちんと指摘する必要があると考えています。きちんと支えてくれる人を正当に評価し、選手がディベートを楽しめる環境を作るためであれば、むしろ高いところから正すということが、相応の経験に基づき負うべき責任ではないでしょうか。自分たちだけのイベントであれば何でもウェルカムで済むかもしれませんが、生徒が関わるイベントですからね。
上記ツイートは、私が本ブログで詳述した問題意識を踏まえずにされたものだと思いますので(当初のツイートではそこまで読み込めないでしょうから、この点は私の責任です)、機会があれば、私の問題意識を踏まえたうえで、それに賛同されるか否かも含めて、ディベートへの関わり方について意見交換できればと思っております。

(3)覆面氏のツイート





タイミングからして上記のツイートを受けたものだと思うのですが、せっかく実のあるディベート指導をされているのに、こんな風に取り上げられてしまうと、事の重大性がぼやけてしまうので、正直残念なところです。「業界そのものがゴミと化してきた」というのが何を指しているのかは気になりますが、まぁこれはこれで。ただ、九州はこの方が頑張っているので、変な自称コーチが湧いてくるということはないのかもしれません。
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第22回ディベート甲子園高校論題の分析等
気が付いたら春季大会も終わり、シーズンが始まっております。いろいろと取り上げたいテーマはあるのですが、今日はディベート甲子園高校論題について気になるところを簡単に検討していこうと思います。

今年の高校論題は下記のとおりです。

「日本は企業に対する正社員の解雇規制を緩和すべきである。是か非か」
ここでいう緩和とは「人員整理の必要性」および「解雇回避努力義務の履行」を整理解雇の要件から除外することとする。



ここで問題となるのは、付帯文を踏まえたときに、解雇規制がどう緩和されるのか、ということです。例によって論題解説を見ると、今年の論題解説は、議論の見通しについて参考になる内容となっており、選手の皆様におかれてもしっかり読み込むべき内容とはなっているのですが、論題の意味についての解説は、よくわからないところがあります。以下では、そのあたりの疑問について、解雇規制の意味を解説しながら説明していくことにします。

「解雇規制を緩和すべき」とある以上、現在の日本には解雇について規制があるわけですが、具体的には、労働契約法16条が「解雇は、客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合は、その権利を濫用したものとして、無効とする。 」と定めているところに現れています。この規定は、解雇を制限する裁判例が積み重なってきた結果を明文化したものであり、会社にとっては解雇を困難にする内容となっています。
客観的に合理的な理由というのは、解雇すべき理由があるということを指します。解雇は労働者にとって大きな不利益となりますので、それを基礎づけるだけの強固な理由が必要と解されており、例えば、会社として、労働者が能力不足であるというだけで解雇することはできず、能力不足の程度が著しく、改善しようとしてもなかなか改善しないといった相当ひどい場合であることを要し、相対的に成績が悪いというだけでは合理的な理由は認められません。
社会通念上の相当性は、解雇にあたっての手続きが尽くされているかどうかや、解雇とすることが過酷にすぎない事情がないか、といったことが問題とされます。有名な裁判例としては、高知放送のアナウンサーが、2週間の間に2回、宿直勤務で寝過ごしたため、ラジオニュースを放送できず、放送が5~10分間中断されることとなってしまい、おまけに2度目の放送事故を直ちに上司に報告せず、後で事実と異なる報告をしたという、なかなかひどそうな事案について、最高裁は、ミスは故意によるものではないこと、先に起こすべき担当者も寝過ごしており、この担当者はけん責処分にとどまっていたことからアナウンサーだけを責めるのは酷であること、これまでのアナウンサーの成績が悪くなかったことなどを踏まえて、社会的相当性を否定しています(高知放送事件:最判昭和52年1月31日集民120号32頁)。

さて、今回の論題で問題となる「整理解雇」とは、上記要件の中の、解雇の「客観的に合理的な理由」として、使用者の業績悪化等の会社都合の理由を挙げたものを指します。このような整理解雇については、労働者側に解雇されるべき理由がないため、解雇の可否がより厳格に判断されてきました。その際に要件として挙げられてきたのが、論題解説で説明される4要件によって説明される、整理解雇法理というものです。具体的には、①人員削減の必要性、②解雇回避の努力、③被解雇者選定の合理性、④解雇手続の適正性、といった要件があげられます。これら4要件をそれぞれ満たす必要があるのか、4要件を総合して判断するのか(例えば①が非常に強ければほかの要素が少し弱くてもよいと考える余地があるか)といったところは議論があり、最近は総合判断説が有力ですが、いずれにせよ解雇のハードルが高くなっています。
注意すべきは、この4要件も、解雇の一類型であり、解雇の客観的合理的理由と、社会的相当性の2つの要件が必要であるという前提で、それをより具体化したものであるということです。①人員削減の必要性が、解雇の客観的合理的理由に対応し、残り②~④が、解雇の相当性に対応するということになります。

ここで、今回の論題の付帯文は、「人員整理の必要性」および「解雇回避努力義務の履行」を整理解雇の要件から除外する、ということを言っており、会社都合の解雇についてのみ条件を緩和する、ということを述べています。しかし、この説明には、以下のような疑問点ないし検討課題があります。
まず浮かぶのは、「整理解雇」というためには、解雇理由が会社都合である必要があるところ、そこで「人員整理の必要性」という解雇理由に関する要件を取り除くとすると、それは整理解雇の定義と整合しないのではないか、という疑問です。ただ、これは、会社が「会社都合で解雇したい」ということであれば、対象選択と手続だけ尽くせば自由に解雇させてあげるという趣旨である、というように理解せよということなのでしょう。そうであれば、付帯文を法律上使われている用語でもない「整理解雇」という言葉で定義するのではなく、「ここでいう緩和とは、会社都合での解雇につき、被解雇者選定の合理性と解雇手続の適正性を満たすだけで解雇できるようにすることとする」と定義したほうが明確かつ適切だったように思います。
ここで、1点目の疑問を上記のように解すると、より大きなもう一つの疑問が生まれます。それは、今回の論題は、労働者に問題がある場合の解雇について、どのように取り扱おうとしているのか、ということです。(論題解説に論題解釈の拘束力はないですが)論題解説では、労働者に問題がある場合の解雇と区別する形で、整理解雇を取り上げており、労働者に問題がある場合の解雇は論題の範囲外と考えていることが示唆されます。また、付帯文でわざわざ「整理解雇の要件から除外する」と書いていることから、論題の文理上も、会社都合の解雇以外については解雇規制を維持すべきという趣旨が読み取れます。しかし、会社都合にしてしまえば「人員整理の必要性」を問題とせず解雇できるのですから、使えない労働者を切りたいと思った場合、「整理解雇します」とさえ言えば、自由に解雇できることになります。そうすると、結果的には、全部の場合について解雇規制が緩和されてしまう、ということになります。

論題としては、労働者に問題がある場合も含めて解雇規制を緩和することでもよく、むしろそちらのほうが論題の趣旨は分かりやすくなるように思われます。すなわち、この春大会でもよく出ていたのが「雇用の流動化」ですが、経営者にとっては、雇ってみたら使えなかったという場合に容易に解雇できないということも、大きな制約になります。私も実際に会社側で解雇事件をやっていますが、整理解雇でなくても、労働者を解雇するというのは難しく、訴訟になった場合の負担もあるので、経営者側として正社員雇用を控える理由になるというのはよくわかるところです(外資系企業のマネジメントに日本の解雇法制を説明するとキレられたりします…。)。現在日本で議論されている金銭解決制度(裁判で不当とされた解雇を職場復帰でなくお金で救済する)も、会社都合か否かを問わず自由に解雇できる制度を志向しています。
しかし、今回の論題は、少なくとも文言上は、会社都合の解雇である「整理解雇」に絞って議論してほしそうに読めます。そのような前提に立つ場合、雇用の流動化に関する解決性の「解雇しやすくなるので雇いやすくなる」という解決性はかなり削られてしまいます。能力不足でも経営上の必要性がないとクビにできないとすると、新規採用にリスクがある状況は変わりがないからです。論題解説は、そのようなややこしい状況は想定しておらず、論題の文言から解雇が自由になると読めるという理解をとっているのかもしれませんが、そのような理解は、「整理解雇」という言葉をわざわざ使っていることとは必ずしも整合しません。

ではどうすればいいのかということですが、一番簡明な処理としては、会社都合での解雇が緩和されるので、結局は自由に解雇できる(「整理解雇だ」と唱えさえすればいい)、という説明にしてしまうことが考えられます。そう考えたとしても、対象選択の合理性ということで、能力などの指標で解雇され合理性が担保されますし、手続きも尽くされるので、解雇のあり方自体がまずくなるということにはならないでしょう。論題との関係では気持ち悪いのですが…。

今日はこんなところでおしまいです。中学論題も気が向いたら何か書くかもしれませんが、特に論題の解釈に疑義があるでもなく、議論の中身も複雑ということまでは言えないので、今後面白い議論を見れば言及するということで。
第23回JDA春季大会の感想
どうもご無沙汰しています。
気が付いたら今期論題が発表されておりますが、今回はJDA春季大会に出た感想をお送りします。

今回は、ディベート実験室のオリジナルメンバーで出場するという趣旨で、レジェンドの安藤さん・CoDAの重鎮久保さんと組んで出場させていただきました。論題は代理出産実施の法的枠組み整備というもので、過去に2回も出ている論題なのですが、プレパの時間がなかなか取れずメンバーにはご迷惑をおかけしました。
結果はというと、予選1位で決勝に進み、近時著しく実力を伸ばしている後輩たちのチームと対戦することになりました。結果優勝することができましたが、思わず質疑中に座り込んでしまうほどの激戦で(タイマーの音がしたので完全に終わったと思ってしまいました…。)、苦しくも楽しい試合でした。

決勝のトランスクリプトが公開されるのかわかりませんが、今期はNegでいろいろと思うところがあったので、主に決勝を見た人向けになってしまい恐縮ですが、簡単な自戦解説をしておきます。

決勝は相手方がAffで、我々はNegを引きました。Affのケースは、非常にオーソドックスで、代理出産でないと子を儲けられない人がいるので、その人たちのために選択肢を確保しようというものです。代理出産論題は、既に他の生殖医療その他の医療行為で第三者にリスクのある行為(臓器移植とか)も認められていたりすることもあり、規制の理由がなかなか見当たらないところで、Negが苦慮する論題でした。ただ、個人的には、Affも盤石ではないし、Negのほうがストーリー性のある複雑な議論(強いとは限りません)ができるのではないか、ということを考えてきました。
今回のチームは、チームで戦略をすり合わせるというより、寄せ集めで議論を作り、各自やりたいことをやるという感じでプレパをしていきました。決勝では、安藤さんが2NC/2NRだったということもあって、Counterplanを伸ばして勝ったのですが、個人的には、1NCで出したケースアタックのラインで、治療が本当に患者を幸せにするのかという観点で攻めたかったところです。以下、具体的なNegの議論に即してみていきましょう。

Negの出した議論は、DA2つとCounterplan、それからいくつかのケースアタックです。

DAの1つ目は、代理出産をしないといけないというプレッシャーを受けるという話です。すなわち、現在はプラン対象の子宮がなかったりする人は、どうしようもないので生殖医療を使っていないところ、プランで代理出産ができるようになると、これをやってみないといけないというプレッシャーに襲われ、排卵誘発剤や卵子採取という苦しい治療を受けることになる、という話です。インパクトについては、排卵誘発剤より卵子採取の苦しさがより重要だと思っていたのですが、排卵誘発剤の話は反論しやすいので反論を誘える(予選3試合目は相手がこれにはまり1分ほど時間を無駄遣いしてくれました)というディベート便宜的なところはあります。本当は心理的なプレッシャーのインパクトも言いたかったのですがよい資料が見つからず断念しています。
このDAは、後であげる、子を産んでも幸せにならないというケースアタックの話や、代理母がなかなか見つからないという話、養子Counterplanの競合性で出す、代理出産の存在が養子を選択しづらくさせるという話と絡めて伸ばしていくことを想定しているものです。つまり、代理出産は不妊女性が真に待ち望んでいるものではなく、しなければならない強制的な選択肢になると論じていきつつ、しかし代理母はなかなかおらず、他方で養子に行く道も否定されてしまうので、辛くかつ現実的に依頼が困難な代理出産という選択肢に縛り付けられていく、というストーリーを考えていました。ただ、こういう伸ばしになっていないのはご案内の通りです。

DAの2つ目は、自分で産まない代理出産では、障害児が生まれてしまうと引き取らないなどして大事にされない、という話です。この話は、障害などで不幸せになるから産むべきでないというのは、一定のカテゴリーの人間の出生を否定することになるのでよくない、という反論が来て、これで切られてしまっていたのですが、個人的にはそういう話ではないだろうと思っています。つまり、DAで言っているのは、自分で産んでいないということで無責任になってしまうということであって、そういう無責任な出産形態は認めるべきでないという話であり、生まれてこないほうがよいとかそういうことを言っているわけではありません。
この話は「出産を他人にさせる」という代理出産固有の問題であり、子の福祉のために自己決定が制約されるべきというケースの重要性への攻撃の根拠に位置づけられる予定でした。また、これは時間の問題であまり見込みがなかったのですが、本来はケースアタックの「産んでも幸せにならない」という話と関係する話で、心理的ケアでフォローされていない過大な子供願望による場合は完全な子供を求めるので障害に耐えられないという話もできるかなぁと思っていたところです。この話は、同じく自分で産んでいない養子の取り扱いと区別するために必要となってくる議論なのですが(こういう話がないと「じゃあ養子をとった人もその養子が障害児と分かったら虐待するのでは」と反論されてしまう)、そこまで議論するには現行フォーマットは時間が短すぎます。

Counterplanは、第三者配偶子を使った生殖医療の禁止(結果的に代理出産が禁止される。もっとも、代理出産だけ禁止でもよかったのではないかとは思います)と養子の促進というもの。最終的に、分厚い2conによって、実子でも満足するとか、代理出産を認めると養子による解決が低いものとみられるとか、施設で育てるより家庭で育てたほうが良いといった話が追加されていきます。
ただ、実際のところ、養子が幸せになるという話は、そこまで重要ではなく、おまけ的な位置づけではないかと思っています。少なくとも、養子に生じる利益は、生殖医療で考慮されるべき「子の福祉」ではありません(それこそ、アフリカに寄付するのも子の福祉なのか、という話です。)。この論題に即して純化するとすれば、代理出産という選択肢(生殖医療の拡大)を認めることで遺伝的つながりへのこだわりを強化させてしまい、子供がほしいという目的を解決するより簡便な選択である養子が見えにくくなるのと、さらに「実子へのこだわり」から苦しみを増す、という話にするのがよいのではないかと思っていました。

ケースアタックは、1NCの段階では、上記の狙いから、代理母があまり集まらないという話、子供ができても産めない自分は変わらず傷ついたままで救われないという話、かえって精神医学的フォローができなくなりよくないという話を出しています。
2NCでは、インパクトへの攻撃のほか、代理母が苦しむという話が追加されていますが、これは蛇足かなと思っています。ただまぁ、2NRでまとめやすいという判断なのでしょうから任せていたところではあります(結局機能していなかったとは思います)。

上記議論に対して、Affもいろいろと反論を尽くしてきたのですが、詳細は割愛します。もう少しCounterplanへの反論を2ACでしっかりやるべきだったのではないかとは思いますが、なかなかプレッシャーのある議論でした。

苦しいといわれていたNegですが、実際の政策判断としてどこまで説得的かどうかはともかく、上記のような感じで、それなりに整合性のあるストーリーと、それに基づく議論はできたのではないかな、とは思っています。とはいえそうではない筋で勝ってしまうというのがまたディベートの面白いところなわけですが、せっかくのアイディアなので、一応記しておく次第です。
前にどこかで(同じ論題の2010JDAの感想だったかな?)書いたと思いますが、個人的には、いろんな議論を関連付けて、ストーリー性のある議論を展開していくのが、格好いいディベートだと思っており、その方向に沿った議論は若干なりともできたかな、というところではあります。私はあまり貢献できませんでしたが…。

と、ほぼ自分の議論構想語りになってしまいましたが、JDA参戦記でした。
しかし、この大会でも思いましたが、近年は本当に大会のレベルが高く、苦しいシーズンでした。有力なチームがたくさん出てきているのと、それぞれが質の高い議論を作るための取り組み方を確立している感があります。ここでいう「質の高さ」は、エビデンスの質だったり、ストーリーの部分だったり、いろいろありますが、その根底には、ディベート経験はいうに及ばず、どういう議論が良い議論なのか、という物の見方についてのレベルが向上している感があります。逆に、そういうところでレベルが上がっていないと、せっかく準備してきているのに的外れな議論をやってしまったり、狙いのよくわからない議論を回していたりと、結果につながらないところが出てしまうように思います。

ではどうすれば物の見方がよくなるのか、また、そもそも何をもって物の見方がよいということになるのか、というのはなかなか言語化が難しいところなのですが、今後も考えていきたいところです。もちろん、自分のレベルアップも必要なわけですが。
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