2023-02-23 Thu
どうもご無沙汰しております。JDA秋季大会もぶっとばして半年ぶりの登場です。さて、今回は、先日発表のあった第28回ディベート甲子園の論題をテーマにします。中高ともに興味深い新論題ということで、面白いシーズンになりそうですが、今回は高校の電子監視制度論題を取り上げます。
この論題は制度をどのように仕組むかが難しく、イメージのしにくいところです。論題解説もでており、参考にはなるのですが、後でも触れる通り、論題の解釈に関する説明には不正確ないし不十分な点が散見されるところであるため、主にそのあたりをカバーすることを試みることにします。単なるスヌーピストの意見ですのでどこまで役立つか分かりませんが、選手の皆様の参考になれば幸いです。
なお、今季の高校論題は、平成28年度の司法試験論文試験公法系第1問(憲法)で類似の制度が出題されています(問題/出題趣旨/採点実感)。それだけ難しいテーマを取り扱っているということがお分かりいただけると思います(なお、出題趣旨には参考になるとともに異様にレベルの高い記載がありますが、このようなことが書けなくても十分合格答案は書けるので法律家志望の方はご安心ください。)。
この問題には今季論題で採用し得る具体的な制度の例が記されているほか、出題趣旨や採点実感では、電子監視制度についてどのような点が考慮される必要があるのかというヒントが色々と記載されていますので、参考にされるとよいでしょう。
第28回ディベート甲子園高校論題の私的解説(論題の解釈を中心に)
1 論題の解釈
今季高校論題は以下のとおり定められています。
「日本は有罪判決を受けた者に対する電子監視制度を導入すべきである。是か非か」
*殺人、性犯罪、強盗、その他肯定側の定める対人暴力犯罪により懲役または禁錮の有罪判決を受けた者を電子監視の対象とできる。
*電子監視の対象者に移動の制限を課し、常時 GPS 端末の装着を義務付ける。
この論題について、どんな制度を構築することができるでしょうか。以下、具体的に見ていきましょう。
(1) 電子監視制度の対象者
「有罪判決を受けた者」とは?
まず、この論題は「有罪判決を受けた者」を電子監視制度の対象としています。付帯文第1項からより正確に言えば「懲役または禁錮の有罪判決を受けた者」ということになります。
「有罪判決が確定した者」ではなく、有罪判決を受ければ足りるので、上訴せず、あるいは上告審で有罪が確定していない者でもプランの対象にすることができます。例えば、起訴後勾留されていたが保釈されていたところ有罪判決を受けて上訴した者で、再保釈された判決未確定の者(禁錮以上の刑の有罪判決の宣告があると保釈は取り消され、再保釈を要します。刑訴法343条)も対象となり得ることになります。他方で、一度有罪判決の宣告を受けても、上訴で覆され無罪となった場合、有罪判決は取消し又は破棄されたことになるため、プランの対象からは除外されます。
なお、論題解説の3~4頁にある例6は、有罪判決言渡し前に被告人勾留について保釈を受けているケースを説明するものですので、上記指摘とは矛盾しません。
論題の解釈とは少し離れますが、再保釈中の者については、判決が確定しておらず、無罪推定が及ぶべきであるにもかかわらず、人権侵害を伴う監視制度の対象にしてよいのかという問題が考えられそうです。プランで「有罪が確定した者に限る」ことは論題に違反しないと思われるので、そのような措置を取ることも考えられますが、一審で有罪判断されたことをもって一定の侵害措置が正当化される(例えば、刑訴法も上記のとおり有罪判決の宣告により保釈を取り消すことにしており、また刑訴法344条は再保釈が認められる場合を制限しています。)という考えもあり得なくはないでしょう。いずれにせよ、「有罪判決を受けた者」に、有罪が確定していない者も含まれ得るということは、意識しておいてよいと思います。
執行猶予付き判決も有罪判決なので、執行猶予中の者もこの論題の対象になります。
また、論題解説2~3頁では、仮釈放中の者については制度の対象として想定していないように読める記載がありますが、論題の文言上、服役中でも判決を受けた者に入るので、仮釈放中の者も制度対象とすることに支障はなさそうです。では、仮釈放中の者のみを対象にするというプランは許容されるでしょうか。懲役ないし禁錮の期間内のことでもあるため、制約はやむを得ない(刑務所にいるよりまし)という話もできそうであり、もし可能であれば流行りそうな雰囲気のするプランです。論題解説者はこのようなプランは対象外と考えているように思われますが、そういう議論はやめてほしいということであれば、「刑期満了後の電子監視制度」といった文言を採用することなどもできたはずであり、そのような文言が論題にない以上、仮釈放限定プランが排除されていると読む根拠は乏しいように思います。論題解説2頁左段の記載からは、今も仮釈放中は移動の制限があるので論題は実現済という考えであるとも読めるのですが、GPSによる監視はないので、これを付け加える点で論題は現状を変更する内容になっています。というわけで、仮釈放限定プランは論題を満たすように思われますが、それが肯定側のオプションとして有力であるとは限らないので、採用するかどうかは皆様の検討に委ねます。
どんな犯罪が対象になるのか?
付帯文の第1項では、「殺人、性犯罪、強盗、その他肯定側の定める対人暴力犯罪」で懲役または禁錮の有罪判決を受けた者を対象にすることが「できる」と定められています。
ここでは、「殺人、性犯罪、強盗、その他肯定側の定める対人暴力犯罪」という文章で「その他」という言葉が使われていることがポイントです。実は法制執務上、「その他」と「その他の」には大きな違いがあります。前者は、「その他」の前にある名詞と後ろにある名詞が対等な関係にあることを意味します。後者は、「その他の」の前にある名詞が後ろにある名詞の例示になっている、ということになります。「スヌーピー、ジャフバ、その他人気キャラクター」という文章は、スヌーピー(人気キャラクター)、ジャフバ(某団体会の広報キャラクター。誰も知らない)、人気キャラクターは並列の関係にあるので、人気キャラクターでないジャフバが入っていても問題になりませんが、これを「スヌーピー、ジャフバ、その他の人気キャラクター」に変えてしまうと、ジャフバが「人気キャラクター」の例示になってしまい、おかしな文章になってしまうというわけです(「スヌーピー、ピカチュウ、その他の人気キャラクター」なら大丈夫そうですが、ピカチュウを同じ黄色のウッドストックに変えたときに成り立つかはDebatableかもしれません。)。(※「その他/その他の」の違いに関する参考サイト)
付帯文に戻ると、ここでは「その他」が使われているので、殺人、性犯罪、強盗、対人暴力犯罪は並列の関係にあります。後述のとおり「対人暴力犯罪」が何を指すのかは不明なのですが、「殺人、性犯罪、強盗」は「対人暴力犯罪」の例示ではないので、暴力性のなさそうな性犯罪、たとえば盗撮や児童ポルノ所持といった犯罪も対象にできることになりそうです。
また、「対人暴力犯罪」についても対象にできるとされていますが、法律上、このような言葉の定義は存在しません。上記のとおり、「殺人、性犯罪、強盗」が「対人暴力犯罪」の例示ということでもありません(実際は例示と考えているのではないかと思いますが、論題検討委員には法律家が複数名含まれているので、例示としないよう敢えて「その他」を使っている可能性があります)。
「暴力」は物理的な有形力の行使(暴行)のみならず言葉による精神的な攻撃も含み得るところですが、電子監視制度の内容である移動の制限やGPSによる位置情報の把握の必要性という点で考えると、少なくとも近接した距離で人を攻撃するような犯罪を対象とすることが想定されているものと考えられます(このような考え方からは、そのような性質を有さない犯罪は「性犯罪」でも対象から除外すべきという結論も導かれます。)。定義がはっきりしないので議論の余地はありそうですが、プランを出す側からすれば、無理に対象を広げてアクションと無関係な対象を取ることはしないだろうと思いますので、このあたりが試合で問題になることはなさそうです。わざわざ「侮辱罪や名誉毀損罪も対象にしよう」と言い出すチームはいないでしょう。
最後に、付帯文の第1項が「できる」という言葉で終わっていることも重要です。ここからは、「殺人、性犯罪、強盗、その他肯定側の定める対人暴力犯罪により懲役または禁錮の有罪判決を受けた者」の全部を対象にする必要はなく、そのうち一部だけ対象にすれば足りるということが分かります。例えば、「性犯罪(のうち強姦、強制わいせつ等一部の類型)」のみを電子監視制度の対象にするプランも論題内だということです。
この点、論題解説3頁の左段下部には「今回の論題の付帯文は「殺人、性犯罪、強盗、その他肯定側の定める対人暴力犯罪」となっていますから、「殺人、性犯罪、強盗」の 3類型については、肯定側の設定にかかわらず、電子監視の対象となります。よって、肯定側はあくまでも、「殺人、性犯罪、強盗」の部分については、必ず電子監視の対象に入れる必要があります。」と書かれていますが、この記載は根拠を欠くばかりか付帯文の明文に反しているので、端的に言って誤りと考えられます。論題解説に拘束力はありませんが、誤解を招くので、同様の誤りを前提とする3頁右段の例4の説明とともに修正したほうがよいと考えます(そもそも、その上の方に「「電子監視の対象とできる」と書かれているとおり、今回の論題においては、「殺人、性犯罪、強盗、その他肯定側の定める対人暴力犯罪により懲役または禁錮の有罪判決を受けた者」のうち、その全員を電子監視の対象者にしなければならないわけではありません。」と書かれている――これは正しい説明です――こととも矛盾しています。)。
(2) 電子監視制度の内容
電子監視制度の具体的な内容は、付帯文第2項に「電子監視の対象者に移動の制限を課し、常時GPS端末の装着を義務付ける」とあるとおりです。電子監視というネーミングから直ちに想起されない「移動の制限」も含まれていることがポイントです。移動の制限とGPS端末の常時装着の両方を含まなければ、論題の言う電子監視制度には該当しないということになります。
移動の制限とは?
「移動の制限」の範囲や制限方法については、具体的な定めがないので、肯定側に裁量が認められそうです。
制限の範囲(対象)については、問題となる犯罪の類型等から、制限を必要とする具体的な事情ごとに設定することが考えられます。特定人への強い敵意に基づく犯罪であった場合、当該人物への接近を禁じるような措置が考えられますし、児童を対象にする性犯罪の常習者である場合、児童が通う学校等への接近を禁じることが考えられます。
もっとも、このように具体的な指定をするのではなく、「怪しい動きをした場合」に「必要な範囲で区域を指定する」という事後的・流動的な制限を課す方法も考えられます。目的達成の観点からはこちらの方が有効でしょう。
この点、冒頭紹介した司法試験の問題では、強姦等の性犯罪を念頭に「幼児を保育する施設又は学校及びそれらの周辺道路」や「公園又は山林及びそれらの周辺道路」という類型的に性犯罪に及ぶ危険性の高そうな場所を「一般的危険区域」と指定しつつ、監視の結果「監視対象者が一般的危険区域に立ち入った際の行動その他の事情により、当該監視対象者が性犯罪を行う危険性があると認めるとき」には、一般的危険地域の中で立ち入りを禁止すべき特定の場所を「特定危険区域」とし、立ち入りへの警告や禁止命令を出すという、上記両方の合わせ技的な制度――ここでは一般的危険区域の立ち入りは禁止されていないので、なるべく制約の度合いを低くするよう工夫する方向で合わせ技が使われている――を想定しています。
制限の範囲を設定する際に留意すべきは、その設定方法によって、必然的に、GPSで取得する位置情報の活用方法が変わってくるということです。制限の範囲を一義的に特定するのであれば、人間の判断を介在させずにGPSにより把握された対象者の位置が規制区域に入っているかどうかを機械的に判断するだけに留めるという措置も可能になりますが、具体的な危険性の有無を判断する(こちらのほうが移動の自由の制約度合いを低くできる可能性がある)場合、人間がGPSを見て「怪しい動き」かどうかを評価する必要性が出てくるため(AIがやってくれるということがあるのかもですが…)、プライバシーとしての移動経歴情報が取得されてしまうという懸念を避け難くなります。この点は重要ですので後でももう一度触れます。
制限をどのように実現するかという点については、違反した場合それを犯罪にするという方法(GPSにより違反の事実を確認することができます。)が考えられますが、論題解説にあるように、GPSで違反が確認されたら警告音がなったり捜査当局に通報が行くといった、より前のめりな措置を取ることも考えられます。SF映画よろしく、違反したら爆発する首輪的なものも論題内にはなるでしょうが、非人道的なので素人にはお勧めできないプランです。
位置情報の取得・利用方法
GPS端末については、取り外せないようなブレスレットなり首輪(!)で装着するということも考えられますが、制度の趣旨からすると簡単に外せないほうがよいことや、装置が見えるとそれ自体が差別の原因になりかねないということもあるので、体内にGPS機能付きのチップを埋め込むなどの方法も考えられそうです。この点も肯定側の裁量に委ねられるところです。もちろん、体内へのGPS埋め込みはそれ自体が身体への侵襲的措置であり人権侵害であるとの批判も可能であり、ディベート的には何となく議論しにくい感はあるものの、実際には無視し難い問題を構成するものです。
より重要であるのは、GPS端末で取得する情報の取り扱いをどうするかということです。これも肯定側の裁量に委ねられるところではあります。
情報の利用・公開を最小化するプランとしては、移動の制限のため必要な範囲にとどめ、当局も含めて位置情報にアクセスすることは認めず、制限範囲内に入った時に警告を受け取るだけにする、というものが考えられます。この場合、プライバシーの侵害は少なくなりますが、再犯防止等の措置の実効性を高めるという点では不十分なことが否めません。
これに対して、情報を最大限利用する方法としては、捜査当局や公衆(ないしは被害対象となり得る特定人?)がアクセスできるサイトで犯罪者の位置情報(さすがに公衆に公開する情報は匿名化すべきように思います)を確認できるようにする、といった制度も考えられます。例えば、司法試験の問題では、警察署に大型モニターを置いて現在地を常に確認し、性犯罪やその準備行為を行っている疑いがある場合には警察官が現場に急行できるよう見張る(例えば、仕事等と関係ないのに小学校の登下校路らしき場所をうろついているとか、何故か人気のいない山林の中にいるなどしていれば怪しいということになりそうです)という制度設計になっています。
制度の目的との関係でどこまでの利用が必要かという点と、それによるプライバシー情報の取得・公開による弊害を比較考量し、妥当な制度設計を考える必要があります。
そもそも誰がどのような形で監視を決めるのか
論題では、有罪判決を受けた場合に必ず電子監視制度の対象にするということにはなっていないので、電子監視制度の対象にするかどうかを誰がどうやって決めるか、ということも考える必要があります。
裁判所が判決とともに電子監視制度の対象にするか決めるという制度ももちろん考えられます。もっとも、再犯可能性を公判の中で審理することが適切かという疑問もあり、裁判所が監視の必要性を主体的に判断するというよりは、検察や公安委員会等の行政機関が個別の事情に基づき電子監視制度の適用を定めるといった仕組みも考えられます(いわゆるストーカー規制法の禁止命令も公安委員会が出します。)。裁判所への申立てをさせて司法審査を経る必要性を課すことも一案です。
監視を決める際には、監視の範囲や期間についても定める必要があるでしょう。また、一度監視が決まっても、更生が十分確認されたなど、監視の必要性が失われた場合、途中で取り消せる仕組みもあると望ましいでしょう(ディベートでデメリットを防ぐ議論とするには、プランの効力や実行可能性も説明できるようにしておく必要があります。)。
制度の目的
電子監視制度の目的としてどのようなものを取れるか、ということも問題になります。
この点、論題解説1頁では、「刑務所における懲役刑・禁錮刑等の拘禁刑の代わりに、毎日決められた時間帯の自宅待機を命ずる際に使われる制度」は想定外であり、「拘禁刑を終えて、社会へと復帰した元受刑者に対して、GPS端末を装着させることで、その行動を把握・制限する制度」が想定されていると説明されています(なお、論題の文言上、拘禁刑を終えたものに限られていないことはすでに指摘した通りです。)。前者のような目的による制度が論題外になるのかという点は議論の余地があるように思いますが、付帯文第1項が「懲役または禁錮の有罪判決を受けた者」を電子監視制度の対象としており、電子監視制度自体は懲役や禁錮といった刑罰そのものではないという理解を前提にしていると解されることからすれば、刑罰の代替として制度を用いることは付帯文1項に反するといえそうです。
ただ、このような解釈を普通の高校生が簡単にできるわけではないと思いますので、付帯文でもう少し分かりやすく注記するか、論題解説に解釈の根拠を付記してもよかったのではないかという気はします。
2 今季論題の展望
詳細を書く時間と能力がないため、ポイントを絞って若干思うところを記載しておくにとどめます。
問題となる権利
今回の論題では、「移動の自由」と「プライバシー」の2つが問題となります。論題の字面だけからすると後者のみが気になりそうですが、実は後者はプランの選択次第で(ほとんど)問題にならなくなる可能性もあるため、前者の方が本質的制約であるように思われます。
とはいえ、GPSによる監視は、一般的にはプライバシーの制約が問題とされるところです。
この点、GPS端末をひそかに車両に装着する捜査方法の違法性(無令状で行えるか否か)が問題となった最大判平成29年3月15日は、「GPS捜査は、対象車両の時々刻々の位置情報を検索し、把握すべく行われるものであるが、その性質上、公道上のもののみならず、個人のプライバシーが強く保護されるべき場所や空間に関わるものも含めて、対象車両及びその使用者の所在と移動状況を逐一把握することを可能にする。このような捜査手法は、個人の行動を継続的、網羅的に把握することを必然的に伴うから、個人のプライバシーを侵害し得るものであ」ると判示しています。
上記判示の意味を理解するため、位置情報によってどんなプライバシーが制約されるのか、具体的に考えてみましょう。位置情報を継続的網羅的に把握されるということは、その人がどういう行動をとっているかが把握されてしまうこととイコールです。移動経路を追っていけば、その人の職場、行きつけの店、趣味(例えば特定アイドルのライブがある日にその会場にいる事実等から推察できます。)等をある程度想起することが可能です。想像してみるとかなり辛いところがあるでしょう。
このように、GPSで侵害されるプライバシーは、前科のあるなしにとどまらない、異質のものであるということができます。
継続的な把握を通じてプライバシー情報を把握することが問題である(その瞬間にどこにいるかという情報だけでは高度なプライバシーになるとは限らない)ということからは、個々の位置情報を匿名化して特定個人との紐づけができないようにすれば、プライバシー侵害の程度は低く、公開しても問題になりにくいという考え方はできるかもしれませんが、例えば、周りに人がいないところでスマホから情報サイトを見るとその人だと分かってしまう、といった形で特定される可能性は常にあります(この場合、前科情報を知られるという意味でのプライバシー侵害も問題になり得ます。)。
いずれにせよ、制度により達成しようとする利益(すなわちメリット)との関係で、必要な限度を超えて位置情報を利用・公開することには、プライバシー侵害の問題が生じ得るということになります。特に、位置情報を経時的に把握できるようにする場合、様々なプライバシー情報が取得できてしまうという点で危険性が大きいということが意識される必要があるでしょう。さらに、それを捜査機関が取得し、それに基づき対象者の行動を制約するということも考えると、国家により行動を把握され、制限を受けるという、高度の権利侵害を構成することになります。
移動の自由については、言うまでもなく行動制限であり、正当な理由なく認められるべきでない権利侵害であることは論を俟ちません。もっとも、日本の法制度上、いわゆるDV防止法上の接近禁止を含む保護命令や、いわゆるストーカー規制法上のつきまとい等の禁止命令といった形で、一定の事由による移動の自由制限を課す制度があります。GPSで制約の実効性を担保するという点で質的差異はありますが、どのような根拠で、どのような行動を制約するかということを考える上では参考になりそうです。
各犯罪との関係で、移動の自由を制約する必要性や範囲としてどういうものが考えられるのか(おそらく事案による)ということが問題になりそうです。具体的にどういう制約が想定されるのかという話のほか、制約の必要性や相当性を判断権者がよく判断できるのか、といったことも議論になり得るところです。
抽象論だけでなく具体的な話をしよう
選手の皆様におかれては、この手の論題では権利論が大事だ、ということで、いろいろと大上段の議論を試みることになるでしょう。もちろん抽象的な権利論も大事ですが、それと同じくらい、というかそれ以上に、制度の仕組みや、それによって何が実現し、どんな利益が制約されるのか、という具体的な話も重要になってきます。
プライバシーだ!移動の自由だ!再犯予防、生命権だ!といった話だけでなく、それらの権利が存在することを踏まえて、どのような制度を設計するのか、その制度で何が実現され、その中で対象者が何を失うのか、といったことを具体的に議論できるようになる必要があります。そのためには、単にプレパして弾薬を集めるだけでなく、そこで何を言っているのかを消化する必要があります(この論題に限った話ではないですが)。
もちろん、皆様には、そのような個別具体的な考察にとどまるのではなく、社会としてこの論題を受け入れるべきか否かという答えをどのように導き出すかという問題への回答も求められています。しかしながら、具体的な話を欠いたまま抽象論に飛びつくのではなく、具体的思考を積み上げる、あるいは抽象的な理念を掘り下げて具体化していくといった形で、地に足をつけた議論をすることが大事です。
例年通り、挑戦しがいのある難しい論題ですが、皆様が、今シーズン、具体的な思考と抽象的な考察を交互に行き来しつつ、議論を深め、議論を楽しまれることを期待しております。
2022-08-24 Wed
間が開いてしまいましたが、今年のディベート甲子園も終わりました。優勝された関西創価中学校、岡崎高等学校の皆さま、おめでとうございます。また、地区予選含めて参加された全てのチームの皆さま、お疲れ様でした。今年の全国大会は、久々の対面方式での参加となりました。最初の方の試合では対面に慣れず、コミュニケーション面で損をしてしまったチームもあったように思いますが、対面での試合にはオンラインとは違った臨場感があるように感じられました。もちろん、オンラインならではの利便性というものもあり、今後は両方の良さを組み合わせた形で大会や練習会をやっていけるとよさそうです。
さて、全国大会の感想ということで、中高それぞれに共通するところを中心に、この部分がもっと論じられてもよかったのではないか、論じ方についてさらに工夫できるのではないか、というところを中心としたコメントを書き散らすことにします。決勝戦を詳細に振り返るというのが過去のスタイルだったのですが、歳を取るとなかなかそういうパワーが出ないのと(そういえば26回大会も高校決勝だけ感想を書いて終わってしまっていますね…。)、今大会はNADE公式Youtubeチャンネルでリーグから試合の音源が公開されており、決勝に限らず熱戦をたくさん見ることができますので、その視聴の際に役立つよう、ジェネラルなコメントを意識するようにしました(これは完全に言い訳です)。
というわけで、以下、順次感想めいたことを書いていきます。
中学論題のポイントとさらなる展望
今季中学論題(中学生以下のスマホ禁止)については、いくつか試合を見ただけですが、スマホ禁止後に対象児童がどのような動きに出るか――代替機器を用いることになるのか――という点の分析を比較的精密に行ったチームが散見され、そのあたりの議論で成果を上げた学校が上位に食い込んだ、といった印象です。決勝戦でも、スマホを使う児童の動機と、代替機器の使用が可能であることを論じてメリットの解決性を攻撃した否定側の議論が印象に残ったところです(ちなみに私はこの試合の副審を務めましたが、私は「この議論は主審にはむちゃくちゃ刺さりそうだなぁ」と思いつつも自分ではこの論点をやや肯定側寄りに取り、デメリットを小さく見て肯定側に入れました。)。
プラン後の動きを分析することはもちろん重要であり、このあたりを丁寧に論じることが勝利につながることは言うまでもありません。ということでこのあたりは結構見ごたえがあったのですが、小中学生のスマホが禁止された後の世界で小中学生はどう考えるか、という観点が入っても面白かったかもしれないという気はしています。例えば、スマホを持っていて取り上げられた場合は「もう一度使いたい」と思うでしょうが、一度も使ったことがない児童ばかりになればそこまで執拗には求めない、という分析はあるかもしれません。アンキモ(食べたことのない中学生も多いでしょうが、すごくうまい)を食べたことがない中学生が「アンキモ!アンキモ!」とはならんだろう、ということです。もっとも、親のスマホやら家族共用タブレットやらでネットの楽しさに触れられてしまうので、もはや後戻りはできないのだ、ということが言えるかもしれません。また、上記の議論は肯定側から投げかけることを想定していますが、否定側から「スマホを奪うことでネットリテラシーへの親しみが損なわれる」「親が介入しやすい小中学生からスマホを通じてネットに慣れていく方がよい」といったデメリットにつなげていく展開もあり得るところです。後者のようなデメリットが見られなかったようであるのは、資料が少ないからかもしれませんが(別の端末にシフトするという反論と整合しないと思ったのかもですね)、やや予想外でした。
その他にポイントになるかなと思っていたのは、「中学生以下」に限ってスマホを禁止するということをどう考えていくかという点ですが、これはなかなかディベート的に議論にしにくいからか、ここを問題とする議論は少なかった印象です。「どうせ高校でスマホにはまるので意味がない」といった解決性への攻撃としてたまに出てくる程度ですが、これではメリットを切りきれないので、勝負をかける議論にはなりにくいところです。「中学生以下は特に保護の必要性が高い」という重要性の付け方を試みるチームはいくつかあったように思いますが、デメリットと比べる際にこれを効かせていくにはひと工夫必要なところで、その工夫まで出しきってメリットを伸ばしきるという展開も私が知る限りは見られませんでした。
この要素を中心に議論するためには、スマホに対して社会はどう向き合っていくのか、という大上段の話に取り組んでいく必要があるように思われます。スマホの危険を考える肯定側からは、保護の必要性が高いというだけではなく、多少の利便性があっても一定の発達段階までは禁止が正当化されること(例えば自動車やバイクは小中学生でも乗れれば便利だと思いますが小中学生は運転できません。まわりに危険を及ぼす点でスマホより規制の必要性は高いですが、他方で、災害時に連絡を取るということよりははるかに大きい利便性があります)を、スマホの性質を踏まえて論じていくことが考えられます。他方で、否定側としては、スマホの利便性を児童の側の権利として議論してその制限の不当性を論じたり(その意味で「災害時の安否確認」のような議論だとこの筋で盛り上げることは難しいでしょう)、ネットや電子機器との関わりが不可欠になっている現代において小さいころからスマホに親しむことの教育的意義を論じたりすることが考えられます。このような権利や意義を論じる上では、多くの学校で貸与されているとされるGIGAスクール端末なるものへの評価も考える必要があります。
4分でそこまで議論することは難しいものの、決勝戦その他の試合でのスピーチを聞く限り、皆様にできない議論ではないだろうと思います。来年以降大会にチャレンジされる方や、高校で引き続きディベートをする方が、こういった大上段の話を具体的な議論で組み上げていく論じ方に挑んでいかれることを期待しております。
高校論題のポイントとさらなる展望
今季高校論題(石炭火力全廃)は引き続きJDAで扱われるということで、猛者たちがさらに掘り下げていくはずですのでここでコメントする価値は低いと思いますが、とりあえずの所感を書いておきます。なお、前提として、総じて良く調査されており、難しい論題に迫る興味深い議論が色々見られたということを最初に記しておきます。
少なくないチームが、エネルギー安全保障の観点から電力の安定性が重要であるという論陣を張っていたのが、今大会で目立ったところです。この発想は非常にまっとうであり、好感度の高いものだったのですが、「だからこのメリット/デメリットは重要だ!」という話で終わってしまい、エネルギー政策をどう考えていくべきか、というところまで昇華しきっていなかったというのが率直な印象です。エネルギー安全保障の重要性を説く否定側で言えば、石炭が安定しているかどうかという話以前に、選択肢を減らすことそれ自体が安全保障上マイナスと考えられ、自然に再エネ等に転換していく可能性や電力以外の分野でも環境対策は考えられるといった議論を出しつつ、わざわざ縛りプレイをする合理性はない、といった話をすることもできたように思います。他方で肯定側としては、エネルギー転換がすぐには進まない&放置しておいては進まないこと(これは論じているチームも散見されました)を前提に、石炭を含まない(再エネなりなんなりで代替した)電源構成が理想であるということを積極的に述べていくことになります。この「理想」は主に環境面を念頭に置いたものが想定されますが、石炭も海外に頼っているので、国内で再エネやら原発やらでやっていくほうがエネルギー安全保障上いいんだ、という切り返しも考えられそうです。
メリットデメリットの華々しい応酬ももちろん重要ですが、その前段階での構図をどうやって作っていくか、見せていくか、というところは、さらにもう一歩工夫があってもよいのかなという気がします。一回しか立論がないこともあってなかなか厳しいところはあるのですが…。
あとは、代替発電として何を選ぶかという話ですが、これはほとんどのチームが再エネ中心、バックアップをLNGやら揚水発電やらにするといったプランでした。しかし、ジャッジルームでも話が出ていたのですが、原発を代替発電に持っていくという選択は有力だったようにも思います。安全性はもちろん課題ですが、新しい型の原発は安全だといった話もできそうですし、作ってしまえば再エネより安定しそうな気はします。精査した結果再エネが最高だったということであればそれはそれでよいのですが、議論を聞いている限り、そこまで再エネが信頼度が高いようにも思えず、再エネ以外の道がもう少し考えられてもよかったのではないかという印象です。
具体的に議論するということ
これは中高の試合両方について言えることですが、「具体的に議論する」ということをより意識できるとさらにレベルの高い議論につながりそうだということを思いました。
具体的に議論するとはどういうことか。ここでは、あるアクションの結果や場面を精密に描写することを指します。それによって、聞き手に「どうなるのか」というイメージを抱かせることができます。
実際に問題になった争点を例に考えていきましょう。
中学論題における、スマホを禁止された生徒が別の端末に移行するという議論を例にすると、単に「小中学生は」という主語で語るのではなく、「メリットで問題となっているネット被害に遭うような小中学生は」という主語を考えることで、そういう生徒はどう行動するか、ということをより深く論じることができます。ネットでのつながりをより強く求めたがる、好奇心が強い、といった要素から、別の端末で同じようなことをやりたがるということを説得的に論じられるでしょう。
中学論題でもう一つ例を出すと、デメリットでよく見た「災害時の連絡手段」という話で、いったいどんな場面で「小中学生にスマホ持たせて良かった」という話になるのかということが考えられます。どんな災害で、どのくらいの頻度で起こるのか、という話は見ましたが、仮に大地震などの災害を考えた場合でも、小中学生だけで周りに大人がいないような「安否が心配になる」場面がどのくらいあるのだろうか、ということは考えられます。学校にいる時間であれば先生もいるでしょうし(学校にはスマホを持ち込めないという話もあるようですね)、塾や習い事の行き帰りであれば、山の中を歩いて通うわけではないでしょうから、周りに大人がいないということはないでしょう。他方で、連絡が取れないこと自体が心配につながる、ほかの大人にスマホを借りても親のLINEには連絡できない、ということはあるのかもしれませんが、それについても、その「心配」はどの程度保護に値するのか、心配して助けに行くような親はLINEで連絡が取れたら安心して迎えに行かないということになるのか、といったことを考えていくことができます。
高校論題でも同じようなことを考えることができます。一番わかりやすいのは、代替発電の現実性でしょう。再エネの議論で、ポテンシャルは何億Kwhだとかいうことが出てきますが、ポテンシャルってなんだよということをまず考えなくてはなりません。私も食事制限や運動をすれば20kgくらい痩せるポテンシャルはあると思いますが(というかそのくらい痩せてようやく標準くらいなのですが)、じゃあ痩せられるのかというと、そう簡単ではありません。フィアットはかかるのでダイエットには挑むのでしょうが、ストレスで大きなデメリットが発生する可能性があります。再エネだって、ポテンシャルがすごいからといって、そこまで増設することが簡単かというとそんなことはないでしょう。1億kwhの発電をするためには風車を何台、太陽光パネルを何平米置けばよいのでしょうか?いくら金がかかるのでしょうか?資材や人手はどうするのでしょうか?どのくらい時間がかかるのでしょうか?どこに設置するのでしょうか?その土地は誰がどうやって手配するのでしょうか?ゲームのようにボタンを押すだけで建つわけではないし、放置していれば風車がニョキニョキ生えてくるというものでもありません。肯定側で再エネへの代替を論じるのであれば、スピーチの時間的制約はあるとしても、具体的な増設計画やシミュレーションなどをある程度論じる必要があるでしょうし、否定側は上記のような問題を質疑段階から徹底的に叩くことができます。
なお、この観点から面白いなと思った議論は、ポテンシャルは北海道など一部の地域に偏在しているという話でした。遠くまで電気を送ることはできないという分析とセットになっていて、なかなか説得的な議論だった印象です。「肯定側は北海道と東北の電気が代替できるという立証しかできていない!」といったスピーチをすれば、ジャッジにも強力なインパクトを与えることができます。
時間が限られている以上、全ての論点でここまで細かく議論していくことはできないので、メリハリをつける必要はありますが、ここぞという論点で具体的な議論を展開していくことで、試合のペースを一気に引き寄せることができます。
結論(オチ)を考えて議論する
これはどちらかというと議論が複雑になりがちな高校でよく感じたことですが、何のためにその議論をしているのか、ということがよく分からない議論があるように思いました。
例えば、石炭への投資が今後進むだとか進まないだとかいう話や、世界が脱石炭に向かうかどうかという話がやたら盛り上がる試合がいくつかあったように思いますが、そのいずれの試合でも、そこを解決するとどうなるのかというオチが分からないまま議論だけが伸びているということになっていました。その結果石炭が今後入手できなくなるとか、世界も石炭に戻ってくるので日本が使い続けても問題ない(あるいは日本だけハッスルしても解決性がない)といったところまで詰め切ってもらえば分かるのですが、石炭が今後どうなるかという話で終わってしまうと、判定には役立ちません。目の前の議論を否定することが反論の目的ではありません。何のためにその反論をするのか、ということを意識する必要があります。
上記とは少し角度の違う話として、よくよく考えるとその議論で本当に自分たちの立場をサポートできているのか、ということもあります。分かりやすい例として、高校決勝の肯定側が出した「石炭火力は不安定だ」というメリットがあります。一見面白い議論なのですが、自分たちもLNG火力を補助電源にしておきながらどの口でそのメリット出してるんだという話を措くとしても、よくよく考えるとこの議論には大きな疑問があります。それは、仮に石炭火力が不安定だからとしても、だからといって辞めてしまう理由になるのだろうか、ということです。それなら一番良い選択肢は、石炭はそのままにしておいて、肯定側によれば安定しているという再エネも増やしていく、ということではないでしょうか。プランを取らないと不安定な石炭火力への依存が増すので「石炭禁止」で大きく流れを変えないといけない、とまで言えれば、Counterplanの出せないディベート甲子園では成り立つ余地もないではないですが、JDAでは「石炭は今程度維持して後はAffのいうとおりにしましょう」とやられたら終了です。
目先のインパクトらしきものだけを見るのではなく、それって結局どういうことなんだ、オチとして成り立っているのか、ということを一歩引いた目で見ることで、思わぬ弱点が見えてくることがあるかもしれない、ということです。
難しいけどディベートはやっぱり楽しい
ということで、色々と課題めいたことを書いてしまいましたが、実際の試合ではそれぞれに選手のプレパの蓄積や工夫が表れており、見ごたえのある試合でした。何より、久々の対面での大会となり、互いの息遣いや緊迫感が伝わってきたりもしました。画面に向かって講評を垂れ流すオンライン大会と異なり、直接お話しする機会ができたことも、ジャッジとして嬉しく思いました。大会3日間を通じて、改めて、ディべートの楽しさを再確認できた思いです。そのような機会をいただけたことにつき、選手やスタッフの皆さまにこの場で御礼申し上げます。
また来年、楽しい試合がたくさん見られることを楽しみにしています。といっても、その前にJDAがありますので、楽しみはまだまだ続きますね。石炭火力に半年取り組んだ高校生の皆さまも、JDAを観戦されるなどして一緒に夢の続きを追いかけましょう。
2021-08-11 Wed
ジャッジ講座は予定通り間に合わず、今年のディベート甲子園も終わりました。参加された皆様、大変にお疲れ様でした。初のオンライン開催でしたが、オンライン化したためか練習試合を重ねてきた様子も伺え、中高ともに全体的にレベルの高い大会でした。望むらくは対面での大会再開ではあるものの、オンラインの良さも活かしたポストコロナのディベート実践が実現することが理想であり、その可能性を大いに感じさせる大会であったように思います。今回は、高校決勝(創価 vs. 慶応)について振り返っていきます。結果は1-4で否定側の慶応高校が優勝しました。試合の判定自体は主審を務めた山脈こと竹久氏の講評が分かりやすくまとめているのでそちらを聞いていただければよいのですが、私自身は肯定側が勝ったかなと思っていました。このあたりの違いは、私のスピーチの好みによるところが大きいのですが、以下では、メリットとデメリットに分けて決勝多数意見と自分の判定を対照しつつ、今大会を通じて安楽死論題について考えたことを若干述べることで、今季論題の私なりの総括をすることにします。
メリットの評価(~1AR)
メリットは、末期患者が他人に依存しないと生きられないなどケアで緩和しきれない尊厳ないし自律の喪失による苦しみ(スピリチュアルペイン)を問題とするものでした。終末期の患者にのみ安楽死を認める理由との関係で、精神的、肉体的苦痛という話より根源的なところに踏み込んだ、完成度の高いメリットでした。ただ、解決性が「安楽死は安心を得るためのお守り」といった話になっているのは、スピリチュアルペインとの関係ではちょっとよく分からないところがありました。スピリチュアルペインに苦しむ(苦しもうとしている)患者にとって、いつでも死ねるということが安心につながるのか、というのは、痛みほど直ちには言えないのではないかというように思います。が、試合では問題になりませんでしたし、それが直ちにメリットを否定するものでもありません。
これに対する1NRの反論について、1ARの再反論とともに順に見ていきます。
精神的苦痛は取れるという話は、スピリチュアルペインに対応しているのかよく分からないのと(余談ですが、日本緩和医療学会の「がん患者の治療抵抗性の苦痛と鎮静に関する基本的な考え方の手引き 2018年版」のⅡ章やⅧ章を読むと、反駁資料に出てくる「治療抵抗性の苦痛」はスピリチュアルペインには対応していないようです。この資料が使われたのは聞いたことがないですが、鎮静についてかなり詳細に論じており、結構使えそうです)、最良のケアでもダメとか、現に希死念慮が出ているという肯定側の分析との関係で、内因性を切るには弱い印象です。山脈も首をかしげているところであり、1ARでも同様にフォローされています。
死の願望は持続しないという話と、いつでも生きる希望を取り戻すという話は、撤回できるかどうかという話に依存するのと、「生きる希望を取り戻す」話は、おそらく尊厳や自立を失ったまま戻らないであろう末期患者に当てはまるのかという疑問があるところです。このあたり、メリットが苦痛の中身に踏み込んでいることに十分対応できていないうらみがあります。関連して、なぜ将来の可能性で今の苦しみから解放する必要性が否定されるのかという指摘がされていた点は、説明が足りない感はあるものの、一理ある話に思えました。死にたくなるほどの苦痛と緩和が繰り返すということだとすれば、結局総体として解放されたいという気持ちも分かりますし、完治の見込みがない末期という状況を考えるとなおさらそう思えます。このことは後述するうつ病の論点で1ARでも言及されていました。
判定を分けるのは、死を望む患者は抑うつ性錯乱のせいで死にたがっているだけという反論の成否です。末期でもうつ病は治るが見分けにくく、そういった患者を死なせることは患者の利益に反するという話で、死の願望が病気のせいだということになると、メリットのストーリーは切れていくことになりそうです。ただ、これもスピリチュアルペインに対応しているのか、ということにはよく分からないところがあります。抑うつで錯乱しながら、自分で自分のことができないので死にたいです、とか、終末期鎮静は受け入れられない、といったことを言うのだろうか、という疑問があるところです。これに対して1ARの返しの第一は、ALS患者の例を引いて、うつ病以外でも死を望む患者がいるというものですが、引くのはそこではなくてスピリチュアルペインではないかという疑問があります(ALSでうつになる人もいるでしょう。ちょっとググったらそういう話も出てきます)。返しの第二は、うつ病でも意思決定に問題はないというもので、これは良い反論になっていると思います。返しの第三は、終末期になってまで死の選択を制約する理由になっているのかというもので、これはなるほどと思うのですが、否定側は終末期でもうつ病は治るということを言っているので、それとの関係で微妙なところはあります。
デメリットの評価(~1AR)
デメリットは、現状患者の家族にとって介護が負担であるという現状を前提に、プランを取ることで本当は生きたいと思っている患者が家族からの圧力を感じて安楽死を希望し、医師も患者の本心を見ぬけず撤回も難しいので不本意な安楽死が生じるという話です。弱い立場にある終末期患者を保護すべきとの考え方が随所に見えて、これもよい立論でした。
これに対する1ARの反論を見ていきます。
憎しみを持っている家族との関係で消極的安楽死は既に行われている、という固有性に対する反論は、肯定側の分析に比べて深く、今はやろうと思えばできるのかなという心証までは行けそうですが、プランで予想される積極的安楽死の実施状況と同程度まで行われているのかということを考えると、ちょっと苦しい印象です。(消極的安楽死は治療中止で死ぬほどの直前にしか行われないので)対象が違うといっても時期的な問題にすぎない、というスピーチも、それを言うなら末期患者もほどなくして死ぬわけで、スピリチュアルペインも消極的安楽死で少しだけ早く解放されることと比べて時期的な違いに過ぎないのではないか、ということだって言えそうで、やや乱暴です。ここで勝負を決めることは難しそうです。
家族を思って死ぬことの何が悪いのかという話はさすがにそれだけで取れないとして、家族が止める、日本人は特に延命を望む、という話については、ある程度デメリットを削る部分もあるでしょうが、止めない家族もいそうだし、患者がどう受け止めるかというところまで否定側の説明をフォローできてはおらず、デメリットを否定するまでの踏み込みには至っていないところです。
死ぬ主な理由は自律が損なわれることだ、という反論は、立論の議論を引っ張ってくればよかったのに、かえって36%が他人の厄介になりたくないので死んでいるようだという話が出てきて、デメリットをサポートしてしまっています。
最後に、撤回できないという話は、推論に過ぎないというカードチェックは浅いですが(ALSの例であり安楽死一般に当てはまるのか?ということ等突っ込みどころはあるが…)、解決性を参照しているところは、説明不足ですが一応「薬をもらったが死んでない」ということで返しにはなっている気がします。その例とプランが対応しているのかは怪しいですが…。
ということで、デメリットは削れているもののそれなりに残りそうではないかという感触です。実際圧力を受けていないことが海外で確認されているといった、直接バッティングする議論も交えて叩くなどしたほうがよかったのではないかという気がします。
第二反駁を踏まえた評価
おそらくここまでの評価は決勝ジャッジともそう違わないのではないかと思うのですが、その後の第二反駁をどう見るかで判定に差が生じているように思われます。ということで両第二反駁を見ていきます。
2NRは最初に患者の利益にならないと決定を尊重すべきといえないので、弱い個人が死んではだめだということで、デメリットの総括からはじめました。自分たちの立場を貫くという点で最後まで一貫しており、その勢いには見るべきものがありました。
個々の論点について、固有性の返しについては、「肯定側のあげる『やったことある』は一回でもやったことがある人の話かもしれない」というものでしたが、一回でもやってたら否定側の分析とはバッティングするのではないかということで、ここは返しとして失敗しているように思います。ただ、その後で、少なくともLinearには残るし、それも積極的安楽死はより早い段階でできる等対象が拡大するという話は、まぁそうでしょうということで、結果的には返せています。その他の反論は、デメリットが残っているという話をしており、これはまぁ肯定側の議論が詰め切れていないのでそのとおりということになろうかと思います。
最終的なまとめとして、選択肢をうまく選べない弱い個人を優先すべきということを強調しており、ここが否定側の勝負どころなのだと思います。個人的には、このあたりの話は単にインパクトを引っ張っているだけで、メリットの想定する対象者との関係をどうとらえているのか(ある程度は重複するのでしょうが、自律を大切に思って死ぬ人と、家族に申し訳ないと思って死ぬ人には重ならないところがあるように思います)、といった説明がないのに、ちょっと上滑りしているという感じを受けました。私は、価値の議論について、単に伸ばされただけで評価することをしないので、ここは刺さりませんでした。
メリットに対する反論は、うつ病で死にたくなるという話に絞ってきています。意思決定能力に関する1ARの資料が仮想実験にすぎないという話は、証拠もないしちょっとよく分かりませんでした。ただ、見逃しやすい、ということは伸ばしていて、うつ病のせいで死にたくなる人もいること自体は1ARでも否定できていないように思うので、そういう人も混じってくることをどう考えるか…ということになります。ここも仔細に見ると、肯定側が想定するスピリチュアルペインで死にたい人と、うつ病のせいで死にたい人は被っていないようにも思われ、そうすると否定側の議論はデメリットのリンクを追加しているだけでNew Argumentではないか、という見方もできなくはなさそうです。肯定側から指摘がなければそこまでは取らないと思いますが、内因性を否定できているというためには、もう少しスピーチがないと厳しそうに思われるところ、デメリットの深刻性に引っ張っていく2NRのスピーチは、戦略としてはそういうものだろうと思いつつも、個人的には腑に落ちないところがありました。
続いて2AR。全体的にとてもよく整理されており、分かりやすいスピーチでした。
メリットについて、ケアでも不十分というところは十二分に説明されフォローしきっています。死にたい気持ちが両価的(行きたい気持ちと同居している)という点については、説明できてはいるのですが、末期であるとなぜ両価的であることを無視してよいかということの説明は実は不十分に思えます。この部分はうつ病の話にも関係してくるところです。一番重要なうつ病の話は、何となく返っているのですが、他の部分に比べるとやや反論が錯綜しているように思いました。まず、メリットが想定する理由で死にたがる人がいる(それが多い)ことを確認してそこのメリットを残しつつ、うつ病で死にたがっている人について、判断能力の有無について再反論を処理した後、判断能力があればその判断を尊重してよい、たとえ治る可能性があったとしても終末期であることなどを踏まえれば選択を尊重すべき、といった感じで論じていくべきものでしょう。特に最後の点は、治ったとしてもスピリチュアルペインの原因は解消されないとか、見逃されるのであれば結局治らないのだから、見つけることができていればという仮定でもって、その時点での患者の意思を否定するのはおかしい、といった議論ができたと思います。ただ、個人的には、2NRもここを十分掘り下げていたとは思われないことから、意思決定能力があるという話で十分返っているのではないかと考えたところです。
デメリットについて。一応残っているので固有性を伸ばしており、言っていることはもっともですが、ここだけで切れるものでもなく、そこまで時間をかけるのかという感はあります(「そこ一応やるんだ~」的なジャッジの反応もある)。時期的な差に過ぎない、という話も、そんな話かねというところで、ここで勝敗は決まらないというべきでしょう。
患者が止める云々という話は、「愛が勝つ」とか「氷山の大きさを示せていない」とか、プレゼンとしては秀逸で、実際分かりやすくはあったのですが、否定側のストーリーを切りきるところまではいけないところです。これは1ARから言うべき話なのかもしれませんが、メリットで述べられているような自律の欠落に苦しむ状態と、家族への心配(圧力という形で感じる)は実は重なっていて、家族への申し訳なさ自体がスピリチュアルペインだ、ということは言えるのかもしれません。いわゆるGood Death的な話でもありますが、今回のメリットからはそういう話が出てもよかったのではないかという気がしています。
結論として、それぞれがそれぞれの議論を立場毎にアピールし、分かりやすくまとめてくれていたのですが、最終的にメリットとデメリットが交わることはなかったように思います。正確には、否定側のほうが深刻性をゴリゴリと当てていた点で無理やりデメリットをかぶせている点で交わらせるようにしていたところはあるのですが、肯定側はそれには応接していません。
私としては、上述のとおり、デメリットのかぶせ方が不十分だと思ったのでそこには乗らず、スピリチュアルペインの苦痛を訴える人の解放というメリットがうつ病の論点を踏まえても残っているということで、削れたデメリットよりメリットを取って肯定側だと判断した(重要性と深刻性の話は明示の比較もなくどっちもどっちと思った)のですが、冒頭に述べた通り実際は1-4でした。ということで講評を簡単に見ていきましょう。
決勝多数意見との相違
講評を聞く限り、決勝多数意見と判断が大きく違うように思われるのは、やはりメリットにおけるうつ病の観点です。多数意見も色々な意見があるようですが、メリットで言われているような理由で死を望む患者もいることは認めつつも、うつ病のせいで死にたがっている人を死なせることはデメリットの深刻性で言われている観点から問題であるという点や、治療の余地があったり見逃される可能性を考えると正当化できないような安楽死が相当数あるのではないか、という判断が多かったようです。肯定側の言うスピリチュアルペイン的な理由で死にたい人の中にもうつ病の人がそれなりにいそうだと考えると、その分は確かに解決性を削るとも言えそうです。
本当は、スピリチュアルペインとうつの影響は併存しうるのではないか、併存している場合その死の願望は否定されるべきなのか、等いろいろ難しい問題はありますが、この試合でそこまでは議論されていません。私は、(観戦していた時に先の併存云々の問題まで分析的に考えてはおらず)少なくとも判断能力にはそう問題なさそうだし、メリットで論じている対象者の事例を正当化できなくするような事情とまでは言えないのではないかと考えたわけですが、ここは、否定側がデメリットをかぶせていったことも含めて色々と判断の余地があり、私のような肯定側の判断が必ずしも多数派ということでないことはそうだろうと思います。
今季論題についての雑感
決勝戦をはじめとして、今季の高校論題の議論は大変水準が高く、過去の同種論題の議論と比べても格段の進歩があったと思います。春季JDAと比べても遜色ない、あるいはより深まった論点もあり、安楽死論題のかなり核心的なところまで迫れていたのではないかと思います。私をはじめジャッジにとっても発見が多く、選手の皆様の努力には敬意を表します。
上記決勝の感想でも触れましたが、肯定側が想定する「安楽死を望む患者」と、否定側が想定する「安楽死を選ばされる患者」(ここにうつ病の影響で安楽死を望む患者が入るのかどうかは議論の余地がある)は動機に重なるところがあるのかもしれないものの、それぞれ別の対象を構成しているように思います。とすれば、今季論題の各種論点は、①動機が重なる患者の安楽死をどう評価するか、②安楽死を真摯に望む患者の意思と、安楽死を選ばされてしまう患者の防止のどちらを尊重すべきか、という2種の課題に大別できそうです。
①については、そもそもどういう重なりがあり、どちらが主因なのかという分析も重要ですが、それはディベートでは(でも)限界があるところです。重なりがある場合に、全部ひっくるめて死の質を高める要素として考えられるのではないかというのが所謂Good Deathの議論ですが、死にたくないという気持ちが混じっているときには死を選ばせるのはよくない、というのも直感的に肯定できるところです。このあたりは、具体的に患者がどういうことを考えるのかという要素の細かな分析や、終末期という状況に置かれた患者の意思決定の在り方をどう考えるかといった問題があり、今回の決勝戦で両チームが論じていたインパクトの議論のように、終末期においてはQODを意識すべき(もっとも、QODって何なんだ問題はある)とか、終末期という生きるか死ぬかの場面で、生きたい人が生きられる状態を実現すべきだ、といった様々な考え方があり得ます。どれが答え、ということはないのですが、今大会では、少なくないチームが、このような難しい問題にある程度アプローチできており、大変刺激的な経験となりました。
②については、今決勝で立論を聞いた感じだともう少し議論されるのかなと思いましたが、案外ぶつかることはなかったように思われます。正確に言えば、立論上ぶつかっているのですが、最終的なまとめの中では、メリットの想定者とデメリットの想定者の「両方が」いるということがあまり意識されず、そのどちらを優先すべきかという議論がされなかったということです。これは他の試合でもあることです。①の問題よりは簡単なのですが、かえってそのせいでフォーカスされにくかったのかもしれません。あるいは、両方がいるというまとめ方に不安があったのかもしれませんが、特に否定側は、この部分は勝ちどころにしやすい気がするので、もう少し意識的に論じられてよかったように思われます。立論段階で既に材料は出ている場合が多く、スピーチ中そこまで強調しなくても取られる、ということもあったのかもしれません。
結局、上記①や②を踏まえると、全てのケースが理想的な死の選択と言えるのかというと難しそうだし、真摯に死を望む人の中にさえ、葛藤は生じるのではないかとも思います。そう考えると、現状安楽死を認めていないということには十分な理があるようにも思いますが、他方で、終末期で真摯に死を望む人も、意志の強さという面では比較的「強い個人」と言えそうであるものの、健康状態等の観点からはまさしく「弱い個人」なのであって、そのような立場の人が苦しみながら死の選択を希求していることに対して、自己決定として疑義がある等の観点で選択肢を与えないことは、それ自体が権利侵害ともいえるし、社会の側が選択から逃げている(この表現は私のアイデアではありません)という評価もできそうです。私個人は、悩みつつも、医学的に可能なのだとしたら選択肢が与えられてしかるべきではないか(それこそ持続的鎮静を認めているのに、殺さないという一点にこだわる合理性がどこまであるのかというと、「いつ」「誰に」認めるかという制度設計の問題にすぎないようにも思う)という気がしていますが、この思い自体も、議論を聞くたびに揺れています。それだけ示唆深い議論に触れる機会が多かったことは、ジャッジとして、ディベーターとして大変幸せなことでした。
このように難しい問題に果敢に挑戦した選手の皆様に改めて感謝するとともに、決勝主審ではないですが、今後もディベートを楽しんでほしい、一緒に楽しんでいきたいという思いをお伝えして、高校論題の私的総括とさせていただきます。