愚留米の入院日記
日当たり良好の某法科大学院既習病棟を退院した法務博士の日記。しかし内容はほとんど趣味のディベートの話
第22回ディベート甲子園高校論題の分析等
気が付いたら春季大会も終わり、シーズンが始まっております。いろいろと取り上げたいテーマはあるのですが、今日はディベート甲子園高校論題について気になるところを簡単に検討していこうと思います。

今年の高校論題は下記のとおりです。

「日本は企業に対する正社員の解雇規制を緩和すべきである。是か非か」
ここでいう緩和とは「人員整理の必要性」および「解雇回避努力義務の履行」を整理解雇の要件から除外することとする。



ここで問題となるのは、付帯文を踏まえたときに、解雇規制がどう緩和されるのか、ということです。例によって論題解説を見ると、今年の論題解説は、議論の見通しについて参考になる内容となっており、選手の皆様におかれてもしっかり読み込むべき内容とはなっているのですが、論題の意味についての解説は、よくわからないところがあります。以下では、そのあたりの疑問について、解雇規制の意味を解説しながら説明していくことにします。

「解雇規制を緩和すべき」とある以上、現在の日本には解雇について規制があるわけですが、具体的には、労働契約法16条が「解雇は、客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合は、その権利を濫用したものとして、無効とする。 」と定めているところに現れています。この規定は、解雇を制限する裁判例が積み重なってきた結果を明文化したものであり、会社にとっては解雇を困難にする内容となっています。
客観的に合理的な理由というのは、解雇すべき理由があるということを指します。解雇は労働者にとって大きな不利益となりますので、それを基礎づけるだけの強固な理由が必要と解されており、例えば、会社として、労働者が能力不足であるというだけで解雇することはできず、能力不足の程度が著しく、改善しようとしてもなかなか改善しないといった相当ひどい場合であることを要し、相対的に成績が悪いというだけでは合理的な理由は認められません。
社会通念上の相当性は、解雇にあたっての手続きが尽くされているかどうかや、解雇とすることが過酷にすぎない事情がないか、といったことが問題とされます。有名な裁判例としては、高知放送のアナウンサーが、2週間の間に2回、宿直勤務で寝過ごしたため、ラジオニュースを放送できず、放送が5~10分間中断されることとなってしまい、おまけに2度目の放送事故を直ちに上司に報告せず、後で事実と異なる報告をしたという、なかなかひどそうな事案について、最高裁は、ミスは故意によるものではないこと、先に起こすべき担当者も寝過ごしており、この担当者はけん責処分にとどまっていたことからアナウンサーだけを責めるのは酷であること、これまでのアナウンサーの成績が悪くなかったことなどを踏まえて、社会的相当性を否定しています(高知放送事件:最判昭和52年1月31日集民120号32頁)。

さて、今回の論題で問題となる「整理解雇」とは、上記要件の中の、解雇の「客観的に合理的な理由」として、使用者の業績悪化等の会社都合の理由を挙げたものを指します。このような整理解雇については、労働者側に解雇されるべき理由がないため、解雇の可否がより厳格に判断されてきました。その際に要件として挙げられてきたのが、論題解説で説明される4要件によって説明される、整理解雇法理というものです。具体的には、①人員削減の必要性、②解雇回避の努力、③被解雇者選定の合理性、④解雇手続の適正性、といった要件があげられます。これら4要件をそれぞれ満たす必要があるのか、4要件を総合して判断するのか(例えば①が非常に強ければほかの要素が少し弱くてもよいと考える余地があるか)といったところは議論があり、最近は総合判断説が有力ですが、いずれにせよ解雇のハードルが高くなっています。
注意すべきは、この4要件も、解雇の一類型であり、解雇の客観的合理的理由と、社会的相当性の2つの要件が必要であるという前提で、それをより具体化したものであるということです。①人員削減の必要性が、解雇の客観的合理的理由に対応し、残り②~④が、解雇の相当性に対応するということになります。

ここで、今回の論題の付帯文は、「人員整理の必要性」および「解雇回避努力義務の履行」を整理解雇の要件から除外する、ということを言っており、会社都合の解雇についてのみ条件を緩和する、ということを述べています。しかし、この説明には、以下のような疑問点ないし検討課題があります。
まず浮かぶのは、「整理解雇」というためには、解雇理由が会社都合である必要があるところ、そこで「人員整理の必要性」という解雇理由に関する要件を取り除くとすると、それは整理解雇の定義と整合しないのではないか、という疑問です。ただ、これは、会社が「会社都合で解雇したい」ということであれば、対象選択と手続だけ尽くせば自由に解雇させてあげるという趣旨である、というように理解せよということなのでしょう。そうであれば、付帯文を法律上使われている用語でもない「整理解雇」という言葉で定義するのではなく、「ここでいう緩和とは、会社都合での解雇につき、被解雇者選定の合理性と解雇手続の適正性を満たすだけで解雇できるようにすることとする」と定義したほうが明確かつ適切だったように思います。
ここで、1点目の疑問を上記のように解すると、より大きなもう一つの疑問が生まれます。それは、今回の論題は、労働者に問題がある場合の解雇について、どのように取り扱おうとしているのか、ということです。(論題解説に論題解釈の拘束力はないですが)論題解説では、労働者に問題がある場合の解雇と区別する形で、整理解雇を取り上げており、労働者に問題がある場合の解雇は論題の範囲外と考えていることが示唆されます。また、付帯文でわざわざ「整理解雇の要件から除外する」と書いていることから、論題の文理上も、会社都合の解雇以外については解雇規制を維持すべきという趣旨が読み取れます。しかし、会社都合にしてしまえば「人員整理の必要性」を問題とせず解雇できるのですから、使えない労働者を切りたいと思った場合、「整理解雇します」とさえ言えば、自由に解雇できることになります。そうすると、結果的には、全部の場合について解雇規制が緩和されてしまう、ということになります。

論題としては、労働者に問題がある場合も含めて解雇規制を緩和することでもよく、むしろそちらのほうが論題の趣旨は分かりやすくなるように思われます。すなわち、この春大会でもよく出ていたのが「雇用の流動化」ですが、経営者にとっては、雇ってみたら使えなかったという場合に容易に解雇できないということも、大きな制約になります。私も実際に会社側で解雇事件をやっていますが、整理解雇でなくても、労働者を解雇するというのは難しく、訴訟になった場合の負担もあるので、経営者側として正社員雇用を控える理由になるというのはよくわかるところです(外資系企業のマネジメントに日本の解雇法制を説明するとキレられたりします…。)。現在日本で議論されている金銭解決制度(裁判で不当とされた解雇を職場復帰でなくお金で救済する)も、会社都合か否かを問わず自由に解雇できる制度を志向しています。
しかし、今回の論題は、少なくとも文言上は、会社都合の解雇である「整理解雇」に絞って議論してほしそうに読めます。そのような前提に立つ場合、雇用の流動化に関する解決性の「解雇しやすくなるので雇いやすくなる」という解決性はかなり削られてしまいます。能力不足でも経営上の必要性がないとクビにできないとすると、新規採用にリスクがある状況は変わりがないからです。論題解説は、そのようなややこしい状況は想定しておらず、論題の文言から解雇が自由になると読めるという理解をとっているのかもしれませんが、そのような理解は、「整理解雇」という言葉をわざわざ使っていることとは必ずしも整合しません。

ではどうすればいいのかということですが、一番簡明な処理としては、会社都合での解雇が緩和されるので、結局は自由に解雇できる(「整理解雇だ」と唱えさえすればいい)、という説明にしてしまうことが考えられます。そう考えたとしても、対象選択の合理性ということで、能力などの指標で解雇され合理性が担保されますし、手続きも尽くされるので、解雇のあり方自体がまずくなるということにはならないでしょう。論題との関係では気持ち悪いのですが…。

今日はこんなところでおしまいです。中学論題も気が向いたら何か書くかもしれませんが、特に論題の解釈に疑義があるでもなく、議論の中身も複雑ということまでは言えないので、今後面白い議論を見れば言及するということで。
第21回ディベート甲子園の感想(2.高校論題)
前回に引き続いて、第21回ディベート甲子園の高校大会について感想を述べさせていただきます。
今年の大会は全体的に水準が高く、その中でも、準決勝のうち鎌倉学園高校vs筑波大学附属駒場高校のカードについては、非常に熱戦だったとして、詳細な感想・分析も書かれております(例えばこちらこちら。なお私は悩んで肯定かなというところですが左記のブログは両方否定側を支持。後者のブログはちょっと反駁を再構成しすぎな感もありますがまぁそれもありはありかなと)。

例年であれば決勝戦などの試合を取り上げて比較的詳細に判定などを検討しているのですが、今年は、個人的に同じ国民投票論題でJDAに出る予定であるということもあり、こういう議論をしようという目標立ても兼ねて、今大会の議論全体に対する感想といった形で、さらに水準の高い議論のためにどのようなことが期待されるのか、ということを簡単に書くことにします。

1.出した議論を最大限活用する
準決勝について紹介した上記の各ブログでも示唆されていますが、せっかくよい議論が出ていたにもかかわらず、その機能を従前に生かし切れていない場面が散見されたように思います。一番わかりやすいのは、決勝戦の肯定側が内因性で読んでいた村上のエビデンス(これは非常に良い資料)について、意思決定プロセスに問題があったという形でデメリットの固有性を切る形になっていたにもかかわらず、全く伸ばされなかったということが挙げられます。これをうまく伸ばせば肯定側は5-0で圧勝できるような構造にあったと思いますが、そうはならずに判定も割れました。
高いレベルの要求ではあることを承知の上で述べると、このような状況が生じてしまう理由は、その議論が直接あたっている議論以外のところにどういう影響を及ぼすか、ということに十分意識がいっていないから、ということになります。では、どうすれば意識が及ぶのかということですが、根本的に言えば、議論を出すという行為が、単純にフローの左側に書かれている議論のレスポンスであるということではなく、ストーリーを基礎づける材料を出すことである、という意識を持つということが重要です。たとえば、鎌学と筑駒の準決勝で、筑駒は解決性にかなりの議論をぶつけており、その中では、議論すると考えの似た人同士で話し合うことになるので意見が先鋭化してしまうとか、国民投票では間違った情報やデマにより正しい意思決定が行われないことがあるという話が展開されていたのですが、このような議論は、単に解決性に対する反論というのではなく、それに対比される形で論じられている、自分たちの固有性の議論の優位性にもつながってきます(まぁ、集団分極化は政党内でも起こるのではないかという気はしますが…。)。つまり、否定側が出した解決性に対する反論は、物事を決める際にどのようなことが起こるのか、という分析として位置づけられるべきものであって、そのような分析がされたことを踏まえて、他の論点も含めた議論の全体を再評価することができるし、また、そうすることが期待されているということになります。

2.もう一歩大きな分析を置く
今回の大会では、各チームにおいて、民意を反映することがなぜ重要なのか、間違った政策が選ばれるのがなぜだめなのか、という重要性・深刻性に係る価値の議論をよく検討していたと思います。もちろん、より深く分析してほしい場面もたくさんありましたし、重要性や深刻性の議論にマッチした事実分析が展開されていない例(例えば、鎌学-筑駒の準決勝の肯定側立論は、重要性はそれなりに深掘りされていたと思いますが、そこで問題とされているようなひどい事態が内因性で述べられていたかというと、ちょっと迫力が足りませんでした)もあるのですが、総じてよく議論していたと思います。
しかし、さらに一歩議論できた点として、例えば、「今後の日本で」どのように考えるのがよいのか、といった、論題の導入対象との関係でのより深い分析を行うという点があげられようかと思います。これは、どちらも一理ある価値対立の問題を解決し得る有効な方法なので、より研究されるべきだったところです。すなわち、肯定側が一般的に論じるような民意による意思決定や変革の必要性という価値は、慎重な合意形成や調整による落としどころの探求が重要であるという否定側の主張とトレードオフの関係にあります。そして、どちらの価値がより重要かは、普遍的に定まるものではなく、日本で今後何を決める必要があるのか、日本がどういう状況なのか、といった要素によって左右されます。そのような「今後の日本に求められるもの」という、一つ大きな次元の分析をかませた上で、その中で国民投票をどう評価すべきか、という話がされれば、重要性や深刻性に筋が通るはずです。

3.制度の違いに着目して議論する
今回の大会で少し物足りなかったのは、制度の問題をきちんととらえて語る議論が少なかったことです。これは何を言っているのかと言うと、相手方の採用する制度どういう理由でまずいのか、逆に自分たちの制度はどこが優れているのかという分析が足りなかったように思われるということです。
全然わかりやすくなっていないので具体的に述べましょう。たとえば、否定側は、二者択一で決めるといけない、という反論をよくしていたのですが、その反面としては当然、現状の議会を通じた意思決定はそうではない、という話が出てくる必要があります。二者択一で切り捨てられるものが、議会の審議ではどう反映されているのか、それはなぜなのか、結果にどう影響してくるのか、ということを丁寧に論じれば論じるだけ、それが欠如した肯定側のプランの問題点が浮かび上がるはずです。結局、メリットデメリットの比較と言うのは、この論題では、直接的意思決定と間接的意思決定の制度比較にならないといけないということです。
肯定側は、議会の意思決定では何が問題なのか、ということをきちんと論じていく必要があります。よくある議論は、選挙で争点隠しだとか、強行採決だとかいう問題なのですが、これをもう少し抽象化すると、選挙がある種の白紙委任的制度であるということに帰着され、そこから、直接意思決定を行うべき必要性が出てくることになります。また、否定側がよくあげていた官僚制の問題は、民意反映という観点からはむしろ肯定側が有利に援用すべきものであり、選挙による選択すらされていない官僚が法律を作っていることの問題点と言うのも当然指摘されるべきです(ただ、官僚はいろいろな利益団体の声を反映しており、むしろ議員立法の方がまずいのではないか、みたいな議論もあるようです)。
自分たちの制度が、どういうコンセプトに基づいており、そのコンセプトに照らして相手方の制度がどう問題なのか、といった視点で議論を整理できると、もっと見通しがよくなったのではないか、ということです。

といったことがさしあたり考えられるのですが、それにしても今年の論題は大変奥の深いもので、自分でも取り組んでみるといろいろと考えさせられること大です(ただあんまり考える時間が取れていません)。その意味で、今年の大会は十分レベルが高かったものの、まだまだ深められる点は多いところです。
その観点から1点普遍的なアドバイスをしておくと、この論題に限らず、ある程度考察を深めた後で既読の資料を読み直すと、たくさん有益な記載が出てきます。経験値がたまれば最初からそれなりに良い記載を拾えるのですが、ディベート自体の経験が浅かったり、論題をよく分かっていない初期の段階である場合、大事なことに気づけないことがままあります。今回も、自分で資料を読んでみて、なぜ今年の大会でこれが読まれなかったのか・・・ということが多々あります。おそらく、選手の皆様も、資料を読み直してみると同じような気持ちを抱くことがあるのではないかと思います。今後、煮詰まったら、これまで読んだ資料をもう一度読み直す作業をしてみるとよいことがあるかもしれません。

といったところで、例年よりだいぶ総括感の減った高校大会雑感を終わります。選手をやることになった以上、言いたいことは大会で見せないと仕方ないと思いますので、どこまでやれるかわかりませんが、何かしら面白い議論を回していければと思っております。
第21回ディベート甲子園の感想(1.中学論題)
今年も第21回全国中学・高校ディベート選手権全国大会(ディベート甲子園)が開催されました。今年は中高ともに大変水準の高い議論が繰り広げられ、見ごたえのある試合が散見されるよい大会でした。個人的にも刺激を受けましたので、今季JDAでは久々に選手としてチャレンジしようと考えておりますが、それはまた別の機会に。

さて、今年のディベート甲子園では、僭越にも中学決勝の主審を担当させていただくことになりました。講評は正直いまいちで、特に独自色があるわけでもなく、申し訳なかったのですが、一期目ということで勘弁していただければと思います(かといって二期目以降があるかどうかは分かりませんが…。)。大会2日目に登板可能性の打診があったのでエビデンスも集められませんでした。ただ、前半で時間を取った、大会の意義に関するお話は正直な思いを語ったところですので、試合の内容には全く無関係のコメントではあるものの、選手の皆様に伝わればうれしく思います。
…ということで、中学決勝の講評は時間超過で怒られた割に内容が不十分でしたので、ここで補足説明を加えることをもって、中学論題の総括とさせていただくことにいたします。なお、中学決勝とその講評判定はこちらでご覧になってください。なんでも、フォローすると連盟が少し潤うそうですので、皆さまどしどしフォローください。

1.中学決勝の判定
今年のディベート甲子園中学の部決勝戦は、地方公共団体の首長の三選禁止という論題の下、岡山白陵中学校(肯定)と創価中学校(否定)の対戦となり、4-1で肯定側の岡山白陵中学校が勝利しました。
判定については、講評でお話しした通りです。残り時間超過の合図が出ていたので明らかに巻きで喋ってしまっており大変格好悪いのですが、実際のところ、判定理由はシンプルで、講評で述べたところで概ね説明されています。私は多数意見に投票しておりますが、メリットについては多選になるほど首長の立場が強くなりチェック機能が働きにくくなることと、交代することで見直し・チェックの契機が生まれるということは維持されていることに対して、デメリットについては、リーダーシップというところで任期が短いと職員が言うことを聞いてくれないという話は一応残るものの、首長によっては何とかなるし、仕事のやりにくさでどういう弊害が出るのか分かりにくかったことから大きくは評価できず、ネットワークが失われて補助金を引っ張れなくなるというところも、具体的弊害が不明だったので取っていない、ということになります。否定側に投票したジャッジは、メリットへの反論を強めに取ったということで、私自身の評価とは相違しますが、そういう見方もありだとは思います(肯定側がどう対処すべきだったかは講評で述べたとおり)。
あと、否定側のスタンスの話についても微妙で、詳細は後述しますが、スタンスとデメリットの乖離を判定の中でも重く見たジャッジもおります。

このような結果となった最大の理由は、否定側立論で挙げられた2点の問題が実はイマイチだった、ということにあります。
まず、リーダーシップというか、短期では効果的な業務遂行ができないという話については、なぜ短期ではできないのかという話が深掘りされていないという問題があります。長期的にやっていると行政職員をコントロールできるという話や、就任当初は反発があるというのは、何故そうなのか不明です。おそらくこの理由を掘っていくと癒着を言うメリットの話につながるのではないかと思うのですが(というか発生過程で読まれている飯塚のエビデンスで既得権益保護のために反発する、と言っている)、いずれにせよ、最初に聞いて、長期でやらせないといけない、と思わせるインパクトがありません。
次に、ネットワークの話で、市長会などでパワーを持つという話も、補助金を引っ張ってきて何がいいのかよく分かりませんし、そもそも、(肯定側は問題にしていませんが)補助金というのは無から湧いてくるものではなく、どこかに配分されればほかのところの取り分が減る話であり、日本全体で見て行政がよくなるという話にはなり得ません。むしろ、長くいるから権力を持って補助金を引っ張るという構図こそが問題であり、そういうものを解体するのがメリットであるという議論すら成り立つところです。

このように否定側立論の突っ込みが不十分だったことは、最初のスタンスと具体的なデメリットが整合していないということにも表れてしまっているように思われます。否定側のスタンスと称する議論は、各地方自治体は固有の課題を持っており、地域特性に起因する課題をそれぞれの身の丈に合った運営で乗り越える必要があり、一律の制度変更はすべきでない、という話ですが、上記から分かるとおり、デメリットで挙げられている問題はいずれも各地方自治体固有の課題といった話とは関係ありません。各地方自治体で長期の取り組みを要する課題があるから任期を制限すべきでない、という話はあり得ると思いますが、今回の大会ではそのような議論が全く出ていませんでした。
対して、肯定側のメリットは、任期が長くなるとチェックが聞かなくなるという、構造的な問題を論じており、これ自体は各地方自治体の状況の違いに関係なく生じ得る問題です。このような議論が、スタンスとされる議論によっても牽制されることはありませんから、結局、スタンスなる議論は完全にカラぶっていることになります。
さすがに決勝講評でここまで踏み込んで話すことはできないので、この場で詳述させていただきました。なお、スタンスの意義については、過去の中学決勝講評で詳しく説明しておりますので、ご参照ください。ここでも創価中学校の出したスタンスが機能していないという説明をしておりますが、創価中の名誉のために申し上げておくと、大学生以降の試合でも、スタンスと言いつつ全く意味のない議論を回している選手はおり、むしろ「スタンスと言っとけば取る」という安易かつ誤った発想に立っているのではないかという事例も散見されるところですので、そういう状況が改善されず、適切な指導が行われないことが問題なのだと思っております。

いろいろと否定側には厳しいことを書いてしまいましたが、それでも否定側のスピーチの水準は全体的に高く、難しい論題に果敢にチャレンジされた成果が出ておりました。講評でも述べましたが、優勝した肯定側も含めて、両者の健闘を称えるべき好勝負であり、見ていない方は一度ご覧になることをお勧めします(講評判定は上で書いているので別に聞かなくていいですw)。

2.より創造的な反論を
判定の話はこの程度にして、個別具体的な議論を題材に、よりよい議論に向けたコメントを記載しておきます。

講評でも述べましたが、この論題に限らず普遍的に使える切り口として、「プランが実施された場合でも同様に言えるのか」という分析があります。中学論題で言えば、多選制限がないところで(多選の)現職と新人が戦った結果新人が勝った場合と、多選制限の結果新人同士が戦って勝った場合でどう違いがあるのか、という話があります。前者の場合、新人首長は、1期目で失敗すると前職に次の選挙で負けるかもしれないわけで、1期目で前職をできるだけ否定しておこうという動機が生じるかもしれませんし、自分の独自色を無理してでも出す必要がありそうです。ただ、その分前職の仕事を批判的に検討することで、肯定側のメリットで出ているようなチェック機能や効率化につながることにもなりそうです。このような効果が、多選制限の結果行われた選挙の後でも同じように出るのかどうかは、「なぜ多選の場合こういう問題が起こるのか」といったところからスタートして、想像力を働かせてほしいところです。
また、決勝戦で言えば、ネットワークの話についても同じような議論ができます。すなわち、否定側の話は、長期で首長をやっていると市長会などの団体で偉くなっていくという話ですが、プラン後はみんな2期で終わりますので、長く首長を続けて団体での地位を高めるということはなくなり、みんなフラットになります(2期ごとに引っ越して首長を続ける「渡りの首長」みたいな人が出てくるのかもしれませんが…)。このような姿こそ理想ではないか、ということを、例えば質疑なんかも使って攻撃していけば、ターンが決まって早々に否定側はギブアップ、という試合になったところです。
決勝戦に限らず、全体的に、このような観点の反論が乏しかったように思いますが、資料を読まなくてもある程度有効に機能し得る反論になりますので(意味のある「ダウト」とはこういう議論を言うのです。)、是非今後チャレンジしてほしいところです。

もう一つの切り口としては、これは難しいところではありますが、資料の内容について、発言の立場や文脈を踏まえて攻撃するというものがあります。今回の決勝戦で言えば、否定側は、肯定側が挙げた岡山県での見直しの例に対して、見直しを行った石井知事を批判する共産党の記事を引用していますが、おそらくこの共産党は野党で、首長に反対するのは当然ですから、中立性はなく、直ちにその内容を正しいと見ることはできないと考えることができます。さらに、肯定側としては、このように野党から反論されている事実は、新任知事に対するチェックが効いている例であり、まさにオール与党が破られている好例である、として、自分たちの主張をサポートする実例として引っ張ってくるというウルトラCもあり得たところです。
この切り口の議論は、高校論題でも活用可能です。例えば、否定側がよく引用している、安保法案で野党三党が閣議決定を勝ち取ったという資料は、野党側の人間がアピールで自分たちの成果を強調しているだけで、実際の中身は閣議決定という、後の閣議決定で変更できる弱いものに過ぎないわけです(なお、閣議決定が後の閣議決定で変更できることはこちらの国会答弁を参照のこと)。エビデンスの権威性にアタックをかけてから中身を攻撃したほうが説得力が出ることが分かると思います。

以上の次第で、議論の見方を少し変えるだけで、いろいろと新しい反論が出てくることが分かります。こういう見方を少しずつ蓄積して、論題に関係なく応用できるようになることで、ディベートの力、ひいては議論の力がついてくるものだと思いますので、是非ディベートを続けていただければと思います。

3.中学論題でどのような議論を成し得たか
最後に、簡単に、中学論題でどんな議論があり得たかということを若干書き散らしておくことにします。
基本的には、選手の皆様がいろいろ議論されていたところでも十分な論点が出ていたようには思いますが(地方自治の専門家からすると違うのかもしれません。)、大きな視点として、この論題を制度として見たときに、一律に三選を禁止することの意味、ということと接続させて論じる議論がもっとあってもよかったのではないかと思いました。
例えば、肯定側は、チェック機能の確保や汚職の防止という話を挙げていましたが、これらの問題は、地方自治体の首長が大きな権力を持っているという制度的問題点への対応策として、かかる権力を任期制限という制度で縛ろうという問題です。このような「制度」を設けるのは、中にはそういう対応のいらない立派な首長がいるとしても、全体的傾向として問題があるので、問題が起きないような方向で制度設計をしよう、という思想に根差すものです。このような視座から、デメリットとの対比やメリットの説明ができれば、より説得的なストーリーが構築できたと思います。
他方で、否定側としては、かかる「制度」が地方自治体の実情に合わないという点に注力して議論を行うことになります。長い任期を確保すべき必要性や、短期で交代できるだけの人材プールの存在があるかどうかという形で既存のデメリットを論じていくことになりますが、その前提として地方自治の現状やあるべき方向性をうまく論じていければ、有効なスタンスとして打ち出すことができたでしょう。また、決勝の否定側が出していたような、肯定側の分析する「制度の問題」は任期とは別のところに存在するのであり、その点を変えない限り問題は解決しない、といった議論も有効でしょう。
論じる内容自体は変わらないのですが、どういう視点から議論を捉え、語るのかということで、議論の説得力は大きく変わってきます。だからディベートという競技は面白く、また、難しいのだと思います。

上記のような視点を中学生に余すところなく伝えるのは難しいというのはそうかもしれませんが、理屈としては十分理解できないとしても(できるくらい優秀な生徒もいそうな気がしますが)、適切な問いかけや議論の評価によって、直感的に、より深い分析にたどりつくことは可能なのではないかと思っております。その方法論をどのように構築していくのかということが今後の課題であるとは思いますが、一番の(そしておそらくは唯一の)近道は、ジャッジや指導者自身が深く議論を考えるということであり、今後も研鑽する必要があるのだと思います。
今年度の中学高校の大会は、そのように思いを新たにさせられる素晴らしいものであったということを述べて、今年度大会の感想の前半の締めくくりとさせていただきます。
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