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アカデミックディベーター

Author:アカデミックディベーター
日当たりの良い某法科大学院を2009年3月に卒業。
ライフワークである競技ディベートについてぼちぼち書いています

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第22回JDA秋季ディベート大会決勝戦の批評など
だいぶ間が開いてしまい時機を失しておりますが、はじめてJDA決勝でクリティークが勝ったことで色々と物議をかもした今年の秋JDA決勝戦について、コメントしておきます。JDA-MLでも盛り上がっており、そちらでも蟹池さんをはじめとする有益なコメントがあったのですが、閲覧できる人が限られるのと(登録は無料ですが)、途中で変なことになって議論する気を失ったので、こちらで思うところを自由に書くことにします。といっても大したことは書いていませんが…。

私は、本決勝戦で、肯定側に投票しています。マイナーボートでしたが、率直に言って、私の感覚からは、否定側に入れる理由がなかったので、以下では、(別途JDA-MLでも書いていますが)私が肯定側に投票した理由を述べた上で、おまけとして、ネット上で見かけたまとまった分量での決勝批評についてコメントを加えることにします。

なお、決勝戦のトランスクリプトはこちらで見ることができます。最近はgoogleで廉価なトランスクライブサービスもはじまったようですし、NADEとかでもトランスクリプトを作ればいいのに、と思いますが、これは本題ではないのでこのあたりで。

1.決勝戦の議論について
1.1 主審愚留米の判定理由
私の判定理由を正確に記載すると、以下のとおりになります。

(1) 1ACのケースは、現在最低賃金が低すぎて最低限の生活を保障できていないことや、長時間労働の原因になっていること、最低賃金を大幅に(1.5倍程度)引き上げることでこれらの問題が改善に向かうことを示していた。これは、論題を肯定する(最低賃金を肯定すべき、と言える)十分な理由と評価できる。

(2) 1NCの論点Aについて、最低賃金改定と関連して、働かずに生活保護を受給している者がいるという批判的な言説が存在していることは理解した。しかし、その言説が、「日本は最低賃金を大幅に引き上げるべきである」という論題のアクション(及び肯定側の提示したプラン)から生じている、あるいは不可分であるということは全く示されていない。そのことは、後の質疑で否定側も自認している。
したがって、この部分から、論題を否定すべきという理由ないし示唆は全く見いだせない。

(3) 1NCの論点Bについて、トランスクリプト暫定版から引用すると、否定側は、「働いていないことは悪いことじゃない。働いていない人も、働いている人も同じように食べられればいい。『働かざる者食うべからず』の名のもとに、生活保護を下げたり、インセンティブという名のもとに最低賃金を上げたり、もうそんなことはやめよう、やるべきじゃない」という「対抗言説」によって論題を否定したと主張しているが、論点Cを踏まえても、かかるアクションがなぜ論題が否定できているのか全く分からなかった。
まず、この対抗言説なる主張が論題を否定する言明になっているかどうかだが、最低賃金を引き上げるという命題自体に、働かざるもの食うべからずとか、生活保護を切り捨てるということが必然的ないし本質的に内在しているとは思われないし、上記(2)の評価からしても、否定側はかかる論証に失敗している。よって、対抗言説が認められることで論題が否定されるという関係にはない。
また、肯定側のケースに対する反論という文脈で見ても、肯定側はインセンティブという名のもとに最低賃金を上げようと言っているわけではないし、生活保護を下げようとも言っていないから、肯定側の立場に対抗する言論、として論題を否定していると解する余地もない。

(4) ここまで述べたところからして否定側に投票する余地はないが、仮に、上記(3)の対抗言説が認められた場合に論題が否定されると考えるとしても、対抗言説の正当性、すなわち、対抗言説が「働かざるもの食うべからず」的言説より優れている理由についても、否定側は論証できていない。
この点、個人的には、生活保護受給者が非難されていることは望ましくないと思うものの、何らの論証もなくそう評価することには躊躇を覚えるところであるし、肯定側もワーキングプア的な人を救おうという主張をしており、ここが否定されていない以上、それに比べて否定側の言説がより価値がある、と評価することはできない。
そもそも、彼らは、言説による支配に抵抗したいと言っているのであるから、そこで求められる論証は、否定側の主張する言説に共感する人(JDAジャッジのようなインテリ)ではなく、現に生活保護受給者を批判している言説発信者を説得し得るような理由付けというべきである。この試合の議論を総覧しても、否定側の言説が現状を善い方向に変えるとは思われないし、純利益的な勝敗を無視して、そのようなものを称揚すべき意義も一切見出せない。

(5) 以上より、肯定側は論題を肯定する理由を提出していたが、否定側の主張は一見明白に理由がなく、論題を否定すべき理由を全く見出すことができない。否定側の対抗言説枠組なるものを採用するとしても、否定側はその枠組内で果たすべき役割を全く果たしていなかったものであり、どちらの判定枠組が優れているかという論点以前の問題であるから、どちらの枠組かを判断するまでもなく肯定側の勝利となる(どちらの枠組によっても肯定側に投票する、という意味です。)。

1.2 議論の批評
上記に述べたとおり、私としては、今回の試合で否定側に入れる理由は皆無と感じています。もっとも、そのように判断した理由は、肯定側の反論を考慮したからではなく、否定側の主張自体が失当だったということに尽きます。
肯定側の反論は、クリティークがポリシーディベートに害を与えるとか、自分たちの分析が無視されているのはおかしいとかいったものでしたが、そういう大上段の議論ではなく、まさにその試合で出された否定側の枠組と称される議論について、論題を否定する理由たりえないこと、さらに踏み込んで、論題と離れても無価値な議論であることを厳しく追及していってほしかったところです。特に後者については、自分たちのケースの議論を援用した上で、否定側の議論が肯定側の指摘したワーキングプアの問題を無視して、論題との関係で非本質的な言説を取り出してわめいているだけで、このような議論を認めることは、必要とされる政策についての建設的議論を妨げ、市民社会における討議の在り方にも悪影響を与える、と指摘すべきでした。その後でベネットのエビデンスを読めば、相当格好いい試合になっていたと思います(CoDAのは読まなくていい)。
立証責任の話も、相手の枠組に即して、相手方が何をどこまで言うべきなのか、ということを具体的に述べてほしかったです。1NCの論点1も、一部の言説を切り出してきただけで、論題そのものとの関連性や必然性を示したものではまったくないですし、論点2は肯定側の議論とも論題の文言とも無関係な発言です。さらに言えば、その価値観が正しいことの立証もありません。そういったことを丁寧に指摘することが、必要でした。

否定側に投票したジャッジは、以上のような指摘が肯定側からなされなかったことを理由にしているのだとは思います。私としては、いくら反論がないからと言って、今回の否定側に入れることはできないのではないかと思いますし、説明不足の議論を毅然として棄却することもジャッジに求められる見識だという立場です(この点、決勝でご一緒した某ジャッジはtwitterで「イニシャルで切るというのはジャッジの介入ってことなのでイニシャルで切るなりの「目の前の議論を無視している」というデメリットがあるかと思います。もちろん一切ジャッジの介入がない試合なんてあり得ないので、程度問題。でも重要な部分になにも肯定側アタックしてないのに、判定でジャッジが落とすというのはどうかなぁと思いました。」と述べていましたが、では否定側がアタックしなかったら証明不足のケースでも切るのか?という話であり、このような理由でしか判定を説明できないのはどうかなぁと思いました。もちろん字数制限の問題だけで、別に積極的な判定理由があるのだと思いますが)。
ただ、否定側の議論に強く寄り添えば、肯定側はメリットデメリットによる分析の利点を積極的に示せたわけではないし、否定側のいうような現実的影響を考慮した議論ぶりのほうが望ましく、実際に否定側が現実的に価値のある議論を出していたのかはよく分からないけど、まぁそれっぽい議論をしていたので、否定側の枠組を採用したついでに否定側に投票しておこう、というざっくりとした判断はできるのかもしれません(協議時間は短く、このあたりを十分話す機会はありませんでした。ですので講評ではほぼ私の見解を述べてしまいましたが、詳細は追って公開される?バロットを見てください)。
なお、理論的に言えば、否定側の枠組が採用された場合、その枠組において肯定側は何も論題を肯定する理由(この試合の場合言説?)を出していないことになり、推定を通常通り適用すると、否定側の理由もゼロであったとしても、推定により否定側に投票することができる、という説明ができるのかもしれません。しかし、この試合で肯定側のメリット・デメリットの枠組が完全に否定され切っていたか疑問であり、そうだとすると、否定側の枠組に乗ってみても推定で決めるしかない状況(結局何も議論していないのと同じ)である場合はメリット・デメリットの枠組に戻ってもよいのではないかと思いますし、否定側が自分で出した枠組である以上、その際の推定は肯定側に有利に置く、というのが妥当な処理であると私は考えます。上記の判定もそれを前提にしています(前提にしなくても肯定側に投票しますが)。

いずれにせよ、この試合で、否定側が提示した枠組の中で豊かな議論がされていたかというと疑問であるし、枠組の当否に関する議論も、別の意味での「熱さ」はありましたが、議論内容として熱いものがあったかというと、率直に言って厳しいところだったと感じています。その意味で、この決勝戦は「クリティークが勝った」という結果自体はセンセーショナルであるとしても、議論水準としては決して高いものではなかった、というのが、偽らざる感想です。
急いで補足しておくと、上記の感想は、否定側が適当にクリティークを出していたということを意味しません。否定側は、クリティークを成立させるためにリサーチを重ねてきたのだとは思いますし、スピーチも良好でした。しかしながら、その中身は、この論題を議論するためのベストな方法とは到底思われず、クリティークを出さんとするがために準備してきたのだな、という感想を抱かざるを得ないものでした。これは、否定側も引用していた田島先生の論文(こちら。否定側が引用している2011年の原稿に加筆修正されたもの)で紹介されている、代理母論題でのクリティークとは、一線を画するものです。私は、クリティークをやりたいという「チャレンジ」そのものに特別な評価を置くつもりはないので、議論としてよかったかどうかということでしか評価を述べることはできません。

ということで、私個人の感想としては、今後クリティークを出すのであれば、もっと論題に根差した議論を出してほしいし、クリティークを出そうと考える選手の方々にも、(どんな議論を出すかはもちろん各自の自由ですが)それが論題を論じる上で最善の方法と思えるのか、なぜその議論が説得的なのか、ということを考えて、クリティークありきの議論を作るという無益なことは避けてほしいと願うところです。必要に迫られて既存の議論形式に挑戦するからこそ、新しい価値が生まれるのであって、新しいというだけで飛びつくことは、その新しさの意味すら捉えそこなうのではないかということを危惧する次第です(ただ、今回の決勝否定側は、問題提起的意味で敢えてやっているところがあるのだとは思います)。
ディベートを指導する立場からも、クリティークはあくまで基本を押さえた人がやるもので、最初はメリット・デメリットの考え方を抑えることがよいと考えています。そういった伝統的?分析の限界について考えることは大事だと思いますが、いきなり自由にやれと言って誰もがそうできるわけではありません。この決勝戦の否定側だって(少なくとも私から見れば)失敗しているわけです。まずは、社会の合理的意思決定として模範とされている考え方に沿って議論を学び、その便利さと適用が難しい場面の存在を体感することではじめて、前提を適切に疑うことができるはずです。

また、クリティークが既存のメリット・デメリットの枠組と対立するものなのか、という点も、考える必要がありそうに思いました。これはJDA-MLの蟹池さんのコメントを見ていただきたいところなのですが、結局、クリティークも、前提に疑問を呈するなどして論題の是非を論じる議論のバージョンであって、メリット・デメリットの枠組にも発想を取り込めるでしょうし、メリット・デメリットと併存して議論していくこともできるかもしれません。この決勝戦で出た否定側の議論にはそのような可能性を看取することはできなかったものの、論題に内在する価値観を問題にするという切り口自体は、一つの議論の在り方として十分成り立ち得るものと感じます。
(論題の是非とは無関係に議論する、という立場もあり得るのかもしれませんが、そこまで行ってはもはやディベートは「いい話コンテスト」になってしまい、どうかと思います。そういう議論がしたい人は、競技ディベート以外の議論空間(それこそ弁論!)に行くか、別のルールでディベートをやるほうが幸せになれる気がします。)

2.決勝戦批評の批評
ここからはおまけです。twitterまとめから拾った、まとまった形の感想(つぶやきにとどまらないもの)にコメントしています。

ビーストさんの「JDA決勝の感想と問題提起
JDA-MLで物議をかもし、筆者登場時に歓迎の言葉で迎えられたブログ。
投票理由は、私の述べたところと類似しており、結論も含めて異存ないところです。他方で、この記事の特徴は、クリティークが評価されることへの懸念と、あるべきディベートについての問題提起がされているところです。
あるべきディベート像については、若干固いというか、実社会のことを考えてももう少し広い範囲の議論はあり得るのかなという気もしましたが、実社会での意義を考えるべきであり、新しいとか、挑戦的というだけで評価されてよいのか、という点は同感です。特に、議論の実験室という題目で、クリティーク等の議論の「新しさ」を特別に評価することについて、私も強い懸念を持っています。固定観念で議論を制約してはならないという消極的規範として「議論の実験室」という言葉が使われることはあってよいですが、逆に、「実験室なので何でもしてよい」ということにはなりません。実験はあくまで現実的な仮定を置いて行われるべきであり、現実に説得力を持ち得ないものを評価すべきではありません。
そうやって考えると、このビーストブログが言っていることは、クリティークか何か知らないが、論題を否定する理由としてよく分からない議論が評価されたことはおかしい、ということに尽きているのでしょう。この決勝戦で否定側は多数票を占めましたが、投票理由の説明は肯定側に入れた側のほうが容易だと思いますので、私個人としても、否定側を支持する人の理由付けに興味があるところです(JDA-MLではうち1名の投票理由が詳細に述べられています。)。

Doriブログの「JDA決勝(2019秋)の感想
メリット・デメリットの枠組でもって否定側に投票できると考えた、との主張ですが、率直に言って、判定理由は理解に苦しむものです。以下、厳しいコメントを記載しますが、このブログでも書かれている「議論の中身と人格を分ける」ということでご理解ください。判定について様々な考え方があり得ることはもちろんのことですが、様々な人の目に触れる以上、明確に間違っている(と思う)ことについては、そのように指摘する必要があるというのが、当ブログの基本理念となっております。
まず、否定側の対抗言説が肯定側の重要性とぶつかっているというのは、議論の評価を誤ったものです。肯定側は、働いているのに賃金が少ない人が困っているということを述べているのに対して、否定側が問題としているのは、それとは別に、生活保護者に対して働けという非難が向かっていることであって、両者は別物と捉えるべきです。否定側が明示で反論として当てているならともかく(それでも当たってないですが)、否定側も特に述べていないのに、ジャッジが勝手に「誤った」対応関係を見出すのは大きな問題です。
続いて、メリットを全く評価しなかったかのように見えるところ(twitterでのやり取りを見るとそのような趣旨のようです)についても、判断が厳しすぎると言わざるを得ません。この論題で一度も聞いたことがないからというのも理由になりません。統計処理だけでは評価できないという話も、もちろん統計ですべて説明できるわけではないし前提となる調査方法なども含めてきちんと評価される必要がありますが、統計だけでは取れませんというのでは、じゃあどうすれば評価されるのでしょうか。明坂やロング、ILOのエビデンスが「ゼロ」だとすれば、政策論題で解決性を立証することは著しく困難になるでしょう。また、この試合のケースは、内因性で最低賃金が低すぎるという話や、最低賃金が上がれば給料が増えるという話もしており、その裏返しという意味でも解決性を評価する基礎はあります。これが取れないとすると、私が予選で肯定側に投票した試合は全部誤審だということになります(というかおそらくメリットを評価したすべての肯定側投票が誤審になります)。もしかしてそういう問題提起なのかもしれませんが、それはおよそ的を射ていないものです。
最後に、1NCと2NCを総合して考えると、ワーキングプアの問題に対して(最低)賃金上昇によってインセンティブを与えてはならないということが否定側から言われている…という指摘ですが、なぜ否定側はそんなゆるく取れるのか、理解不能です。私の投票理由でも書きましたが、生活保護批判と最低賃金上昇との関連性はよく分かりません。1NCの桜井のエビデンスで、最低賃金改定でそういう批判が出てくると言っていることをもって評価しているのかもしれませんが、それだったら、より素朴に、最低賃金を上げればワーキングプアの生活が改善するという話も取られて然るべきです。今回の1NCと2NCの内容から、1ACのケースを上回るデメリットが認められるというのは、どう贔屓目に見ても考えられないところですし、選手自身も予想だにしていないものでしょう。このような判定理由が否定側への投票を正当化できるとはおよそ思われません。
なお、否定側が投票理由にしていないことでも投票理由にしてよい…という説明は、具体的な適用例を考えると容易な問題ではないのですが、簡単に言えば、当事者の予測可能性が担保される限りにおいて許されるものと考えます。予測可能性の有無を考えるにあたっては、争点化されていたか、議論の内容からして明白に対応関係があると言えるか、といったことを考慮する必要があります。この試合で、否定側が主張していないけど、メリット・デメリットの次元で否定側に投票する、ということ自体は、別にあってもよいとは思います(黙示で争っている=否認している、と見てもそこまで変ではない)。しかし、否定側の議論がメリットの重要性に当たっているとか、デメリットを構成しているというところまで評価してよいのかについては大いに疑問があります。肯定側からすれば、自分たちの議論は簡単に切っているのに、なぜ否定側の議論についてはそこまで善解して再構成しているのか、偏頗な判定だ!と怒りたくなるでしょう。私も同感です。

neeTakeSさんの「JDAトランスクリプトとクリティークについてのコメント
否定側がどういう構成で議論しようとしていたのかということと、それに対する分析が記載された内容です。細かく分析されているので是非ご一読ください。私としては概ね異論のない内容でした。
最後の段落で、選手としての想いが書かれているところは、考えさせられるところがあります。同じような声はほかにも聞きましたし、決勝の肯定側も強く思っていたところでしょう。ただ、それは試合で正しく表明すべきものだったというべきです。具体的には、肯定側の分析に十分論題を肯定すべき理由があり、否定側が持ち出した枠組はそれを無視して、正しく論じるべき対象を見誤らせるものであるということをきちんと主張すべきであった、ということです。決勝戦で肯定側が負けた理由として指摘されるべきことがあるとすれば、この点に尽きます。
クリティークの試み自体への評価とは別に、目の前の議論の是非だけをもって判断すべきという指摘もそのとおりです。ですから、今回の決勝戦への感想は、クリティークや既存の議論枠組に対する一般的な賛否や嫌悪感で片付けられるべきではなく、どのように議論すべきか、という観点からさらに考察されるべきでしょう。そのあたりも含めて、neeTakeSさんの今後の論考に大いに期待したいと思います。

JDA決勝批評 | 18:27:48 | トラックバック(0) | コメント(0)
第18回JDA秋季大会の短評~ヘイトスピーチ論題の振り返りとして~
気が付いたらもう年末に差し掛かってしまいました。今年は冬コミも当たっていない(申し込んでない?)ので特に告知はないのですが、別途の集団で骨太な同人誌を出そうという話もありますので、うまくいったらそちらでひと暴れしたいものです。

さて、今回は、間が空いてしまいましたが第18回秋季JDAの決勝について書きます。この試合は決勝ジャッジに入っていたのですが、やや迷った末にAffに投票して多数意見になっています。ただ、論題との関係での議論水準はNegのほうが上回っていたと思います。司法試験採点実感風に言うと、自動販売機のような議論を回すAffに投票してしまい、試験委員の気持ちがよく分かった気がします。
とはいえ試合の水準は高く、Affもディベート的に悪かったわけではないです。実力のあるチーム同士が死力を尽くして戦った感があり、JDAらしいよい決勝ではありました。

トランスクリプトがJDA-ML以外に流れていないので、以下、議論をデフォルメして紹介しつつ感想を述べ、最後にヘイトスピーチ論題でこんな議論ができたのではないかなという話を書くことにします。じゃあお前出ろよという話なのですが、できるものなら出場したいものの時間がなかなか取りがたく…。そんなこと言ってると職業ディベーターに怒られそうですが。
といったところで以下本題です。

*トランスクリプトでディベーター名が非公開とされているので、必要な?場合のみTDN式表記法で名前を書きます。

決勝のAffは、マイノリティ保護というオーソドックスな議論です。デメリット切りに「政治、科学についての発言は原則として規制の対象外」というプランを挿入しているのはいかにもTMK氏らしいのですが、例によってこれはどうかなと思うところです。そもそもヘイトスピーチは政治と不可分なものであって、そこを規制しないとすればマイノリティ保護も実現できないでしょう。そういう表現規制の難しさから逃げて勝とうという態度において、議論が浅くなってしまうことは不可避です。Negもそこはわかって攻撃していたのですが、さらに踏み込んでAffの底の浅さを露呈させるような議論までは行けなかったことにより、TMK流ディベートはもう少し寿命を延ばしたということなのかもしれません。
ただ、ケースの中でおっと思ったのは、最初の方で、ヘイトスピーチがネットで始まって拡大再生産していくという話でした。その後伸びることなく残念だったのですが、劣悪な言論を規制すべき理由というのは、それが良質な言論を圧倒し、理性的な議論の可能性を狭めていくということにあるので、こういう分析はウェルカムです。しかし、結局試合では外交関係が悪くなればヘイトも盛り返す…といった被害の数に終始する議論だけで、橋本のエビデンスを読んだ意味は何だったのか、ということになります。Affはこの辺も残念でした。
上記はともかく、さすがに手堅いケースではありましたが、これに対するNegの反論は、大きく言えば、①今は減っているという話、②カウンター行動で大丈夫という話、③政治や科学の議論を許容するプランではヘイトスピーチがまともに聞こえるのでより悪いという話でした。本来一番インパクトがあるのは最後の③の議論で、クレームがいまいちだったのでターン気味になっていなかったですが、これを目玉に持って行ってほしかったところです。これがいまいち伸びなかったのはNegが得票を伸ばせなかった主因と思われます。①と②はセットなのですが、Affからカウンターデモはより悪いという話が出て、これに対するケアがなかったので、ケースが分かりやすく残ってしまいました。筆者がAffに入れたのはそれが理由です。
カウンターデモの話は、①と②を結び付けて、意識が変わってきているのでOKという議論にしているのがNegの工夫でありそれはそれでよいのですが、さらに工夫があるべきだった、ということになります。要するに、言論規制より言論の自由下での自主規制(対抗言論)の方が望ましいという話ですので、例えば1NRの最後のほうで出てきた小谷のカード(規制するとうっぷんを晴らせなくなってダメ)や、2NCで出てきた「ヘイト規制はかえって在日が日本の法に介入したということになって恨みを買う」という話を絡めていくのもよいかもしれません。後者はいわゆるアファーマティブアクション論争で出てくる典型的な議論だったりするのですが、在日ヘイトの文脈での議論でもあり、それなりに説得的です。これらを個別に出すのではなく、言論規制と対抗言論の比較という話にした上で、カウンターデモへの暴力行為などは警察で規制するのであって、国がすべきことは言論で解決できるように実力行使や特定個人への法益侵害が明らかな侮辱・行為を規制することだけだ(これだって公益性があれば処罰されない可能性がある)、というのが、Negの模範的な態度になろうかと思います。別にNegがそうスピーチしなくてもジャッジのほうで再構成することは可能で、実際筆者もそうしようかと迷ったのですが、さすがにやりすぎかなぁと思って自重した次第です。

NegのDAは、表現の自由の侵害です。このDAは表現の自由規制の要点を押さえていてよくできていましたが、2NCから1NRにかけて出てきた、何か社会に対して訴えようとするのであれば、挑発的で挑戦的である必要がある、というのがNegの議論の白眉です。これこそが、Affのプランのせこさをひっくり返す武器にもなるところでした。すなわち、表現の自由というのは(というか人権一般は)、多くの場合少数者のために保障されるものであるところ、普通に言論をやっていては多数派に勝てない少数者が、ある種煽動的な言論をもって多数者に対抗できる機会を保障すること自体に、表現の自由の意義があるわけです。Affのプランでは、「きれいな議論」しかできなくなるので、強い言論活動で多数派に訴えかけ、あるいは少数派で連帯したいという思いは規制される一方、多数派は科学・政治の体をとって、優位な立場での発言を続けるということになるわけです。
ただNegにおいて残念だったのは、上記のような形で、過激な言論が必要だという話を使っていけなかったことです。マイノリティにとって重要だ、という話も出していたのですから、そこを引っ張りつつ、マイノリティの言論が萎縮するというにとどまらず、マイノリティに保障されるべき「過激な言論」が規制の対象になってしまうという議論を打ち込んでいけば、DAは相当強固に立ったと思います(同性愛など少数派の言論活動に意味があったことなどの実例があればより完全ですが)。それに対してAffの議論は対抗言論で解決されつつあり、マイノリティ保護という意味でも国が介入しないことがベストであり、言論の自由の価値を信じろ、ということで押し切れば、少なくともこの試合のAffの議論セットでいけば、Affに入れる理由は完全になくなります。
もう一つNegにとって残念だったのは、DAで言論規制の話を出していますが、政府が恣意的に規制する動機を持っているという話をもっと強く押し出すべきだった、ということです。Negは、2NCで日本で表現の自由が侵害されやすい、という話を出しているのですが、これがプランとの関係でうまく伸ばしきれていなかったうらみがあります。Negが出していた政治ビラ配布の問題は、まさに政府に反対する少数者弾圧の問題です(試合では出ていませんが憲法で有名な判例であり、イラク派兵反対のビラです。)。こう見ると、この問題も、上で見たマイノリティ言論抑圧の事例につながっていくわけで、真っ当な議論をしているとすべての議論が連関しているのだということの好例です。
このように、Negは筋のいい議論をたくさん出しており、かつ、その位置づけにも十分自覚的だったとは思うのですが、やはり議論の量が多すぎたからか、これを体系的にまとめるところまで上手く行き着いていなかった感はあります。海外事例のエビデンスを少し減らしてでもこのあたりの話を丁寧にやる方がよかった気がしますが、ディベーター心理的にそれが容易でないこともまたよく分かるので難しいところです。

といった決勝戦でした。いずれトランスクリプトが公開されるようですが、いろいろと考えさせられる試合であり、最初は正直どうかと思った論題ですがなかなか面白い議論が見られてよかったな、という感じです。JDA-MLに入っていない方は公開を心待ちにしてください。その際には、字数が多いとかいう表層的かつどうでもいいことにではなく、議論の中身に注目してください(まぁ、実際あれだけの量をきちんと分かる形で話せるのも実力の高さですし、観ていて高まりを感じるポイントではありますが。)。

最後に、ヘイトスピーチ論題でどういう議論が望まれたのか、ということにつき、Negの話は上でざっくり書いたので、決勝で深掘りが足りなかったAffの立場から考えてみることにします。
Affにおいて、Negの「対抗言論の方がよい」「言論規制はよくない」という立場に対抗するには、規制の必要性を、在日の方など特定マイノリティの話だけで基礎づけるのではなく、言論規制の根拠と同じ位相において展開していく必要があります。具体的に言えば、言論規制は、表現の自由を保護するために行われるのだ、ということです。
これは経済的自由に対する規制のことを考えると分かりやすいことです。独占禁止法では、カルテルや談合など、不当な取引が規制されています。これは、経済を規制するものではなく、むしろ市場の公正性を保ち、自由経済を健全にするためのものととらえられています。表現の自由においても同様のことはあり得て、言論の自由市場の健全性を破壊するような言論については規制する必要があるという論陣を張ることが可能です。そして、そのような「不健全な議論」こそが、ヘイトスピーチだというのが、Affの論証すべき命題です。
ここで、上で触れた、Affの伸ばさなかったヘイトスピーチの「拡散再生産」という性質が活きてきます。さらに踏み込めば、ヘイトスピーチが差別意識、さらには現実の差別行動を助長するのだ、ということを主張していく必要があります。ヘイトスピーチの問題は、それが非理性的であるがゆえに理性的な反論ができないこと、それでいて対象の価値を切り下げる効果があることだと思います。このような、理性的な言論で対抗できない悪質な議論が広がっていくことで、対象となるマイノリティが痛み、言論市場においても発言機会を失っていくのだとすれば、それは、表現の自由の文脈においても許されないことであり、まさに表現の自由の名のもとに規制されなければなりません。
これでようやくAffの議論はNegと同じ舞台に立つことになります(より具体的な保護の必要性があるので少しAffが有利と言えるかもしれません)。その上で、Negの主張する萎縮効果論ないし規制の濫用に対してどういう回答を用意するかが、Affの次の関門です。正直なところ、この議論を完全に否定することは難しいのですが、Affの回答としては、それでも規制が必要であれば進めざるを得ない、ということになるでしょう。これを支える議論としては、判例などで明確化を図るというpracticalな話のほかに、今後日本でマイノリティが問題になるようなセンシティブなissueがたくさん出てくる際に、健全な議論環境を整える必要がある、というものが考えられそうです。Negも少し出していましたが、たとえば移民問題は、今後日本でも問題になるでしょう。Negの文脈ではそこで言論が萎縮する、ということになるのですが、むしろ、マイノリティ差別的なヘイトスピーチを許してしまう社会では、移民問題を理性的に論じることはできなくなる、というのがAffの切り返しで、これは詰めるとAffのほうが有利になりそうです。海外の事例では実際上手くいっているところもあるようで、民族問題などで海外においてヘイトスピーチ規制が先行しているが、今後の日本でも同様の問題がやってくるのであり、その時までにヘイトスピーチに対する対抗手段を持たないままでよいのか、というのが、Affの大きなストーリーとなりそうです。

とまぁ、こんなことを考えたわけですが、実際に試合にしようとすると難しいのだとは思います。しかし、今後もディベートという活動が価値あるものとして認知されていくためには、こういった議論が集積されていく必要があるのではないかなとも思います(ちなみに補足しておくと、決勝出場者も含めて、少なくないディベーターは、こういった感じの話をしています)。ディベートの試合でWorkするかどうかという話はよく聞くのですが、大きなストーリーとしてどういう議論があり得るのか、あるべきなのかという話があんまり聞かれない気がするので、いつもながら試合に出ていないのに偉そうに書いているということを承知の上で、コメントさせていただく次第です。

といったところで、おそらく今年最後の記事は終了です。相変わらずクリスマスの予定はないですが仕事がありますので…。
皆さま、よいお年をお過ごしください。

JDA決勝批評 | 01:45:46 | トラックバック(0) | コメント(0)
第16回JDA秋季大会決勝の感想
あけましておめでとうございます。
それほど記事を書く時間が取れないのは相変わらずですが、若干ながらご覧になってくれている方もいらっしゃるようですので、機会があれば何かしら書こうとは思っておりますので、気の向いたときにご覧になっていただけますと幸いです。
なお、本ブログの内容がカオスすぎて何を読めばよいのかわからないという声が聞かれましたので、(読まなくてよいというのが正解かもしれませんが)カテゴリを若干整理しています。とりあえずディベート甲子園にかこつけて書いている記事はそっちにぶち込んだりと適当な分け方であり、また、一つの記事に複数のテーマがあったりするので、参考程度でしかないのですが、ディベート理論に関する記事を避けるという消極的な意味だけはあるかもしれません。

さて、今回の記事の本論は、通例より大幅に早く公開されたJDA秋季大会のトランスクリプトをもとに決勝戦を批評するというものです。結婚式に出席していた事情で大会を生で見ていないので、トランスクリプトの内容にのみ基づいた記事で、臨場感には欠けるところです(ディベートの試合の感想で臨場感ってなんなのかはよくわかりませんが)。なかなかレベルの高い試合ではあると思いましたが、プレパもせず傍から見ている無責任な立場だからこそ言える内容として、いろいろ好き勝手述べておりますので、そういうものだと思ってお読みいただけますと幸いです。
なお、トランスクリプトはこちらです。


1.全体の感想
論題が解雇規制の緩和という難しいものであったことを踏まえると、レベルの高い決勝戦であるように思われます。両チームとも力のあるディベーターであり、よくリサーチした内容を、よく戦わせている試合だということができます。
議論内容についても、Affは解雇規制が雇用を硬直化させているというストーリーを一貫させつつ実証研究によって議論を強固にサポートしており、NegはDAの色付けとして解雇される人間にとっての解雇の辛さを証明することで対抗しようとしており、工夫が見られます。

しかしながら、両チームともに、せっかくテーマ付けをしているのに議論がいまいちそれに乗っかっていないようで、深みを欠くように思われたことも事実です。またこの調子かよ…という声が聞こえてきそうですが、2014年も弊ブログはそういうテンションですので、以下、こういう議論もあり得たのではないか、という観点で見ていくことにします。

2.解雇規制論題であり得るストーリー
Affの場合
Affのケースでは、最初にディベート界ではおなじみの瀧本本最新刊を引き、産業の浮き沈みのサイクルがどんどん短くなっているという話を入れています。これは出だしとしては非常によいのではないかと思いました。しかし、その後この議論が活かされているかというと、あまり活かされていません。1ARが最後に内閣府のエビデンスと一緒にちょろっと述べており、これはよかったのですが、2ARではスルーされており、ケースの内容自体も単に失業減らそうぜと言ってるだけに聞こえて、よくありません。お前瀧本って言いたかっただけだろ、みたいな感じです。

まず、こういう「最近は~なので」という話を入れる際には、昔はどうだったのかという議論を入れることが有効です。今回の場合、昔は終身雇用が合理的だった(けど今はそうではない)ということでDAを叩き、「Negはたくさん失業するとか言っているが、放置しておくとみんなつぶれて失業になる」という議論をやらないといけません。これは、道州制論題のAffで「このままだと地方財政が成り立たない、福祉が死ぬ」みたいな話をする際と同様であり、「このままだとヤバい」系のシナリオの立て方としてレパートリーに入れておくことをお勧めします。
今回の試合でも、材料はいろいろと揃っていました。NEWSポストセブン(2枚とも)や生島の資料もそうですし、1NRの磯山の資料もよいです。こういった資料をベースに「今のままだとまずい。流動化させれば変わる」という、流れのある反論をぶち上げてほしかったところです。また、2ACで出ている「失業したとしても、再就職が容易になる」という話も、単に出すのではなく、そもそも長続きしない時代なので再チャレンジを簡単にするほうがよい、ということでテーマと結びつける必要があります。

また、今回の論題では、もう一つ「昔とは違う」という話が出せたように思います。現在雇用規制で「守られている」中高年の場合、今とは違って日本経済が上向きで、就職は容易だったのではないか、ということです。そういう環境では、将来首を切りにくいということで雇わないということはなかったものと思われます。それに比べて現在では若者が割を食っているという形で、DAの深刻性を相対的に落としていく議論ができそうです。

上記のような話をするためには、ケースでもう2枚ほど、現在の経済状況や産業形態に照らして長期雇用慣行が不合理になっているという話を入れておくことが望ましいでしょう(内閣府のエビを1ACに回してもよいかと思いました)。その代わりに、ケースで読んでいたアメリカやインドの分析は2ACに回すことが考えられそうです。DAへの攻撃もかねて「中長期的に上向くことは実証されている」という一つの攻撃を作っていくということになります(磯山のドイツの例もそこで読んだほうがわかりやすいでしょう)。
1ACと2ACでどういう議論分担をするかというのは難しいところがありますが、大きな絵は最初に描き、各論にあたる実証研究などの議論は後に回すという構成のほうがわかりやすいかなとは思います。また、良いストーリーが最初に出ていると、DAが出てきた際に「でもAffのストーリーからすると返っちゃうよな」という印象が出て、相手にとっても嫌だしジャッジの心証も違ってくるはずです。あと、この試合の2ACで出ていた奥平の国内の判例に関する議論は、後でもNegに叩かれているとおり、一見明白に怪しい分析で(法律家が気にするとすれば「その裁判所の判例かどうか」ではなく「どこが出した判例か」で、東京や大阪の地・高裁だと影響力は大きいかな、といったレベルです。経営者はなおのこと「どこの判例」なんて気にしないでしょう)、こんなのを読む時間があったら1ACの議論を回す余裕もあるだろうということもあります。

また、上記のようなストーリーを前提とする場合、2ARが言っている「そういう状況[注:失業]になる人が、現状とプラン後、どちらが多いのか」という単純な数の比べっこにしてNegの土俵に乗ってあげる必要もなく、これから先の産業状況に即した雇用法制はどっちだ、という一段上の話にまとめるべきだったところです(その上で、中長期的に見れば失業者数もAffのシナリオのほうが少ないとダメを押せばよい)。このあたり、個人的には2ARはもう一歩だったように思います。

Negの場合
NegはAffに比べてストーリーが作りにくく、たいへんな論題であったと推察されるところです。長期雇用慣行に不合理な点が出てきている…というのは、否定しがたい事実のように思われるからです。

一つの方策は、今回Negが出しているような、雇用を維持されることを前提に頑張ってきたという話で「いきなり長期雇用慣行を変えるべきではない」という論陣を張ることです。サービス残業などの議論も、長期雇用慣行を前提にしているので長くいないとどうしようもなくなった人がやられてしまうという文脈で位置づけなおせば、さらにストーリーを補強できたはずです。
ただ、「いきなり長期雇用慣行を変えるべきではない」という話だけでは、中長期の分析に対して劣位におかれてしまいます。2NRは「長期的には、中長期、っていうことは一緒なんですが、だったら私たちの方を重視すべきです」とかいう話で反論を試みていますが、全く説得力はなく、Negのストーリーの限界が露呈してしまっています。また、ジャッジの層を見ても、総じて若いor終身雇用で守られてる側の人間ではないと思われるわけで、この議論でジャッジのハートを掴むのはそもそも苦しいところです(僕なんて建前上は労働者ですらないですからね…。)。

そこで、「いきなり変えるな」という論陣で頑張るのであれば、漸進的に改革すべき/されている、という議論とセットで戦う必要があるということになります。例えば、派遣労働が増えているといった話は、限定的ではありますが長期雇用でない働き方の広がりを言う議論だといえます。派遣は地位が低いという話もありますが、プラン後の正社員は雇用保証もないわけで、派遣とどこまで違うのか、というところです。
また、Counterplanを出すということもあり得るところです。たとえば、現在は(契約の態様等によりますが)解雇権濫用法理が類推適用される有期雇用については一定の要件の下で期間満了後の解雇を認める、という法整備を行うことで、スポーツ選手よろしく毎年契約が見直されるような働き方で、プランと同様の効果が「今後」見込めるかもしれません。ここで重要なことは、これまでの長期雇用対象者は守りつつ、今後の雇用についてはAffの分析を容れて「必要な時に必要な人材を必要な分だけ雇い入れる」ことを認める、というストーリーを作れないかということです。もちろん、このような議論はエビデンスが少なかろうと思われますし、Non-Topicalityの問題もありそうですが、座して死を待つよりはチャレンジする価値があったのではないかと思います。

あとは、この試合では出ていませんが、長期雇用慣行によって競争力が生まれることもあるという視点も議論としてはあり得ると思いますが、これは立証上簡単ではないのと、そういう企業は言われなくても長期雇用を確保するのではないか、という反論がありそうなので(ただ、法律で守られているのと、企業が「うちは長く雇うよ」というのでは安心が全然違うので…ということはあるでしょうが)、出すとしても主力の柱にはなりにくいかもしれません。

3.決定的に有利な点をダメ押しする
議論の内容については以上で述べたとおりですが、ここではもう一つ、この試合で見ていて面白かった1ARを素材に、さらにインパクトのある議論展開ができないか、という視点で書いてみることにします。

今回の試合でベストディベータはおそらく2ARに与えられたのだと思いますが、個人的には1ARがベストディベーターだったと思います。重要な点を漏らさず返していることもさることながら、最後に(もっと早いステージで出すべきだったということはありますが)内閣府のエビを読みつつ瀧本エビデンスに回帰して締めるという2ARもやらなかったスピーチをしている点もimpressiveでした。
また、ディストーションというのは言い過ぎですが、Negのエビデンス引用が恣意的であることを指摘しつつ反論している点も非常に説得的でよかったです。

その上で、この試合でより完全にAffの勝利を決めるという観点からは、議論の盛り上げどころを絞って、そこでひとつ確実に勝負をつけるというスピーチがあってもよかったかもしれません。この試合でいえば、実証分析や海外の例がいずれもAffに有利であるという点を指摘することがあげられそうです。
すなわち、この試合では、海外の例として
①アメリカとインドで解雇規制緩和のほうが失業率が低い(1ACの奥平2枚)
②解雇規制の緩いデンマークと厳しいオランダでは後者のほうが失業率が低い(1NCの森永)
③ドイツでは解雇規制緩和で失業者が激増(2NCの磯山)、しかしその後失業率回復(1ARの磯山)
とあるのですが、このうち①はAff有利、②は解雇規制との関連性不明で弱い、③は長期的にはAff支持と、Affが有利に戦える公算が大きい論点となっています。ここで勝つことが試合の勝敗を左右することさえ説明できれば、Affの勝利は決定づけられます。

そこで、例えば、1ARを下記のようなスピーチではじめ、2分ほどをこの論点に注ぎ込むという手があったかもしれません。
「Negの主張は、解雇規制緩和で失業者が増えるというものでした。この主張が正しいかを判断するには、解雇規制が緩い海外の例を見るのが一番です。そして、この試合で出ている実例は、いずれもAffの主張、すなわち、解雇規制で中長期的に失業が減るということを示すものか、論題と無関係な例です。」

この後で①~③を各個撃破していくことになります。
①については、まず1NRの国際比較が無意味という批判は、国内比較であるアメリカとインドの例には当てはまらないことを指摘し、そのことは1AC2枚目の奥平ではっきり述べられている(なので追加引用は不要だった)からNegの批判は全く的外れであるとして一蹴したうえで、1NCの因果関係と相関関係云々の議論は推測にすぎないうえ、アメリカでは最終的に全州で解雇が自由になっており(奥平の1枚目やポストセブン2枚目はそのことを示唆)、失業率などで場当たり的に緩和されたものではないことが明らかであるといった反論が可能です。
②については、解雇規制に差がある2国を恣意的に取り出して並べただけで解雇規制との関連性が不明である上、まさに1NRも述べたような2国間の国際比較であるから、自ら理由にならないことを認めてしまっているといえば落ちるはずです(僕がジャッジなら指摘がなくても落としていると思います)。
③については、1ARがそうしたように結論を引用し、彼らは都合の良い途中経過のみ引用したが、結果は失業率が落ちるのであり、まさにNegのDAは途中経過を述べるに過ぎないことが実証されている、とひっくり返せます。
この程度反論しておけば、Negも再反論は難しいと思われます(実際の2NRの反論は「ドイツっていうのも、好況になったから、だから雇用を増やしただけであって…」など無根拠で、到底採用できないものでした)。

実際には1ARでここまで整理立ててスピーチすることは難しいことは承知の上ですが、このくらいリサーチしているのであれば、実証分析ではまずAffが勝てるという公算が立っているのではないかと思われますので、どこかの段階でそこに的を絞ったスピーチができるよう戦略を立てるということはあってよかったかもしれません。

なお、2ARの例ではありますが、自分たちの分析の有利な点を整理してアピールするという点では、たとえば第2回JDAのトランスクリプトの2ARなどが参考になります。こちらは、臓器移植合法化論題で、肝臓移植に的を絞った分析をしている点をアピールするなど、どこで勝っているかを明確にする非常にまとまったスピーチになっており、とても勉強になるものです。1NRや1ARでそういうスピーチをするとすれば、上記のように、もう少し細かく議論を見ていくことになるのだと思いますが、臓器移植論題の1ARは残念ながらその点での参考にはなりません。

4.最後に
以上、解雇規制論題のJDA決勝戦の感想です。いろいろ好き勝手書いてしまいましたが、総じてレベルの高い試合であり、決勝で戦われた皆様の努力には頭が下がる思いです。

解雇規制の問題は非常に考えさせられるもので、本来は労働法の体系も含めていろいろと見直しが必要なところだと思います。実務的には、そもそも労働者をひとくくりにして保護を与えてよいのかというところもあって、たとえば日本の労働法では、雇用契約に基づいて勤務していれば、年俸が億を超えていても労働者としての保護を受けることになります。Affも指摘していた通り、日本の労働法制は判例法理で形成されている面が多く、総じて労働者保護に傾いているのですが、そのことがかえって労働者の契約条件を引き下げる(例えば、解雇しにくい分だけ高い報酬を保障しにくい)ことになっている場面もあります。工場労働者が主たる保護対象だった時代と、外国人の雇用なども含めた新しい働き方が求められている時代で労働法がそのままであってよいのかというのは日本にとって切実な問題であり、多くの人にとって他人事ではない、重大な問題でもあります。そういう難しい問題に果敢にチャレンジされた今季論題の参加者に敬意を表して、今回の記事を終えることにします。

なお、今年の春季論題である遺伝子組み換え作物(食品?)の規制についても、高3のとき体験した経験からして難しいことは請け負いますので、こちらも果敢なチャレンジを期待しております。僕は選手はちょっと、というかかなり無理ですが、今度は大会を見に行きたいと思っております。

JDA決勝批評 | 01:50:33 | トラックバック(0) | コメント(0)
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