愚留米の入院日記
日当たり良好の某法科大学院既習病棟を退院した法務博士の日記。しかし内容はほとんど趣味のディベートの話
第23回JDA春季大会の感想
どうもご無沙汰しています。
気が付いたら今期論題が発表されておりますが、今回はJDA春季大会に出た感想をお送りします。

今回は、ディベート実験室のオリジナルメンバーで出場するという趣旨で、レジェンドの安藤さん・CoDAの重鎮久保さんと組んで出場させていただきました。論題は代理出産実施の法的枠組み整備というもので、過去に2回も出ている論題なのですが、プレパの時間がなかなか取れずメンバーにはご迷惑をおかけしました。
結果はというと、予選1位で決勝に進み、近時著しく実力を伸ばしている後輩たちのチームと対戦することになりました。結果優勝することができましたが、思わず質疑中に座り込んでしまうほどの激戦で(タイマーの音がしたので完全に終わったと思ってしまいました…。)、苦しくも楽しい試合でした。

決勝のトランスクリプトが公開されるのかわかりませんが、今期はNegでいろいろと思うところがあったので、主に決勝を見た人向けになってしまい恐縮ですが、簡単な自戦解説をしておきます。

決勝は相手方がAffで、我々はNegを引きました。Affのケースは、非常にオーソドックスで、代理出産でないと子を儲けられない人がいるので、その人たちのために選択肢を確保しようというものです。代理出産論題は、既に他の生殖医療その他の医療行為で第三者にリスクのある行為(臓器移植とか)も認められていたりすることもあり、規制の理由がなかなか見当たらないところで、Negが苦慮する論題でした。ただ、個人的には、Affも盤石ではないし、Negのほうがストーリー性のある複雑な議論(強いとは限りません)ができるのではないか、ということを考えてきました。
今回のチームは、チームで戦略をすり合わせるというより、寄せ集めで議論を作り、各自やりたいことをやるという感じでプレパをしていきました。決勝では、安藤さんが2NC/2NRだったということもあって、Counterplanを伸ばして勝ったのですが、個人的には、1NCで出したケースアタックのラインで、治療が本当に患者を幸せにするのかという観点で攻めたかったところです。以下、具体的なNegの議論に即してみていきましょう。

Negの出した議論は、DA2つとCounterplan、それからいくつかのケースアタックです。

DAの1つ目は、代理出産をしないといけないというプレッシャーを受けるという話です。すなわち、現在はプラン対象の子宮がなかったりする人は、どうしようもないので生殖医療を使っていないところ、プランで代理出産ができるようになると、これをやってみないといけないというプレッシャーに襲われ、排卵誘発剤や卵子採取という苦しい治療を受けることになる、という話です。インパクトについては、排卵誘発剤より卵子採取の苦しさがより重要だと思っていたのですが、排卵誘発剤の話は反論しやすいので反論を誘える(予選3試合目は相手がこれにはまり1分ほど時間を無駄遣いしてくれました)というディベート便宜的なところはあります。本当は心理的なプレッシャーのインパクトも言いたかったのですがよい資料が見つからず断念しています。
このDAは、後であげる、子を産んでも幸せにならないというケースアタックの話や、代理母がなかなか見つからないという話、養子Counterplanの競合性で出す、代理出産の存在が養子を選択しづらくさせるという話と絡めて伸ばしていくことを想定しているものです。つまり、代理出産は不妊女性が真に待ち望んでいるものではなく、しなければならない強制的な選択肢になると論じていきつつ、しかし代理母はなかなかおらず、他方で養子に行く道も否定されてしまうので、辛くかつ現実的に依頼が困難な代理出産という選択肢に縛り付けられていく、というストーリーを考えていました。ただ、こういう伸ばしになっていないのはご案内の通りです。

DAの2つ目は、自分で産まない代理出産では、障害児が生まれてしまうと引き取らないなどして大事にされない、という話です。この話は、障害などで不幸せになるから産むべきでないというのは、一定のカテゴリーの人間の出生を否定することになるのでよくない、という反論が来て、これで切られてしまっていたのですが、個人的にはそういう話ではないだろうと思っています。つまり、DAで言っているのは、自分で産んでいないということで無責任になってしまうということであって、そういう無責任な出産形態は認めるべきでないという話であり、生まれてこないほうがよいとかそういうことを言っているわけではありません。
この話は「出産を他人にさせる」という代理出産固有の問題であり、子の福祉のために自己決定が制約されるべきというケースの重要性への攻撃の根拠に位置づけられる予定でした。また、これは時間の問題であまり見込みがなかったのですが、本来はケースアタックの「産んでも幸せにならない」という話と関係する話で、心理的ケアでフォローされていない過大な子供願望による場合は完全な子供を求めるので障害に耐えられないという話もできるかなぁと思っていたところです。この話は、同じく自分で産んでいない養子の取り扱いと区別するために必要となってくる議論なのですが(こういう話がないと「じゃあ養子をとった人もその養子が障害児と分かったら虐待するのでは」と反論されてしまう)、そこまで議論するには現行フォーマットは時間が短すぎます。

Counterplanは、第三者配偶子を使った生殖医療の禁止(結果的に代理出産が禁止される。もっとも、代理出産だけ禁止でもよかったのではないかとは思います)と養子の促進というもの。最終的に、分厚い2conによって、実子でも満足するとか、代理出産を認めると養子による解決が低いものとみられるとか、施設で育てるより家庭で育てたほうが良いといった話が追加されていきます。
ただ、実際のところ、養子が幸せになるという話は、そこまで重要ではなく、おまけ的な位置づけではないかと思っています。少なくとも、養子に生じる利益は、生殖医療で考慮されるべき「子の福祉」ではありません(それこそ、アフリカに寄付するのも子の福祉なのか、という話です。)。この論題に即して純化するとすれば、代理出産という選択肢(生殖医療の拡大)を認めることで遺伝的つながりへのこだわりを強化させてしまい、子供がほしいという目的を解決するより簡便な選択である養子が見えにくくなるのと、さらに「実子へのこだわり」から苦しみを増す、という話にするのがよいのではないかと思っていました。

ケースアタックは、1NCの段階では、上記の狙いから、代理母があまり集まらないという話、子供ができても産めない自分は変わらず傷ついたままで救われないという話、かえって精神医学的フォローができなくなりよくないという話を出しています。
2NCでは、インパクトへの攻撃のほか、代理母が苦しむという話が追加されていますが、これは蛇足かなと思っています。ただまぁ、2NRでまとめやすいという判断なのでしょうから任せていたところではあります(結局機能していなかったとは思います)。

上記議論に対して、Affもいろいろと反論を尽くしてきたのですが、詳細は割愛します。もう少しCounterplanへの反論を2ACでしっかりやるべきだったのではないかとは思いますが、なかなかプレッシャーのある議論でした。

苦しいといわれていたNegですが、実際の政策判断としてどこまで説得的かどうかはともかく、上記のような感じで、それなりに整合性のあるストーリーと、それに基づく議論はできたのではないかな、とは思っています。とはいえそうではない筋で勝ってしまうというのがまたディベートの面白いところなわけですが、せっかくのアイディアなので、一応記しておく次第です。
前にどこかで(同じ論題の2010JDAの感想だったかな?)書いたと思いますが、個人的には、いろんな議論を関連付けて、ストーリー性のある議論を展開していくのが、格好いいディベートだと思っており、その方向に沿った議論は若干なりともできたかな、というところではあります。私はあまり貢献できませんでしたが…。

と、ほぼ自分の議論構想語りになってしまいましたが、JDA参戦記でした。
しかし、この大会でも思いましたが、近年は本当に大会のレベルが高く、苦しいシーズンでした。有力なチームがたくさん出てきているのと、それぞれが質の高い議論を作るための取り組み方を確立している感があります。ここでいう「質の高さ」は、エビデンスの質だったり、ストーリーの部分だったり、いろいろありますが、その根底には、ディベート経験はいうに及ばず、どういう議論が良い議論なのか、という物の見方についてのレベルが向上している感があります。逆に、そういうところでレベルが上がっていないと、せっかく準備してきているのに的外れな議論をやってしまったり、狙いのよくわからない議論を回していたりと、結果につながらないところが出てしまうように思います。

ではどうすれば物の見方がよくなるのか、また、そもそも何をもって物の見方がよいということになるのか、というのはなかなか言語化が難しいところなのですが、今後も考えていきたいところです。もちろん、自分のレベルアップも必要なわけですが。
第19回JDA秋季ディベート大会を終えて
少し間が空きましたが、去る11月12日、第19回JDA秋季ディベート大会に参戦してきました。結果は3勝ポイント足らずの第3位でした。決勝に行けなかったのは残念ですが、レベルの高い参加者の中でこのような成績を獲得できたのはうれしいことです。

今回私が組んでいただいたのは、ディベート甲子園で初出場3位と素晴らしい成績を収めた筑波大学附属駒場高等学校弁論部の3人組です。とある理由により久々にJDAに参戦しようと思い声をかけてみたら快諾いただいてチームを結成した次第で、あまりおっさんがでしゃばってもなと思っていながらも、やはり選手をやっていると血が騒ぎ、予定より多く口を出してしまったところは反省しています。ただ、皆さんもご存じのとおりディベートというのは1人では勝てない競技で、私が担当した1ARと2NC以外のパートは筑駒弁論部の皆さんが立派に果たしてくれました。私が担当パートの全試合でフルマークの点数を取っていれば、彼らをJDA決勝の舞台まで連れて行ってあげられたのですが、力及ばず残念でした。彼らであればいずれ自力でJDA決勝の舞台に上がることもできると思うので、その日を楽しみにしておくことにします。

今シーズンは某所からの弾薬を引き継いだ上でプレパしていたのですが、仕事をしながらリサーチや原稿作りを行うのは予想通り相当ヘビーで、社会人ディベーターとしてもコンスタントに実績を上げている方々には改めて頭の下がる思いでした。社会人ディベーターというとA氏が思い浮かぶところですが、近時は私の後輩にあたる方々が活躍しており、日本語ディベートシーンの最先端は彼らが担っているところです。私自身は最先端に立ったことがないわけですが、ディベートの指導も含めて、世代交代の感があります。特に今季JDA大会では、決勝戦でさらに下の世代のディベーターが素晴らしいスピーチをしており、非常に頼もしく感じました。練習試合や本試合でも、優れた大学生ディベーターがたくさん出てきており、今後が大変期待されるところです。

議論の感想も少し書いておくと、ディベート甲子園高校論題とほぼ同じ論題(プランの幅は広がっている)でしたが、議論の幅や深さは、当然ではあるもののJDA大会の方が水準が高くなっており、制度の根幹に根差した議論がある程度見られたのではないかと思っております。我々の議論で言うと、Affについてはいわゆる拒否型国民投票を念頭に置きつつ(筑駒メンバーのアイディアであり、DA対策の負担が減ることもあり採用)議論を尽くさず強行採決することに対する牽制・是正機構として国民投票を用意することで決定に正統性を付与するというケースを設けました。リサーチが至らずインパクトは煮詰まりきっていないのですが、何のために国民投票を導入するのかということはある程度具体的に提示できたのではないかと思います。Negについては、少数派の権利侵害につながりやすいというDAを主軸にしていたのですが、固有性の難しさに直面しつつシーズン中に議論を調整し、国民投票制度を導入することでこれを利用して勢力を伸ばそうとする政治団体による国民投票の濫用が起こるという方向性にシフトされていきました。マイノリティ攻撃がなぜ起こるのかというメカニズムをもっと深掘りするなどできた気はしますが、限られたシーズンの中ではそれなりの議論ができていたかなと思います。その完成度をより高めたのが、決勝のNegだったのかなと思います。
質の高い議論をしていく上では、リサーチの精度も重要であり、今季の上位チームは英語文献にも果敢にチャレンジして良質なエビデンスを取っていました。私も論文だけは集めていたものの読めていなかったので活用できていないのですが、今季論題では英語文献の実証研究を積み上げていくのが有効なアプローチだったと思いますので、これは反省点です。ただ、戦い方としては、証拠資料の質を上げるだけではなく、既存の資料をいかに組み合わせるか、どうやって相手の議論を上回っていることを説明していくかということも大事で、そのあたりの議論の出し方については、シーズン後半はそこそこスピーチできていた気もします。あとは、そのあたりをどうチーム全体の議論として展開していくかという意思疎通やブリーフづくりの問題になるわけで、あと何周か練習試合をしていればそこももっと煮詰まったかもしれません。

練習試合の話になったのでもう少し書いておくと、今季改めて重要だと思ったのは、練習試合後にジャッジや相手方を交えて突っ込んだ感想戦を行うことです。JDAでは試合後の判定協議の時間が短いこともあり、講評だけでなく、あり得る議論の展開についての議論や反省などをディスカッションします。ディベート甲子園では、どうしても勝ち負けが気になってしまうことや、今後の自分たちの議論がばれてしまうのを恐れてか(ほんとこれ意味ないですからね)、一方的に話を聞いて終わりになり、質問をするとしても試合後にジャッジに一方的に…ということになってしまいますが、時間のない大会では仕方ないとはいえ、練習試合では、もっと突っ込んだ感想戦をしてみてはと思います。
実際のところ、そういう感想戦をしっかり行う方が、楽しい上に、議論の向上も早まります。今季で言えば、私のチームでは、相手のコメントを受けて議論をいろいろと補充したりしていますし、自分たちが持っているほかの議論との関係でどういう展開があり得たか、構想として考えている議論について成立の見込みがありそうか、ということを問題提起して、議論構築の参考にしています。せっかくの練習試合を最大限に活用する上では、「その試合」だけではなく、そこから派生してどういうことができるのか、ということについても話し合う方がよいです。
今季は高校生とのチーム結成にチャレンジしたわけですが、そういうことをしようと思ったのも、彼らにそういうディベート文化に触れてほしいと思ったからです。現状のディベート甲子園もレベルは昔に比べてずっと高くなっていると思いますが、そこからさらに高みを目指すにあたっては、お互いに議論を高め合い、それを通じてもっと面白い議論をしていこうという雰囲気を作っていく必要があるのではないかなと考えていたりするので、今回のコラボ?がそのような動きの端緒になればと思っています。ツイッターとかで呟いてるくらいなら練習試合で疑問をぶつけろ、ということですね。

といったところで、議論の中身を詰めた感想でなく恐縮ですが、そんなことを思った次第です。次にまた大会に出る機会があるかどうかは分からないのですが(現実的には…)、今年のディベート甲子園やJDA大会のように、熱い選手と議論があれば、また暴れる機会もあるかもしれません。その時はどうぞよろしくお願いします。

さて、最後に告知です。今年の冬コミに有志が応募して枠をGetしたことから、同人誌を出すことになりました。これまで出していたところとは別のレーベル?で、よりディベートに純化したdope な同人誌が出来上がるはずです。
私の原稿はというと、純粋なディベート理論的な記事を書いてもよいのですが、それはブログで書いた方がよいだろうということで、ここで書けないテーマでやろうと思っております。気が付いたら人生の半分以上ディベートをやっていることになり、いろいろと香ばしいこともありましたので、ディベート経験のリアルな証言をまとめた原稿を書こうと思います。長編なので一部だけの掲載になると思いますが、頑張ることにします。なお、告知の煽り文を書こうと思ったところ、それすら掲載NGな気がしたので、内容は完成版を乞うご期待ということで。
JDA春大会、即興ディベート大会、関東春季大会等の雑感
どうもご無沙汰しております。例によって時間が取れておりませんでした。誰が待っているのかという話ですが。
いろいろとディベートイベントがあり、旬が過ぎたものもちらほらあるのですが、いろいろ刺激的なものもありましたので、簡単に書いておきます。速報性を考えるとツイッターとかを導入したほうがよいのかもしれませんが、文字数が少ないですからね・・・。

1.JDA春季大会決勝戦雑感
オリンピック返上論題という、率直に言ってバランスが狂いまくっている感のある論題でのJDA春季大会でジャッジをしてきました。論題として適切ではなかったように思われたことは今も変わらないのですが、決勝戦では不利と思われるAffが新機軸の議論で勝つという、なかなか面白いものを見せてもらいました。仕事の都合で決勝ジャッジを外してもらっていたのですが、割と後悔しています。

試合自体は後で音源の提供を受けて聞き直しております。
Aff(ディベート実験室の安藤・後藤チーム)のケースは、地球規模で考えてオリンピックの開催地を決めようという価値観を提示した上で、イスタンブールで行ったほうがよい、というメリットを立てるものでした。
冒頭のスピーチがやや構成が分かりにくかったのですが、この枠組みの根拠としては、①オリンピックは世界的イベント、②日本だけでなく世界のことも考えたほうがより教育的、③Affに判断枠組みを定立する資格がある、といったことがあがっていました。
①については、なるほどとは思うもののIOCの招致基準を超えてイスタンブールの経済発展などというメリットを考慮要素にしてよいのか疑問があります。②については、世界の影響を考えないのはよくないと思いますが、日本中心で考えることが教育的でないとか、世界の観点を「考えなければならない」ということまで言えるのか疑問です。③は苦しい議論で、筆者の私見からすれば判断枠組みはジャッジの専権ですし、そこまで考えないとしても、Affだけが枠組み定立の権利を有する理由は薄弱である上、タブララサ的に「何でもアリ」と考えることは不当なので(美人がいる方が勝ち、とかいう枠組みが出てきた際にそれで決めてよいのか?という問題)、いずれも必ずしも十分な根拠とは言えないと思いましたが、こういうチャレンジングな設定が見られてよかったなぁとは思います。正直、この論題で普通にケースを立てても相手がまともに準備していたら勝てないでしょうし、試合も全然つまらないと思いますので。

筆者としては、Affの主張も踏まえると、世界規模で考えてもいいがせいぜいIOCの観点で、もう一度招致選挙をやったらどうなるだろうかということで判断することでどうだろうと思いました。その上で、日本が招致選挙で原発問題でうそをついたという話は、現在コントトールされていないわけではなく招致の判断を覆すべき事情は現在ないし、イスタンブールの経済発展はIOC的に(おそらく)招致基準と関係なく、そうすると、招致基準で重要な治安の問題でイスラム国のテロが怖いので日本のままでよいのではないか、といったことで考えました。
Affとしては、基準をもっと現実的にIOC招致基準+イスタンブールが望んでいる、みたいな話にして、今選挙したらイスタンブールですよとか、東京オリンピックは騒動ありすぎでしょうとか、そういう話を盛り込んでいくとより面白かったのかもしれません。
Negは、Affの枠組みに真面目に付き合いすぎで、ここは枠組みの問題で「地球規模とか言っているがここで問題になっているのは東京が返上するかどうかで、一度招致した場所の責任は、いまさら難しいとか言って辞めることではなくてきちんと立派なオリンピックを開催することだ、IOCでもない東京が何勝手に招致をやりなおそうとしているのか、おこがましい」とか言ってやればよかったところです。そんなにイスタンブールがよければ2024年にやればいいのではないか、という話も面白かったかもしれません。

いずれにせよ、ディベーターとして刺激を受ける面白い試合でした。このような議論を生む土台となったのは、職業ディベーターの力だけではなくて、これまでのJDA大会で議論を尽くしてきた選手の方々が議論のレベルを底上げしてきたからだと思っております。かなり前にディベート実験室で飲み会があり、そこで職業ディベーターが「あと10年は俺を楽しませろ」みたいなことを言っていたのですが、私自身がそうできていないのは本当に申し訳なく思うものの、後の世代のディベーターがそれを立派に成し遂げていることには本当に頭が下がります。そして、こんなおっさんのようなことを書くほかない自分にはテンションが下がります。

なお、決勝戦の判定についてはあるジャッジが感想を書いています(こちら)。私とは異なる理由で判定が導かれていますが、こういう判定理由の開示はもっとあってよいと思います。

2.即興ディベート大会雑感
最近恒例になっている即興ディベート大会というものも開催されており、こちらもジャッジで伺いました。これも見ていていろいろ刺激があり、来年はサプリメントあたりで結構ですので是非出させていただきたいと思うところです。
なお、当日の論題はこちらで解説されています(予選だけ)。

この大会では、期せずして、論題からして怪しいプランが出ている試合にあたることになりました。
そのうち1つは、第3試合の、「日本は海外の危険地帯への渡航を禁止するべきである。是か非か」という論題で、Affがすべての外国への渡航を禁止していました。ADの解決性をつけるためだったそうですが、どうみてもDAがでかすぎて戦略的には全くよくないプランだったとは思います。それはさておき、この「鎖国」プランは、付帯事項で「違反者はパスポートの返納を行うものとする。」と書いてあることと整合しません。違反者がパスポートを返納するということは、違反しない場合パスポートは残ります。つまり、この論題は、パスポートを不要とするような鎖国プランは全く想定していないわけです。
もう1つは、決勝戦の「日本は臓器売買を合法化すべきである」というもので、Affは意表を突く「(牛の)生レバー販売解禁」プランを出してきました。生レバー禁止は悲しいので個人的にはAffに投票したかったのですが、この試合では、今生レバーの販売は禁止されているのか?という反論を取ってNegに入れています。ただ、Negが本当に指摘すべきだったのは、付帯事項で、「ここでいう臓器には血液、骨髄・・・などを含む」みたいなことが書いてあったことであり、このようなものが全部販売禁止されているのは人間だけではないか、という話から、論題で想定されているのは人間の臓器だ、ということを言うべきでした。あと、生レバーを「臓器」とは言わない、あれは「臓物」だ、といった話も分かりやすかったかもしれませんね。

ここから導き出されるのは、Topicalityをやるには、まずは論題を、付帯事項含めてきちんと読みましょう、ということです。法律学を学ぶにあたって条文から入れと言いますが、ディベートも同じです。ディベート理論的な話の前に、まず、この論題は何を指しているんでしょうか、ということをきちんと解釈することが必要です。そういうことを実感できるよい機会だったと思います。

3.NADE関東春季大会雑感
と、付帯事項をよく読めという話をしたところで、本題?である今季高校論題の話にスムーズに入っていこうと思います。

今季の論題は、中学が地方自治体首長の三選禁止、高校が国民投票制度の導入です。
中学論題はまた機会があれば書きますが、高校論題の試合をいくつか見た感想として、Affの議論が、国民投票の結果どうなるのかというところを十分深めきれていないということを感じました。ここでいう「国民投票の結果」は、国民投票で可決されるとしてどうなるのか、ということだけでなく、そもそも国民投票にかけられるという行為自体が何を生むのか、ということも入ります。たとえば、原発について国民投票で是非を問うことは、結果的に原発廃止にならないとしても、国民投票を契機に議論が巻き起こることで、エネルギー政策に影響を与えるはずですし、それは間接的に選挙結果やマニフェストにも影響を与え得るでしょう。なんなら、国民投票要件を満たさない(したがって投票は行われない)としても、それまでの投票実施に向けた動き自体が意味を持つこともあり得ます。そういった観点の考察がこれから深まっていくことが期待されます。

ここで、Affとしては、国民投票が実施されること自体に価値があるのだと考えることから、国民投票の結果は「その法律を作る」ことではなく「その法律を審議するよう求める」でもよいのではないか、と考えたくなるでしょう。現に、現在地方自治で導入されている直接請求の制度は、条例の改廃を付議することだけを認めています(地方自治法74条3項)。
しかし、NADEの論題解説(こちら)は、「今回の論題は法的拘束力をもつ国民投票制度についてのものですので、諮問型ではないということに注意をしてください。」として、このような付議にとどまるプランは認められないとの見解を取っているようです。

ここで皆さまが留意すべきことは、この論題解説は論題の解釈や議論の範囲を制限するものではないということです(NADEウェブサイト「論題に関連した補足 ― 付帯文および論題解説の位置づけ ―」)。皆さまは、論題をよく読んで、どんなプランが出せるのかを考えなければなりません。
まず、付帯文第1項は「ここでいう国民投票制度とは、18歳以上の有権者の署名により、法律の制定、改正、廃止について請求する制度とする。」としています。これは、地方自治法の直接制度に関する規定が「条例の制定又は改廃の請求をすることができる。 」(地方自治法74条1項)としていることと対応しており、諮問型であることと何ら矛盾しません。
問題は、付帯文第2項です。そこでは、「投票の結果は法的拘束力を持つものとする。」と書いていますが、ここでいう「投票の結果」とは何か、「法的拘束力」は何について生じるのか、指定はありません。「投票の結果」は、第1項の「法律の制定、制定、改正、廃止について請求」するということで、国会で審議してもらいたいぞ、ということを指すという読み方は十分可能です。この場合、法的拘束力とは、国会に必ず付議される、ということを指すことになります(地方自治法74条3項のように付議義務を定める、ということになります。この規定も法的拘束力を持っているということができます)。
むしろ、論題解説のように、国民投票が直ちに「立法」につながるという読み方は、憲法41条が国会を唯一の立法機関としていることに反しています。もちろん、論題それ自身が憲法改正を当然所期しているということはできるし、もし憲法改正を不可避とする論題であるとすれば、そう解すべきなのですが、憲法に反しない解釈と憲法に反する解釈の両方がある場合、前者がより自然であるということもまた言えるのではないでしょうか。
さらに、肯否のバランスや議論の充実度という観点からしても、諮問型のプランも許容することには何の問題もないと思いますし、むしろそちらのほうが議論の幅が広がり、また、国民投票を通じて広く議論するという過程の意義を論じやすくなる点でも望ましいと言えそうです。
※ここの箇所を「弁護士ぐるめ(の本名)」で引用するのはやめてくださいね、念のため。本当に引用してほしかったら引用用の記事を別途書き起こします(笑)

[4/5追記:再度付帯事項を読み直したところ、付帯文第1項で、署名により国民投票にかけるという建て付けとなっており、投票を実施するためのアクションと、それに基づく投票の2つが区別されていることから、後者のアクションは前者と異なり具体的な立法を求める内容であり、これに拘束力がつくのだ、という読み方も可能かなと思いました。ただ、国会への付議というのもそれ自体国民投票にかけてしかるべき大きな話ではありますし、付帯事項の文言上、付議を求める国民投票のために署名を集めることも否定されていないと思いますので(仮にそういう趣旨だとしたら文言の規定が甘いと言わざるを得ない)、筆者の結論は変わりません。]

以上の理由で、筆者としては、いわゆる諮問型のプランも、今季高校論題では許容されていると解すべきであると考えています。これに対して、諮問型は許されないのだと考える余地もあるとは思いますが、個人的にはそのような見解には与しません(なので、私は、ジャッジをする際に、説得的な説明がないと、諮問型プランを排除することはしません。論題解説とか言われても完全に無視します。NADEがそうしろと言っているわけですし)。そのことが、今季論題をもっと面白くすると信じているからです。
もちろん、立法を強制する結果に法的拘束力をつけるプランにも意義があると思いますし、それを選ぶことではじめて論じられる問題もあるでしょう。そこは選手の皆様が頭を振り絞るべきところです。

4.ある炎上風景に関する雑感
これは完全におまけなのですが、某ツイッターシーンにて、近時のJDA大会の質を云々するなどしたツイートに対して種々反論があり、いわゆる炎上が起こったという事件がありました。この問題については、某打ち上げの場で群衆(筆者含む)が過度に盛り上がり、普段は平穏静粛?な集団が、昂奮、激昂の渦中に巻きこまれ、勢いの赴くところ打ち上げ秩序を蹂躪し、如何ともし得ないような事態に発展してしまったことに対する反省の必要というものはあり、その点は筆者も猛省しております。

しかしながら、この炎上事件の本質は、議論批評に関するあり方の問題だと思いますので、敢えて対象となる議論は指摘しない上で、それについては一応一言しておきます。
問題となった発言は、中高生のディベーターに対してある程度影響力を持った方のものでした。個人的にも、同人がディベート普及や指導に力を入れており、熱心なディベート愛好者であることはよく存じているのですが、当該発言は、事実に即さない上、対象の大会に出ている選手にとっては看過できない内容だったと言わざるを得ないものです。
おそらく、ディベートにおいて何に重きを置くかという問題について、見解の相違があることから、炎上に至るような発言がなされたのだと思いますが、仮にそうであったとしても、具体的に何が問題で、それをどうすべきなのか、ということについて、きちんと明示したうえで議論するというのが、ディベーターとしてのルールであろうと思います。

当ブログは、ずいぶん多くの議論を批評しており、後で読み返してもこれはちょっと書きすぎたかな、というくらい厳しいコメントをつけていたりもするのですが、筆者としては、それらの批評にはきちんと根拠を付し、なぜそう思うのかということを、(自分ができるのかどうかは棚上げしつつ)論じています。そうすることが、単に批評で相手をくさすのではなく、議論の内容をいくらかでも向上することにつながるのではないかと考えているからです。
これは、ディベートのジャッジとしても同様です。問題点を指摘する際には、改善可能性があることを示さなくてはならないわけであって、ジャッジは偉いのだ、ということを示すための独善的批評や、自らの価値観を前提とした反証不可能な言説は、殊にディベートという競技の場では、退けられるべきものと考えます。そのような姿勢は、ディベートという競技がディベートである以上尊重されなければならない、自由に、楽しく議論するという理念に抵触するからです。

本件はたまたま影響力のある方の発言だったので炎上の様相を呈しましたが、(選手の方々はいろいろ思うでしょうが)一ジャッジとしては、今後このような不用意な発言なく、これまでどおりディベートの普及活動が行われていくことが一番だと思っております。しかしながら、より根本的に言えば、ディベートの議論批評文化というものをどう考えていくのかということが問題になっているわけでして、そのあたりについては、関係者各位ともに、よく考える必要はあるのだと思います。もちろん、この課題は、私を含めて、今回火をつけた側に対しても等しく向けられているものです。具体的には、ディベートの教育的効果という観点から、よりライトな層のディベートをどうやって指導し、記述していくかという点については、正直顕著な弱みがあるところで、それをここでやる必要はない(し求められてもいない)とは思うものの、どこかで考えていく必要はあるのかと思っております。
copyright © 2005 愚留米の入院日記 all rights reserved.
Powered by FC2ブログ.