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アカデミックディベーター

Author:アカデミックディベーター
日当たりの良い某法科大学院を2009年3月に卒業。
ライフワークである競技ディベートについてぼちぼち書いています

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ジャッジ入門講座(8.協議と講評)
どうも皆様ご無沙汰しております。
春のJDAも終わってしまい、ディベート甲子園の論題発表からも期間が立っており、書くことは色々とあるのですが、まずは負債を終えよう(終わるとは言っていない)、ということでジャッジ入門講座の続きです。講義のPPTの10~11枚目(/12)で、いよいよ大詰めのパートです。

講評は入門講座では不要であるように思いますが、ジャッジを語る上で触れないのもどうかと思うので解説を行っています。昨年のディベート甲子園で全くパッとしない講評を動画に残してしまったので、そんな人が書いてもどうかというブルーな気持ちではあるのですが、そこは反面教師ということでスルーしてください。以下ではその辺の反省も反映しています。

ジャッジ入門講座 第8回

スピーチを踏まえた判定の出し方
ここから、試合後の協議について説明していきます。協議の前提として、各ジャッジは独立して判定を出す必要があります。どちらが勝ったのか、それは何故か、ということです。一般的な判定の出し方は第3回第4回で取り上げたので繰り返しませんが、ここでは、実際にスピーチを聞いて判定を出すうえで考えるべきことを若干お話しします。

ジャッジの中でたまに問題になるのが、第二反駁で触れられなかったけど残っている議論をどう評価するかということです。第二反駁で触れなかったとしてもジャッジの心証通り取る立場から、第二反駁で触れなかった場合には判定の材料にしないという立場まで、色々な考え方があります。このあたりはジャッジによって異なるところですが、第二反駁で触れないと取らないという立場は、それまでの議論で十分主張立証されているのに第二反駁で落としただけで無視することに合理性があるのかという疑問があります。第二反駁者には議論を放棄する意図はないでしょう。それでもなお形式的に触れる必要があるのだとすれば、第二反駁で「これまでの議論を全部伸ばしてください」とでも言えばそれで足りるのでしょうか。それでよいのだとすればそのような儀式に時間を割かせる意味はないし、それでは足りないのだという場合、全論点を説明し直す必要が生じ、真に重要な争点のスピーチが手薄になってしまいます。
私自身は、第二反駁で触れなかった議論も自由に判定で考慮するが、第二反駁で説明した内容を最終の主張とするので、それと矛盾する議論は低く評価したり無視することにするし、第二反駁の内容からしてチームとしてはあまり重視していないと感じられた場合には判定上の重みづけ上を低くする、といった処理をしています。第二反駁で触れることを要件とすることは行き過ぎではあるものの、総括のスピーチではそのチームの最終的な立場が示されることになるので、その内容を踏まえてこれまでの議論を見た結果、軽視ないし矛盾する議論は必然的に低く評価される、という考えによります。ただ、選手にとっては、第二反駁で言っていようがいまいが出した議論として認識されているので、理由を説明する際にはそれを取り上げなかったり軽視した理由を説明できるようにしておく必要はあります。

どっちの判定もあり得そうだというときにどうするか、というのも実践的な悩みです。レベルの高い拮抗した試合ではよくある悩みですし、レベルが高くない試合でも、どっちもどっちという形で悩ましいことは多々あります。推定で否定側に入れる、というのはなるべく避けたいということは以前お話ししましたが、そもそも「こう取ればメリットが大きく、こう取ればデメリットが大きい」という、推定ではないところで悩むパターンの場合、何となく否定側、という逃げ方もできません。しかし、悩んでいるということは、どちらもあり得るということであり、どちらの結果でも間違いではありません。ということで、両方あり得るという前提で、清水の舞台から飛び降りましょう。
大事なことは、どこで何故悩んでいたのか、ということを明らかにすることです。その上で、「私はこちらを選びました」と説明すれば、それで判定として成り立っています。もちろん、選んだ理由が具体化できれば一番よいですし、それを目指したいのですが、突き詰めると好みの問題でしかない、ということもあるわけで、詰め切ったところで「どっちもどっち」というのは仕方のないことです。ただ、どこで悩んだのか、なぜ悩んだのか、ということはギリギリまでは詰め切ってください。それができていれば、判定理由として「ここはジャッジ任せになった」と説明できるし、選手の側も、そうならないようほかの部分で改善する必要があったことが分かります。理由がつけられないことの理由を明らかにできれば、理由がつけられないということも判断の理由として成り立ち得るということです。このように考えると、悩みが少し楽になる場面もあると思います。

協議の方法
一人でジャッジをする場合にはそのまま判定講評を述べることになりますが、複数人でジャッジする場合、それに先立ち協議をする必要があります。もっとも、ここでいう協議は、判定理由をみんなで考えるとか、判断を合わせるということではなく、各ジャッジの判定理由を確認するという作業を指します。副審の立場として参加する際には、主審に自分の判定を分かってもらうことが協議の一番の目的であり、ついでに講評で伝えてほしいことを述べることができれば完璧、ということになります。
副審として判定理由を述べる際には、しゃべりすぎを避けるよう気を付けましょう。協議時間は限られているので、投票理由の要点を簡潔に伝える必要があります。メリット・デメリットの3要件をざっと説明するイメージですが、実際の話し方としては、メリット・デメリットを大きめに評価した場合にはその理由、小さく、あるいはゼロと評価した場合にはその理由を挙げて、関連する主張立証の評価を簡単に述べる、といった感じになるでしょう。例えば、「メリットをほとんどとらなかったので否定側に入れました。解決性のところで~~~という話がありましたが、そもそも立証が弱いのと、否定側から~~~という有効な反論があったので、ここで切っています。デメリットは、発生過程がやや微妙で、~~~という反論も当たってはいると思いますが、~~~という限度では残っていると思いますので、デメリットが上回っているといえます」といった話し方が考えられます。説明が足りない場合には主審が質問してくれるはずです。もっとも、実際には、話していると色々喋りたくなってしまうもので、私自身もそうなので、偉そうなことは言えませんが。
改善点についても簡単に触れられるとよいでしょう。主審から何かコメントがないかと質問されることもあります。コミュニケーション面の改善点でも、議論面での改善点でも結構です。具体的なスピーチの内容も指摘した上でコメントできると、講評で使いやすいので主審に喜ばれるでしょう。

入門講座の内容からは離れますが、主審を担当する場合の協議の進め方についても少し触れておきます。
最初に投票結果を聞くわけですが、その後で、誰から判定理由を述べてもらうかということを考える必要があります。時間に余裕がなく、判定が割れていない場合、自分の判定理由をざっと述べて、違うところを副審に指摘してもらう、というスタイルが考えられます。ただ、これは副審の意見を十分吸い出しにくいのと、副審にとっての勉強機会を奪うので、副審経験の浅いジャッジが入っている場合にはできるだけ避けたいところです。最初に話す人が一番喋りやすいので、経験の浅い人から話してもらう、というのが理想的なのですが、経験が浅いと説明に慣れていないので時間を取られがちではあるので、スケジュールが許すかどうかを考えながら進めるようにします。
他方で、判定が割れている場合には、先に少数意見を聞くか、多数意見を聞くかというところで悩みが生じます。基本的には少数意見を先に聞くのがよいかなと思いますが、自分が少数意見の場合や、少数意見のジャッジがいかつい場合、多数意見から話を聞くということもあるでしょう。逆の判定理由を聞いてから判定を話すというのは難しい面もあるので、経験の浅いジャッジが少数意見の場合、気を遣ってあげるのがよいでしょう。
説明を聞いている中で、判断が分かれておりより詳細な理由を知りたいところ、講評の中で説明した方が良いと思われるが副審が説明を割愛しているところ等があった場合、適宜質問するようにしましょう。せっかく協議しているので、副審の判定理由も積極的に吸い上げて、なるほどと思ったところは講評に取り込んでいくことで、より充実した講評をすることができるようになります。

講評と判定
これも入門講座の内容とは離れますが、講評判定スピーチについても説明しておきます。色々なやり方があるので、どれが正解ということはなく、いろんな講評を聞いて自分なりに考えていってほしいのですが、その参考になれば幸いです。

最初に、判定結果を最初に言うか、後で言うか、ということです。アカデミック(調査型)ディベートの世界だと、英語系の人は最初に言うことが比較的多く、日本語系の人は後で言うことが多い、という感じがします。英語アカデミックでは昔は口頭での講評をやらなかったようで、その関係もあるのかもしれません。パーラメンタリー(調査型)ディベート、これは英語がもとより圧倒的多数派ですが、こちらでは最初に言う人が多いというか、最初に言わないと不機嫌になる人が結構いるような印象です。4チームで試合をするBritish Parliamentary Styleだと、そもそも最初に判定を言わないと理由を説明できない、という事情もあるのではないかと思いますが、私は詳しく語る能力を持ち合わせていません。
最初に言う派の理由は、判定が気になるから、という聞き手側の立場からの意見が主であるように思います。これは好評のスタイルにも関係するところですが、判定を言ってから理由を説明するほうがやりやすいという人もいるでしょう。後に言う派の理由は、最初に判定を言うとそれに気を取られて講評を聞かなくなるということがメインです。ディベート甲子園ではこのような理由で後に言うことが推奨されているとの認識です。確かに、判定を聞いて喜びの雄たけびをあげたり、負けて泣いてしまう選手は結構いるので、個人的には、少なくともディベート甲子園では後で言うのがよいと思っています。多分選手もいきなり判定を言うとびっくりするでしょう。ただ、どちらが正解ということはなく、個人の好みや場面によって異なってよいものだとは思います。私も、練習試合では最初に判定を述べてから理由を述べることが良くあります。判定への影響度などをクリアに説明する上では、オチが分かっている方がやりやすいということはあります。最後に判定を述べる前提で、結果が見えないように話そうとすると、どうしても言葉が濁ってしまうところがあります。まぁ、途中でバレてしまう場合がほとんどなのですが。

次に、講評判定スピーチで話すべき内容です。講評判定スピーチには、大きく分けて3つの目的があります。1つ目は、当たり前のことですが、判定理由を正確に伝えること。2つ目は、より良い議論につながるよう、今後の改善点を伝えること。3つ目は、発展的なところですが、ディベートを楽しいと思ってもらうこと。これら3つの目的は、相互につながっています。判定理由をきちんと伝えること自体教育的ですし、深いところまで戦いの経過を伝えることは、ディベートの面白さにつながっていきます。
また、これらの目的は、試合をした選手にとってどうか、それ以外の観戦者にとってどうか、という2つの方向に向けられる必要があります。選手に対して納得感の高い詳細な説明と、ディベートをよく知らない保護者にとって分かりやすい説明は、重なるところも多いですが、違いのある部分もあります。ここをこう変えると良い、という対戦者向けのアドバイスだけでなく、この議論はよかったので真似してほしい、という観戦者向けのアドバイスも大切です。選手を励まし、健闘を称えることに加えて、試合の面白かったところを聞き手に伝え、負けたチームにも聴衆にもいい試合だったと思ってもらうこと。色々と考えることはありますが、全部を実現することは難しいです。私もどこまでできているか怪しいものですが、意識して取り組むことで、少しでも広がりのある講評ができるようになるといいなと思っています。

3つの目的を果たすために、講評の構成はどうしたらよいか。ひところよく言われたのが、P(Pathos/Passion)の要素とL(Logos/Logic)の要素のバランス、ということです。当初は、なんかよさげなことを言ってるだけ、すなわち、P一辺倒で中身のない講評を揶揄する方向で言われていたのですが、今はそういう講評はほとんど見られなくなりました。実際にはPとLのバランス、選手に訴求する要素と、議論の評価をきちんと伝える要素を兼ね備えた講評が理想です。特に、中高生の青春がかかった大会やトーナメントの上の方の試合、多くの観客がいる試合では、Pの要素が重要になってきます。もっとも、選手でならしてきた多くのジャッジは、どうしてもL寄りになりがちで、Pの要素を入れようとするとわざとらしくなってしまいます。私もよくそう言われます。事実わざとやっている場合も少なくないので仕方ないのですが、自分が何を言いたいかではなく選手に何を伝えたいのか、ということを考えると、自然とPとLのバランスが取れるようになると思います。
具体的な講評の構成としては、改善点を伝えるパート、判定理由を伝えるパート、試合をやや離れてディベートの意義などを語るパート、に大きく分けることができますが、これらは重なり得るものです。判定理由を述べる中で改善点に言及することもあるし、ディベートの意義を話しつつ、それに絡めて試合の良かったところ悪かったところを述べる、といったこともあります。そのような重なりや応用はあり得るものとして、この3つのパートがあるということを意識し、どこで何を話すか、今自分はどれを話しているのか、といったことを考えると、スピーチの構成を考えやすいです。
ということで、私がよくやる講評判定スピーチの構成は、以下のような流れです。これが正解ということではないですが、オーソドックスなほうだとは思います。フルで喋るとかなり時間がかかるので、時間がない場合はかなり自制して省く必要があるのですが、その方法を上手く教えることは私にはできないので、皆さん気を付けてください、とだけ申し上げておきます。

① 論題の趣旨、試合の特徴的議論を参照しつつディベートの意義などを語る(P要素。練習試合や予選など多くの場合は省く)
② 試合の良かったところ、改善すべきところを話す(L要素)
③ 判定理由を述べる(L要素)
④ 前向きなコメントを語る(P要素。これも多くの試合では省略ないし大幅に割愛する)
※判定は④の前か後に述べます



P要素の解説は私の専門ではないので省きますが、L要素とされる、改善点の指摘や判定理由の述べ方について簡単に触れておくことにします。
改善点の指摘は、できるだけ具体的にしてあげると良いです。改善後の姿をどこまで説明するかというのは賛否あるところで、議論の内容にわたるところで決めつけ的にコメントするのは介入しすぎでよくないようにも思われますが、コミュニケーションの指摘であれば、どうすればよいのかを具体的に説明しないと分からないでしょうし、議論の中身でも、こういうアイディアはあり得る、とか、こういう観点でリサーチしてみてもよいのではないか、といった程度はよいでしょう。この部分で出していた議論をここにも当てはめることができるとか、相手方のこの議論をこう逆用できる、といったテクニカルなコメントも、議論の押し付けになるわけではないので、許容されるのではないかと個人的には思っています。また、改善点の指摘はなるべく両方のチームにしてあげることや、余裕があればよかった点の指摘も両方のチームについてしてあげると、聴衆への参考にもなるし、選手の満足度も高まります。なお、褒める場合は最初に褒めてから改善点を言うほうが選手に与える印象が良くなると思います。
あと、私にはちょっとできない芸当ですが、ジャッジの中には、選手の名前を全部記録した上で、一人一人にコメントをしてあげる、という方もいます。時間の関係で、議論の中身についての説明はどうしても薄くなってしまいますが、このような講評ができると非常に教育的だろうとは思います。

判定理由の述べ方についても、色々な方法があります。私は、普通にメリット、デメリットを頭からさらっていくスタイルですが、山脈と呼ばれる某有名ディベーターが、第26回ディベート甲子園の決勝講評で取った、分かれがなく結論が見えやすい争点と判断が分かれる争点に分けた上で、前者については結論をさらりと述べ、後者は丁寧に説明していくというスタイルが大変参考になります。分かりやすい講評のスタイルには色々とあると思いますので、この動画も参考にしつつ、考えていきましょう。
複数人ジャッジで判断した試合で判定理由を述べる上では、判断が分かれたところについて、なぜ割れたのか、ということを説明することが重要です。どこを詰めれば割れないようにできたのか、ということも伝わるような説明ができるとベストです。もっとも、判断が分かれたところの説明に気を取られすぎると、争点の説明を漏らすという禁忌につながるリスクがあります。私も、副審のやや変わった判定理由を説明することに時間を割きすぎたため、判定には影響はないものの争点になっていた部分の説明を落としてしまいました。選手目線では不信につながる事態ですので、メリハリはつけるとしても、なるべく争点を漏らさないように説明していくことが大事です。

自分は何を伝えたいか、どう伝えれば選手や聴衆が満足するか、ということを考えつつ、実際にいろんな人の講評を聞いて、よいなと思った人の喋り方をパクるとかしつつ、自分なりのやり方を作っていってください。
最後に一つだけ、心構えとして述べると、ジャッジだからといって、上から目線でコメントをする、ということだけはしないように気を付けてください。ジャッジの中には、ごく少数ですが、自分が気持ちよくなりたいからジャッジをする、選手へのリスペクトを欠いたジャッジをする、という人がいることも否定できません。それはジャッジとして失格ですし、そのような気持ちで講評をすれば、選手や聴衆の心がディベートから離れてしまいます。自分の話を聞いてほしいというだけであれば、そういう店に行ってお金を払ってやってください。選手のために伝えたい、という気持ちがあってこそ、講評判定という営みに意義が生じます。判断者としての立場から人の議論を批評するという、気持ちが大きくなりがちな仕事であるからこそ、自分を律して務めるようにしてください。もっとも、このような注意は多くの心あるディベーターにとっては不要であり、他方で、聞いてほしい人のところには届かないわけですが…。

ジャッジ入門講座 | 23:46:21 | トラックバック(0) | コメント(0)
論題関連性要件の必要性に関する一考察
永らくご無沙汰しておりました。ジャッジ講座もディベート甲子園の決勝批評も滞っており、秋季JDAも終わって久しいところです。色々と書くことはあるのですが、お待ちいただいている方がいらっしゃいましたら気長にお待ちください。

さて、去る11月8日、一院制論題によるJDA秋季大会が開催されました。私も出場しましたが2勝1敗で終わりました。素晴らしいパートナーや対戦相手のおかげで充実したシーズンではありましたが、同時に己のディベーターとしての衰えも感じたシーズンでした(単にプレパできていないだけなのかもしれませんが…)。20代の頃は、相手のスピーチを聞きながら反論を考えてフローに書き殴りつつ議論を追って行けたのですが、30代後半で迎えた今シーズンは、反論に気が回りすぎて相手の議論を見失いそうになったりで、単純に回転力が落ちたことを実感しました。その分、要点を分かりやすく話すスピーチは多少上手くなったような気もしないではないですが、それに合わせたスピーチや議論構築ができていたわけではありません。職業ディベーターも微妙にスタイルを変えつつトップレベルのスキルを保っているように思いますが、私も自分の変化に合わせてスピーチスタイルを変える必要があるのかなと思いました。そもそも次いつ出る機会があるかは不明ですが…。

と、こんな反省を綴っても誰も興味がないと思いますので、今大会でも話題になったKritikの話をします。一院制論題ではKritikは出ないだろうと思っていたところ、練習試合や本番で、エビデンスの使用方法への問題提起や、ディベートの魅力を伝えたほうが勝ち、多様性に資するほうが勝ち(だいぶデフォルメしているので正確ではないかもしれませんが本題とは異なるのでご容赦ください)、といった、論題と関係しない――関連していると強弁するがこじつけに近いように思われる――議論を投票理由とするKritikが出て、本番でも一定の票を獲得しました。
今回、個々の試合について論評することはしません。その代わりに、より一般的な話として、論題にも相手方の議論にも関連しない議論が投票理由となるとは考え難く、帰結も相当でないと考える立場から、論題ないし相手方の議論と関連した議論を出すことがディベートで投票を得るための前提条件として求められることを、いくつかの観点から論じることにします。年内に上げることを優先し、やや粗い議論になっておりますことをご容赦ください(ご意見、ご批判などいただければ回答いたします。)。

なお、上記のような趣旨から、本記事は、Kritikに対する包括的な批判を論じるものではありません。特に、政策形成パラダイムによるべきか否かという論点については言及していません。個人的には、後述のとおり、論題との関連性か、相手方の議論との関連性のいずれかを満たしていれば、いかなるパラダイムで議論するかは特に問題ではないと考えています。Kritikへの理解は低めのジャッジなのだとは思いますが、別にKritikは取らないと決めているわけではなく、JDA決勝でKにagainstしたのも、Kを認めないからではなく、Kを出した側の枠組に沿っても説得されなかったからです。また、例えばクオータ論題で回っていた?ジェンダーに関するKritikは、好みかと言われるとうーん…ですが、議論の展開次第では入れることもあり得ると思います。

※練習試合で、なんとこのブログの記事が引用されているのに接しました。なぜか本名で読まれていてビビりましたが、そういう需要もあるようなので、本記事では著者の情報を記しておくことにします。肩書は使えそうなものを適当に使ってください(なお、以下の論考は著者個人の見解によるものであり、所属する団体等とは無関係です。)。もっとも、個人的には、K対策にエビデンスを読む必要はなく、納得した話があれば反論のネタに使ってもらうくらいでよいと思っています。是澤先生や矢野先生が何か言ったからといってジャッジが説得されるというものではなく、ましてや謎のスヌーピストの意見でジャッジが説得されるということはないでしょう。

論題関連性要件の必要性に関する一考察

Author:天白達也(てんぱく・たつや) 弁護士/法務博士/全日本ディベート連盟理事/スヌーピスト

はじめに
本稿では、Kritik(クリティーク)と呼ばれる、政策論題において政策の純利益(メリット・デメリット)とは異なる観点から投票を求める議論について、それが満たすべき条件として「論題との関連性」が必要とされるべきであるということを論じます。ここでの問題意識は、予測・対応すべき義務をいかなる意味でも負わない議論や、その試合で出した議論に帰責することができないような議論を理由に敗戦とされるべき謂れはない、ということにあります。
以下では、最初に、「論題との関連性」について定義した上で、論題との関連性を満たすことが投票の前提条件であること、換言すれば、これらを欠く議論には投票すべきでないことを、主にJDAルールを念頭に置いた解釈論や、教育性ないし公平性という基本原理に基づき論証します。続いて、論題との関連性の有無を判断する方法として幾つかの基準を提示します。最後に、多くのKritikで主張される、ジャッジの役割論や試合外への影響を重視すべきといった議論が、これらの要件を不要とする理由とはならないことを論じます。

論題との関連性を投票の要件とすべき理由
本稿では、アカデミック(調査型)ディベートで一般的に採用される政策論題を念頭に置いた上で、「論題との関連性」を「論題に規定された政策を肯定ないし否定する議論であること」と定義します。その上で、論題との関連性が投票の前提となる要件として求められるべきであることを論じます。以下、論題との関連性を満たしているかを問題とする要件のことを「論題関連性要件」と呼びます。

論題関連性要件を要求すべき理由は、論題の実行の是非と無関係に、論題の特徴やら理念ということを理由に、結果的に論題と異なる対象を議論しようとする「すり替え」を許すべきでないと考えるためです。詳細は後述しますが、論題との関連性を欠く議論も相手にしなければならないということになると、準備の負担は増大し、論題から想定される議論を深めていくということができなくなります。論題と関係なく議論をしたい人は、その論題を対象とするディベートの大会ではないところで議論すれば足りるのであって、論題が所期しない議論を認める必要性はありません。このような問題意識が、本稿の前提とするところです。
以下、論題関連性要件が投票のために必要となる理由について論じます。

§ 主にJDAルールを念頭に置いたフォーマット上の根拠
JDAのウェブサイトでは、我々が行っているアカデミック・ディベートをこう定義しています。

アカデミック(教育)ディベートとは: 議論の教育を目的とし、ひとつの論題の下、2チームの話し手が肯定する立場と否定する立場とに分かれ、自分たちの議論の相手に対する優位性を第三者であるジャッジに理解してもらうことを意図したうえで、客観的な証拠資料に基づいて論理的に議論をするコミュニケーション活動。


我々が行っているディベートは、ひとつの論題の下、肯定側と否定側に分かれて議論するコミュニケーション活動です。このフォーマット上の特徴は動かしがたいものです。
では、ひとつの論題の下、我々は何を議論するのか。この点、JDA大会ルール第3条2項及び3項は、以下に引用するとおり、肯定側が論題を肯定し、否定側がそれを妨げる役割を担うこと、つまり、論題が肯定されるかどうかを議論するということを定めています。

第3条 (側)
1.ディベートにおいて、二つのチームは、肯定側、否定側に分かれる。
2.肯定側は、論題を肯定することをその役割とする。
3.否定側は、論題の肯定を妨げることをその役割とする。
4.論題の肯定、およびそれを妨げる方法は、ディベーターの議論に委ねられる。


JDAルールでは、この後に続く第5条で「ジャッジは、試合中の立論および反駁の内容に基づき、試合の判定を行う。」と定めています。この条文だけを見て、ジャッジの判定は論題と関係している必要はない、という主張がされていたことがありますが、これはルールの解釈を完全に誤っています。JDAルール第5条は、その前にある第3条が定める役割を踏まえて、立論や反駁の内容に基づき、肯定側が論題を肯定できたか、否定側が論題の肯定を妨げることができたか、を判断するということを規定したものです。そう読まなければ第3条を定めた意味はないわけで、第3条を無視して第5条だけを論じる解釈が成り立つ余地はありません。

仮に、上記のような側の規定がないとしても、ルールに明記されていないから考慮しなくてよい、ということにはなりません。例えば、JDAルールには、立論や反駁の役割や、ニューアーギュメントに関する規律は定められていませんから、ルールだけを見れば、2ARで新たにメリットを出すことも自由にできるはずです。しかしながら、ジャッジや選手は、こうした議論はNew Argumentとして許されないと考えるはずです。なぜなら、ルールに規定されていなくても、反論機会を奪うようなスピーチは認めるべきでないからです。認めるべきでない議論は、それがルールに書かれていないからといって許容されることにはなりません。
論題が定められ、それについて肯定側と否定側に分かれて議論する以上、側の役割が書き込まれていないとしても、論題関連性要件は必要であると解すべきです。続けてその実質的理由を見ていきます。

§ 教育性ないし公平性からの基礎づけ
アカデミックディベートでは、教育的ポテンシャルを最大化するために、あらかじめ論題が決められます。論題により議論のエリアが明示されているからこそ、選手は、そのエリアについて知見を深め、十分な準備の下で議論を準備できるのです(伊豆田ほか3名『現代ディベート通論復刻版』13頁参照)。逆に、論題に無関係に議論が出せるのだとすれば、我々は何について準備すればよいのか分からず、事前に議論を深められません。また、片方が過度に有利な論題であれば公平性やゲーム性が損なわれます。
このような理由から、大会運営者は、論題の設定に意を払います。全国教室ディベート連盟では、論題検討委員会を設けて論題を策定しています。JDAでは、論題候補について議論の可能性や公平性等、文言の適切さ等について公開で討議する機会を設ける等しつつ、会員の投票で論題を決定しています。このような手続を経て論題を定めるのは、良い論題が良いディベートの前提条件となるからです。

論題を無視するということは、こうした教育的配慮や公平性の担保を放棄するということと同義です。さらに言えば、論題を無視して、一方当事者が好き勝手に投票理由を定めることを許せば、著しく不公平な帰結をもたらすことになります。双方独自に投票理由を提起させればよい、ということになれば、もはやディベートは何でもありのトークイベントに堕してしまいます。ではどうしてこんなに時間をかけて論題を決める必要があったのか、ということです。
このような見地から、単に「論題と関連している」というだけでなく、論題に規定された政策を念頭においた議論であることが要求されるべきことが導かれます。単に論題と関係する――例えば「論題の政策が支持する理念と共通する」など――というだけの理由で論題と紐づけられて議論対象が無制限に拡大されては、論題が担保しようとする教育性や公平性は損なわれてしまいます。したがって、関連性を規律する何らかの基準が必要となるところ、政策論題の策定時には、論題に規定された政策の実行の是非を念頭に置いた議論を想定して論題の吟味がされているはずですので、それを基準にして関連性を限定することが妥当でしょう。このような限定をかけた上で許容される議論のフィールドは、一般的な選手が論題から予想し、準備する(ことが期待される)議論の範囲とも概ね一致するでしょう。

§ 競技性からの要請
上記にもかかわらず、論題関連性要件を欠く議論も認めるということになった場合、どうなるでしょうか。予想外の議論で、事前の準備が全てふいになるという事態が生じかねません。
事前に準備すべきと言われたテーマと関係ない議論で負けてしまう環境下では、かみ合った議論は出来ず、予想外の議論で負けるというつまらない経験しか得られないことになり、選手は離れていきます。英語アカデミックディベートが同様の問題に直面しています。全日本英語討論協会が2019年に実施したアンケート(2019年7月13日「アカデミック・ディベートの競技人口減少に関するアンケート調査」)で、「アカデミック・ディベートに興味を失った理由、他活動の方が魅力的に思った理由」に対する190人の回答結果において、複数回答ではありますが、実に80人、42.1%もの人が、「論題の政策に関すること以外の議論をしたくなかったから」と回答しています。そこでは主にTopicalityなどが念頭に置かれていますが、論題と無関係に提出される議論(Kritik)を相手しなければならないという状況も、同じく、興味を失う理由になるでしょう。

論題関連性要件の判断基準
§ 基本的な考え方
論題関連性要件は、肯定側ないし否定側の議論が、①論題に規定された政策を肯定ないし否定する議論である場合、または②相手方の議論の問題点を論じる議論である場合に充足されます。
①は既に述べたとおりですが、②を満たす場合でも論題関連性要件を認めるのは、非命題的なプランから生じるデメリットも投票理由になることと同じ考え方です。相手方の議論(論題関連性要件を充足している前提です。)に問題があることを示すことができれば、当該相手方の議論に投票すべきでないということを通じて、自分たちに投票すべきとの結論を導くことができます。このような議論が成立する場合、相手方には投票を失うべき帰責性が認められるため、上述した教育性や公平性の趣旨からも、(論題との関連性を問わず)投票することが許容されます。

政策形成パラダイムに基づく議論は、通常、自動的に①により論題関連性要件を充足します。しかし、論題関連性要件は、政策形成パラダイムのみを許容するものではありません。逆に、政策形成パラダイムに基づきメリットデメリットを論じる場合でも、論題関連性要件を欠くことはあり得ます。例えば、肯定側のプランが論題と無関係である場合(出来の悪いびっくりケースで稀に見られる事態です。)は、Topicalityの問題というより、その前提である論題関連性要件を欠くものと処理すべきように思われます。

§ ①を満たすかどうかの判断方法
上記①を満たしていると言えるかどうかを判断する最も簡単な方法は、当該議論が肯定側であっても否定側であっても成り立つものではないか、という点をチェックすることです。どちらの側でも投票理由として主張され得るということは、その議論は論題を肯定するものでも否定するものでもないということになるためです。
例えば、2019年秋JDAの決勝で否定側が提出した、最低賃金に関する対抗言説として論題を否定するというKritikは、当該対抗言説は論題を否定する理由としてではなく、論題を肯定する理由としても主張し得ると考えられます(公開された原稿からは現にそのように準備されていたようです。)。このような議論は、結局、論題の肯定と否定のいずれにも資することがないものであって、論題と無関係である、と評価すべきことになります(もっとも、当該議論については、最低賃金を上げる=論題を肯定する、という態度と不可分の問題を論じていることを強く説明すれば、論題関連性要件を説明する余地はあると思います。)。
また、ディベートコミュニティについて論じるような議論も、一般的に、上記の理由により論題関連性要件を充足しないものとして棄却されるべきことになります。

上記チェックをクリアしたとしても、論題に規定された政策そのものとは関係ない議論である場合、論題関連性要件の充足をを否定すべきです。例えば、「この論題に規定された政策は多様性の尊重を理念としている。したがってディベートコミュニティの多様性を高めるための提案を主張する自分たちに投票すべきだ」といった議論については、論題から何らかの価値・理念を抽出してはいますが、そこから、論題と無関係の議論に話をすり替えています。論題から何らかの価値・理念を抽出できるとしても、それと同様の価値・理念は別の論題ないしテーマからも抽出可能であると考えられますし、そもそも論題の当否は特定の価値・理念の当否とイコールではないので、結局、その価値や理念を論じたところで、事前に指定された個別具体的な論題を肯定ないし否定することにはつながりません(かわいい、という価値観を肯定したとしても、それがスヌーピーを肯定したものか、ピカチュウを肯定したものかは分かりませんし、かわいいというだけで直ちに電気を帯びて危ないピカチュウが肯定されるわけではありません。)。

以上を満たせば、さしあたり、論題関連性要件の充足を満たすことができます。メリット・デメリットでなくても、論題に規定された政策を行う(支持する)こと、行わない(反対する)ことに存する問題点を議論できていれば、論題関連性要件の観点からは問題ないということができます。

§ ②を満たすかどうかの判断方法
仮に①を満たさないとしても、相手方の議論に内在する問題点(例えば、差別的な価値観を内包している等)を取り上げていると言えるのであれば、論題に関する議論の問題点を論じているということをもって、論題関連性要件の充足を認めることができます。

もっとも、このような議論に論題関連性要件の充足を認める実質的根拠は、相手方に帰責性(落ち度)があると言えることにあります。したがって、相手方にとって避けようのない問題を論じているという場合、帰責の前提となる結果回避可能性がない(避けられない以上、避けなかったことを非難できない)ことから、そのような問題提起によって論題関連性要件を充当することはできないと考えるべきです。例えば、クオーター制導入論題において、男女の差について論じること自体が望ましくない、という議論を提起する場合、論題の性質上、男女の差を全く論じずに議論することは不可能と考えられるため、そのような議論は論題関連性要件を充足する理由にならない、と考えられます。
これは、上記①の検証方法である「肯定側と否定側のどちらでも当てはまるのではないか」という話とも重複します。相手方の議論に対する問題提起という体を取るだけで、上記①のチェックを潜脱することはできません。

結局のところ、①の話も②の話も、論題について論じることを指定されている当事者にとって準備することが期待される(準備しなかった場合当該当事者の責任になる)議論と言えるかどうか、ということを問題としているということが言えます。このような理解は、教育性や公平性、競技性といった上述の趣旨からも当然に導かれるものです。

論題関連性要件に対して予想される批判に対する反論
上記の論題関連性要件に対しては、少なくないKritikで主張される、ジャッジの投票への影響力や、議論の公共性ないし市民教育の必要性といった考え方から、論題に制約される必要性は乏しいという反論が予想されます。

まず、ジャッジの投票への影響力をいう議論ですが、そもそも、ジャッジの投票に特別な影響力があるという前提が疑わしいです。ジャッジの投票は、せいぜい、その議論に対する競技的な評価を示すものにすぎません。Kritikその他の議論が認められた、ということは、そこで論じられた価値観等が支持されたということを必ずしも意味するものではなく、反論が拙かったのでやむなく投票したというケースも含まれ得ます。受け手である選手も、そのような議論でも投票が得られるのか、と考える以上に、そこで論じられた問題について深く考えることは稀でしょう。むしろ、ディベートという競技の場で議論することで、当該問題を「競技の中のお話し」にしてしまい、深い検討を妨げることすら懸念されます。
また、仮にジャッジの投票に、その基礎となった議論の内容に関する何らかの発信的効果があるとしても、ジャッジは、特定の価値観を称揚ないし否定する目的で投票を行うべきではありません。ジャッジの任務は、論じられた内容に基づき論題の当否について判断することであって、論題と関係なく議論された内容にたまたま納得したからといって、それを支持する「善行」のために任務を放棄することは許されません。

次に、議論の公共性ないし市民教育の必要性から、論題に囚われない議論を求める立場に対しては、そもそも公共の議論においてもテーマを無視して論じることは許容されていないという指摘が可能です。原発反対を訴える市民集会でジェンダー平等の話を論じられても、参加者は顔をしかめるだけです。良い話だから論題(テーマ)と違っても聞いてほしいというのは、それこそ市民社会の良識に反する振る舞いです。
また、ディベートにおいて殊更公共性や市民教育を強調することにも疑問があります。選手以外の観客も多数いるようなパブリックスピーチの場などであれば特別な考慮があり得るかもしれませんが、事前に論題を定め、一定の経験者をジャッジとして選任している競技大会において、論題を無視した公益的な議論(そもそもここでいう「公益」にはかなりの偏りがあるようにも思います)が尊重されるべき根拠はないでしょう。

以上に共通して言えることですが、社会への影響といったことを考えるのであれば、なにも、論題や競技的フォーマットによる制約のあるディベートの試合を表現の場として選ぶ必要はない、ということです。
こう述べると、ディベート以外の場で議論できるということはディベートの場で議論してはならないということを意味しない、という反論が飛んでくるでしょう。しかしながら、論題関連性要件との関係で言えば、論題が定められている以上、それを無視すべきと主張する側において、なぜ論題を無視してでも語る必要があるのかということを積極的に論証する必要があります。ディベートでないと議論できない、というやむにやまれぬ事情があれば別論、そのような事情がないのであれば、論題を無視したスピーチに票を与える理由はないし、対戦相手としても、そのようなチームに票を持っていかれるようではたまったものではありません。
そもそも、ディベートの試合では、対戦相手は共感したかどうかとは別に競技上の要請として反論しなければならないわけで、問題提起に対して真摯な応答がされることはもとより期待できません。そのような場所でわざわざ論題と関係ない「大事な」話をしなければならない理由はどこにあるのでしょうか。その理由は、当該チームの独りよがりを超えて、相手方にも我慢を強いることを正当化するだけのものなのでしょうか。そのようなことが問われなければなりません。

むすびに代えて
競技ディベートが、論題を事前に定め、論題を肯定する側と否定する側に分かれて議論するということには、議論の範囲を適切に制約することで教育的効果や公平性を高めるという実質的な意味があります。このような制約の下で、選手は、論題に関する調査や試合の準備を進め、議論を楽しみます。論題関連性要件を欠く議論は、このような前提を無視して、選手にとって準備が期待されない議論を理由に負けるという理不尽な結果をもたらすことで、ディベートの教育性、公平性を破壊し、選手をディベートから遠ざけることにつながります。このような議論は、パラダイム云々の問題以前に、ディベートという競技の想定から外れていることを理由として退けられる必要があります。
この要請は、投票の前提として論題関連性要件の充足を求めることによって満たされるものであり、ディベーターにおいても、このような論点があることを意識して、Kritikをはじめとする諸議論を検討する必要があります。真にディベートの試合で論じられる価値のある議論であれば、論題関連性要件を充足することは可能であり、かかる要件の充足が必要であることを意識して立論することは、これまで聞き手にとって分かりにくかったKritikの議論をより分かりやすく説得的にすることにもつながるものと期待されます。本稿が、論題に関連しない議論で疲弊する選手の救済のみならず、価値ある意欲的議論のブラッシュアップにも貢献することがあれば幸いです。

ディベート理論関連の記事 | 03:06:15 | トラックバック(0) | コメント(0)
第26回ディベート甲子園の感想(1.高校決勝)
ジャッジ講座は予定通り間に合わず、今年のディベート甲子園も終わりました。参加された皆様、大変にお疲れ様でした。初のオンライン開催でしたが、オンライン化したためか練習試合を重ねてきた様子も伺え、中高ともに全体的にレベルの高い大会でした。望むらくは対面での大会再開ではあるものの、オンラインの良さも活かしたポストコロナのディベート実践が実現することが理想であり、その可能性を大いに感じさせる大会であったように思います。

今回は、高校決勝(創価 vs. 慶応)について振り返っていきます。結果は1-4で否定側の慶応高校が優勝しました。試合の判定自体は主審を務めた山脈こと竹久氏の講評が分かりやすくまとめているのでそちらを聞いていただければよいのですが、私自身は肯定側が勝ったかなと思っていました。このあたりの違いは、私のスピーチの好みによるところが大きいのですが、以下では、メリットとデメリットに分けて決勝多数意見と自分の判定を対照しつつ、今大会を通じて安楽死論題について考えたことを若干述べることで、今季論題の私なりの総括をすることにします。

メリットの評価(~1AR)
メリットは、末期患者が他人に依存しないと生きられないなどケアで緩和しきれない尊厳ないし自律の喪失による苦しみ(スピリチュアルペイン)を問題とするものでした。終末期の患者にのみ安楽死を認める理由との関係で、精神的、肉体的苦痛という話より根源的なところに踏み込んだ、完成度の高いメリットでした。ただ、解決性が「安楽死は安心を得るためのお守り」といった話になっているのは、スピリチュアルペインとの関係ではちょっとよく分からないところがありました。スピリチュアルペインに苦しむ(苦しもうとしている)患者にとって、いつでも死ねるということが安心につながるのか、というのは、痛みほど直ちには言えないのではないかというように思います。が、試合では問題になりませんでしたし、それが直ちにメリットを否定するものでもありません。

これに対する1NRの反論について、1ARの再反論とともに順に見ていきます。
精神的苦痛は取れるという話は、スピリチュアルペインに対応しているのかよく分からないのと(余談ですが、日本緩和医療学会の「がん患者の治療抵抗性の苦痛と鎮静に関する基本的な考え方の手引き 2018年版」のⅡ章やⅧ章を読むと、反駁資料に出てくる「治療抵抗性の苦痛」はスピリチュアルペインには対応していないようです。この資料が使われたのは聞いたことがないですが、鎮静についてかなり詳細に論じており、結構使えそうです)、最良のケアでもダメとか、現に希死念慮が出ているという肯定側の分析との関係で、内因性を切るには弱い印象です。山脈も首をかしげているところであり、1ARでも同様にフォローされています。
死の願望は持続しないという話と、いつでも生きる希望を取り戻すという話は、撤回できるかどうかという話に依存するのと、「生きる希望を取り戻す」話は、おそらく尊厳や自立を失ったまま戻らないであろう末期患者に当てはまるのかという疑問があるところです。このあたり、メリットが苦痛の中身に踏み込んでいることに十分対応できていないうらみがあります。関連して、なぜ将来の可能性で今の苦しみから解放する必要性が否定されるのかという指摘がされていた点は、説明が足りない感はあるものの、一理ある話に思えました。死にたくなるほどの苦痛と緩和が繰り返すということだとすれば、結局総体として解放されたいという気持ちも分かりますし、完治の見込みがない末期という状況を考えるとなおさらそう思えます。このことは後述するうつ病の論点で1ARでも言及されていました。
判定を分けるのは、死を望む患者は抑うつ性錯乱のせいで死にたがっているだけという反論の成否です。末期でもうつ病は治るが見分けにくく、そういった患者を死なせることは患者の利益に反するという話で、死の願望が病気のせいだということになると、メリットのストーリーは切れていくことになりそうです。ただ、これもスピリチュアルペインに対応しているのか、ということにはよく分からないところがあります。抑うつで錯乱しながら、自分で自分のことができないので死にたいです、とか、終末期鎮静は受け入れられない、といったことを言うのだろうか、という疑問があるところです。これに対して1ARの返しの第一は、ALS患者の例を引いて、うつ病以外でも死を望む患者がいるというものですが、引くのはそこではなくてスピリチュアルペインではないかという疑問があります(ALSでうつになる人もいるでしょう。ちょっとググったらそういう話も出てきます)。返しの第二は、うつ病でも意思決定に問題はないというもので、これは良い反論になっていると思います。返しの第三は、終末期になってまで死の選択を制約する理由になっているのかというもので、これはなるほどと思うのですが、否定側は終末期でもうつ病は治るということを言っているので、それとの関係で微妙なところはあります。

デメリットの評価(~1AR)
デメリットは、現状患者の家族にとって介護が負担であるという現状を前提に、プランを取ることで本当は生きたいと思っている患者が家族からの圧力を感じて安楽死を希望し、医師も患者の本心を見ぬけず撤回も難しいので不本意な安楽死が生じるという話です。弱い立場にある終末期患者を保護すべきとの考え方が随所に見えて、これもよい立論でした。

これに対する1ARの反論を見ていきます。
憎しみを持っている家族との関係で消極的安楽死は既に行われている、という固有性に対する反論は、肯定側の分析に比べて深く、今はやろうと思えばできるのかなという心証までは行けそうですが、プランで予想される積極的安楽死の実施状況と同程度まで行われているのかということを考えると、ちょっと苦しい印象です。(消極的安楽死は治療中止で死ぬほどの直前にしか行われないので)対象が違うといっても時期的な問題にすぎない、というスピーチも、それを言うなら末期患者もほどなくして死ぬわけで、スピリチュアルペインも消極的安楽死で少しだけ早く解放されることと比べて時期的な違いに過ぎないのではないか、ということだって言えそうで、やや乱暴です。ここで勝負を決めることは難しそうです。
家族を思って死ぬことの何が悪いのかという話はさすがにそれだけで取れないとして、家族が止める、日本人は特に延命を望む、という話については、ある程度デメリットを削る部分もあるでしょうが、止めない家族もいそうだし、患者がどう受け止めるかというところまで否定側の説明をフォローできてはおらず、デメリットを否定するまでの踏み込みには至っていないところです。
死ぬ主な理由は自律が損なわれることだ、という反論は、立論の議論を引っ張ってくればよかったのに、かえって36%が他人の厄介になりたくないので死んでいるようだという話が出てきて、デメリットをサポートしてしまっています。
最後に、撤回できないという話は、推論に過ぎないというカードチェックは浅いですが(ALSの例であり安楽死一般に当てはまるのか?ということ等突っ込みどころはあるが…)、解決性を参照しているところは、説明不足ですが一応「薬をもらったが死んでない」ということで返しにはなっている気がします。その例とプランが対応しているのかは怪しいですが…。

ということで、デメリットは削れているもののそれなりに残りそうではないかという感触です。実際圧力を受けていないことが海外で確認されているといった、直接バッティングする議論も交えて叩くなどしたほうがよかったのではないかという気がします。

第二反駁を踏まえた評価
おそらくここまでの評価は決勝ジャッジともそう違わないのではないかと思うのですが、その後の第二反駁をどう見るかで判定に差が生じているように思われます。ということで両第二反駁を見ていきます。

2NRは最初に患者の利益にならないと決定を尊重すべきといえないので、弱い個人が死んではだめだということで、デメリットの総括からはじめました。自分たちの立場を貫くという点で最後まで一貫しており、その勢いには見るべきものがありました。
個々の論点について、固有性の返しについては、「肯定側のあげる『やったことある』は一回でもやったことがある人の話かもしれない」というものでしたが、一回でもやってたら否定側の分析とはバッティングするのではないかということで、ここは返しとして失敗しているように思います。ただ、その後で、少なくともLinearには残るし、それも積極的安楽死はより早い段階でできる等対象が拡大するという話は、まぁそうでしょうということで、結果的には返せています。その他の反論は、デメリットが残っているという話をしており、これはまぁ肯定側の議論が詰め切れていないのでそのとおりということになろうかと思います。
最終的なまとめとして、選択肢をうまく選べない弱い個人を優先すべきということを強調しており、ここが否定側の勝負どころなのだと思います。個人的には、このあたりの話は単にインパクトを引っ張っているだけで、メリットの想定する対象者との関係をどうとらえているのか(ある程度は重複するのでしょうが、自律を大切に思って死ぬ人と、家族に申し訳ないと思って死ぬ人には重ならないところがあるように思います)、といった説明がないのに、ちょっと上滑りしているという感じを受けました。私は、価値の議論について、単に伸ばされただけで評価することをしないので、ここは刺さりませんでした。

メリットに対する反論は、うつ病で死にたくなるという話に絞ってきています。意思決定能力に関する1ARの資料が仮想実験にすぎないという話は、証拠もないしちょっとよく分かりませんでした。ただ、見逃しやすい、ということは伸ばしていて、うつ病のせいで死にたくなる人もいること自体は1ARでも否定できていないように思うので、そういう人も混じってくることをどう考えるか…ということになります。ここも仔細に見ると、肯定側が想定するスピリチュアルペインで死にたい人と、うつ病のせいで死にたい人は被っていないようにも思われ、そうすると否定側の議論はデメリットのリンクを追加しているだけでNew Argumentではないか、という見方もできなくはなさそうです。肯定側から指摘がなければそこまでは取らないと思いますが、内因性を否定できているというためには、もう少しスピーチがないと厳しそうに思われるところ、デメリットの深刻性に引っ張っていく2NRのスピーチは、戦略としてはそういうものだろうと思いつつも、個人的には腑に落ちないところがありました。

続いて2AR。全体的にとてもよく整理されており、分かりやすいスピーチでした。
メリットについて、ケアでも不十分というところは十二分に説明されフォローしきっています。死にたい気持ちが両価的(行きたい気持ちと同居している)という点については、説明できてはいるのですが、末期であるとなぜ両価的であることを無視してよいかということの説明は実は不十分に思えます。この部分はうつ病の話にも関係してくるところです。一番重要なうつ病の話は、何となく返っているのですが、他の部分に比べるとやや反論が錯綜しているように思いました。まず、メリットが想定する理由で死にたがる人がいる(それが多い)ことを確認してそこのメリットを残しつつ、うつ病で死にたがっている人について、判断能力の有無について再反論を処理した後、判断能力があればその判断を尊重してよい、たとえ治る可能性があったとしても終末期であることなどを踏まえれば選択を尊重すべき、といった感じで論じていくべきものでしょう。特に最後の点は、治ったとしてもスピリチュアルペインの原因は解消されないとか、見逃されるのであれば結局治らないのだから、見つけることができていればという仮定でもって、その時点での患者の意思を否定するのはおかしい、といった議論ができたと思います。ただ、個人的には、2NRもここを十分掘り下げていたとは思われないことから、意思決定能力があるという話で十分返っているのではないかと考えたところです。

デメリットについて。一応残っているので固有性を伸ばしており、言っていることはもっともですが、ここだけで切れるものでもなく、そこまで時間をかけるのかという感はあります(「そこ一応やるんだ~」的なジャッジの反応もある)。時期的な差に過ぎない、という話も、そんな話かねというところで、ここで勝敗は決まらないというべきでしょう。
患者が止める云々という話は、「愛が勝つ」とか「氷山の大きさを示せていない」とか、プレゼンとしては秀逸で、実際分かりやすくはあったのですが、否定側のストーリーを切りきるところまではいけないところです。これは1ARから言うべき話なのかもしれませんが、メリットで述べられているような自律の欠落に苦しむ状態と、家族への心配(圧力という形で感じる)は実は重なっていて、家族への申し訳なさ自体がスピリチュアルペインだ、ということは言えるのかもしれません。いわゆるGood Death的な話でもありますが、今回のメリットからはそういう話が出てもよかったのではないかという気がしています。

結論として、それぞれがそれぞれの議論を立場毎にアピールし、分かりやすくまとめてくれていたのですが、最終的にメリットとデメリットが交わることはなかったように思います。正確には、否定側のほうが深刻性をゴリゴリと当てていた点で無理やりデメリットをかぶせている点で交わらせるようにしていたところはあるのですが、肯定側はそれには応接していません。
私としては、上述のとおり、デメリットのかぶせ方が不十分だと思ったのでそこには乗らず、スピリチュアルペインの苦痛を訴える人の解放というメリットがうつ病の論点を踏まえても残っているということで、削れたデメリットよりメリットを取って肯定側だと判断した(重要性と深刻性の話は明示の比較もなくどっちもどっちと思った)のですが、冒頭に述べた通り実際は1-4でした。ということで講評を簡単に見ていきましょう。

決勝多数意見との相違
講評を聞く限り、決勝多数意見と判断が大きく違うように思われるのは、やはりメリットにおけるうつ病の観点です。多数意見も色々な意見があるようですが、メリットで言われているような理由で死を望む患者もいることは認めつつも、うつ病のせいで死にたがっている人を死なせることはデメリットの深刻性で言われている観点から問題であるという点や、治療の余地があったり見逃される可能性を考えると正当化できないような安楽死が相当数あるのではないか、という判断が多かったようです。肯定側の言うスピリチュアルペイン的な理由で死にたい人の中にもうつ病の人がそれなりにいそうだと考えると、その分は確かに解決性を削るとも言えそうです。
本当は、スピリチュアルペインとうつの影響は併存しうるのではないか、併存している場合その死の願望は否定されるべきなのか、等いろいろ難しい問題はありますが、この試合でそこまでは議論されていません。私は、(観戦していた時に先の併存云々の問題まで分析的に考えてはおらず)少なくとも判断能力にはそう問題なさそうだし、メリットで論じている対象者の事例を正当化できなくするような事情とまでは言えないのではないかと考えたわけですが、ここは、否定側がデメリットをかぶせていったことも含めて色々と判断の余地があり、私のような肯定側の判断が必ずしも多数派ということでないことはそうだろうと思います。

今季論題についての雑感
決勝戦をはじめとして、今季の高校論題の議論は大変水準が高く、過去の同種論題の議論と比べても格段の進歩があったと思います。春季JDAと比べても遜色ない、あるいはより深まった論点もあり、安楽死論題のかなり核心的なところまで迫れていたのではないかと思います。私をはじめジャッジにとっても発見が多く、選手の皆様の努力には敬意を表します。

上記決勝の感想でも触れましたが、肯定側が想定する「安楽死を望む患者」と、否定側が想定する「安楽死を選ばされる患者」(ここにうつ病の影響で安楽死を望む患者が入るのかどうかは議論の余地がある)は動機に重なるところがあるのかもしれないものの、それぞれ別の対象を構成しているように思います。とすれば、今季論題の各種論点は、①動機が重なる患者の安楽死をどう評価するか、②安楽死を真摯に望む患者の意思と、安楽死を選ばされてしまう患者の防止のどちらを尊重すべきか、という2種の課題に大別できそうです。
①については、そもそもどういう重なりがあり、どちらが主因なのかという分析も重要ですが、それはディベートでは(でも)限界があるところです。重なりがある場合に、全部ひっくるめて死の質を高める要素として考えられるのではないかというのが所謂Good Deathの議論ですが、死にたくないという気持ちが混じっているときには死を選ばせるのはよくない、というのも直感的に肯定できるところです。このあたりは、具体的に患者がどういうことを考えるのかという要素の細かな分析や、終末期という状況に置かれた患者の意思決定の在り方をどう考えるかといった問題があり、今回の決勝戦で両チームが論じていたインパクトの議論のように、終末期においてはQODを意識すべき(もっとも、QODって何なんだ問題はある)とか、終末期という生きるか死ぬかの場面で、生きたい人が生きられる状態を実現すべきだ、といった様々な考え方があり得ます。どれが答え、ということはないのですが、今大会では、少なくないチームが、このような難しい問題にある程度アプローチできており、大変刺激的な経験となりました。
②については、今決勝で立論を聞いた感じだともう少し議論されるのかなと思いましたが、案外ぶつかることはなかったように思われます。正確に言えば、立論上ぶつかっているのですが、最終的なまとめの中では、メリットの想定者とデメリットの想定者の「両方が」いるということがあまり意識されず、そのどちらを優先すべきかという議論がされなかったということです。これは他の試合でもあることです。①の問題よりは簡単なのですが、かえってそのせいでフォーカスされにくかったのかもしれません。あるいは、両方がいるというまとめ方に不安があったのかもしれませんが、特に否定側は、この部分は勝ちどころにしやすい気がするので、もう少し意識的に論じられてよかったように思われます。立論段階で既に材料は出ている場合が多く、スピーチ中そこまで強調しなくても取られる、ということもあったのかもしれません。

結局、上記①や②を踏まえると、全てのケースが理想的な死の選択と言えるのかというと難しそうだし、真摯に死を望む人の中にさえ、葛藤は生じるのではないかとも思います。そう考えると、現状安楽死を認めていないということには十分な理があるようにも思いますが、他方で、終末期で真摯に死を望む人も、意志の強さという面では比較的「強い個人」と言えそうであるものの、健康状態等の観点からはまさしく「弱い個人」なのであって、そのような立場の人が苦しみながら死の選択を希求していることに対して、自己決定として疑義がある等の観点で選択肢を与えないことは、それ自体が権利侵害ともいえるし、社会の側が選択から逃げている(この表現は私のアイデアではありません)という評価もできそうです。私個人は、悩みつつも、医学的に可能なのだとしたら選択肢が与えられてしかるべきではないか(それこそ持続的鎮静を認めているのに、殺さないという一点にこだわる合理性がどこまであるのかというと、「いつ」「誰に」認めるかという制度設計の問題にすぎないようにも思う)という気がしていますが、この思い自体も、議論を聞くたびに揺れています。それだけ示唆深い議論に触れる機会が多かったことは、ジャッジとして、ディベーターとして大変幸せなことでした。

このように難しい問題に果敢に挑戦した選手の皆様に改めて感謝するとともに、決勝主審ではないですが、今後もディベートを楽しんでほしい、一緒に楽しんでいきたいという思いをお伝えして、高校論題の私的総括とさせていただきます。

ディベート甲子園全国大会の感想 | 00:41:45 | トラックバック(0) | コメント(2)
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