愚留米の入院日記
日当たり良好の某法科大学院既習病棟を退院した法務博士の日記。しかし内容はほとんど趣味のディベートの話
「セオリー」の判定方法に関する補論--批判への応答として
珍しく先の記事から間がないですが、当ブログの過去記事(いわゆる「セオリー」の判定方法に関する若干の覚書)に対する批判(「いわゆる「セオリー」の判定方法に関する若干の覚書」(愚留米 2013)に関する若干の覚書)に接しましたので、これに対する応答として、従前の主張を敷衍、補足する記事を書くことにします。

最初に誤解のないように申し上げておくと、本ブログで取り上げている、ディベート理論に属する記事は、すべて筆者の理解・私見に基づくものであり、当然ながら批判の対象とされるべきものです。また、ディベート理論の各論点に関する帰結はいずれも正解があるということではなく、異なる見解を許容しないものではありませんので、以下でも(そして過去の記事でも)、私の見解が絶対正しいとか、その他の考え方があり得ないという趣旨をいうものではありません。
もっとも、自己の見解が理論的に成り立たないということでは困りますので、今回批判を受けた部分については再度説明を行いつつ、見解の相違がどのようなところにあるのかを明らかにすることで、問題となったテーマについての理解を深める一助になれば、というのが、本記事の趣旨です。
なお、本ブログへの批判を寄せた上記ブログには、Kritikに関する極めて興味深い一連の記事が投稿されておりますので、こちらについても折を見て感想など書こうと思っています。
といったところで本論に入っていきます。

「セオリー」の判定方法に関する補論--批判への応答として

はじめに
以前にセオリーの判定方法について私見を披歴したところの記事「いわゆる「セオリー」の判定方法に関する若干の覚書」(以下「旧記事」といいます。)において、私は、セオリーに属する議論が試合中に展開された場合に、ジャッジは、必ずしも選手の議論のみを基礎として判断を下す必要はなく、選手の議論にもかかわらず自説を変える必要がないと思ったら、自説に従えばよい、ということを述べています。この見解については、現在でも特に改説を要しないと考えております。
もっとも、近時では、日本語ディベートのシーンで議論の判断枠組みに再考を促すような革新的な議論が試みられるようになり、また、その旗手から、セオリーに属する議論も試合の中の議論で決めるべきである、という批判(「いわゆる「セオリー」の判定方法に関する若干の覚書」(愚留米 2013)に関する若干の覚書:以下「覚書批判論考」といいます。)を受けていることから、セオリーの判定に関してジャッジが決断を迫られる機会が差し迫ったものになっている現代日本語ディベートの現状に鑑み、旧記事について説明を掘り下げる必要があると考えたので、覚書批判論考に対する再反論を交えつつ、私見を敷衍して論じることにします。

1.セオリーに関する判断方法の特殊性:事実に属する議論とセオリーに属する議論の違いから
覚書批判論考では、旧記事において、議論の判定の恣意性確保や公平性維持の目的から、公知の事実以外は選手の議論のみに従って勝敗を決すべきという命題が事実に属する議論にのみ妥当し、セオリーに属する議論には妥当しないと説明していたことに対して、かかる目的はセオリーに属する議論にも妥当するのではないか、と述べられています。
セオリーに属する議論も試合の勝敗を左右し得る重要な議論であり、それを通じて論題の肯定・否定が大きく左右されるということを強調すれば、そのように考える見解も成り立ち得るとは思います(特に、旧記事の時代は、日本語ディベートでは議論の枠組みそのものを争うような議論が特に見られず、記事内でも、A/Jのような議論の出し方といった手続的規律が念頭に置かれていたということもありますので、今から見ると非常に保守的に見えることはそうだろうと思います。筆者も年を食ってきているのでそこは許してください…)。
しかし、事実に属する議論とセオリーに属する議論の間には、1点、極めて重要な相違があります。それは、(旧記事でも言及していますが)事実については「公知の事実」--建前として選手、ジャッジで共有されており、どのジャッジも等しく有していることが期待される常識。実際はぶれがありますけど--以外のジャッジの私見を持ち込むことは予定されていないのに対して、セオリーに関しては、各ジャッジに、それぞれの見解--他のジャッジと共通ではない--を持ち込むことが認められている、ということです。このことは、試合前に選手がジャッジに対してフィロソフィ(各ジャッジのセオリーに対する見解)を聞くことはあっても、事実についての知識を確認することはないということからもお分かりになろうかと思います。

ここから分かることは、ジャッジは、セオリーについて、自分の見解を持ち込むことができる、さらに言えばそのことが期待されている、ということです。事実に関する議論について自分の見解を持ち込むことが許されないことと対比すると、このことは重要です。つまり、少なくとも、判定上、選手がセオリーについて議論しなければ、その試合は、ジャッジが持ち込んだセオリーに関する理解に準拠して判断されることになるわけです。ここまでは異論のないところではないかと思います。
問題は、選手がひとたびセオリーについて議論を出した際に、ジャッジは、自身の見解との関係で、選手のセオリーに関する議論にどう相対すべきか、ということです。セオリーについても選手の議論だけで判断すべきという覚書批判論考の見解は、選手がいったん俎上に載せた以上、その論点は選手の議論の結果に委ねるべきであり、ジャッジの見解は後ろに退くというものだと解されます(もっとも、選手の議論が一定の水準に達しない「しょぼい」ものであれば、結局なかったことになるので、ジャッジの見解に基づき判断されるという立場でもあるようです。それは真っ当な理解だと思いますが、この「しょぼさ」の判断はかなり高低があるところで、新しいディベート理論については無意識に批判的に検討されることが避けがたい、あるいは理解がすぐには追いつかないのではないかという実践的なところを踏まえると、後述する見解と現実的相違はほとんどないかもしれません。)。
しかし、当初はジャッジに自己の見解に基づく議論を持ち込ませておきながら、選手から議論が出された瞬間にそれを引っ込めなければならないというのは、「持ち込み」を認めるという建前からは、当然に出てくるものではなく、何らかの積極的理由を必要とするところです。覚書批判論考は、この点について、特に論証を行っておりません。

「持ち込み」を取りやめて選手の議論によってセオリーを判断すべきという立場から考えられるところとしては、議論教育の観点や、争点になった以上は公平性の観点から選手の議論のみで判断すべき、といったことがあります。
しかし、議論教育という点からは、私の立場、すなわちジャッジが選手の議論のみによって判断するのではないという立場をとるとしても、ジャッジは「自説を変えてはいけない」のではなく、選手の議論が説得的であれば改説するのですから、ジャッジを説得するためのチャレンジを通じた教育的効果は担保可能です。セオリーだけハードルが高くなり、セオリーに関する考察の機会が減じられる、ということはあるのかもしれませんが、枠組みを変える議論が難しいというのは世界共通であり、何もディベートで殊更セオリーについて教育機会を保障しなければならないわけではない(セオリーについて一般社会より議論しやすくする必要はない)、ということができるでしょう。ただ、ここはおそらく見解が異なるところであろうとは思います。
公平性の観点について言うなら、そもそもセオリーについては「持ち込み」が認められている時点で、特定の思想や見解を前提として判断されないといった意味での公平性は存在しません。先にも少し言及していますが、セオリーについてそのような意味での公平性を維持しなければならないのだとすれば、フィロソフィーなんて事前に確認する必要はないわけです。セオリーに関する議論で保障されるべき「公平性」は、合理的な議論であれば採用される、ということだけでしょう。ただ、これが決定的に重要的なもので、私の立場であっても、選手の議論が説得的であったにもかかわらず自説を採用する場合には相当の説明責任が生じるので、その意味でセオリーの議論を出す余地は確保されています。

2.ジャッジが選手の議論のみによってセオリーを判断しない、ということの意味
ここで、ジャッジが選手の議論に限定されずにセオリーについて判断できるという立場をとることの積極的理由についても述べておくことにします。これは旧記事で述べなかったところですが、近時のディベートシーンを踏まえると、この点を掘り下げることが必要だと考えるためです。

前節で述べた、事実とセオリーの議論の相違は、セオリーについてはジャッジが前提となる理解を持ち込むことが求められている、ということです。これは、セオリーに関しては、選手だけでなくジャッジも議論の当事者である、ということを含意しているものと考えることができます。勝敗判断の判断となる基礎については、ジャッジは選手から出てきた主張立証を評価する立場にとどまり、選手の議論が及ばなかった場合には、無理に答えを出す義務はありません(というか出せません)。しかし、ジャッジは、主張立証の規律や勝敗の判断方法といった、ジャッジの職責に直結する事項については、合理性を前提とする裁量をもって自己の見識に基づいて判断する必要があります。かかる判断では、「立証が足りないので取りませんでした」といった、選手の議論に帰責させるような説明はできず、ジャッジが立証責任(実際には選手に対する説明責任)を負うことになります。言い換えれば、ジャッジは、セオリーに属する議論について、最終的責任を負っているのです。

もちろん、ひとつのセオリーとして、選手からかかる最終的責任を免除することができる、という議論(覚書批判論考の見解は要するにそういうことだと理解できます)も成り立ち得るとは思いますが、私は、ジャッジがかかる責任をもって、選手のセオリーに関する議論に独立のプレイヤーとして相対することが、セオリーの議論にとっても望ましいのではないか、と思っています。
旧記事でも述べましたが、セオリーの議論は、その試合で直接問題になっていない部分も含めた体系的な要素があります。それを無視して、この試合ではこのように判断します、という無理を犯すことを強要することは、結果的に、セオリーの理解をゆがめ、「こういう議論をしておけばジャッジの見解をシフトさせることができる」という安易な思考につながりかねないとも思います。旧記事で、セオリーの議論を「6分だか8分だかのスピーチの応酬の中で議論するということは、不可能ですし、また、期待されてもいない」というのは言い過ぎですが、さりとて、難しい議論を無理に簡単に認めてしまう必要はなく、難しいものは難しいままにしておくほかないと思うのです。
ただ、上記の議論は、本筋のメリット・デメリットの内容そのものとは関係しない、議論の出し方などに関する枝葉の議論を想定したもので、近時話題になっているKritikその他のメリット・デメリットに囚われない議論構成に対する評価としては、別の観点からジャッジの判断が期待されていると思います。それは、ジャッジが単なる議論の批評者ではなく、反対に関与する当事者としての立場からセオリーの議論を批判的に吟味することにより、セオリーの議論が深化するというものです。平たく言えば、相手がうまく反論できなかったのでそこそこの水準のセオリーの議論で勝てました、というより、そこでジャッジが別の観点から検証した結果セオリーの議論に基づく投票をしないほうが、判定理由の中で新たな課題が浮かび上がり、セオリーの議論には資するだろう、ということになります。
これは、選手の側だけでなく、ジャッジについてもそうです。よくわからないが有名な選手がそれらしいセオリーの話をしていて、反論がなかったので取りました、というのは、セオリーについて責任を負うべきジャッジとして怠慢なのであって、セオリーについて一応の見識が前提とされている(繰り返しですが、事実に関しては、ジャッジには通常人以上の見識は期待されておらず、むしろ特殊な見識は除外されるべきとされています)以上、ジャッジは、自己の見識に照らしてセオリーを評価できなければならないはずです。セオリーについて選手の議論だけで判断するのではなくジャッジの見解を踏まえて判断すべきというのは、ジャッジに対しても、セオリーに真摯に向き合い、きちんと検討することを促すということにもつながるはずです。

もちろん、上記のように考えることは、セオリーについてのみジャッジを説得するのが大変になりますので、セオリーで勝ちたいと思うディベーターには不利に働きます。しかし、そのことは、上記の「持ち込み」の議論で見た通り、ジャッジにとってセオリーは自身の判定の枠組みに関するものであり、客観性をもって取り扱うことはできない、ということからして、やむを得ないと言わざるを得ないでしょう。
他方、このようにセオリーの議論を捉えたとしても、それでセオリーに関する議論が萎縮するとは思われません。あえて既存の枠組みにチャレンジするような選手は、ジャッジの説明に困難があるとしても試みを断念することはないでしょう。むしろ、セオリーなら相手も準備してないから簡単に勝てるぞ、という安易な発想こそ、積極的に萎縮・排除されるべきところです。

以上を要約しつつ近時のチャレンジングな議論に対するジャッジのあるべき姿勢として述べるならば、ジャッジは、選手が判断の枠組みを含めたセオリーについて真摯に考察していることに対して、傍観者ではなく、同じくディベートという競技にかかわる立場として、ジャッジとしての立場から積極的にかかわっていくことが期待されているのではないか、ということです。
もちろん、各ジャッジが、選手の議論を尊重するという立場をとることも自由であり、そのほうが望ましいのだと考えるのであれば、そうすべきです。しかし、上述の通り、ジャッジには、許された見解の「持ち込み」を通じて、セオリーについて裁量的判断を行う理論的根拠があるのですから、セオリーに属する議論については、選手と同じ立場で議論することが可能であり、また、そうやって主観的に関わっていくことこそが、多様な議論スタイルが浮き彫りにした「頭の働かせ方における他者との違い」を理解しようという歩み寄りになるのではないか、と思います。

3.結論、そして残された問題
以上を踏まえると、私の見解であっても、覚書批判論考が志向する、新たな議論についての対話を否定することにはならない、ということがお分かりになっていただけるのではないかと思います。旧記事では、どちらかろいうと「しょぼい」あるいは「些末な」論点が念頭に置かれていたので、そういう議論を無理にするより普通にメリットデメリットを詰めたほうがいい、といったライフハック的意味合いで説明をしていたのですが、より突き詰めると、私の見解と覚書批判論考の見解は、ジャッジとしての立場からセオリーの議論と対話するにはどういう姿勢をとることになるのか、という相違であって、目指すところは変わらないということになります。
結局のところゴールが同じになるのは、いずれの見解も、選手やジャッジの理性や誠実さを前提としているからです。その前提で、選手がきちんと議論するのであれば判定もそれに対して下せば十分であり、ジャッジの介入はゲーム性を損ねると見るのか、セオリーについてはジャッジの職責にも関係するものだからジャッジにも当事者として関与する適格があり、それを認めるほうが別の意味でゲームが面白くなるのではないかと見るのかは、ディベート観や好みの問題であって、どちらの立場でも問題ないのではないかと思っています。

なお、このテーマと似た問題として、ジャッジが自己の価値観をどこまで試合に判定させるか、ということがあります。建前として、ジャッジは価値中立的でなければならないとされているのですが、ここでいう「価値中立」とは何を指すのかということは、公知の事実よりも特定が難しく、また、そもそも価値観の相違も前提とされるべきではないかとも思われます。
ジャッジを判断の当事者と見て、価値観も判断の基礎となる事項だと考えると、一定の価値観の持ち込みは許される、あるいは、既に無意識のうちに持ち込まれているということができるのかもしれません。しかし、セオリーについての議論以上に、特定の価値観を持ち込んで議論するということは問題視されるものでもあります(他方で、反論がなければ選手の偏った価値主張に基づき判断するという姿勢も、セオリーにかかる同様の態度以上に問題視されるのではないかと思います。)。
この問題についてはこれ以上ここで論じることはしませんが、本稿で取り上げた、ジャッジの判断者としての独自の立場を強調する立場からは--かかる立場を支持しない場合でも、価値に関する議論は、criticの結果という形で裏口から入り込んでくるため、対岸の火事というわけにはいきません--必然的に問題となる課題でもあるため、この点についても何らかの検討が加えられる必要があるでしょう。ということで、これは今後の課題としておくことにします。
パラダイム・制度・実行可能性 ~抽象的論題正当化の試みに対する私見~
どうもご無沙汰しております。業務が山のように積もっていてしばらく記事を書く余裕がありませんでした、というのが言い訳です。
ただ、実はもうすぐアソシエイトとしての職を離れ、5月から(登録が間に合わず正式には6月からですが…)名古屋でネーミングパートナーとして仕事をする予定です。ここでは詳細は書きませんが、現職も大変よいところではあるものの、新しい挑戦をしようということです。ディベートの最前線である東京を離れることにはなりますが、時間には余裕ができる(予定)ということで、また違った形でディベートにかかわっていければと思っております。

といった前置きはこの辺にしておいて、本日は、先の春JDA(ベーシックインカム論題)で財源の問題を無視して論題を肯定しようとする「抽象的論題正当化」とでも言うべき--実際どこまで新規の枠組みを論じていると言えるかは後述します--試みを行っていたITBの選手の論考である「”パラダイム”なるものについて思ったこと。」「”実行可能性”について思ったこと。」の2編を素材として、かかる試みの簡単な理論的検証を行うことにします。このような新しい試みが実践で出ていることは大変喜ばしいことであり、かつ、それを記事の形で問うているということもよいことだと思いますので、少しでも応接になればと思っております。
現代ディベート通論の復刻版に蟹池先生が「いわゆる『ディベート理論』は、物理法則等とは異なり、任意に構成され得るものであるから、鵜呑みにせずに、よく考えて吟味して頂きたいと思う」と書かれているように、こういった議論をどんどん自由にやっていって、思考のトレーニングにしていくことが、ディベートをより楽しむことにつながると思います。

なお、ディベート甲子園の新論題も発表されていますが、こちらは、都合で春大会を見られなかったこともあり、また議論に接することがあれば取り上げようと思います。

パラダイム・制度・実行可能性 ~抽象的論題正当化の試みに対する私見~

はじめに
ベーシックインカム導入論題において、制度実現の大きな障害である財源の問題を捨象して、ベーシックインカムの実現を目指すことが重要であることの論証を通じて論題を肯定しようとする試み(以下「抽象的論題正当化」と仮称します。)がなされたということを聞きました。かかる議論の考案者が、「”パラダイム”なるものについて思ったこと。」(以下「パラダイム論考」といいます。)「”実行可能性”について思ったこと。」(以下「実行可能性論考」といいます。)という2つの記事を通じて、ディベート理論的考察を行っていました。この中には、既存の理論についての理解を整理したり、考察する好個の材料が種々含まれているので、以下では、上記各論考の議論を取り上げつつ、ディベートにおいて制度の当否を論じる際にどのような切り口があり得るのかということについて、若干なりとも見通しを与えられるような検討を行うことを目的とした記述を行います。

1.パラダイムの判断方法
パラダイム論考の中では、抽象的論題正当化の論拠として、以下2点の議論を提示しています。

①論題の「べき」については、実行可能性と切り離して考えることができる
②論題の「べき」を上記①のように解することが妥当であれば、いわゆるTopicalityのReasonabilityに基づき、これを採用すべき



上記の議論は、実行可能性を無視して判断すべき(このことの正確な意味は後で論じます)という新たな規範を受け入れるよう主張するものです。これが、いわゆる政策形成パラダイムを完全に否定するものであるかは議論の余地がありますが、通常のジャッジの判断枠組みを変更しようとしていることは間違いありませんので、パラダイムの変更・修正にかかる議論としてこれを位置づけることは間違いではないでしょう。
そのうえで、上記①②の議論がどこまで説得的なのかを検討する必要がありますが、本節では、②の主張について、その含意すると思われるところを分節しつつ考えていくことにしましょう。

まず、②の主張は、実行可能性を無視すべきという判断枠組みの議論が、論題の解釈から、すなわち、「べき」(Should)の解釈から導かれるものであると主張しています。パラダイムをShouldの意味から考察するということ自体は新奇なものではなく、現代ディベート通論で紹介されている「司法パラダイム」も、Shouldの意味から導かれるものであると主張されています(判決の主文には「Should」とかつかないと思いますが…)。
しかし、判断枠組みに関する議論が、Topicalityと同様に判断されるべき、という点については、議論の飛躍があります。TopicalityはあくまでAffのPlan(場合によってはNegのCounterplan)が論題の範囲内にあるかどうかを見るものであって、試合の判断枠組みを論じる道具立てではないからです。この区別が意味するところは、Topicalityの議論の基礎となる「語句の解釈」については、(性質上ジャッジの元々の言語理解が「公知の事実」としてデフォルトで考慮されるほかは)選手が試合中に提出したところを基礎として判断されるのに対して、試合の判断枠組みに関する判断は、ジャッジの判断の根幹・基礎に属するものであるため、第一次的にジャッジが準備し、自己の見解に従って構成すべきものであり、したがって選手の提出した議論にその基礎が限定されず、かつ、選手の議論に拘束されないということです(こちらの記事で説明しています。)。もちろんこれも一つの考え方であって、パラダイムについてもいったんチャレンジされれば選手の議論を基礎において考えるべき、という立場もあり得ますが、パラダイムについて通常の議論と同様の水準で判断してしまってよいのか(議論の判断枠組みをそう簡単に変えてしまってよいのか。特に、自身が必ずしも是としない判断基準を容易に受け入れることは、自己の判断の正当性を逆に揺るがすことになりかねないのではないか)という点については疑問のあるところです。

もう一つ検討されるべき問題は、パラダイムの変更をTopicalityのReasonabilityと同様に、すなわち、一定の合理性があれば受け入れるという形で判断してしまってよいのかということです。まず、前提として、論題の解釈であれば、BetterかReasonableかという見解の違いがあるとしても、複数の解釈が成り立ち得るということ自体は了解可能ですが、その試合で適用されるべきパラダイムについて、複数のパラダイムが併存するということは考えられません。すなわち、判断枠組みであるところのパラダイムは、同時に一つしか適用することができません。
ですから、適用候補となるパラダイムが複数存在している場合には、そのうち一つを選ばなければならないのですが、その際に、Affの提案したパラダイムが「一定程度合理的であれば」、別のパラダイム(ジャッジが当初採用していたパラダイム)を棄却してそれを採用すべき、と言ってしまってよいのでしょうか。この問題も、上記の論点と重なるところがあり、ジャッジの専権に属するべき(あるいは通常の議論よりジャッジの判断を左右する重大性を有する)事項について、選手の議論がそう簡単に優越してしまってよいのか、という議論を行うことができます。
この問題は、法律関係に適用されるべき法律(準拠法)をどう考えるか、という問題に似ています。準拠法の決定方法は各国の法律(国際私法)で定められており(日本では法の適用に関する通則法)、契約を何法に基づいて解釈するのか、婚姻の成立を何法に基づいて判断するのか、といったことが決まってくるわけですが、この準拠法について、「日本法も米国法も両方考えられる」といって法律関係を決定することはできないわけで、準拠法は対象となる法律関係について一つに定められる必要があります。そして、当然のことですが、準拠法は最終的には裁判所などの判断権者が決めるものであって、「原告の主張が合理的だから」というだけで勝手に決まるものではありません。ディベート的に言えば、Betterな解釈のみが採用されるということになります。
(筆者は、上記のような理解はTopicalityにも言えるだろうと思っており、かなり前から、Topicalityの基準もBetterに改説しています。ただ、パラダイムの問題は、より根源的な問題として、Better以外には考えにくいのではないか、と思っている次第です。)

パラダイム論考では、Affには「パラダイムの提出権」がある、といったことが書かれていますが、議論を出すのは当然自由であるものの、Affにそれ以上の「提出権」があるという発想には疑問があります。議会でも、裁判所でも、面接会場でも、学級会でも、学会でも、ビジネスの会議でも、提案者が判断枠組みを規定できるなどという規範は存在しません。むしろ、新たな判断枠組みを主張する側には、非常に大きな説明責任が課せられるはずです。ディベートの場ではかかる説明責任を負わされるべきではないということは言えるかもしれませんが、そうだとしても、Affが新奇なパラダイムを提出した以上はそれを前提とする、ということまで保障すべき理由はないでしょう。純粋タブララサであればそう考えるのかもしれませんが、そうであれば、Negから出されたパラダイムも同等にみられるべきで、Affが出したというだけでそのパラダイムが優越すると判断されるべき理由はありません。

なお、実行可能性論考では、「『肯定の妨げ』になっていない否定側のパラダイムは棄却可能かもしれない」として、Affのパラダイムが合理的に存在している以上はそれに基づき論題が肯定されていればAffに投票し得るのではないかという議論がされています。しかし、パラダイムは、「何をもって肯定が妨げられているのかどうか」を問題とするものであり、勝敗決定の先決問題なので、そこを解決せずにAffが勝った負けたを議論することはできません。つまり、判定を出す前にパラダイムは定められる必要があります。ここからも、Affのパラダイムの「Reasonability」を問題とする考え方には無理があるということができます(合理的かどうかという「評価」ではなく、どのパラダイムが妥当であるかという「選択」がされなければならない。)。

以上を踏まえると、パラダイムに対するチャレンジが、TopicalityのReasonabilityに準じた形で議論され、Affの主張するパラダイムがReasonableであれば採用すべきであるといった主張には、理論的に疑問があるのではないか、ということになります。

2.実行可能性とは何か
パラダイム論考で述べられた①の主張、論題の「べき」については、実行可能性と切り離して考えることができるという命題については、実行可能性論考で詳しく述べられています。
そこでは、実行可能性の内容について、政治哲学の文献に基づき、下記のように分類を試みています。

(i)技術的(物理的)実行可能性--自然法則や物理法則、あるいは人間一般の心理的傾向に照らして実現可能かどうか
(ii)政治的実行可能性--政策が世論から十分な支持を得られるかどうか
(iii)実践的実行可能性--財政的、法的、倫理的、制度的、文化的等々の観点から実現可能かどうか


そのうえで、実行可能性論考では、技術的実行可能性は当然必要とされるべきである一方、政治的実行可能性は通常フィアットで除外されているが、さらに実践的実行可能性もフィアットで除外してよいのではないか、ということを述べています。

まず、フィアットの意義について考える必要があります。フィアットは、政策形成パラダイムとも密接にかかわっており、政策の是非を考えるにあたって、その政策が本当に実現するかどうか(自民党が反対するか…とか)を議論することは必要でないということで、そういった議論を排除するために仮定される「ディベート上の決め事」です。ですので、パラダイムの変更を論じるうえで、フィアットの議論を持ち出すことは、理論的にはおかしな話で、抽象的論題正当化を認める何らかのパラダイムが採用された場合にフィアットの範囲はどうなるのか、といった議論になるべきところです(このあたりは、Shouldの意味に即して現代ディベート通論復刻版173-178頁に解説があります。ITBの人はお持ちでなければ総合図書館で借りて読んでみてください。ただ、フィアットの意義に照らして、Negにフィアットを認めない理由については通論の説明は首肯できません。)。
上記のような問題は措くとして、フィアットが実践的実行可能性を除外するのかという点については、政策形成パラダイムである以上、そうはならないということになります。まさしく、実践的にどうなのかを議論することが期待されているからです。何より、そこまでフィアットしてしまうと、それではディベートで何を論じるのか、という単純な疑問があります。

さて、実行可能性論考では、「実践的実行可能性のうちの財政的制約をある程度除外して考えようではないか、というのが今回の肯定側の言いたかったことです。」とされていますが、なぜ財政的制約だけ除外できるのか、ということについては、当然ながら論証が必要でしょう。それこそが、パラダイムを正当化する理由となるべきところですが、両論考に紹介されている文献だけでは、その説明はなされていないと言わざるを得ないでしょう。ディベートの試合は政治哲学のゼミではないわけですし、なぜ財政的制約だけを除外できるのかということについても合理的な理由は見だしがたいところです。むしろ、財政支出を不可避とする政策について、財政的制約を考慮しないということは不合理であり、そのような前提を置いて議論をすることの実益も考えにくいことから、よほど説得的な理由がなければ、かかる立場を採用することはできないでしょう。
ディベート業界には、critical caseだというだけでそれほど批判なく議論を受容したり、変わった議論をナイスチャレンジだと言って甘い判断を下してしまうような方もいるように思いますが、かかる判断は安易だと言わざるを得ませんし、新しい議論に向けて試行錯誤している選手に対しても誠実な態度とは言えないでしょう。もちろん、新たな議論に挑む姿にはディベーターとして敬意を表しますし、微笑ましくも思いますが、壁を乗り越えるに足る議論であるかどうかについては、ディベーターとして真剣に検討しなければならないところでもあります。

3.ディベートの中で如何にして制度を論じるか~争点設定に関する議論~
以上の次第で、各論考で説明されている、抽象的論題正当化に関する議論は、ディベート理論的には難点があり、支持しにくいところだと思われます。しかし、そのアイディア自体は、政策形成パラダイムの下であっても、ある程度実現できるのではないかと考えられます。
具体的には、Affとしては、(福祉政策、あるいはユートピア論に基づく)ベーシックインカムの意義について厚く論じ、そのうえで、制度の実現が極めて重要であるから、財政的問題については、財政的に実現不可能であることをNegが論証する必要がある、といった議論が考えられます。これは、簡単に言えば、大きな重要性を立てて、それに立脚した判断基準(Decision Criteria)を立てる、ということです。そこまで強い重要性ができるのか、財政的に実現不可能という主張はそこまで難しくないのではないか、といった問題はありますが、パラダイムを変えるよりは現実的な議論でしょう。

上記のように、重要な価値観を示して、論証責任(個々の議論に関する「立証責任」と区別して、争点について説明する責任、というニュアンスで区別して用いています。)を転換していくという展開は、政策形成パラダイムにおける、いわゆる3要素に立脚したメリット・デメリットの判断という考え方を、より立体的かつ流動的に把握するものと言うことができます。
ジャッジは、メリットやデメリットを3要素に基づいてみていきますが、ある要素の評価がほかの要素に影響するということは当然あり得るところで、その試合におけるAffやNegの強みを論題と関連付けて「判定上特に重視すべきポイント」として提示した上で、そのポイント以外に何が問題となり得るのか、そこでどのような判断がされればポイントを無視して投票することになるのか、といったことを言語化していくことができれば、試合の争点や判断理由をコントロールすることができるはずです。ある程度経験を積んだジャッジは、3要素と言いつつ自明な点の判断は省略して、重要と考える議論の判断で勝敗を説明するものですが、その判断をどこまでコントロールできるのか、というのが、ディベート実践的な課題となります。

この「ディベート実践的な課題」は、現実で制度の是非を検討するうえでも、実践的に考慮されている手法だと考えられます。制度を検討するうえで何が重要なのかというのは、判断権者(当人だけでなくその支持者も含む)の立場、資源の制約、調査結果の進捗、その時のトレンド等々によって変動していくものであって、徐々に解決済みの問題が増えて争点が絞り込まれたうえで、残った争点をどう評価するのかといったところで判断がされていくものでしょう。
これと同様に考えれば、ディベートの試合における争点も、議論の内容によって流動的に変動し、絞り込まれるものであり、かつ、残った争点についても、どのように評価すべきかという点については、他の議論との関係で重みづけが変わってくるものであり、全体の中に位置づけられたうえで「どう考えるべきなのか」ということを言語化することが可能であろう、と思います。

政策形成パラダイムが唯一不変であるとは思わないのですが、現在の政策形成パラダイムに限界があるという考え方のほかに、現在の政策形成パラダイムに基づく判断が硬直的ではないか、あるいは、本来は有機的になされている判断について無自覚であり、選手・ジャッジの中で言語化できていない部分があるのではないか、ということも、問題とされてしかるべきかもしれません。そのうえで、より説得的な議論が、選手としても、ジャッジとしても、できるのではないかということを漠然と考えておりますが、その点はまだ自分でも十分言語化できていないため、他日を期したいところです。

以上、タイトルが語呂だけで内容が伴っていないきらいはありますが、ここで本日の記事を終えることにします。
いわゆる「セオリー」の判定方法に関する若干の覚書
去る11月16日にJDA秋季大会があったのですが、結婚式に出席していて観戦できず、大変残念でした。決勝のトランスクリプトがJDA-MLであがってはいるので、全日本大会などでジャッジをしていた感想も交えつつ、分析のようなものを書ければと思っておりますが、トランスクリプトが公開されるまでは批評もできないので(実は綿密な分析も未了)、今日は控えておきます。

その代わり、某フェイスブックで、JDAでAlternative Justification(A/J)を回された某選手の感想に対していろいろとコメントが付いていたのに接し、ちょっと書きたいことができたので、そのことを当社比短めに書くことにします。元記事にリンクとかは貼りませんが、元記事を見るまでもなく一般的にコメントできる内容なので問題ありません。

上記の論争では、A/Jの正当性を論じるかという点で若干盛り上がっており、その内容自体は特に目新しくもないので論ずるには及ばない(!!)のですが、その中で気になりましたのは、議論している方々の前提として「A/Jが認められるべきかどうかもジャッジは試合中に出てきた論拠に基づいて決めなければならない」というような考え方があるように思われたことです。A/Jの正当性に関するAffとNegの説明でAffがより説得的だったらA/Jを認め、Negの説明がより説得的ならNeg…という考え方が前提にされているのではないか、ということです。
この考え方は、少なくとも法律家にとっては、極めて奇異なものです。A/Jの正当性という、いわゆる「セオリー」に属する議論(あるプランがTopicalかどうかというのは事実認定の問題なのでセオリーではない。念のため)は、言ってしまえば法律論であって、そんなものは弁護士が何を言おうが、最終的には裁判官が決めることです。もちろん、説得的な議論だと思えば裁判官が支持してくれるかもしれませんが、裁判官の採用するところでなければ、いくら有名な学者の意見書や論文が並んでいても、意味はありません(実際、法律家なら誰でも知っている著名な学者の意見書を並べても、負けるときは負けます)。これをディベートに置き換えれば、選手がいくら頑張ってセオリーの議論をしても、ジャッジが自説を変える必要がないと思ったら、自説に従えばよく、選手の議論は判定上無視して差し支えない(もちろん講評では適宜説明する)、ということになります。
以下では、この「法律家の常識」がディベートでも当然妥当するはずであるし、そうでなければまともなジャッジングなどできないのではないかということを述べることにします。

まず、ジャッジが選手の議論に基づいて判定を下す、ということの意味について考えてみることにします。このような原則があるのは、議論の判定が恣意的にならないようにすることを直接的な目的としており、それによって、選手の議論の優劣が純粋に判定に反映されるようにすることで、教育的目的やゲームの公平性を維持する、ということが目指されているのだと理解することができます。
このような目的からは、選手がきちんと自分たちの議論を論証し、反論する必要があって、ジャッジが片方に有利になる形で肩入れしたり、特定の議論が成立していることをあらかじめ前提としてしまってはいけない、ということになりますから、選手が議論するまでは公知の事実以外の事実を考慮することなく、選手が提出した議論のみにしたがって勝敗を決めなければならないということになります。

ここで注意すべきは、上記のような説明は、「『事実』ないしそれに基づく『主張』」については選手による提出に依存しなければならない」という命題でしかない、ということです。すなわち、ディベートという競技をどのように理解するのか、勝敗をどうやって決めるのか、という「ゲームのルール」に関する事項は、大会のルールなり、ジャッジの理解などにゆだねられており、選手はこれを直接変える権限を有しないということです。
「事実」や「事実に基づく主張」と、「ゲームのルール」の違いは、それが最初から用意されているかどうかによって分けることができます。試合で選手から提出される主張や立証は、選手から出されるまでは試合の前提とされていないし、また、前提にする必要もありません。しかし、「ゲームのルール」は、最終的に判定で持ち出す必要があるかどうかは別として(Counterplanに関するルールは、Counterplanが出なかった試合では持ち出す必要がない)、ルールの適用場面になれば自動的に必要となるものであって、選手がルールの説明をしようがしまいが、ジャッジにおいて前提として揃えておく必要があります。
このような事情は、当然ディベーターも承知しています。すなわち、ディベーターは、ジャッジが何らかの「ゲームのルール」を持っていることを前提として試合を行っているのです(そして多くの場合、その前提に寄りかかって議論しています。JDAのルールにはメリット・デメリット方式なんて決まりはありません)。ですから、「ゲームのルール」について、ディベーターは、少なくとも事実に関する主張立証と同様に、自分たちの議論に依存しなければならないとか、自分たちの議論を無視してはならないと言える立場にはないのです。

それでは、ディベーターは、自分たちがいったん「ゲームのルール」に異議を唱えた以上は、ジャッジはそれを無視してはならないと言える立場にあるのでしょうか。この問い自体が「ゲームのルール」であるため、これ以降は(以前も?)筆者の見解であるということをお断りした上で述べると、ディベーターが言えるのは、せいぜい「こういう考え方もあるがいかがでしょうか」ということにとどまると言わざるを得ません。
まず、ジャッジが前提として「ゲームのルール」を持つことを認める以上(これを否定すると、ジャッジを行うことはできません)、そこでジャッジが選択したルールは、何らかの理由でジャッジによって選択されているということも認めなければなりません。そうでなければ、ジャッジングの正当性が担保されないからです(何も考えずに「みんながそういう風に処理しているから」という理由でジャッジをしている人もいらっしゃるかもしれませんが、弊ブログはそのような人を対象としておりません)。ともかく、フィクションかどうかは別として、そのような前提を置く以上、ディベーターが「ゲームのルール」を変えるために反論すべきは、相手方の議論ではなく、「ジャッジが当該ルールを選択した理由」だということになります。ですから、ジャッジは、選手の議論が、自分があるルールを選んだ理由(最初の例であれば、そもそもA/Jを認めるか、認めるとして常に認めるのか、など)を変更するに足るものではないと判断したのであれば、これを当然スルーすべきであるということになります。

もちろん、ゲームのルールとして、「ディベーターがゲームのルールについて議論を一旦出した以上は、ルールの議論であってもそれを尊重すべき」という議論もありうるかもしれませんし、冒頭で紹介したような前提を取っている(ように見えた)方々は、このような見解に立っているのかもしれません。しかし、このような見解については、なぜ「選手の議論を尊重すべき」なのかという点の考察が足りないように思います。
上で述べたとおり、主張立証について選手の議論を尊重しなければならないのは、それが試合の公平性=ゲームの面白さを保つ最低条件であるし、試合中の議論だけで勝敗が決するということで選手が全力を尽くすことで、教育効果が最大化されるからです。このような「公平性」や「教育効果」、もっと言うなら「真っ当なゲームとして成り立つ前提」を確保するのが「ゲームのルール」です。そして、このルールを変えるところまで、選手の議論に拘束されるというのでは、選手の議論を尊重すべきという理由の根本が掘り崩されかねないということになります。このことは、選手が「ジャッジのぐるめさんは弁護士なんだから、そのプロフェッションとしての知識(笑)を当然判定に考慮してくださいよ!」と主張した場合に、ゲームのルールを崩してそういう前提を受け入れてしまってよいのかということを考えれば、よく分かるかと思います。
上記については、「選手の主張が最低限の理由を備えていなければ当然考慮されない」という反論があるかもしれません。それは極めて真っ当な考え方です。しかし、そう考えることは、既に述べている、「ゲームのルールを変えたい選手はジャッジの見解に反論する必要がある」という命題と組み合わせると、結局のところ、ゲームのルールについて選手の議論は参考としてしか扱われないのだということを帰結することになります。

そもそも、まともにセオリーを論じるというのは、試合の限られた時間で期待されるべきことではありません。最初に「論ずるに及ばない」と書いていたのに反して少し論じますが、A/J一つとっても、公平性がどうとか、無責任とか、(最終的にそういった要素を考慮することはあるかもしれませんが)そんな簡単に論じられるものではありません。このあたりは、以前に謎の合宿でざっと喋っており、その内容をまとめようまとめようと思いながら全然作業できていないところでもあり、ここでも詳述することは難しいのですが、端的に言えば、A/Jの問題は、ディベートを「各サイドの立場の優劣」を競うもの(側の論理)と見るか、「政策の優劣」を競うもの(政策の論理)と見るかという大きな見方の違いが前提となって出てくるものだと思います。A/Jの許容性について側の論理と政策の論理で必ずしも一対一対応の答えが出てくるものではないでしょうが、例えば、側の論理から見ると、立場を一つに定めないことが側の在り方としておかしい(否定側はCounterplanを出した時に現状維持と両取りできるじゃないかといった反論も考えられますが、そもそもCounterplanは立場の提示なのか、単なる反論にとどまるのではないか…というところから、一つ深遠な議論に行く余地もあります)という考え方を取る余地が出てきます。他方、政策の論理からは、最後に残った政策がTopicalかどうかを考えればよいとして、政策をどう出すかは別に考えなくてよいのではないか、というのが自然な考え方になりそうです。ただ、論題の性質上議論の過度な拡散が予想される場合などには、政策の論理からしても、公平性とか論題の解釈といった形でA/Jを制限する余地はあると考えられます。
要するに、A/Jに関する議論も、一つの体系の中でどう考えるかという問題になりうるわけで、そのジャッジのディベートに関する理解の体系全体の整合性との関係で、結論を出さなければならない難しい問題だということになります。それを、6分だか8分だかのスピーチの応酬の中で議論するということは、不可能ですし、また、期待されてもいないというべきでしょう。

それでは、ディベーターはセオリーを議論する必要がないのかというと、そういうことではないだろうと思います。時間バランスの問題もありますが、試合の中でも、特に問題と考える点について意見を述べることで、ジャッジは、講評においてそれに応答する必要が生じます。その試合の判定は変わらないかもしれませんが、講評で述べられた理由を元にジャッジに試合外で質問を投げかけることで、議論が深まり、そのジャッジが次の試合では見解を変えてくれるかもしれません(それが次の試合の自分たちにとって有利なのかどうかは分かりませんが)。
また、試合を離れて、セオリーとよばれる理論的問題について詰めて考えることは、試合に直結するかどうかは別として、物事を考えるよいトレーニングにはなるかもしれません。

というわけで、いわゆるセオリーに関する議論は、選手の議論を前提にする必要はないのではないかといったお話でした。少なくとも、ゲームのルールに関する議論と、論題の是非に関する通常の主張立証を区別せずに考えるのは乱暴ではなかろうかと思いますので、上記の雑文がそのあたりの注意喚起として何かしら意味を持てば幸いです。
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