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アカデミックディベーター

Author:アカデミックディベーター
日当たりの良い某法科大学院を2009年3月に卒業。
ライフワークである競技ディベートについてぼちぼち書いています

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Judging Philosophy(2009.3.8JDA春季版)
3月8日にJDA春季ディベート大会があり、ジャッジスタッフとしてお手伝いしてきました。司法試験前の最後のディベート奉公という位置づけです。
書くと長くなるので感想などは省略し、今日は当日配布された僕のフィロソフィーについてここに転載しておきます。序文を付したほか、多少説明を補っていたりしますが、基本的には見解は変わっていません。

序 フィロソフィーの意義及びフィロソフィー談義のあり方についての私見

フィロソフィーというのは、ディベートジャッジが試合をどうやって審査するのか、という考え方のことです。その目的とするところは、つまるところ、試合中の議論を合理的に処理し、そして「妥当な」結論を導くことだと思います。ここは重要なことなのでもう少し敷衍すると、フィロソフィーは決してそれを作ること自体が目的ではないということです。いわゆる法学においては、実務から遊離して学説構築に邁進するということにも一片の意義が(多分)あり、またそれで飯を食える場所も少ないながら存在していますが、ディベートジャッジがそんなことをやることにはそれ自体意味はありません。もちろん、思考の整理としていろいろ考えることが無駄だとはいいませんし、そこに楽しみがあることも否定しませんが、ゴールはあくまで「よい判定を出す」ということです。

このように考えると、実はフィロソフィーというのは説明の便法に過ぎないということも言えます。例えば、Counter Agent Counterplan(政策主体を変えてAff planと同じものをするCounterplan)を禁止すべきだと考えるとき、それをフィアットの濫用で説明することもできるし、そもそも論題に規定された主体にしかフィアットは認められないのだという説明も可能です。どちらが「好み」なのかということは言えますが、どちらが間違っているということでもありません(もちろん、理屈として妥当でないものもありえます。僕が以前にやった某テキスト批判の多くもそういう指摘です)。そういうものだと考えています。

では、どうしてフィロソフィーを(特に、以下のように無駄に細かくて通説とも相違する見解を)論じているのかというと、半分くらいは「趣味」なのですが、もう一つは、僕の考える「妥当な判定」を正当化する理由付けとして一応の筋は通さなければならないと考えるからです。そこに不整合性がある可能性もありますので、その際は是非指摘していただきたいと思います。
一方で、僕の志向する結論(よい判定とは何か)に対して共感できないという意見もありうるところでしょう。それももちろん一つの批判として立派に成立するのですが、かかる批判は「論理的正当性」ではない「妥当性」を争っているのだということについては、実りある議論のために自覚しておく必要があるでしょう。例えば、「アカデミックディベート(と称する何か)ではそんな風には考えない」とか「それはネッター(?)の考え方だ」というのは、僕からすれば特に理由もない独自の見解に立つものでしかなく、それ以上の実益を求めるのであれば、どういう結論が望ましく、それに対して僕の志向する結論のどこに問題があるのかという議論の立て方をすべきでしょう。

本当なら、難しい理論的問題なく試合がスムーズに展開するのが一番で、理論的なものが問題となるとすれば、それは、そういう考え方を取ることによって論題についてより深い分析ができるという実益が前提であるべきです。ですから、僕の求める「理論」は、某所で流行っているような「せおりー」とはその目的を全く異にしています。今さら言うまでもないことですが、念のため。

Ⅰ 総論

1 ディベートについての理解
1.1 ディベートという競技についての理解
○ 政策決定の場をモデルとして議論するものと理解しています(いわゆるPolicy Making Paradigm)。
○ ディベートの目的は、現実社会に通用するような意志決定能力の教育を行うことだと考えています。

1.2 ジャッジの意義と役割
○ ジャッジは論題の是非を第三者的立場から評価する立場にあると考えます。
○ 教育的役割を重視し、Critic of Argumentの立場を採ります。一定の説得力を有さないと考えた議論は採用しないことが求められていると考えます。(*)
○ おそらくジャッジの裁量について一般より広く理解していると思います。

註:このような考え方は選手がディベートを楽しむことを否定する趣旨ではありません(教育的目的と「楽しさ」は矛盾しません)。ただし、少なくとも、論題として社会問題などを取り上げていることからして、実社会と遊離した議論を行うこと自体が目的であるという見解は取りません。言葉遊びをしたいのであれば、わざわざリサーチして論題を決めずとも、どこかの参考書から任意の一文を取ってきてテーマにすればよろしいのではないでしょうか。


2 判定の基礎
2.1 判定の基礎とされる内容
○ ディベーターの提出した議論のみが判定の際に考慮されますが、判断の前提としてルールや社会常識、私の初期的価値観といった要素を参照します )。(*1)
○ もちろん、きちんと証明された議論は採用するので、上記の「前提」は試合中の議論によって覆せます。
○ 各論点の評価に当たっては、試合中に出された全ての議論を参照します。(*2)

註1:判断の前提として想定されるものは、「合理的で理性的な人間がどういうことを考えるか」を私なりに考えて用意したものですので、2.2の記述を参考にしつつ間接的に推測(または試合前に質問)してください。こういう前提を設けることが妥当でないという見解もあるようですが、一般的な意志決定においてかかる要素は当然に考慮されますし、そうした外部の前提を置かずに議論を評価することは不可能だと考えています。少なくとも、私は批判的な立場を放棄したくないので、議論の評価に当たって一定の前提を用意します。


註2:選手からの主張及び立証(証拠)は、一旦出された以上はジャッジの自由な評価に委ねられるということです。これは、出された主張が相手方に有利に働くこともありうること(主張共通)、出された証拠が相手方に有利に働くこともありうること(証拠共通)を含意します。もっとも、主張されていないような内容をジャッジが勝手に作るというものではなく、交差適用がなくても他の主張や証拠と照らし合わせて論点につき判断するということです。気づいた場合に必要な範囲で見るだけなので、有利な点は積極的にスピーチで指摘することが望まれます。


2.2 前提とされる基本的要素について
○ 前提知識としては、一般的社会人の常識として想定されるニュース報道レベルを想定しています(もちろん私が不勉強で知らない可能性もありますので困った顔をしていたら説明してください)。
○ 私は普通の日本人で、自分の言語感覚はそんなにおかしくないと思っているので、明らかに一般的用法と異なる言葉の使い方を提唱する場合はきちんと理由付けをしてください。
○ ディベートの試合では公平性(Fairness)や教育性(Education)への配慮が必要だと考えています。(*)
○ 合理的で理性的なジャッジでありたいと考えています。人命も経済も人権も大事だと思いますが、そこに明確な序列があるわけではなく、侵害・受益の生じている文脈などにより同じ結果でも価値は違ってくると考えるので、重要性などを議論する際にはきちんと説明してください。

註:ですから、ディベートの試合を無意味ならしめるような議論や、現実において相手にされないような屁理屈は取りません。もちろん、意義があることが示されれば別ですが。ちなみに、公平性というのは議論一般に要求される原理ですし、教育性というのは競技ディベートの沿革からしても当然導かれるものだと理解しています。少なくとも、これを排除する有力な理由には今のところ触れたことがありません。


2.3 フィロソフィーの位置づけ 
○ 本フィロソフィーに規定した内容も含めて試合中に自由に議論できますし、説得的と感じた場合には少なくとも当該試合に限ってはそれに従って判断します。
○ フィロソフィー(議論評価の枠組)についての評価は、投票理由についての評価と異なり、ディベーターの議論に制約されません )。(*)

註:フィロソフィーの内容や定められた規則の解釈については、最終的にはジャッジの専権に属するものであると考えるからです。したがって、私が説得されなかった場合、私の見解を持ち出して主張を棄却することになります。


Ⅱ 各論

3 勝敗の決定方法
3.1 投票基準
○ 原則として、論題が肯定されたと考えられる場合には肯定側、そうでない場合には否定側に投票します。
○ 試合中に出された政策システム(プランで示された政策群。以下「システム」とする)のうち最も望ましいものが論題を支持する(肯定側に帰属する)ものである場合、論題が肯定されたと考えます。(*)
○ 最も望ましいシステムから論題を支持するプランを除いても結果が変わらない場合、論題を支持する必然性はないので、否定側に投票することになります(Redundancyを取るということになります)。
○ いわゆるクリティーク(Kritik)や教育性・公平性に基づく投票理由など論題そのものと関係ない議論についても、ディベートで投票理由として考慮すべきことが証明された場合には評価します。

註:すなわち、私は政策の当否(どのシステムが望ましいか)についての評価を第一に行い、次に、最も望ましいシステムが帰属する(Topicalなら肯定側、Non-Topicalなら否定側に帰属する)側に投票することで論題の是非について判断を表明するものです。ですから、チームで立場を一貫させることは必ずしも要求しません。ほとんどの場面では、効率性の問題から一貫させて議論することが強いでしょうけど。


3.2 システムの認識方法について
○ 試合中に両チームから一切プランが出されなかった場合でも、論題が指し示す抽象的な政策 )と、現状を維持する立場は評価対象となるシステムとしてカウントします。(*)
○ システムの構成要素となるプランが明示される限り、両チームはいくつでもシステムを提示でき、その全てが最終的に評価対象となります。
○ 現状がTopicalとなり否定側に帰属する立場が存在しなくなったなどの場合は、必要に応じて否定側が「論題を否定するシステム」を取るものと擬制します。もっとも、この場合の否定側には積極的に否定側に帰属するシステムをCounterplanとして提出し、具体的立場に基づいて議論を展開することが期待されます。

註:もっとも、ほとんどの論題では論題そのものから具体的な政策及びその影響を想起できないため、プランを出さないと投票に値するシステムとはならないでしょう。

以上の内容については5節の説明も参照のこと。


3.3 推定(Presumption)について
○ 初期状態では優劣不明の場合には否定側に投票しますが、この点は優劣を定めるための基準も含めて試合中の議論に広く委ねられます。

4 純利益の議論について
○ 論題に規定された政策の採択から生じる利益(メリット)と弊害(デメリット)の比較により、論題を肯定ないし否定することができます。
○ システムの評価との関係では、論題を肯定する理由となるメリットは、命題的な政策から生じるものしか評価しません。一方、非命題的政策から生じるデメリットは、システムの弊害としてカウントします。
○ メリットやデメリットについては、いわゆる3要件(内因性・解決性・重要性や固有性・発生過程・深刻性)の観点から評価します。

5 プランないしシステムについて
5.1 システム提出の方法について(両サイド共通)
○ 提出できる内容自体には制約はありません。非命題的なプランにもフィアットを認めますが、プランの効力が証明されない場合には判定上そのプランの存在が考慮されることはありません。(*)
○ 相手の出したプラン(の一部)を援用し、組み合わせてシステムを提示することもできます。プランの採用時期をずらすことなども可能です。
○ 肯定側が複数の政策システムを提出する行為(Alternative Justification)も原則として認めます。もちろん、論題との関係でその不当性を争うことも認めます。
○ 第二立論まではプランを自由に提出でき、プランの撤回も可能です。ただし、相手側からプランの新規提出や撤回を認めるべきでない理由があることが積極的に主張され、それに説得力があれば、撤回は認めません。
○ 相互に矛盾するプラン(システム)を出すことも許され、その全てが評価対象になりえます。もちろん、その不当性を争うこともできます。

註:3月8日に配布されたJDAフィロソフィーには明記していませんでしたが、フィアットが認められる理由は政策主体の取るべき行動の妥当性をチェックするために仮定を必要とすることにあり、論題に規定された政策主体の行動についてのみ仮定が許されているものと考えますから、論題に規定された政策主体以外の行為についてはフィアットを認めることができないと考えます。よって、いわゆるCounter Agent Counterplanは原則として認められず、別の政策主体による方が効率的であるから論題に規定された政策主体が当該行為を行うべきでないという趣旨の議論は、通常のDAとして主張される必要があると考えます(場合によっては、その説明のために別の政策主体によるカウンタープランを用いることは許されるかもしれません)。


5.2 対抗政策(Counterplan)について
○ 否定側も論題を否定するためにシステムの提出をすることができます。
○ カウンタープランを理由に否定側に投票してほしい場合、それが否定側に帰属する(非命題的である)こと、最も望ましいこと(他のシステムに比べて優位性があること)を示す必要があるでしょう。これは本質的には肯定側のプランにも要求されることです。(*)

註:私の見解では、カウンタープランのいわゆる3要件のうち、競合性の要件は非命題性の一部として理解されます。すなわち、非命題性は当該システムの帰属が否定側にあることを証明するものである(でなければ否定側に投票する理由にならない)ところ、そこでいう非命題性は「論題と競合すること」、すなわち論題の支持する方向性に矛盾することを指すと解します。これを私は「強い非命題性」と呼びますが、論題と矛盾はしないが肯定側のプランとは競合するという「弱い非命題性」を示すだけでは、そのシステムが論題を否定する理由にはならないと考えます。このように考えるのは、試合中に提示されたシステム全てが判断対象となるため、Permutationは単なる競合性のテストではなく、それ自体が判断の対象であるシステムとされ、Permutationのシステムの非命題性によっては、肯定側プランとの関係で非競合であってもPermutationのシステムを支持することで否定側に投票することがありえるということとも関係します。
この点についてはもう少し詰めるべき点もあると思われますので、他日を期したいところです。


5.3 論題充当性(Topicality)について
○ 論題充当性は独立の投票理由ではなく、システムの帰属(どちらを勝たせるシステムなのか)を定めるものと理解しています。(*1)
○ 論題充当性の評価はシステム全体についてされるところ、その評価に当たってはプランとして提示された各条項だけでなく条項相互の関係をも考察し、相互に矛盾している場合は全体としてシステムが非命題的であると評価することもあります。
○ 論題充当性の評価は、肯定側のプランが論題の合理的な解釈に合っているかを基準にします。(*2)
○ 選手から主張がなくても、論題充当性を取り上げることはありえます。普通の議論がCritic outされうるのと同じことです。また、論題充当性の議論が出ても、理由がなければ当然に無視します。(*3)

註1:3.1の説明との関係で詳しく述べると、ジャッジの役割は試合中に出されたシステムのうち最も望ましいものを選びだし、それが帰属する側に投票することと考えます。そこで、最も望ましいシステムが論題を支持する(肯定側に帰属する)ものか、論題を否定する(否定側に帰属する)ものなのかを議論するのが論題充当性の議論であるという理解です。
これが一般的な理解と異なることは承知していますが、具体的な判定結果についてほとんど違いは出ないと思われるので心配しないでください。ただ、私の考え方においては、例えば否定側がTopical Counterplanを出した場合、肯定側がNon-Topicalでも肯定側が勝利しうることになります。


註2:2.2との関係で付言しておくと、私は論題の解釈について、社会的文脈から意味を有するかどうかを考慮して解釈することが「合理的」だと考えています。すなわち、およそ両サイドに公平でなくまともな試合ができなくなるような解釈や常識に明らかに反する解釈については無視します。無視して欲しくない場合には、それなりの理由付けをするか、私の評価方法の問題点につき説得的に指摘してください。


註3:もっとも、肯定側には論題を解釈する権利がある程度認められるとも考えていますので、初期状態では肯定側プランの命題性についてはある程度広く認めます(事実上の推定)。とはいえ、自分たちのプランがきわどいという自覚のある肯定側は、プランが命題的であることの説明をしておいたほうがよいでしょう。


6 その他
○ 第二反駁まで伸びなかった議論も一応評価します。もっとも、重要な議論は位置づけを明らかにしたほうが判定に反映されやすいでしょう。
○ 反駁以降は立論で提示された論点についてのみ議論してください(新出議論―New Argument―の禁止)。
○ 既出の議論を援用して主張を追加する行為も新出議論になりえます。
○ 新出議論はディベーターの指摘を待たず判定から除外しますが、相手方が積極的に同意すれば判定から排除しません。
○ スピーチの速度などには制限を設けません。私が聞き取り、理解した範囲で全て判定に考慮しますが、聞き取りにくい場合に私の理解度が下がることについては自己責任でお願いします。
○ 議論に対してある程度のリアクションをとります。首を傾げているときは否定的な評価を、うなづいているときには肯定的な評価をしています。何となく分かると思うので参考にしてください(余裕のないときはリアクションのないときもありますが)。

ディベートフィロソフィー | 01:59:37 | トラックバック(0) | コメント(0)