FC2ブログ
 
■プロフィール

アカデミックディベーター

Author:アカデミックディベーター
日当たりの良い某法科大学院を2009年3月に卒業。
ライフワークである競技ディベートについてぼちぼち書いています

■最近の記事
■最近のコメント
■カテゴリー
■月別アーカイブ

■最近のトラックバック
■ブロとも申請フォーム
■ブログ内検索

■RSSフィード
■リンク
証拠資料の証明力をいかに判断すべきか
今回の記事は、ディベートにおいて重要な要素である証拠資料について取り扱うことにします。本ブログでは、主に理論的な興味から証拠能力(証拠として認めてよいかどうか)の議論を中心に取り上げてきたのですが、今回は、実践的により重要であるにもかかわらず、誤った理解が散見されるところである、証明力(証拠がどこまで信用できるのか=強いのかの評価)についての問題をメインに取り扱うことにします。特に、証拠の出典や著者の権威性が証拠の証明力にどのような影響力を与えるのかという点を中心に、証拠資料をどのように評価すべきかということをいろいろと考えてみようと思います。

証拠資料がなぜ有効なのか、証明力はどのように評価するのか、ということを考えることは、単に議論の質を高めるということだけでなく、ディベートという競技を価値あるものにしていくために必要なことでもあります。ディベートを知った気になっている人の中には、調査型ディベート(アカデミックディベート)が、エビデンスを片っ端から集めては当日それで殴り合う競技であるとか、情報とデータで殴っているだけの不毛なものだとかいう頓珍漢なことを言っている御仁もいるのですが(ご参考。なお、この著者が即興型ディベートにどの程度通じておられるのかは謎ですが、記事内で取り上げられている即興型ディベートも価値ある営みであるということは全く異論のないところです)、とにかく証拠を読んでおけばいい、それが勝つための方法だ、といったことを考えているディベーターがいるとすれば、それもまた頓珍漢な理解に基づくものであり、不毛な営みであるとの誹りを免れません。
自分たちが議論を評価する際の方法論についてきちんと考察し、それを実際の議論に活用してこそ、良質なディベート実践が実現するのであり、以下の考察の内容を別としても、証拠資料の意義や評価の在り方については、選手としても、指導者としても、よく考える必要があります。

1.証拠資料の内容に証明力が認められる理由
ディベートでは、主張を立証するための根拠として、文献などを証拠資料として引用することが一般的とされています。ディベートでは議論の中身が評価の対象になるわけですが、わざわざ証拠資料を引用することになっていることには、同じ中身でも、証拠資料に書いてある内容を選手がそのまま述べるのと、引用という形で提示するのでは、扱いが異なるという前提があります。
なぜこのような違いが生じるのか。主な要素としては、(i)議論当事者ではない第三者の発言であること、(ii)権威性ないし専門性、事実に関する知識、研究や分析の存在といった形で、立証対象との関係で主張内容の正しさを基礎づける要素があること、の2つを考えることができます。

もっとも、(i)の要素は、議論当事者の発言であっても内容が説得的であれば評価するし、逆に、第三者の発言だというだけで信用できるわけでもありません。むしろ、この要素は、(ii)に関連して、議論当事者ではない第三者の発言内容については、発言者の属性に基づく信用性を認めてよいという消極的な意味合いであると理解すべきでしょう。ディベートの試合では、議論当事者(選手)は対等な立場で議論しているのであり、選手が誰であるかということが勝敗に影響することは、公平性の観点から否定されます。むしろ、そういった「選手が何者か」という要素は、判定上積極的に排除されることになります。したがって、飲食店禁煙論題で疫学の専門家が選手としてたばこの危険性を論じたことが信用性にプラスに働くわけでもなく、また、死刑廃止論題で弁護士が選手として自分の経験に基づき冤罪の危険性を主張したとしても、それで冤罪があると評価することにはなりません。もちろん、選手がたまたま論題について専門的な知識を持っていて、そのおかげで説得的な議論を作れるといったことはあるでしょうが、あくまで議論の中身が評価されるのであり、誰が言ったかということで勝敗が決まることはあってはなりません。
なお、上記のように考える理由は、選手の属性によって議論が評価されるのは競技として不公平であるということによるものですから、選手の意見が公刊されて相手方も引用できる形の文献になっていた場合に、自分で自分の文献を引用するということは、全く禁じられませんし、そのことでマイナスに評価される筋合いもありません。選手は、判定上はいわば無色の「肯定側第一反駁A」「否定側立論B」のように扱われるのであって、選手がたまたま自分で書いた本を引用したとしても、それは、選手とは別の第三者による資料として扱うことになるというわけです。

よって、証拠資料が選手の発言と異なる信用性を持ち、証明力が認められる理由は、(ii)の、発言者の属性に基づく主張の基礎づけが可能になる、ということに見出すことができます。選手の発言としてでない第三者の発言としてであれば、専門家の権威性や、発言者の知識、研究結果に基づく知見を借りてくることができる、というわけです。
この、属性に基づく主張の基礎づけが正当化されるためには、主張しようとしている内容(証拠資料の立証趣旨)との関係で、発言者のいかなる属性が、どうやってその主張を基礎づけることになるのか、ということが明らかにされる必要があります。これは個々の主張立証ごとに評価される必要があり、また、ジャッジは、ある程度簡略化しているところもあるものの、そのように評価しているわけですが、この点についていくつか誤解があるようなので、次の節ではそのことを見ていくことにしましょう。

2.証明力の評価に関するいくつかの誤解
以下では、よく見られるように思われる、証拠資料の証明力の評価に関する誤った理解を取り上げつつ、それがなぜ間違っているのかということを説明します。

2.1 証拠はないよりもあったほうがいい?
これはかなり多くの選手に見られる誤解ですが、証拠資料の内容にかかわらず、証拠資料はないよりもあったほうがよく、とりあえず読んでおけばジャッジが評価してくれる…というのは間違いです
既に述べた通り、第三者の発言であるというだけで信用性が認められるのではなく、証拠資料の発言者の属性が、証拠資料で発言している内容をどのように基礎づけているのか、ということが評価された結果、信用性があるということになってはじめて、証拠資料には証明力が生じます(さらに、選手が主張したい内容と証拠資料の言っている内容と合っているか=関連性の有無も問題になりますが、今回は取り上げません。)。ノーベル物理学賞の受賞者が、日本の政治制度について語っていたとしても、何の意味もないわけです。

おそらく、上記のような誤解をしている選手は、そこまで極端なものはともかく、理由がなくても結論だけ言っているような資料(いわゆる「一行エビ」)でも読んでおくほうがよい、といったことを考えているのだと思いますが、それも間違いです。ただ、すべてをそう言い切ることはできないので、もう少し丁寧に説明しましょう。
証拠資料の立証趣旨が比較的単純な事実に属するものであり、その事実を知っていると言える立場の人間が発言しているというだけである程度信用できるような内容については、理由がなくても証明力を認めることができます。例えば、刑事事件の有罪率が非常に高いという話は、法務省の統計を持ってくるのが一番確実ですが、法律家が「刑事事件はほとんど有罪になります」と言っているだけの資料でも、まぁそうだろうという評価になるでしょう。
他方で、複雑な事実や事実の評価も問題になるような事項を立証趣旨とする場合、専門性や権威性だけで信用することはできません。例えば、遺伝子組み換え食品が安全だとか危険だとかいった話は、科学者が結論だけ言っていても、ジャッジとして評価することはできません。判断をそこまで専門性や権威性に委ねてしまうのは、ジャッジとして無責任ということになります。どういう理由で安全/危険なのか、どの程度安全/危険なのか、といった具体的な話が出てきて、はじめて、その具体的な理由付けを専門家が語っているということから、おそらく妥当なのだろう、と納得することができるわけです。ということで、理由もないと納得できないような難しい事項については、一行エビを読まれてもプラスにはならず、読んだ時間を無駄にするだけ、ということになります。

2.2 ブログや匿名記事は信用できないから本や論文のほうがいい?
一般的に言われるのが、ブログや匿名記事は信用できない、本や論文から引用したほうがよい、ということです。これは、多くの場合はそう言えるのですが、必ずしもそうであるとは限りません。なぜ本や論文のほうが信用できる場合が多いのか、ということを考える必要があります。
ブログや匿名記事が形式面できちんとした本や論文に劣っている点として考え得るのは、匿名のものについては著者の正体がはっきりしないこと、公刊されておらず発表のハードルが低いこと、ブログやネット記事の場合いつでも変更可能なこと、といったところが考えられます。しかし、匿名であっても、例えば「~の研究者」「~勤務」といった属性さえわかれば、その範囲で権威性や専門性を認め得るので、これは決定的ではありません。公刊されていればしっかりした内容だと言えるわけではなく、論文であれば査読されている(査読のない、あるいはゆるい雑誌もたくさんある)のでその点よいですが、立証趣旨によってはレビューの有無を問題にしなくてもよい場合はいくらでもあります。いつでも変更可能であるということは、間違っていた場合修正できるという点でむしろプラスとも言えます。また、その当時の資料の存在が確認できるかは証拠能力の問題であって、信用性の問題ではありません(こちらの記事の第3項をご参照)。
実質的な違いとして、ブログや匿名記事に比べると、本や論文の中には、研究成果を反映させてきちんとまとめたものが「多い」、ということは言えます。正式な研究成果をブログや匿名記事だけにとどめることは考えにくいので、良質な資料を探すのであれば、本や論文を当たるべきだとは言えます。しかし、本や論文であれば信用できるとか、ブログや匿名記事は全部使えないといったことまでは言えないわけで、中身や言いたいこととの関係をきちんと考えていく必要があります。

場合によっては、専門家の書いた論文や本より、匿名のブログのほうが信用性が高いと考えられる場合もあります。例えば、安楽死論題における末期がん患者の苦しみや、代理出産論題における不妊治療のつらさは、自分が治療を受けているわけではない医師が論文や本で「末期がん患者の苦しみは筆舌に尽くし難い」「排卵誘発剤の注射は非常に痛く女性にとって大きな負担になります」などと書いている内容より、実際の患者がブログで苦しみを語っている記事のほうが迫力があり、説得的であるのではないかと考えられます。記事が匿名で書いてあるとしても、末期がん患者であるとか、不妊治療を受けている女性であるといった属性が明示されていれば、証明力を基礎づける属性情報としては十分です。こういった「生の体験」について、ブログであるというだけで信用性がないと考えてしまうことに対しては、資料ときちんと向き合っていないのではないかという疑問を抱かざるを得ません。

3.どこまでの内容を証拠で語る必要があるのか、あるいは語り得るのか
ここまでの説明から、証明力は「資料が新しい」「著者が偉い」「本や論文になっている」といった形式だけで評価するのではなく、立証趣旨や理由付けとの関係で著者の属性がどのように信用性を基礎づけているのかを具体的に考えた上で評価されるべきものである、ということが分かるかと思います。実際の試合では、ある程度簡略化して評価されるところもありますが、カギとなる資料については、相反する証拠との比較などを含めて、ジャッジでも色々と考えますし、選手の側でもうまく説明することが求められるところです。
以上を踏まえつつ、記事の締めくくりとして、証明力の評価について悩ましい問題を取り上げておくことにします。それは、いわゆる価値や思想に関する議論について証拠資料は必要なのか、また、証拠資料によって立証されるとしたら、それはいかなる理由によるのか、ということです。

事実に関する主張や、事実に基づく分析や検討といった内容は、証拠資料により明らかにされるべきものであり、かつ、事実に対する知識や研究の成果によってある程度客観的に明らかにすることが可能です。また、「冤罪はあってはならない」といった主張は、価値や思想に属するものではありますが、「刑事司法、人権論の見地から」そのような考え方がある、といった形で、専門分野での知見ということで考えれば、その限りで証拠資料により証明することは可能です。そのような専門分野の知見を尊重すべきかどうかはジャッジの判断に委ねられますが、論題に密接に関連する領域であるとか、日本政府(論題の主体)が尊重すべき原理であると考えられるのであれば、ジャッジに対して一定の影響力を持つことになるでしょう。
これに対して、そういうものと関係ない「価値」や「思想」に関する議論について、証拠資料による証明というのがどこまで効果的なのかは、よくわからないところがあります。実はこの点は先に論じたKritikの議論にも関係していて、例えば、難民論題で、「アガンベンは、このアーレントの議論にもとづいて、難民にこそ来るべき政治的共同性を見なければならないという。「おそらく、現代の人民の形象として思考可能な唯一の形象であり、この難民というカテゴリーにおいてはじめて、到来すべき政治的共向性の諸形式および諸限界を垣間見ることができる」。こうしてアガンベンは、これまで政治的なものの主体を表象する際に使ってきた諸概念をいささかの留保もせずに放棄して、「難民というこの唯一の形象からわれわれの政治哲学を再構築することを決断しなければならない」と述べるのである。」などと引用されたところで(こちらの2NC参照)、それで、難民から政治哲学を再構築しないとだめだ、ということで評価することになるのでしょうか(そもそも言ってることがよくわからないエビデンスであるのですが)。仮にそう評価すべきだとして、その理由は、政治哲学者であるところのアガンベンが言っているから、ということになるのでしょうか。しかし、そもそも、哲学的命題は哲学者の権威性によって基礎づけられるものとしてしまってよいのでしょうか?
哲学者は哲学的命題について普通の人間より力を入れて研究しているはずで、特に著名な哲学者であれば(アガンベンは知りませんでしたが)一定の評価も得ているので哲学的命題に対する考察の妥当性も認められている、といったことは言えなくもないのかもしれませんが、先行研究や権威性によって哲学的命題を決定するということは哲学の在り方とも整合しないように思われますし、特別な素養を持たない一般的ジャッジにとっても、政策評価の場面で、哲学や一般的価値に関する言説を、哲学者が言っているだけで内容によらず信用するというのは、通常の思考様式の範囲外だと思われます。

以上を踏まえると、価値に関する議論は、「関連領域ではこのような価値が尊重されている」ということを「参考情報」として提供する限りで(とはいえ適切な論証であれば事実上かなり有効な形で)意味があるものの、一般的な価値や思想に関する議論は、証拠資料により第三者の属性を用いて立証することは困難ではないか、というように思われるところです。その部分は、限られた時間の中でのディベーターの雄弁と、あとはジャッジの良心に委ねられるところになりそうです。
それではジャッジの裁量が広すぎないか、新しい議論に開かれていないのではないか、という疑問も出てきそうですが、議論というのはそういうものではないかという気もしています。むしろ、ディベートだからという理由で、選手以外の権威が言っているというだけで「本来認めない権威性」を認めること自体が、ディベートの所期するところに反しているように思われます。

ということで、証拠資料の証明力をどう考えるのかという問題も、最後はジャッジのあり方に関わってきます。難しい問題でもあるので、なお考えていきたいところです。

ディベート理論関連の記事 | 20:14:56 | トラックバック(0) | コメント(2)
現代日本語ディベートにおけるクリティーク(Kritik)の可能性
以前に書くといってなかなか着手できていなかったのですが、JDAの後期論題も決まったことから、近時のディベート理論談義の中心を飾っているクリティーク(Kritik)について、私見を書いてみようと思います。
筆者はKritikの具体的な構成について詳しくないので、基本的には、US Exchangeで本場のKritikに触れ、JDAでも実践して見せたかなるん氏のブログにおける解説と、トランスクリプトとして残っており、Kritikが投票理由として認められNegが勝利した第20回JDA秋季大会準決勝の内容(こちら)を中心に、筆者としてのKritikに対する理解と、現代日本語ディベート界――こう限定するのは、Kritikがコミュニティの属性や状況に依存して発生・発展してきたように思われることによります――においてKritikが受容される可能性があればどのような議論なのかということについて論じようと思います。

序.Kritikの定義
Kritikの定義については、定まっていないところもあるようですが、大雑把であることを承知で述べれば、メリット・デメリット等を通じた政策論争として勝敗を決する判定方法(政策形成パラダイム)と異なる理由での投票を求める議論、ということになろうかと思います。Kritikの特徴は、異なるパラダイム(仮説検証パラダイムなど)を前提に論題の是非を争うという形ではなく、そもそも論題の是非という勝利条件に縛られない形で、自らの側に対する投票を求めようとするところにあるように思われます。
代表的なKritikの切り口としては、相手方が使用した言葉の用法に問題がある(例えば、「看護婦」という言葉が女性を当該職業と結び付ける差別的用語である…など)ので自分たちに投票すべきという言語Kritikや、相手方の議論が立脚する価値に問題がある(例えば、経済発展を利益とするメリットが資本主義的価値観を前提としておりかかる価値観に問題がある…など)ので自分たちに投票すべきという価値Kritikなどが挙げられます。かなるん氏は、AffでもKritikを使用しており、文学での共感の感情に基づき論題を肯定してほしいという文学Kritik?を展開しています(こちらを参照)。いずれも、論題の当否とは別に、投票理由を構成しようとする議論ということができます。

Kritikの要件がどんなものであるか、といった解説は、上述したかなるん氏のブログで詳細に説明されているので、ここではそれを改めて紹介するのではなく、筆者として、Kritikを受け入れることについてどのような問題があると考えるか、逆に、どのような場面であればKritikが成立する余地がありそうかということを、なるべく丁寧に論じようと思います。現実にKritikがJDAで回るようになった現代ディベートにおいて、Kritik論議を読者諸賢の指摘に委ねている場合ではないので、なるべく実践的に意味のあるような考察をしたいと思っておりますが、他方で、以下の考察はあくまで私見に過ぎず、議論水準の向上のための批判的検討が望まれる内容であるということを最初にお断りしておきます。

1.Kritikの理論的課題
Kritikの先進性は、メタディベート的な観点を導入することで、ディベートの勝敗を論題の是非に限定せず拡大していることにあると見ることができます。このような議論は、現実社会においても一定程度見られるものであり、例えば、国会論戦では、政治家の失言やスキャンダルといった、政策の是非と直接関係ない問題によって、政策が結果的に棄却されるということはあります。本当に純粋な政策論争だけがディベートの前提なのか、という疑問は、十分成り立ち得るものであるとは思います。
しかしながら、Kritikの議論が広く受け入れられるものであるかというと、以下の理由から、厳しいものがあることは否めません。順を追って検討することにします。

1.1 ジャッジが前提とするディベート観は当然には棄却されない
以前のエントリで詳細に論じたのですが、何をもって投票理由とするのか、という理論的な問題については、ジャッジが自分の見解を試合に持ち込む必要があり、現に持ち込みが認められているのであるから、選手によるチャレンジがあったとしても、選手の議論に拘束されることはないと考えるべきです。
Kritikに即して述べるのであれば、ほとんどのディベーターは、政策形成パラダイムに基づき、論題の是非を議論することを通じて勝敗を決するものと考え、ジャッジもそのように判断しています(後述するようにこれには相応の理由があります)。Kritikを回すディベーターであっても、もしKritikが回っていない試合であれば、そのように判断することに違和感はないでしょう。そこに、Kritikが出てきたというだけで、直ちにそれに従わなければならないということにはならないはずです。勝敗決定の方法は択一的、あるいは優先順位がつくべきものですので、政策の当否ではなくKritikで決めるべきと主張する側は、政策形成パラダイム下での勝敗決定によることに問題があるとか、Kritikによって勝敗を決定することが有益であるといった議論を通じて、Kritikによる勝敗決定のほうが望ましいことを論証する責任があるというべきです。さらに、ここでの論証は、試合上の議論の優越というだけではなく、ジャッジが抱いている前提的理解を踏まえてなお説得的である必要があります。勝敗決定方法を論じるに当たっては、相手の議論ではなく、ジャッジの前提と戦わなければならないということです。

1.2 論題の是非と別に勝敗理由を設定することのハードルは高い
私を含む多くのディベーターは、ディベートにおいては、論題の是非を論じるものと考えています。アカデミックディベート(調査型ディベート)における一般的な論題が、政策主体は~すべきである、という政策論題を採用していることからして、かかる理解は合理的なものです。議論の場を政策形成の場であるという特別な擬制を置かない場合であっても、通常の聞き手(市民)であれば、日本は~すべき、という命題に対しては、選挙のマニフェストのようなものと考え、日本にとって(あるいは自分にとって)利益があるかどうか、という枠組みで判断しようとすることが、唯一無二ではないとしても、一般的な考え方でしょう。
これに対して、Kritikの議論は、政策の是非とは異なる観点で勝敗を決しようという、新しい見方を提案します。多くの場合、そこで議論される内容は、一般に論題の是非を議論する文脈とはかけ離れており(後述しますが、JDAで出ていた議論もそうでした)、通常の聞き手からすると当惑する内容と言えます。例えるなら、カレーを注文したらあんみつが出てきたような状況です。なぜ、これまで当然と思っていた考え方を変えないといけないのか、カレーを食べに来たのにあんみつを食べないといけないのか、これを証明する必要がKritikerには求められますが、これは、これまでジャッジが採用していた枠組みの見直しを迫るという、かなりハードルの高い証明です。Kritikerは、そんな常識に縛られるのは不当だと主張するのでしょうが、それは、Kritikが認められるべきであるという別個の常識に基づいた主張であって、論題の是非こそが議論の対象であるという規範を持っている人間を説得する理由にはなりません。
なお、Kritikでよく使用されるのは、ハイデガーやらジジェクやらボードリアールやらといった、哲学者の文献であるようです。私が不勉強であるということを差し引いても、そういった文献が何かを言っているというだけで、これまでの見方を変えなければならないということにはならないでしょう。Kritikerは、論題の是非にこだわる考え方を硬直的だとして批判する立場でしょうが、哲学や文学やらを持ち出して政策論議の有効性を批判する立場についても、同じように、インテリぶった書生談義にすぎず考慮の必要はないという批判があり得るところで、論題の是非を無視してでも議論すべき説得的な理由を具体的に挙げられなければディベーターの前提を変えることはできないということは、当然覚悟されるべきでしょう。

教育的観点からも、論題の是非を議論するということには理由があります。もちろんここには色々な考え方はあり得るところですが、現実社会における政策の是非を議論するということが、社会における意思決定のトレーニングになり得ることは、否定しがたいところでしょう。そこでは、与えられたテーマ(論題)を所与のものとして、それを調査し、検討するというプロセスが重要になります。
以上のような営みに、論題の是非と関係のない理由でKritikを持ちこみ、それで勝敗を決することは、ディベーターの準備してきた内容に水を差すことにもつながります。もちろん、Kritikの問題提起が重大なものであれば、それに対しても対応する必要があったと言えるわけなので、水を差すという表現は不適切なわけですが、政策論議を棄却するような理由がない議論を安易に認めてしまうことは、論題についての検討を浅くしてしまうことにもつながります。
もちろん、Kritikerからすれば、そもそも議論すべき内容は論題の是非に限られないのだから、ということになるのでしょうが、それこそ前提となる価値観の相違が問題になるところであって、多くのディベーター(さらに言えばディベートに触れ得る一般の人)が期待しているのが現実の世界で通用する政策論争であり、そのために論題の是非を議論したいと考えているのだとすれば、それを妨害するKritikの枠組が安易に採用されることが「迷惑」である、と考えることは自然なことでしょう。少なくとも、政策の是非について議論しているところにKritikのような議論で対抗する態度は現在の社会では一般的ではなく、意思決定の変化を促す効果に乏しいので、そのような議論が主流になることはディベートの教育的効果を「マニア向け」のものにしてしまい、社会との適合性を著しく損ねるだろうということが言えます。そういった社会が不当なのだということをKritikerは考えるのでしょうが、それはディベートの場ではなく別の社会運動として行ったほうがよく、社会に通用する議論が望ましいと考えるジャッジに対して態度変更を促そうとするのであれば、それなりの理由付けが必要とされます。

2.実際に日本で出されたKritikの批評
以上は一般論ですが、これでは分かりにくいので、実際に日本で出たKritikの議論を批評する形で、Kritikの可能性と限界を探っていくことにしましょう。

2.1 難民論題における否定側議論(JDA大会ver)
最初に、難民論題のJDA大会準決勝で出されたKritik(トランスクリプトはこちら)を批評していきましょう。

この試合でNegが提出したKritikは、1NCで以下のように要約されています。

彼らのアプローチでは難民問題の裏にある現代政治の根本的な問題が議論できません。結果、彼らの考え方では難民といった問題を解消できません。肯定側の考え方を認めることは難民問題の本質を無視するに等しく、そのような考え方が広まれば、我々は難民といった問題を現実に解決することができなくなります。だから肯定側へ投票すべきでないのです。


論題の是非という枠組みを無視するか否かは別として、上記の議論を理由に投票するためには、肯定側の考え方(難民認定を緩和して難民を救おうというもの)が難民問題の解決にとって有害であるということ、また、それを拒絶することで難民問題が解決ないしヨリ前進する(少なくとも肯定側の考え方よりも難民にとって望ましい)ということが示される必要があるのではないか、というのが第一感です。
この試合のNegは、難民問題の本質として、難民認定という枠組自体が非認定者の排除を意味し、国家の暴力性を肯定してしまっているということを主張し、その上でアガンベンなる学者が提唱している「単にそこに定住し居留しているというただそれだけで、みな同じ扱いを受けるという、誰もが移民や難民の状態にある共同体のあり方」を提案しているのですが、そもそも迫害が生じている地域でそんな扱いは受けられるはずがなく、その他の地域においても来た人間全員に社会保障なり参政権を与えて…ということになれば、国家運営は破綻します。そもそも国家として成り立たないことを措くとしても、移民や難民が無秩序に流入した地域で「みんなが同じ低い扱いを受ける」ことになるだけだと容易に想像されます。Negの主張は、非現実的で、端的に言って書生談義という印象を超える議論ではありません。ロールズが「私は、こうした社会秩序の可能性というそのこと自体が、まさしく、われわれを社会的世界へと宥和させるものとなると信じている。」と言っているのだとしても、私がジャッジなら信じないですし、普通の人間もそうでしょう。
この点についてのAffの反論は、1ARで、Negの考える世界ではむしろ不平等が拡散されるという形のものでしたが、2ACの段階で、より端的に、Negの議論はAffの議論が漸進的に難民問題を良くしようとしていることを完全に無視しており、他方でNegの理想論が難民問題の解決に向けて現実的であり得る可能性の一端すら示していない(ロールズも可能性が「十分な理由とともに信じられる限り」ということを言っている)ということを指摘すべきだったでしょう。
さらに、Affとしては、国家の暴力性だとか何とか言って漸進的な改善に向けた議論を否定するNegの考え方は有害だと踏み込むべきでした。Affの議論で、政策の議論と価値の議論を両方すればよいという趣旨の話があって、その趣旨はごもっともなのですが、それだけではなく、Negの議論は現実に政策で救える難民の救済可能性を書生談義によって無視するものであって極めて悪質であり、このような議論を支持してディベートコミュニティにおいて真面目な政策論議が行われなくなることは、競技としての教育性はもとより、有害な思考態度を醸成することで現実社会に害悪をもたらしかねない、と論じることができるでしょう。

もう一つの議論は、Kritikの枠組を採用すべきかという問題です。個人的には、このKritikはそもそもAff Planの価値に対する批判や代替的価値観の提示が弱く、Kritikの枠組に乗った上でボコボコにしたほうがAffの議論としてはすっきりしてよいとも思ったのですが、Kritikなる枠組にそもそも乗っかる必要があるのかということも当然検証されるべきですし、実際の試合ではこの点が議論されているので、これも見ていくことにします。
Kritikの枠組によるべきというNegの理由付けは、ジャッジの投票がディベートで提出される議論に影響を与え、それによってディベートコミュニティの考え方が影響を受けることから、Affの間違った価値観による議論でディベーターが現実の政治を批判する機会が奪われてしまう、という形で、現実社会に影響するような考え方の変化が起こるということを主眼にしています。これに対するAffの反論は、①Negの言うような批判的思考は、論題の是非を議論する在り方と両立するので、Affの議論を排斥する理由になっていない、②ディベートはプレーヤーの思想と立場を分離する競技なので、投票が思想に影響を与えるといった理由で投票すべきでない、という趣旨のものでした。
この点については1NRが反論しています。①については、Affの前提とする思想が有害なので同時採択という話にならないし、そういう思想を一切否定するNegの考え方のみを採択しなければならないという反論で、Negの主張を前提とすればそうなのかもしれません。ただここは、Affとしてはさらに反論すべきで、そもそもどう有害なのか分からない(別に積極的に現状の枠組を擁護する言説とまで言えない)ということを前置きにして、仮に理想論があるとしても、理想を踏まえつつ現実を改善するため、今できることを検討するという姿勢は可能であるということを指摘すべきところでした。
②については、1NCの議論を敷衍しているだけですが、結局、Affの思想の有害性が強いということに立脚した主張です。ここについては、上で述べたような、Negの考え方のほうが極端で有害だ、という議論を推していくのが説得的ではないかと思います。それとは別に、思想と立場は分離されるのではないかというAffの反論があったところについてはスルーされてしまっているのですが、Affはここをもうひと踏ん張りしつつ、Negの主張に合わせて説明しなおすべきでした。すなわち、ディベーターは、勝てる議論を選ぶかもしれないけど、勝てる議論だから正しいと思うわけではなく、勝敗とは別に試合やプレパの経験を通じて自分の思考を深めていくのであって、投票しないとディベーターの思考がおかしくなるというのはディベーターを馬鹿にしている、ということができます。また、教育的配慮や競技の性質上思想と立場が分離されているということから、思想を問題とするKritikが原則投票理由にならないということが競技上の想定である、ということで補助的な議論にすることも考えられます。

以上のとおり、個人的には、Negの主張する思想の有害性なるものがよくわからないので、そもそもこのKritikには乗れないと思うところではあるのですが、Affの反論は、面白いものではあったものの整理されていなかったり不十分なところがあり、ジャッジがNegに投票したのもやむを得ないところだというところでした。

2.2 難民論題における否定側議論(CoDA全日本大会ver)
先に見たNegチームのかなるん氏は、CoDA全日本大会でも、同様のKritikを回しているのですが、そこでは、Kritikの枠組によるべき理由に少し変更があります。これはトランスクリプトがないのですが1NCのブリーフが公開されているので、それに基づき検討してみます。

CoDAでの議論において、Negは、現実社会に変化を与えるという理由付けではなく、政策ディベートでは実際の政策形成を行う場ではないところで公共のトピックを扱う性質から、理想や考え方を議論すべきだ、という主張を行っています。さらに付随して、Affが適切な議論の在り方を証明しない限り、政策分析による判断をしてはならない、という主張もついています。
まず、政策ディベートでは理想や考え方を議論すべきだということは、端的に言って田島先生の資料のoverclaimではないか、という疑問があります。田島先生の言う、ディベートが市民教育であるということ、シミュレーションの議論であるからこそ様々な議論形式を試行錯誤していくこと、というのは異存のないところですが、そこから政策分析による議論が排斥されたり、理想像や考え方「のみ」を議論すべきという命題が導かれる理由は、さっぱりわかりません。むしろ、一般的な市民教育というのは、難民認定基準を緩和すべきではないかというテーマで、アガンベンやらロールズをもってきて「そんなテーマを議論すること自体けしからん」とぶちあげるようなものではないと思いますし、田島先生は「政治の実現へとむけて実践を開くべき」と言っているところ、政策の実現とあまりに乖離した、理想論「だけ」の議論をすることが望ましい、ということを本当に言っているのか、少なくとも証拠の文面上疑問です。
そのことを措くとしても、肯定側の議論が悪しき理想像を積極的に擁護しているとまで言えないのに、ディベートの場においてそういった議論を排斥すべきという理由付けがされていると考えることはできません。これはKritikの可能性を考えるうえで重要なことですので強調しておくと、難民論題でAffが一般的に論じているプランやメリットは、Negの批判する国家の枠組を前提にしているかもしれませんが、それを維持強化する意図があるわけでもないし、かかるプランが実現することでNegの主張する理想から遠ざかるような内容でもありません。つまり、Negの主張するような理想像や価値批判を前提としても、かかる対抗価値と、Affの議論との間の緊張関係は実は乏しく、その意味で、Negの主張は「こじつけ」の域を出ません。そのようなこじつけを議論することが政策分析より重要だと考えるべき理由は、この原稿には何ら見出されないのです。

肯定側が政策分析のディベートの正当性を証明すべきという主張については、1.1で述べた通り、政策分析を排斥する側に立証責任があるというべきですし、そもそも、上述の理由から、理想や考え方を議論すべき理由が示されたとは思われないので、Affに反証の責任が生じているとも見られないところです。誤解を恐れずに言えば、このKritikは、こじつけである点において(田島先生のエビデンスと文面上乖離している点からJDAのそれより弱い)、いわゆる「いちごT」のようなもので、判定上考慮に値しないというべきです。

2.3 難民論題における肯定側議論
かなるん氏は、CoDA全日本大会において、AffからもKritikを提示しています(原稿はこちら)。概要は、難民の苦しみに関する文学に共感する感情を根拠に論題を肯定してほしい、というものです。

これはアイディアとしてはなかなか面白いですし、私も含めたディベーターに対する注意喚起としては傾聴に値するものを含んでいるのですが、投票理由として考慮し得るかというと、下記2点の理由から、難しいと考えられます。
第一に、そもそも、冒頭に引用されたマッサンバに関する物語が、そこまで感動するようなインパクトを持っていると思われないということです。マッサンバ自身の言葉というわけでもなく、その内容も、難民が苦しんでいるということは分かるものの、さほど身に迫るものには思われません。NegがCounterplanの関係でよく読んでいた、難民キャンプの悲惨な実情みたいな話のほうが、よほど悲惨な内容だと思います。その意味で、Negは、普通の自分たちの議論を出したうえで、これに共感してNegに入れろ、という話もできたのではないでしょうか。
第二に、文学的共感で投票しなければならない、という点にやはり疑問があります。エビデンスを材料としてしか見ない観客的スタンスに問題があるというミッチェルの指摘はなるほどと思わされるところもありますが、それは、ディベートで政策論争を無視して文学的共感にのみ着目しろ、ということまでも帰結しないでしょう。むしろ、政策論争をしつつ、感情に迫るような重要性の説明付けを考えるなど、説得技法を考えるとか、それこそ教室ディベート的に題材で扱った議論について現場を見て勉強するような実践を考えるとか、色々な考え方ができるでしょう。私は、前者の、ディベートの議論の中でも感情的要素は考慮されてよいのではないか(「中身」のある感情論)という発想に親和的なのですが、それは政策分析を否定するのではなく、より現実に近く、かつ妥当な説得方法として、感情をどう利用するかというものです。
また、文学的共感によるべきという考え方は、市民教育としても望ましくないでしょう。そういった共感だけで政治を決めてしまうことが本当に望ましいのかということは当然疑問を呈されるべきであり、プロパガンダ文学が戦争や対立を生んだりもするわけです。共感をもって論題を肯定しようとするAffの考え方は、理性的な議論を拒絶するものであって、むしろ極めて有害であり、ディベートの所期する教育性にも完全に反するものだと言うことができます。

ということで、このAff Kritikも、かなり苦しいものがあるのではないかというところです。

3.Kritikはどこまで可能か
以上を踏まえると、Kritikの成否は、ジャッジに「Kritikを無視してはいけない」と思わせることができるかどうかにかかってくるところであり、そう思わせるためには、Kritikに対立する議論の在り方のどこに問題があるのかということを明快に示す必要がある、ということになりそうです。
Affの政策論議に対するNeg Kritikという観点で見ると、これは、Affの拠って立つ議論の仕方がどれだけ有害なのかということと、それに対してKritikに投票することがなぜ、どの程度切実に求められるのか、ということをしっかりと議論する必要があるということになります。そのために考慮される要素は種々あると思いますが、重要と思われる観点をいくつかあげておくことにします。

3.1 問題性と相手方の議論との密接な関連性があるか
上記2で見た難民論題のNeg Kritikは、難民を認定するというプロセス自体が非認定者の排除という暴力的要素を有するので、そもそも難民という概念を排して移動の自由を認める必要がある、という形で、Affの議論の問題性を指摘しようとしました。しかし、既に述べたとおり、この批判は、現状の下で難民認定基準を変えて漸進的に問題を解決しようというアプローチを否定するようなものとまでは思われず、少なくとも私には説得的に思えませんでした。
なぜ説得的でないかと考えると、その理由は、Affのプランやそれに基づく議論が、非認定者の排除という側面を意図したものでもなければ、難民という概念の終局的解消を否定するものでもなく、Negが指摘する問題性がAffの議論の中核に根差したものとは言えないという点にあるように思われます。Negの掲げる理想を否定するのであれば別論、Negの理想を実現するものではないにせよ、理想から遠ざかるような政策や議論態度ではないAffの主張に対して、勝手に理想だけをぶつけて「理想が実現しないのでだめだ」というだけでは、言いがかりというべきでしょう。理想が実現しないのでダメというのであれば、自分たちの理想が実現するということを立証する必要があるはずで、それができないのであれば、結局Negも理想を実現できないので等しくダメ、ということになります。少なくとも、そんな理屈で、理想論を論じることが好きな一部の特殊なディベーター以外を説得することは永遠にできません。
しかし、逆に言えば、Affのプランやそれに基づく議論が、尊重されるべき理想ないし理念と積極的に矛盾しているという場合には、それによって理想や理念から遠ざかるという理由をもって、Affの議論を棄却すべきという理由付けが成り立ち得る可能性があります。例えば、国会議員のクオータ制(議員の一定数を女性とする制度)導入論題において、Affのプランが男女同権の理念に矛盾しているとか、女性を保護すべきものと決めつけることで尊厳を否定している、といった批判が成り立ち得るとすれば、かかる批判が指摘する問題点は、Affのプランの核心に関係するものであり、Affのプランを採択することで誤った理念や価値観にコミットすることになってしまう…という議論は可能でしょう。こうした議論は抽象的価値を論じるデメリットとしても展開できるでしょうが、どうしてもメリットとの比較になると「結果的に女性の社会的地位が男性に並べばいい」という話で解消されてしまいそうだということで、敢えてKritikとして仕立てる、ということはあってよいのかもしれません(Kritikのほうが難しそうですが…)。
その他にあり得る議論としては、ヘイトスピーチ規制論題で、ヘイトスピーチ規制を訴えるAffの議論が、実際にはヘイト団体の規制弾圧を意図しているものと見える場合(読んだエビデンスがヘイト団体への憎悪を感じさせる場合など)に、そのことを捉えてKritikにしてみるということもあり得るかもしれません。相手方の「意図」(ここでいう意図とは、本当にディベーターがそう思っているという話ではなく、議論の内容からそういう意図を読み取れるかどうかという話です。)を問題にするのは、Kritikにしかできないことなので、これは何らか可能性があるかもしれません。

3.2 論題との関係でKritikに必然性があるか
Kritikの議論は、論題の是非ではない方法で判断せよということを求めるものですが、とはいえ論題が事前に決まっているのですから、Kritikの議論自体も、その論題との関係でなぜ正当性を持っているのか、ということが示される必要があるように思われます(例外的に、相手の議論の切り口等、相手の議論に固有に問題がある場合を除く)。それすら不要ということでは、およそディベート一般の議論の在り方を変えろという主張になり、ハードルは極めて高くなるでしょう。
これは3.1で見たところにも重なるのですが、相手方の議論の問題点として指摘されるところは、論題との関連性が強い必要があるでしょう。単に、そのテーマに関係するというだけではなく、論題の指定する政策の内容(プランと重なります)と関連している必要があります。難民論題で認定に係る国家の暴力性を論じる、というのは、一見難民問題に関係するので関連性がありそうに見えますが、実際には「難民」という概念自体を問題としており、難民認定基準を緩和するという政策を直接問題とするものではないので、関連性はさほど高くありません。それよりも、上で見たように、女性の地位を制度的に引き上げようとするクオータ制における男女同権や女性の尊厳といった問題や、特定属性の人を抑圧から守ろうとするヘイトスピーチ規制における規制対象者に対する抑圧意図といった問題のほうが、論題のはらむ問題に肉薄しており、それ故に、論題の是非以前のところで議論しようという主張に説得力が出てくるように思います。
どんな論題でもとりあえずKritikを出そうという発想(もしあるとすれば)は、Kritikの価値を切り下げ、いわゆる「いちごT」や、時間稼ぎとしてのGeneric Tに堕してしまいます。出す以上は、なぜその論題において、相手方の議論との関係で、Kritikが考慮されるべきなのかということが示される必要があるはずです。

3.3 論題の是非に関する議論に優先すべき理由があるか
上記のような「相手の議論の問題性」を前提として、はじめて、Kritikが論題の是非に関する議論に優先すべき理由について論じることが可能となります。
アメリカではKritikが優先すべき理由として様々な方法が議論されているようですが、そもそもの起こりは、コミュニティが実際に差別的だったりと、社会運動的にディベートの判定を動かしていく必要性や機運があったということによるようです。しかし、日本のディベートコミュニティにそういった事情があるわけでもないところからすると、投票を通じて現実を変えようという方向の議論には説得力を感じず、社会を変えたいならディベートをやるより自分で社会運動をやればよいのではないかと思ってしまいます。ゲームとして思想を重視すべきという、上でも見たような議論についても、思想のみによって判断すべきという理由付けがあるとはおよそ思われません。
個人的には、Kritikを優先すべき理由があるとすれば、それは、「相手の議論の問題性」が高度に認められることを前提に、かかる議論を無批判に容認することが教育上望ましくない、という理由が、一番Kritikを正当化しやすいように思います。教育性の観点は、ジャッジの多くがそれなりに受容しているところであり、そのような観点から、現実の政策論議として見ても、相手の議論の問題性を無視して論議を続けることには問題があり、Kritikとして指摘されたところを踏まえて議論を考えるよう促すことが教育的なのだ、という方向で議論すれば、投票理由としての基礎づけは一応成り立ち得るのではないかと思います。
ただ、教育性を基礎として用いるためには、相手方の議論をそのまま認めることが教育的に有害であるということを言わなければならないので、「相手方の議論の問題性」について高度な論証を要することになります。また、前提として、ディベートの目的が教育的なところにあり、政策論議として表面上成立していても、問題のある議論を無批判に容認するような姿勢は看過できない、といった話を説得的に行う必要もあるでしょう。

4.Kritikの可能性
以上より、筆者の現時点での検討結果からイメージできるところとして、Kritikが成り立つとすれば、相手の議論に大きな問題があるということを、議論の内容及び論題との関係で必然性のある形で示した上で、教育的見地からかかる問題を看過することはできないということを論証するという方法があり得るのではないかということになります。
このようにKritikを位置づけることで、Kritikは政策論議を邪魔しようとするものではなく、むしろその深度を別の観点から深め、または是正しようとするものと評価し得ることになります。平たく言えば「あんまり」な議論に対する牽制ないし批判の手段として、あるいはメリットデメリットの次元ではどうしても評価されにくい価値的な議論を投票理由にするための方法として、Kritikを活用するというアイディアは、可能性を秘めているように思います。
他方で、とにかくKritikをしたい、新しい議論なのでやってみたいということで、無理やりKritikを出そうというような発想は、かえってKritikの可能性や意義を切り下げることにつながりかねないように思います。それこそ、理由のないこじつけのようなKritikが乱発されるようになれば、Kritikと聞いただけで「またこれか」となるような忌避観が醸成されてしまいかねません。せっかくの発想なのですから、ここぞという時に、必然性をもってKritikが出てくるようになれば、日本のディベートシーンはさらに一歩先に進むのではないかと期待する次第です。

ディベート理論関連の記事 | 17:00:00 | トラックバック(0) | コメント(2)
「セオリー」の判定方法に関する補論--批判への応答として
珍しく先の記事から間がないですが、当ブログの過去記事(いわゆる「セオリー」の判定方法に関する若干の覚書)に対する批判(「いわゆる「セオリー」の判定方法に関する若干の覚書」(愚留米 2013)に関する若干の覚書)に接しましたので、これに対する応答として、従前の主張を敷衍、補足する記事を書くことにします。

最初に誤解のないように申し上げておくと、本ブログで取り上げている、ディベート理論に属する記事は、すべて筆者の理解・私見に基づくものであり、当然ながら批判の対象とされるべきものです。また、ディベート理論の各論点に関する帰結はいずれも正解があるということではなく、異なる見解を許容しないものではありませんので、以下でも(そして過去の記事でも)、私の見解が絶対正しいとか、その他の考え方があり得ないという趣旨をいうものではありません。
もっとも、自己の見解が理論的に成り立たないということでは困りますので、今回批判を受けた部分については再度説明を行いつつ、見解の相違がどのようなところにあるのかを明らかにすることで、問題となったテーマについての理解を深める一助になれば、というのが、本記事の趣旨です。
なお、本ブログへの批判を寄せた上記ブログには、Kritikに関する極めて興味深い一連の記事が投稿されておりますので、こちらについても折を見て感想など書こうと思っています。
といったところで本論に入っていきます。

「セオリー」の判定方法に関する補論--批判への応答として

はじめに
以前にセオリーの判定方法について私見を披歴したところの記事「いわゆる「セオリー」の判定方法に関する若干の覚書」(以下「旧記事」といいます。)において、私は、セオリーに属する議論が試合中に展開された場合に、ジャッジは、必ずしも選手の議論のみを基礎として判断を下す必要はなく、選手の議論にもかかわらず自説を変える必要がないと思ったら、自説に従えばよい、ということを述べています。この見解については、現在でも特に改説を要しないと考えております。
もっとも、近時では、日本語ディベートのシーンで議論の判断枠組みに再考を促すような革新的な議論が試みられるようになり、また、その旗手から、セオリーに属する議論も試合の中の議論で決めるべきである、という批判(「いわゆる「セオリー」の判定方法に関する若干の覚書」(愚留米 2013)に関する若干の覚書:以下「覚書批判論考」といいます。)を受けていることから、セオリーの判定に関してジャッジが決断を迫られる機会が差し迫ったものになっている現代日本語ディベートの現状に鑑み、旧記事について説明を掘り下げる必要があると考えたので、覚書批判論考に対する再反論を交えつつ、私見を敷衍して論じることにします。

1.セオリーに関する判断方法の特殊性:事実に属する議論とセオリーに属する議論の違いから
覚書批判論考では、旧記事において、議論の判定の恣意性確保や公平性維持の目的から、公知の事実以外は選手の議論のみに従って勝敗を決すべきという命題が事実に属する議論にのみ妥当し、セオリーに属する議論には妥当しないと説明していたことに対して、かかる目的はセオリーに属する議論にも妥当するのではないか、と述べられています。
セオリーに属する議論も試合の勝敗を左右し得る重要な議論であり、それを通じて論題の肯定・否定が大きく左右されるということを強調すれば、そのように考える見解も成り立ち得るとは思います(特に、旧記事の時代は、日本語ディベートでは議論の枠組みそのものを争うような議論が特に見られず、記事内でも、A/Jのような議論の出し方といった手続的規律が念頭に置かれていたということもありますので、今から見ると非常に保守的に見えることはそうだろうと思います。筆者も年を食ってきているのでそこは許してください…)。
しかし、事実に属する議論とセオリーに属する議論の間には、1点、極めて重要な相違があります。それは、(旧記事でも言及していますが)事実については「公知の事実」--建前として選手、ジャッジで共有されており、どのジャッジも等しく有していることが期待される常識。実際はぶれがありますけど--以外のジャッジの私見を持ち込むことは予定されていないのに対して、セオリーに関しては、各ジャッジに、それぞれの見解--他のジャッジと共通ではない--を持ち込むことが認められている、ということです。このことは、試合前に選手がジャッジに対してフィロソフィ(各ジャッジのセオリーに対する見解)を聞くことはあっても、事実についての知識を確認することはないということからもお分かりになろうかと思います。

ここから分かることは、ジャッジは、セオリーについて、自分の見解を持ち込むことができる、さらに言えばそのことが期待されている、ということです。事実に関する議論について自分の見解を持ち込むことが許されないことと対比すると、このことは重要です。つまり、少なくとも、判定上、選手がセオリーについて議論しなければ、その試合は、ジャッジが持ち込んだセオリーに関する理解に準拠して判断されることになるわけです。ここまでは異論のないところではないかと思います。
問題は、選手がひとたびセオリーについて議論を出した際に、ジャッジは、自身の見解との関係で、選手のセオリーに関する議論にどう相対すべきか、ということです。セオリーについても選手の議論だけで判断すべきという覚書批判論考の見解は、選手がいったん俎上に載せた以上、その論点は選手の議論の結果に委ねるべきであり、ジャッジの見解は後ろに退くというものだと解されます(もっとも、選手の議論が一定の水準に達しない「しょぼい」ものであれば、結局なかったことになるので、ジャッジの見解に基づき判断されるという立場でもあるようです。それは真っ当な理解だと思いますが、この「しょぼさ」の判断はかなり高低があるところで、新しいディベート理論については無意識に批判的に検討されることが避けがたい、あるいは理解がすぐには追いつかないのではないかという実践的なところを踏まえると、後述する見解と現実的相違はほとんどないかもしれません。)。
しかし、当初はジャッジに自己の見解に基づく議論を持ち込ませておきながら、選手から議論が出された瞬間にそれを引っ込めなければならないというのは、「持ち込み」を認めるという建前からは、当然に出てくるものではなく、何らかの積極的理由を必要とするところです。覚書批判論考は、この点について、特に論証を行っておりません。

「持ち込み」を取りやめて選手の議論によってセオリーを判断すべきという立場から考えられるところとしては、議論教育の観点や、争点になった以上は公平性の観点から選手の議論のみで判断すべき、といったことがあります。
しかし、議論教育という点からは、私の立場、すなわちジャッジが選手の議論のみによって判断するのではないという立場をとるとしても、ジャッジは「自説を変えてはいけない」のではなく、選手の議論が説得的であれば改説するのですから、ジャッジを説得するためのチャレンジを通じた教育的効果は担保可能です。セオリーだけハードルが高くなり、セオリーに関する考察の機会が減じられる、ということはあるのかもしれませんが、枠組みを変える議論が難しいというのは世界共通であり、何もディベートで殊更セオリーについて教育機会を保障しなければならないわけではない(セオリーについて一般社会より議論しやすくする必要はない)、ということができるでしょう。ただ、ここはおそらく見解が異なるところであろうとは思います。
公平性の観点について言うなら、そもそもセオリーについては「持ち込み」が認められている時点で、特定の思想や見解を前提として判断されないといった意味での公平性は存在しません。先にも少し言及していますが、セオリーについてそのような意味での公平性を維持しなければならないのだとすれば、フィロソフィーなんて事前に確認する必要はないわけです。セオリーに関する議論で保障されるべき「公平性」は、合理的な議論であれば採用される、ということだけでしょう。ただ、これが決定的に重要的なもので、私の立場であっても、選手の議論が説得的であったにもかかわらず自説を採用する場合には相当の説明責任が生じるので、その意味でセオリーの議論を出す余地は確保されています。

2.ジャッジが選手の議論のみによってセオリーを判断しない、ということの意味
ここで、ジャッジが選手の議論に限定されずにセオリーについて判断できるという立場をとることの積極的理由についても述べておくことにします。これは旧記事で述べなかったところですが、近時のディベートシーンを踏まえると、この点を掘り下げることが必要だと考えるためです。

前節で述べた、事実とセオリーの議論の相違は、セオリーについてはジャッジが前提となる理解を持ち込むことが求められている、ということです。これは、セオリーに関しては、選手だけでなくジャッジも議論の当事者である、ということを含意しているものと考えることができます。勝敗判断の判断となる基礎については、ジャッジは選手から出てきた主張立証を評価する立場にとどまり、選手の議論が及ばなかった場合には、無理に答えを出す義務はありません(というか出せません)。しかし、ジャッジは、主張立証の規律や勝敗の判断方法といった、ジャッジの職責に直結する事項については、合理性を前提とする裁量をもって自己の見識に基づいて判断する必要があります。かかる判断では、「立証が足りないので取りませんでした」といった、選手の議論に帰責させるような説明はできず、ジャッジが立証責任(実際には選手に対する説明責任)を負うことになります。言い換えれば、ジャッジは、セオリーに属する議論について、最終的責任を負っているのです。

もちろん、ひとつのセオリーとして、選手からかかる最終的責任を免除することができる、という議論(覚書批判論考の見解は要するにそういうことだと理解できます)も成り立ち得るとは思いますが、私は、ジャッジがかかる責任をもって、選手のセオリーに関する議論に独立のプレイヤーとして相対することが、セオリーの議論にとっても望ましいのではないか、と思っています。
旧記事でも述べましたが、セオリーの議論は、その試合で直接問題になっていない部分も含めた体系的な要素があります。それを無視して、この試合ではこのように判断します、という無理を犯すことを強要することは、結果的に、セオリーの理解をゆがめ、「こういう議論をしておけばジャッジの見解をシフトさせることができる」という安易な思考につながりかねないとも思います。旧記事で、セオリーの議論を「6分だか8分だかのスピーチの応酬の中で議論するということは、不可能ですし、また、期待されてもいない」というのは言い過ぎですが、さりとて、難しい議論を無理に簡単に認めてしまう必要はなく、難しいものは難しいままにしておくほかないと思うのです。
ただ、上記の議論は、本筋のメリット・デメリットの内容そのものとは関係しない、議論の出し方などに関する枝葉の議論を想定したもので、近時話題になっているKritikその他のメリット・デメリットに囚われない議論構成に対する評価としては、別の観点からジャッジの判断が期待されていると思います。それは、ジャッジが単なる議論の批評者ではなく、反対に関与する当事者としての立場からセオリーの議論を批判的に吟味することにより、セオリーの議論が深化するというものです。平たく言えば、相手がうまく反論できなかったのでそこそこの水準のセオリーの議論で勝てました、というより、そこでジャッジが別の観点から検証した結果セオリーの議論に基づく投票をしないほうが、判定理由の中で新たな課題が浮かび上がり、セオリーの議論には資するだろう、ということになります。
これは、選手の側だけでなく、ジャッジについてもそうです。よくわからないが有名な選手がそれらしいセオリーの話をしていて、反論がなかったので取りました、というのは、セオリーについて責任を負うべきジャッジとして怠慢なのであって、セオリーについて一応の見識が前提とされている(繰り返しですが、事実に関しては、ジャッジには通常人以上の見識は期待されておらず、むしろ特殊な見識は除外されるべきとされています)以上、ジャッジは、自己の見識に照らしてセオリーを評価できなければならないはずです。セオリーについて選手の議論だけで判断するのではなくジャッジの見解を踏まえて判断すべきというのは、ジャッジに対しても、セオリーに真摯に向き合い、きちんと検討することを促すということにもつながるはずです。

もちろん、上記のように考えることは、セオリーについてのみジャッジを説得するのが大変になりますので、セオリーで勝ちたいと思うディベーターには不利に働きます。しかし、そのことは、上記の「持ち込み」の議論で見た通り、ジャッジにとってセオリーは自身の判定の枠組みに関するものであり、客観性をもって取り扱うことはできない、ということからして、やむを得ないと言わざるを得ないでしょう。
他方、このようにセオリーの議論を捉えたとしても、それでセオリーに関する議論が萎縮するとは思われません。あえて既存の枠組みにチャレンジするような選手は、ジャッジの説明に困難があるとしても試みを断念することはないでしょう。むしろ、セオリーなら相手も準備してないから簡単に勝てるぞ、という安易な発想こそ、積極的に萎縮・排除されるべきところです。

以上を要約しつつ近時のチャレンジングな議論に対するジャッジのあるべき姿勢として述べるならば、ジャッジは、選手が判断の枠組みを含めたセオリーについて真摯に考察していることに対して、傍観者ではなく、同じくディベートという競技にかかわる立場として、ジャッジとしての立場から積極的にかかわっていくことが期待されているのではないか、ということです。
もちろん、各ジャッジが、選手の議論を尊重するという立場をとることも自由であり、そのほうが望ましいのだと考えるのであれば、そうすべきです。しかし、上述の通り、ジャッジには、許された見解の「持ち込み」を通じて、セオリーについて裁量的判断を行う理論的根拠があるのですから、セオリーに属する議論については、選手と同じ立場で議論することが可能であり、また、そうやって主観的に関わっていくことこそが、多様な議論スタイルが浮き彫りにした「頭の働かせ方における他者との違い」を理解しようという歩み寄りになるのではないか、と思います。

3.結論、そして残された問題
以上を踏まえると、私の見解であっても、覚書批判論考が志向する、新たな議論についての対話を否定することにはならない、ということがお分かりになっていただけるのではないかと思います。旧記事では、どちらかろいうと「しょぼい」あるいは「些末な」論点が念頭に置かれていたので、そういう議論を無理にするより普通にメリットデメリットを詰めたほうがいい、といったライフハック的意味合いで説明をしていたのですが、より突き詰めると、私の見解と覚書批判論考の見解は、ジャッジとしての立場からセオリーの議論と対話するにはどういう姿勢をとることになるのか、という相違であって、目指すところは変わらないということになります。
結局のところゴールが同じになるのは、いずれの見解も、選手やジャッジの理性や誠実さを前提としているからです。その前提で、選手がきちんと議論するのであれば判定もそれに対して下せば十分であり、ジャッジの介入はゲーム性を損ねると見るのか、セオリーについてはジャッジの職責にも関係するものだからジャッジにも当事者として関与する適格があり、それを認めるほうが別の意味でゲームが面白くなるのではないかと見るのかは、ディベート観や好みの問題であって、どちらの立場でも問題ないのではないかと思っています。

なお、このテーマと似た問題として、ジャッジが自己の価値観をどこまで試合に判定させるか、ということがあります。建前として、ジャッジは価値中立的でなければならないとされているのですが、ここでいう「価値中立」とは何を指すのかということは、公知の事実よりも特定が難しく、また、そもそも価値観の相違も前提とされるべきではないかとも思われます。
ジャッジを判断の当事者と見て、価値観も判断の基礎となる事項だと考えると、一定の価値観の持ち込みは許される、あるいは、既に無意識のうちに持ち込まれているということができるのかもしれません。しかし、セオリーについての議論以上に、特定の価値観を持ち込んで議論するということは問題視されるものでもあります(他方で、反論がなければ選手の偏った価値主張に基づき判断するという姿勢も、セオリーにかかる同様の態度以上に問題視されるのではないかと思います。)。
この問題についてはこれ以上ここで論じることはしませんが、本稿で取り上げた、ジャッジの判断者としての独自の立場を強調する立場からは--かかる立場を支持しない場合でも、価値に関する議論は、criticの結果という形で裏口から入り込んでくるため、対岸の火事というわけにはいきません--必然的に問題となる課題でもあるため、この点についても何らかの検討が加えられる必要があるでしょう。ということで、これは今後の課題としておくことにします。

ディベート理論関連の記事 | 03:36:59 | トラックバック(0) | コメント(1)
次のページ