愚留米の入院日記
日当たり良好の某法科大学院既習病棟を退院した法務博士の日記。しかし内容はほとんど趣味のディベートの話
第22回ディベート甲子園高校論題の分析等
気が付いたら春季大会も終わり、シーズンが始まっております。いろいろと取り上げたいテーマはあるのですが、今日はディベート甲子園高校論題について気になるところを簡単に検討していこうと思います。

今年の高校論題は下記のとおりです。

「日本は企業に対する正社員の解雇規制を緩和すべきである。是か非か」
ここでいう緩和とは「人員整理の必要性」および「解雇回避努力義務の履行」を整理解雇の要件から除外することとする。



ここで問題となるのは、付帯文を踏まえたときに、解雇規制がどう緩和されるのか、ということです。例によって論題解説を見ると、今年の論題解説は、議論の見通しについて参考になる内容となっており、選手の皆様におかれてもしっかり読み込むべき内容とはなっているのですが、論題の意味についての解説は、よくわからないところがあります。以下では、そのあたりの疑問について、解雇規制の意味を解説しながら説明していくことにします。

「解雇規制を緩和すべき」とある以上、現在の日本には解雇について規制があるわけですが、具体的には、労働契約法16条が「解雇は、客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合は、その権利を濫用したものとして、無効とする。 」と定めているところに現れています。この規定は、解雇を制限する裁判例が積み重なってきた結果を明文化したものであり、会社にとっては解雇を困難にする内容となっています。
客観的に合理的な理由というのは、解雇すべき理由があるということを指します。解雇は労働者にとって大きな不利益となりますので、それを基礎づけるだけの強固な理由が必要と解されており、例えば、会社として、労働者が能力不足であるというだけで解雇することはできず、能力不足の程度が著しく、改善しようとしてもなかなか改善しないといった相当ひどい場合であることを要し、相対的に成績が悪いというだけでは合理的な理由は認められません。
社会通念上の相当性は、解雇にあたっての手続きが尽くされているかどうかや、解雇とすることが過酷にすぎない事情がないか、といったことが問題とされます。有名な裁判例としては、高知放送のアナウンサーが、2週間の間に2回、宿直勤務で寝過ごしたため、ラジオニュースを放送できず、放送が5~10分間中断されることとなってしまい、おまけに2度目の放送事故を直ちに上司に報告せず、後で事実と異なる報告をしたという、なかなかひどそうな事案について、最高裁は、ミスは故意によるものではないこと、先に起こすべき担当者も寝過ごしており、この担当者はけん責処分にとどまっていたことからアナウンサーだけを責めるのは酷であること、これまでのアナウンサーの成績が悪くなかったことなどを踏まえて、社会的相当性を否定しています(高知放送事件:最判昭和52年1月31日集民120号32頁)。

さて、今回の論題で問題となる「整理解雇」とは、上記要件の中の、解雇の「客観的に合理的な理由」として、使用者の業績悪化等の会社都合の理由を挙げたものを指します。このような整理解雇については、労働者側に解雇されるべき理由がないため、解雇の可否がより厳格に判断されてきました。その際に要件として挙げられてきたのが、論題解説で説明される4要件によって説明される、整理解雇法理というものです。具体的には、①人員削減の必要性、②解雇回避の努力、③被解雇者選定の合理性、④解雇手続の適正性、といった要件があげられます。これら4要件をそれぞれ満たす必要があるのか、4要件を総合して判断するのか(例えば①が非常に強ければほかの要素が少し弱くてもよいと考える余地があるか)といったところは議論があり、最近は総合判断説が有力ですが、いずれにせよ解雇のハードルが高くなっています。
注意すべきは、この4要件も、解雇の一類型であり、解雇の客観的合理的理由と、社会的相当性の2つの要件が必要であるという前提で、それをより具体化したものであるということです。①人員削減の必要性が、解雇の客観的合理的理由に対応し、残り②~④が、解雇の相当性に対応するということになります。

ここで、今回の論題の付帯文は、「人員整理の必要性」および「解雇回避努力義務の履行」を整理解雇の要件から除外する、ということを言っており、会社都合の解雇についてのみ条件を緩和する、ということを述べています。しかし、この説明には、以下のような疑問点ないし検討課題があります。
まず浮かぶのは、「整理解雇」というためには、解雇理由が会社都合である必要があるところ、そこで「人員整理の必要性」という解雇理由に関する要件を取り除くとすると、それは整理解雇の定義と整合しないのではないか、という疑問です。ただ、これは、会社が「会社都合で解雇したい」ということであれば、対象選択と手続だけ尽くせば自由に解雇させてあげるという趣旨である、というように理解せよということなのでしょう。そうであれば、付帯文を法律上使われている用語でもない「整理解雇」という言葉で定義するのではなく、「ここでいう緩和とは、会社都合での解雇につき、被解雇者選定の合理性と解雇手続の適正性を満たすだけで解雇できるようにすることとする」と定義したほうが明確かつ適切だったように思います。
ここで、1点目の疑問を上記のように解すると、より大きなもう一つの疑問が生まれます。それは、今回の論題は、労働者に問題がある場合の解雇について、どのように取り扱おうとしているのか、ということです。(論題解説に論題解釈の拘束力はないですが)論題解説では、労働者に問題がある場合の解雇と区別する形で、整理解雇を取り上げており、労働者に問題がある場合の解雇は論題の範囲外と考えていることが示唆されます。また、付帯文でわざわざ「整理解雇の要件から除外する」と書いていることから、論題の文理上も、会社都合の解雇以外については解雇規制を維持すべきという趣旨が読み取れます。しかし、会社都合にしてしまえば「人員整理の必要性」を問題とせず解雇できるのですから、使えない労働者を切りたいと思った場合、「整理解雇します」とさえ言えば、自由に解雇できることになります。そうすると、結果的には、全部の場合について解雇規制が緩和されてしまう、ということになります。

論題としては、労働者に問題がある場合も含めて解雇規制を緩和することでもよく、むしろそちらのほうが論題の趣旨は分かりやすくなるように思われます。すなわち、この春大会でもよく出ていたのが「雇用の流動化」ですが、経営者にとっては、雇ってみたら使えなかったという場合に容易に解雇できないということも、大きな制約になります。私も実際に会社側で解雇事件をやっていますが、整理解雇でなくても、労働者を解雇するというのは難しく、訴訟になった場合の負担もあるので、経営者側として正社員雇用を控える理由になるというのはよくわかるところです(外資系企業のマネジメントに日本の解雇法制を説明するとキレられたりします…。)。現在日本で議論されている金銭解決制度(裁判で不当とされた解雇を職場復帰でなくお金で救済する)も、会社都合か否かを問わず自由に解雇できる制度を志向しています。
しかし、今回の論題は、少なくとも文言上は、会社都合の解雇である「整理解雇」に絞って議論してほしそうに読めます。そのような前提に立つ場合、雇用の流動化に関する解決性の「解雇しやすくなるので雇いやすくなる」という解決性はかなり削られてしまいます。能力不足でも経営上の必要性がないとクビにできないとすると、新規採用にリスクがある状況は変わりがないからです。論題解説は、そのようなややこしい状況は想定しておらず、論題の文言から解雇が自由になると読めるという理解をとっているのかもしれませんが、そのような理解は、「整理解雇」という言葉をわざわざ使っていることとは必ずしも整合しません。

ではどうすればいいのかということですが、一番簡明な処理としては、会社都合での解雇が緩和されるので、結局は自由に解雇できる(「整理解雇だ」と唱えさえすればいい)、という説明にしてしまうことが考えられます。そう考えたとしても、対象選択の合理性ということで、能力などの指標で解雇され合理性が担保されますし、手続きも尽くされるので、解雇のあり方自体がまずくなるということにはならないでしょう。論題との関係では気持ち悪いのですが…。

今日はこんなところでおしまいです。中学論題も気が向いたら何か書くかもしれませんが、特に論題の解釈に疑義があるでもなく、議論の中身も複雑ということまでは言えないので、今後面白い議論を見れば言及するということで。
第23回JDA春季大会の感想
どうもご無沙汰しています。
気が付いたら今期論題が発表されておりますが、今回はJDA春季大会に出た感想をお送りします。

今回は、ディベート実験室のオリジナルメンバーで出場するという趣旨で、レジェンドの安藤さん・CoDAの重鎮久保さんと組んで出場させていただきました。論題は代理出産実施の法的枠組み整備というもので、過去に2回も出ている論題なのですが、プレパの時間がなかなか取れずメンバーにはご迷惑をおかけしました。
結果はというと、予選1位で決勝に進み、近時著しく実力を伸ばしている後輩たちのチームと対戦することになりました。結果優勝することができましたが、思わず質疑中に座り込んでしまうほどの激戦で(タイマーの音がしたので完全に終わったと思ってしまいました…。)、苦しくも楽しい試合でした。

決勝のトランスクリプトが公開されるのかわかりませんが、今期はNegでいろいろと思うところがあったので、主に決勝を見た人向けになってしまい恐縮ですが、簡単な自戦解説をしておきます。

決勝は相手方がAffで、我々はNegを引きました。Affのケースは、非常にオーソドックスで、代理出産でないと子を儲けられない人がいるので、その人たちのために選択肢を確保しようというものです。代理出産論題は、既に他の生殖医療その他の医療行為で第三者にリスクのある行為(臓器移植とか)も認められていたりすることもあり、規制の理由がなかなか見当たらないところで、Negが苦慮する論題でした。ただ、個人的には、Affも盤石ではないし、Negのほうがストーリー性のある複雑な議論(強いとは限りません)ができるのではないか、ということを考えてきました。
今回のチームは、チームで戦略をすり合わせるというより、寄せ集めで議論を作り、各自やりたいことをやるという感じでプレパをしていきました。決勝では、安藤さんが2NC/2NRだったということもあって、Counterplanを伸ばして勝ったのですが、個人的には、1NCで出したケースアタックのラインで、治療が本当に患者を幸せにするのかという観点で攻めたかったところです。以下、具体的なNegの議論に即してみていきましょう。

Negの出した議論は、DA2つとCounterplan、それからいくつかのケースアタックです。

DAの1つ目は、代理出産をしないといけないというプレッシャーを受けるという話です。すなわち、現在はプラン対象の子宮がなかったりする人は、どうしようもないので生殖医療を使っていないところ、プランで代理出産ができるようになると、これをやってみないといけないというプレッシャーに襲われ、排卵誘発剤や卵子採取という苦しい治療を受けることになる、という話です。インパクトについては、排卵誘発剤より卵子採取の苦しさがより重要だと思っていたのですが、排卵誘発剤の話は反論しやすいので反論を誘える(予選3試合目は相手がこれにはまり1分ほど時間を無駄遣いしてくれました)というディベート便宜的なところはあります。本当は心理的なプレッシャーのインパクトも言いたかったのですがよい資料が見つからず断念しています。
このDAは、後であげる、子を産んでも幸せにならないというケースアタックの話や、代理母がなかなか見つからないという話、養子Counterplanの競合性で出す、代理出産の存在が養子を選択しづらくさせるという話と絡めて伸ばしていくことを想定しているものです。つまり、代理出産は不妊女性が真に待ち望んでいるものではなく、しなければならない強制的な選択肢になると論じていきつつ、しかし代理母はなかなかおらず、他方で養子に行く道も否定されてしまうので、辛くかつ現実的に依頼が困難な代理出産という選択肢に縛り付けられていく、というストーリーを考えていました。ただ、こういう伸ばしになっていないのはご案内の通りです。

DAの2つ目は、自分で産まない代理出産では、障害児が生まれてしまうと引き取らないなどして大事にされない、という話です。この話は、障害などで不幸せになるから産むべきでないというのは、一定のカテゴリーの人間の出生を否定することになるのでよくない、という反論が来て、これで切られてしまっていたのですが、個人的にはそういう話ではないだろうと思っています。つまり、DAで言っているのは、自分で産んでいないということで無責任になってしまうということであって、そういう無責任な出産形態は認めるべきでないという話であり、生まれてこないほうがよいとかそういうことを言っているわけではありません。
この話は「出産を他人にさせる」という代理出産固有の問題であり、子の福祉のために自己決定が制約されるべきというケースの重要性への攻撃の根拠に位置づけられる予定でした。また、これは時間の問題であまり見込みがなかったのですが、本来はケースアタックの「産んでも幸せにならない」という話と関係する話で、心理的ケアでフォローされていない過大な子供願望による場合は完全な子供を求めるので障害に耐えられないという話もできるかなぁと思っていたところです。この話は、同じく自分で産んでいない養子の取り扱いと区別するために必要となってくる議論なのですが(こういう話がないと「じゃあ養子をとった人もその養子が障害児と分かったら虐待するのでは」と反論されてしまう)、そこまで議論するには現行フォーマットは時間が短すぎます。

Counterplanは、第三者配偶子を使った生殖医療の禁止(結果的に代理出産が禁止される。もっとも、代理出産だけ禁止でもよかったのではないかとは思います)と養子の促進というもの。最終的に、分厚い2conによって、実子でも満足するとか、代理出産を認めると養子による解決が低いものとみられるとか、施設で育てるより家庭で育てたほうが良いといった話が追加されていきます。
ただ、実際のところ、養子が幸せになるという話は、そこまで重要ではなく、おまけ的な位置づけではないかと思っています。少なくとも、養子に生じる利益は、生殖医療で考慮されるべき「子の福祉」ではありません(それこそ、アフリカに寄付するのも子の福祉なのか、という話です。)。この論題に即して純化するとすれば、代理出産という選択肢(生殖医療の拡大)を認めることで遺伝的つながりへのこだわりを強化させてしまい、子供がほしいという目的を解決するより簡便な選択である養子が見えにくくなるのと、さらに「実子へのこだわり」から苦しみを増す、という話にするのがよいのではないかと思っていました。

ケースアタックは、1NCの段階では、上記の狙いから、代理母があまり集まらないという話、子供ができても産めない自分は変わらず傷ついたままで救われないという話、かえって精神医学的フォローができなくなりよくないという話を出しています。
2NCでは、インパクトへの攻撃のほか、代理母が苦しむという話が追加されていますが、これは蛇足かなと思っています。ただまぁ、2NRでまとめやすいという判断なのでしょうから任せていたところではあります(結局機能していなかったとは思います)。

上記議論に対して、Affもいろいろと反論を尽くしてきたのですが、詳細は割愛します。もう少しCounterplanへの反論を2ACでしっかりやるべきだったのではないかとは思いますが、なかなかプレッシャーのある議論でした。

苦しいといわれていたNegですが、実際の政策判断としてどこまで説得的かどうかはともかく、上記のような感じで、それなりに整合性のあるストーリーと、それに基づく議論はできたのではないかな、とは思っています。とはいえそうではない筋で勝ってしまうというのがまたディベートの面白いところなわけですが、せっかくのアイディアなので、一応記しておく次第です。
前にどこかで(同じ論題の2010JDAの感想だったかな?)書いたと思いますが、個人的には、いろんな議論を関連付けて、ストーリー性のある議論を展開していくのが、格好いいディベートだと思っており、その方向に沿った議論は若干なりともできたかな、というところではあります。私はあまり貢献できませんでしたが…。

と、ほぼ自分の議論構想語りになってしまいましたが、JDA参戦記でした。
しかし、この大会でも思いましたが、近年は本当に大会のレベルが高く、苦しいシーズンでした。有力なチームがたくさん出てきているのと、それぞれが質の高い議論を作るための取り組み方を確立している感があります。ここでいう「質の高さ」は、エビデンスの質だったり、ストーリーの部分だったり、いろいろありますが、その根底には、ディベート経験はいうに及ばず、どういう議論が良い議論なのか、という物の見方についてのレベルが向上している感があります。逆に、そういうところでレベルが上がっていないと、せっかく準備してきているのに的外れな議論をやってしまったり、狙いのよくわからない議論を回していたりと、結果につながらないところが出てしまうように思います。

ではどうすれば物の見方がよくなるのか、また、そもそも何をもって物の見方がよいということになるのか、というのはなかなか言語化が難しいところなのですが、今後も考えていきたいところです。もちろん、自分のレベルアップも必要なわけですが。
C91寄稿のお知らせ
どうもご無沙汰しております。
近時のディベート関連の報告としては、九州JDAでジャッジをしてきたところ、決勝戦が大変秀逸だったということがあります。こちらはいずれトランスクリプトがあがるとか聞いていますが(動画は諸事情で難しいかもしれないようです)、非常に水準の高い、国民投票論題の集大成と言うべき試合でした。JDAの試合については、視野が狭いとか、高速化かつ低質化しているのではないかという問題提起がなされたこともあった気がしますが、少なくとも九州JDAで見られた議論は、コミュニケーションの点でも(高速スピーチであったことを差し引いても)一般的な試合と比べればずっと分かりやすかったと思いますし、議論の水準についても、両チームの海外研究も渉猟した悪魔的なリサーチにより、学術的にも評価し得る高度なものになっていました。

そして話は変わりますが、今秋JDAに出たのに引き続き、来春のJDAも出場の方向で調整中です。出てる場合なのかという問題は常にあるのですが、断るわけにはいかない企画でしたので。論題はもうすぐ決まるところですが、面白い議論ができればと思っています。

さて、ここからが本題の告知です。
今年の12月31日、コミックマーケット91に出店するサークル「竹藪会」(3日目東U-47b)の冊子に寄稿させていただくことになりました。竹藪会というのは、私の旧職場にあった竹藪にディベーターが集合して旨いものを食べに行くイベントが発祥ということになっております。また、「タケノコ」というのは、一部のITBディベーターにとって象徴的な食べ物であり、これに敬意を表する意味もあります。

私が寄稿しているのは、某ラッパーをリスペクトした自伝的な文章「アーギュメント・ドリーム」です。普通にディベーターとしての経験を淡々と書いております。その過程で必然的に過激な内容を孕んでいく予定なのですが、残念ながら、今回の寄稿範囲である第一章は、愚留米の高校時代ということで、ほとんど刺激的な内容になっていません。時系列的には、後輩が部室で××していた話とか、関東に出てジャッジをしたときの衝撃的体験とかは言及できていないというわけです。ということで、期待していただいた方がいらしたとしたら申し訳ないのですが、第二章以降にご期待ください。

他方、その他に載る予定の記事はなかなか読み応えがありそうですので、むしろそちらをご期待ください。「一立ディベートにおけるターンとニューの処理について」というのは、まだ読んでいませんが、内容によってはここでレビューしようと思っています。
本当はそういうディベート実践/理論的も書かないといけないのだとは思いますが、今回は上の記事がそこそこ長いので時間がありませんでした。いずれ、CoDAの合宿で展開した体系的な理論講座の内容や、NADE東海支部でやった寝落ち者続出のディベート理論実践演習などを文書化する形で記事にしようかなといったことは考えています。

ということで皆様、よいお年を。
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