愚留米の入院日記
日当たり良好の某法科大学院既習病棟を退院した法務博士の日記。しかし内容はほとんど趣味のディベートの話
効果的な反駁のためのポイント
いよいよ今年のディベート甲子園まで1週間を切りました。「山脈」などのトップディベーターが活躍している中でここを見ている中高生がどの程度いるのか不明ですが、大会でジャッジをしていて特に気になった、反駁に関する改善点を簡単に書いておくことにします。

1.何の議論に反論しているのかきちんと述べる
反駁の4拍子(①どこに反論しているのか、②自分たちの主張、③根拠、④結論・まとめ)という言葉を聞いたことのある人は少なくないと思いますが、このうち①の、どこに反論しているのかというところについては、もう少し意識されてもよいと思っています。
ここについて、「内因性の3点目に反論します」のようにサインポスティングすれば十分という向きもあると思いますが、望ましくは、「内因性の3点目で、解雇規制による雇い控えで正社員が不足しているんだ、ということを言っていますが…」というように、議論の要約もできたほうがよいです。
これには2つ理由があります。1つは、そちらのほうが議論の場所が特定しやすいので、フローシートがとりやすいということがあります。議論を書く場所が決まるまでにしゃべっていても、ジャッジはその中身をフローシートに書けませんから、意味がありません。それなら、少し時間を割いても、どこに反論しているか丁寧目に述べたほうがよいです。ただ、あまり丁寧に言っても時間の無駄です。あくまで「要約」です。
では、どの程度要約すればよいのか。それは、2つ目の理由である、自分たちの主張が分かりやすくなる、ということに関係してきます。相手の議論を説明するのは、それに対する自分たちの反論を際立たせ、どこが間違っているのか分かりやすくすることにつながります。具体例を挙げると、上で「内因性の3点目で、解雇規制による雇い控えで正社員が不足しているんだ、ということを言っていますが…」と要約するのは、そのあとで「しかし、正社員が不足しているのは、企業の求める能力を満たす人材がいないからであって、解雇規制とは関係ありません」という反論をするためです。自分たちの反論が「正社員は不足していない」というものであれば、要約では「内因性の3点目で、正社員が不足しているんだ、ということを言っていますが…」で足りるでしょう。

2.議論の趣旨を明確に
反駁の4拍子のうち、②と④の部分も大事です。ここで大事なのは、何を言いたい議論なのかはっきりさせる、ということです。これには2つの次元があります。
1つ目は、②に対応する、その反駁が何を言おうとしているのか、ということです。当たり前のことと思われるかもしれませんが、上の例のように「(i)正社員が不足しているのは、企業の求める能力を満たす人材がいないからであって、(ii)解雇規制とは関係ありません」という説明、すなわち、(i)これから述べる理由付け(証拠資料)は何を言っているのか、(ii)それが相手の反論との関係でどういう意味を持つのか、ということをきちんと述べられているチームはあまり多くありません。これがきちんと述べられると、ジャッジの頭の中では「よさそうな反駁だ」というスイッチが入り、その後の理由付けや読まれた証拠資料が適切であれば、「当たっている反駁だ!」というように考えることになります。
2つ目は、④に対応する、その反駁が試合の中でどのように機能するのか、ということです。「正社員不足は解雇規制と関係ない」というだけでも、一応反論にはなっているわけですが、実はこの反論は、内因性に反論しているものの、その心は「解雇規制を緩和しても取りたい人材が出てくるわけではないので正社員不足解消=雇用増加にはつながらない」という解決性の反駁だったりするわけです。このことを述べるだけで、ジャッジに与える印象はかなり違ってきます。山脈のように優秀なジャッジであれば言わずもがなで取ってくれるかもしれませんが、そうではないジャッジに対しては、どう取ればよいのかということを丁寧に伝えましょう。

3.無意味なダウトは時間の浪費
スピーチは流暢だけど中身がスカスカ、というのは、聞いていてとても残念な気持ちになる試合ですが、残念ながら、そのような試合は、結構な頻度で見られます。なぜこんなことになっているのかというと、「~はどの程度発生するのかあいまいです」とか「根拠が不明です」というダウトでそれらしく喋る選手が多いからです。反駁というためには、相手の議論を攻撃するための新しい情報をフローシートに新しく書き込ませる必要があります。そこに、ダウトだけが出されても、何も情報は付け加わっていないので、判定に与える影響はゼロです。
意味のあるダウトは、大きく2つあります。1つ目の場面は、その後に自分たちが反論を持っている場合のジャブとして機能する場合です。例えば、「否定側は夜働かないと学費を払えなくなる学生がいると言っていましたが、どの程度いるのか、ということを述べていません」というダウトは、それだけでは意味がない(フローの上に何の情報も追加できていない)のですが、その後で「実際には、深夜の仕事で学費を賄っている学生はほとんどいません」という反論が来ると、「否定側は立証がないのに対して、肯定側がカウンターを決めた」ということで、反駁の有効性をアピールできます。かっこいいですよね。
2つ目の場面は、相手が絶対に説明しなければいけないところについて説明できていない、ということを示す場合です。例えば、解雇規制緩和で新規事業が生まれて雇用拡大、経済成長、みたいなケースに対しては、新規事業の余地がある、ということを証明しないといけない、ということを丁寧に説明する議論が有効たり得ます。そもそも新規事業を起こしたい、でも解雇規制のせいで起こせない、といった例がどの程度あるのか、ということ、起こせば絶対成功するのか、ということが指摘できなければ、ケースの成立は怪しくなるはずです。こういった指摘を行い、リンクに乖離があることを示すのは、無意味ではありません。ただ、これは質疑でもできる(むしろそっちのほうが有効)ですし、スピーチするとしても、そのような指摘だけでなく、例えば「今でも不採算事業を売却して新規事業に注力している例はある」といった話を出して、新規事業がうまくいくかどうかは解雇規制と関係なくて、解雇規制があっても意欲のある企業はもう動いているし、解雇規制を緩和したところで事業のネタが増えるわけではないから、今動いていないような会社が成功するとは思えないし、そんな証明はない、という話をするほうが説得的でしょう。自分たちでもカウンターの分析を出したうえで、それを踏まえると、相手の議論はここの説明が足りないのだ、というダウトが打てれば、非常に説得的な議論となります(それはもはや単なる「ダウト」ではないとも言えます)。

4.無理に比較する必要はない
第二反駁あるあるで、「それでは比較します」と言ってから、事前に用意したらしい謎の基準に基づいて議論を総括しだし、ジャッジはコミュニケーション点を計算しだす、ということがあります(私だけかもしれませんが)。比較が大事だよ、ということがよく言われるのですが、ルール上もメリットとデメリットを比べないといけない以上、ジャッジは、比較のスピーチがあろうがなかろうが、勝手に比較を行いますし、選手が述べた基準で比較しないといけないわけでもないので、単に比較するだけでは意味がありません。
比較が意味を持つ前提として、比べる中身が拮抗しているということがあります。なので、まずは、比べる対象であるメリットとデメリットの話をきちんとしてください。自分たちの議論がどう残っているのか、なぜそう言えるのか、相手の反論はどう評価すべきなのか、ということを、重要度に応じてメリハリをつけながら、きちんと説明してください。ジャッジの講評で聞いたことがあるはずですのでそれを参考にしましょう(ただ、講評では、重要でない議論でも、選手が頑張ってスピーチしていたところは一応触れます)。
その上で、比較をするときには、どうしてそういう基準が当てはまるのか、理由を述べましょう。いきなり「確実性で比べましょう」とか言われても困るわけです。なぜ困るのか。そりゃあ確実性のあるほうがいいのは分かっているわけですが、確実かどうかではっきり違いがあり、それで勝負をつけていいのであれば、比較されなくてもジャッジはそれで投票するわけです。上の無駄ダウトと一緒で、何も情報を付け加えていないのです。確実性をキーワードにスピーチするなら、例えば、「メリットも前提としているように、失業というのは絶対発生する。その中で、再就職できない人がいるということも否定側は立証した。この、確実に発生するデメリットは、労働者保護という労働法の理念に照らして重視されるべきであるという点でメリットより優先されるべきだし、メリットにおいて、雇用増加の可能性が明確に示されてはいないということと比べても、確実性の点で上回っている」という程度まで言ってくれれば(その前提となる議論もあれば)、そう取りますか、ということになります。
上記の例から分かるように、第二反駁でジャッジが聞きたい総括スピーチは、必ずしも「比較」ではありません。何を重視すべきかという基準が説得的に出されて、その基準からみて議論がどう評価されるのか、ということが示されることが重要です。もちろん、それはいきなり出てくるものではなく、立論や反駁で何を出すか、という戦略の下で準備されてはじめて機能するのです。

以上、どちらかというと第一反駁がメインですが、反駁のポイントです。
これらの要素をきちんと話せれば、スピーチが多少早くても、コミュニケーション点は高くなるはずなのです(もっとも、滑舌などで致命的に聞きにくいスピーチもたまにあるし、ある一定以上の速度だと取らなく/取れなくなるジャッジもいる点に注意)。原稿を準備する、自分たちの言いたいことを言う、ということだけでなく、相手の議論との関係でどういう話をしているのか、その話をどう取ってほしいのか、ということをきちんと伝えるという気持ちこそが、議論の中身で勝負するディベートにおけるコミュニケーションなのです。

ということで、今年の全国大会でも、素晴らしいコミュニケーションが交わされることを願って、本稿を終えます。選手の皆様、暑さに負けず最後の追い込み頑張ってください。
深夜営業の自由とは何か(中学論題のポイント)
どうもご無沙汰しております。
さすがに寄稿記事がトップを飾っているのもどうかと思いますので、短めですが記事を書くことにします。

先日、東北大会にジャッジで出かけてきました。皆様楽しげにディベートをしていてよかったのですが、今日はその感想ではなく、大会前日に行われたジャッジ講座で聞いた関東地区の某中学校同士の試合で出ていた議論を題材にすることにします。
その試合はディベート経験の短いチーム同士の試合だったらしいのですが、大変よく準備されていて、初心者校とは思えないレベルの高い試合でした。ただ、その中で見た否定側の議論について、ちょっと中学生が作ったとは思われない香りがしたのと、その割に理解の浅いところがありありと見えていて残念だったので、そのことを取り上げることにします。選手は自分たちなりに頑張ってスピーチしており、古い演劇主義とは全然違う感じを受けましたが、だからこそ、触れさせるなら良質な議論に触れさせてほしい、という趣旨のコメントです。

さて、件の否定側が回していたのは、深夜営業規制は個人の職業選択の自由や企業の経営の自由(営業の自由)を制約するのでよくない、自由にやらせるべきだ、というものです。この議論自体は、後述するように職業選択の自由というのか疑問があることはともかく、なかなかよいところに目をつけているのですが、深刻性で例によって失業→自殺の話が出てきて、結局これかよという、(中学生には本当に申し訳ないですが)二流の議論に堕してしまっていました。以下、時間の制約もあるので端折りながらの説明で恐縮ですが、簡単に解説します。

なぜこのインパクトが悪いのか。それは、職業選択の自由や営業の自由の重大さは、失業するかしないか、といったこととは全く関係ないからです。
職業選択の自由や営業の自由は、憲法22条1項が「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。 」と定めていることにより保障されています(営業の自由という言葉はないですが、職業選択の自由は職業遂行も含むので、営業の自由も含みます。)。このような自由が保障されているのは、昔は身分制やら何やらで職業や住居が制限されており、そういった制約から人民を解放する必要がある、といった歴史的背景があります。会社員の子どもは医者になりたくてもなれない、とかいやでしょ?というわけで、なりたい職業へのアクセスを制限することは許しません、ということです。ですから、ここで言う職業選択の自由や営業の自由というのは、金を稼ぎたいのに稼げないとかいう文脈の話ではなく、むしろ、自己実現の機会を確保するという、個人の人格的価値と不可分な精神的自由としての性質を有しています(薬事法違憲判決:最大判昭和50年4月30日民集第29巻4号572頁)。
これに対して、失業しないようにするというのは、制約を受けないという「自由」の議論とは関係ありません。生存権を保障する憲法25条が関係するかもしれませんが、生活保障制度はともかく、失業対策を積極的に求める権利があるのかは疑問ですし、ましてや、仕事が見つからないということを「自由がない」と言うことはありません。自由というのはそんなに安易に使われるような概念ではありません。

ですから、職業選択の自由や営業の自由で議論を立てたいなら、深夜に働く/営業するという在り方そのものを希望することに対する制約が存在する、という議論を行う必要があります。例えば、深夜にやっているキャバクラやホストクラブでNo.1になりたいキャバ嬢やホストに対する職業自由の選択の制約だ、という話はあり得て、これは、失業の話を持ち出すより、自由侵害の話としてよほどよくできています。まじめな話、肯定側が良く出す過重労働解消のメリットでは、こういった夜の世界を規制する根拠としては十分ではないかもしれません(まぁ、夕方やってください、ということなのかもしれませんが…。)。
深夜に営業してお客さんが来ている業態もあります、という話も、企業側の営業の自由を論じるという意味ではよいでしょう。ただ、その場合のインパクトは、企業は社会(顧客)のニーズに合わせて営業を遂行し、利潤を上げる目的で活動しているわけで、それを制約するのはけしからん(し、経済的にも不合理だ)、といったところになるでしょう。失業させないと人が死なないから分かりにくい、とかいう話ではないわけです。そういう間違ったprimitiveな議論を中学生に教えるのはもうやめにしましょうよ、と言いたいです。

さて、上記のように職業選択や営業の自由を捉えなおしたとき、これを制約することを正当化したい肯定側の拠って立つべき論理は何でしょうか。憲法においては、「公共の福祉に反しない限り」自由が保障されていることから、そのような制約根拠があるかどうかを問題にできそうです。
職業選択や営業の自由を制約できるかどうかの判断基準についてはいろいろな議論があり、上記の薬事法違憲判決一つとってみても、非常に深い議論があります。なのでここでは詳細には論じませんが、一般的には、規制目的がある目的を積極的に達成する政策的なもの(積極目的)である場合には、問題を防ぐためといった消極的目的の規制より緩やかに規制の合憲性(規制してよいかどうか)を判断するとか、職業を行うことそのものを制約する場合は職業遂行の方法を制約する場合より厳しく合憲性を判断するとかいったことが言われます。これをこの論題に照らしてみると、①一律に規制すべき目的があること、②制約の程度はそこまで大きくないこと、という2点に整理されます。
①の「規制目的」については、試合でも散見されますが、放置しておくと企業は他社との競争目的で深夜労働を強化し従業員がすりつぶされていくので、法律で介入すべき、ということが言えるでしょう。解雇規制などを定める労働法と同じような考え方ですね。キャバクラやホストクラブは関係ないのではないかという説もありますが(たぶん昼間寝てるので。まぁ飲みすぎで体に悪そうですが)、そこは、子どもの深夜労働を禁止しているのと同じで、休息時間をきちんと確保することが大事で、キャバクラやホストクラブはよいとか言い出すと、女性を横に置いとくだけ置いといて食事を出す深夜レストランなど脱法行為?が起こる、とかいうことが言えるのかもしれません。この辺適当ですが。
②の制約程度については、別に昼間働けばいいわけで、仕事自体を否定するものではない、という形でのデメリットへの反駁になります。少し視点を変えて、「夜も働かないと生活できない」というのは、夜働けるようにして解決すべき問題ではなく、社会保障の問題ではないか、といった問題提起や、そもそも夜働きたいというのは「学生にとって給料の実入りがいい」とかいうだけで、そこまで切実ではないのではないか(そもそもアルバイトであり、正社員の失業とは違うのでは?)、といった反論もありでしょう。

といったところでまとめますと、深夜営業規制論題で、否定側の立場から、何か理念的なものを立てたいのであれば、安易に自殺させるような議論ではなく、何を制約しているのかということをきちんと考えてほしい、ということです。上記は法学的な側面から記載していますが、経済学の観点から規制が不合理だという話をすることもできると思います。いずれにせよ、人が死ぬからとか、金がもうからないからとかそういうことで議論が決まるのではなく、この論題で何故それを論じるのかという「事の本質」をきちんと捉えて議論していただきたいということで、皆様が素晴らしい議論を戦わせることを祈念しつつ本日の記事を終わります。
選手の道具化、あるいは新たなる「演劇主義」に対する警鐘(寄稿論文)
本来は立証趣旨との関係で証拠資料の適格や信用性をどのように考えるべきかという記事を書こうかなと思っていたのですが、寄稿記事がありましたのでそちらを優先して掲載することにします。
コメント欄も開放しており、筆者も定期的に覗くといっておりますので、ご感想や反論などあればご自由にお寄せください。

選手の道具化、あるいは新たなる「演劇主義」に対する警鐘(寄稿論文)
Author いちご姫

近時、高校生ディベーターに対して不適切な働きかけを行う大学生がいるということを仄聞したことから、私の経験も踏まえて下記のようにツイートしたところ、望外の反応がありました。








字数の制限や表現の問題から、十分に趣旨が伝わっていないように思われますので、本記事では、なぜ上記のような過激な言辞にて注意を喚起したのか、また、具体的にどのような事態を懸念しているのかということにつき、詳述することにします。

1.「演劇主義」の問題

過去にも論じられていますが(愚留米、2008(a)愚留米、2008(b))、ディベート界においては、顧問が選手に議論の原稿を渡し、それをそのまま読ませるという、「演劇主義」的ディベートが広く見られたことがありました。このような行為は、自分で考える機会を奪い、ディベートの教育性を失わせることや、自分で議論を作る楽しさを奪うことから、極めて問題のあるあり方と考えています。そのようなディベートしか経験できていなかったとすれば、私は今日までディベートを続けることはなかったでしょう(そっちのほうがよかったのかもしれませんが)。

「演劇主義」の根本的問題は、脚本家(顧問や指導者)が選手に自分の議論を回させることを通じて、選手を道具化するということです。ここでいう道具化とは、選手の思考の余地を制約するという側面と、それによって、自己の目的、すなわち、自分の議論で成果を出してもらって満足するという自己顕示欲の実現を達成しようとする側面をとらえた表現です。議論を与えるというのは一応指導然とした行為であり、一定の発達段階では、模範としてシナリオを与えることも有効な指導方法たり得ることから、選手を道具化しているという側面に指導者自身も気づきにくく、また、そのような問題を生徒や若手ジャッジ(私も当時そうでした。)から年長の方に指摘しにくいということから、「演劇主義」は、少なくない関係者から問題視されていたにもかかわらず、永らくディベート界に影を落としてきましたが、上記引用記事中に紹介のある瀧本氏の問題提起や、ディベートの水準向上により脚本家の能力が追いついていかなくなったことにより、過去の演劇主義はほとんど廃れています。

これに対して、最近は、おそらくESSで英語ディベートを学んだりした若手ディベーターが教職に就くようになり、その技術を活かすことで、選手に議論を過度に仕込んでいるのではないかと思われる例もディベート甲子園で散見されます。そのようなチームは、選手の用語法や、議論の内容の不自然さなどから、分かる人が聞けば一発で分かります。
過去の演劇主義時代とは異なり、選手にそのままシナリオを渡すに近いやり方ではなく、議論を理解させようと努めているようには思われますが、用いられている議論の概念のちぐはぐさなどを見ていると、選手に議論を押し付けているのではないかという感覚はあり、程度の差はあれ、よろしくない傾向とは思っています。ただ、正しい方法で指導されれば、大きな成果を上げる可能性もあると思いますので、この点については、私のできる限りの指導ということで、講評の機会がある際には、自分で議論を考えないといけないということを、強くメッセージとして伝えるようにしています(選手に向けてというより顧問や指導者に向けたコメントであり、顰蹙覚悟でかなり露骨に話しているので、対象者にも伝わっており、申し訳なさそうにする態度は見られます。)。

ただ、近時新たな形態として問題になっているように思われるのは、各学校の顧問といった正規の指導者的立場にある人間ではなく、各学校のOBOGや、あるいはその学校と何の関係もない学生が、個人的に選手を指導しようとする中で、不適切な指導が行われているという事例です。冒頭のツイートは、このような問題を念頭に置いたものです。

2.なぜコーチを名乗りたがるのがまずいのか

学生が生徒を指導しようとすること自体は、悪いことではありません。先輩が後輩のことを気に掛けるのは当然のことであり、また、後輩からしても、年の近い先輩に教えてもらうほうが親しみやすい側面もあるでしょう。

しかし、これは先輩後輩関係に限ったことではありませんが、指導については、いくつか留意すべき点があります。
第一に、先輩と後輩では上下関係があり、指導を受ける側としては、おかしいと思ってもなかなか意見を言いにくかったり、指導を受け入れないという選択を取りにくいということです。その結果、誤った指導をした場合、選手の議論の質の停滞・悪化に直ちにつながりかねないという問題が起きますし、指導が適切であるとしても、選手自身で議論を学ぶ契機を失わせたり、自律的な思考能力の育成を阻害するといった弊害が生じ得るところです。特に、議論の指導というのは、評価が見えにくいところがあるので、先輩や指導者がそう言っているのだから正しいのだろうということで、それに従ってしまいがちなものであるため、適切な指導を行うのは大変難しいと思います。特に、こちらから能動的に指導していくという場合、うまくいけば飛躍的な進歩を遂げられる可能性がある一方で、失敗すると選手の可能性を潰してしまう危険があります。そのような難しさに自覚的にならなければ、ディベートの適切な指導はできないと考えています。
第二に、指導を受け入れてくれる生徒や後輩というのはかわいいもので、そういった生徒・後輩に指導をしていくうちに、慕われることが目的になってしまう危険があります。もちろん生徒や後輩に慕われること自体は良いことなのですが、それが目的化してしまうと、指導の合理性を損なうことになります。指導の究極的な目的は、指導者がいなくても自分たちでやっていけるようにするということにありますが、慕われたいという目的ができてしまうと、かかる指導の理念と矛盾してしまうことになります。それどころか、生徒の能力を向上させるということすら目的から外れ、指導の結果を出すために、プロセスは無視して目先の勝利だけを目的にするといったことにもなりかねません。

上記のような難しさは、大学生に限らず、指導者はみんな留意すべきものですが、特に大学生がいきなり指導を行う場合、自分が直前まで選手をしていたという距離の近さから、選手に入れ込んでしまい、上記2点の落とし穴にはまりがちなところがあります。こういった落とし穴にはまらないようにするには、選手と距離をとれるような立場になったり、あるいは、自分も選手としてさらに経験を積み、中高生の選手とは一線を画する実力をつけるというのが効果的です。
私の経験で言えば、やはり卒業して1年2年は後輩や所属支部のことが気になり、連絡を受けると喜んで議論を見ていたものですが、だんだんとそういうことも気にならなくなってきました(出身の部活がなくなった事情もあります)。また、自分も大学でディベートを続けており、大学3年くらいで、高校時代とは違うレベルに一応達することができていたように思われるところで、そういう立場で中高生の議論を見ると、自然と議論と距離が取れるというか、冷静にコメントをすることができるようになったと感じています。
中高時代にディベートを健全に楽しんできて、自分で考えることの大事さを経験している人や、教えることの難しさを分かっている人は、上記のようなことも体感していて、いきなり指導したいとかそういうことは言わず、スタッフやジャッジ、選手経験を経て、早い人だと大学後期くらいから指導の機会を持ったりすることがあるというイメージです。それでも、特定校の「コーチ」を務める大学生は、創価が制度としてやっているような場合を除き、例外的なものだと認識しています。

これに対して、大学に入ってすぐに、指導者を強く希望するような人、特に、自分の出身校だけでなくほかの学校にも教えに行きたいといった希望を持つ人は、上記のような指導の難しさを十分感じられていない可能性が高いと言えます。特に、第二の問題との関係では、慕われたいという動機、あるいは何らかの下心をもって指導をしようとしていることが強く疑われるところです。
そもそも、大学ではやるべきことがいろいろあるわけで、それにもかかわらず、中高でちょっとディベートをやっていた程度で人を教えられると簡単に思うこと自体が安易であり、そこに思い至らず、指導者になりたい、コーチになりたいという思いが前面に出ていること自体が、異常なのです。ディベートに限らず、普通は、指導者になるための実力をつけるにはどうすればいいかということを先に考えるはずで、大学に入ったからすぐ教えられるというのは、はっきり言ってディベートをなめているわけです。あなたは大学に入ったことによって、過去の自分から非連続的な成長を遂げ、指導に足る実力を身に着けることができたのですか?むしろ受験でディベートから遠ざかってしまってリハビリが必要なのではないですか?
私はディベート以外やっていないので実際のところは分かりませんが、例えば、吹奏楽やバスケやサッカーや野球といったその他の競技で、大学に行った人が中高にいきなり指導に行くというのがあるのかというと、おそらくないのではないかと思います。ではディベートなら教えられるのかというと、そんなに甘いものではないです。教えるというのは、議論を代わりに作ってあげるということではないですよ。まぁ、作っている議論も大したことないわけですが。

もっとも、ほとんどディベートをやったことのないチームに、ディベートの基礎を教えに行くということであれば、大学に入りたてでボランティアとして行うことはできるかもしれません(それでも基礎の危うい甲子園ディベーターはトーナメント進出レベルでも散見されますが)。きちんとテキストなどを作るという前提で、そういう活動を展開していくことは、むしろ積極的に検討されるべきかもしれません。
しかし、コーチをやりたがる選手というのは、往々にして、初心者のディベーターには興味がなくて、上手くいけば全国大会に出られるかもしれないレベルの学校に声をかけたりするわけです。そのようなコーチ志願者は、ディベートを教えたいということではなく、ディベートを教えて結果を出し、全国大会の夢の続きを見たいという、自分勝手な動機で、選手を食い物にして自分が気持ちよくなろうとしているわけです。

ディベートという競技は、こういった不純な動機の指導者が活動しやすい競技です。ほかのスポーツであれば、教えられるだけの技量があるかどうかが外から見てすぐ分かりますが、ディベートはそれが必ずしも明らかでなく(実際は見る人が見れば一目瞭然なのですが、経験の浅い選手には分からないでしょう。例えば、高校生のツイッターを見ても、的外れな議論批評が散見されます。)、初心者が超初心者を教えるということが簡単にできてしまいます。また、これは大人が頑張らないといけないところではあるのですが、まだまだ指導のインフラが整っていないので、自分の思うままに指導できてしまうということもあります。

このような自分勝手な動機による指導は、上述した2点の問題にはまってしまう危険性が高いという問題に加えて、自己顕示欲を満たすという動機からくる、固有の問題点がありますので、項を改めて論じることにしましょう。

3.自己顕示目的の指導による問題点

選手のためでなく自己顕示目的で指導者を希望し、コーチを「名乗りたがる」人間がディベートを教える最大の弊害は、長期的な選手の成長ではなく、短期的に勝てそうな対策に走ってしまうということです。分かりやすく言えば、議論を作って選手に渡すという、古典的な演劇主義のやり方です。最後は選手に議論を作らせるとしても、アイデアや資料を押し付けて、実質的に「コーチ」が脚本を書くというのも同様で、こちらのほうが、選手に責任を負わせる余地がある点で、ある意味罪が重いかもしれません。
大学に入りたての選手が作る議論というのはだいたい大したことがないので、論題に真摯に取り組んだ高校生の議論には太刀打ちできません。そういうわけで、こういったコーチが行うのは、他校のそれらしい議論を引っこ抜いてきて渡すブローカー業だったり、いわゆる「びっくり立論」を渡すようなことだったりします。それでたまたま勝ててしまうということはあるかもしれませんが、議論の作り方を教えるでもなければ、模範となる議論を示しているわけでもないので、議論の質は低いままですし、選手の議論構築能力も上がりません。選手指導という観点からは、何の仕事もしていないどころか、むしろ議論を学ぶ機会を失わせているわけで、高校生の貴重な青春、さらに言えば、議論能力を身に着けられたかもしれない未来の可能性を奪う、大変罪深い行為です。このようなことを自覚なく行っている大学生は、今すぐ足を洗って、選手に謝罪しなければなりません。

上記のようなところまでいかないまでも、自己顕示目的で指導をする場合、「より優れた指導機会」から選手を遠ざけるということが生じる可能性が高いという問題もあります。自己顕示目的の場合、選手がほかのジャッジや指導者からアドバイスを受けてうまくなっても、選手から慕われることはないので(実際はそうでもないと思われることは後述)、自分より優れたディベーターに選手を引き合わせることを避けることが懸念されます。
私の経験からすると、優れたコーチは、自分が直接議論を教えるということではなく、ほかのジャッジや指導者に選手を引き合わせたり、練習試合を手配するといった裏方の仕事で選手を支えています。あるチームの面倒を見ていた私より年長の方は、選手の質問に答えるためにいろんなジャッジに協力を仰ぎ、自分自身もどういった指導をすればよいのかということを私も含めたいろんなディベーターとディスカッションし、選手に学びの機会を与えられるよう尽力していました。その結果、選手はコーチだけでなくいろんな人の指導で実力をつけていったわけですが、大会が終わった後、彼らが、コーチ役の方に大いに感謝していたということは言うまでもありません。ほかの成功例を見ても、自分一人で何とかするのではなく、いろんな人の力を借りて指導を行っています。
大学生は知り合いが少ないから…ということはなくて、本当に指導校に伸びてほしいのだとすれば、自分が高校時代世話になった人に聞いてみるとかすることはいくらでもできるわけですが、自分のありがたみが減ってしまうのではないかと思うと、そういう行動には出なくなってしまうというわけです。

さらに、これはあまり深く書きませんが、ディベート界の過去の歴史からは、指導者(スタッフ)が選手に手を出すという例についても警戒する必要があります。ディベート指導という文脈でそういうことをされて問題になった場合、大会の存続に支障を生じさせかねないわけです。ですので、ないとは信じていますが、もしそういう不純な動機をも含めてディベート指導を行っているのであれば、全国のディベーターがディベートを続けられるようにするため、直ちにディベートと関わるのをやめてください。塾業界でも、生徒に手を出すのはご法度で、損害賠償請求もあり得る問題なわけですが、ディベートも同様です。

4.新たなる「演劇主義」に我々はどう対峙すべきか

以上、冒頭のツイートで述べた「高校のチームのコーチを名乗りたがる大学生ディベーター」がなぜゴミなのか、ということの説明です。より正確には、大学生に限らず、殊更にコーチを名乗りたがる人一般が問題なのですが、大学生、とりわけ大学に入ってあまり間がないのにすぐコーチをやりたがるような人に問題が多いので、このように述べた次第です。

ここまでの内容で分かるように、上記発言は、大学生がコーチを目指すこと自体を否定するものではないですし、指導の意義を否定するものでもありません。しかし、まだ経験も浅いのにコーチを「名乗りたがる」(やりたがる)ということが、ディベートを甘く見て(あるいはディベートであれば簡単に指導者面できると見越して)指導を行おうとするものであり、動機において褒められたものでない上、指導の帰結も悪い方向に行く可能性がとても大きいことから、そのような自称コーチは、選手に害をなし、ディベートの意義を損ねるゴミである、ということです。ゴミという言葉が不穏当ということでしたら、「有害」と読み替えていただいて構いません。

上述したような問題は、自分の指導活動の中で自己満足を図ろうとする伝統的な「演劇主義」とは異なり、積極的に選手を食い物にしようとするものであり、水面下で選手に悪影響を及ぼすということからも、大いに警戒する必要のある問題だと考えています。また、指導をしたいという抽象的な気持ちはディベーター一般が持っていることから、そういった邪な大学生(自分の知り合いだったりもする)をほかの選手や大学生も批判しにくく、自称コーチが既成事実化してしまいやすいという問題もあると思います。
しかし、線引きは難しいものの、選手を食い物にする目的で指導をしようとする行為は確実に存在するのであり、そのような行為が許されないのだということは、いくら強調してもしすぎることはないでしょう。冒頭のツイートも、特に誰かを名指しで批判したわけではなく(正確には、伝え聞いたところで余計なことをしている特定人を念頭におきつつ一般的な発言をしたのですが、その本人はあまり自覚がないようで、事実誤認でないとすれば遺憾です。)、コーチを「名乗りたがる」ようなことのないように、地に足の着いた取り組みをしてほしい、というメッセージです。それが誤解を招くものであったとすればその点は謝罪いたしますが、結果的に、問題意識を広く伝えることには成功したのではないかと思っております。

この先、新しい演劇主義を防ぎ、選手の成長の機会を守るためにはどうすべきかということが課題となります。一つの方法は、怪しい大学生に頼らなくてもよい指導体制を作るということですが、そのようなリソースが社会人の側にないという現実的問題のほか、自称コーチの側では個人的なつながりでチームに入り込もうとしているようで、それを完全に見張るということは難しいということもあろうかと思います。
そのような事情を考えると、指導体制を作るというところは、むしろ、心ある大学生がもっと早く、実力のある指導者として指導ができるようにするカリキュラム、裏返せば、そのような経験を経ずに指導をすることがおかしいのだという認識を選手や大学生に強く意識させることで、変な大学生が入っていけないようにする、ということが理想なのでしょう。私自身のイメージとしては、現在NADE関東支部が行っている新規校向けの講座は、少しトレーニングを積めば、アシスタントからであれば大学生でもそれほど苦労なくやれるのではないかと思います。それはそれで進めつつ、骨のある中高生への指導は、コーチ側もある程度の見識を持っていないと対応が難しいところですので、大学後半でジャッジの経験も積んできたあたりから、練習会などで少しずつ指導の機会を持っていくということがあってもよいのかなと思っています。他方、各学校の正式な「コーチ」というのは、その学校の先生なりから正式な依頼があって行われるべきもので、そこで連盟が推薦するコーチは、当然しっかりした人をつける、ということになるでしょう。

個人的な経験からすると、昔に比べて、今はディベートを学ぶ機会が多く、特に関東であれば、怪しい大学生などに頼ることなくディベートをしていくことは十分できると思います。その意味で、新たな演劇主義の発生は、インフラの貧弱さではなく、自称コーチ側の悪意に由来するところが大きいのではないかと感じています。SNSやツイッターなどで選手との交流が容易になったということも関係しているところでしょう。
選手との距離が近くなったからこそ、指導者としての立場からは、選手との接し方には気を付けるべきであり、ディベーターである選手を議論に携わる対等の人間として扱うことがこれまで以上に強く求められているということを、自らへの戒めも兼ねて確認することで、本論考の区切りとさせていただきます。

5.ツイートへの反応に対するコメント

以上を踏まえつつ、ここからは、私の冒頭のツイートに関してコメントされたと思しきツイートのうち、言及を要すると思われたものについて、適宜言及しておくことにします。鍵アカで言及したい方もいらっしゃいましたがここでは省略しております。

(1)甘藷(馬鈴薯)氏のツイート
なぜか冒頭のツイートに過剰に反応されていた方。コーチを名乗りたがる大学生だということなのでしょうか。



営業というのは、コーチをさせてほしいとお願いに行くのでしょうか。そうすると対価がもらえるのでしょうか?率直に言って「営業」を行うという意味が分かりません(私の中で「営業」というのがかなりのパワーワードです。)。
コーチをお願いされるならまだしも、わざわざ自分を売り込みに行ってまでコーチをしようとする動機がどこにあるのか、私には理解できません。そこまでしてコーチとしての地位を(無償で?)獲得しようというのは、自己顕示欲によるものか、はたまたコーチをしている中で何か素敵な出会いがあるのか、よくわかりませんが、自分が指導すれば必ず選手を成長させられるという自信がおありということなのでしょうか。そうだとしたら大変な自信家だなぁと思います。
なお、「営業」なのだとおっしゃるくらいですので、NADEか、指導を希望する各学校の顧問や教務にしかるべき形で連絡を取っているのだと理解しておりますが、そうではなく選手に絡んでいるだけだとすれば、それは「営業」と呼べるようなものではないのではないかと思います。



競技に秀でているから指導力があるわけでないというのはそのとおりで、いくらうまい選手でも、人に押し付けるだけでは、指導としては全く不適切です。
逆に、競技に秀でていない、十分経験がない場合でも指導ができるかという点については、指導をどのように行っているかによるでしょう。ディベートを自身でされない学校の先生でも、ジャッジに引き合わせたり練習試合を企画したり、ディベート経験の浅い目線からコメントするといった形で貢献される例はあるし、それで選手が伸びていくということもあります。しかし、議論の内容にコメントしていくのであれば、選手よりも十分に高い能力ないし経験が必須です。どのような議論が評価されるのか(強い議論なのか)ということを前提として理解していないと、議論の中身にコメントすることはできません。
コーチを名乗りたがるような輩は、議論の中身に口を出そうとしているわけで、そういった方法で指導をしたいのであれば、指導者としての心構えはもちろんのこと、ディベートそのものを相当分かっている必要があります。この方は、自分にどういうところで指導者としての適格があると思っている(どういう営業をしている)のでしょうか?



別にコーチが手続きする必要はなくて、選手か顧問がやればいいと思うのですが(職業ディベーター安藤氏は女子聖の指導をされていた際に手続きまではしていなかったでしょう)、それはともかくとして、私が問題にしているのは、指導の動機がどういうところにあるのか、ということです。別に、「あいつは名乗りたがっている」という認定をしたいのではなくて、選手のことはともかくコーチになりたい(自己顕示欲を満たしたい)という動機で指導をするなという話ですので、各コーチが自問自答すればよろしいのではないでしょうか。外部から見て、質の低い議論が回っていて、それが誰かに仕込まれた結果であるといったことが露見すれば、その際には、裏にいる自称コーチが問題になることもあるでしょう。
なお、選手からお願いされたのであればよいという話でもなくて、能力や時間の関係で自分で責任をもって指導することができないのであれば、人に頼んだり、断るのが筋です。



自分がゴミと名指しされたわけでもないのになぜこんなに毒づいているのか分かりません。「名乗りたがる」の意味が不明確だったかもしれないことはありますが、ツイートでも補足し、上記で詳述した前提からすれば、殊更にコーチという立場にこだわるような大学生(社会人も該当し得る)をゴミと評することは何らおかしくないでしょう。それが大人として品位ある発言かどうかは今回の私の発言においては興味の外であり、問題意識を受け止めて皆様がどうお考えになるかがすべてです。



名乗るだけで何もしないコーチならむしろ害がないのですが、わざわざコーチを名乗りたがる(あるいは営業までしてコーチをしたがる。生活のためとかでもないのに)人間は、有害な指導を行うので問題です。上記をお読みいただければお分かりになると思いますのでここでは繰り返しません。











別に私はコーチの人格を問題にしているわけではありません(ただ、コーチを名乗る以上、その発言が当該チームの評判にも影響することは当然考えるべきです。ですので、この方がどこかの学校のコーチをされているというのであれば、それは学校や顧問の先生の許諾を得ている必要があります。)。
すでに述べたとおり、自己顕示欲に基づいて選手を指導すること自体が、選手に害をなすということを言っているのです。特に、ディベートの場合、指導が選手の議論の内容に直結しやすいので、特に気を付けるべきということも含めて、上記論考をお読みいただければ分かる話なので、再論はしませんが、見苦しさではなく、現に議論の質を下げ、選手の成長機会を奪っていることが問題なのです。したがって、そのようなコーチは、いないほうがましだと考えます。
後でも指摘しますが、自身が批判されていると感じられているのであれば、具体的に自分がどういう指導をして、選手になにをもたらしたのかということを説明されたらよろしいのではないでしょうか。



そういう考え方もあるかもしれませんが、選手に支持される目的だけであれば質に関係なく対応できてしまうので、前提が違うのではないかなと思います。また、一般的には、他者評価を過度に気にする人は、ミスを隠したり、評価を偽装したりするものです。最近だと東芝がそうですね。





火の粉って、誰と戦おうとしているのかよく分かりませんが、私のツイートを読んで信者が逃げていくのではないかということを懸念されたのでしょうか。選手をきちんと指導されているのであれば心配無用でしょう。また、きちんとしたコーチであれば、学校にも当然理解を得ているはずですし、NADEかどこかからクレームが来たとしても、指導内容を含めて申し開きはいくらでもできるはずで、何を恐れる必要があるのでしょうか。それとも、何か隠さないといけないことがあるのでしょうか。

とまぁ、上記のように、非常に過剰な反応があったので、当該ディベーターが過去にどういう指導を行っていたのか気になり、大会前後の時期のツイートを軽く見てみたところ、指導内容とは関係ないですが、下記のようなツイートが見つかりました。





要するに、全国大会の高校決勝の裏で、勝手にエキシビジョンマッチを行っていたというものです。かかる行為が、NADEや大学の許可なく行われていたのだとすれば、それ自体施設の無断利用として問題とされるべき事案ですが、そのことに目をつぶるとしても、その年の議論の集大成となるべき決勝戦を無視して、自分たちで好き勝手に試合を行って遊びに興じるような行為が、指導者の在り方として適切とは到底思われません。このようなイベントに参加するよう選手を教唆した?ことも含めて、指導者の適格性を欠くものと断ぜざるを得ず、少なくとも、かかる行為に出たことに対する真摯な反省がないにもかかわらず、コーチその他の指導者として名乗らせることについては、「営業活動」も含めて、NADEにおいても問題視しなければならないはずです(既にしているのではないかと思いますが、彼のツイートにはそのような経緯の説明や反省は全く見られません。なお、上記ツイートはいずれも保全済みです。)。
別に彼を非難する趣旨でツイートしたものではないので、上記に対する回答を求めるつもりは特にありませんが、火の粉云々ということで自身のコーチとしての適格性を擁護したいのであれば、まず上記の件に対する回答からはじめるべきでしょう。

繰り返しになりますが、私は、特定の人物を念頭に置いて、冒頭の発言を行ったものではありませんし、彼がどういう指導を行っているのか、ということも知りません。ただ、私のツイートを読んで、強く反応されたことからすると、彼は、「コーチ」に対するこだわりについて何かしらの自覚を有していたのだと思います。
私が残念に思うのは、彼が、自分がどのような指導を行っているのかという内容面の話ではなく、(別に彼に対して向けられたわけでもない)私のツイートの語句にのみ拘泥し、自己正当化を図っていたということです。彼において、コーチ(指導者)としての矜持を傷つけられたとして異議申立てを行う必要があったのだとすれば、自分がどのような信念をもってコーチとしての職責を果たそうとしているのか、それによって選手に何を与えようとし、また、何を与えられたのか、ということを説明するのが本筋ではないでしょうか。

(2)Nakanishi, Y.氏のツイート
明示でリツイートされたりしておりませんが、タイミング等に鑑み、下記のツイートも私の主張に対する反応と思われますので(私のツイートを意識された発言との前提でコメントしているため、そうでないとすれば謝罪いたします)、一応コメントしておきましょう。





[2017/5/10追記:コメント欄で上記ツイートの趣旨を訂正したいとの希望がありましたので、コメント欄から以下のとおり転載します。]
まず私のツイート中の「団体の上の方(ほう)」という表現について、少し補足させてください。
ここでの意味は「立場や経験年数から発言に強い影響力のある人」という意味で書きました。もちろん、いちご姫様が既にNADEの委員職を退かれていることは私も存じ上げておりますし、私が行いたかった議論の本筋とは全然関係ないのですが、単語の意味からいちご姫様に誤解されて議論のポイントが逸れてしまうのは本意ではないので、はじめに訂正しておきます。



私が「団体の上のほうとか」いうのは事実誤認も甚だしく(NADEの委員職はずいぶん前に退いており、現状何の役職も有していません)、謎のアウトロー意識の発露と思しき発言には正直困惑させられますが、それは措くとして、私の問題意識からすると、専ら自己顕示欲を満たすために選手を指導しようとするような人間は、「手伝っている」のではなく、選手を食い物にしているのですから、上記指摘は完全に前提を誤っています。そういう動機はむしろ積極的に削いでいかないといけないのであって、そのような安易なかかわり方を「てへぺろ」で許すことはできないということは理解してほしいところです。
「関わり方を間違えていると思しき方に対しては、ご退場頂くのではなくて軌道修正させるという風にしないと」いけないことについては、かかる可塑性が合理的なレベルで存在するという前提の下で同意します。その方法として私の問題提起が不適切であったという批判は大いにあり得るでしょう。しかしながら、かかる問題提起が、お高くとまっていると評されている点については、なぜそのような評価になるのか、まったく理解できません。私は、指導の在り方を問題としているのであり、大学生はディベートを指導すべきではない、といった短絡的な主張をしているものではありません。
事実として、ジャッジとしての技量や経験、年齢などを踏まえた業界的評価(特に意味のある地位とは思いませんが)については、主観的にも客観的にも、大学生や、ここで取り上げている方々より私のほうが上だと思いますし、そういう立場から厳しいことを述べることが萎縮的効果を持ち得ることは自覚しておりますが、そうであるとしても、問題と思われることについてはきちんと指摘する必要があると考えています。きちんと支えてくれる人を正当に評価し、選手がディベートを楽しめる環境を作るためであれば、むしろ高いところから正すということが、相応の経験に基づき負うべき責任ではないでしょうか。自分たちだけのイベントであれば何でもウェルカムで済むかもしれませんが、生徒が関わるイベントですからね。
上記ツイートは、私が本ブログで詳述した問題意識を踏まえずにされたものだと思いますので(当初のツイートではそこまで読み込めないでしょうから、この点は私の責任です)、機会があれば、私の問題意識を踏まえたうえで、それに賛同されるか否かも含めて、ディベートへの関わり方について意見交換できればと思っております。

(3)覆面氏のツイート





タイミングからして上記のツイートを受けたものだと思うのですが、せっかく実のあるディベート指導をされているのに、こんな風に取り上げられてしまうと、事の重大性がぼやけてしまうので、正直残念なところです。「業界そのものがゴミと化してきた」というのが何を指しているのかは気になりますが、まぁこれはこれで。ただ、九州はこの方が頑張っているので、変な自称コーチが湧いてくるということはないのかもしれません。
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