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アカデミックディベーター

Author:アカデミックディベーター
日当たりの良い某法科大学院を2009年3月に卒業。
ライフワークである競技ディベートについてぼちぼち書いています

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第27回ディベート甲子園の感想
間が開いてしまいましたが、今年のディベート甲子園も終わりました。優勝された関西創価中学校、岡崎高等学校の皆さま、おめでとうございます。また、地区予選含めて参加された全てのチームの皆さま、お疲れ様でした。
今年の全国大会は、久々の対面方式での参加となりました。最初の方の試合では対面に慣れず、コミュニケーション面で損をしてしまったチームもあったように思いますが、対面での試合にはオンラインとは違った臨場感があるように感じられました。もちろん、オンラインならではの利便性というものもあり、今後は両方の良さを組み合わせた形で大会や練習会をやっていけるとよさそうです。

さて、全国大会の感想ということで、中高それぞれに共通するところを中心に、この部分がもっと論じられてもよかったのではないか、論じ方についてさらに工夫できるのではないか、というところを中心としたコメントを書き散らすことにします。決勝戦を詳細に振り返るというのが過去のスタイルだったのですが、歳を取るとなかなかそういうパワーが出ないのと(そういえば26回大会も高校決勝だけ感想を書いて終わってしまっていますね…。)、今大会はNADE公式Youtubeチャンネルでリーグから試合の音源が公開されており、決勝に限らず熱戦をたくさん見ることができますので、その視聴の際に役立つよう、ジェネラルなコメントを意識するようにしました(これは完全に言い訳です)。
というわけで、以下、順次感想めいたことを書いていきます。

中学論題のポイントとさらなる展望
今季中学論題(中学生以下のスマホ禁止)については、いくつか試合を見ただけですが、スマホ禁止後に対象児童がどのような動きに出るか――代替機器を用いることになるのか――という点の分析を比較的精密に行ったチームが散見され、そのあたりの議論で成果を上げた学校が上位に食い込んだ、といった印象です。決勝戦でも、スマホを使う児童の動機と、代替機器の使用が可能であることを論じてメリットの解決性を攻撃した否定側の議論が印象に残ったところです(ちなみに私はこの試合の副審を務めましたが、私は「この議論は主審にはむちゃくちゃ刺さりそうだなぁ」と思いつつも自分ではこの論点をやや肯定側寄りに取り、デメリットを小さく見て肯定側に入れました。)。
プラン後の動きを分析することはもちろん重要であり、このあたりを丁寧に論じることが勝利につながることは言うまでもありません。ということでこのあたりは結構見ごたえがあったのですが、小中学生のスマホが禁止された後の世界で小中学生はどう考えるか、という観点が入っても面白かったかもしれないという気はしています。例えば、スマホを持っていて取り上げられた場合は「もう一度使いたい」と思うでしょうが、一度も使ったことがない児童ばかりになればそこまで執拗には求めない、という分析はあるかもしれません。アンキモ(食べたことのない中学生も多いでしょうが、すごくうまい)を食べたことがない中学生が「アンキモ!アンキモ!」とはならんだろう、ということです。もっとも、親のスマホやら家族共用タブレットやらでネットの楽しさに触れられてしまうので、もはや後戻りはできないのだ、ということが言えるかもしれません。また、上記の議論は肯定側から投げかけることを想定していますが、否定側から「スマホを奪うことでネットリテラシーへの親しみが損なわれる」「親が介入しやすい小中学生からスマホを通じてネットに慣れていく方がよい」といったデメリットにつなげていく展開もあり得るところです。後者のようなデメリットが見られなかったようであるのは、資料が少ないからかもしれませんが(別の端末にシフトするという反論と整合しないと思ったのかもですね)、やや予想外でした。

その他にポイントになるかなと思っていたのは、「中学生以下」に限ってスマホを禁止するということをどう考えていくかという点ですが、これはなかなかディベート的に議論にしにくいからか、ここを問題とする議論は少なかった印象です。「どうせ高校でスマホにはまるので意味がない」といった解決性への攻撃としてたまに出てくる程度ですが、これではメリットを切りきれないので、勝負をかける議論にはなりにくいところです。「中学生以下は特に保護の必要性が高い」という重要性の付け方を試みるチームはいくつかあったように思いますが、デメリットと比べる際にこれを効かせていくにはひと工夫必要なところで、その工夫まで出しきってメリットを伸ばしきるという展開も私が知る限りは見られませんでした。
この要素を中心に議論するためには、スマホに対して社会はどう向き合っていくのか、という大上段の話に取り組んでいく必要があるように思われます。スマホの危険を考える肯定側からは、保護の必要性が高いというだけではなく、多少の利便性があっても一定の発達段階までは禁止が正当化されること(例えば自動車やバイクは小中学生でも乗れれば便利だと思いますが小中学生は運転できません。まわりに危険を及ぼす点でスマホより規制の必要性は高いですが、他方で、災害時に連絡を取るということよりははるかに大きい利便性があります)を、スマホの性質を踏まえて論じていくことが考えられます。他方で、否定側としては、スマホの利便性を児童の側の権利として議論してその制限の不当性を論じたり(その意味で「災害時の安否確認」のような議論だとこの筋で盛り上げることは難しいでしょう)、ネットや電子機器との関わりが不可欠になっている現代において小さいころからスマホに親しむことの教育的意義を論じたりすることが考えられます。このような権利や意義を論じる上では、多くの学校で貸与されているとされるGIGAスクール端末なるものへの評価も考える必要があります。
4分でそこまで議論することは難しいものの、決勝戦その他の試合でのスピーチを聞く限り、皆様にできない議論ではないだろうと思います。来年以降大会にチャレンジされる方や、高校で引き続きディベートをする方が、こういった大上段の話を具体的な議論で組み上げていく論じ方に挑んでいかれることを期待しております。

高校論題のポイントとさらなる展望
今季高校論題(石炭火力全廃)は引き続きJDAで扱われるということで、猛者たちがさらに掘り下げていくはずですのでここでコメントする価値は低いと思いますが、とりあえずの所感を書いておきます。なお、前提として、総じて良く調査されており、難しい論題に迫る興味深い議論が色々見られたということを最初に記しておきます。

少なくないチームが、エネルギー安全保障の観点から電力の安定性が重要であるという論陣を張っていたのが、今大会で目立ったところです。この発想は非常にまっとうであり、好感度の高いものだったのですが、「だからこのメリット/デメリットは重要だ!」という話で終わってしまい、エネルギー政策をどう考えていくべきか、というところまで昇華しきっていなかったというのが率直な印象です。エネルギー安全保障の重要性を説く否定側で言えば、石炭が安定しているかどうかという話以前に、選択肢を減らすことそれ自体が安全保障上マイナスと考えられ、自然に再エネ等に転換していく可能性や電力以外の分野でも環境対策は考えられるといった議論を出しつつ、わざわざ縛りプレイをする合理性はない、といった話をすることもできたように思います。他方で肯定側としては、エネルギー転換がすぐには進まない&放置しておいては進まないこと(これは論じているチームも散見されました)を前提に、石炭を含まない(再エネなりなんなりで代替した)電源構成が理想であるということを積極的に述べていくことになります。この「理想」は主に環境面を念頭に置いたものが想定されますが、石炭も海外に頼っているので、国内で再エネやら原発やらでやっていくほうがエネルギー安全保障上いいんだ、という切り返しも考えられそうです。
メリットデメリットの華々しい応酬ももちろん重要ですが、その前段階での構図をどうやって作っていくか、見せていくか、というところは、さらにもう一歩工夫があってもよいのかなという気がします。一回しか立論がないこともあってなかなか厳しいところはあるのですが…。

あとは、代替発電として何を選ぶかという話ですが、これはほとんどのチームが再エネ中心、バックアップをLNGやら揚水発電やらにするといったプランでした。しかし、ジャッジルームでも話が出ていたのですが、原発を代替発電に持っていくという選択は有力だったようにも思います。安全性はもちろん課題ですが、新しい型の原発は安全だといった話もできそうですし、作ってしまえば再エネより安定しそうな気はします。精査した結果再エネが最高だったということであればそれはそれでよいのですが、議論を聞いている限り、そこまで再エネが信頼度が高いようにも思えず、再エネ以外の道がもう少し考えられてもよかったのではないかという印象です。

具体的に議論するということ
これは中高の試合両方について言えることですが、「具体的に議論する」ということをより意識できるとさらにレベルの高い議論につながりそうだということを思いました。
具体的に議論するとはどういうことか。ここでは、あるアクションの結果や場面を精密に描写することを指します。それによって、聞き手に「どうなるのか」というイメージを抱かせることができます。

実際に問題になった争点を例に考えていきましょう。
中学論題における、スマホを禁止された生徒が別の端末に移行するという議論を例にすると、単に「小中学生は」という主語で語るのではなく、「メリットで問題となっているネット被害に遭うような小中学生は」という主語を考えることで、そういう生徒はどう行動するか、ということをより深く論じることができます。ネットでのつながりをより強く求めたがる、好奇心が強い、といった要素から、別の端末で同じようなことをやりたがるということを説得的に論じられるでしょう。
中学論題でもう一つ例を出すと、デメリットでよく見た「災害時の連絡手段」という話で、いったいどんな場面で「小中学生にスマホ持たせて良かった」という話になるのかということが考えられます。どんな災害で、どのくらいの頻度で起こるのか、という話は見ましたが、仮に大地震などの災害を考えた場合でも、小中学生だけで周りに大人がいないような「安否が心配になる」場面がどのくらいあるのだろうか、ということは考えられます。学校にいる時間であれば先生もいるでしょうし(学校にはスマホを持ち込めないという話もあるようですね)、塾や習い事の行き帰りであれば、山の中を歩いて通うわけではないでしょうから、周りに大人がいないということはないでしょう。他方で、連絡が取れないこと自体が心配につながる、ほかの大人にスマホを借りても親のLINEには連絡できない、ということはあるのかもしれませんが、それについても、その「心配」はどの程度保護に値するのか、心配して助けに行くような親はLINEで連絡が取れたら安心して迎えに行かないということになるのか、といったことを考えていくことができます。

高校論題でも同じようなことを考えることができます。一番わかりやすいのは、代替発電の現実性でしょう。再エネの議論で、ポテンシャルは何億Kwhだとかいうことが出てきますが、ポテンシャルってなんだよということをまず考えなくてはなりません。私も食事制限や運動をすれば20kgくらい痩せるポテンシャルはあると思いますが(というかそのくらい痩せてようやく標準くらいなのですが)、じゃあ痩せられるのかというと、そう簡単ではありません。フィアットはかかるのでダイエットには挑むのでしょうが、ストレスで大きなデメリットが発生する可能性があります。再エネだって、ポテンシャルがすごいからといって、そこまで増設することが簡単かというとそんなことはないでしょう。1億kwhの発電をするためには風車を何台、太陽光パネルを何平米置けばよいのでしょうか?いくら金がかかるのでしょうか?資材や人手はどうするのでしょうか?どのくらい時間がかかるのでしょうか?どこに設置するのでしょうか?その土地は誰がどうやって手配するのでしょうか?ゲームのようにボタンを押すだけで建つわけではないし、放置していれば風車がニョキニョキ生えてくるというものでもありません。肯定側で再エネへの代替を論じるのであれば、スピーチの時間的制約はあるとしても、具体的な増設計画やシミュレーションなどをある程度論じる必要があるでしょうし、否定側は上記のような問題を質疑段階から徹底的に叩くことができます。
なお、この観点から面白いなと思った議論は、ポテンシャルは北海道など一部の地域に偏在しているという話でした。遠くまで電気を送ることはできないという分析とセットになっていて、なかなか説得的な議論だった印象です。「肯定側は北海道と東北の電気が代替できるという立証しかできていない!」といったスピーチをすれば、ジャッジにも強力なインパクトを与えることができます。

時間が限られている以上、全ての論点でここまで細かく議論していくことはできないので、メリハリをつける必要はありますが、ここぞという論点で具体的な議論を展開していくことで、試合のペースを一気に引き寄せることができます。

結論(オチ)を考えて議論する
これはどちらかというと議論が複雑になりがちな高校でよく感じたことですが、何のためにその議論をしているのか、ということがよく分からない議論があるように思いました。
例えば、石炭への投資が今後進むだとか進まないだとかいう話や、世界が脱石炭に向かうかどうかという話がやたら盛り上がる試合がいくつかあったように思いますが、そのいずれの試合でも、そこを解決するとどうなるのかというオチが分からないまま議論だけが伸びているということになっていました。その結果石炭が今後入手できなくなるとか、世界も石炭に戻ってくるので日本が使い続けても問題ない(あるいは日本だけハッスルしても解決性がない)といったところまで詰め切ってもらえば分かるのですが、石炭が今後どうなるかという話で終わってしまうと、判定には役立ちません。目の前の議論を否定することが反論の目的ではありません。何のためにその反論をするのか、ということを意識する必要があります。

上記とは少し角度の違う話として、よくよく考えるとその議論で本当に自分たちの立場をサポートできているのか、ということもあります。分かりやすい例として、高校決勝の肯定側が出した「石炭火力は不安定だ」というメリットがあります。一見面白い議論なのですが、自分たちもLNG火力を補助電源にしておきながらどの口でそのメリット出してるんだという話を措くとしても、よくよく考えるとこの議論には大きな疑問があります。それは、仮に石炭火力が不安定だからとしても、だからといって辞めてしまう理由になるのだろうか、ということです。それなら一番良い選択肢は、石炭はそのままにしておいて、肯定側によれば安定しているという再エネも増やしていく、ということではないでしょうか。プランを取らないと不安定な石炭火力への依存が増すので「石炭禁止」で大きく流れを変えないといけない、とまで言えれば、Counterplanの出せないディベート甲子園では成り立つ余地もないではないですが、JDAでは「石炭は今程度維持して後はAffのいうとおりにしましょう」とやられたら終了です。
目先のインパクトらしきものだけを見るのではなく、それって結局どういうことなんだ、オチとして成り立っているのか、ということを一歩引いた目で見ることで、思わぬ弱点が見えてくることがあるかもしれない、ということです。

難しいけどディベートはやっぱり楽しい
ということで、色々と課題めいたことを書いてしまいましたが、実際の試合ではそれぞれに選手のプレパの蓄積や工夫が表れており、見ごたえのある試合でした。何より、久々の対面での大会となり、互いの息遣いや緊迫感が伝わってきたりもしました。画面に向かって講評を垂れ流すオンライン大会と異なり、直接お話しする機会ができたことも、ジャッジとして嬉しく思いました。大会3日間を通じて、改めて、ディべートの楽しさを再確認できた思いです。そのような機会をいただけたことにつき、選手やスタッフの皆さまにこの場で御礼申し上げます。
また来年、楽しい試合がたくさん見られることを楽しみにしています。といっても、その前にJDAがありますので、楽しみはまだまだ続きますね。石炭火力に半年取り組んだ高校生の皆さまも、JDAを観戦されるなどして一緒に夢の続きを追いかけましょう。

ディベート甲子園全国大会の感想 | 02:49:10 | トラックバック(0) | コメント(0)
第26回ディベート甲子園の感想(1.高校決勝)
ジャッジ講座は予定通り間に合わず、今年のディベート甲子園も終わりました。参加された皆様、大変にお疲れ様でした。初のオンライン開催でしたが、オンライン化したためか練習試合を重ねてきた様子も伺え、中高ともに全体的にレベルの高い大会でした。望むらくは対面での大会再開ではあるものの、オンラインの良さも活かしたポストコロナのディベート実践が実現することが理想であり、その可能性を大いに感じさせる大会であったように思います。

今回は、高校決勝(創価 vs. 慶応)について振り返っていきます。結果は1-4で否定側の慶応高校が優勝しました。試合の判定自体は主審を務めた山脈こと竹久氏の講評が分かりやすくまとめているのでそちらを聞いていただければよいのですが、私自身は肯定側が勝ったかなと思っていました。このあたりの違いは、私のスピーチの好みによるところが大きいのですが、以下では、メリットとデメリットに分けて決勝多数意見と自分の判定を対照しつつ、今大会を通じて安楽死論題について考えたことを若干述べることで、今季論題の私なりの総括をすることにします。

メリットの評価(~1AR)
メリットは、末期患者が他人に依存しないと生きられないなどケアで緩和しきれない尊厳ないし自律の喪失による苦しみ(スピリチュアルペイン)を問題とするものでした。終末期の患者にのみ安楽死を認める理由との関係で、精神的、肉体的苦痛という話より根源的なところに踏み込んだ、完成度の高いメリットでした。ただ、解決性が「安楽死は安心を得るためのお守り」といった話になっているのは、スピリチュアルペインとの関係ではちょっとよく分からないところがありました。スピリチュアルペインに苦しむ(苦しもうとしている)患者にとって、いつでも死ねるということが安心につながるのか、というのは、痛みほど直ちには言えないのではないかというように思います。が、試合では問題になりませんでしたし、それが直ちにメリットを否定するものでもありません。

これに対する1NRの反論について、1ARの再反論とともに順に見ていきます。
精神的苦痛は取れるという話は、スピリチュアルペインに対応しているのかよく分からないのと(余談ですが、日本緩和医療学会の「がん患者の治療抵抗性の苦痛と鎮静に関する基本的な考え方の手引き 2018年版」のⅡ章やⅧ章を読むと、反駁資料に出てくる「治療抵抗性の苦痛」はスピリチュアルペインには対応していないようです。この資料が使われたのは聞いたことがないですが、鎮静についてかなり詳細に論じており、結構使えそうです)、最良のケアでもダメとか、現に希死念慮が出ているという肯定側の分析との関係で、内因性を切るには弱い印象です。山脈も首をかしげているところであり、1ARでも同様にフォローされています。
死の願望は持続しないという話と、いつでも生きる希望を取り戻すという話は、撤回できるかどうかという話に依存するのと、「生きる希望を取り戻す」話は、おそらく尊厳や自立を失ったまま戻らないであろう末期患者に当てはまるのかという疑問があるところです。このあたり、メリットが苦痛の中身に踏み込んでいることに十分対応できていないうらみがあります。関連して、なぜ将来の可能性で今の苦しみから解放する必要性が否定されるのかという指摘がされていた点は、説明が足りない感はあるものの、一理ある話に思えました。死にたくなるほどの苦痛と緩和が繰り返すということだとすれば、結局総体として解放されたいという気持ちも分かりますし、完治の見込みがない末期という状況を考えるとなおさらそう思えます。このことは後述するうつ病の論点で1ARでも言及されていました。
判定を分けるのは、死を望む患者は抑うつ性錯乱のせいで死にたがっているだけという反論の成否です。末期でもうつ病は治るが見分けにくく、そういった患者を死なせることは患者の利益に反するという話で、死の願望が病気のせいだということになると、メリットのストーリーは切れていくことになりそうです。ただ、これもスピリチュアルペインに対応しているのか、ということにはよく分からないところがあります。抑うつで錯乱しながら、自分で自分のことができないので死にたいです、とか、終末期鎮静は受け入れられない、といったことを言うのだろうか、という疑問があるところです。これに対して1ARの返しの第一は、ALS患者の例を引いて、うつ病以外でも死を望む患者がいるというものですが、引くのはそこではなくてスピリチュアルペインではないかという疑問があります(ALSでうつになる人もいるでしょう。ちょっとググったらそういう話も出てきます)。返しの第二は、うつ病でも意思決定に問題はないというもので、これは良い反論になっていると思います。返しの第三は、終末期になってまで死の選択を制約する理由になっているのかというもので、これはなるほどと思うのですが、否定側は終末期でもうつ病は治るということを言っているので、それとの関係で微妙なところはあります。

デメリットの評価(~1AR)
デメリットは、現状患者の家族にとって介護が負担であるという現状を前提に、プランを取ることで本当は生きたいと思っている患者が家族からの圧力を感じて安楽死を希望し、医師も患者の本心を見ぬけず撤回も難しいので不本意な安楽死が生じるという話です。弱い立場にある終末期患者を保護すべきとの考え方が随所に見えて、これもよい立論でした。

これに対する1ARの反論を見ていきます。
憎しみを持っている家族との関係で消極的安楽死は既に行われている、という固有性に対する反論は、肯定側の分析に比べて深く、今はやろうと思えばできるのかなという心証までは行けそうですが、プランで予想される積極的安楽死の実施状況と同程度まで行われているのかということを考えると、ちょっと苦しい印象です。(消極的安楽死は治療中止で死ぬほどの直前にしか行われないので)対象が違うといっても時期的な問題にすぎない、というスピーチも、それを言うなら末期患者もほどなくして死ぬわけで、スピリチュアルペインも消極的安楽死で少しだけ早く解放されることと比べて時期的な違いに過ぎないのではないか、ということだって言えそうで、やや乱暴です。ここで勝負を決めることは難しそうです。
家族を思って死ぬことの何が悪いのかという話はさすがにそれだけで取れないとして、家族が止める、日本人は特に延命を望む、という話については、ある程度デメリットを削る部分もあるでしょうが、止めない家族もいそうだし、患者がどう受け止めるかというところまで否定側の説明をフォローできてはおらず、デメリットを否定するまでの踏み込みには至っていないところです。
死ぬ主な理由は自律が損なわれることだ、という反論は、立論の議論を引っ張ってくればよかったのに、かえって36%が他人の厄介になりたくないので死んでいるようだという話が出てきて、デメリットをサポートしてしまっています。
最後に、撤回できないという話は、推論に過ぎないというカードチェックは浅いですが(ALSの例であり安楽死一般に当てはまるのか?ということ等突っ込みどころはあるが…)、解決性を参照しているところは、説明不足ですが一応「薬をもらったが死んでない」ということで返しにはなっている気がします。その例とプランが対応しているのかは怪しいですが…。

ということで、デメリットは削れているもののそれなりに残りそうではないかという感触です。実際圧力を受けていないことが海外で確認されているといった、直接バッティングする議論も交えて叩くなどしたほうがよかったのではないかという気がします。

第二反駁を踏まえた評価
おそらくここまでの評価は決勝ジャッジともそう違わないのではないかと思うのですが、その後の第二反駁をどう見るかで判定に差が生じているように思われます。ということで両第二反駁を見ていきます。

2NRは最初に患者の利益にならないと決定を尊重すべきといえないので、弱い個人が死んではだめだということで、デメリットの総括からはじめました。自分たちの立場を貫くという点で最後まで一貫しており、その勢いには見るべきものがありました。
個々の論点について、固有性の返しについては、「肯定側のあげる『やったことある』は一回でもやったことがある人の話かもしれない」というものでしたが、一回でもやってたら否定側の分析とはバッティングするのではないかということで、ここは返しとして失敗しているように思います。ただ、その後で、少なくともLinearには残るし、それも積極的安楽死はより早い段階でできる等対象が拡大するという話は、まぁそうでしょうということで、結果的には返せています。その他の反論は、デメリットが残っているという話をしており、これはまぁ肯定側の議論が詰め切れていないのでそのとおりということになろうかと思います。
最終的なまとめとして、選択肢をうまく選べない弱い個人を優先すべきということを強調しており、ここが否定側の勝負どころなのだと思います。個人的には、このあたりの話は単にインパクトを引っ張っているだけで、メリットの想定する対象者との関係をどうとらえているのか(ある程度は重複するのでしょうが、自律を大切に思って死ぬ人と、家族に申し訳ないと思って死ぬ人には重ならないところがあるように思います)、といった説明がないのに、ちょっと上滑りしているという感じを受けました。私は、価値の議論について、単に伸ばされただけで評価することをしないので、ここは刺さりませんでした。

メリットに対する反論は、うつ病で死にたくなるという話に絞ってきています。意思決定能力に関する1ARの資料が仮想実験にすぎないという話は、証拠もないしちょっとよく分かりませんでした。ただ、見逃しやすい、ということは伸ばしていて、うつ病のせいで死にたくなる人もいること自体は1ARでも否定できていないように思うので、そういう人も混じってくることをどう考えるか…ということになります。ここも仔細に見ると、肯定側が想定するスピリチュアルペインで死にたい人と、うつ病のせいで死にたい人は被っていないようにも思われ、そうすると否定側の議論はデメリットのリンクを追加しているだけでNew Argumentではないか、という見方もできなくはなさそうです。肯定側から指摘がなければそこまでは取らないと思いますが、内因性を否定できているというためには、もう少しスピーチがないと厳しそうに思われるところ、デメリットの深刻性に引っ張っていく2NRのスピーチは、戦略としてはそういうものだろうと思いつつも、個人的には腑に落ちないところがありました。

続いて2AR。全体的にとてもよく整理されており、分かりやすいスピーチでした。
メリットについて、ケアでも不十分というところは十二分に説明されフォローしきっています。死にたい気持ちが両価的(行きたい気持ちと同居している)という点については、説明できてはいるのですが、末期であるとなぜ両価的であることを無視してよいかということの説明は実は不十分に思えます。この部分はうつ病の話にも関係してくるところです。一番重要なうつ病の話は、何となく返っているのですが、他の部分に比べるとやや反論が錯綜しているように思いました。まず、メリットが想定する理由で死にたがる人がいる(それが多い)ことを確認してそこのメリットを残しつつ、うつ病で死にたがっている人について、判断能力の有無について再反論を処理した後、判断能力があればその判断を尊重してよい、たとえ治る可能性があったとしても終末期であることなどを踏まえれば選択を尊重すべき、といった感じで論じていくべきものでしょう。特に最後の点は、治ったとしてもスピリチュアルペインの原因は解消されないとか、見逃されるのであれば結局治らないのだから、見つけることができていればという仮定でもって、その時点での患者の意思を否定するのはおかしい、といった議論ができたと思います。ただ、個人的には、2NRもここを十分掘り下げていたとは思われないことから、意思決定能力があるという話で十分返っているのではないかと考えたところです。

デメリットについて。一応残っているので固有性を伸ばしており、言っていることはもっともですが、ここだけで切れるものでもなく、そこまで時間をかけるのかという感はあります(「そこ一応やるんだ~」的なジャッジの反応もある)。時期的な差に過ぎない、という話も、そんな話かねというところで、ここで勝敗は決まらないというべきでしょう。
患者が止める云々という話は、「愛が勝つ」とか「氷山の大きさを示せていない」とか、プレゼンとしては秀逸で、実際分かりやすくはあったのですが、否定側のストーリーを切りきるところまではいけないところです。これは1ARから言うべき話なのかもしれませんが、メリットで述べられているような自律の欠落に苦しむ状態と、家族への心配(圧力という形で感じる)は実は重なっていて、家族への申し訳なさ自体がスピリチュアルペインだ、ということは言えるのかもしれません。いわゆるGood Death的な話でもありますが、今回のメリットからはそういう話が出てもよかったのではないかという気がしています。

結論として、それぞれがそれぞれの議論を立場毎にアピールし、分かりやすくまとめてくれていたのですが、最終的にメリットとデメリットが交わることはなかったように思います。正確には、否定側のほうが深刻性をゴリゴリと当てていた点で無理やりデメリットをかぶせている点で交わらせるようにしていたところはあるのですが、肯定側はそれには応接していません。
私としては、上述のとおり、デメリットのかぶせ方が不十分だと思ったのでそこには乗らず、スピリチュアルペインの苦痛を訴える人の解放というメリットがうつ病の論点を踏まえても残っているということで、削れたデメリットよりメリットを取って肯定側だと判断した(重要性と深刻性の話は明示の比較もなくどっちもどっちと思った)のですが、冒頭に述べた通り実際は1-4でした。ということで講評を簡単に見ていきましょう。

決勝多数意見との相違
講評を聞く限り、決勝多数意見と判断が大きく違うように思われるのは、やはりメリットにおけるうつ病の観点です。多数意見も色々な意見があるようですが、メリットで言われているような理由で死を望む患者もいることは認めつつも、うつ病のせいで死にたがっている人を死なせることはデメリットの深刻性で言われている観点から問題であるという点や、治療の余地があったり見逃される可能性を考えると正当化できないような安楽死が相当数あるのではないか、という判断が多かったようです。肯定側の言うスピリチュアルペイン的な理由で死にたい人の中にもうつ病の人がそれなりにいそうだと考えると、その分は確かに解決性を削るとも言えそうです。
本当は、スピリチュアルペインとうつの影響は併存しうるのではないか、併存している場合その死の願望は否定されるべきなのか、等いろいろ難しい問題はありますが、この試合でそこまでは議論されていません。私は、(観戦していた時に先の併存云々の問題まで分析的に考えてはおらず)少なくとも判断能力にはそう問題なさそうだし、メリットで論じている対象者の事例を正当化できなくするような事情とまでは言えないのではないかと考えたわけですが、ここは、否定側がデメリットをかぶせていったことも含めて色々と判断の余地があり、私のような肯定側の判断が必ずしも多数派ということでないことはそうだろうと思います。

今季論題についての雑感
決勝戦をはじめとして、今季の高校論題の議論は大変水準が高く、過去の同種論題の議論と比べても格段の進歩があったと思います。春季JDAと比べても遜色ない、あるいはより深まった論点もあり、安楽死論題のかなり核心的なところまで迫れていたのではないかと思います。私をはじめジャッジにとっても発見が多く、選手の皆様の努力には敬意を表します。

上記決勝の感想でも触れましたが、肯定側が想定する「安楽死を望む患者」と、否定側が想定する「安楽死を選ばされる患者」(ここにうつ病の影響で安楽死を望む患者が入るのかどうかは議論の余地がある)は動機に重なるところがあるのかもしれないものの、それぞれ別の対象を構成しているように思います。とすれば、今季論題の各種論点は、①動機が重なる患者の安楽死をどう評価するか、②安楽死を真摯に望む患者の意思と、安楽死を選ばされてしまう患者の防止のどちらを尊重すべきか、という2種の課題に大別できそうです。
①については、そもそもどういう重なりがあり、どちらが主因なのかという分析も重要ですが、それはディベートでは(でも)限界があるところです。重なりがある場合に、全部ひっくるめて死の質を高める要素として考えられるのではないかというのが所謂Good Deathの議論ですが、死にたくないという気持ちが混じっているときには死を選ばせるのはよくない、というのも直感的に肯定できるところです。このあたりは、具体的に患者がどういうことを考えるのかという要素の細かな分析や、終末期という状況に置かれた患者の意思決定の在り方をどう考えるかといった問題があり、今回の決勝戦で両チームが論じていたインパクトの議論のように、終末期においてはQODを意識すべき(もっとも、QODって何なんだ問題はある)とか、終末期という生きるか死ぬかの場面で、生きたい人が生きられる状態を実現すべきだ、といった様々な考え方があり得ます。どれが答え、ということはないのですが、今大会では、少なくないチームが、このような難しい問題にある程度アプローチできており、大変刺激的な経験となりました。
②については、今決勝で立論を聞いた感じだともう少し議論されるのかなと思いましたが、案外ぶつかることはなかったように思われます。正確に言えば、立論上ぶつかっているのですが、最終的なまとめの中では、メリットの想定者とデメリットの想定者の「両方が」いるということがあまり意識されず、そのどちらを優先すべきかという議論がされなかったということです。これは他の試合でもあることです。①の問題よりは簡単なのですが、かえってそのせいでフォーカスされにくかったのかもしれません。あるいは、両方がいるというまとめ方に不安があったのかもしれませんが、特に否定側は、この部分は勝ちどころにしやすい気がするので、もう少し意識的に論じられてよかったように思われます。立論段階で既に材料は出ている場合が多く、スピーチ中そこまで強調しなくても取られる、ということもあったのかもしれません。

結局、上記①や②を踏まえると、全てのケースが理想的な死の選択と言えるのかというと難しそうだし、真摯に死を望む人の中にさえ、葛藤は生じるのではないかとも思います。そう考えると、現状安楽死を認めていないということには十分な理があるようにも思いますが、他方で、終末期で真摯に死を望む人も、意志の強さという面では比較的「強い個人」と言えそうであるものの、健康状態等の観点からはまさしく「弱い個人」なのであって、そのような立場の人が苦しみながら死の選択を希求していることに対して、自己決定として疑義がある等の観点で選択肢を与えないことは、それ自体が権利侵害ともいえるし、社会の側が選択から逃げている(この表現は私のアイデアではありません)という評価もできそうです。私個人は、悩みつつも、医学的に可能なのだとしたら選択肢が与えられてしかるべきではないか(それこそ持続的鎮静を認めているのに、殺さないという一点にこだわる合理性がどこまであるのかというと、「いつ」「誰に」認めるかという制度設計の問題にすぎないようにも思う)という気がしていますが、この思い自体も、議論を聞くたびに揺れています。それだけ示唆深い議論に触れる機会が多かったことは、ジャッジとして、ディベーターとして大変幸せなことでした。

このように難しい問題に果敢に挑戦した選手の皆様に改めて感謝するとともに、決勝主審ではないですが、今後もディベートを楽しんでほしい、一緒に楽しんでいきたいという思いをお伝えして、高校論題の私的総括とさせていただきます。

ディベート甲子園全国大会の感想 | 00:41:45 | トラックバック(0) | コメント(2)
第24回ディベート甲子園の感想(2.高校論題)
間が開いてしまいましたが、ディベート甲子園高校の部(FN規制論題)についての感想を述べていきます。東海-創価の決勝戦のほか、東海-聖光学院の準決勝①、創価-渋幕の準決勝②も題材に、より深く議論できたと思われる点へのコメントを中心とします。
今季論題は難易度が高く、その中で選手の皆様はよく議論を展開されていたと思いますが、そういうことは全国の各講評で言われ慣れていると思いますので、ここでは割愛して、厳しめの内容とさせていただきます。

1.プランについて具体的に考えよう
今季論題では、FNをどのように規制するのか、という点でいろいろなプランが提案されていました。地区予選も含めて私が見た試合では、第三者機関を作ってファクトチェック(FC)させるとか、裁判所に機関を構成させるとか、AIにFCさせるとか、様々なプランが出てきました。これらは、解決性を出すため、あるいは想定されるデメリットを防ぐために出されているものですが、本当に機能するのかということについて、いくつかの次元で考えるべきポイントがあります。

まずは、そもそも具体的にどんなものを想定しているのかよく分からない、ということがあります。FC機関を作って処理させるというプランで、解決性の議論で「きちんと機関を作るので問題ない」と主張したりするチームがあったのですが、そもそも、その機関はどの程度の規模なのでしょうか。FCの専門家で構成するといった話をするチームもありましたが、FC専門家とはどういう人で、日本に何人くらいいるのでしょうか。AIにチェックさせるというプランも見ましたが、どんなAIなのかも分かりませんでしたし、AIを参考にするのか、それともAIが最後まで判断するのか、というのも謎でした。すべてを細かく確定しなければならないわけではないですが、ある程度イメージを持てる説明ができないようなプランを出しても、試合で役に立つはずがありません。
関連して、実現可能性があるのかという問題もがあります。以前見た試合で、質疑の結果、1万人規模(!)のFC機関を作り、弁護士や学者で構成するというプランだったことが判明したことがありましたが、弁護士は日本に4万人程度しかいませんし、そんな謎の機関に入りたがる弁護士は100人もいないでしょう。学者の数はもっと少ないのではないでしょうか。そもそも、FN対策だけのために1万人規模の機関を作るということ自体アンバランスだということに思いを致すべきでもあります。

上記のような問題は全国大会ではさすがにクリアされてきていますが(試合で意味をなさないことに気づいたのでしょう)、プランの具体的な執行過程については、もっと突っ込んだ考察が欲しかったところです。
例えば、準決勝①の東海肯定側立論は、通報を受けたのにFNを削除しなかった事業者に罰金を科すというプランですが、否定側質疑で「誰が事業者の義務違反を判断するのか」と聞かれたことに対して、「裁判所が判断する」と回答されています。間違いではないのですが、裁判所は起訴された事件についてのみ判断するのであって、起訴するかどうかは裁判所が判断するものではありません。事業者が義務違反したといって逮捕したり取調べをしたりするのは警察や検察で、そこで義務違反があり起訴すべきと検察が判断してはじめて、裁判になります。否定側がこのあたりの質問をしたのは、間違った/偏った判断がされる、という話につなげたいからだと推測されますが、そうであれば、裁判所に持っていく過程で政府側の意向を汲んだ警察・検察(行政)が絡んでくるということは是が非でも確認すべきところであり、それを確認しないのでは質疑した意味がありません。
同じ例で続けると、否定側質疑からは「裁判所がFCするんですか」といった質問が出ています。これに対する応答は「通報後7日以内に削除したかどうかを見る」といった回答が出て、否定側はなぜかそのまま「7日間はFNが残るのではないか」という別の話題に流れていってしまったのですが、このやり取りからは、質疑の狙いが謎ということと、肯定側の説明もずれている、という2点の問題が指摘できます。後者から説明すると、肯定側が説明すべき「正しい審理の在り方」というのは、検察官がFN非削除という義務違反があったことを立証する証拠としてFCの結果などを提出し、弁護人が逆にFNであることを否定する証拠などを出し、それに基づき裁判所がFN認定も含めて判断する、ということになるはずです。肯定側の立場からは、裁判の場でFNかどうかを争えるので不当な処罰は防げる、という主張につなげたいところですし、否定側の立場からは、判断するのはFNに必ずしも詳しくない裁判官であることを確認するとか(それで判断できないということになるのかは疑問ありですが)、審理に時間や負担がかかるということを確認して萎縮の議論につなげるとか、そういった話になるのかと思いますが、結局、プランの具体的な執行過程はよく分からないままでした。せっかくプランを問題とするなら、そこまで踏み込まないと意味がないです。
なお、具体的な執行過程については、準決勝②の創価の肯定側立論が詳細に述べており、これは現実に即した内容となっています。ただ、24時間以内の削除義務というのは、結構きついように思いますが…。

2.反駁にストーリーをもたせよう
今季論題で全体的に残念だったのは、ストーリーのある反駁が少なかったように思われることです。色々とそれらしい反論は出ていますが、立論と関連付けた議論とか、いくつかの議論が組み合わさってまとまった形として展開される反論が少なかった、ということです。主に、相手のメリット・デメリットに対する反論を検討すると、そのあたりが見えてきます。

準決勝①から見ていきましょう。
否定側第一反駁の話は、大きいところとして、(1)公選法でも規制されているので新たな規制領域は国民投票だけ、(2)ドイツのSNS法はFN以外も規制しているので解決性の話がどこまでFNに関係するのか不明、(3)FN規制には時間がかかるので投票に間に合わない、(4)規制しているドイツでもFNが出回った、(5)事業者が規制を恐れてオーバーブロッキングする(ターンと称していますがデメリットにつなげる話なのでターンかは微妙)、というものでした。(1)(2)はたいしたインパクトがなく、(4)も削っているだけの話です。どうせ(1)のような話を撃つなら、公選法でも防げていないということを強調し、せめて発信者が逮捕されていればFCの有効性がありそうだが、そもそも動いていないということはFC自体機能していないのでは、といった話まですればよかったかもしれません。反論として骨があるのは(3)(5)ですが、(3)はそれだけで「全部消せないので意味なし」ということになるのか疑問であり、他の議論を組み合わせていかなければ、投票理由として心もとなさすぎます。悪意あるFN発信者は抑止されないしFNも巧妙悪質化している
、といった議論を組み合わせるだけでも違ってきます。(5)は、実質デメリットの繰り返しなので、反論として機能させたいなら、重要性にアタックして、仮にFNが若干減るとしても、情報の総量が減るほうがよくない、といった議論を付加する必要があります。メリットがデメリットの存在によって裏返る、ということを言わないとターンにはなりません。
これに対して、肯定側第一反駁のデメリットへの主だった反論は、(1)ネット以外の報道機関も権力を監視している、(2)報道機関は萎縮しない、(3)香港の例はメディアの自由がないから問題になった特殊な例、というものです。これは、いずれも、報道機関が監視するので問題にはならない、という議論で、これは一貫していて面白い議論です。ただ、デメリットで言われているネットの萎縮自体は否定できていないので、かなり危ういところがあります(実際否定側第二反駁にもそうやって引っ張られてしまっている)。デメリットの筋にも何らか反論をしておくべきところだったでしょう。特にオーバーブロッキングのところは実質的な反論をすべきでした。

準決勝②についても見ていきます。
否定側第一反駁の主な議論は、(1)対抗言論がFNに負ける理由がよく分からない、(2)肯定側の例は怪しい例だけを取り上げたもので、言論空間全体が問題だということは言えていない(クレームが分かりにくく最後まで聞かないと趣旨が取れないのが残念)、(3)FN犯人の特定が技術的に難しい、(4)DL違法化の例でも悪意ある確信犯には抑止が働いていない、(5)FNが氾濫すると法規制を防ぐためマスコミが自らFCに乗り出す、というものです。このうち(1)はダウト、(5)は今どうなっているのかも疑問ですし、いきなり出てきた印象で、時間が余った?のでついでに述べた感がありありと窺われます(デメリット冒頭の対抗言論の動きだということなのかもしれませんが、ならそう言ってくれという話)。判定上も考慮は難しいでしょう。(2)は悪くない指摘なのですが、投票理由につなげるのであれば、むしろほとんどの言論は健全だ、というところまで整理して、デメリットとの比較につながる議論にすべきです。第二反駁ではそのようなスピーチになっていましたが、第一反駁からそのような議論をもっと打ち出し、できれば関連するエビデンスも読みたかったところです。(3)(4)は、別々の反論という感じで出ていましたが、これも関連させつつ、悪質なFNは強い動機に支えられているという分析を最初に入れた上で、(4)→(3)、といった順序でスピーチすれば、全体として言論空間は健全だという話とも関連させて、取り締りたい例は取り締まれず、全体的に萎縮するだけ、といったストーリーにできます。そこまでやっていけば、対抗言論のほうがよいという反論(否定側立論最初の分析だけでは弱いが…)も生かして、全体的にメリットを潰していけそうです。
肯定側第一反駁のデメリットへの主だった反論は、(1)フランスのFCの話はどう機能していたのかも日本で機能するのかも不明、(2)リツイートと内部告発の関係が不明でありプラン後も内部告発はできる、(3)根拠を持った責任ある表現でないと保護に値しない、といった話です。(1)については、メリットにも関係する議論なので、プランを取るべき理由(FCだけでなく規制を設ける必要性)まで踏み込んでいきたかったところです。(2)と(3)もごもっともなのですが、ここは(3)を起点にして、自分たちが規制しようとしているのがどういう領域であるのか、否定側が主張する「有益なのに萎縮する言論」がどこまで規制領域に入るのか、きちんと理由を持って表現することが期待できるのではないか、といったことを丁寧に論じていけば、メリットとも関連させつつ、デメリットの筋を否定していくことができたのではないでしょうか。

最後に決勝戦について。
否定側第一反駁の主な議論は、(1)EUの例でFNは事前に暴かれており、騙されて投票した人はほとんどいない、(2)日本では対抗言論でデマは淘汰されている、(3)処罰されることが認識されなければ規範意識はできない、(4)FCに時間がかかるので処罰可能性が低い、(5)見抜きにくい混合タイプのFNが流れるようになる、(6)肯定側の例は混合タイプの話をフォローしておらず、実際に移民問題でそのようなFNが残っていた、というものです。(1)と(2)は別々の議論として出されていましたが、これは関連する議論で、そもそもFNを規制すべき必要性がどれだけあるのか、という観点の反論として展開すべきでした。準決勝②の渋幕の議論を参考にすればよかったのに、という話です(こういうこともあり、サイドで反駁者を変えるのは勝負的にはあまりよくないと個人的には思います。)。(3)と(4)は関連する議論として出ていましたが、処罰可能性というのはすぐ捕まるという意味ではないと思いますし、それを言うなら、本当に検察がリツイートした1万人なり全員を起訴するのか、という話のほうが真に迫っている気がします。規範意識の話は萎縮のデメリットにも関連するのですから、否定する方向で持っていくのではなく、悪意ある者には意味がない、という観点の反論のほうがよかったのではないでしょうか(だから渋幕のスピーチを参考にしていれば…)。そのほうが(5)(6)の話にもつながっていきます。(5)(6)は良い議論であり、デメリットとも関連させて、良識的な人は萎縮し、悪意ある人は悪質な混合タイプのFNで暴れ続ける、という世界観を押し出せていければ、議論の展開としてかなり厚みが出たと思いますが、今回の試合では、単にいい資料持ってるなーというだけで終わってしまった感があります。この「いい資料」に肯定側が返せず、メリットが死んで肯定側が倒れた、というのが決勝戦の要約となります。
肯定側第一反駁のデメリットに対する主な議論は、(1)ネット以外のマスメディアが問題提起する、(2)保育園ブログの前にクロ現で報道があった、(3)ネット世論は極端で社会一般とはかけ離れておりどうでもいい、(4)保育連の例も反対の人が多い、というものでした。(1)(2)の話は、クロ現だけでは話題になってなかったわけで、むしろデメリットを際立たせている感があります。(3)(4)は苦しすぎで、これを取るジャッジは立教大の会場を探しても一人もいないでしょう。ネット世論が萎縮しても問題なし、という筋悪極まりない議論で2枚資料を読んでコンボ?を決めても何の意味もありません。否定側第一反駁にも完全には返っていないので、肯定側第一反駁の終了時点で試合は終わっているということになります。

以上のように、個々の議論を見ていくと、個別には機能する良い議論もあったのですが、同じ方向性の議論をまとめて争点を形成したり(例えば、FN規制の必要性、という切り口だったり、FN規制の実効性、という切り口だったりする)、反論を自分たちのメリットやデメリットと関連させたりといった形で、ストーリーとしてもっと議論を盛り上げることができたのではないかと思われる点が多々ありました。第二反駁では工夫してスピーチしているところも見受けられたのですが、そもそもの弾の出し方が練り切れていないので、そもそもまとめを取りにくいということもありますし、もっとダイナミックなまとめができたはずなのにそうなっていないという試合が多く、結局、個々の反論が残った残っていないというレベルで判断がついてしまい、スピーチの白熱度合いにもかかわらず「面白みに欠ける」結果になってしまっています。選手の皆さんの中では色々と考えているのだろうとは思うのですが、それが反論の積み上げ方に反映されていない、という印象です。

3.今季高校論題でもっと論じられてもよかったこと
今季高校論題の決勝、準決勝の感想は主に上記2のとおりです。立論は総じて良くできていたと思いますが、そこからの展開にもっと可能性があったのでは、ということを思った次第です。もっとも、今季論題は、今年の司法試験憲法の問題にもなっているような高度なものであり(問題はこちらの第1問、出題趣旨はこちら。出題趣旨は憲法の判例や基本的論点を知らないと意味の分からない記載もあるでしょうが、皆さんが考えてきた問題が法律家登用試験――極めてレベルの高い出題です――に出てくる最先端の課題だということが実感できると思います)、それに正面から挑まれた皆様の努力と熱意には敬意を表します。
その上で、さらにこのような点について議論ができたのではないか、ということを二、三指摘して、今季大会の総括とさせていただきます。

FN規制と表現の自由
FNが問題である理由や、FNの規制が表現の自由に及ぼし得る影響については、各チームで深い考察がされていました。決勝や準決勝を見ても、FNにより表現の自由の場が荒らされ、「思想の自由市場」を保護するために規制が必要だという観点(準決勝②の創価の議論)や、逆に思想の自由市場を保護するため自由に委ねるべきであるとの考え方(準決勝②の渋幕の議論)、政治的表現にFN規制の影響が強く及ぶことの指摘など、水準の高い考察が多々見られました。
ただ、上記2でも指摘したところですが、これらの価値観に基づいて個々の議論を展開していくというところまでは至っていなかったのが残念なところです。思想の自由市場の在り方を論じるのであれば、肯定側からは、ネット上の言論の特質などを踏まえて、対抗言論が機能しにくいことや、虚偽が真実を圧倒して言論を捻じ曲げていることなどを重要性に対応する現状の課題として位置付けた上で、仮に完全でないとしてもそういった害悪のある表現を規制する手段を持つ必要がある、といった説明を成し得たでしょう。その中で、現行法上も名誉棄損など害悪のある表現は規制されており、それとの平仄としてFNだけ放置しておくのはおかしい、といった指摘もできたかもしれません。これに対して、否定側からは、そもそもFNによる被害はどこまで大きいのか、政府の規制によらないFCや対抗言論で対応できていないのか、といった問題提起により思想の自由市場の健全性を論証した上で、FN規制が内容に基づく強く広範な規制であり、FN判定の困難さや、政治的言論にも及び得ることから、萎縮の棄権や言論統制への悪用可能性が強く、思想の自由市場への害悪が大きすぎる、という筋の主張が可能です。
ここでのポイントは、単に「FNのせいで冷静に議論できていない!」とか「FNにより政治的言論が萎縮する!」といった結論だけを伸ばすのではなく、価値観に沿った分析を行い、ストーリーとして議論を伸ばしていくということです。せっかく深い考察ができているのですから、それを使って議論を組み立ててほしいというわけです。第二反駁ではある程度意識したスピーチが出ているところもあったのですが、第二反駁は積み上げてきたものに基づいてスピーチするステージですから、もっと前の段階でストーリーや価値観に沿って議論を展開していく必要があります。

伝統的メディアとFN規制
ほとんどのチームでは、ネット、SNSのFNを題材に議論を展開していました。現代のFNの主なフィールドはそういったところにあるのかもしれませんが、プランは特に規制対象をネットに限定しているわけではないので、新聞やテレビ、雑誌といった伝統的なメディアにおけるFNや、規制の弊害についても論じられてよかったのではないかと思います。伝統的メディアがネット上の言論より信頼性が高いと本当に言ってよいのかなど、色々と考えるべきポイントもあるでしょう。
この点、東海高校は、(決勝は全くダメでしたが)伝統的メディアが健全であるためネットの私的言論が多少萎縮しても問題はない、という議論を展開していて、切り口としては面白いものでした。ただ、本当にそれでよいのかという点は疑問があり、プランは当然伝統的メディアも規制対象とするので、萎縮も考えられるし、関係者が処罰されるということも当然あり得べきことです。東海のプランはドイツに倣って超高額の罰金を課しているわけで、60億払えと言われたらさすがに文春の春も終わってしまうでしょう。

政府による言論統制の可能性
多くの否定側では、言論の萎縮を主な問題としており、政府が恣意的に規制するといったところまでは踏み込んで議論していなかった印象です。しかし、言論の規制を考える上では、政府による過剰規制への警戒についても思いを致すべきであり、そういった観点からの議論がもっとあってもよかったのではないかと思います。
単純に政府がFN規制を通じて言論に介入する可能性がある、という話(動機と手段を丁寧に論じれば十分成り立つと思います)だけでなく、そもそも政治的言論にも広範に及ぶ内容に基づく規制を課すこと自体が問題だという切り口(毛利教授の論考に基づき少なくないチームが出していました)から、規制の存在自体が政府に有利な言論統制としての機能を果たす、という議論も可能です。すなわち、意見表明などFN規制に該当し得る政治的表現をより欲するのは常に少数派であり(多数派は動かなくても勝っているので)、政治的表現一般を規制すること自体が、仮に中立的規制であったとしても少数派に不利に働く、といった議論を行うこともできるでしょう。

政治的表現以外の言論に及ぼす影響
全国大会では、見た試合のほとんどで、政治的表現におけるFNが問題とされていました。議論の組み立てやすさや深刻さの度合いから、そのような選択は理解できるのですが、政治的表現に限らず、FNが問題となり得る領域があります。
特に、まさに事実の真偽が問題となる科学的言論においては、FNというべき言説によって政策に影響が生じる事態もままあります。個人的に関与していたこともあるので詳論は避けますが、現在も、世界的に有効性や安全性が認められている子宮頸がんワクチンについて、副反応(有害事象)が問題とされて厚生労働省が積極的勧奨を中止し、裁判が起こっているという事件があります。仮に副反応の存在が事実なのだとすれば、これに反する言説は被害者を増やす結果につながりますし、逆に訴えられている副反応が存在しない(正確に言えば、症状とワクチン接種との間に因果関係がない)のであれば、副反応の恐れによりワクチン接種が行われなかったせいで、ワクチンにより守れたはずの生命が損なわれたということになります。
こうした問題につき、FN規制という形で答えを出すことが可能なのか、また出せるとしてそのような解決が相当なのか、ということもあるのですが、ネットの発達により情報拡散・伝達の速度が飛躍的に高まったということの影響は、単にリツイートしやすくなったとかそういうことだけではなく、専門的な領域の情報に市民がアクセスしやすくなり、その「専門性」に依拠して行動する機会が増えた、ということにも見出されるところであり、そういった観点からの議論があってもよかったかな、と思うところです。


4.最後に
色々と書きましたが、今季のような高度な論題について、選手の皆さんがそれぞれに説得的な議論を組み立てられてきたことには、ジャッジとしてのみならず、一法律家として、大いに敬意を表したいところです。何より、これだけ難しい問題に、(辛いこともあったでしょうが)楽しんで取り組んできたということは、非常に価値のあることです。世の中には、真剣に考えなければならない難しい問題が山積していますが、それを解決していくためには、必要な議論を避けることなく、事実と向き合って考えることが必要です。それは、論題発表からの半年間で皆さんが取り組んできたことにほかなりません。これからディベートを続けるにせよそうでないにせよ、今季論題と格闘し、考え抜いた経験を大事にして、さらに難しい問題にチャレンジしていかれることを期待しております。

ディベート甲子園全国大会の感想 | 01:35:49 | トラックバック(0) | コメント(0)
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