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アカデミックディベーター

Author:アカデミックディベーター
日当たりの良い某法科大学院を2009年3月に卒業。
ライフワークである競技ディベートについてぼちぼち書いています

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第22回JDA秋季ディベート大会決勝戦の批評など
だいぶ間が開いてしまい時機を失しておりますが、はじめてJDA決勝でクリティークが勝ったことで色々と物議をかもした今年の秋JDA決勝戦について、コメントしておきます。JDA-MLでも盛り上がっており、そちらでも蟹池さんをはじめとする有益なコメントがあったのですが、閲覧できる人が限られるのと(登録は無料ですが)、途中で変なことになって議論する気を失ったので、こちらで思うところを自由に書くことにします。といっても大したことは書いていませんが…。

私は、本決勝戦で、肯定側に投票しています。マイナーボートでしたが、率直に言って、私の感覚からは、否定側に入れる理由がなかったので、以下では、(別途JDA-MLでも書いていますが)私が肯定側に投票した理由を述べた上で、おまけとして、ネット上で見かけたまとまった分量での決勝批評についてコメントを加えることにします。

なお、決勝戦のトランスクリプトはこちらで見ることができます。最近はgoogleで廉価なトランスクライブサービスもはじまったようですし、NADEとかでもトランスクリプトを作ればいいのに、と思いますが、これは本題ではないのでこのあたりで。

1.決勝戦の議論について
1.1 主審愚留米の判定理由
私の判定理由を正確に記載すると、以下のとおりになります。

(1) 1ACのケースは、現在最低賃金が低すぎて最低限の生活を保障できていないことや、長時間労働の原因になっていること、最低賃金を大幅に(1.5倍程度)引き上げることでこれらの問題が改善に向かうことを示していた。これは、論題を肯定する(最低賃金を肯定すべき、と言える)十分な理由と評価できる。

(2) 1NCの論点Aについて、最低賃金改定と関連して、働かずに生活保護を受給している者がいるという批判的な言説が存在していることは理解した。しかし、その言説が、「日本は最低賃金を大幅に引き上げるべきである」という論題のアクション(及び肯定側の提示したプラン)から生じている、あるいは不可分であるということは全く示されていない。そのことは、後の質疑で否定側も自認している。
したがって、この部分から、論題を否定すべきという理由ないし示唆は全く見いだせない。

(3) 1NCの論点Bについて、トランスクリプト暫定版から引用すると、否定側は、「働いていないことは悪いことじゃない。働いていない人も、働いている人も同じように食べられればいい。『働かざる者食うべからず』の名のもとに、生活保護を下げたり、インセンティブという名のもとに最低賃金を上げたり、もうそんなことはやめよう、やるべきじゃない」という「対抗言説」によって論題を否定したと主張しているが、論点Cを踏まえても、かかるアクションがなぜ論題が否定できているのか全く分からなかった。
まず、この対抗言説なる主張が論題を否定する言明になっているかどうかだが、最低賃金を引き上げるという命題自体に、働かざるもの食うべからずとか、生活保護を切り捨てるということが必然的ないし本質的に内在しているとは思われないし、上記(2)の評価からしても、否定側はかかる論証に失敗している。よって、対抗言説が認められることで論題が否定されるという関係にはない。
また、肯定側のケースに対する反論という文脈で見ても、肯定側はインセンティブという名のもとに最低賃金を上げようと言っているわけではないし、生活保護を下げようとも言っていないから、肯定側の立場に対抗する言論、として論題を否定していると解する余地もない。

(4) ここまで述べたところからして否定側に投票する余地はないが、仮に、上記(3)の対抗言説が認められた場合に論題が否定されると考えるとしても、対抗言説の正当性、すなわち、対抗言説が「働かざるもの食うべからず」的言説より優れている理由についても、否定側は論証できていない。
この点、個人的には、生活保護受給者が非難されていることは望ましくないと思うものの、何らの論証もなくそう評価することには躊躇を覚えるところであるし、肯定側もワーキングプア的な人を救おうという主張をしており、ここが否定されていない以上、それに比べて否定側の言説がより価値がある、と評価することはできない。
そもそも、彼らは、言説による支配に抵抗したいと言っているのであるから、そこで求められる論証は、否定側の主張する言説に共感する人(JDAジャッジのようなインテリ)ではなく、現に生活保護受給者を批判している言説発信者を説得し得るような理由付けというべきである。この試合の議論を総覧しても、否定側の言説が現状を善い方向に変えるとは思われないし、純利益的な勝敗を無視して、そのようなものを称揚すべき意義も一切見出せない。

(5) 以上より、肯定側は論題を肯定する理由を提出していたが、否定側の主張は一見明白に理由がなく、論題を否定すべき理由を全く見出すことができない。否定側の対抗言説枠組なるものを採用するとしても、否定側はその枠組内で果たすべき役割を全く果たしていなかったものであり、どちらの判定枠組が優れているかという論点以前の問題であるから、どちらの枠組かを判断するまでもなく肯定側の勝利となる(どちらの枠組によっても肯定側に投票する、という意味です。)。

1.2 議論の批評
上記に述べたとおり、私としては、今回の試合で否定側に入れる理由は皆無と感じています。もっとも、そのように判断した理由は、肯定側の反論を考慮したからではなく、否定側の主張自体が失当だったということに尽きます。
肯定側の反論は、クリティークがポリシーディベートに害を与えるとか、自分たちの分析が無視されているのはおかしいとかいったものでしたが、そういう大上段の議論ではなく、まさにその試合で出された否定側の枠組と称される議論について、論題を否定する理由たりえないこと、さらに踏み込んで、論題と離れても無価値な議論であることを厳しく追及していってほしかったところです。特に後者については、自分たちのケースの議論を援用した上で、否定側の議論が肯定側の指摘したワーキングプアの問題を無視して、論題との関係で非本質的な言説を取り出してわめいているだけで、このような議論を認めることは、必要とされる政策についての建設的議論を妨げ、市民社会における討議の在り方にも悪影響を与える、と指摘すべきでした。その後でベネットのエビデンスを読めば、相当格好いい試合になっていたと思います(CoDAのは読まなくていい)。
立証責任の話も、相手の枠組に即して、相手方が何をどこまで言うべきなのか、ということを具体的に述べてほしかったです。1NCの論点1も、一部の言説を切り出してきただけで、論題そのものとの関連性や必然性を示したものではまったくないですし、論点2は肯定側の議論とも論題の文言とも無関係な発言です。さらに言えば、その価値観が正しいことの立証もありません。そういったことを丁寧に指摘することが、必要でした。

否定側に投票したジャッジは、以上のような指摘が肯定側からなされなかったことを理由にしているのだとは思います。私としては、いくら反論がないからと言って、今回の否定側に入れることはできないのではないかと思いますし、説明不足の議論を毅然として棄却することもジャッジに求められる見識だという立場です(この点、決勝でご一緒した某ジャッジはtwitterで「イニシャルで切るというのはジャッジの介入ってことなのでイニシャルで切るなりの「目の前の議論を無視している」というデメリットがあるかと思います。もちろん一切ジャッジの介入がない試合なんてあり得ないので、程度問題。でも重要な部分になにも肯定側アタックしてないのに、判定でジャッジが落とすというのはどうかなぁと思いました。」と述べていましたが、では否定側がアタックしなかったら証明不足のケースでも切るのか?という話であり、このような理由でしか判定を説明できないのはどうかなぁと思いました。もちろん字数制限の問題だけで、別に積極的な判定理由があるのだと思いますが)。
ただ、否定側の議論に強く寄り添えば、肯定側はメリットデメリットによる分析の利点を積極的に示せたわけではないし、否定側のいうような現実的影響を考慮した議論ぶりのほうが望ましく、実際に否定側が現実的に価値のある議論を出していたのかはよく分からないけど、まぁそれっぽい議論をしていたので、否定側の枠組を採用したついでに否定側に投票しておこう、というざっくりとした判断はできるのかもしれません(協議時間は短く、このあたりを十分話す機会はありませんでした。ですので講評ではほぼ私の見解を述べてしまいましたが、詳細は追って公開される?バロットを見てください)。
なお、理論的に言えば、否定側の枠組が採用された場合、その枠組において肯定側は何も論題を肯定する理由(この試合の場合言説?)を出していないことになり、推定を通常通り適用すると、否定側の理由もゼロであったとしても、推定により否定側に投票することができる、という説明ができるのかもしれません。しかし、この試合で肯定側のメリット・デメリットの枠組が完全に否定され切っていたか疑問であり、そうだとすると、否定側の枠組に乗ってみても推定で決めるしかない状況(結局何も議論していないのと同じ)である場合はメリット・デメリットの枠組に戻ってもよいのではないかと思いますし、否定側が自分で出した枠組である以上、その際の推定は肯定側に有利に置く、というのが妥当な処理であると私は考えます。上記の判定もそれを前提にしています(前提にしなくても肯定側に投票しますが)。

いずれにせよ、この試合で、否定側が提示した枠組の中で豊かな議論がされていたかというと疑問であるし、枠組の当否に関する議論も、別の意味での「熱さ」はありましたが、議論内容として熱いものがあったかというと、率直に言って厳しいところだったと感じています。その意味で、この決勝戦は「クリティークが勝った」という結果自体はセンセーショナルであるとしても、議論水準としては決して高いものではなかった、というのが、偽らざる感想です。
急いで補足しておくと、上記の感想は、否定側が適当にクリティークを出していたということを意味しません。否定側は、クリティークを成立させるためにリサーチを重ねてきたのだとは思いますし、スピーチも良好でした。しかしながら、その中身は、この論題を議論するためのベストな方法とは到底思われず、クリティークを出さんとするがために準備してきたのだな、という感想を抱かざるを得ないものでした。これは、否定側も引用していた田島先生の論文(こちら。否定側が引用している2011年の原稿に加筆修正されたもの)で紹介されている、代理母論題でのクリティークとは、一線を画するものです。私は、クリティークをやりたいという「チャレンジ」そのものに特別な評価を置くつもりはないので、議論としてよかったかどうかということでしか評価を述べることはできません。

ということで、私個人の感想としては、今後クリティークを出すのであれば、もっと論題に根差した議論を出してほしいし、クリティークを出そうと考える選手の方々にも、(どんな議論を出すかはもちろん各自の自由ですが)それが論題を論じる上で最善の方法と思えるのか、なぜその議論が説得的なのか、ということを考えて、クリティークありきの議論を作るという無益なことは避けてほしいと願うところです。必要に迫られて既存の議論形式に挑戦するからこそ、新しい価値が生まれるのであって、新しいというだけで飛びつくことは、その新しさの意味すら捉えそこなうのではないかということを危惧する次第です(ただ、今回の決勝否定側は、問題提起的意味で敢えてやっているところがあるのだとは思います)。
ディベートを指導する立場からも、クリティークはあくまで基本を押さえた人がやるもので、最初はメリット・デメリットの考え方を抑えることがよいと考えています。そういった伝統的?分析の限界について考えることは大事だと思いますが、いきなり自由にやれと言って誰もがそうできるわけではありません。この決勝戦の否定側だって(少なくとも私から見れば)失敗しているわけです。まずは、社会の合理的意思決定として模範とされている考え方に沿って議論を学び、その便利さと適用が難しい場面の存在を体感することではじめて、前提を適切に疑うことができるはずです。

また、クリティークが既存のメリット・デメリットの枠組と対立するものなのか、という点も、考える必要がありそうに思いました。これはJDA-MLの蟹池さんのコメントを見ていただきたいところなのですが、結局、クリティークも、前提に疑問を呈するなどして論題の是非を論じる議論のバージョンであって、メリット・デメリットの枠組にも発想を取り込めるでしょうし、メリット・デメリットと併存して議論していくこともできるかもしれません。この決勝戦で出た否定側の議論にはそのような可能性を看取することはできなかったものの、論題に内在する価値観を問題にするという切り口自体は、一つの議論の在り方として十分成り立ち得るものと感じます。
(論題の是非とは無関係に議論する、という立場もあり得るのかもしれませんが、そこまで行ってはもはやディベートは「いい話コンテスト」になってしまい、どうかと思います。そういう議論がしたい人は、競技ディベート以外の議論空間(それこそ弁論!)に行くか、別のルールでディベートをやるほうが幸せになれる気がします。)

2.決勝戦批評の批評
ここからはおまけです。twitterまとめから拾った、まとまった形の感想(つぶやきにとどまらないもの)にコメントしています。

ビーストさんの「JDA決勝の感想と問題提起
JDA-MLで物議をかもし、筆者登場時に歓迎の言葉で迎えられたブログ。
投票理由は、私の述べたところと類似しており、結論も含めて異存ないところです。他方で、この記事の特徴は、クリティークが評価されることへの懸念と、あるべきディベートについての問題提起がされているところです。
あるべきディベート像については、若干固いというか、実社会のことを考えてももう少し広い範囲の議論はあり得るのかなという気もしましたが、実社会での意義を考えるべきであり、新しいとか、挑戦的というだけで評価されてよいのか、という点は同感です。特に、議論の実験室という題目で、クリティーク等の議論の「新しさ」を特別に評価することについて、私も強い懸念を持っています。固定観念で議論を制約してはならないという消極的規範として「議論の実験室」という言葉が使われることはあってよいですが、逆に、「実験室なので何でもしてよい」ということにはなりません。実験はあくまで現実的な仮定を置いて行われるべきであり、現実に説得力を持ち得ないものを評価すべきではありません。
そうやって考えると、このビーストブログが言っていることは、クリティークか何か知らないが、論題を否定する理由としてよく分からない議論が評価されたことはおかしい、ということに尽きているのでしょう。この決勝戦で否定側は多数票を占めましたが、投票理由の説明は肯定側に入れた側のほうが容易だと思いますので、私個人としても、否定側を支持する人の理由付けに興味があるところです(JDA-MLではうち1名の投票理由が詳細に述べられています。)。

Doriブログの「JDA決勝(2019秋)の感想
メリット・デメリットの枠組でもって否定側に投票できると考えた、との主張ですが、率直に言って、判定理由は理解に苦しむものです。以下、厳しいコメントを記載しますが、このブログでも書かれている「議論の中身と人格を分ける」ということでご理解ください。判定について様々な考え方があり得ることはもちろんのことですが、様々な人の目に触れる以上、明確に間違っている(と思う)ことについては、そのように指摘する必要があるというのが、当ブログの基本理念となっております。
まず、否定側の対抗言説が肯定側の重要性とぶつかっているというのは、議論の評価を誤ったものです。肯定側は、働いているのに賃金が少ない人が困っているということを述べているのに対して、否定側が問題としているのは、それとは別に、生活保護者に対して働けという非難が向かっていることであって、両者は別物と捉えるべきです。否定側が明示で反論として当てているならともかく(それでも当たってないですが)、否定側も特に述べていないのに、ジャッジが勝手に「誤った」対応関係を見出すのは大きな問題です。
続いて、メリットを全く評価しなかったかのように見えるところ(twitterでのやり取りを見るとそのような趣旨のようです)についても、判断が厳しすぎると言わざるを得ません。この論題で一度も聞いたことがないからというのも理由になりません。統計処理だけでは評価できないという話も、もちろん統計ですべて説明できるわけではないし前提となる調査方法なども含めてきちんと評価される必要がありますが、統計だけでは取れませんというのでは、じゃあどうすれば評価されるのでしょうか。明坂やロング、ILOのエビデンスが「ゼロ」だとすれば、政策論題で解決性を立証することは著しく困難になるでしょう。また、この試合のケースは、内因性で最低賃金が低すぎるという話や、最低賃金が上がれば給料が増えるという話もしており、その裏返しという意味でも解決性を評価する基礎はあります。これが取れないとすると、私が予選で肯定側に投票した試合は全部誤審だということになります(というかおそらくメリットを評価したすべての肯定側投票が誤審になります)。もしかしてそういう問題提起なのかもしれませんが、それはおよそ的を射ていないものです。
最後に、1NCと2NCを総合して考えると、ワーキングプアの問題に対して(最低)賃金上昇によってインセンティブを与えてはならないということが否定側から言われている…という指摘ですが、なぜ否定側はそんなゆるく取れるのか、理解不能です。私の投票理由でも書きましたが、生活保護批判と最低賃金上昇との関連性はよく分かりません。1NCの桜井のエビデンスで、最低賃金改定でそういう批判が出てくると言っていることをもって評価しているのかもしれませんが、それだったら、より素朴に、最低賃金を上げればワーキングプアの生活が改善するという話も取られて然るべきです。今回の1NCと2NCの内容から、1ACのケースを上回るデメリットが認められるというのは、どう贔屓目に見ても考えられないところですし、選手自身も予想だにしていないものでしょう。このような判定理由が否定側への投票を正当化できるとはおよそ思われません。
なお、否定側が投票理由にしていないことでも投票理由にしてよい…という説明は、具体的な適用例を考えると容易な問題ではないのですが、簡単に言えば、当事者の予測可能性が担保される限りにおいて許されるものと考えます。予測可能性の有無を考えるにあたっては、争点化されていたか、議論の内容からして明白に対応関係があると言えるか、といったことを考慮する必要があります。この試合で、否定側が主張していないけど、メリット・デメリットの次元で否定側に投票する、ということ自体は、別にあってもよいとは思います(黙示で争っている=否認している、と見てもそこまで変ではない)。しかし、否定側の議論がメリットの重要性に当たっているとか、デメリットを構成しているというところまで評価してよいのかについては大いに疑問があります。肯定側からすれば、自分たちの議論は簡単に切っているのに、なぜ否定側の議論についてはそこまで善解して再構成しているのか、偏頗な判定だ!と怒りたくなるでしょう。私も同感です。

neeTakeSさんの「JDAトランスクリプトとクリティークについてのコメント
否定側がどういう構成で議論しようとしていたのかということと、それに対する分析が記載された内容です。細かく分析されているので是非ご一読ください。私としては概ね異論のない内容でした。
最後の段落で、選手としての想いが書かれているところは、考えさせられるところがあります。同じような声はほかにも聞きましたし、決勝の肯定側も強く思っていたところでしょう。ただ、それは試合で正しく表明すべきものだったというべきです。具体的には、肯定側の分析に十分論題を肯定すべき理由があり、否定側が持ち出した枠組はそれを無視して、正しく論じるべき対象を見誤らせるものであるということをきちんと主張すべきであった、ということです。決勝戦で肯定側が負けた理由として指摘されるべきことがあるとすれば、この点に尽きます。
クリティークの試み自体への評価とは別に、目の前の議論の是非だけをもって判断すべきという指摘もそのとおりです。ですから、今回の決勝戦への感想は、クリティークや既存の議論枠組に対する一般的な賛否や嫌悪感で片付けられるべきではなく、どのように議論すべきか、という観点からさらに考察されるべきでしょう。そのあたりも含めて、neeTakeSさんの今後の論考に大いに期待したいと思います。

JDA決勝批評 | 18:27:48 | トラックバック(0) | コメント(0)
第20回JDA秋季ディベート大会の感想~抽象的な政策方針をCounterplanでどう論じるか~
どうもご無沙汰しております。最近業務が立て込んでいたため全く更新できておりませんでした。夏の中学論題についての記事リクエストも受けているのですが、ちょっと後回し、となりそうです。

では何を書こうかということで、やはりJDA秋季大会ということになります。この大会では、Kritikを回した意欲的なチームの活躍が印象に残っており、これはいずれきちんと取り上げたいと思っているのですが、Kritikについてはそのチームメンバーが大会までのプレパを踏まえた本格的な記事を連載中であり、こちらのクオリティが非常に高いため、まずはこちらに委ねようと思います(ちなみにその他のディベートの記事も面白いです)。私が付け加えるとすれば、私が考えるKritikの理論的・実践的な困難性と、これまで見てきた日本語ディベートの議論シーンを踏まえた活用可能性といったところになると思います。
ということで、以下では、難民認定基準緩和論題の否定側が用いている資金提供Counterplanをネタに、Counterplanの考え方について少しお話ししようと思います。実は、今年のJDA大会では決勝のチーフジャッジという大任を務めており、そこでも少しだけお話ししたのですが、そこでのお話しの内容を、若干詰めて展開するということになります。

まず、前提として、難民論題における資金提供Counterplanの概要を説明しましょう。
この論題における肯定側(Aff)の一般的ケースは、日本の難民認定基準が世界的に見ても不合理に狭く、日本に来た難民が十分に保護されていないという議論を展開します。この議論を全部否定することはかなり困難で、否定側(Neg)としては何らかDAを立てたいのですが、犯罪増加や難民元の国との外交悪化といったDAはどれもいまいちで、Affがきちんと仕事をするとこれでは勝ちきれない、という状況にあります(北朝鮮問題など、近隣諸国での紛争に絞った議論にすればいろいろ問題は立てられそうにも思いますが、その場合もAffに有利な考え方ができそうで、やはり詰めるときつそうな気はします。)。
上記のような状況のもと、Negの苦肉の策として考え出されたのが、日本で難民を受け入れる代わりに、その分のお金を難民キャンプなど、ほかの受け入れ先への資金援助に回すというCounterplanです。日本のような先進国での受け入れにはコストがかかるので、それよりも途上国のキャンプにお金を入れたほうがコスパがよく、多くの難民を救える、という話です。
どうも、最新のプレパ事情では、お金だけ出すという姿勢が途上国に評価されておらず限界があるという話が有力そうで、どうも厳しそうではあるのですが(決勝でも出ていて投票理由に寄与しています)、以下では、その話は措いて、理論的なところを少し詰めてみましょう。

このCounterplanの面白いところは、Counerplanの具体的内容がAffのプランに依存しているということです。すなわち、Affのプランにより増加する難民受け入れの費用を全部資金提供に使う、ということなので、資金提供に使われる金額は、Affのプランで予想される受け入れコストの増加分に依存することになります。これに基づき、Negは、同時採択を主張するAffに対して、Affのプランに要する費用を全部資金提供に回さないといけないので、Affプランとの同時採択は不可能であるということを言います。
ただ、この議論を競合性の話として理解するのは、容易ではありません。NegのCounterplanだって、どこかの段階で、Affのプランから見込まれる追加コストによって資金提供額を具体化する必要があり、そのような規模の資金提供と、難民受け入れを両方行えばよいと考えることもできます。具体的には、AffのPermutationの内容として、Negが適当と考える額の資金提供+Affのプランを同時採択するということを提案することができ、Negにおいて適当な資金提供額を特定できないのであれば、Counterplanとして具体性を欠き投票理由にならないのではないか、ということを主張することができそうです。Counterplanに具体性がいるのかどうかという話はありますが、少なくとも、論題を否定する積極的理由として議論するためには、Negにおいて現実的に難民政策に割ける予算の枠を示し、その枠内では資金提供のほうが効率的であるとか、難民受け入れは著しく非効率なので常に資金提供のほうが望ましいことを示すといったことが必要になるでしょう(少なくともAffから要求され得る)。

また、このCouneterplanは、通常のCounterplanと異なり、ケースで論じられている内因性に対する解決性を持っていないことにも注意を要します(実は、その部分については、希望すれば難民キャンプに送るという別のプランが存在しているのですが、決勝では実現可能性に疑問ありとされました)。つまり、日本に来た難民ではなく、世界全体の難民を救おうという、別の話を持ち出してきているわけです。ここを放置して議論を進めると、かみ合わない感じになってしまいます。

こう考えると、Negによる資金提供の議論は、通常のCounterplanと少し異なる説明方法によることが分かりやすいように思われます。後者の、内因性と違う問題を論じている点については、いわゆるCounter-goal counterplanという、別の目的を解決するためのCounterplanを提示しているものと整理することになります。この手のCounterplanで勝つためには、元々のゴール(Affケースのimpact)より自分たちのゴールのほうが重要であること、Counterplanで自分たちのゴールを達成できる(Affのプランでは達成できない)ことを示す必要があります。もっとも、両方のゴールを達成すればいいということで同時採択を主張されかねないことは通常のCounterplanと同じなので、競合性の立証も必要になります。
というわけで、結局問題が戻ってくるのですが、今回のような資金提供Counterplanが言わんとしているのは、同じお金を使うなら全世界の難民救済という別のゴールに使うほうがいいのだということですので、具体的なプランではなく、資金の使途についての抽象的な方針を論じることになります。このような場合には、最初からCounterplanという出し方をせず、Affのプラン(ひいては論題)は難民救済の方法として間違っており、より異なるアプローチによるべきだということをより端的に述べたほうが分かりやすいかもしれません。

上記に基づけば、例えば、以下のような構成の1NCが展開できそうです。

1.Affケースのインパクトへの疑問:Affのプランは日本に来た難民の処遇しか論じておらず視野が狭い
2.取るべきスタンス:難民問題は世界的であり、場所に限らずより多くの難民を救う政策をとるべき
3.Negの支持する政策方針:難民受け入れの緩和による日本での受け入れではなく他国での受け入れに対する援助に注力すべきである
4.Negの支持する政策方針により実現されるメリット:①世界での難民対応費用の不足(内因性)、②そのせいで難民が苦しんでいる(重要性)、③プランで想定される規模の金額でできること(解決性)
5.Affの方針との競合性:①国際貢献の予算は限界があり、難民対応費用も限られているので、日本での受け入れと他国への資金援助はトレードオフである、②日本が現実的に拠出できる資金の範囲内では日本での受け入れより他国への資金援助のほうが効率がいい



上記議論のキモは、日本が目の前の難民申請者でなく世界的な難民に目を向けるべきなのかという1・2の部分と、5の競合性の部分です。ただ、決勝戦の議論を見ると、5のように整理し直した競合性の証明は結構うまくいきそうです。ということで、本質的な問題は、1と2の議論(と、4の解決性。金だけでよいのか?)ということになりそうです。
個人的には、資金提供Counterplanはここが一番苦しいのではないかという気がしています。いくら金を払ったところで、自国に来てしまっている難民を不当に排除してしまっているという事実(もしあれば)は解決しないわけで、それ以外の難民が救われているということでそのことが正当化されるのかということには疑問があります。競合性のところで「予算的にトレードオフ」ということを主張されていることについては、Affからは、難民受け入れの増加分は有限かつそこまで巨額ではないから、国際貢献の枠を増やしてでも追加で行うべきで(フィアットの範囲で同時採択的な追加プランにすることもできる)、日本にspecificに生じている難民受け入れ義務は世界の難民問題とは別に履行すべきということを言われてしまうと、Negとしては苦しかろうという感じがあります。こう考えると、結局、整理した結果上のほうで見た競合性への疑問の話に回収されるわけですが、同時採択できるかどうかという次元で議論するよりは見通しが良いのではないかという感じはあります。

以上、いまいちまとまりを欠く感はありますが、言いたいこととしては、Counterplanの3要件という基本的な考え方はあるものの、特殊な意図を持つCounterplanの場合には、展開・構成の方法に工夫の余地があるのではないかということでした。Affの側から見ても、Negが言いたいことをうまく整理することで、どこが反論のポイントなのかということを洗い出すことにつながります。JDAでも、上記のようなAffの反論は見られなかったところで、Affとしてはさらに仕事をすることもできただろうということを思っています。
[追記:本記事を書いてすぐ、JDA準決勝のトランスクリプト公開がはじまり、その中で弁士の3PチームのNegが上記に近い議論をやっていました。実際には負けてしまっているわけですが、どのような理由で負けるのかが気になるところです。ケースもよくできており、非常に良い試合の予感がします。]
[さらに追記:そのあと上記準決勝の2ACに接したところ、キモとなる部分への反論が出そろっており、これは厳しいなぁという感じでした。Negもよく議論していたとは思いますが…。]

ともあれ、(論題のサイドバランスにはいろいろ議論があるようですが)以上のようなことを考える余地のある工夫された議論が出ていたことについては、20周年記念大会にふさわしい、実りある大会だったと思います。改めて選手の皆様に敬意を表して、本日の記事を終わることにします。

大学・社会人ディベートの記事 | 18:32:53 | トラックバック(0) | コメント(3)
第18回JDA秋季大会の短評~ヘイトスピーチ論題の振り返りとして~
気が付いたらもう年末に差し掛かってしまいました。今年は冬コミも当たっていない(申し込んでない?)ので特に告知はないのですが、別途の集団で骨太な同人誌を出そうという話もありますので、うまくいったらそちらでひと暴れしたいものです。

さて、今回は、間が空いてしまいましたが第18回秋季JDAの決勝について書きます。この試合は決勝ジャッジに入っていたのですが、やや迷った末にAffに投票して多数意見になっています。ただ、論題との関係での議論水準はNegのほうが上回っていたと思います。司法試験採点実感風に言うと、自動販売機のような議論を回すAffに投票してしまい、試験委員の気持ちがよく分かった気がします。
とはいえ試合の水準は高く、Affもディベート的に悪かったわけではないです。実力のあるチーム同士が死力を尽くして戦った感があり、JDAらしいよい決勝ではありました。

トランスクリプトがJDA-ML以外に流れていないので、以下、議論をデフォルメして紹介しつつ感想を述べ、最後にヘイトスピーチ論題でこんな議論ができたのではないかなという話を書くことにします。じゃあお前出ろよという話なのですが、できるものなら出場したいものの時間がなかなか取りがたく…。そんなこと言ってると職業ディベーターに怒られそうですが。
といったところで以下本題です。

*トランスクリプトでディベーター名が非公開とされているので、必要な?場合のみTDN式表記法で名前を書きます。

決勝のAffは、マイノリティ保護というオーソドックスな議論です。デメリット切りに「政治、科学についての発言は原則として規制の対象外」というプランを挿入しているのはいかにもTMK氏らしいのですが、例によってこれはどうかなと思うところです。そもそもヘイトスピーチは政治と不可分なものであって、そこを規制しないとすればマイノリティ保護も実現できないでしょう。そういう表現規制の難しさから逃げて勝とうという態度において、議論が浅くなってしまうことは不可避です。Negもそこはわかって攻撃していたのですが、さらに踏み込んでAffの底の浅さを露呈させるような議論までは行けなかったことにより、TMK流ディベートはもう少し寿命を延ばしたということなのかもしれません。
ただ、ケースの中でおっと思ったのは、最初の方で、ヘイトスピーチがネットで始まって拡大再生産していくという話でした。その後伸びることなく残念だったのですが、劣悪な言論を規制すべき理由というのは、それが良質な言論を圧倒し、理性的な議論の可能性を狭めていくということにあるので、こういう分析はウェルカムです。しかし、結局試合では外交関係が悪くなればヘイトも盛り返す…といった被害の数に終始する議論だけで、橋本のエビデンスを読んだ意味は何だったのか、ということになります。Affはこの辺も残念でした。
上記はともかく、さすがに手堅いケースではありましたが、これに対するNegの反論は、大きく言えば、①今は減っているという話、②カウンター行動で大丈夫という話、③政治や科学の議論を許容するプランではヘイトスピーチがまともに聞こえるのでより悪いという話でした。本来一番インパクトがあるのは最後の③の議論で、クレームがいまいちだったのでターン気味になっていなかったですが、これを目玉に持って行ってほしかったところです。これがいまいち伸びなかったのはNegが得票を伸ばせなかった主因と思われます。①と②はセットなのですが、Affからカウンターデモはより悪いという話が出て、これに対するケアがなかったので、ケースが分かりやすく残ってしまいました。筆者がAffに入れたのはそれが理由です。
カウンターデモの話は、①と②を結び付けて、意識が変わってきているのでOKという議論にしているのがNegの工夫でありそれはそれでよいのですが、さらに工夫があるべきだった、ということになります。要するに、言論規制より言論の自由下での自主規制(対抗言論)の方が望ましいという話ですので、例えば1NRの最後のほうで出てきた小谷のカード(規制するとうっぷんを晴らせなくなってダメ)や、2NCで出てきた「ヘイト規制はかえって在日が日本の法に介入したということになって恨みを買う」という話を絡めていくのもよいかもしれません。後者はいわゆるアファーマティブアクション論争で出てくる典型的な議論だったりするのですが、在日ヘイトの文脈での議論でもあり、それなりに説得的です。これらを個別に出すのではなく、言論規制と対抗言論の比較という話にした上で、カウンターデモへの暴力行為などは警察で規制するのであって、国がすべきことは言論で解決できるように実力行使や特定個人への法益侵害が明らかな侮辱・行為を規制することだけだ(これだって公益性があれば処罰されない可能性がある)、というのが、Negの模範的な態度になろうかと思います。別にNegがそうスピーチしなくてもジャッジのほうで再構成することは可能で、実際筆者もそうしようかと迷ったのですが、さすがにやりすぎかなぁと思って自重した次第です。

NegのDAは、表現の自由の侵害です。このDAは表現の自由規制の要点を押さえていてよくできていましたが、2NCから1NRにかけて出てきた、何か社会に対して訴えようとするのであれば、挑発的で挑戦的である必要がある、というのがNegの議論の白眉です。これこそが、Affのプランのせこさをひっくり返す武器にもなるところでした。すなわち、表現の自由というのは(というか人権一般は)、多くの場合少数者のために保障されるものであるところ、普通に言論をやっていては多数派に勝てない少数者が、ある種煽動的な言論をもって多数者に対抗できる機会を保障すること自体に、表現の自由の意義があるわけです。Affのプランでは、「きれいな議論」しかできなくなるので、強い言論活動で多数派に訴えかけ、あるいは少数派で連帯したいという思いは規制される一方、多数派は科学・政治の体をとって、優位な立場での発言を続けるということになるわけです。
ただNegにおいて残念だったのは、上記のような形で、過激な言論が必要だという話を使っていけなかったことです。マイノリティにとって重要だ、という話も出していたのですから、そこを引っ張りつつ、マイノリティの言論が萎縮するというにとどまらず、マイノリティに保障されるべき「過激な言論」が規制の対象になってしまうという議論を打ち込んでいけば、DAは相当強固に立ったと思います(同性愛など少数派の言論活動に意味があったことなどの実例があればより完全ですが)。それに対してAffの議論は対抗言論で解決されつつあり、マイノリティ保護という意味でも国が介入しないことがベストであり、言論の自由の価値を信じろ、ということで押し切れば、少なくともこの試合のAffの議論セットでいけば、Affに入れる理由は完全になくなります。
もう一つNegにとって残念だったのは、DAで言論規制の話を出していますが、政府が恣意的に規制する動機を持っているという話をもっと強く押し出すべきだった、ということです。Negは、2NCで日本で表現の自由が侵害されやすい、という話を出しているのですが、これがプランとの関係でうまく伸ばしきれていなかったうらみがあります。Negが出していた政治ビラ配布の問題は、まさに政府に反対する少数者弾圧の問題です(試合では出ていませんが憲法で有名な判例であり、イラク派兵反対のビラです。)。こう見ると、この問題も、上で見たマイノリティ言論抑圧の事例につながっていくわけで、真っ当な議論をしているとすべての議論が連関しているのだということの好例です。
このように、Negは筋のいい議論をたくさん出しており、かつ、その位置づけにも十分自覚的だったとは思うのですが、やはり議論の量が多すぎたからか、これを体系的にまとめるところまで上手く行き着いていなかった感はあります。海外事例のエビデンスを少し減らしてでもこのあたりの話を丁寧にやる方がよかった気がしますが、ディベーター心理的にそれが容易でないこともまたよく分かるので難しいところです。

といった決勝戦でした。いずれトランスクリプトが公開されるようですが、いろいろと考えさせられる試合であり、最初は正直どうかと思った論題ですがなかなか面白い議論が見られてよかったな、という感じです。JDA-MLに入っていない方は公開を心待ちにしてください。その際には、字数が多いとかいう表層的かつどうでもいいことにではなく、議論の中身に注目してください(まぁ、実際あれだけの量をきちんと分かる形で話せるのも実力の高さですし、観ていて高まりを感じるポイントではありますが。)。

最後に、ヘイトスピーチ論題でどういう議論が望まれたのか、ということにつき、Negの話は上でざっくり書いたので、決勝で深掘りが足りなかったAffの立場から考えてみることにします。
Affにおいて、Negの「対抗言論の方がよい」「言論規制はよくない」という立場に対抗するには、規制の必要性を、在日の方など特定マイノリティの話だけで基礎づけるのではなく、言論規制の根拠と同じ位相において展開していく必要があります。具体的に言えば、言論規制は、表現の自由を保護するために行われるのだ、ということです。
これは経済的自由に対する規制のことを考えると分かりやすいことです。独占禁止法では、カルテルや談合など、不当な取引が規制されています。これは、経済を規制するものではなく、むしろ市場の公正性を保ち、自由経済を健全にするためのものととらえられています。表現の自由においても同様のことはあり得て、言論の自由市場の健全性を破壊するような言論については規制する必要があるという論陣を張ることが可能です。そして、そのような「不健全な議論」こそが、ヘイトスピーチだというのが、Affの論証すべき命題です。
ここで、上で触れた、Affの伸ばさなかったヘイトスピーチの「拡散再生産」という性質が活きてきます。さらに踏み込めば、ヘイトスピーチが差別意識、さらには現実の差別行動を助長するのだ、ということを主張していく必要があります。ヘイトスピーチの問題は、それが非理性的であるがゆえに理性的な反論ができないこと、それでいて対象の価値を切り下げる効果があることだと思います。このような、理性的な言論で対抗できない悪質な議論が広がっていくことで、対象となるマイノリティが痛み、言論市場においても発言機会を失っていくのだとすれば、それは、表現の自由の文脈においても許されないことであり、まさに表現の自由の名のもとに規制されなければなりません。
これでようやくAffの議論はNegと同じ舞台に立つことになります(より具体的な保護の必要性があるので少しAffが有利と言えるかもしれません)。その上で、Negの主張する萎縮効果論ないし規制の濫用に対してどういう回答を用意するかが、Affの次の関門です。正直なところ、この議論を完全に否定することは難しいのですが、Affの回答としては、それでも規制が必要であれば進めざるを得ない、ということになるでしょう。これを支える議論としては、判例などで明確化を図るというpracticalな話のほかに、今後日本でマイノリティが問題になるようなセンシティブなissueがたくさん出てくる際に、健全な議論環境を整える必要がある、というものが考えられそうです。Negも少し出していましたが、たとえば移民問題は、今後日本でも問題になるでしょう。Negの文脈ではそこで言論が萎縮する、ということになるのですが、むしろ、マイノリティ差別的なヘイトスピーチを許してしまう社会では、移民問題を理性的に論じることはできなくなる、というのがAffの切り返しで、これは詰めるとAffのほうが有利になりそうです。海外の事例では実際上手くいっているところもあるようで、民族問題などで海外においてヘイトスピーチ規制が先行しているが、今後の日本でも同様の問題がやってくるのであり、その時までにヘイトスピーチに対する対抗手段を持たないままでよいのか、というのが、Affの大きなストーリーとなりそうです。

とまぁ、こんなことを考えたわけですが、実際に試合にしようとすると難しいのだとは思います。しかし、今後もディベートという活動が価値あるものとして認知されていくためには、こういった議論が集積されていく必要があるのではないかなとも思います(ちなみに補足しておくと、決勝出場者も含めて、少なくないディベーターは、こういった感じの話をしています)。ディベートの試合でWorkするかどうかという話はよく聞くのですが、大きなストーリーとしてどういう議論があり得るのか、あるべきなのかという話があんまり聞かれない気がするので、いつもながら試合に出ていないのに偉そうに書いているということを承知の上で、コメントさせていただく次第です。

といったところで、おそらく今年最後の記事は終了です。相変わらずクリスマスの予定はないですが仕事がありますので…。
皆さま、よいお年をお過ごしください。

JDA決勝批評 | 01:45:46 | トラックバック(0) | コメント(0)
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