愚留米の入院日記
日当たり良好の某法科大学院既習病棟を退院した法務博士の日記。しかし内容はほとんど趣味のディベートの話
いわゆる「セオリー」の判定方法に関する若干の覚書
去る11月16日にJDA秋季大会があったのですが、結婚式に出席していて観戦できず、大変残念でした。決勝のトランスクリプトがJDA-MLであがってはいるので、全日本大会などでジャッジをしていた感想も交えつつ、分析のようなものを書ければと思っておりますが、トランスクリプトが公開されるまでは批評もできないので(実は綿密な分析も未了)、今日は控えておきます。

その代わり、某フェイスブックで、JDAでAlternative Justification(A/J)を回された某選手の感想に対していろいろとコメントが付いていたのに接し、ちょっと書きたいことができたので、そのことを当社比短めに書くことにします。元記事にリンクとかは貼りませんが、元記事を見るまでもなく一般的にコメントできる内容なので問題ありません。

上記の論争では、A/Jの正当性を論じるかという点で若干盛り上がっており、その内容自体は特に目新しくもないので論ずるには及ばない(!!)のですが、その中で気になりましたのは、議論している方々の前提として「A/Jが認められるべきかどうかもジャッジは試合中に出てきた論拠に基づいて決めなければならない」というような考え方があるように思われたことです。A/Jの正当性に関するAffとNegの説明でAffがより説得的だったらA/Jを認め、Negの説明がより説得的ならNeg…という考え方が前提にされているのではないか、ということです。
この考え方は、少なくとも法律家にとっては、極めて奇異なものです。A/Jの正当性という、いわゆる「セオリー」に属する議論(あるプランがTopicalかどうかというのは事実認定の問題なのでセオリーではない。念のため)は、言ってしまえば法律論であって、そんなものは弁護士が何を言おうが、最終的には裁判官が決めることです。もちろん、説得的な議論だと思えば裁判官が支持してくれるかもしれませんが、裁判官の採用するところでなければ、いくら有名な学者の意見書や論文が並んでいても、意味はありません(実際、法律家なら誰でも知っている著名な学者の意見書を並べても、負けるときは負けます)。これをディベートに置き換えれば、選手がいくら頑張ってセオリーの議論をしても、ジャッジが自説を変える必要がないと思ったら、自説に従えばよく、選手の議論は判定上無視して差し支えない(もちろん講評では適宜説明する)、ということになります。
以下では、この「法律家の常識」がディベートでも当然妥当するはずであるし、そうでなければまともなジャッジングなどできないのではないかということを述べることにします。

まず、ジャッジが選手の議論に基づいて判定を下す、ということの意味について考えてみることにします。このような原則があるのは、議論の判定が恣意的にならないようにすることを直接的な目的としており、それによって、選手の議論の優劣が純粋に判定に反映されるようにすることで、教育的目的やゲームの公平性を維持する、ということが目指されているのだと理解することができます。
このような目的からは、選手がきちんと自分たちの議論を論証し、反論する必要があって、ジャッジが片方に有利になる形で肩入れしたり、特定の議論が成立していることをあらかじめ前提としてしまってはいけない、ということになりますから、選手が議論するまでは公知の事実以外の事実を考慮することなく、選手が提出した議論のみにしたがって勝敗を決めなければならないということになります。

ここで注意すべきは、上記のような説明は、「『事実』ないしそれに基づく『主張』」については選手による提出に依存しなければならない」という命題でしかない、ということです。すなわち、ディベートという競技をどのように理解するのか、勝敗をどうやって決めるのか、という「ゲームのルール」に関する事項は、大会のルールなり、ジャッジの理解などにゆだねられており、選手はこれを直接変える権限を有しないということです。
「事実」や「事実に基づく主張」と、「ゲームのルール」の違いは、それが最初から用意されているかどうかによって分けることができます。試合で選手から提出される主張や立証は、選手から出されるまでは試合の前提とされていないし、また、前提にする必要もありません。しかし、「ゲームのルール」は、最終的に判定で持ち出す必要があるかどうかは別として(Counterplanに関するルールは、Counterplanが出なかった試合では持ち出す必要がない)、ルールの適用場面になれば自動的に必要となるものであって、選手がルールの説明をしようがしまいが、ジャッジにおいて前提として揃えておく必要があります。
このような事情は、当然ディベーターも承知しています。すなわち、ディベーターは、ジャッジが何らかの「ゲームのルール」を持っていることを前提として試合を行っているのです(そして多くの場合、その前提に寄りかかって議論しています。JDAのルールにはメリット・デメリット方式なんて決まりはありません)。ですから、「ゲームのルール」について、ディベーターは、少なくとも事実に関する主張立証と同様に、自分たちの議論に依存しなければならないとか、自分たちの議論を無視してはならないと言える立場にはないのです。

それでは、ディベーターは、自分たちがいったん「ゲームのルール」に異議を唱えた以上は、ジャッジはそれを無視してはならないと言える立場にあるのでしょうか。この問い自体が「ゲームのルール」であるため、これ以降は(以前も?)筆者の見解であるということをお断りした上で述べると、ディベーターが言えるのは、せいぜい「こういう考え方もあるがいかがでしょうか」ということにとどまると言わざるを得ません。
まず、ジャッジが前提として「ゲームのルール」を持つことを認める以上(これを否定すると、ジャッジを行うことはできません)、そこでジャッジが選択したルールは、何らかの理由でジャッジによって選択されているということも認めなければなりません。そうでなければ、ジャッジングの正当性が担保されないからです(何も考えずに「みんながそういう風に処理しているから」という理由でジャッジをしている人もいらっしゃるかもしれませんが、弊ブログはそのような人を対象としておりません)。ともかく、フィクションかどうかは別として、そのような前提を置く以上、ディベーターが「ゲームのルール」を変えるために反論すべきは、相手方の議論ではなく、「ジャッジが当該ルールを選択した理由」だということになります。ですから、ジャッジは、選手の議論が、自分があるルールを選んだ理由(最初の例であれば、そもそもA/Jを認めるか、認めるとして常に認めるのか、など)を変更するに足るものではないと判断したのであれば、これを当然スルーすべきであるということになります。

もちろん、ゲームのルールとして、「ディベーターがゲームのルールについて議論を一旦出した以上は、ルールの議論であってもそれを尊重すべき」という議論もありうるかもしれませんし、冒頭で紹介したような前提を取っている(ように見えた)方々は、このような見解に立っているのかもしれません。しかし、このような見解については、なぜ「選手の議論を尊重すべき」なのかという点の考察が足りないように思います。
上で述べたとおり、主張立証について選手の議論を尊重しなければならないのは、それが試合の公平性=ゲームの面白さを保つ最低条件であるし、試合中の議論だけで勝敗が決するということで選手が全力を尽くすことで、教育効果が最大化されるからです。このような「公平性」や「教育効果」、もっと言うなら「真っ当なゲームとして成り立つ前提」を確保するのが「ゲームのルール」です。そして、このルールを変えるところまで、選手の議論に拘束されるというのでは、選手の議論を尊重すべきという理由の根本が掘り崩されかねないということになります。このことは、選手が「ジャッジのぐるめさんは弁護士なんだから、そのプロフェッションとしての知識(笑)を当然判定に考慮してくださいよ!」と主張した場合に、ゲームのルールを崩してそういう前提を受け入れてしまってよいのかということを考えれば、よく分かるかと思います。
上記については、「選手の主張が最低限の理由を備えていなければ当然考慮されない」という反論があるかもしれません。それは極めて真っ当な考え方です。しかし、そう考えることは、既に述べている、「ゲームのルールを変えたい選手はジャッジの見解に反論する必要がある」という命題と組み合わせると、結局のところ、ゲームのルールについて選手の議論は参考としてしか扱われないのだということを帰結することになります。

そもそも、まともにセオリーを論じるというのは、試合の限られた時間で期待されるべきことではありません。最初に「論ずるに及ばない」と書いていたのに反して少し論じますが、A/J一つとっても、公平性がどうとか、無責任とか、(最終的にそういった要素を考慮することはあるかもしれませんが)そんな簡単に論じられるものではありません。このあたりは、以前に謎の合宿でざっと喋っており、その内容をまとめようまとめようと思いながら全然作業できていないところでもあり、ここでも詳述することは難しいのですが、端的に言えば、A/Jの問題は、ディベートを「各サイドの立場の優劣」を競うもの(側の論理)と見るか、「政策の優劣」を競うもの(政策の論理)と見るかという大きな見方の違いが前提となって出てくるものだと思います。A/Jの許容性について側の論理と政策の論理で必ずしも一対一対応の答えが出てくるものではないでしょうが、例えば、側の論理から見ると、立場を一つに定めないことが側の在り方としておかしい(否定側はCounterplanを出した時に現状維持と両取りできるじゃないかといった反論も考えられますが、そもそもCounterplanは立場の提示なのか、単なる反論にとどまるのではないか…というところから、一つ深遠な議論に行く余地もあります)という考え方を取る余地が出てきます。他方、政策の論理からは、最後に残った政策がTopicalかどうかを考えればよいとして、政策をどう出すかは別に考えなくてよいのではないか、というのが自然な考え方になりそうです。ただ、論題の性質上議論の過度な拡散が予想される場合などには、政策の論理からしても、公平性とか論題の解釈といった形でA/Jを制限する余地はあると考えられます。
要するに、A/Jに関する議論も、一つの体系の中でどう考えるかという問題になりうるわけで、そのジャッジのディベートに関する理解の体系全体の整合性との関係で、結論を出さなければならない難しい問題だということになります。それを、6分だか8分だかのスピーチの応酬の中で議論するということは、不可能ですし、また、期待されてもいないというべきでしょう。

それでは、ディベーターはセオリーを議論する必要がないのかというと、そういうことではないだろうと思います。時間バランスの問題もありますが、試合の中でも、特に問題と考える点について意見を述べることで、ジャッジは、講評においてそれに応答する必要が生じます。その試合の判定は変わらないかもしれませんが、講評で述べられた理由を元にジャッジに試合外で質問を投げかけることで、議論が深まり、そのジャッジが次の試合では見解を変えてくれるかもしれません(それが次の試合の自分たちにとって有利なのかどうかは分かりませんが)。
また、試合を離れて、セオリーとよばれる理論的問題について詰めて考えることは、試合に直結するかどうかは別として、物事を考えるよいトレーニングにはなるかもしれません。

というわけで、いわゆるセオリーに関する議論は、選手の議論を前提にする必要はないのではないかといったお話でした。少なくとも、ゲームのルールに関する議論と、論題の是非に関する通常の主張立証を区別せずに考えるのは乱暴ではなかろうかと思いますので、上記の雑文がそのあたりの注意喚起として何かしら意味を持てば幸いです。
Counterwarrantの現代的意義に関する小論考
先日、研修の卒業試験たる二回試験の発表があり、無事合格していました。これで安心して同人誌を売りにいけるというものです。

さて、そんな同人誌の即売会については前回ご案内したとおりですが、今回はその宣伝も兼ねて、ディベート理論について少し文章を書いておくことにします。

29日に発売となる同人誌では、他のメンバーが書いた某ディベートマンガに関するSSやその他小ネタ集が収録されているほか、僕が某ディベートラノベを下敷きにしたショートストーリー(挿絵がつくらしいので期待してください!)を書いているのですが、そこで行われている試合では、Counterwarrantというマニアックな議論が勝負の重要な鍵を握っています。
具体的にどんな議論なのかはネタバレに書けませんし、そのために具体例を出した詳細な検討はできないのですが、以下では、小説で僕なりに可能性を示唆したつもりであるCounterwarrantの活用方法について、その理論的背景めいたものを少し説明しておくことにします。ちなみに、同人誌の方にも小説で出た議論には解説を付しており、そこでも簡単に説明は加えてあります。


Counterwarrantの現代的意義に関する小論考

Counterwarrantとは、否定側から論題を満たすプランを提示した上で、そのプランにデメリットがあることを示し、それによって論題の望ましさを否定しようとする議論のことを指します。
例えるなら、「今日の昼はカレーを食べに行くべきである」という論題で肯定側が「近所にあるカレー屋アイリスフィールはマジで旨いし安いし店員さんが可愛いので是非行こう」と言っているのに対して否定側が「いや、その向かいにある間桐カリー店は辛すぎるしこの前行ったら虫が入ってたし店長の爺さんが怪しすぎるからカレーを食うのは勘弁だ」と反論するような議論です。

例で明らかなように、この議論は一見して不当なものです。まずいカレー屋があるとしても、おいしいカレー屋に行って幸せになるという肯定側の議論は全く否定されておらず、かつ、その肯定側の議論によって、昼にカレーを食べるという論題は問題なく肯定されています。
それにもかかわらず、過去にこのCounterwarrantは実際に出されていました。それはなぜかというと、昔支持されていたパラダイム(ディベートで行われる議論のあり方についての理解)の中に、仮説検証パラダイムという、議論を科学論争的なものと捉えるものがあり、そこでは論題のことを「検証を要する科学命題」と捉えていたからです。科学命題の場合、すべての場合において真とされなければ証明が成功したとは言えず、反例が見つかった段階で論題は偽として否定されます。なので、まずいカレー屋があってそこで昼を食べることはよくないということが言われてしまうと、その反例の存在を理由に、カレーを昼に食べに行くべきだという命題も否定されてしまうのだと考えるのです。

これに対して、ディベートを政策の是非を議論する営みとして現実の政治的意思決定に近づけて考える政策形成パラダイムが通説となった現在では、上記のような議論は基本的に否定されます。これは、パラダイムの理解の相違からも当然の帰結ですし、Counterwarrantという形で反例を挙げる議論を無制限に認めることは肯定側に過度の負担を強いることになるという点からも、望ましいことだと考えられています。
というわけで、現在では、Counterwarrantという議論は、一般的には成立しない議論だと考えられています。そんな中、Counterwarrantを新たな問題意識の元で再構成してその可能性を探るのが、以下の小論です。

僕の問題意識は、政策形成パラダイムにおいて、肯定側のプランは論題充当性さえクリアしていればそれだけで論題を正当化しうるものといえるのかどうか、ということにあります。
長文を避けるためにさっくり書くと、論題の解釈の範囲内にとどまりつつ、論題が予定する議論を回避しようとする目的で設定された「セコい」プランに基づいて、論題の是非を論じることが不適切な場合がありうるのではないか、ということです。例えば、「日本政府は、刑事裁判において証拠として認められる範囲を拡大すべきである」という論題(1998年JDA前期論題)において、当時立法化されていなかった盗聴を、どうみても文句のない(がそれゆえにほとんど使えないと考えられる)極めて限定的な要件に限って認め、微小な範囲拡大とそれに伴う微小なメリットを論じるという議論があったとすれば、これを「セコい」プランと評価することは可能でしょう。少なくとも、論題が期待しているであろう、国家の捜査権・公安上の必要性と個人の人権を対置した議論を回避しようという意図がうかがえる点では、筋のよくない議論といえます。

これと似た問題意識に基づいた議論に、論題被正当化性(Justification)の議論があります。これは、「すべての原発を廃止すべきである」という論題で浜岡原発の事故だけを論じるように、メリットが論題全体を支持できていないことを批判するものです。この議論は、論じやすいところだけを取り出して議論した「セコい」メリットを封じ込めるための議論と見ることもできるでしょう。
このJustificationの議論は、現在では、Counterplanによって議論されるべきだと考えられています。上記の例で言えば、「浜岡原発だけ廃止する」という非命題的なCounterplanが否定側のオプションになるので、これによって肯定側のメリットを取り込む、すなわち「そのセコいメリットは論題を肯定する理由にはならない」という主張が可能になるというわけです。
これに対応する形で、Counterwarrantを否定側がプランを出すという形で処理しようとする場合、それは(上記の証拠拡大の例で言うと)「一定の重大犯罪について事前の令状審査により盗聴を認める」という、盗聴の適法化についてより一般的といえる例を引き合いに出して、それが大きなデメリットを生むことを論じるということが考えられます。しかし、これは、本来肯定側が出すべきプランを勝手に否定側が出すというもので、認めることはできません。

しかし、否定側から「より真っ当に論題を代表している例」(典型例)を出すことには、なお意味がありうると考えます。具体的には、典型例に基づいて論題を否定する議論を繰り出すというものではなく、肯定側が出している例の「特異さ」を際立たせ、それによって論題の是非を論じることを否定しようとすることにおいて、意味がありうると考えています。
これは、論題充当性とは別の次元で、プランと論題の対応関係を攻撃しようとする議論です。原則として、論題を支持している(命題的な)プランの望ましさが示されれば、それによって論題は肯定されます。しかし、例外的な事情があれば、ある命題的なプランの望ましさが示されるだけでは論題の肯定に足りないということができないか。政策形成パラダイムにおいては、そのような趣旨を表すものとして、Counterwarrantを位置づけうると考えます。
これは、現実の政策形成過程においてもありうる議論です。証拠範囲の例を続けると、当時の論題制定理由にもあるように、刑事裁判の証拠範囲拡大というトピックは、重大犯罪に対して捜査権を拡大すべきという要請と、被疑者の人権のせめぎあいが背景となっています。そのようなテーマで立法が議論されているときに、あまりに瑣末な提案が出てきたとしたら、メディア等の批判は免れないでしょうし、国会でわざわざ議論する価値もありません。しかし、ディベートにおいては、ややもすれば「Topicalならよい」ということで、そういう瑣末な提案がまかり通ってしまいます。これを防ぐためには、「テーマとの関係での瑣末さ」をチェックする論点が必要です。

では、そのようなCounterwarrant(のような議論)が満たすべき要件とは何でしょうか。
一般的には、Counterwarrantを政策形成パラダイムで認めうると考える(ただしその理論的根拠は不明)論者が挙げるのは、否定側の挙げる例の「典型性」です。しかし、上述のように考えると、問題となるのは否定側の挙げる例の典型性ではなく、肯定側プランの非典型性、もっと言うなら「特異性」です。Counterwarrantとして否定側が挙げる政策例は、仮説検証パラダイム下における反例としてではなく、肯定側のプランの瑣末さを表現するためのものです。ですから、評価されるべきはあくまで、肯定側プランの特異性、瑣末さといった要素です。もっとも、それを言うためには、否定側の例が十分ありうるもので、肯定側のプランがおかしいということを支えるような典型性を備える必要があるので、その限りにおいて「典型性」が要件だということはできるかもしれません(もっとも、否定側が政策の例を出さなくても、肯定側プランの特異性を論証することは可能でしょう)。
また、否定側としては、典型例のようなものを想定して、論題一般において無視できないデメリットがあることを示すことが望ましいと考えられます。これは、肯定側が一応瑣末な例に基づくとはいえTopicalなプランからのメリットを示している以上、それは一般論として論題の是非を考える上でも参照されうるため、否定側から積極的に「論題の方向性全体から生じうるデメリット」を一定程度示す必要があるという理由に基づきます。

以上、Counterwarrantの考え方によって肯定側のプランを規律しようとするアイデアについて論じました。いろいろ省いているので粗雑な議論になっていますが、ご容赦ください。

29日に販売する同人誌に掲載の拙稿では、上記アイデアを実際の某JDA決勝で活用した一例を、ディベート小説という形で表現しました。もし上記アイデアに少しでも興味をもたれたようでしたら、是非当日東京ビッグサイトで冊子をお買い求めください。
論題肯定的現状でCounterplanが提出された場合に生じる理論的問題についての覚書
あと1か月で埼玉にある研修所に強制収容されて勉強漬けになるので、今のうちに骨のある記事を書いておくことにします(ネット環境もなくなるおそれ大)。というかそろそろ普通に勉強を始めようというところでもあるわけですが。

今回は、JDA論題が原発廃止になっていることから、これに関係する理論的問題をいくつか取り上げて検討してみようかと考えております。具体的には、現状でも脱原発だとかいう話が出ている関係で、現状が論題を肯定してしまう「論題肯定的現状」(これは僕の命名なので正式な用語ではないです、ご注意を)が生じてしまう可能性があるということに加え、原発廃止ではCounterplanが提出されることが多く予想されるということから、論題肯定的現状において否定側がCounterplanを提出する場合――後述のとおり、事実上提出を強制されることになりかねない――に生じうる問題について考察してみることにします。


論題肯定的現状でCounterplanが提出された場合に生じる理論的問題についての覚書

問題の所在
現状が論題を肯定してしまうという論題肯定的現状において肯定側が論証すべき事項については、若干の争いはあるものの、通説的見解では「肯定側はあくまで『論題は望ましい』ことを示せばよいのであって、現状が論題を採択しないということを内因性として証明する必要はない」とされています(参考として拙稿およびそれに基づき書かれた事例研究を参照のこと。その他、通論復刻版79-82頁など)。これは、論題肯定的現状において、現状維持というオプションは否定側の側には属さない――現状がもっとも望ましいとしても否定側には投票されない――ということを意味しています。
このような理解を前提とすると、論題肯定的現状において、否定側は現状維持でない立場を支持しなければならないことになります。そこで、否定側には、Counterplanを提出することにより、現状とは異なる、論題に反対する立場を積極的に打ち出すことが求められます。そのような背景でCounterplanがいわば「強制的に」提出されたという事情は、Counterplanの評価方法に何かしらの影響を与えうるものと考えられます。

そこで、以下では、両サイドが提出する政策システムの評価という観点から、①提出されたシステムを把握・評価する方法、②「現状維持」というシステムの論題充当性判断の方法、③提出されたシステムの評価が拮抗する場合の推定(Presumption)の置き方の3点について、論題肯定的現状という特殊事情を考慮することが理論的にどのような影響を持ちうるのかという観点から、若干突っ込んで検討してみることにします。

1.試合中に出たシステムのうち何が判断対象となるか
§1 現状維持は特別な立ち位置を占めるのか?
Counterplanについては理論的に様々な論点があるのですが、そうした諸論点を考える前提として、肯定側・否定側はそれぞれどのような形で自らの政策システム(以下単に「システム」と表記します)を選択できるのかという問題を考える必要があります。これは、「肯定側は論題を肯定する複数のシステムを選択できるのか(Alternative Justificationの可否)」「否定側は矛盾した複数のシステム(Conditional Counterplan)を支持できるのか」「各チームは試合のいずれかの時点で自らの支持するシステムを絞らなければならないのか」「ジャッジはディベーターが明示的に選択していない同時採択(Permutation)によるシステムを評価対象として加えてよいのか」といった具体的問題を通じて現れる「どんなシステムの出し方が許されるのか、そしてジャッジは試合中に出たシステムのうち何を見るのか」という問題だと表現することができます。

この点においておそらく通説的と考えられる見解は、両チームとも最終的に支持するシステムを1個に絞るべきであり、ジャッジは最終的に選択されたシステム(明示的な選択がない場合、推測により選ぶことになるのでしょう)を比較して評価を下すという立場でしょう。これは、各チームには議論倫理上立場の一貫性が求められるという考え方や、複数のシステムを支持するという立場は議論が拡散してよくないという教育性・ゲーム性の事情を考慮したものであり、それ自体それなりに合理的です。
しかしながら、このように、各チームが支持するシステムを前提として判定を行うという考え方は、明示的に支持されない立場についての扱いによっては、具体的な議論の評価に際して混乱を生じさせたり、妥当性を欠くことがあるように思われます。それは特に、現状維持という立場が積極的に支持されなかった場合に顕著です。
例えば、弾道ミサイル防衛計画(BMD)中止論題において、否定側が「BMDを前提としてアメリカとの軍事協力を緊密にする」というCounterplanを提出し(競合性はあると仮定してください)、同時に中国との外交衝突を論じるメリットに対して「『現状のままでも』経済的問題から日中関係は改善していく」という内因性へのアタックを行った場合を考えます。Counterplanには軍事協力が強固になりすぎることでの大きなDA(戦争に巻き込まれるリスクなど)がついてCaseを上回れなくなったが、一方で内因性のアタックによりCaseがなくなったという場合に、どちらが勝つのが妥当でしょうか?

上記の例について、否定側がCounterplanの立場を最後まで支持し、選択していたということを重視すると、肯定側はBMD廃止の意義を何ら示せなかったが、否定側の支持した立場はより悪いので、肯定側に投票すべきだということになります。それでもよいという考え方も可能ですが、この場合にCaseが立っていないのに肯定側に投票するのは気持ち悪いという向きもあるでしょう。その気持ち悪さの原因は、この例においては、論題を否定する「現状」が最も無難であると考えられるにもかかわらず、否定側の選択によってその「現状」を評価から排除していることにあると考えられます。それでは、この例でなぜ「現状」はそのような存在感を発揮しているのでしょうか?
その第一の理由は、否定側の反論が内因性の反論として「現状」を引き合いに出していることにありそうです。ここで、Counterplanとして現状と異なるシステムを支持しておきながら、そのような反論が許されるのかという疑問も生じうるところですが、結論から言うとそのこと自体には問題がないといえます。というのは、内因性に対する反論は「論題採択の必要性の有無」を論じるものであって、否定側が拠って立つシステムとは直接関係ないからです(無論、肯定側の再反論として「米軍との軍事協調強化という事情があると外交関係は違ってくる」という議論はあり得ますが)。ここから言えることは、相手が支持するシステムがなんであろうと、肯定側は論題採択の必要性を言うために、論題を採択していない状況――多くの場合これは「現状」である――との対比で議論を展開しなければならないということです。Caseの評価では相手方のシステムの選択にかかわらずそのような要求にさらされているのに、最終的な判定においてはその要求がスルーされてしまっているということが、上記の例で「現状」を無視して肯定側に投票する気持ち悪さを支えているといえそうです。
「現状」が存在感を持つ第二の理由は、それが明確にイメージしやすく、多くの場合議論の前提にもなっているということにあります。上記で述べたとおり、少なくともCounterplanが出る前のCaseは現状を前提として論じられており、またCounterplanを出しているとしても、少なくない否定側の議論は現状を前提としても当てはまるものだったりします。そして何より、現状はまさにジャッジや選手が現在生活し、各種報道などで認識している状況そのものですから、議論されないとしても一定の理解が備わっています。その意味で、現状というシステムは、選手がプランという形で出さなくても当然にありうるオプションとして想定可能であり、選手が明示的に選択しないとしても、現状維持というシステムを評価することは比較的容易です(Counterplanの出ていない普通の試合では、否定側は当然に現状維持を選択したものとして判断されているわけですし)。そのように想定が容易な「現状」というオプションを考慮すると、論題を否定する「現状」が一番よさそうに思えるのに、否定側があえて極端な立場を選択したがために、肯定側に投票するということが果たして妥当かどうかということは、議論の余地がありうるところではないでしょうか。

以上のように考えると、システムの選択にかかわらず、少なくとも「現状」というオプションについては、常に評価対象のシステムとして考慮されてもよいのではないか、ということが言えそうです。これは「各チームが支持した結果」とは独立に「当然考慮されるべき立場」として現状を位置づけるという考え方により、上述した通説的なシステム把握方法と矛盾しないとも思うのですが、「各チームの選択」に重きを置くのであれば、積極的に選択されなかった「現状」は無視されるという帰結となるでしょう。上記指摘を踏まえてそれを妥当とするかどうかは、最終的には各論者の価値判断に委ねられるところです。僕自身は、上記のような違和感を好ましくないと考えるので、現状維持というシステムを当然に判断対象に含める立場をとっています。
なお、同じような問題意識から、「Counterplan+肯定側のシステム」という完全同時採択状況を当然に判断対象として含めてよいかという議論もありうるところで、僕はこの点についても積極に解しています。さらにいうなら、僕自身は出されたシステムすべてが並列的に判断され、もっともよいシステムの帰属(命題的か否か)によって勝敗を決すればよいという形で、側の支持する立場とシステム評価を完全に切り離している(これについては過去の拙稿(上)(下)――ただしTopicality as solvency attackという考え方を中心に、現在は異なる考え方をしている部分も少なくありません――やフィロソフィーなどに説明があります)のですが、この点について書きだすと一本別の記事ができてしまうので、今回は説明を省略します。

§2 論題肯定的現状を考慮するとどうなるか
さて、以上のように「現状」からなるシステムを判定対象としてどのように考慮するかで議論がありうるということを前提として、論題肯定的現状ではシステム把握の方法にあたって何か変化があるか、考えてみることにしましょう。

論題肯定的現状では、「現状」は肯定側のオプションになると考えられます。今季論題でいえば、肯定側のプランは30年後を目途に原発廃止を行い代替発電は石油・石炭・メタンハイドレートなどを利用した火力を主とするものであるのに対し、現状の政府が40年度を目途として天然エネルギーを中心とした脱原発を決定したという場合、「現状」を当然に判断対象に含めるなら、肯定側は最初からシステムを2つ支持している、ということになります。
しかし、「現状」というシステムが否定側のオプションである場合と比べて、上記のように肯定側に最初から2つの支持システムを認めるということは、肯定側が有利すぎるようにも思われるところです。それは、そのように解する場合、否定側は火力発電による代替発電を前提としたDAだけでは勝てず、肯定側が明示的に主張していない天然エネルギー中心の代替発電を踏まえたDAを出す必要があり、それは否定側に過度の負担を強いるものだと考えられるからです。

通常の論題を念頭にして「現状」を当然考慮の中に入れた論者が、上記の点を問題だと考える場合に、とりうる選択肢は二つあります。一つ目は、矛盾を解消すべく、通常の場合でも「現状」を当然考慮に入れることをやめてしまうことです。この場合、「現状」を考慮しない違和感が復活することになりますが、そこは「選手の選択だから仕方ないね」と割り切ることになります。じゃあ最初から割り切れよという話ではあるのですが…。
二つ目の選択肢は、論題肯定的現状がある場合とそうでない場合を分けて議論する可能性を考えることです。例えば、肯定側は「提案者」の立場であるから、提案しない立場については審理が求められたものとは言えず、したがって「現状維持を主張しない」ことは「現状というシステムの積極的排除」を含意するのだ、という形で、プランの提出行為について否定側とは異なる重みを持たせる議論がありえそうです。もっとも、これは、上で述べた、「現状」が重みをもつ第二の理由との関係で若干苦しいところがあります。あるいは、やや理由づけが弱いものの、公平性などの要素を考慮して区別するという立場もありうるところです。

一方、肯定側が「現状」を当然に自らのオプションとしていても構わないのではないか、という考え方もできます。これはAlternative Justificationを肯定する見解と同様の理由が当てはまるところで、オプションが複数あるというだけで一方が有利になるものではなく、それぞれのオプションに十分理由がないのであれば、それは各個撃破すれば済むだけですから、単に現状維持が勝手に肯定側のオプションになるだけでは、そこまで否定側に不利にはならないだろうということが言えます。また、「論題を肯定する」という共通点がある以上、論題を肯定している現状維持のシステムと、肯定側が提案するシステムには同時に反論できる可能性があるはずです(逆に、反論に共通点がない場合、それぞれのシステムごとにADも共通していないと考えられ、したがって肯定側の議論が拡散を余儀なくされて否定側にとって楽になります)。
このように考えれば、否定側の不利益というのは実は大きくなくて、「現状」の存在が明らかである以上当然考慮してよい程度の議論だということができます。また、現状が論題肯定的であるということが公知といえない場合、否定側から論題肯定的事情を出さなければ問題が生じない可能性もあります(この点に関しては、後述するところの「ジャッジが知っている事実をどこまで判定に考慮してよいか」という問題が出てくるところではあります)。
個人的には、結局は現状の動きによって「現状維持」というオプションが肯定側に有利にも不利にも働きうるというだけのことであり、現状維持というあり方が当然に考慮されてよいものだとすれば、両サイドともそれを意識して議論すべきだし、またそれは十分可能だということで、論題肯定的現状においても「現状維持」を当然に考慮対象とすることはできると考えています。

以上、論題肯定的現状というイレギュラーな要素を考慮しておかないと、システムの評価方法についての一般論を固めることはできないだろうということでした。

2.現状維持というシステムの論題充当性
上述のように「現状」の存在を当事者の援用がない場合でも考慮するという見解に立つ場合、論題充当性を独立の投票理由として「肯定側のプラン(立場)が論題を支持しているかどうか」を問うだけのものだと解する通説によっても、肯定側が提出したプラン以外のシステムについて論題充当性を判断する必要に迫られる場合が生じえます。
というのも、現状維持が最も望ましいシステムだと判断される場合にそこからどちらの勝利が帰結されるかを判断するために「現状は命題的なのか」という問いに答える必要が生じるからです。

では、当事者がシステムの細目について説明しない「現状維持」というシステムについて、どのような方法で論題充当性を判断すればよいのでしょうか。
この点について、通常の論題充当性の議論と区別して問題となりうるのは、現状維持というシステムの中身をどのように認定するのかということです。この点については、現状が論題肯定的であることを疑わせる試合内の立証を参考にすることになりますが、それを超えていわゆる「公知の事実」を判断基底とすることが許されるかという点については議論のありうるところです。
これを否定的に解する見解として、ジャッジの知識に基づき現状を論題肯定的と解して肯定側のオプションにしてしまうことが否定側に不意打ちになるという議論はそれなりに説得的なところですが、私見としては現状維持の内容を考慮するうえで公知の事実を排除する必要性はないと考えています。というのも、論題充当性以外の議論であれば、議論の前提となっている「現状」の中身については、ジャッジはある程度公知の事実を考慮しているといえるところ、それを論題充当性の部分だけ無視するというのは不自然であるし、「現状」の中身について当然判断対象になるのだという考え方を前提としてしまえば、その背景にある「現状については議論の前提として当然考慮されるべき」という価値観が論題充当性の議論にも妥当し、不意打ちという批判は当たらなくなると考えるからです。

また、現状維持の命題性判断が必要であるということになると、その判断における推定の所在という論点も生じうるところです。もっとも、ここでいうのは「命題的か否かという二値的判断のためのゲームのルール」としてのそれであって(こちらの記事を参照のこと)、いわゆるTopical Presumptionという考え方ではありません(これについては、関係ない記述も多くて恐縮ですが、過去の記事を参照のこと。その1その2)。
肯定側のプランについては、肯定側が提出したものであることから、形式的に肯定側に立証責任を負わせる(したがって真偽不明の場合非命題的とする)のが妥当だと考えられますが、現状維持というシステムについては、どちらが出したものでもないので、いずれに推定を置くかは難しいところです。とりあえず私見としては、わざわざ論題の是非ということで議論が設けられていること自体が、現状が改革されるべきものであり「論題を採択していない状況」であることを前提とするものであるという形式的理解が可能であることから、肯定側に立証責任を負わせる(したがって肯定側が命題的であると立証しない限り、現状は非命題的=否定側のオプションとなる)ものと考えています。

3.Plan対Counterplanの判断における推定の所在
§1 一般論としてのCounterplan提出時の推定の所在に関して
Counterplanが出た際の優位性の判断において、推定を肯定側と否定側のいずれにおくかというのは、なかなかの難問です。実はこの点について過去に職業ディベーターことGeniocrat氏のブログで議論したことがあるので、その内容を振り返りつつ考えてみることにしましょう。

まず前提として、一般的に「推定は否定側におかれる」(AD=DAであれば否定側に投票する)といわれている根拠として、支持する立場の不確実性を考慮するという見解があることを押さえておく必要があります。要するに、推定には根拠が必要であって、それはたとえば「不確実な立場を避けるべきである」という考え方に基づき、「現状を変化させる不確実性がある以上、肯定側のプランは不利な推定を受ける」という形で推定が設定されなければならないし、その不確実性の所在についてはチャレンジの余地があり、不確実性が実は現状(あるいは否定側のCounterplan)にあることがわかれば、推定の所在は転換されうるということです。

このように、Counterplanの不確実性がきちんと議論された場合であれば、推定の所在について不確実性などの指標を用いて判断できるのでよいのですが(もっとも、そのような議論があればAD=DAのような話にはならない気もしますが…)、問題は両者が明示的に議論をしなかった場合です。この場合にいずれに初期的な推定を置くか、すなわち「推定の推定」をどう考えるかということについて、見解は分かれうるところです。
この点につきGeniocrat氏は、①Counterplanは新しいシステムの導入であり、議論を拡散させて一個一個の検証時間を削るものだから、それに値する価値が求められる、②Counterplanは後で提出される分だけ検証できる時間に乏しく、一般論として肯定側のプランより質が低いと考えられる、という2点の理由から、Counterplanに不利な推定が置かれるべきであると考えています。
これに対して僕は、①については肯定側が論題の範囲内から政策を選び出せるよう、否定側にも自由に立場を表明する権利があるはずだから、Counterplanにだけ特別な価値を求めるのは不当であり、②については肯定側もCounterplanを考慮して議論を構築すべきであり、後出しされるので検証時間が短いといって否定側に責任を押し付けるようなことは認めるべきでないということから、上記のような推定の置き方には理由がなく、不確実性やプランの検証可能性(上記②の理由について、Counterplanが2NCで出たような場合には、否定側に不利に判断されてもしょうがないという一事情にはなるでしょう)をジャッジの側で考慮し、選手の主張立証がない場合でも柔軟に推定を定めるべきだと考えています。そのうえで、どうしても差がつかない場合は、ゲームのルールとして、論題を提案する肯定側を負けとしてしまってよいだろうというのが、当時の僕の見解です。

さらに、これは当時論じませんでしたが、現在の僕のように、ディベートの勝敗を側と切り離し、最良のシステムの帰属によって決しようとするのであれば、優劣つけがたい最良のシステムが複数ある場合にはまず最初にそれらの帰属(命題的かどうか)を機械的な推定(前項で論じました)により判断し、最良のシステムとして命題的なシステムと非命題的システムが併存している場合には、命題的なシステムも「望ましい」といえるので肯定側が勝ち、という形で整理されることになりそうです。
ただこの場合も、最良のシステムかどうかというところでシステム間を比較するので、そこで推定の必要性が出てくると考えることもでき、なかなか悩ましいところではあるのですが、そもそも「どんな選択が望ましいのか」というところで、試合で議論されていない「不確実性」や「議論が出てきた場面」などの別指標で推定を考えること自体が不自然であり、そういった議論は試合中に議論評価の方法として堂々と行われるなら別論、ジャッジの側で推定を用意しておくこと自体を否定し、論題採択が十分魅力的なシステムといえるのであれば肯定側を勝たせてあげればよいではないかと考えると、上記のような判断枠組みもありうるところでしょう。ただ、この点については推定論を完全に捨てることにまだ踏み切れないところもあるので、今のところ疑問を留保するにとどめることにします。

§2 肯定側が論題肯定的現状を支持した場合の推定の所在
前節の最後で書いた内容はともかく措くとして、Counterplanが出た場合の推定の所在にはいろいろな考え方があるわけですが、それではここで肯定側が論題肯定的な現状の維持を支持する立場をとり、これに対してCounterplanが提示されたという場合に、推定の所在をどのように考えるべきでしょうか。

この点について、「肯定側が現状維持、否定側がCounterplanによる現状変革を言う以上、不確実性が大きいのは変化を伴う否定側だから肯定側に有利な推定を置こう」という見解が考えられるところですが、これは若干安易に過ぎるように思われます。というのは、論題肯定的現状といっても、それは「現状がすでに論題を採択・実施した状態にある」ということを意味するのではないからです(そんな場合もあるのかもしれませんが…)。例えば「30年後までに原発を廃止する」ことが決まっていたとしても、まだ原発全廃がどれだけ進んでいるかはわからないのであって、この場合現状維持の立場はまさに「変革の真っただ中」と評価することが可能です。

ここで考慮されるべきは、疑似内因性を否定する通説の理由づけであるところの、論題が採択されていない状況を論題が採択されていない理由(通論では「中核動機」とされており、仮説検証パラダイムでは要求されている要素です)と切り離して客観的に捉えることで「論題を採択すべきかどうか」というテーマを正しく論じるという考え方です。
これによれば、現状維持が論題採択を意味しているのか、プランによって新たに論題採択がなされるのかという違いは、論題が採択される理由の相違に過ぎず、それ自体は重要でないということになります。そして、不確実性を論じるにあたって比較対照されるものは、あくまで「論題がない状態=非命題的システム」と「論題がある状態=命題的システム」であって、その意味では肯定側は常に変革的です。ただ、否定側がCounterplanにより新たな変革をも提案するのであれば、それは肯定側の提案とは別個の不確実性を根拠づけうるところです。
結論としては、論題肯定的現状であるこということは、推定の所在について何らかの影響を与えることはないと考えるべきことになるでしょう。この帰結は、内因性において「既にやっているから導入の必要なし」という反論が却下されることと同じで、「既にやっているから確実性がある」というようには考えないのだ、と説明すれば、通りがよいのではないでしょうか。ですから、論題肯定的現状において現状維持とCounterplanが衝突する場合にも、Counterplanの優位性に関する推定の所在論を普通に考えればよいということになります。

4.まとめ
以上の考察を要約すると、論題肯定的現状に関する考察は「現状」というシステムの扱い方を意識することにとって少なくない意義を有するものの、理論的に見解が分かれる点において結論を左右することはさほどないのではないか、ということでした。これは、疑似内因性批判で強調される、議論の対象は「現状」ではなく「論題」の望ましさなのだという原則の再確認という意味合いを持っています。

もちろん、上記の議論は僕の私見ですから、ほかにもさまざまな考え方がありうるところだと思います。実際の試合でこうした論点が問題となることはほとんどないでしょうが、ディベート理論について考える上ではなかなか面白い素材だと思いますので、プレパの息抜きにでも考えてみてはいかがでしょうか。
あと、いつものとおり、私見に対する感想や批判も大歓迎です。9月中旬まではゆとりをもってお応えできると思います。
copyright © 2005 愚留米の入院日記 all rights reserved.
Powered by FC2ブログ.