愚留米の入院日記
日当たり良好の某法科大学院既習病棟を退院した法務博士の日記。しかし内容はほとんど趣味のディベートの話
効果的な反駁のためのポイント
いよいよ今年のディベート甲子園まで1週間を切りました。「山脈」などのトップディベーターが活躍している中でここを見ている中高生がどの程度いるのか不明ですが、大会でジャッジをしていて特に気になった、反駁に関する改善点を簡単に書いておくことにします。

1.何の議論に反論しているのかきちんと述べる
反駁の4拍子(①どこに反論しているのか、②自分たちの主張、③根拠、④結論・まとめ)という言葉を聞いたことのある人は少なくないと思いますが、このうち①の、どこに反論しているのかというところについては、もう少し意識されてもよいと思っています。
ここについて、「内因性の3点目に反論します」のようにサインポスティングすれば十分という向きもあると思いますが、望ましくは、「内因性の3点目で、解雇規制による雇い控えで正社員が不足しているんだ、ということを言っていますが…」というように、議論の要約もできたほうがよいです。
これには2つ理由があります。1つは、そちらのほうが議論の場所が特定しやすいので、フローシートがとりやすいということがあります。議論を書く場所が決まるまでにしゃべっていても、ジャッジはその中身をフローシートに書けませんから、意味がありません。それなら、少し時間を割いても、どこに反論しているか丁寧目に述べたほうがよいです。ただ、あまり丁寧に言っても時間の無駄です。あくまで「要約」です。
では、どの程度要約すればよいのか。それは、2つ目の理由である、自分たちの主張が分かりやすくなる、ということに関係してきます。相手の議論を説明するのは、それに対する自分たちの反論を際立たせ、どこが間違っているのか分かりやすくすることにつながります。具体例を挙げると、上で「内因性の3点目で、解雇規制による雇い控えで正社員が不足しているんだ、ということを言っていますが…」と要約するのは、そのあとで「しかし、正社員が不足しているのは、企業の求める能力を満たす人材がいないからであって、解雇規制とは関係ありません」という反論をするためです。自分たちの反論が「正社員は不足していない」というものであれば、要約では「内因性の3点目で、正社員が不足しているんだ、ということを言っていますが…」で足りるでしょう。

2.議論の趣旨を明確に
反駁の4拍子のうち、②と④の部分も大事です。ここで大事なのは、何を言いたい議論なのかはっきりさせる、ということです。これには2つの次元があります。
1つ目は、②に対応する、その反駁が何を言おうとしているのか、ということです。当たり前のことと思われるかもしれませんが、上の例のように「(i)正社員が不足しているのは、企業の求める能力を満たす人材がいないからであって、(ii)解雇規制とは関係ありません」という説明、すなわち、(i)これから述べる理由付け(証拠資料)は何を言っているのか、(ii)それが相手の反論との関係でどういう意味を持つのか、ということをきちんと述べられているチームはあまり多くありません。これがきちんと述べられると、ジャッジの頭の中では「よさそうな反駁だ」というスイッチが入り、その後の理由付けや読まれた証拠資料が適切であれば、「当たっている反駁だ!」というように考えることになります。
2つ目は、④に対応する、その反駁が試合の中でどのように機能するのか、ということです。「正社員不足は解雇規制と関係ない」というだけでも、一応反論にはなっているわけですが、実はこの反論は、内因性に反論しているものの、その心は「解雇規制を緩和しても取りたい人材が出てくるわけではないので正社員不足解消=雇用増加にはつながらない」という解決性の反駁だったりするわけです。このことを述べるだけで、ジャッジに与える印象はかなり違ってきます。山脈のように優秀なジャッジであれば言わずもがなで取ってくれるかもしれませんが、そうではないジャッジに対しては、どう取ればよいのかということを丁寧に伝えましょう。

3.無意味なダウトは時間の浪費
スピーチは流暢だけど中身がスカスカ、というのは、聞いていてとても残念な気持ちになる試合ですが、残念ながら、そのような試合は、結構な頻度で見られます。なぜこんなことになっているのかというと、「~はどの程度発生するのかあいまいです」とか「根拠が不明です」というダウトでそれらしく喋る選手が多いからです。反駁というためには、相手の議論を攻撃するための新しい情報をフローシートに新しく書き込ませる必要があります。そこに、ダウトだけが出されても、何も情報は付け加わっていないので、判定に与える影響はゼロです。
意味のあるダウトは、大きく2つあります。1つ目の場面は、その後に自分たちが反論を持っている場合のジャブとして機能する場合です。例えば、「否定側は夜働かないと学費を払えなくなる学生がいると言っていましたが、どの程度いるのか、ということを述べていません」というダウトは、それだけでは意味がない(フローの上に何の情報も追加できていない)のですが、その後で「実際には、深夜の仕事で学費を賄っている学生はほとんどいません」という反論が来ると、「否定側は立証がないのに対して、肯定側がカウンターを決めた」ということで、反駁の有効性をアピールできます。かっこいいですよね。
2つ目の場面は、相手が絶対に説明しなければいけないところについて説明できていない、ということを示す場合です。例えば、解雇規制緩和で新規事業が生まれて雇用拡大、経済成長、みたいなケースに対しては、新規事業の余地がある、ということを証明しないといけない、ということを丁寧に説明する議論が有効たり得ます。そもそも新規事業を起こしたい、でも解雇規制のせいで起こせない、といった例がどの程度あるのか、ということ、起こせば絶対成功するのか、ということが指摘できなければ、ケースの成立は怪しくなるはずです。こういった指摘を行い、リンクに乖離があることを示すのは、無意味ではありません。ただ、これは質疑でもできる(むしろそっちのほうが有効)ですし、スピーチするとしても、そのような指摘だけでなく、例えば「今でも不採算事業を売却して新規事業に注力している例はある」といった話を出して、新規事業がうまくいくかどうかは解雇規制と関係なくて、解雇規制があっても意欲のある企業はもう動いているし、解雇規制を緩和したところで事業のネタが増えるわけではないから、今動いていないような会社が成功するとは思えないし、そんな証明はない、という話をするほうが説得的でしょう。自分たちでもカウンターの分析を出したうえで、それを踏まえると、相手の議論はここの説明が足りないのだ、というダウトが打てれば、非常に説得的な議論となります(それはもはや単なる「ダウト」ではないとも言えます)。

4.無理に比較する必要はない
第二反駁あるあるで、「それでは比較します」と言ってから、事前に用意したらしい謎の基準に基づいて議論を総括しだし、ジャッジはコミュニケーション点を計算しだす、ということがあります(私だけかもしれませんが)。比較が大事だよ、ということがよく言われるのですが、ルール上もメリットとデメリットを比べないといけない以上、ジャッジは、比較のスピーチがあろうがなかろうが、勝手に比較を行いますし、選手が述べた基準で比較しないといけないわけでもないので、単に比較するだけでは意味がありません。
比較が意味を持つ前提として、比べる中身が拮抗しているということがあります。なので、まずは、比べる対象であるメリットとデメリットの話をきちんとしてください。自分たちの議論がどう残っているのか、なぜそう言えるのか、相手の反論はどう評価すべきなのか、ということを、重要度に応じてメリハリをつけながら、きちんと説明してください。ジャッジの講評で聞いたことがあるはずですのでそれを参考にしましょう(ただ、講評では、重要でない議論でも、選手が頑張ってスピーチしていたところは一応触れます)。
その上で、比較をするときには、どうしてそういう基準が当てはまるのか、理由を述べましょう。いきなり「確実性で比べましょう」とか言われても困るわけです。なぜ困るのか。そりゃあ確実性のあるほうがいいのは分かっているわけですが、確実かどうかではっきり違いがあり、それで勝負をつけていいのであれば、比較されなくてもジャッジはそれで投票するわけです。上の無駄ダウトと一緒で、何も情報を付け加えていないのです。確実性をキーワードにスピーチするなら、例えば、「メリットも前提としているように、失業というのは絶対発生する。その中で、再就職できない人がいるということも否定側は立証した。この、確実に発生するデメリットは、労働者保護という労働法の理念に照らして重視されるべきであるという点でメリットより優先されるべきだし、メリットにおいて、雇用増加の可能性が明確に示されてはいないということと比べても、確実性の点で上回っている」という程度まで言ってくれれば(その前提となる議論もあれば)、そう取りますか、ということになります。
上記の例から分かるように、第二反駁でジャッジが聞きたい総括スピーチは、必ずしも「比較」ではありません。何を重視すべきかという基準が説得的に出されて、その基準からみて議論がどう評価されるのか、ということが示されることが重要です。もちろん、それはいきなり出てくるものではなく、立論や反駁で何を出すか、という戦略の下で準備されてはじめて機能するのです。

以上、どちらかというと第一反駁がメインですが、反駁のポイントです。
これらの要素をきちんと話せれば、スピーチが多少早くても、コミュニケーション点は高くなるはずなのです(もっとも、滑舌などで致命的に聞きにくいスピーチもたまにあるし、ある一定以上の速度だと取らなく/取れなくなるジャッジもいる点に注意)。原稿を準備する、自分たちの言いたいことを言う、ということだけでなく、相手の議論との関係でどういう話をしているのか、その話をどう取ってほしいのか、ということをきちんと伝えるという気持ちこそが、議論の中身で勝負するディベートにおけるコミュニケーションなのです。

ということで、今年の全国大会でも、素晴らしいコミュニケーションが交わされることを願って、本稿を終えます。選手の皆様、暑さに負けず最後の追い込み頑張ってください。
深夜営業の自由とは何か(中学論題のポイント)
どうもご無沙汰しております。
さすがに寄稿記事がトップを飾っているのもどうかと思いますので、短めですが記事を書くことにします。

先日、東北大会にジャッジで出かけてきました。皆様楽しげにディベートをしていてよかったのですが、今日はその感想ではなく、大会前日に行われたジャッジ講座で聞いた関東地区の某中学校同士の試合で出ていた議論を題材にすることにします。
その試合はディベート経験の短いチーム同士の試合だったらしいのですが、大変よく準備されていて、初心者校とは思えないレベルの高い試合でした。ただ、その中で見た否定側の議論について、ちょっと中学生が作ったとは思われない香りがしたのと、その割に理解の浅いところがありありと見えていて残念だったので、そのことを取り上げることにします。選手は自分たちなりに頑張ってスピーチしており、古い演劇主義とは全然違う感じを受けましたが、だからこそ、触れさせるなら良質な議論に触れさせてほしい、という趣旨のコメントです。

さて、件の否定側が回していたのは、深夜営業規制は個人の職業選択の自由や企業の経営の自由(営業の自由)を制約するのでよくない、自由にやらせるべきだ、というものです。この議論自体は、後述するように職業選択の自由というのか疑問があることはともかく、なかなかよいところに目をつけているのですが、深刻性で例によって失業→自殺の話が出てきて、結局これかよという、(中学生には本当に申し訳ないですが)二流の議論に堕してしまっていました。以下、時間の制約もあるので端折りながらの説明で恐縮ですが、簡単に解説します。

なぜこのインパクトが悪いのか。それは、職業選択の自由や営業の自由の重大さは、失業するかしないか、といったこととは全く関係ないからです。
職業選択の自由や営業の自由は、憲法22条1項が「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。 」と定めていることにより保障されています(営業の自由という言葉はないですが、職業選択の自由は職業遂行も含むので、営業の自由も含みます。)。このような自由が保障されているのは、昔は身分制やら何やらで職業や住居が制限されており、そういった制約から人民を解放する必要がある、といった歴史的背景があります。会社員の子どもは医者になりたくてもなれない、とかいやでしょ?というわけで、なりたい職業へのアクセスを制限することは許しません、ということです。ですから、ここで言う職業選択の自由や営業の自由というのは、金を稼ぎたいのに稼げないとかいう文脈の話ではなく、むしろ、自己実現の機会を確保するという、個人の人格的価値と不可分な精神的自由としての性質を有しています(薬事法違憲判決:最大判昭和50年4月30日民集第29巻4号572頁)。
これに対して、失業しないようにするというのは、制約を受けないという「自由」の議論とは関係ありません。生存権を保障する憲法25条が関係するかもしれませんが、生活保障制度はともかく、失業対策を積極的に求める権利があるのかは疑問ですし、ましてや、仕事が見つからないということを「自由がない」と言うことはありません。自由というのはそんなに安易に使われるような概念ではありません。

ですから、職業選択の自由や営業の自由で議論を立てたいなら、深夜に働く/営業するという在り方そのものを希望することに対する制約が存在する、という議論を行う必要があります。例えば、深夜にやっているキャバクラやホストクラブでNo.1になりたいキャバ嬢やホストに対する職業自由の選択の制約だ、という話はあり得て、これは、失業の話を持ち出すより、自由侵害の話としてよほどよくできています。まじめな話、肯定側が良く出す過重労働解消のメリットでは、こういった夜の世界を規制する根拠としては十分ではないかもしれません(まぁ、夕方やってください、ということなのかもしれませんが…。)。
深夜に営業してお客さんが来ている業態もあります、という話も、企業側の営業の自由を論じるという意味ではよいでしょう。ただ、その場合のインパクトは、企業は社会(顧客)のニーズに合わせて営業を遂行し、利潤を上げる目的で活動しているわけで、それを制約するのはけしからん(し、経済的にも不合理だ)、といったところになるでしょう。失業させないと人が死なないから分かりにくい、とかいう話ではないわけです。そういう間違ったprimitiveな議論を中学生に教えるのはもうやめにしましょうよ、と言いたいです。

さて、上記のように職業選択や営業の自由を捉えなおしたとき、これを制約することを正当化したい肯定側の拠って立つべき論理は何でしょうか。憲法においては、「公共の福祉に反しない限り」自由が保障されていることから、そのような制約根拠があるかどうかを問題にできそうです。
職業選択や営業の自由を制約できるかどうかの判断基準についてはいろいろな議論があり、上記の薬事法違憲判決一つとってみても、非常に深い議論があります。なのでここでは詳細には論じませんが、一般的には、規制目的がある目的を積極的に達成する政策的なもの(積極目的)である場合には、問題を防ぐためといった消極的目的の規制より緩やかに規制の合憲性(規制してよいかどうか)を判断するとか、職業を行うことそのものを制約する場合は職業遂行の方法を制約する場合より厳しく合憲性を判断するとかいったことが言われます。これをこの論題に照らしてみると、①一律に規制すべき目的があること、②制約の程度はそこまで大きくないこと、という2点に整理されます。
①の「規制目的」については、試合でも散見されますが、放置しておくと企業は他社との競争目的で深夜労働を強化し従業員がすりつぶされていくので、法律で介入すべき、ということが言えるでしょう。解雇規制などを定める労働法と同じような考え方ですね。キャバクラやホストクラブは関係ないのではないかという説もありますが(たぶん昼間寝てるので。まぁ飲みすぎで体に悪そうですが)、そこは、子どもの深夜労働を禁止しているのと同じで、休息時間をきちんと確保することが大事で、キャバクラやホストクラブはよいとか言い出すと、女性を横に置いとくだけ置いといて食事を出す深夜レストランなど脱法行為?が起こる、とかいうことが言えるのかもしれません。この辺適当ですが。
②の制約程度については、別に昼間働けばいいわけで、仕事自体を否定するものではない、という形でのデメリットへの反駁になります。少し視点を変えて、「夜も働かないと生活できない」というのは、夜働けるようにして解決すべき問題ではなく、社会保障の問題ではないか、といった問題提起や、そもそも夜働きたいというのは「学生にとって給料の実入りがいい」とかいうだけで、そこまで切実ではないのではないか(そもそもアルバイトであり、正社員の失業とは違うのでは?)、といった反論もありでしょう。

といったところでまとめますと、深夜営業規制論題で、否定側の立場から、何か理念的なものを立てたいのであれば、安易に自殺させるような議論ではなく、何を制約しているのかということをきちんと考えてほしい、ということです。上記は法学的な側面から記載していますが、経済学の観点から規制が不合理だという話をすることもできると思います。いずれにせよ、人が死ぬからとか、金がもうからないからとかそういうことで議論が決まるのではなく、この論題で何故それを論じるのかという「事の本質」をきちんと捉えて議論していただきたいということで、皆様が素晴らしい議論を戦わせることを祈念しつつ本日の記事を終わります。
第22回ディベート甲子園高校論題の分析等
気が付いたら春季大会も終わり、シーズンが始まっております。いろいろと取り上げたいテーマはあるのですが、今日はディベート甲子園高校論題について気になるところを簡単に検討していこうと思います。

今年の高校論題は下記のとおりです。

「日本は企業に対する正社員の解雇規制を緩和すべきである。是か非か」
ここでいう緩和とは「人員整理の必要性」および「解雇回避努力義務の履行」を整理解雇の要件から除外することとする。



ここで問題となるのは、付帯文を踏まえたときに、解雇規制がどう緩和されるのか、ということです。例によって論題解説を見ると、今年の論題解説は、議論の見通しについて参考になる内容となっており、選手の皆様におかれてもしっかり読み込むべき内容とはなっているのですが、論題の意味についての解説は、よくわからないところがあります。以下では、そのあたりの疑問について、解雇規制の意味を解説しながら説明していくことにします。

「解雇規制を緩和すべき」とある以上、現在の日本には解雇について規制があるわけですが、具体的には、労働契約法16条が「解雇は、客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合は、その権利を濫用したものとして、無効とする。 」と定めているところに現れています。この規定は、解雇を制限する裁判例が積み重なってきた結果を明文化したものであり、会社にとっては解雇を困難にする内容となっています。
客観的に合理的な理由というのは、解雇すべき理由があるということを指します。解雇は労働者にとって大きな不利益となりますので、それを基礎づけるだけの強固な理由が必要と解されており、例えば、会社として、労働者が能力不足であるというだけで解雇することはできず、能力不足の程度が著しく、改善しようとしてもなかなか改善しないといった相当ひどい場合であることを要し、相対的に成績が悪いというだけでは合理的な理由は認められません。
社会通念上の相当性は、解雇にあたっての手続きが尽くされているかどうかや、解雇とすることが過酷にすぎない事情がないか、といったことが問題とされます。有名な裁判例としては、高知放送のアナウンサーが、2週間の間に2回、宿直勤務で寝過ごしたため、ラジオニュースを放送できず、放送が5~10分間中断されることとなってしまい、おまけに2度目の放送事故を直ちに上司に報告せず、後で事実と異なる報告をしたという、なかなかひどそうな事案について、最高裁は、ミスは故意によるものではないこと、先に起こすべき担当者も寝過ごしており、この担当者はけん責処分にとどまっていたことからアナウンサーだけを責めるのは酷であること、これまでのアナウンサーの成績が悪くなかったことなどを踏まえて、社会的相当性を否定しています(高知放送事件:最判昭和52年1月31日集民120号32頁)。

さて、今回の論題で問題となる「整理解雇」とは、上記要件の中の、解雇の「客観的に合理的な理由」として、使用者の業績悪化等の会社都合の理由を挙げたものを指します。このような整理解雇については、労働者側に解雇されるべき理由がないため、解雇の可否がより厳格に判断されてきました。その際に要件として挙げられてきたのが、論題解説で説明される4要件によって説明される、整理解雇法理というものです。具体的には、①人員削減の必要性、②解雇回避の努力、③被解雇者選定の合理性、④解雇手続の適正性、といった要件があげられます。これら4要件をそれぞれ満たす必要があるのか、4要件を総合して判断するのか(例えば①が非常に強ければほかの要素が少し弱くてもよいと考える余地があるか)といったところは議論があり、最近は総合判断説が有力ですが、いずれにせよ解雇のハードルが高くなっています。
注意すべきは、この4要件も、解雇の一類型であり、解雇の客観的合理的理由と、社会的相当性の2つの要件が必要であるという前提で、それをより具体化したものであるということです。①人員削減の必要性が、解雇の客観的合理的理由に対応し、残り②~④が、解雇の相当性に対応するということになります。

ここで、今回の論題の付帯文は、「人員整理の必要性」および「解雇回避努力義務の履行」を整理解雇の要件から除外する、ということを言っており、会社都合の解雇についてのみ条件を緩和する、ということを述べています。しかし、この説明には、以下のような疑問点ないし検討課題があります。
まず浮かぶのは、「整理解雇」というためには、解雇理由が会社都合である必要があるところ、そこで「人員整理の必要性」という解雇理由に関する要件を取り除くとすると、それは整理解雇の定義と整合しないのではないか、という疑問です。ただ、これは、会社が「会社都合で解雇したい」ということであれば、対象選択と手続だけ尽くせば自由に解雇させてあげるという趣旨である、というように理解せよということなのでしょう。そうであれば、付帯文を法律上使われている用語でもない「整理解雇」という言葉で定義するのではなく、「ここでいう緩和とは、会社都合での解雇につき、被解雇者選定の合理性と解雇手続の適正性を満たすだけで解雇できるようにすることとする」と定義したほうが明確かつ適切だったように思います。
ここで、1点目の疑問を上記のように解すると、より大きなもう一つの疑問が生まれます。それは、今回の論題は、労働者に問題がある場合の解雇について、どのように取り扱おうとしているのか、ということです。(論題解説に論題解釈の拘束力はないですが)論題解説では、労働者に問題がある場合の解雇と区別する形で、整理解雇を取り上げており、労働者に問題がある場合の解雇は論題の範囲外と考えていることが示唆されます。また、付帯文でわざわざ「整理解雇の要件から除外する」と書いていることから、論題の文理上も、会社都合の解雇以外については解雇規制を維持すべきという趣旨が読み取れます。しかし、会社都合にしてしまえば「人員整理の必要性」を問題とせず解雇できるのですから、使えない労働者を切りたいと思った場合、「整理解雇します」とさえ言えば、自由に解雇できることになります。そうすると、結果的には、全部の場合について解雇規制が緩和されてしまう、ということになります。

論題としては、労働者に問題がある場合も含めて解雇規制を緩和することでもよく、むしろそちらのほうが論題の趣旨は分かりやすくなるように思われます。すなわち、この春大会でもよく出ていたのが「雇用の流動化」ですが、経営者にとっては、雇ってみたら使えなかったという場合に容易に解雇できないということも、大きな制約になります。私も実際に会社側で解雇事件をやっていますが、整理解雇でなくても、労働者を解雇するというのは難しく、訴訟になった場合の負担もあるので、経営者側として正社員雇用を控える理由になるというのはよくわかるところです(外資系企業のマネジメントに日本の解雇法制を説明するとキレられたりします…。)。現在日本で議論されている金銭解決制度(裁判で不当とされた解雇を職場復帰でなくお金で救済する)も、会社都合か否かを問わず自由に解雇できる制度を志向しています。
しかし、今回の論題は、少なくとも文言上は、会社都合の解雇である「整理解雇」に絞って議論してほしそうに読めます。そのような前提に立つ場合、雇用の流動化に関する解決性の「解雇しやすくなるので雇いやすくなる」という解決性はかなり削られてしまいます。能力不足でも経営上の必要性がないとクビにできないとすると、新規採用にリスクがある状況は変わりがないからです。論題解説は、そのようなややこしい状況は想定しておらず、論題の文言から解雇が自由になると読めるという理解をとっているのかもしれませんが、そのような理解は、「整理解雇」という言葉をわざわざ使っていることとは必ずしも整合しません。

ではどうすればいいのかということですが、一番簡明な処理としては、会社都合での解雇が緩和されるので、結局は自由に解雇できる(「整理解雇だ」と唱えさえすればいい)、という説明にしてしまうことが考えられます。そう考えたとしても、対象選択の合理性ということで、能力などの指標で解雇され合理性が担保されますし、手続きも尽くされるので、解雇のあり方自体がまずくなるということにはならないでしょう。論題との関係では気持ち悪いのですが…。

今日はこんなところでおしまいです。中学論題も気が向いたら何か書くかもしれませんが、特に論題の解釈に疑義があるでもなく、議論の中身も複雑ということまでは言えないので、今後面白い議論を見れば言及するということで。
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