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アカデミックディベーター

Author:アカデミックディベーター
日当たりの良い某法科大学院を2009年3月に卒業。
ライフワークである競技ディベートについてぼちぼち書いています

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FN規制論題を題材としたTopicalityの解説 ~一部の表現のみを規制するプランの処理方法~
ディベート甲子園東海地区予選を見ましたが、そちらの感想は措いておき、今日は別の話をします。
議論でないところの感想だけ述べておくと、試合の録音に応じない(東海大会では、どこかの不合理な地区大会とは異なり、当事者が認めれば観客も録音できるのです)度量の狭いチームがいくつかあったことが残念でした。録音を認めるべき理由は過去に述べたとおりで、議論の共有は教育的に推奨されるべきことですし、録音されないことで有利になる(?)という利益も保護に値しないと考えます(録音は本来自由であって、面倒を避けるため許可制にしていることは、本来的に選手に拒否権があるということを意味しない。)。そもそも、予選突破という意味であれば録音してすぐ対応できるわけではないので警戒する理由も分かりませんし、予選の議論は全国大会までに当然修正されるのですから、気にする必要はないはずです。もし、予選の議論で対策されて負けてしまうようであれば、そのようなチームは録音を拒否したところで早々に敗退してしまうのですから、そんなことを気にするより議論の充実を目指すべきです。
最終的には各チームの判断なのでこれ以上どうこう言うことはありませんが(ちなみに私は録音拒否を見てあからさまに不快な態度を見せていますが、当然ながら判定には影響ありません。ディベーターとしての評価は…)、ディベーター同士、広い心で切磋琢磨し合ってほしいものです。この点、ルール上許されていることを批判するのはどうか、という向きもあるようですが、そもそも私がルール自体合理性がないと考えていること(観客に一律禁止することは論外ですが、不利になりそうというだけで選手が拒否できるとする理由もなさそうに思います。)を措くとして、ルールで認められていても、度量が狭い行為だと思うのは自由だし、私にとってこれはディベーターとしての信念に関わる問題なので、強制にはわたらない範囲で感情を表出しています。もちろんそれが否定的に評価される可能性は認識していますが、それは皆様が判断されることです。私は選手やスタッフに好かれるためにディベートに関わっているわけではありませんので悪しからず。
[7/31:本段落につき予想外の反響があったので、趣旨を明確化するため、加筆修正しました。]

本題は、今季高校論題において、一部の表現のみを禁止対象とするプランにどう対応するかということです。具体的には、関東大会で出たと聞いている、学術論文のみを禁止対象とするプランに対して、どのように反論していくのかということを、理論的な部分も含めて説明します。結論から述べると、私としてはそのような議論を認めるべきではないと考えており、選手の皆様には、そのようなプランでデメリットを回避するのではなく、フェイクニュース問題の本筋に沿って議論していただきたいと考えております。
ということで、以下、順を追って解説します。

ディベート甲子園における論題充当性の帰結
上記のような、学術論文のみを禁止対象とするプラン(以下「論文限定プラン」といいます。)については、そのようなプランでフェイクニュースを禁止したと言えるのか、という点が問題になります。これは、プランが論題を満たすものであるか否かを問題とする、論題充当性の議論と呼びます。

論題充当性をどのように議論するかは後で述べますが、最初に、論題充当性の議論がディベート甲子園でどのような意味を持つのか解説しておきます。
一般的に、論題充当性の議論は、それによって肯定側が論題を肯定する立場に立っていないことになるなどの理由で、メリット・デメリット等の議論とは別の独立した投票理由になる――論題を満たしていないという理由だけで肯定側が負けとなる――ものと理解されています。これに対して、ディベートは政策の是非を競うものであり、政策が論題内か否かは、最も望ましいと評価された政策を肯定側と否定側のどちらに帰属させるかを区別するものに過ぎないと考える立場からは、論題充当性は独立の投票理由にはならない、という考え方も可能です。
ところが、ディベート甲子園のルール(2019.2.25改正のもの。以下同様)では、本則4条で「審判は、メリットがデメリットより大きいと判断した場合には肯定側、そうでないと判断した場合は否定側に投票します。」と規定されており、メリット・デメリット以外の投票方法は否定されています(したがって、Kritikもルール上独立の投票理由として考慮の余地がありません。念のため)。これによると、論題充当性も、独立の投票理由にはならないことになります。
ルール本則2条1項に「肯定側立論は、論題を肯定するためのプランを示し」とあることから、論題充当性で負けた肯定側は立論の要件を満たしていない…と考える立場も出てきそうですが、この規定はその後の「そのプランからどのようなメリットが発生するか」を論証するという文言と関係して、論題を肯定するためのプランから出たメリットしか考慮されないことを定める規定に過ぎません。その他に本則4条の規定を否定して独立の投票理由を認めたものと見るべき理由は見出し難いところです。
あるいは、「論題を肯定するためのプラン」をなくしてしまうことで、肯定側がメリットを出せなくなる(=メリットが上回らないと勝てないので、必然的に否定側の勝利になる)と考えられるのではないか、という考えも出てきそうです。しかし、立論でプランを述べなかったとしてもそれで肯定側が負けになることはなく、論題そのものを肯定する抽象的な立場を支持していると見るので(特に今回の論題は中高ともに付帯文で具体的な内容の定めがある)、プランがなくなるということもありません。

以上より、ディベート甲子園では、論題充当性は独立の投票理由にはならず、プランを論題外とすることで、そこから発生するメリットを評価の対象外にできるにとどまる、ということになります。
しかし、論文限定プランのように、論題の一部だけを論じようとするプランは、論題充当性でプランを排除した後の肯定側の立場(論題そのもの)に含まれてしまうため、そこから発生するメリットは依然として論題から生じるメリットとして残ることになります(一般のプランを出しながら、そのうち政治的表現など一定の類型のフェイクニュースについてのみ論じる肯定側立論を想起してみてください。これは問題なく認められます)。
よって、論文限定プランに対して論題充当性の議論を仕掛け、論題外であると認めさせた場合の効果は、論文限定プランのように規制対象を制限することを否定し、論文以外の表現も規制されるものとしてデメリットを論じることを可能にする、というものになります。
(なお、その場合の論文以外の表現に対する規制方法や罰則などは、論文限定プランの内容から類推可能なところは類推し、よく分からないところは選手の議論に委ねられる、といったところになるでしょう。)

ディベート甲子園で論題充当性の議論はいつ出せるのか
論題充当性の議論を出す場合、いきなり出てきたプランに対応するには否定側立論では間に合わず、否定側第一反駁で出すのが一般的でしょう。結論としては、ディベート甲子園ではそのように対応して差し支えないです。
この点、論題充当性は代替的な定義を提出する議論であるため否定側立論で提出すべきとの見解もあります(渡辺徹「スキルアップ講座論題充当性第6回 否定側の心得と対策」)。しかし、かかる見解は、ディベート甲子園のルールの解釈に立脚しておらず、理由がないと言うべきです。ルール本則2条1項は「否定側立論は…主に肯定側のプランからどのようなデメリットが発生するかを論証するものとします。」とだけ規定しており、論題充当性の議論を想定していませんし(もっとも、「主に」の例外として、出すこと自体は否定されません。)、プランの帰属に関する議論を通じてメリットの評価を争う論題充当性の議論は、ルール本則2条3項が反駁の内容として定める「(主に、)メリットに対する反論」と捉えることにも差し支えはありません(今回のように、デメリットを除外するプランを排除する議論は、「反論に対する再反論」を予め行うものとして捉えることができます。)。さらに、いわゆるNew Argumentの定義であるルール本則3条3項の「相手が持ち出した主張・根拠に反論する場合を除き、立論で提出されず反駁で新たに主張や根拠を提出することはできません。」という規定との関係でも、論題充当性は相手が立論で述べたプランへの反論ですので、除外事由に該当し、Newにもあたりません。
そもそも、論題充当性が代替的な定義を提出する議論であるから立論的議論である、という理解にも疑問があります(一般的な二回立論形式では「立論」で提出する必要があることにはもちろん異論ありません。)。論題充当性を独立の投票理由と解する立場を取る場合であっても、そこで問題となっているのは、肯定側の定義や当てはめの妥当性であり、否定側がプランを提出する行為と同列に論じることはできません(そもそも、肯定側の定義に従いつつ当てはめだけ議論することだってあり得るわけです。)。ましてや、上述のとおり、ディベート甲子園では論題充当性はルール上独立の投票理由と解し得ないのですから、相手の議論と関係なく投票理由を提示するものではなく、反駁として見るのが妥当でしょう。

長くなりましたが、上記のとおり、論題充当性を否定側第一反駁で出すことには、ルールの解釈上何ら問題ありません。もっとも、もし可能であれば、否定側立論で、発生過程の枕として、論文限定プランは論題に反しており、それ以外も広く制限する立場しか認められないということだけでも述べて、詳細は第一反駁で論じます、という予告をしておくことが望ましいでしょう。

論文限定プランの論題充当性
ようやく、論文限定プランが論題を満たしているかどうかの議論に入ります。
論文限定プランは、虚偽の学術論文のみを問題とし、論文の捏造などを取り締まろう、というメリットを提示するもののようです。肯定側の立場からは、論題では「全ての」フェイクニュースを規制すべきとされていないから、一部を規制してもフェイクニュースを規制したことになる、という主張があり得そうです。
しかし、論題の本文自体には「全ての」と書かれていないとしても、付帯文第1項は「ここでいうフェイクニュースとは、虚偽の事実について、虚偽であることを分からない形で不特定多数をあざむく意図をもって作成された情報をいう。」と定めてあり、むしろ、フェイクニュースの分野に限定を付さないことが想定されています。これによれば、付帯文も含めた論題全体を読むと、一部の類型だけを取り出して規制することは否定されていると解すべきでしょう。
加えて、そもそも、学術論文は表現のなかのごく一部であって、これだけを規制したことで「フェイクニュースを規制した」と言えるのか、という観点からも疑問があります。そもそも論文が「ニュース」なのかということも相まって、一般的感覚からして、論文限定プランが、論文の捏造を国でも取り締まるということ以上に、フェイクニュースを取り締まっていると理解されることはないでしょう。

以上の理由付け(特に論題の解釈)からは、論文限定プランのみならず、政治的表現については取り締まらない、といったプランも論題外となります。想定されるデメリットからして、そのような規制の在り方も現実的には考えられなくもないのですが(もっとも、政治的かどうかの区別はあいまいなので、どうせデメリットは出ます。)、論題の文理に照らして、よほど限定的な例外を設ける場合でない限り、規制対象に例外を設けるプランは許容されないと考えます。

論題充当性の反論がない場合どう取るか
論題充当性については、否定側から問題提起されなかった場合に、ジャッジが論題外と評価してよいか、という論点があります。例えば、論文限定プランが出た際に、否定側が論題充当性の反論を行わず、そのまま普通のデメリットを読んだという場合に、学術論文以外の規制から生じるデメリットを評価してしまってよいか、という問題です。

ジャッジの多数は、否定側から指摘がないのに論題充当性を取り上げることはできないと考えるものと思われますが、きちんと考えた上でそう処理しているジャッジは多くないでしょう。
この問題は、メリット・デメリットであれば、証明が弱い場合は反論がなくても取らないというジャッジングが一般的であるところ、論題充当性の議論だけ何故反論がなければ取り上げないのか、ということが本質です。そして、この点について、論題充当性だけを特別に取り上げる理由はないというのが私見です。肯定側に論題の解釈権がある、とかいう説明がされることもありますが、その根拠は不明ですし、解釈権が何を指すのかも不明です。否定側が取り上げた瞬間に消えるのであれば権利とは言えないし、否定側に解釈権を覆すような理由づけを求めるのであれば、肯定側にも、解釈権を基礎付ける理由付けを求めるべきです(そうでないと、解釈権が覆ったかどうかの判断も出来ない)。
否定側からの反論を要件とする立場は、フェイクニュース論題で安楽死法制化のプランが出された場合に、否定側から反論がなかったらこのプランを論題内と認めるのか、という質問にどう回答するのでしょうか。論題内と見るしかない、というのであれば、妥当かどうかはともかく一貫する立場ですが、もし「それはおかしい」というのであれば、否定側の反論を必須としない立場を取るべきことになります。

もっとも、論題充当性を問題とするために否定側の反論を必須としない場合であっても、通常の議論と同様、ジャッジが過度の介入をする形で論題充当性を否定することは許されません。それでは、どの程度のプランであれば勝手に切ってよいのかということになりますが、私は、「普通の人が論題内と思うかどうか」という直感的なところで線を引いています。
例えば、論文限定プランは、虚偽の論文の発表や拡散を禁止することになりました、というニュースを聞いても、普通の人は「フェイクニュースが規制された」とは思わないでしょうし、そのように報道で取り上げられることもなさそうに思います。また、論文限定プランが導入された後も、現在フェイクニュースとして問題とされている表現の多くは残り続けます。このようなことを考えると、普通の人が論題内と考えるようにはおよそ思われないので、私は否定側からの反論がなくても論文限定プランを無視し、デメリットを通常通り評価することになります。肯定側からよほど説得的な理由が予め示されていれば別ですが、論文限定プランについては、論題内だとする説明は難しそうな気がします。
他方で、政治的表現は対象から除外する、といったプランは、論題の文理上否定されるべきとは思いますが、一般人の感覚に照らしてフェイクニュース規制であると思うことはないとまでは言えないので、否定側の反論がなければ、取り上げることはしないかなという感覚です。

おまけ:論文限定プランのメリットは強いのか
以上で、論文限定プランを中心に、ディベート甲子園において論題充当性を論じるに当たって抑えるべき論点を一通り論じました。

最後に、おまけとして、論文限定プランのメリットが強いのかどうかを簡単に論じておきます。そもそも、論文の内容が虚偽かどうかというのは、現在でも各雑誌や研究者がチェックしており、それでも捏造が見逃されたという問題なのですから、プランで新たに処罰したところで摘発できるのかは疑問です。もうずいぶん前の話ですが、STAP細胞の論文がトップ誌Natureに載っていたことを考えると、Natureのレビュアーが見抜けなかったものを警察やらファクトチェック機関やらが見抜けるのかということには疑問があります。既に専門家でレビューしているのですから、それに加えて専門家からなる機関なるものを置いても無駄でしょう(ポスドクの就職先創出などの思わぬ利益はあるのかもしれませんが…)。
萎縮効果という点についても、論文の捏造が発覚したら研究者としては道を絶たれてしまうのですから、既に萎縮効果は十分ではないかと思います。ばれないと思っているから捏造しているわけであり、刑罰ができたからやらない、ということでもないでしょう。

以上のような点をしっかり指摘すれば、メリットは普通に否定できそうですが、実際に見ていないので詳細は不明です。

議論構築やスピーチについての解説 | 23:15:48 | トラックバック(0) | コメント(2)
一院制・飲食店喫煙禁止論題の議論に関する短評/試合録音の許否をどう考えるか
しばらくご無沙汰しておりましたが、名古屋に引っ越して元気にやっております。生活はかなり人間的になっており、次の目標は、ディベート関連の寄付を積めるように業務を拡大することです。

さて、今期論題下での議論をいくらか見る機会がありましたので、その感想を若干書かせていただくほか、近時話題になったようである、試合の録音が許されるかという問題につき、今後の議論のため、私見を述べておくことにします。

1.高校論題(一院制)の議論について
今年の高校論題は(も)難しい論題であり、包括的なコメントは困難ですが、1点申し上げるなら、実例の位置づけをよく考えよう、ということが言えると思います。

今期論題で皆様が論じるべきは、一院か二院かという「制度」の是非です。したがって、こういう事例があるからどうだ、という話だけで勝敗が決まることには本来ならないはずです。しかし、実際の試合では、PKO法案やカジノ法案が参議院の修正として有意義だったかどうかとか、臓器移植法の成立遅れが審議遅れの弊害として問題とされるのかといった、具体例の評価に終始してしまうこともままあります。
その一番の原因は、そもそもどういう制度を志向すべきなのか、という重要性・深刻性についての深掘りが欠けていることにあるように思われます。これは、人は間違うから複数回審議すべきなのだとか、時代の流れが変わっているので重複は無駄だとか、そういう話ではなく、議会制度とは何のためにあるのか、二院制/一院制という制度はどういう理念の下に組み立てられるのか、という、もう少し次元の高い話です。そして、その理念との関係で、二院制/一院制のどういう仕組みが、現在の日本の政治過程の中でどう機能し、どういう影響を生んでいる/生むことが期待されるのか、ということを論じることができれば、一例しかなくても(あるいは無理に例を出さなくても)、十分な議論ができるはずです。

逆に、出されている実例も、上記のような議会の目的や理念との関係で評価されるべきです。つまり、審議未了で廃案になった法律があったとして、その事実だけを見るだけでなく、なぜ廃案になったのかという経緯までさかのぼり、その経緯をどう評価すべきなのかということまで論じてこそ、制度を論じるための基礎として実例を考察したことになります。

議会制度や日本の政治については、今や選手の皆様のほうが詳しくなっているはずですので、実際の試合で、そうした検討の結果がどのように組み立てられるのか、楽しみにしています。

2.中学論題(飲食店喫煙禁止)について
中学論題については、色々と議論が詰まってきており、特に否定側において、喫煙禁止によって経済的に打撃を受ける飲食店の分類について深まった議論がされてきているような印象を受けます。
しかし、全体としては、高校論題と同様、重要性・深刻性の深みが不足しているということを感じます。

特に肯定側について、重要性として受動喫煙の危険性を論じているのですが、それ以上に、なぜ受動喫煙の解消に国家が取り組むべきなのか、また、飲食店の営業態様を規制してまで受動喫煙を解消すべき理由は何か、ということについての論証が求められるところです。
前者の「なぜ国が取り組むべきなのか」というのは、人が死ぬ以上当たり前だ、という意識があるのかもしれませんが、デメリットが存在することを念頭に置けば、そういったデメリットがあったとしても優先されるべきなのだという議論を行うためには、国家の義務として捉えるべき理由を積極的に論じる必要があります。そのヒントは前に書いた通りです。
後者の「なぜ営業態様を規制してまで」というところは、なぜ「飲食店」で禁止なのかという話と、なぜ「全部」禁止なのかという話の2つに分節することができます。これらの問題を論じるにあたっては、飲食店での受動喫煙がどういう環境下のもとで起こっているのか、誰が被害者なのか、一部禁止だと何が問題なのか、といったことを考えていただきたいのですが、これは皆様の検討を楽しみにしたいと思います。

否定側も、深刻性として、単に飲食店の売り上げが減るとか、店がつぶれるというだけでなく、より踏み込んだ考察をしていただきたいです。ここでのポイントの第一は、どのような対象が苦しむのか、その対象が失うのは何なのか、ということです。店がつぶれるというのは、チェーン店を経営する会社からすると、営業上の失敗にすぎませんが、個人のお店がつぶれるということは、経営者の生計にかかわりますし、その店にこれまで投資してきたものも失われてしまうわけです。そういった深刻さをうまく表現する必要があるでしょう。
また、一部の類型の営業形態について、喫煙と不可分であるといった議論ができているのであれば、そのような店舗の存続を困難にするプランが営業の自由の制約になるといった議論も展開可能でしょう。仮に全体利益が大きいとしても、そのような店舗の営業まで否定するような理由にはならない、といった議論をうまくやっていきたいところです。

上記との関係で、否定側は、現状でもある程度対策は取られている、といった反論も連関させる必要があります。デメリットで論じられるような、タバコで売上が左右されるような飲食店については、非喫煙者が受動喫煙を被る危険性は相対的に低いと考えられます(ここは要検討)。もしそのような事情があり、そういった飲食店以外での分煙・禁煙が進んでいるのだとすれば、さらに進んで相対的に規制必要性の低い(そして規制によるデメリットが大きい)ところを規制するプランを取る必要はないということになります。

以上を踏まえると、当初私が思っていたより否定側も戦えるのではないかなという気がしてきているのですが、そこは肯定側の重要性の分析が不足しているからということもあると思いますので、全国大会までに、さらに一歩進んだ分析がなされることを期待しております。

3.試合録音の許否をどう考えるか
本ブログの熱心な読者であれば何となく想像がつかれるかと思いますが、ここからが本題です。

事実関係には混乱が見られますが、聞くところによると、関東大会で試合の録音を試合当事者の学校のみに認めており、観客の録音を禁止していたにもかかわらず、無断で録音していた観客がいたということが問題になったようです。

法的に言えば、私的な録音はそれだけで肖像権やプライバシーを侵害するものとは解しがたく、特段問題となりませんが、他方で、(後述のとおりその当否はさておき)イベント主催者が一定のルールに従うことを求めている以上、観客はそれに従う必要があり、それに従わない場合、主催者は観客に退場を命じることができると考えられます。他方で、録音データについて、主催者が任意で消去等を命じることはできますが、消去を強制することまではできないのではないかと考えます。上述のとおり、録音行為自体は違法ではないため、大会主催者や試合当事者に権利侵害は生じていないし、私的に録音した結果生じた電子データを消去することまでが大会主催者の管理権に含まれるものではないと考えられるからです。もしそのような行為を強制した場合、むしろかかる行為が違法と評価されるのではないかと思います(考え難いですが、万が一無理やり取り上げようとなどすれば強要罪にも該当し得るところです。)。
※実際どうなったのかは知りませんので、あくまで仮定として論じています。

ここからは、ディベート大会の在り方として、録音の許否をどう考えるかという話です。
個人的には、録音は、自分のスピーチを聞きなおして反省したり、上手いディベーターのスピーチを参考にするといった意味で役に立つことがある一方で、試合の内容を把握するうえでは、フローを取る以上に必要性が高いのかは疑問です。初心者は試合の中身がよくわからないので、録音して聞きなおしたい、ということはあるのかもしれませんが、そこまでして試合の中身を記録する必要があるのかという疑問もあります。
しかしながら、他方で、録音をわざわざ禁止する必要があるのか、ということについては、大いに疑問があります。試合は公開されており、出された議論はその瞬間にみんなの検討対象になるべきものです。その記録を禁止することにどのような根拠があるのか。それが問題です。

この点、録音データが残ると、試合中に述べた内容が本人の発言として出回るなど、後で悪用されかねないといった指摘もあります。確かに可能性としては否定できないでしょうが、録音禁止を必要とするほどの具体的なリスクが想起される問題とまで言えるか疑問であり、また、悪用の危険性はデータの利用方法(公衆送信は当然ダメでしょう)や管理の問題であって、それだけをもって規制を正当化するのはやりすぎではないでしょうか。データ流出の危険を問題とするなら、自分たちの試合を録音することだって、相手方の発言については問題があります。ただ、当人が録音されたくないと言っている以上、大会のルールとしてその意思を尊重することは相当だと思います。その場合に当事者の録音を認めるかどうかはなお問題として残りますが、私個人としては、上述の指摘から、この場合当事者も録音を禁止すべきです。そんなにデータ流出のリスクが怖ければ対戦相手にも認めるべきでなく、自分もやめておいたほうがいい、ということです。
なお、この点は議論の余地のある問題ですが、私個人としては、試合中の発言は個人の思想信条と切り離されているということはその通りであるものの、さりとて、たとえ競技上の議論であるとしても、数ある議論の可能性からそのような議論を選択したことについては、選手当人の意向や人格が反映されていることは否定できず、その点が論難される可能性は否定し得ないのではないかとも思っています。私について言えば、職業上、というか職業的学識に基づいて、正当化困難な人権軽視的議論を回そうとは思いませんし、もしそういう議論を回している同業のディベーターがいるとすれば、率直に言って同業者として恥ずかしいなと思うでしょう。ディベートの議論は自由であるべきですが、それが本当に「何を言ってもいい」ということになるわけではないでしょうし、ルール上どうあれ、回している議論でディベーターとしての技量以外のところも評価されてしまうことは避けがたいところです。これは録音できるかどうかとは関係ない問題ですが。

また、録音されていると緊張するのでやめてほしいということがあるかもしれません。これは傾聴すべき理由であり、選手のパフォーマンスを維持するためであれば、録音は規制されるべきです。ただし、そのような理由で録音を拒絶する以上、自分たちもすべての試合で録音を断念すべきです。この意味で、大会のルールにおいて、エントリー時に全試合を通じた録音の可否について意向を確認し、当該試合の両チームが録音を許可している場合に限って当事者及び観客に録音を認めるというルールはあり得るところです。
同様の問題として、録音されていると気持ち悪い、ということも考えられそうです。思春期の中高生が異性に音声を録音されて何度も聞かれてしまうのは気持ち悪い、という話はあるかもしれず、その場合も上記と同様に解することができるでしょう。

さて、上記で見てきた「規制理由」は、いずれも、当事者が録音行為から感じる不利益を理由とするものです。こうした不利益を理由に、当事者の不許可を理由に、”全ての”録音を禁止することは、ルールとして合理的でしょう。
他方で、関東大会のルール(ほかにもそのような決まりはあるようです)は、観客に録音を禁止しておきながら当事者には録音を認めていること、また、当事者が同意した場合にも観客に録音を認めないようであることの2点から、上記の理由では説明困難であり、不合理な規制と言わざるを得ません。

そもそも、なぜ録音が禁止とされているのかについて公式に説明はされていないわけですが、議論の記録を広く認めることで、議論が「流出」し、有利に使われてしまう、といったことを懸念しているとも推測されるところです。仮にそうであるとすれば、個人的には、極めて次元の低い理由であり、教育ディベートの建前にも反した、下らない規制であるとの思いを禁じ得ません。
そんな理由で録音や録画を禁止している競技は、ほかに聞いたことがありません。サッカーやラグビー、アメフトといったチームの戦略が重要な競技では、相手の試合を録画して研究したりしているでしょうが、そのことが卑怯だとか許されないということが言われたりするのでしょうか。

まず強調したいのは、議論が広まると不利である、という考え自体、議論のレベルを向上させていくという教育的意義に反しているということです。百歩譲って、選手がそのように思うことは仕方ない部分があるとしても、大会主催者がそのような選手個人の都合を忖度することに何の意味があるのでしょうか。むしろ、互いに学びあって議論を深めていくものであって、仮に議論が広まって他チームがそれを参考にするとしても、さらに上を行き、レベルアップすべきだ、ということを教えるのが指導者の役割ではないのですか。少なくとも私はそのような思いでジャッジをしていますし、そのために議論の論評を行っています(過去にも書きました)。
それがもし「支部の利益」なるものを考えているのだとすれば、それこそ噴飯ものの議論です。我々の支部では録音を認めるので他の支部も認めろ、みたいな言説も同様です。ディベート甲子園は、いつから支部の対抗戦になったのですか。もちろん、支部のチームが可愛いのは分かりますが、支部の皆様はNADEの業務執行のため(支部規則1条)業務を行っているのであり、NADEはディベートの発想と技術を学校や社会に普及させることをもって、健全な市民社会を構築することを目的として業務を行うのです(定款3条)。全体の議論の水準向上を考えずして何を考えるのでしょうか。

唯一あり得る教育的な理由としては、録音を認めると、強豪校の議論を丸パクリするチームが増えやしないか、ということですが、そもそもフローシートを取ることを認めている時点でパクりのリスクはありますし(フローも取れないチームが録音で議論をパクっても勝てないでしょうが)、議論をまねることも教育の一過程と言うことさえできます。安易なパクリはどうせ結果につながらず、それを試合で実感するところまで含めて教育になり得るところです。また、パクリを懸念するなら、試合当事者が相手の議論を録音するのも禁止すべきですから、やはりこの理由も合理的説明としては弱いでしょう。

以上の次第で、当事者の同意に関係なく一律に観客の録音を禁止する現行の規制には、極めて重大な疑義があります。上述のとおり、録音を認めないこと自体の弊害は大きくないでしょうから、これは、ディベート甲子園というイベントをどのようなものと考えて大会を運営しているのかという、姿勢や理念に関する問題と言うことができます。
あまりよく考えずに惰性で観客の録音を禁止していたといったことであれば(それもどうかと思いますが)、選手から強い要望が出ているなどの事情がなければ、そんなものかということで済ませる余地もあるでしょう。しかし、それがもし、議論の「流出」を懸念するといった、ディベートにおける議論の批判的検討のプロセスや競技性についての誤った理解を前提とする理由で規制されているのだとすれば、かかる狭量な理解がまず糾弾される必要があります。今回の騒動は、そのような文脈で問題とされるべきものです。

長期的には、英語ディベートで行われているような、出た議論の概要を紹介するパッチの公開や、試合記録のアーカイブ化といったことが検討されることが望ましいのですが、まずはその前段階として、我々が何のためにディベートを指導しているのかということに照らして、正しい対処が検討されることを望みます。

議論構築やスピーチについての解説 | 21:09:30 | トラックバック(0) | コメント(0)
Topicalityの論じ方~CoDA新人大会の感想として~
長年懸案だった事件で完全勝訴してちょっとだけ楽になったので久々に記事を書くことにします。今日は先にあった全日本ディベート連盟(CoDA)の大学生新人ディベート大会決勝戦で、否定側が提出したCounterplanの関係で若干Topicalityが問題になりましたので、そのことを少し書いておきます。

ディベート甲子園の関東予選も見ましたが、そちらの感想は、あまり具体的なことを書くと意見が偏っているなどと言われかねない時代ですので(個人的には全く身に覚えがないので気にしておりませんが)、今回は差し控えておきます。議論の水準はそこそこ高かったと思います。

最近ですと、中学論題については、Google相手に犯罪報道検索結果の削除を求める仮処分が認められた例があったりするので(最近さいたま地裁でありましたが昨年東京地裁でも認められている。こちらの記事が参考になります)研究してみるとよい議論が出てくるかもしれません。
高校論題は、皆さんよくリサーチされていますが、最近でも弁護士会の会報に裁判員裁判の特集がされていたりするので(筆者は第二東京弁護士会所属なので「二弁フロンティア」という雑誌を読んでいます。大きな規模の弁護士会の雑誌は結構研究報告などが載っているので有益かもしれません)、さらにいろいろ調べてみてもよいのではないかなと思います。
最近某ツイッターで吹奏楽のアニメが話題になっていましたが(あれはいいものです)、ディベートも必死になって得られるものがあると思いますので、悔いのないよう準備を進めてください。おっさんめいた感想になって恐縮ですが、学生のうちにしかできないことというのはいくつかあって、そのうちの一つが、部活動に真剣に打ち込むということだと思います(逆に、勉強はいつでもできますし、しないといけないのです)。

はじめに
CoDA新人戦の論題は「日本は裁判員制度を廃止すべきである。」で、特に議論の制限がありません。
決勝戦では、肯定側が冤罪の減少と性犯罪の起訴率低下減少といった普通のメリットを出していたのに対して、否定側が覚せい剤取締法違反関連の事件(正確には麻薬特例法違反も入れないとダメなのでしょうが)だけを裁判員裁判の対象にして残りを廃止するCouneteplanを提出し、覚せい剤関連の事件は裁判員裁判で適正な判断がされるようになったので裁判員制度を廃止するとよくないというデメリットを出した上でメリットはすべてキャプチャーされるという主張をしたのでした。
これに対して肯定側は、(試合では主張の趣旨がよく分かりませんでしたが)Counterplanは論題の趣旨からして命題的であるという形で非命題性を満たさないと反論し、否定側はこれまたよく分からない形で反論したのでした。お互いに論題の趣旨についてきちんと説明しないので、結局僕は肯定側の攻撃が失敗しているということでCounterplanに入れて否定側に投票しましたが、2人は非命題性の要件を否定して肯定側に入れています。

試合中で非命題性については取り上げるに足りる議論がでなかったので(その他の争点はいい感じでした、念のため)、以下では、論題や制度の趣旨に基づきTopicalityを論じる方法について簡単に書いたうえで、最後に少しだけ理論的に問題となり得る点を指摘しておくことにします。

1.Topicalityの論じ方
Topicalityというと語句の定義が問題になるというイメージが強いかもしれませんが、定義だけで物事の意味がはっきり決まるというのはむしろ珍しいことで、むしろその後の当てはめや評価が問題になるケースがほとんどです。例えば、覚せい剤取締法違反で問題になるのはいわゆる「故意」の有無ですが、故意がない場合原則として処罰されないことを定める刑法38条は「罪を犯す意思がない行為は、罰しない。」としか書いておらず、どういう状態に「罪を犯す意思がない」というのかは、(どういう心情であれば故意ありと言えるかという法律論もあるにはありますが)様々な事情から認定するほかありません。辞書を引くだけで答えが出るのなら弁護士の仕事はなくなってしまうわけです。

まず、あるプランが裁判員裁判の「廃止」にあたると主張するのであれば、どういう場合に裁判員裁判の「廃止」にあたるのかという規範を定立する必要があります。これは単なる「定義」をあげるものではなく、制度の仕組みなどを組み合わせて、どういうものが論題を肯定するアクションに含まれるのかという判断基準を提供する主張でなければなりません。
決勝戦の肯定側は、広辞苑を読んで「廃止と全廃は違う」と主張しており、これは「一部残していても実質的に廃止だと言えれば論題を肯定していると言いうる」ということの立証としてはよいのですが、これだけでは何の規範も立てられておらず、投票できるはずがありません。
その次に肯定側は、裁判員法1条の「この法律は、国民の中から選任された裁判員が裁判官と共に刑事訴訟手続に関与することが司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上に資することにかんがみ、裁判員の参加する刑事裁判に関し、裁判所法
(昭和二十二年法律第五十九号)及び刑事訴訟法(昭和二十三年法律第百三十一号)の特則その他の必要な事項を定めるものとする。」という規定を引用したのですが、それが何を意味すべきなのかということは全く議論していません。ここでは、裁判員は特定犯罪の手続ではなく「刑事訴訟手続」に関与するものとされていることや、司法に対する理解の促進や信頼向上という一般的目的が掲げられていることを指摘し、特定の犯罪類型のみのための手続制度は論題の「裁判員裁判」とは言えない、といった規範を立てなければなりませんでした。
その他の立証方法としては、(これは事前リサーチを要しますが)国会の議事録や最高裁のサイト(たとえばこちらには「すべての刑事事件に裁判員制度を導入すると国民のみなさんの負担が大きくなるため、国民のみなさんの意見を採り入れるのにふさわしい、国民の関心の高い重大な犯罪に限って裁判員裁判を行うことになったのです」とあり、事件の困難さといったもので対象裁判を絞り込むのは立法趣旨からして想定されていないという方向の主張につながりうるところです。)を調べて、裁判員制度の趣旨を言っている箇所を引用していくことなどが考えられます。

こうやって規範を立てたうえで、否定側のCounterplanがどういうものであるかを、その内容(社会的影響や犯罪の性質など。そもそも覚せい剤輸入犯罪は千葉など空港のある特定のところに集中するものだったりしますのでそれだけで「国民」の参加というとちょっと違う)、プランの目的(司法への理解を高めるためといえるのか。そもそもディベート便宜的ではないか?)、実施件数などから多角的に評価し、規範に当てはめていくことで、Counterplanが命題的と言うべきかどうか--ここではあえて評価的な言葉を使っています。結局、Topicalityは答えが一通りに決まるのではなく、評価の問題である場合がほとんどだからです--を論じていくことになります。

その他の論じ方として、肯定側が2ARでちょっと言っていたような言っていなかったような気がしますが、ディベートの試合としてみたときに許容されるべきかどうか、という議論もあります。要するに、論題制定の趣旨として、そういうCounterplanが議論されることが想定されていたのか、教育的にどうなのか、といった問題です。個人的には今回の否定側のCounterplanが教育的に悪いとは思っていない(デメリットや、Counterplanを前提にした反駁は結構よくできていた)のですが、場合によっては有効なこともあるでしょう。

以上を踏まえて、選手向けにTopicality対策で準備しておくべき事項をまとめておくと、語句の定義だけでなく、その論題ないしそこで取り扱われている制度がどのような目的で制定されているのか、そこからするとどういう要素が必要になる(どういう要素が欠けていると命題的/非命題的なのか)という、当てはめに必要な要素をしっかり考えておくということが必要になります。
そのための材料は、辞書や用例を調べるだけでなく、その制度の運用や解説文献など幅広に考えられるわけですが、Topicalityの準備も普通の議論と同様、どういう議論があり得るのかを念頭に置きつつ、どういう反論をすればそれを排除できるのかという目で議論を考えるということしかありません。Topicalityだといって面食らうことなく、落ち着いて対応すれば、大したことはないというのが私見です。まぁ僕も一回「炭素税は経済的メリットを目的にしていてはだめだ」というTopicalityに「いや、そういうのが炭素税だって言ってる例はたくさんありますけど」くらいしか反論できずに負けたことが昔ありますので、慣れないうちはそんなものです。

2.Counterplanが命題的になった場合の処理
今回肯定側に投票したジャッジは、Counterplanが命題的ということで直ちに肯定側に入れていたようですが、理論的にはなお、否定側は現状維持も主張しているものと見るべきと解して、メリットとデメリットを比べるべきとの立場が成り立ち得ます(僕はそのような立場です)。このような理解の基礎となる考え方はすでに過去の記事で書いているので、そちらを参照してほしいのですが、このように考える場合には、今回の試合で非命題性を否定するとしても、直ちに肯定側の勝ちとはなっていなかったかもしれません。
せっかくCounterplanを出してデメリットも読んでいるのですから、否定側としては、こういう理論的チャレンジもしてほしかったところです。それはもはや新人なのかという疑問はありますが…。

ちなみに、上記の点を問題とせずに肯定側に投票したジャッジの判断を理論的に正当化しておくと、おそらく、そのようなジャッジの前提には、Counterplanが出された時点で否定側は現状維持のプランを放棄したという判断があるものと考えられます。ディベートでは少なくとも最後のスピーチまでには立場を一通りに決めないといけない、という考え方を取る場合、このような考え方が一貫しています。
あるいは、両チームとも現状維持に言及していないので、明示でスピーチされている肯定側プランとCounterplanだけが評価の対象で、両方が命題的であれば自動的に肯定側の勝ち、という考え方もあり得るでしょう。
※実際どのように考えていたかは聞いていませんので筆者の推測です。

ただし、上記のような立場をとる場合、仮に試合の中で「何もしない」現状維持が一番よいのではないかという状況に陥った際にどちらに入れるのか、という問題が生じます(この試合で言えば、覚せい剤事犯の裁判員裁判はよくないが、その他の裁判員裁判は望ましいということが立証された場合。考えにくいかもしれませんが)。
現状維持は何も言わない場合否定側なので否定側に入れるという処理は、なぜイコールの場合にだけ現状維持が考慮されるのかという点が説明できないところに難点があります。
試合において出たシステムの優劣が真偽不明なので推定に従って処理、という考え方が無難に思われますが、それは現状維持を無視する点でちょっと気持ち悪いようにも思います。これを嫌がるジャッジ(いるかは不明)は、現状維持の立場が常に主張されており、それが初期状態では論題を否定する立場に帰属しているのだと考えた上で、どちらがプランをいくつ出しても、現状維持は判定上常にテーブルの上に乗っかっている、という考え方を取ることになるのではないかなと思います(このような立場は、試合の最後でプランを1つに絞るという立場とも整合します。当事者の選択に関係なく現状維持は最後まで残る、といった処理をするものなので)。

あまり長くなるとよくないのでここではこのあたりにしておきますが、CounterplanのTopicality1つを取っても、いろいろと考えることはあるのではないか、ということでした。

議論構築やスピーチについての解説 | 19:15:46 | トラックバック(0) | コメント(0)
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