2021-12-31 Fri
永らくご無沙汰しておりました。ジャッジ講座もディベート甲子園の決勝批評も滞っており、秋季JDAも終わって久しいところです。色々と書くことはあるのですが、お待ちいただいている方がいらっしゃいましたら気長にお待ちください。さて、去る11月8日、一院制論題によるJDA秋季大会が開催されました。私も出場しましたが2勝1敗で終わりました。素晴らしいパートナーや対戦相手のおかげで充実したシーズンではありましたが、同時に己のディベーターとしての衰えも感じたシーズンでした(単にプレパできていないだけなのかもしれませんが…)。20代の頃は、相手のスピーチを聞きながら反論を考えてフローに書き殴りつつ議論を追って行けたのですが、30代後半で迎えた今シーズンは、反論に気が回りすぎて相手の議論を見失いそうになったりで、単純に回転力が落ちたことを実感しました。その分、要点を分かりやすく話すスピーチは多少上手くなったような気もしないではないですが、それに合わせたスピーチや議論構築ができていたわけではありません。職業ディベーターも微妙にスタイルを変えつつトップレベルのスキルを保っているように思いますが、私も自分の変化に合わせてスピーチスタイルを変える必要があるのかなと思いました。そもそも次いつ出る機会があるかは不明ですが…。
と、こんな反省を綴っても誰も興味がないと思いますので、今大会でも話題になったKritikの話をします。一院制論題ではKritikは出ないだろうと思っていたところ、練習試合や本番で、エビデンスの使用方法への問題提起や、ディベートの魅力を伝えたほうが勝ち、多様性に資するほうが勝ち(だいぶデフォルメしているので正確ではないかもしれませんが本題とは異なるのでご容赦ください)、といった、論題と関係しない――関連していると強弁するがこじつけに近いように思われる――議論を投票理由とするKritikが出て、本番でも一定の票を獲得しました。
今回、個々の試合について論評することはしません。その代わりに、より一般的な話として、論題にも相手方の議論にも関連しない議論が投票理由となるとは考え難く、帰結も相当でないと考える立場から、論題ないし相手方の議論と関連した議論を出すことがディベートで投票を得るための前提条件として求められることを、いくつかの観点から論じることにします。年内に上げることを優先し、やや粗い議論になっておりますことをご容赦ください(ご意見、ご批判などいただければ回答いたします。)。
なお、上記のような趣旨から、本記事は、Kritikに対する包括的な批判を論じるものではありません。特に、政策形成パラダイムによるべきか否かという論点については言及していません。個人的には、後述のとおり、論題との関連性か、相手方の議論との関連性のいずれかを満たしていれば、いかなるパラダイムで議論するかは特に問題ではないと考えています。Kritikへの理解は低めのジャッジなのだとは思いますが、別にKritikは取らないと決めているわけではなく、JDA決勝でKにagainstしたのも、Kを認めないからではなく、Kを出した側の枠組に沿っても説得されなかったからです。また、例えばクオータ論題で回っていた?ジェンダーに関するKritikは、好みかと言われるとうーん…ですが、議論の展開次第では入れることもあり得ると思います。
※練習試合で、なんとこのブログの記事が引用されているのに接しました。なぜか本名で読まれていてビビりましたが、そういう需要もあるようなので、本記事では著者の情報を記しておくことにします。肩書は使えそうなものを適当に使ってください(なお、以下の論考は著者個人の見解によるものであり、所属する団体等とは無関係です。)。もっとも、個人的には、K対策にエビデンスを読む必要はなく、納得した話があれば反論のネタに使ってもらうくらいでよいと思っています。是澤先生や矢野先生が何か言ったからといってジャッジが説得されるというものではなく、ましてや謎のスヌーピストの意見でジャッジが説得されるということはないでしょう。
論題関連性要件の必要性に関する一考察
Author:天白達也(てんぱく・たつや) 弁護士/法務博士/全日本ディベート連盟理事/スヌーピスト
はじめに
本稿では、Kritik(クリティーク)と呼ばれる、政策論題において政策の純利益(メリット・デメリット)とは異なる観点から投票を求める議論について、それが満たすべき条件として「論題との関連性」が必要とされるべきであるということを論じます。ここでの問題意識は、予測・対応すべき義務をいかなる意味でも負わない議論や、その試合で出した議論に帰責することができないような議論を理由に敗戦とされるべき謂れはない、ということにあります。
以下では、最初に、「論題との関連性」について定義した上で、論題との関連性を満たすことが投票の前提条件であること、換言すれば、これらを欠く議論には投票すべきでないことを、主にJDAルールを念頭に置いた解釈論や、教育性ないし公平性という基本原理に基づき論証します。続いて、論題との関連性の有無を判断する方法として幾つかの基準を提示します。最後に、多くのKritikで主張される、ジャッジの役割論や試合外への影響を重視すべきといった議論が、これらの要件を不要とする理由とはならないことを論じます。
論題との関連性を投票の要件とすべき理由
本稿では、アカデミック(調査型)ディベートで一般的に採用される政策論題を念頭に置いた上で、「論題との関連性」を「論題に規定された政策を肯定ないし否定する議論であること」と定義します。その上で、論題との関連性が投票の前提となる要件として求められるべきであることを論じます。以下、論題との関連性を満たしているかを問題とする要件のことを「論題関連性要件」と呼びます。
論題関連性要件を要求すべき理由は、論題の実行の是非と無関係に、論題の特徴やら理念ということを理由に、結果的に論題と異なる対象を議論しようとする「すり替え」を許すべきでないと考えるためです。詳細は後述しますが、論題との関連性を欠く議論も相手にしなければならないということになると、準備の負担は増大し、論題から想定される議論を深めていくということができなくなります。論題と関係なく議論をしたい人は、その論題を対象とするディベートの大会ではないところで議論すれば足りるのであって、論題が所期しない議論を認める必要性はありません。このような問題意識が、本稿の前提とするところです。
以下、論題関連性要件が投票のために必要となる理由について論じます。
§ 主にJDAルールを念頭に置いたフォーマット上の根拠
JDAのウェブサイトでは、我々が行っているアカデミック・ディベートをこう定義しています。
アカデミック(教育)ディベートとは: 議論の教育を目的とし、ひとつの論題の下、2チームの話し手が肯定する立場と否定する立場とに分かれ、自分たちの議論の相手に対する優位性を第三者であるジャッジに理解してもらうことを意図したうえで、客観的な証拠資料に基づいて論理的に議論をするコミュニケーション活動。
我々が行っているディベートは、ひとつの論題の下、肯定側と否定側に分かれて議論するコミュニケーション活動です。このフォーマット上の特徴は動かしがたいものです。
では、ひとつの論題の下、我々は何を議論するのか。この点、JDA大会ルール第3条2項及び3項は、以下に引用するとおり、肯定側が論題を肯定し、否定側がそれを妨げる役割を担うこと、つまり、論題が肯定されるかどうかを議論するということを定めています。
第3条 (側)
1.ディベートにおいて、二つのチームは、肯定側、否定側に分かれる。
2.肯定側は、論題を肯定することをその役割とする。
3.否定側は、論題の肯定を妨げることをその役割とする。
4.論題の肯定、およびそれを妨げる方法は、ディベーターの議論に委ねられる。
JDAルールでは、この後に続く第5条で「ジャッジは、試合中の立論および反駁の内容に基づき、試合の判定を行う。」と定めています。この条文だけを見て、ジャッジの判定は論題と関係している必要はない、という主張がされていたことがありますが、これはルールの解釈を完全に誤っています。JDAルール第5条は、その前にある第3条が定める役割を踏まえて、立論や反駁の内容に基づき、肯定側が論題を肯定できたか、否定側が論題の肯定を妨げることができたか、を判断するということを規定したものです。そう読まなければ第3条を定めた意味はないわけで、第3条を無視して第5条だけを論じる解釈が成り立つ余地はありません。
仮に、上記のような側の規定がないとしても、ルールに明記されていないから考慮しなくてよい、ということにはなりません。例えば、JDAルールには、立論や反駁の役割や、ニューアーギュメントに関する規律は定められていませんから、ルールだけを見れば、2ARで新たにメリットを出すことも自由にできるはずです。しかしながら、ジャッジや選手は、こうした議論はNew Argumentとして許されないと考えるはずです。なぜなら、ルールに規定されていなくても、反論機会を奪うようなスピーチは認めるべきでないからです。認めるべきでない議論は、それがルールに書かれていないからといって許容されることにはなりません。
論題が定められ、それについて肯定側と否定側に分かれて議論する以上、側の役割が書き込まれていないとしても、論題関連性要件は必要であると解すべきです。続けてその実質的理由を見ていきます。
§ 教育性ないし公平性からの基礎づけ
アカデミックディベートでは、教育的ポテンシャルを最大化するために、あらかじめ論題が決められます。論題により議論のエリアが明示されているからこそ、選手は、そのエリアについて知見を深め、十分な準備の下で議論を準備できるのです(伊豆田ほか3名『現代ディベート通論復刻版』13頁参照)。逆に、論題に無関係に議論が出せるのだとすれば、我々は何について準備すればよいのか分からず、事前に議論を深められません。また、片方が過度に有利な論題であれば公平性やゲーム性が損なわれます。
このような理由から、大会運営者は、論題の設定に意を払います。全国教室ディベート連盟では、論題検討委員会を設けて論題を策定しています。JDAでは、論題候補について議論の可能性や公平性等、文言の適切さ等について公開で討議する機会を設ける等しつつ、会員の投票で論題を決定しています。このような手続を経て論題を定めるのは、良い論題が良いディベートの前提条件となるからです。
論題を無視するということは、こうした教育的配慮や公平性の担保を放棄するということと同義です。さらに言えば、論題を無視して、一方当事者が好き勝手に投票理由を定めることを許せば、著しく不公平な帰結をもたらすことになります。双方独自に投票理由を提起させればよい、ということになれば、もはやディベートは何でもありのトークイベントに堕してしまいます。ではどうしてこんなに時間をかけて論題を決める必要があったのか、ということです。
このような見地から、単に「論題と関連している」というだけでなく、論題に規定された政策を念頭においた議論であることが要求されるべきことが導かれます。単に論題と関係する――例えば「論題の政策が支持する理念と共通する」など――というだけの理由で論題と紐づけられて議論対象が無制限に拡大されては、論題が担保しようとする教育性や公平性は損なわれてしまいます。したがって、関連性を規律する何らかの基準が必要となるところ、政策論題の策定時には、論題に規定された政策の実行の是非を念頭に置いた議論を想定して論題の吟味がされているはずですので、それを基準にして関連性を限定することが妥当でしょう。このような限定をかけた上で許容される議論のフィールドは、一般的な選手が論題から予想し、準備する(ことが期待される)議論の範囲とも概ね一致するでしょう。
§ 競技性からの要請
上記にもかかわらず、論題関連性要件を欠く議論も認めるということになった場合、どうなるでしょうか。予想外の議論で、事前の準備が全てふいになるという事態が生じかねません。
事前に準備すべきと言われたテーマと関係ない議論で負けてしまう環境下では、かみ合った議論は出来ず、予想外の議論で負けるというつまらない経験しか得られないことになり、選手は離れていきます。英語アカデミックディベートが同様の問題に直面しています。全日本英語討論協会が2019年に実施したアンケート(2019年7月13日「アカデミック・ディベートの競技人口減少に関するアンケート調査」)で、「アカデミック・ディベートに興味を失った理由、他活動の方が魅力的に思った理由」に対する190人の回答結果において、複数回答ではありますが、実に80人、42.1%もの人が、「論題の政策に関すること以外の議論をしたくなかったから」と回答しています。そこでは主にTopicalityなどが念頭に置かれていますが、論題と無関係に提出される議論(Kritik)を相手しなければならないという状況も、同じく、興味を失う理由になるでしょう。
論題関連性要件の判断基準
§ 基本的な考え方
論題関連性要件は、肯定側ないし否定側の議論が、①論題に規定された政策を肯定ないし否定する議論である場合、または②相手方の議論の問題点を論じる議論である場合に充足されます。
①は既に述べたとおりですが、②を満たす場合でも論題関連性要件を認めるのは、非命題的なプランから生じるデメリットも投票理由になることと同じ考え方です。相手方の議論(論題関連性要件を充足している前提です。)に問題があることを示すことができれば、当該相手方の議論に投票すべきでないということを通じて、自分たちに投票すべきとの結論を導くことができます。このような議論が成立する場合、相手方には投票を失うべき帰責性が認められるため、上述した教育性や公平性の趣旨からも、(論題との関連性を問わず)投票することが許容されます。
政策形成パラダイムに基づく議論は、通常、自動的に①により論題関連性要件を充足します。しかし、論題関連性要件は、政策形成パラダイムのみを許容するものではありません。逆に、政策形成パラダイムに基づきメリットデメリットを論じる場合でも、論題関連性要件を欠くことはあり得ます。例えば、肯定側のプランが論題と無関係である場合(出来の悪いびっくりケースで稀に見られる事態です。)は、Topicalityの問題というより、その前提である論題関連性要件を欠くものと処理すべきように思われます。
§ ①を満たすかどうかの判断方法
上記①を満たしていると言えるかどうかを判断する最も簡単な方法は、当該議論が肯定側であっても否定側であっても成り立つものではないか、という点をチェックすることです。どちらの側でも投票理由として主張され得るということは、その議論は論題を肯定するものでも否定するものでもないということになるためです。
例えば、2019年秋JDAの決勝で否定側が提出した、最低賃金に関する対抗言説として論題を否定するというKritikは、当該対抗言説は論題を否定する理由としてではなく、論題を肯定する理由としても主張し得ると考えられます(公開された原稿からは現にそのように準備されていたようです。)。このような議論は、結局、論題の肯定と否定のいずれにも資することがないものであって、論題と無関係である、と評価すべきことになります(もっとも、当該議論については、最低賃金を上げる=論題を肯定する、という態度と不可分の問題を論じていることを強く説明すれば、論題関連性要件を説明する余地はあると思います。)。
また、ディベートコミュニティについて論じるような議論も、一般的に、上記の理由により論題関連性要件を充足しないものとして棄却されるべきことになります。
上記チェックをクリアしたとしても、論題に規定された政策そのものとは関係ない議論である場合、論題関連性要件の充足をを否定すべきです。例えば、「この論題に規定された政策は多様性の尊重を理念としている。したがってディベートコミュニティの多様性を高めるための提案を主張する自分たちに投票すべきだ」といった議論については、論題から何らかの価値・理念を抽出してはいますが、そこから、論題と無関係の議論に話をすり替えています。論題から何らかの価値・理念を抽出できるとしても、それと同様の価値・理念は別の論題ないしテーマからも抽出可能であると考えられますし、そもそも論題の当否は特定の価値・理念の当否とイコールではないので、結局、その価値や理念を論じたところで、事前に指定された個別具体的な論題を肯定ないし否定することにはつながりません(かわいい、という価値観を肯定したとしても、それがスヌーピーを肯定したものか、ピカチュウを肯定したものかは分かりませんし、かわいいというだけで直ちに電気を帯びて危ないピカチュウが肯定されるわけではありません。)。
以上を満たせば、さしあたり、論題関連性要件の充足を満たすことができます。メリット・デメリットでなくても、論題に規定された政策を行う(支持する)こと、行わない(反対する)ことに存する問題点を議論できていれば、論題関連性要件の観点からは問題ないということができます。
§ ②を満たすかどうかの判断方法
仮に①を満たさないとしても、相手方の議論に内在する問題点(例えば、差別的な価値観を内包している等)を取り上げていると言えるのであれば、論題に関する議論の問題点を論じているということをもって、論題関連性要件の充足を認めることができます。
もっとも、このような議論に論題関連性要件の充足を認める実質的根拠は、相手方に帰責性(落ち度)があると言えることにあります。したがって、相手方にとって避けようのない問題を論じているという場合、帰責の前提となる結果回避可能性がない(避けられない以上、避けなかったことを非難できない)ことから、そのような問題提起によって論題関連性要件を充当することはできないと考えるべきです。例えば、クオーター制導入論題において、男女の差について論じること自体が望ましくない、という議論を提起する場合、論題の性質上、男女の差を全く論じずに議論することは不可能と考えられるため、そのような議論は論題関連性要件を充足する理由にならない、と考えられます。
これは、上記①の検証方法である「肯定側と否定側のどちらでも当てはまるのではないか」という話とも重複します。相手方の議論に対する問題提起という体を取るだけで、上記①のチェックを潜脱することはできません。
結局のところ、①の話も②の話も、論題について論じることを指定されている当事者にとって準備することが期待される(準備しなかった場合当該当事者の責任になる)議論と言えるかどうか、ということを問題としているということが言えます。このような理解は、教育性や公平性、競技性といった上述の趣旨からも当然に導かれるものです。
論題関連性要件に対して予想される批判に対する反論
上記の論題関連性要件に対しては、少なくないKritikで主張される、ジャッジの投票への影響力や、議論の公共性ないし市民教育の必要性といった考え方から、論題に制約される必要性は乏しいという反論が予想されます。
まず、ジャッジの投票への影響力をいう議論ですが、そもそも、ジャッジの投票に特別な影響力があるという前提が疑わしいです。ジャッジの投票は、せいぜい、その議論に対する競技的な評価を示すものにすぎません。Kritikその他の議論が認められた、ということは、そこで論じられた価値観等が支持されたということを必ずしも意味するものではなく、反論が拙かったのでやむなく投票したというケースも含まれ得ます。受け手である選手も、そのような議論でも投票が得られるのか、と考える以上に、そこで論じられた問題について深く考えることは稀でしょう。むしろ、ディベートという競技の場で議論することで、当該問題を「競技の中のお話し」にしてしまい、深い検討を妨げることすら懸念されます。
また、仮にジャッジの投票に、その基礎となった議論の内容に関する何らかの発信的効果があるとしても、ジャッジは、特定の価値観を称揚ないし否定する目的で投票を行うべきではありません。ジャッジの任務は、論じられた内容に基づき論題の当否について判断することであって、論題と関係なく議論された内容にたまたま納得したからといって、それを支持する「善行」のために任務を放棄することは許されません。
次に、議論の公共性ないし市民教育の必要性から、論題に囚われない議論を求める立場に対しては、そもそも公共の議論においてもテーマを無視して論じることは許容されていないという指摘が可能です。原発反対を訴える市民集会でジェンダー平等の話を論じられても、参加者は顔をしかめるだけです。良い話だから論題(テーマ)と違っても聞いてほしいというのは、それこそ市民社会の良識に反する振る舞いです。
また、ディベートにおいて殊更公共性や市民教育を強調することにも疑問があります。選手以外の観客も多数いるようなパブリックスピーチの場などであれば特別な考慮があり得るかもしれませんが、事前に論題を定め、一定の経験者をジャッジとして選任している競技大会において、論題を無視した公益的な議論(そもそもここでいう「公益」にはかなりの偏りがあるようにも思います)が尊重されるべき根拠はないでしょう。
以上に共通して言えることですが、社会への影響といったことを考えるのであれば、なにも、論題や競技的フォーマットによる制約のあるディベートの試合を表現の場として選ぶ必要はない、ということです。
こう述べると、ディベート以外の場で議論できるということはディベートの場で議論してはならないということを意味しない、という反論が飛んでくるでしょう。しかしながら、論題関連性要件との関係で言えば、論題が定められている以上、それを無視すべきと主張する側において、なぜ論題を無視してでも語る必要があるのかということを積極的に論証する必要があります。ディベートでないと議論できない、というやむにやまれぬ事情があれば別論、そのような事情がないのであれば、論題を無視したスピーチに票を与える理由はないし、対戦相手としても、そのようなチームに票を持っていかれるようではたまったものではありません。
そもそも、ディベートの試合では、対戦相手は共感したかどうかとは別に競技上の要請として反論しなければならないわけで、問題提起に対して真摯な応答がされることはもとより期待できません。そのような場所でわざわざ論題と関係ない「大事な」話をしなければならない理由はどこにあるのでしょうか。その理由は、当該チームの独りよがりを超えて、相手方にも我慢を強いることを正当化するだけのものなのでしょうか。そのようなことが問われなければなりません。
むすびに代えて
競技ディベートが、論題を事前に定め、論題を肯定する側と否定する側に分かれて議論するということには、議論の範囲を適切に制約することで教育的効果や公平性を高めるという実質的な意味があります。このような制約の下で、選手は、論題に関する調査や試合の準備を進め、議論を楽しみます。論題関連性要件を欠く議論は、このような前提を無視して、選手にとって準備が期待されない議論を理由に負けるという理不尽な結果をもたらすことで、ディベートの教育性、公平性を破壊し、選手をディベートから遠ざけることにつながります。このような議論は、パラダイム云々の問題以前に、ディベートという競技の想定から外れていることを理由として退けられる必要があります。
この要請は、投票の前提として論題関連性要件の充足を求めることによって満たされるものであり、ディベーターにおいても、このような論点があることを意識して、Kritikをはじめとする諸議論を検討する必要があります。真にディベートの試合で論じられる価値のある議論であれば、論題関連性要件を充足することは可能であり、かかる要件の充足が必要であることを意識して立論することは、これまで聞き手にとって分かりにくかったKritikの議論をより分かりやすく説得的にすることにもつながるものと期待されます。本稿が、論題に関連しない議論で疲弊する選手の救済のみならず、価値ある意欲的議論のブラッシュアップにも貢献することがあれば幸いです。
2018-10-01 Mon
今回の記事は、ディベートにおいて重要な要素である証拠資料について取り扱うことにします。本ブログでは、主に理論的な興味から証拠能力(証拠として認めてよいかどうか)の議論を中心に取り上げてきたのですが、今回は、実践的により重要であるにもかかわらず、誤った理解が散見されるところである、証明力(証拠がどこまで信用できるのか=強いのかの評価)についての問題をメインに取り扱うことにします。特に、証拠の出典や著者の権威性が証拠の証明力にどのような影響力を与えるのかという点を中心に、証拠資料をどのように評価すべきかということをいろいろと考えてみようと思います。証拠資料がなぜ有効なのか、証明力はどのように評価するのか、ということを考えることは、単に議論の質を高めるということだけでなく、ディベートという競技を価値あるものにしていくために必要なことでもあります。ディベートを知った気になっている人の中には、調査型ディベート(アカデミックディベート)が、エビデンスを片っ端から集めては当日それで殴り合う競技であるとか、情報とデータで殴っているだけの不毛なものだとかいう頓珍漢なことを言っている御仁もいるのですが(ご参考。なお、この著者が即興型ディベートにどの程度通じておられるのかは謎ですが、記事内で取り上げられている即興型ディベートも価値ある営みであるということは全く異論のないところです)、とにかく証拠を読んでおけばいい、それが勝つための方法だ、といったことを考えているディベーターがいるとすれば、それもまた頓珍漢な理解に基づくものであり、不毛な営みであるとの誹りを免れません。
自分たちが議論を評価する際の方法論についてきちんと考察し、それを実際の議論に活用してこそ、良質なディベート実践が実現するのであり、以下の考察の内容を別としても、証拠資料の意義や評価の在り方については、選手としても、指導者としても、よく考える必要があります。
1.証拠資料の内容に証明力が認められる理由
ディベートでは、主張を立証するための根拠として、文献などを証拠資料として引用することが一般的とされています。ディベートでは議論の中身が評価の対象になるわけですが、わざわざ証拠資料を引用することになっていることには、同じ中身でも、証拠資料に書いてある内容を選手がそのまま述べるのと、引用という形で提示するのでは、扱いが異なるという前提があります。
なぜこのような違いが生じるのか。主な要素としては、(i)議論当事者ではない第三者の発言であること、(ii)権威性ないし専門性、事実に関する知識、研究や分析の存在といった形で、立証対象との関係で主張内容の正しさを基礎づける要素があること、の2つを考えることができます。
もっとも、(i)の要素は、議論当事者の発言であっても内容が説得的であれば評価するし、逆に、第三者の発言だというだけで信用できるわけでもありません。むしろ、この要素は、(ii)に関連して、議論当事者ではない第三者の発言内容については、発言者の属性に基づく信用性を認めてよいという消極的な意味合いであると理解すべきでしょう。ディベートの試合では、議論当事者(選手)は対等な立場で議論しているのであり、選手が誰であるかということが勝敗に影響することは、公平性の観点から否定されます。むしろ、そういった「選手が何者か」という要素は、判定上積極的に排除されることになります。したがって、飲食店禁煙論題で疫学の専門家が選手としてたばこの危険性を論じたことが信用性にプラスに働くわけでもなく、また、死刑廃止論題で弁護士が選手として自分の経験に基づき冤罪の危険性を主張したとしても、それで冤罪があると評価することにはなりません。もちろん、選手がたまたま論題について専門的な知識を持っていて、そのおかげで説得的な議論を作れるといったことはあるでしょうが、あくまで議論の中身が評価されるのであり、誰が言ったかということで勝敗が決まることはあってはなりません。
なお、上記のように考える理由は、選手の属性によって議論が評価されるのは競技として不公平であるということによるものですから、選手の意見が公刊されて相手方も引用できる形の文献になっていた場合に、自分で自分の文献を引用するということは、全く禁じられませんし、そのことでマイナスに評価される筋合いもありません。選手は、判定上はいわば無色の「肯定側第一反駁A」「否定側立論B」のように扱われるのであって、選手がたまたま自分で書いた本を引用したとしても、それは、選手とは別の第三者による資料として扱うことになるというわけです。
よって、証拠資料が選手の発言と異なる信用性を持ち、証明力が認められる理由は、(ii)の、発言者の属性に基づく主張の基礎づけが可能になる、ということに見出すことができます。選手の発言としてでない第三者の発言としてであれば、専門家の権威性や、発言者の知識、研究結果に基づく知見を借りてくることができる、というわけです。
この、属性に基づく主張の基礎づけが正当化されるためには、主張しようとしている内容(証拠資料の立証趣旨)との関係で、発言者のいかなる属性が、どうやってその主張を基礎づけることになるのか、ということが明らかにされる必要があります。これは個々の主張立証ごとに評価される必要があり、また、ジャッジは、ある程度簡略化しているところもあるものの、そのように評価しているわけですが、この点についていくつか誤解があるようなので、次の節ではそのことを見ていくことにしましょう。
2.証明力の評価に関するいくつかの誤解
以下では、よく見られるように思われる、証拠資料の証明力の評価に関する誤った理解を取り上げつつ、それがなぜ間違っているのかということを説明します。
2.1 証拠はないよりもあったほうがいい?
これはかなり多くの選手に見られる誤解ですが、証拠資料の内容にかかわらず、証拠資料はないよりもあったほうがよく、とりあえず読んでおけばジャッジが評価してくれる…というのは間違いです。
既に述べた通り、第三者の発言であるというだけで信用性が認められるのではなく、証拠資料の発言者の属性が、証拠資料で発言している内容をどのように基礎づけているのか、ということが評価された結果、信用性があるということになってはじめて、証拠資料には証明力が生じます(さらに、選手が主張したい内容と証拠資料の言っている内容と合っているか=関連性の有無も問題になりますが、今回は取り上げません。)。ノーベル物理学賞の受賞者が、日本の政治制度について語っていたとしても、何の意味もないわけです。
おそらく、上記のような誤解をしている選手は、そこまで極端なものはともかく、理由がなくても結論だけ言っているような資料(いわゆる「一行エビ」)でも読んでおくほうがよい、といったことを考えているのだと思いますが、それも間違いです。ただ、すべてをそう言い切ることはできないので、もう少し丁寧に説明しましょう。
証拠資料の立証趣旨が比較的単純な事実に属するものであり、その事実を知っていると言える立場の人間が発言しているというだけである程度信用できるような内容については、理由がなくても証明力を認めることができます。例えば、刑事事件の有罪率が非常に高いという話は、法務省の統計を持ってくるのが一番確実ですが、法律家が「刑事事件はほとんど有罪になります」と言っているだけの資料でも、まぁそうだろうという評価になるでしょう。
他方で、複雑な事実や事実の評価も問題になるような事項を立証趣旨とする場合、専門性や権威性だけで信用することはできません。例えば、遺伝子組み換え食品が安全だとか危険だとかいった話は、科学者が結論だけ言っていても、ジャッジとして評価することはできません。判断をそこまで専門性や権威性に委ねてしまうのは、ジャッジとして無責任ということになります。どういう理由で安全/危険なのか、どの程度安全/危険なのか、といった具体的な話が出てきて、はじめて、その具体的な理由付けを専門家が語っているということから、おそらく妥当なのだろう、と納得することができるわけです。ということで、理由もないと納得できないような難しい事項については、一行エビを読まれてもプラスにはならず、読んだ時間を無駄にするだけ、ということになります。
2.2 ブログや匿名記事は信用できないから本や論文のほうがいい?
一般的に言われるのが、ブログや匿名記事は信用できない、本や論文から引用したほうがよい、ということです。これは、多くの場合はそう言えるのですが、必ずしもそうであるとは限りません。なぜ本や論文のほうが信用できる場合が多いのか、ということを考える必要があります。
ブログや匿名記事が形式面できちんとした本や論文に劣っている点として考え得るのは、匿名のものについては著者の正体がはっきりしないこと、公刊されておらず発表のハードルが低いこと、ブログやネット記事の場合いつでも変更可能なこと、といったところが考えられます。しかし、匿名であっても、例えば「~の研究者」「~勤務」といった属性さえわかれば、その範囲で権威性や専門性を認め得るので、これは決定的ではありません。公刊されていればしっかりした内容だと言えるわけではなく、論文であれば査読されている(査読のない、あるいはゆるい雑誌もたくさんある)のでその点よいですが、立証趣旨によってはレビューの有無を問題にしなくてもよい場合はいくらでもあります。いつでも変更可能であるということは、間違っていた場合修正できるという点でむしろプラスとも言えます。また、その当時の資料の存在が確認できるかは証拠能力の問題であって、信用性の問題ではありません(こちらの記事の第3項をご参照)。
実質的な違いとして、ブログや匿名記事に比べると、本や論文の中には、研究成果を反映させてきちんとまとめたものが「多い」、ということは言えます。正式な研究成果をブログや匿名記事だけにとどめることは考えにくいので、良質な資料を探すのであれば、本や論文を当たるべきだとは言えます。しかし、本や論文であれば信用できるとか、ブログや匿名記事は全部使えないといったことまでは言えないわけで、中身や言いたいこととの関係をきちんと考えていく必要があります。
場合によっては、専門家の書いた論文や本より、匿名のブログのほうが信用性が高いと考えられる場合もあります。例えば、安楽死論題における末期がん患者の苦しみや、代理出産論題における不妊治療のつらさは、自分が治療を受けているわけではない医師が論文や本で「末期がん患者の苦しみは筆舌に尽くし難い」「排卵誘発剤の注射は非常に痛く女性にとって大きな負担になります」などと書いている内容より、実際の患者がブログで苦しみを語っている記事のほうが迫力があり、説得的であるのではないかと考えられます。記事が匿名で書いてあるとしても、末期がん患者であるとか、不妊治療を受けている女性であるといった属性が明示されていれば、証明力を基礎づける属性情報としては十分です。こういった「生の体験」について、ブログであるというだけで信用性がないと考えてしまうことに対しては、資料ときちんと向き合っていないのではないかという疑問を抱かざるを得ません。
3.どこまでの内容を証拠で語る必要があるのか、あるいは語り得るのか
ここまでの説明から、証明力は「資料が新しい」「著者が偉い」「本や論文になっている」といった形式だけで評価するのではなく、立証趣旨や理由付けとの関係で著者の属性がどのように信用性を基礎づけているのかを具体的に考えた上で評価されるべきものである、ということが分かるかと思います。実際の試合では、ある程度簡略化して評価されるところもありますが、カギとなる資料については、相反する証拠との比較などを含めて、ジャッジでも色々と考えますし、選手の側でもうまく説明することが求められるところです。
以上を踏まえつつ、記事の締めくくりとして、証明力の評価について悩ましい問題を取り上げておくことにします。それは、いわゆる価値や思想に関する議論について証拠資料は必要なのか、また、証拠資料によって立証されるとしたら、それはいかなる理由によるのか、ということです。
事実に関する主張や、事実に基づく分析や検討といった内容は、証拠資料により明らかにされるべきものであり、かつ、事実に対する知識や研究の成果によってある程度客観的に明らかにすることが可能です。また、「冤罪はあってはならない」といった主張は、価値や思想に属するものではありますが、「刑事司法、人権論の見地から」そのような考え方がある、といった形で、専門分野での知見ということで考えれば、その限りで証拠資料により証明することは可能です。そのような専門分野の知見を尊重すべきかどうかはジャッジの判断に委ねられますが、論題に密接に関連する領域であるとか、日本政府(論題の主体)が尊重すべき原理であると考えられるのであれば、ジャッジに対して一定の影響力を持つことになるでしょう。
これに対して、そういうものと関係ない「価値」や「思想」に関する議論について、証拠資料による証明というのがどこまで効果的なのかは、よくわからないところがあります。実はこの点は先に論じたKritikの議論にも関係していて、例えば、難民論題で、「アガンベンは、このアーレントの議論にもとづいて、難民にこそ来るべき政治的共同性を見なければならないという。「おそらく、現代の人民の形象として思考可能な唯一の形象であり、この難民というカテゴリーにおいてはじめて、到来すべき政治的共向性の諸形式および諸限界を垣間見ることができる」。こうしてアガンベンは、これまで政治的なものの主体を表象する際に使ってきた諸概念をいささかの留保もせずに放棄して、「難民というこの唯一の形象からわれわれの政治哲学を再構築することを決断しなければならない」と述べるのである。」などと引用されたところで(こちらの2NC参照)、それで、難民から政治哲学を再構築しないとだめだ、ということで評価することになるのでしょうか(そもそも言ってることがよくわからないエビデンスであるのですが)。仮にそう評価すべきだとして、その理由は、政治哲学者であるところのアガンベンが言っているから、ということになるのでしょうか。しかし、そもそも、哲学的命題は哲学者の権威性によって基礎づけられるものとしてしまってよいのでしょうか?
哲学者は哲学的命題について普通の人間より力を入れて研究しているはずで、特に著名な哲学者であれば(アガンベンは知りませんでしたが)一定の評価も得ているので哲学的命題に対する考察の妥当性も認められている、といったことは言えなくもないのかもしれませんが、先行研究や権威性によって哲学的命題を決定するということは哲学の在り方とも整合しないように思われますし、特別な素養を持たない一般的ジャッジにとっても、政策評価の場面で、哲学や一般的価値に関する言説を、哲学者が言っているだけで内容によらず信用するというのは、通常の思考様式の範囲外だと思われます。
以上を踏まえると、価値に関する議論は、「関連領域ではこのような価値が尊重されている」ということを「参考情報」として提供する限りで(とはいえ適切な論証であれば事実上かなり有効な形で)意味があるものの、一般的な価値や思想に関する議論は、証拠資料により第三者の属性を用いて立証することは困難ではないか、というように思われるところです。その部分は、限られた時間の中でのディベーターの雄弁と、あとはジャッジの良心に委ねられるところになりそうです。
それではジャッジの裁量が広すぎないか、新しい議論に開かれていないのではないか、という疑問も出てきそうですが、議論というのはそういうものではないかという気もしています。むしろ、ディベートだからという理由で、選手以外の権威が言っているというだけで「本来認めない権威性」を認めること自体が、ディベートの所期するところに反しているように思われます。
ということで、証拠資料の証明力をどう考えるのかという問題も、最後はジャッジのあり方に関わってきます。難しい問題でもあるので、なお考えていきたいところです。
2018-08-29 Wed
以前に書くといってなかなか着手できていなかったのですが、JDAの後期論題も決まったことから、近時のディベート理論談義の中心を飾っているクリティーク(Kritik)について、私見を書いてみようと思います。筆者はKritikの具体的な構成について詳しくないので、基本的には、US Exchangeで本場のKritikに触れ、JDAでも実践して見せたかなるん氏のブログにおける解説と、トランスクリプトとして残っており、Kritikが投票理由として認められNegが勝利した第20回JDA秋季大会準決勝の内容(こちら)を中心に、筆者としてのKritikに対する理解と、現代日本語ディベート界――こう限定するのは、Kritikがコミュニティの属性や状況に依存して発生・発展してきたように思われることによります――においてKritikが受容される可能性があればどのような議論なのかということについて論じようと思います。
序.Kritikの定義
Kritikの定義については、定まっていないところもあるようですが、大雑把であることを承知で述べれば、メリット・デメリット等を通じた政策論争として勝敗を決する判定方法(政策形成パラダイム)と異なる理由での投票を求める議論、ということになろうかと思います。Kritikの特徴は、異なるパラダイム(仮説検証パラダイムなど)を前提に論題の是非を争うという形ではなく、そもそも論題の是非という勝利条件に縛られない形で、自らの側に対する投票を求めようとするところにあるように思われます。
代表的なKritikの切り口としては、相手方が使用した言葉の用法に問題がある(例えば、「看護婦」という言葉が女性を当該職業と結び付ける差別的用語である…など)ので自分たちに投票すべきという言語Kritikや、相手方の議論が立脚する価値に問題がある(例えば、経済発展を利益とするメリットが資本主義的価値観を前提としておりかかる価値観に問題がある…など)ので自分たちに投票すべきという価値Kritikなどが挙げられます。かなるん氏は、AffでもKritikを使用しており、文学での共感の感情に基づき論題を肯定してほしいという文学Kritik?を展開しています(こちらを参照)。いずれも、論題の当否とは別に、投票理由を構成しようとする議論ということができます。
Kritikの要件がどんなものであるか、といった解説は、上述したかなるん氏のブログで詳細に説明されているので、ここではそれを改めて紹介するのではなく、筆者として、Kritikを受け入れることについてどのような問題があると考えるか、逆に、どのような場面であればKritikが成立する余地がありそうかということを、なるべく丁寧に論じようと思います。現実にKritikがJDAで回るようになった現代ディベートにおいて、Kritik論議を読者諸賢の指摘に委ねている場合ではないので、なるべく実践的に意味のあるような考察をしたいと思っておりますが、他方で、以下の考察はあくまで私見に過ぎず、議論水準の向上のための批判的検討が望まれる内容であるということを最初にお断りしておきます。
1.Kritikの理論的課題
Kritikの先進性は、メタディベート的な観点を導入することで、ディベートの勝敗を論題の是非に限定せず拡大していることにあると見ることができます。このような議論は、現実社会においても一定程度見られるものであり、例えば、国会論戦では、政治家の失言やスキャンダルといった、政策の是非と直接関係ない問題によって、政策が結果的に棄却されるということはあります。本当に純粋な政策論争だけがディベートの前提なのか、という疑問は、十分成り立ち得るものであるとは思います。
しかしながら、Kritikの議論が広く受け入れられるものであるかというと、以下の理由から、厳しいものがあることは否めません。順を追って検討することにします。
1.1 ジャッジが前提とするディベート観は当然には棄却されない
以前のエントリで詳細に論じたのですが、何をもって投票理由とするのか、という理論的な問題については、ジャッジが自分の見解を試合に持ち込む必要があり、現に持ち込みが認められているのであるから、選手によるチャレンジがあったとしても、選手の議論に拘束されることはないと考えるべきです。
Kritikに即して述べるのであれば、ほとんどのディベーターは、政策形成パラダイムに基づき、論題の是非を議論することを通じて勝敗を決するものと考え、ジャッジもそのように判断しています(後述するようにこれには相応の理由があります)。Kritikを回すディベーターであっても、もしKritikが回っていない試合であれば、そのように判断することに違和感はないでしょう。そこに、Kritikが出てきたというだけで、直ちにそれに従わなければならないということにはならないはずです。勝敗決定の方法は択一的、あるいは優先順位がつくべきものですので、政策の当否ではなくKritikで決めるべきと主張する側は、政策形成パラダイム下での勝敗決定によることに問題があるとか、Kritikによって勝敗を決定することが有益であるといった議論を通じて、Kritikによる勝敗決定のほうが望ましいことを論証する責任があるというべきです。さらに、ここでの論証は、試合上の議論の優越というだけではなく、ジャッジが抱いている前提的理解を踏まえてなお説得的である必要があります。勝敗決定方法を論じるに当たっては、相手の議論ではなく、ジャッジの前提と戦わなければならないということです。
1.2 論題の是非と別に勝敗理由を設定することのハードルは高い
私を含む多くのディベーターは、ディベートにおいては、論題の是非を論じるものと考えています。アカデミックディベート(調査型ディベート)における一般的な論題が、政策主体は~すべきである、という政策論題を採用していることからして、かかる理解は合理的なものです。議論の場を政策形成の場であるという特別な擬制を置かない場合であっても、通常の聞き手(市民)であれば、日本は~すべき、という命題に対しては、選挙のマニフェストのようなものと考え、日本にとって(あるいは自分にとって)利益があるかどうか、という枠組みで判断しようとすることが、唯一無二ではないとしても、一般的な考え方でしょう。
これに対して、Kritikの議論は、政策の是非とは異なる観点で勝敗を決しようという、新しい見方を提案します。多くの場合、そこで議論される内容は、一般に論題の是非を議論する文脈とはかけ離れており(後述しますが、JDAで出ていた議論もそうでした)、通常の聞き手からすると当惑する内容と言えます。例えるなら、カレーを注文したらあんみつが出てきたような状況です。なぜ、これまで当然と思っていた考え方を変えないといけないのか、カレーを食べに来たのにあんみつを食べないといけないのか、これを証明する必要がKritikerには求められますが、これは、これまでジャッジが採用していた枠組みの見直しを迫るという、かなりハードルの高い証明です。Kritikerは、そんな常識に縛られるのは不当だと主張するのでしょうが、それは、Kritikが認められるべきであるという別個の常識に基づいた主張であって、論題の是非こそが議論の対象であるという規範を持っている人間を説得する理由にはなりません。
なお、Kritikでよく使用されるのは、ハイデガーやらジジェクやらボードリアールやらといった、哲学者の文献であるようです。私が不勉強であるということを差し引いても、そういった文献が何かを言っているというだけで、これまでの見方を変えなければならないということにはならないでしょう。Kritikerは、論題の是非にこだわる考え方を硬直的だとして批判する立場でしょうが、哲学や文学やらを持ち出して政策論議の有効性を批判する立場についても、同じように、インテリぶった書生談義にすぎず考慮の必要はないという批判があり得るところで、論題の是非を無視してでも議論すべき説得的な理由を具体的に挙げられなければディベーターの前提を変えることはできないということは、当然覚悟されるべきでしょう。
教育的観点からも、論題の是非を議論するということには理由があります。もちろんここには色々な考え方はあり得るところですが、現実社会における政策の是非を議論するということが、社会における意思決定のトレーニングになり得ることは、否定しがたいところでしょう。そこでは、与えられたテーマ(論題)を所与のものとして、それを調査し、検討するというプロセスが重要になります。
以上のような営みに、論題の是非と関係のない理由でKritikを持ちこみ、それで勝敗を決することは、ディベーターの準備してきた内容に水を差すことにもつながります。もちろん、Kritikの問題提起が重大なものであれば、それに対しても対応する必要があったと言えるわけなので、水を差すという表現は不適切なわけですが、政策論議を棄却するような理由がない議論を安易に認めてしまうことは、論題についての検討を浅くしてしまうことにもつながります。
もちろん、Kritikerからすれば、そもそも議論すべき内容は論題の是非に限られないのだから、ということになるのでしょうが、それこそ前提となる価値観の相違が問題になるところであって、多くのディベーター(さらに言えばディベートに触れ得る一般の人)が期待しているのが現実の世界で通用する政策論争であり、そのために論題の是非を議論したいと考えているのだとすれば、それを妨害するKritikの枠組が安易に採用されることが「迷惑」である、と考えることは自然なことでしょう。少なくとも、政策の是非について議論しているところにKritikのような議論で対抗する態度は現在の社会では一般的ではなく、意思決定の変化を促す効果に乏しいので、そのような議論が主流になることはディベートの教育的効果を「マニア向け」のものにしてしまい、社会との適合性を著しく損ねるだろうということが言えます。そういった社会が不当なのだということをKritikerは考えるのでしょうが、それはディベートの場ではなく別の社会運動として行ったほうがよく、社会に通用する議論が望ましいと考えるジャッジに対して態度変更を促そうとするのであれば、それなりの理由付けが必要とされます。
2.実際に日本で出されたKritikの批評
以上は一般論ですが、これでは分かりにくいので、実際に日本で出たKritikの議論を批評する形で、Kritikの可能性と限界を探っていくことにしましょう。
2.1 難民論題における否定側議論(JDA大会ver)
最初に、難民論題のJDA大会準決勝で出されたKritik(トランスクリプトはこちら)を批評していきましょう。
この試合でNegが提出したKritikは、1NCで以下のように要約されています。
彼らのアプローチでは難民問題の裏にある現代政治の根本的な問題が議論できません。結果、彼らの考え方では難民といった問題を解消できません。肯定側の考え方を認めることは難民問題の本質を無視するに等しく、そのような考え方が広まれば、我々は難民といった問題を現実に解決することができなくなります。だから肯定側へ投票すべきでないのです。
論題の是非という枠組みを無視するか否かは別として、上記の議論を理由に投票するためには、肯定側の考え方(難民認定を緩和して難民を救おうというもの)が難民問題の解決にとって有害であるということ、また、それを拒絶することで難民問題が解決ないしヨリ前進する(少なくとも肯定側の考え方よりも難民にとって望ましい)ということが示される必要があるのではないか、というのが第一感です。
この試合のNegは、難民問題の本質として、難民認定という枠組自体が非認定者の排除を意味し、国家の暴力性を肯定してしまっているということを主張し、その上でアガンベンなる学者が提唱している「単にそこに定住し居留しているというただそれだけで、みな同じ扱いを受けるという、誰もが移民や難民の状態にある共同体のあり方」を提案しているのですが、そもそも迫害が生じている地域でそんな扱いは受けられるはずがなく、その他の地域においても来た人間全員に社会保障なり参政権を与えて…ということになれば、国家運営は破綻します。そもそも国家として成り立たないことを措くとしても、移民や難民が無秩序に流入した地域で「みんなが同じ低い扱いを受ける」ことになるだけだと容易に想像されます。Negの主張は、非現実的で、端的に言って書生談義という印象を超える議論ではありません。ロールズが「私は、こうした社会秩序の可能性というそのこと自体が、まさしく、われわれを社会的世界へと宥和させるものとなると信じている。」と言っているのだとしても、私がジャッジなら信じないですし、普通の人間もそうでしょう。
この点についてのAffの反論は、1ARで、Negの考える世界ではむしろ不平等が拡散されるという形のものでしたが、2ACの段階で、より端的に、Negの議論はAffの議論が漸進的に難民問題を良くしようとしていることを完全に無視しており、他方でNegの理想論が難民問題の解決に向けて現実的であり得る可能性の一端すら示していない(ロールズも可能性が「十分な理由とともに信じられる限り」ということを言っている)ということを指摘すべきだったでしょう。
さらに、Affとしては、国家の暴力性だとか何とか言って漸進的な改善に向けた議論を否定するNegの考え方は有害だと踏み込むべきでした。Affの議論で、政策の議論と価値の議論を両方すればよいという趣旨の話があって、その趣旨はごもっともなのですが、それだけではなく、Negの議論は現実に政策で救える難民の救済可能性を書生談義によって無視するものであって極めて悪質であり、このような議論を支持してディベートコミュニティにおいて真面目な政策論議が行われなくなることは、競技としての教育性はもとより、有害な思考態度を醸成することで現実社会に害悪をもたらしかねない、と論じることができるでしょう。
もう一つの議論は、Kritikの枠組を採用すべきかという問題です。個人的には、このKritikはそもそもAff Planの価値に対する批判や代替的価値観の提示が弱く、Kritikの枠組に乗った上でボコボコにしたほうがAffの議論としてはすっきりしてよいとも思ったのですが、Kritikなる枠組にそもそも乗っかる必要があるのかということも当然検証されるべきですし、実際の試合ではこの点が議論されているので、これも見ていくことにします。
Kritikの枠組によるべきというNegの理由付けは、ジャッジの投票がディベートで提出される議論に影響を与え、それによってディベートコミュニティの考え方が影響を受けることから、Affの間違った価値観による議論でディベーターが現実の政治を批判する機会が奪われてしまう、という形で、現実社会に影響するような考え方の変化が起こるということを主眼にしています。これに対するAffの反論は、①Negの言うような批判的思考は、論題の是非を議論する在り方と両立するので、Affの議論を排斥する理由になっていない、②ディベートはプレーヤーの思想と立場を分離する競技なので、投票が思想に影響を与えるといった理由で投票すべきでない、という趣旨のものでした。
この点については1NRが反論しています。①については、Affの前提とする思想が有害なので同時採択という話にならないし、そういう思想を一切否定するNegの考え方のみを採択しなければならないという反論で、Negの主張を前提とすればそうなのかもしれません。ただここは、Affとしてはさらに反論すべきで、そもそもどう有害なのか分からない(別に積極的に現状の枠組を擁護する言説とまで言えない)ということを前置きにして、仮に理想論があるとしても、理想を踏まえつつ現実を改善するため、今できることを検討するという姿勢は可能であるということを指摘すべきところでした。
②については、1NCの議論を敷衍しているだけですが、結局、Affの思想の有害性が強いということに立脚した主張です。ここについては、上で述べたような、Negの考え方のほうが極端で有害だ、という議論を推していくのが説得的ではないかと思います。それとは別に、思想と立場は分離されるのではないかというAffの反論があったところについてはスルーされてしまっているのですが、Affはここをもうひと踏ん張りしつつ、Negの主張に合わせて説明しなおすべきでした。すなわち、ディベーターは、勝てる議論を選ぶかもしれないけど、勝てる議論だから正しいと思うわけではなく、勝敗とは別に試合やプレパの経験を通じて自分の思考を深めていくのであって、投票しないとディベーターの思考がおかしくなるというのはディベーターを馬鹿にしている、ということができます。また、教育的配慮や競技の性質上思想と立場が分離されているということから、思想を問題とするKritikが原則投票理由にならないということが競技上の想定である、ということで補助的な議論にすることも考えられます。
以上のとおり、個人的には、Negの主張する思想の有害性なるものがよくわからないので、そもそもこのKritikには乗れないと思うところではあるのですが、Affの反論は、面白いものではあったものの整理されていなかったり不十分なところがあり、ジャッジがNegに投票したのもやむを得ないところだというところでした。
2.2 難民論題における否定側議論(CoDA全日本大会ver)
先に見たNegチームのかなるん氏は、CoDA全日本大会でも、同様のKritikを回しているのですが、そこでは、Kritikの枠組によるべき理由に少し変更があります。これはトランスクリプトがないのですが1NCのブリーフが公開されているので、それに基づき検討してみます。
CoDAでの議論において、Negは、現実社会に変化を与えるという理由付けではなく、政策ディベートでは実際の政策形成を行う場ではないところで公共のトピックを扱う性質から、理想や考え方を議論すべきだ、という主張を行っています。さらに付随して、Affが適切な議論の在り方を証明しない限り、政策分析による判断をしてはならない、という主張もついています。
まず、政策ディベートでは理想や考え方を議論すべきだということは、端的に言って田島先生の資料のoverclaimではないか、という疑問があります。田島先生の言う、ディベートが市民教育であるということ、シミュレーションの議論であるからこそ様々な議論形式を試行錯誤していくこと、というのは異存のないところですが、そこから政策分析による議論が排斥されたり、理想像や考え方「のみ」を議論すべきという命題が導かれる理由は、さっぱりわかりません。むしろ、一般的な市民教育というのは、難民認定基準を緩和すべきではないかというテーマで、アガンベンやらロールズをもってきて「そんなテーマを議論すること自体けしからん」とぶちあげるようなものではないと思いますし、田島先生は「政治の実現へとむけて実践を開くべき」と言っているところ、政策の実現とあまりに乖離した、理想論「だけ」の議論をすることが望ましい、ということを本当に言っているのか、少なくとも証拠の文面上疑問です。
そのことを措くとしても、肯定側の議論が悪しき理想像を積極的に擁護しているとまで言えないのに、ディベートの場においてそういった議論を排斥すべきという理由付けがされていると考えることはできません。これはKritikの可能性を考えるうえで重要なことですので強調しておくと、難民論題でAffが一般的に論じているプランやメリットは、Negの批判する国家の枠組を前提にしているかもしれませんが、それを維持強化する意図があるわけでもないし、かかるプランが実現することでNegの主張する理想から遠ざかるような内容でもありません。つまり、Negの主張するような理想像や価値批判を前提としても、かかる対抗価値と、Affの議論との間の緊張関係は実は乏しく、その意味で、Negの主張は「こじつけ」の域を出ません。そのようなこじつけを議論することが政策分析より重要だと考えるべき理由は、この原稿には何ら見出されないのです。
肯定側が政策分析のディベートの正当性を証明すべきという主張については、1.1で述べた通り、政策分析を排斥する側に立証責任があるというべきですし、そもそも、上述の理由から、理想や考え方を議論すべき理由が示されたとは思われないので、Affに反証の責任が生じているとも見られないところです。誤解を恐れずに言えば、このKritikは、こじつけである点において(田島先生のエビデンスと文面上乖離している点からJDAのそれより弱い)、いわゆる「いちごT」のようなもので、判定上考慮に値しないというべきです。
2.3 難民論題における肯定側議論
かなるん氏は、CoDA全日本大会において、AffからもKritikを提示しています(原稿はこちら)。概要は、難民の苦しみに関する文学に共感する感情を根拠に論題を肯定してほしい、というものです。
これはアイディアとしてはなかなか面白いですし、私も含めたディベーターに対する注意喚起としては傾聴に値するものを含んでいるのですが、投票理由として考慮し得るかというと、下記2点の理由から、難しいと考えられます。
第一に、そもそも、冒頭に引用されたマッサンバに関する物語が、そこまで感動するようなインパクトを持っていると思われないということです。マッサンバ自身の言葉というわけでもなく、その内容も、難民が苦しんでいるということは分かるものの、さほど身に迫るものには思われません。NegがCounterplanの関係でよく読んでいた、難民キャンプの悲惨な実情みたいな話のほうが、よほど悲惨な内容だと思います。その意味で、Negは、普通の自分たちの議論を出したうえで、これに共感してNegに入れろ、という話もできたのではないでしょうか。
第二に、文学的共感で投票しなければならない、という点にやはり疑問があります。エビデンスを材料としてしか見ない観客的スタンスに問題があるというミッチェルの指摘はなるほどと思わされるところもありますが、それは、ディベートで政策論争を無視して文学的共感にのみ着目しろ、ということまでも帰結しないでしょう。むしろ、政策論争をしつつ、感情に迫るような重要性の説明付けを考えるなど、説得技法を考えるとか、それこそ教室ディベート的に題材で扱った議論について現場を見て勉強するような実践を考えるとか、色々な考え方ができるでしょう。私は、前者の、ディベートの議論の中でも感情的要素は考慮されてよいのではないか(「中身」のある感情論)という発想に親和的なのですが、それは政策分析を否定するのではなく、より現実に近く、かつ妥当な説得方法として、感情をどう利用するかというものです。
また、文学的共感によるべきという考え方は、市民教育としても望ましくないでしょう。そういった共感だけで政治を決めてしまうことが本当に望ましいのかということは当然疑問を呈されるべきであり、プロパガンダ文学が戦争や対立を生んだりもするわけです。共感をもって論題を肯定しようとするAffの考え方は、理性的な議論を拒絶するものであって、むしろ極めて有害であり、ディベートの所期する教育性にも完全に反するものだと言うことができます。
ということで、このAff Kritikも、かなり苦しいものがあるのではないかというところです。
3.Kritikはどこまで可能か
以上を踏まえると、Kritikの成否は、ジャッジに「Kritikを無視してはいけない」と思わせることができるかどうかにかかってくるところであり、そう思わせるためには、Kritikに対立する議論の在り方のどこに問題があるのかということを明快に示す必要がある、ということになりそうです。
Affの政策論議に対するNeg Kritikという観点で見ると、これは、Affの拠って立つ議論の仕方がどれだけ有害なのかということと、それに対してKritikに投票することがなぜ、どの程度切実に求められるのか、ということをしっかりと議論する必要があるということになります。そのために考慮される要素は種々あると思いますが、重要と思われる観点をいくつかあげておくことにします。
3.1 問題性と相手方の議論との密接な関連性があるか
上記2で見た難民論題のNeg Kritikは、難民を認定するというプロセス自体が非認定者の排除という暴力的要素を有するので、そもそも難民という概念を排して移動の自由を認める必要がある、という形で、Affの議論の問題性を指摘しようとしました。しかし、既に述べたとおり、この批判は、現状の下で難民認定基準を変えて漸進的に問題を解決しようというアプローチを否定するようなものとまでは思われず、少なくとも私には説得的に思えませんでした。
なぜ説得的でないかと考えると、その理由は、Affのプランやそれに基づく議論が、非認定者の排除という側面を意図したものでもなければ、難民という概念の終局的解消を否定するものでもなく、Negが指摘する問題性がAffの議論の中核に根差したものとは言えないという点にあるように思われます。Negの掲げる理想を否定するのであれば別論、Negの理想を実現するものではないにせよ、理想から遠ざかるような政策や議論態度ではないAffの主張に対して、勝手に理想だけをぶつけて「理想が実現しないのでだめだ」というだけでは、言いがかりというべきでしょう。理想が実現しないのでダメというのであれば、自分たちの理想が実現するということを立証する必要があるはずで、それができないのであれば、結局Negも理想を実現できないので等しくダメ、ということになります。少なくとも、そんな理屈で、理想論を論じることが好きな一部の特殊なディベーター以外を説得することは永遠にできません。
しかし、逆に言えば、Affのプランやそれに基づく議論が、尊重されるべき理想ないし理念と積極的に矛盾しているという場合には、それによって理想や理念から遠ざかるという理由をもって、Affの議論を棄却すべきという理由付けが成り立ち得る可能性があります。例えば、国会議員のクオータ制(議員の一定数を女性とする制度)導入論題において、Affのプランが男女同権の理念に矛盾しているとか、女性を保護すべきものと決めつけることで尊厳を否定している、といった批判が成り立ち得るとすれば、かかる批判が指摘する問題点は、Affのプランの核心に関係するものであり、Affのプランを採択することで誤った理念や価値観にコミットすることになってしまう…という議論は可能でしょう。こうした議論は抽象的価値を論じるデメリットとしても展開できるでしょうが、どうしてもメリットとの比較になると「結果的に女性の社会的地位が男性に並べばいい」という話で解消されてしまいそうだということで、敢えてKritikとして仕立てる、ということはあってよいのかもしれません(Kritikのほうが難しそうですが…)。
その他にあり得る議論としては、ヘイトスピーチ規制論題で、ヘイトスピーチ規制を訴えるAffの議論が、実際にはヘイト団体の規制弾圧を意図しているものと見える場合(読んだエビデンスがヘイト団体への憎悪を感じさせる場合など)に、そのことを捉えてKritikにしてみるということもあり得るかもしれません。相手方の「意図」(ここでいう意図とは、本当にディベーターがそう思っているという話ではなく、議論の内容からそういう意図を読み取れるかどうかという話です。)を問題にするのは、Kritikにしかできないことなので、これは何らか可能性があるかもしれません。
3.2 論題との関係でKritikに必然性があるか
Kritikの議論は、論題の是非ではない方法で判断せよということを求めるものですが、とはいえ論題が事前に決まっているのですから、Kritikの議論自体も、その論題との関係でなぜ正当性を持っているのか、ということが示される必要があるように思われます(例外的に、相手の議論の切り口等、相手の議論に固有に問題がある場合を除く)。それすら不要ということでは、およそディベート一般の議論の在り方を変えろという主張になり、ハードルは極めて高くなるでしょう。
これは3.1で見たところにも重なるのですが、相手方の議論の問題点として指摘されるところは、論題との関連性が強い必要があるでしょう。単に、そのテーマに関係するというだけではなく、論題の指定する政策の内容(プランと重なります)と関連している必要があります。難民論題で認定に係る国家の暴力性を論じる、というのは、一見難民問題に関係するので関連性がありそうに見えますが、実際には「難民」という概念自体を問題としており、難民認定基準を緩和するという政策を直接問題とするものではないので、関連性はさほど高くありません。それよりも、上で見たように、女性の地位を制度的に引き上げようとするクオータ制における男女同権や女性の尊厳といった問題や、特定属性の人を抑圧から守ろうとするヘイトスピーチ規制における規制対象者に対する抑圧意図といった問題のほうが、論題のはらむ問題に肉薄しており、それ故に、論題の是非以前のところで議論しようという主張に説得力が出てくるように思います。
どんな論題でもとりあえずKritikを出そうという発想(もしあるとすれば)は、Kritikの価値を切り下げ、いわゆる「いちごT」や、時間稼ぎとしてのGeneric Tに堕してしまいます。出す以上は、なぜその論題において、相手方の議論との関係で、Kritikが考慮されるべきなのかということが示される必要があるはずです。
3.3 論題の是非に関する議論に優先すべき理由があるか
上記のような「相手の議論の問題性」を前提として、はじめて、Kritikが論題の是非に関する議論に優先すべき理由について論じることが可能となります。
アメリカではKritikが優先すべき理由として様々な方法が議論されているようですが、そもそもの起こりは、コミュニティが実際に差別的だったりと、社会運動的にディベートの判定を動かしていく必要性や機運があったということによるようです。しかし、日本のディベートコミュニティにそういった事情があるわけでもないところからすると、投票を通じて現実を変えようという方向の議論には説得力を感じず、社会を変えたいならディベートをやるより自分で社会運動をやればよいのではないかと思ってしまいます。ゲームとして思想を重視すべきという、上でも見たような議論についても、思想のみによって判断すべきという理由付けがあるとはおよそ思われません。
個人的には、Kritikを優先すべき理由があるとすれば、それは、「相手の議論の問題性」が高度に認められることを前提に、かかる議論を無批判に容認することが教育上望ましくない、という理由が、一番Kritikを正当化しやすいように思います。教育性の観点は、ジャッジの多くがそれなりに受容しているところであり、そのような観点から、現実の政策論議として見ても、相手の議論の問題性を無視して論議を続けることには問題があり、Kritikとして指摘されたところを踏まえて議論を考えるよう促すことが教育的なのだ、という方向で議論すれば、投票理由としての基礎づけは一応成り立ち得るのではないかと思います。
ただ、教育性を基礎として用いるためには、相手方の議論をそのまま認めることが教育的に有害であるということを言わなければならないので、「相手方の議論の問題性」について高度な論証を要することになります。また、前提として、ディベートの目的が教育的なところにあり、政策論議として表面上成立していても、問題のある議論を無批判に容認するような姿勢は看過できない、といった話を説得的に行う必要もあるでしょう。
4.Kritikの可能性
以上より、筆者の現時点での検討結果からイメージできるところとして、Kritikが成り立つとすれば、相手の議論に大きな問題があるということを、議論の内容及び論題との関係で必然性のある形で示した上で、教育的見地からかかる問題を看過することはできないということを論証するという方法があり得るのではないかということになります。
このようにKritikを位置づけることで、Kritikは政策論議を邪魔しようとするものではなく、むしろその深度を別の観点から深め、または是正しようとするものと評価し得ることになります。平たく言えば「あんまり」な議論に対する牽制ないし批判の手段として、あるいはメリットデメリットの次元ではどうしても評価されにくい価値的な議論を投票理由にするための方法として、Kritikを活用するというアイディアは、可能性を秘めているように思います。
他方で、とにかくKritikをしたい、新しい議論なのでやってみたいということで、無理やりKritikを出そうというような発想は、かえってKritikの可能性や意義を切り下げることにつながりかねないように思います。それこそ、理由のないこじつけのようなKritikが乱発されるようになれば、Kritikと聞いただけで「またこれか」となるような忌避観が醸成されてしまいかねません。せっかくの発想なのですから、ここぞという時に、必然性をもってKritikが出てくるようになれば、日本のディベートシーンはさらに一歩先に進むのではないかと期待する次第です。