今回言及する記事は、「女性ディベーターの少なさは何を引き起こすか。私たちに何ができるか」というものです。記事が長いことに定評のある当ブログと比べてもかなり長大な記事ですが、ご一読をお薦めします。同記事の論旨のうち、ディベート界に女性が少ないという分析はその通りだと思いますし、その具体的弊害についてはインタビューの内容等子細に見ると率直に言ってよく分からないところもあるものの、女性が少ないことで女性にとって居心地が悪いということはそうでしょうし、女性が増えること自体はよいことだと思います。
他方で、上記記事の主題とは少し外れるところが、ジャッジングに属性の影響が生じ得ること及びそれを前提にして「ジャッジの多様性」に重きを置く考え方については、看過すべきでない問題があると考えますので、以下で簡単にコメントしておくことにします。その上で、ディベートコミュニティに女性を増やす方策について、若干の分析を加えることにします。
ジャッジングの「正しさ」について
まず、前提として、ジャッジングの「正しさ」について論じることにします。
上記の記事は次のように述べます。
なるほど確かにあまりにも議論の評価に論理的な一貫性がなく支離滅裂な判定に対してであれば、我々は「それは考え直したほうがいいのではないか」と言う権利を持っているでしょう。しかし、試合の議論はどこまでいっても最後はジャッジの価値観で判定されるわけです。微妙な試合になればなるほどそうだということは、多くのディベーターが知っていることでしょう。そうなった時に、試合中の材料同士で論理的整合性がとれているのであれば、どんなジャッジングも間違いではないはずです。
一つの正しいジャッジングなど存在するわけがありません。ホームレス経験をした人と一流企業に務め続けている人とが同じジャッジングをするでしょうか。戦地から帰ってきた人と戦後の日本で戦争を経験しないまま暮らし続けている人とが同じジャッジングをするでしょうか。
一つの正しいジャッジングというものが存在しないことはその通りだと思いますし、「試合中の材料同士で論理的整合性がとれているのであれば、どんなジャッジングも間違いではない」というのも、前提が十分かどうか疑義がないではないですが、概ね首肯できます。
しかしながら、第一に、この見解も認めるとおり、正しくないジャッジングというものは存在します。正しいか正しくないかをどう区別するかは容易でないですし、主観によっても左右されるところですが、一言であれば「合理的か否か」が基準となるでしょう。
第二に、これがより重要なことですが、間違いでない(=「正しい」、とここでは考えましょう)ジャッジの中にも、よくできているものと、そうでないものといった形で、質の差を観念することができます。正しさには幅がある、ということです。これは、判定や講評を何度も聞いているディベーター諸氏であれば経験的に了解可能な命題ではないでしょうか(ちなみに、裁判所の判決も明らかにそうです。)。ここで「より正しい」「より質が高い」というものをどう順序付けるかはこれまた難しく、個性も絡むのでそもそも一意の順位付けは不可能かもしれませんが、例えば、より深い分析を与えているとか、判断が分かれ得る点について反対の見解にも配慮できているとかいったことが挙げられるでしょうし、講評のプレゼンまで考慮すれば、教育的なコメントの多寡や言葉遣いといったものも入ってくるでしょう。
ジャッジの多様性とは何か、そこに属性を考慮すべきなのか
さて、上記の記事は、私の過去の記事が「一旦ジャッジの属性を問題として公平性や中立性を論じ始めてしまえば、『正しい判断を期待できるジャッジ』は観念できなくなります」と指摘していることについて、以下のように述べます。
先ほど引用した部分にはこんな記述が含まれていましたが、私から言わせてみれば「正しい判断を期待できるジャッジ」なんてそもそも奇妙なアイデアです。そんなものはハナから観念できないでしょう。そもそも「判断」などというものに正しいも誤りもないのです。
そして、だからこそジャッジの多様性は確保されていないといけないのです。ジャッジが自分の意思で中立を保つ必要があることは否定しません。それだって大切なことです。そりゃそうです。でも究極的には正しさなんてどこにも存在しないのです。だから、「全体」として「多様性」を保つ努力も、「個人」として「中立」を保つ努力も、常にどちらもやっていかないといけないのです。
上記の言辞にはいくつかの論点があるので、個別に見ていきましょう。
まず、「そもそも『判断』などというものに正しいも誤りもない」「究極的には正しさなんてどこにも存在しない」という点について。この点については、先に述べたとおり、正しいか正しくないかという問題はあるし(上記記事でもそのことは了解されていたように思うのですが…)、正しさにも幅があると考えるべきです。判断の正しさに関する思考を放棄するのであれば、ジャッジング自体不要で、コイントスか何かで判断すればよいはずです。女性ジャッジを揃えるまでのこともありません。分析ないし判断の正しさや質の概念を放棄することは、少なくとも、判断を生業とする職責にある者――ディベートで言えばジャッジであり、実社会であれば裁判官やコンサルタント等がそうでしょう――にとって許されないことであり、判断を受ける側としても、そのようなことは望まないでしょう。
続いて、上記記事は、上述のとおり判断の正しさという概念を否定する「誤った」命題から「ジャッジの多様性は確保されていないといけない」と主張します。これは、個々の判断の「正しさ」に代わって、「多様性」がジャッジングの正統性を基礎づけるものとして位置付けようとするものと思われます。
これに対しては、そこで言う「多様性」とは何を指すのか、ということが不明だということがまず指摘されなければなりません。人間の属性としては様々なものが考えられます。上記記事が主題とする男女(性自認によるものも含めれば2択ではありません)のほか、年齢、職業、家族構成、所得、人種、国籍、居住地、学歴、ディベート経験の有無、スヌーピー好きか否か…。いくらでも要素を考えることができます。この全てで多様性を確保することができるのでしょうか。あるいは、ジャッジの正統性を基礎づける上でヨリ重要な属性は特定可能なのでしょうか。男性か女性かという違いが、職業や学歴の相違と比べてジャッジングの内容ないしその正統性に対して寄与するところが大きいということはどのような根拠によって言えるのでしょうか。それが明らかでないのに、単に多様性と言ってみたところで、何の意味もありません。
とはいえ、個々の属性がジャッジングの判断に何らかの影響を与える可能性は現実的にはあるでしょう。しかし、それを理由としてジャッジの多様性を肯定すべきと言えるかについてはなお多くの疑問があります。第一に、属性による影響は本当に正統性を毀損するレベルのものなのでしょうか。そもそも属性による判断によって具体的に判定にどのような問題が出るのか明らかでありません(上記記事の中のアンケートである、男性のジャッジが深夜営業のコンビニが女性の逃げ場になっているという議論を取らないのではないかという懸念は、実際はそれなりに取られていた議論ですし、そこに判定の男女差が出るという認識は率直に言って的外れだと思います。)。そうである以上、属性の影響は、個人の個性によって生じる「正しさの幅」の範囲に収まるものと考えるべきであり、多様性をもって是正すべき偏向性があるのか疑問があります。第二に、個々の属性にジャッジングの正統性を基礎づける何らかの「寄与」を期待することは、その属性が特定の判断を帰結するという歪んだ期待を包摂しているというべきです。分かりやすく言えば、ジャッジの多様性を認めるために男女比を揃えるということは、それ自体が、男性ジャッジに「男らしさ」を、女性ジャッジに「女らしさ」を期待しているということに他なりません。このことは、多様性を確保するためと言いつつ、かえってジャッジを属性に縛り付ける効果を持つことになります。
ここで言う「属性」をジェンダー以外に拡張すると、多様性を確保すべきという考え方の問題性はさらに分かりやすくなります。国際問題を論じる場合には、日本人かそうでないかということは判断に有意な影響を与え得る要素になるでしょう(実際のジャッジはなるべくそうならないよう努めるのですが)。労働問題であれば所得の有無が問題になるでしょう。哲学的な議論を理解し、採用するかどうかは、学歴によって左右されるところが少なくないと思われます。医療関係の論題では障がいの有無が論題に関係する経験に直結することがあります。それでは、こういった問題を是正するために、ジャッジの「多様性」を確保すべきでしょうか。その際に、日本人にはより日本の国益を重視することを、低所得労働者には失業のインパクトを大きく見積もることを、大卒未満の人には難しい議論を採用しないことを、障がいを有する人には新たな障がいの発生をデメリットとして捉えないことを期待するのでしょうか。そのような期待を理由にジャッジを依頼された「属性の持ち主」の気持ちは考えなくてよいのでしょうか。
結果的に様々な個性の持ち主がジャッジをして、その結果色々な判断やフィードバックが生じる(私は、講評の場では、判定とは別であることを明示しつつ、教育的観点から、自身の属性や価値観に基づくコメントを行うことは原則として許されると考えています。)ことはよいことですが、それは目的として設定されるべきではありません。そのこと自体が、ある特定の幅の狭い「正しさ」を前提にしてしまっている点で、排他的かつ差別的な行いだからです。
以上からして、属性による多様性の確保という考え方が取り得ないものであることは十分論証できたと思いますが、以下では視点を変えて、上記記事が問題とするジェンダーの問題(単純化のため男女として括ります)を解決するという観点に絞って、もう少し深掘りしていきましょう。
クオータ制のように、格差是正の観点から女性比率を高めるため一定の女性枠を設けるという発想は、①女性のエンパワーメントと、②政治において「女性」の立場からの意見を反映させる必要がある、という2点から基礎づけることができます。議会という場では、①だけでなく②の観点からも、一定比率の女性を受け入れるということはそれなりに理由のあるものだと考えられそうです。
他方で、ディベートジャッジにおいて上記①②の観点がどこまで求められるか、考えてみましょう。最も重要な、役割の観点から多様性が望ましいと言えるか(②の観点)の問題は、上記で述べたとおり、ジャッジングに「男性であること」「女性であること」を反映させることを期待すべきでないという話や、そもそもジャッジングの正しさ(幅のあるものです。)は属性とは別にそれぞれのジャッジが信ずべき合理性によって規律されるものであり、属性の考慮は不要であるし、特に性別という属性だけが特別扱いされるべき理由もない、ということが指摘できます。ディベートのジャッジは合議制ですらなく(パーラのBPスタイルは順位を合議で出すみたいですが)、個々の見解や知識を総合するといった要素も期待されておらず、そこで出される判断の公正性は「様々な意見のぶつかり合いの結果」ではなく「各ジャッジが公正かつ合理的であるように判断した結果の総和」であり、各ジャッジが出す判断の正しさの幅から票にばらつきは出るとしても、そのばらつきの中に属性の影響まで期待されているということはないはずです。むしろ、そのようなことを期待すること自体、失礼なことです(男性だからこの議論取らないよなーとか、女性だからこう判断するよな、みたいなことは言わないし、それをよろしくないと思うのが一般的感覚ではないでしょうか?)。
①の要素については、もし「ジャッジに女性が多いことで女性が参加しやすい」という意味があるのだとすれば政策的に何らかの考慮はあり得るのかもしれませんが(そのような配慮で入れました、といって当該ジャッジは良い気分がしないでしょうが…)、そもそも、ジャッジを担当することが「エンパワーメント」の帰結、という考え方自体、一考を要するところでしょう。国会議員や取締役は一般的に言って「偉い」立場でしょうが、ディベートにおけるジャッジがそのような意味で「偉い」のか、あるいは「偉くあるべき」かというと、そうではないと思います。もちろん、ジャッジがある種のディベート経験の豊富さ等で選ばれていることは事実であり、そこに何らかの価値を感じている人もいるのかもしれませんし、そういった事情等によりジャッジをしたいのにできていない女性が多いという事実があれば是正を検討する必要はありますが、ジャッジに女性を増やせば女性がエンパワーメントされる、というのは、ちょっとずれているように思います。
したがって、私は、「『全体』として『多様性』を保つ努力」は不要であると考えます。さらに言えば、そのような努力によって望ましいジャッジングの実現は不可能であり、むしろ有害ですらあります。判定に影響し得る属性全部の多様性は現実的な審理体の規模に照らして確保しようがないし、また、個々の個性を超えた属性の影響というものが想起できない以上、確保する必要もないでしょう。そして何より、多様性を保つ「努力」の結果、個々のジャッジに属性に即した判断を期待することは、中立公正であるべきというジャッジの任務に反するのみならず、ジャッジに特定の価値観への従属を強い、あるいは示唆することにより、当該ジャッジを傷つけることにすらなりかねません。
現在でも、ジャッジの個性は存在します。あの人はこういう議論は嫌うよね、とか、この手の議論はあの人の好みだよね、ということも話題になることがあります。しかし、それは「あの人がXXだから」というその人の属性と結び付けられることは私の知る限りないですし、あってはならないでしょう。我々は、ジャッジの個性を、属性という色眼鏡を通さず尊重すべきです。もちろん、ジャッジプール、もっと言えばディベートコミュニティの規模が拡大することで、さらに個性的な判断者が増え、より豊かなディベート実践が実現するはずです。その意味で、上記記事の趣旨には全く異論ないところですが、属性の問題をジャッジの多様性や公平性に結び付けることは、上記記事の論旨にとって不必要であるばかりか、望ましくない帰結を生じさせるものと言えましょう。
ディベートコミュニティの多様性実現に向けた課題
以上のとおり、ジャッジに特定の属性の人を増やそうということは問題だと思いますが、とはいえ私も、現状のジャッジプールが理想的だと思っているわけではありません。昔に比べるとよくなってはいるのですが、若手のジャッジがさらに増えることが持続的なコミュニティの発展にとって必要なことであり、比較的女性の多いスタッフ層がジャッジにも興味を持ってくれれば、結果的にジャッジに占める女性比率は増大し、女性にとって居心地のよい状況にはなると思います。単純に言って、ジャッジプールが大きくなればそれだけより優良なジャッジが増えることが期待できますから、ジェンダーの問題を度外視しても、新しい層がジャッジを経験することは望ましいことです。
ただ、それを実現するための主因は、ジャッジプールに女性が少ないということではないでしょう。むしろ問題になっているのは、ジャッジが難しい、大変だ、という認識だと思います。もちろん、ジャッジが簡単かというと、良いジャッジをすることを目指せば色々と考えるべきことはあるわけですが、おそらく現状感じられている「難しさ」は、レベルが向上した選手に対して納得のいく判定を言うことができるのか、判定に対して年長の人から批判を受けたりしないか(なんちゃら日記とかいうブログ等で…)、といったことなのではないかと推察します。
*私なりには対象や言葉遣いに気を遣っているのですが…。
それに対する解決性のあるプランはなかなか難しいのですが(当ブログの閉鎖というのはご勘弁ください)、ジャッジを気軽に練習する機会を増やす、というのは一つの方法かもしれません。さらに言えば、ジャッジをするまでいかなくても、試合を見てどう思う、という観戦の文化を広げることが、結果的に、ジャッジもやってみようか、ということにつながるかもしれません。これは、スタッフをやってみようということにも当然つながり得るでしょう。
男女に限らず、現在のディベートコミュニティ(とりわけ調査型)が煮詰まりすぎていることによる近づきにくさは否めないところですので、まずはそこから変えていく、ということが必要なのではないかということを思った次第です。
投稿が止まっていた間に、オンラインでのディベート大会も開催され、色々と興味深い議論に接することもあったのですが、今回は、直近の第23回JDA秋季大会に触発された内容として大きく3点書かせていただくことにします。その上で、同大会でも話題になったクリティークについてさらに雑感を書きたいのですが、3点だけで十分長くなったのでそれは次回に回します。
1.Counterplanの効果的活用方法
第23回JDA秋季大会(国会クオータ制導入論題)の決勝戦は、STARクラブA(肯定側)とシュラク隊(否定側)が戦い、1-4でNegが勝利しました。私も決勝ジャッジとして議論を拝聴しましたが、大変レベルの高い試合だったと思います。
特に興味深かったのは、否定側が回していたCounterplanです。否定側は、女性議員の増加という目的自体は肯定しつつ、人材プールの不足や性急な増加による反発を考えると、ゆっくり増やしていくほうがよいという立場を取るため、直接女性議員枠を指定するのではなく、政党助成金減額のペナルティを用いて各政党の候補者レベルでの男女同数を促す政策を提案しました。その中で、Counterplanの方が望ましいことを示す理由として、女性議員不足の問題は(ゆっくり)解決できることと、徐々に増やすCounterplanの世界における状況を固有性としつつ、性急な増加で反発が生じるというデメリットを提示していました。デメリットの説明については、Counterplanの要件を一通り述べた後で、「Counterplanの世界と比べたPlanの問題点」という説明の上でデメリットを述べるとより分かりやすかったように思いますが、いずれにせよ現実的かつ戦略的な良い議論だと感じました。
いわゆるCounterplanの3要件との関係で、上記のCounterplanの特徴を述べると、競合性を「肯定側のPlanの結果を任意に実現させる政策」であることで基礎づけているという点にあります。
よく、肯定側のPlanより小さいプランを小幅修正(Minor Repair)として提示することがありますが、多くの場合、肯定側のPlanとは別の観点から問題を解決しようとするもので、そのため問題を解決しきれないということが多い(そもそも問題を削る狙いでしかない)ように思われます。これに対して、今回の決勝のCounterplanは、物理的に両立不能とまでは言えないものの、共通の目的を「強制」ではなく「任意」に実現することを促す(が、全く同じアクションを取らせようとする、行政指導Counterplanのような便宜的なものではない)政策であり、肯定側のPlanと同時採択することが現実的に考えられないという形で競合性を立証しています。これは、同時採択可能であっても純利益の観点で同時採択しないほうが良いという説明でもなく、どちらかというと、理念的に両立しないという切り口の説明(Philosophical competition)と言えます。
なお、今回のCounterplanの競合性を上記のように正しく位置付けると、議論の説明方法も変わってきそうです。具体的には、PlanとCounterplanの違いは理念の点だということになりますので(否定側も正しく「ファストトラック」と「インクリメンタル」の違いだと議論しています。)、優位性の議論は「どちらの理念がより良いか」という話になり、それぞれの理念で違ってくるところ――今回のCounterplanであれば女性議員増加の数や速度、それによる効果(政策で新たに選ばれる女性議員の質など)、政策への反発の大きさetc.――を争点として論じていくという説明方法になるものと考えられます。そうすると、否定側としては、単にCaseの解決性を叩くということではなく、Counterplanと比べてどちらがよりよく問題を解決するか、という観点からの反論をする、ということになります(ただ、こういう視点で反論するときに、どこにフローを取らせるか、というのは難しい問題ではあります。結局、フローの複数の部分を同時に見てもらう、というやり方は避けがたいところですが、どういう観点の議論なのかというラベルを書き取らせることで見比べてもらいやすくする、といったことは考えられるかもしれません。)。
2.ディベート及びディベートジャッジの価値中立性について
今季JDA論題はジェンダーギャップの解消を主眼としたものでしたが、(引用は控えますが)そのような論題で男性ばかりがジャッジをすることはどうなのか、といった問題提起、というか揶揄をする言説がありました。
[2020/11/3 10時45分追記:上記指摘が試合中の某Kritikを指すとの誤解が見られたことから、出典は伏せたうえで問題の言説を引用すると「クオータ制のジャッジが男性ばかりって『かながわ女性の活躍活動団』を思い出すわ」というものです。私が練習試合で接した、男性優位のディベートコミュニティであることを問題とするKritikは、個々の男性ジャッジの振る舞いを問題としていましたが、論題との関係で特定の属性が問題になるというところまでは述べておらず、また、揶揄的な内容ではありませんでした(とはいえ、下記で述べるような、属性に着目した議論としての問題点は有していると思います。これは次回触れる予定です)。]
一般的に、ジェンダーギャップ解消だと言いつつ、その推進責任者が全員男性であるということに違和感が生じるということ自体は、特に否定するつもりはありません。しかしながら、ジェンダーギャップ解消を主眼とする論題のディベートジャッジのほとんどが男性である――一般化すれば「差別是正を主眼とする論題のディベートジャッジのほとんどがマジョリティである」――ことを問題とする言説には、無視できない2つの問題があると考えます。
上記言説に存する第一の問題は、ジャッジの属性に判定との関係で特別な意味を付与することで、不当にジャッジないし判定の価値を毀損してしまうということです。
上記言説は、「ジャッジが男性であるとジェンダーギャップ解消にかかる問題を正しく判断できないのではないか」という疑問を含むものと解さざるを得ないでしょう。しかし、そのような主張は全く自明ではありません。少なくとも、先の言説の合理性は「ジャッジが女性であるとジェンダーギャップ解消にかかる問題を正しく判断できないのではないか」という言説と同レベルであるように思われます(両方とも疑わしい、ということです)。
もしかして、ジェンダーに限らず、ジャッジの何らかの属性が判定に影響を与え得る、それも特定の論題類型について偏りが比較的強く出る、という事実自体は存在するのかもしれません。しかしながら、競技ディベートにおけるジャッジの任務は、自己の判定を合理的に理由づける義務を負っており、そのため、自身や選手の属性といった議論の客観的価値と無関係な要素を捨象して判断を下す必要があります。本当にそのようなことができるかどうかはともかく、そう努めなければならないというのがディベートジャッジの職業倫理です。かかる職業倫理がある以上、違反が予想される特別な事情(当該ジャッジの過去の不合理な判定や、論題との関係で特に公正性を疑わしめる発言の存在等)を除き、属性にかかわらずジャッジの判定は公正妥当なものであると信じて然るべきということになります(そういう信頼を受けているという前提にあってはじめて、ジャッジも試合に向き合えます。)。
こう述べると、「それでは出身校/地区のチームを忌避するような扱いも必要ないのではないか」という疑問が生じるかもしれません。実際には、十分成熟したジャッジであれば個人的関わりによって判定に影響が出ることはない――厳しく見てしまう可能性はあるかもしれません――と思いますが、このような忌避の扱い自体は、第三者から見たときに公平に見えるかという観点から了解可能です。ここでの問題は、個人的関わりによって「判定を誤り得る」ことではなく、「判定に手心を加える可能性がある(そのような疑いを持たれる」ということです。換言すれば、選手との個人的関わりを理由とする忌避は、議論と関係ない個人的心情で判定が影響されるのではないかという、ジャッジとしての職務の公正性に疑念を生じさせ得る事情であることから正当化される余地があります。
これに対して、論題と関係するジャッジの属性を一般的に問題とすることを何らかの理由で正当化することは適切ではありません。なぜなら、ジャッジの個性(思想信条)ですらない「属性」が議論の内容に関係して判定を左右してしまうという想定は、当該属性によって一定の判断傾向が必然的に導かれるという誤った理解を前提にしているからです。また、上述した「個人的関わり」の忌避との対比で言えば、属性を問題とすることは、ジャッジが不正を働く可能性への疑念ではなく、ジャッジが真摯に判断しようとしてもなお誤りがあるという、判断内容や能力に対する疑念に踏み込んでジャッジの判定の価値を切り下げることであり、選手の属性によって議論評価を変えるのと同様、許されるべきでないということができます。
加えて、一旦ジャッジの属性を問題として公平性や中立性を論じ始めてしまえば、「正しい判断を期待できるジャッジ」は観念できなくなります。男性ジャッジが偏っているとすれば、女性ジャッジもまた偏っているのではないでしょうか。LGBTQのジャッジであっても同じです。そうではなく特定の属性だけが誤っているのだ、という見方は、それ自体差別的ですし、後で第二の問題として述べるとおり、そのような特権的判断を誰が行い得るのかという根本的な問題があります。
上記言説に存する第二の問題は、特定の価値観を称揚しようとしていることです。
「ジャッジが男性であるとジェンダーギャップ解消にかかる問題を正しく判断できないのではないか」という疑問を認めることは、「ジャッジが経営者だと解雇規制の是非にかかる問題を正しく判断できないのではないか」「ジャッジが法律家でない/あると裁判員制度の是非にかかる問題を正しく判断できないのではないか」「ジャッジが支障なく子を儲けられた人だと代理出産の是非にかかる問題を正しく判断できないのではないか」といった疑問も認めてよいということにつながります。しかし、このようなことまで考えるディベーターはおそらくいないでしょう(もっとも、職業等が絡む場合にジャッジ側が忌避することはあり得ますし、現にそういう事態はありますが、それは「正しく判断できない」ことではなく、「そう思われてしまう」ことを恐れたり、立場上憚られるという理由によるものと理解しています。)。
そうであれば何故「ジェンダー問題における男性性」だけが特別視されるのでしょうか。ジェンダー問題においては男性が自明に悪なのでしょうか。マジョリティは須らくマイノリティに対して無理解だというのでしょうか。上記言説は、無自覚にでもそのような理解を前提にしてしまっています。そのような観念は、ディベートコミュニティにおけるジェンダーギャップ(もしあるとして)の解消にとって有害であるというべきでしょう。
しかし、本稿の目的は上記言説の批判そのものにはないので、より一般化して考えます。特定の属性を有することがディベートジャッジにとって望ましくない、あるいは望ましいものだという主張は、当該属性に仮託した、あるいはそれが表象する何らかの価値観が望ましいものであるということを当然前提とするものです。であるのみならず、かかる主張は、それがディベートの試合の中で尊重され、もっと言えばディベートに取り組んだ参加者によって肯定されるべきであるという主張を含意しています。クリティークのインパクトで言われる話と共通するところがあると思います(クリティークとの関連性については別稿で改めて論じます)。
このように、ディベート活動で特定の「正しい」価値観を前提とし、これを称揚しようとする考え方は、ディベートの価値中立性を侵し、ディベートに名を借りた価値観の押しつけにつながるものとして、強く忌避されるべきものです。ディベート実践を通じて獲得する果実の豊かさは、それを自由な議論を通じて自身で発見することによって得られるものであって、最初から特定の価値観を前提としてその受容を期待する態度では、多様な価値観に触れ、批判的に吟味する中で各自がそれぞれの答えを見つけるというディベートの教育効果は期待できませんし、何より面白さが失われます。そして、実際にも、日本語ディベート業界においては、歴史教育にディベートを用いるという形で、特定の価値観を称揚しようとした前例があります。
これは、称揚する価値観が「正しい」ことによって正当化されるものではありません。そもそも、絶対に正しい価値観があるかどうか疑わしいですし、唯一無二とは言えないまでも妥当そうな価値観であるとしても、その「妥当さ」を誰が決められるのでしょうか。また、現在妥当そうだとして未来永劫そうだと誰が保証できるのでしょうか。そういった不確かな正しさを無批判に受け入れるのではなく、批判的に検討することでより優れた議論を目指すというのが、ディベートの所期するところであるはずです(重要なことは、ジャッジや選手が特定の価値観を持っているとしても、ディベートの場ではそれに理由なく特権的地位を与えることは許されない、ということです。)。
私も、ジャッジを含むディベーターの多様性はあって然るべきだと思いますし、仮に特定の属性を有する人がディベートコミュニティにおいて排除ないし制限を受けているという事実があるとすれば、それは直ちに解消されるべきであろうと思います。しかしながら、それと同じ程度に、動機はどうあれ、特定の属性を有することを問題とする言説一般について我々は敏感であらねばならないし、特にディベートという営みにおいては、「多様性の確保」や「マイノリティの保護」といった理由をもって特定の価値観を安易に正当化しようとすることに対して懐疑的であるべきと考えます。
3.今大会決勝講評に対する雑感
これは書くかどうか迷ったのですが、上記の話とも関係しますし、誰かが述べておく必要があるのではないかと思いましたので、異論を承知で敢えて書くことにします。
今大会の決勝講評の前半では、チーフジャッジ(女性です)がJDAの20周年記念大会のイベントで、女性はディベートに向いていないのではないかという(そう受け止め得る内容の)発言を甘受してしまったことへの後悔や痛み(ここでは書きませんが、相当強烈な言葉を使ってらっしゃいました)を語り、ディベートコミュニティの女性に対する理解の低さを訴える趣旨のスピーチをされました。
私は、チーフジャッジが過去に体験したことやそれに対する思い、ディベートコミュニティに否定的な評価を持たれていること自体は何ら問題とするつもりはありません。それは当人にとって紛れもない事実でしょう。また、実際にディベートコミュニティに問題があるのかどうかということもここで取り上げるつもりはありません(全くないと言い切ることはできず、他方でスピーチで言及されたほどの状況かというと率直に言って疑問なしとしませんが、それも「お前が鈍いからだ」と言われるとどうしようもありません。このことについては後で少し触れます)。私がこの講評を聞いて思ったのは、単純に、それを決勝講評で述べることが果たして適切だったのか、ということです。
上記スピーチには3点、不用意なところがあると感じました。
1点目は、ジャッジングの公平性に疑問を抱かせかねないということです。今回の決勝は、否定側も女性議員増加の理念自体は共有していたのでそこまで問題になっていないとも言えますが、一般的に言って、ディベートコミュニティで女性が虐げられているという問題を切々と語ったジャッジが、女性差別の積極的是正措置であるクオータ制の導入に賛成であろうことは容易に想像でき、それが判定にも影響してしまっているのではないかという疑念につながることは当然のことと言えます。上述のとおり、ジャッジは職業倫理として個人的な信念を判定に容れないよう努力するわけですが、判定に先立つ講評でわざわざ論題と関連する信念を開示されては(おまけに、今季論題でジャッジをすることに躊躇したということまで述べています。その躊躇自体は健全なことだと思いますが――ジャッジを忌避すべきだったという意味ではありません。念のため)、判定への影響を疑うべき特別な事情が看取できると言われても仕方ありません。
2点目は、これはチーフジャッジの役割をどう考えるかということにも関係するので必ずしも問題だとは言えないかもしれませんが、既に述べたところとも関係して、ディベートジャッジとして特定の価値観に強くコミットする内容を述べることが適切なのかということです。
3点目は、今回のスピーチが、ディベートコミュニティのマジョリティとされる「無自覚な」男性に対する暴力性を帯びているということです。私も男性ジャッジであり、あのスピーチで個別に名指しされていたわけではないと思いますが(20周年企画は、決勝の協議をやっていたか何かの理由で参加できていなかった記憶です)、そうでないとしても、相当否定的な評価を受けたディベートコミュニティにおける性的マジョリティの一員であり、当然自分に対する批判でもあると受け止めています。もちろんそういった批判はあって然るべきですし、自分が完全に無謬であると言い張るつもりもないのですが、突然あのようなスピーチを聞いて、暗い気持ちになったことは否めません。決勝講評という場で、しかも、ディベートコミュニティではマイノリティかもしれませんが現代のインテリ層(ディベーター)における価値的マジョリティと言うべきテーマで批判されていることには、率直に言って異議を述べるのが難しく、一種の権力性、もっと言えば暴力性を帯びたスピーチであるとも言えます(ディベートコミュニティに凌辱されたと言われているのですからね…)。
以上の指摘にかかわらず、講評の内容はディベートコミュニティにおいて重く受け止めるべき内容を含むものであり、ジェンダーの切り口にとどまらず、寛容さ、多様さとは何かということを考えていかねばならないという示唆を与えていただきました。チーフジャッジの方は選手としてもジャッジとしても活躍されている先輩であり、ディベートに対して誠実な方でありますので、上記のような問題点も認識しつつ、是非とも伝えたいという想いから、振り返るのも辛い深刻なテーマに切り込まれたものと察しており、その姿勢には一ディベーターとして敬意を表するものです。
その上で、そのような重みを帯びたスピーチであっても、誠実に批判する姿勢を維持すべきであるというのが、私の立場です。これは今回の講評を超えた一般論に及びますが、より穏当ないし正当とされる価値観に基づく言説には、そのことを理由とする固有の権力性、暴力性が生じる危険があると思っています。被害者のあるところには加害者があり、その立場は不変ではなく流動的なものです。たとえメッセージが正しいとしても、というより正しいからこそ、それで傷つく人も出てくるわけです。だからといって正しさを訴えることを止めるべきだということにはなりませんが、その正しさを述べることが期待されているのか、十分理性的であるか、といった省察の必要性が免除されることにはなりません(これは筆者に対するブーメランとして返ってきそうですが…)。
ディベートという場に限らず、問題提起的言説、批判的言説は大きな意義を有しますが、そこには副作用も伴います。それを理解した上で、何のために議論をするのか、相手の人格を尊重するとは何なのか、ディベートにおける寛容さとは何かということを考え、豊かなコミュニケーションを目指す必要があります。これは、私にとってはもちろんのこと、現在のディベートコミュニティが抱える大きな課題というべきでしょう。
今回の決勝講評は、副作用は小さくないと思いますが、コミュニティへの豊かなメッセージを含むものだったと思います。このメッセージを我々が正しく咀嚼するためには、単に決勝講評に感じ入るだけではなく、賛意や反発といった思いを表出させる強いコミュニケーションや、それに対する適切なレスポンスも必要になってくるのではないかと考えますが、本稿はそういった問題提起の嚆矢にとどめておくことにします。
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JDAディベーターは大麻に忙しく、ディベート甲子園は論題発表前ですので、今回は議論の内容とは関係ないテーマを取り上げようと思います。
一時期、全国高校ディベート連盟(HEnDA)の主催する高校英語ディベート大会において、帰国子女の登録が2名、出場が各試合1名に制限されていること(HEnDA大会ルール1.4.1条及び1.4.2条)について、一部選手などから疑問の声が上がっていました。詳細は後述しますが、かかる疑問はもっともだと思っていたところ、ふと見てみると、疑問を呈していた選手のnoteが削除されていることに気づきました。
この削除がどのような経緯によるものか分かりませんが――仮に何らかの圧力によるものであるとすれば、極めて遺憾であり、ディベート教育に携わるものとしてそのような事態が生じていることは大いに問題とすべきものです――彼または彼女が提起した問題は重要だと思いますので、英語ディベートについては門外漢であること(過去に、HEnDAの外国語公用語化論題について解説文を書いたことがあるくらいです。もちろん日本語で…)を承知で、以下、私見を述べます。
なお、本ブログの典型的読者ではない英語ディベーター向けに簡単に自己紹介しておきますと、20年ほど前から日本語ディベート(アカデミック/調査型)に関わっており、現在は弁護士として執務するほか、某大学非常勤講師としてディベートを教えたり、各種大会でジャッジを務めております。
高校英語ディベートにおける帰国子女制限に対する問題提起
はじめに
本稿は、HEnDA大会ルールで、帰国子女(ルール上は、(1)英語を第1言語とする国で12ヶ月以上滞在経験のある生徒(就学前の滞在は不問)、(2)英語を第2言語とする国の出身である生徒(就学前の滞在は不問)、(3)家庭で常用的に英語を使っている生徒、の3類型が禁止されていますが、以下、便宜これらをまとめて「帰国子女」といいます。)の登録及び出場に制限を設けていること(以下「帰国子女制限」といいます。)の正当性について論じるものです。
帰国子女制限の趣旨は明らかでありませんが、おそらく、非帰国子女に対する教育的配慮を目的としているのだと推察されます(それ以外に、「表向き」標榜できる正当化根拠は思いつきません。)。これは、一種のAffirmative Action(積極的差別是正措置。以下「AA」といいます。)を意図したものとして捉えることができるかもしれません。
以下では、上記のような目的を想定した上で、かかる目的による帰国子女制限がAAに関する一般的な理解に照らして正当化し難いこと(下記1)、及び、帰国子女の実情などを踏まえても、帰国子女制限を正当化すべき立法事実は見出し難く、かえって弊害を生じさせる恐れが高いと考えられること(下記2)を論じます。その上で、総括として、外部からの意見ではありますが、帰国子女制限より緩やかな手段で目的を達成する手段が考えられることなどを指摘します(下記3)。以上の検討を通じて、筆者としては、帰国子女制限は速やかに撤廃されるべきではないかとの見解を表明するものです。
なお、HEnDAルールでは、英語のネイティブ・スピーカーの生徒の参加は全面的に禁止されており、これについても問題提起の余地はありますが、本稿では検討対象から除外することにします(規制の根拠は帰国子女制限より強いと思いますが、下記論旨の一部は当てはまると思います。)。
1.帰国子女制限は積極的差別是正措置(AA)として正当化され得るか
帰国子女制限をAAとして正当化しようとする見解は、帰国子女の英語力が高く、非帰国子女と混じって英語ディベートをすると帰国子女が突出して活躍してしまうので、自由に競争させると非帰国子女が出場枠に入れなくなる、帰国子女のいないチームが勝てなくなってしまう、非帰国子女が萎縮してディベートから離れてしまう…といった想定の下で、帰国子女の出場を制限することで、非帰国子女を保護し、もって、非帰国子女に対する教育効果を確保する、といったことを考えているのかもしれません。もう少しリアルな想定をすれば、帰国子女制限がないと、帰国子女のいない学校に勝ち目がないので、そういった学校が参加しなくなるから、普及のために帰国子女規制を設け、非帰国子女だけのチームに可能性を与えてあげよう、といったことを考えているのかもしれません。
そのような効果があるかということは疑わしいのですが、そのことは下記2で詳述するとして、ここでは、仮に上記のような事情があったとして、そのための規制がAAとして正当化され得るか、ということを考えます。
AAというのは、「積極的差別是正措置」と説明されることからも分かるように、差別を是正するために取られる行動のことです。アメリカで問題となった例としては、大学において、学生の人種的多様性を保障するために、有色人種の受験生について一律加点する、といったものがあります。ディベートの論題になりそうなネタで言えば、議会や取締役会などの合議体に一定割合の女性の登用を義務付けるクオータ制もAAに属します。要するに「有利な人を逆に差別することで、不公平を解消する」ということです。
差別を是正するものだから問題ないじゃないか、と思われる向きもあるかもしれませんが、AA自体が、差別対象となっている属性――多くの場合先天的な事情であって、自分で選べない。帰国子女という属性も、当該生徒が自分で選べることはほとんどないでしょう――に基づき不平等な取扱いをするものであり、当事者の立場から見れば不正な扱いを受けたことになるのですから、簡単に容認することはできません。
また、AAを導入することは、優遇された対象が「是正を要する劣位者である」ことを前提にし、実際にも「自由競争では獲得できなかった地位をAAで獲得させる」効果があることから、優遇対象者が「AAがないと地位に着けない人」であるという烙印(スティグマ)を付与してしまうという問題もあります。仮に、AAがなくても合格したような人であっても、それは周りから見て区別できませんから、「AAのおかげで合格した人」と見られてしまう、ということです。このような効果により、かえって差別が広がる可能性もあるわけです。
上記のような問題点を踏まえて、アメリカの判例では、AAが正当化されるのは、①目的がやむにやまれぬ利益を促進するものであり、 ②選択された手段が目的達成と密接な関連性を有している場合(必要最小限の手段であるなど)に限られるという、厳格な立場が取られています。日本でも、何を対象とする措置かにもよるでしょうが、同様な見解が有力であるように思います。
もっとも、AAについては、実質的平等を達成しようとする手段であり、対象を少数者に置いていることからして、是正の名のもとに多数者を利するような不当な政策は生じにくい(カモフラージュが難しい)ということから、より緩やかな基準(目的が重要であり、その目的と規制手段との間に実質的関連性があることで足りる)で認めてもよいのではないか、という見解もあります。
本稿で論じる帰国子女規制の問題が、直ちに憲法問題となるわけではありませんが、上記のような議論は、AAとして帰国子女規制を捉えることの妥当性について、参考になるでしょう。なお、AAの憲法学的問題についてネットで見られる論考としては、穐山守夫「高等教育におけるアファーマティブ・アクションの根拠づけと厳格審査」、茂木洋平「Affirmative Actionの司法審査基準」などがあります。後者の方が問題の所在を捉えやすいので、AAについて興味のある方には一読を勧めます。
さて、ここで、帰国子女規制がAAとして正当化されるかを考えましょう。
まず問題とされるべきは、そもそも帰国子女規制をAAとして位置付けてよいのか、ということです。AAは、その結果保護される立場の者がマイノリティないし劣位者であることを前提としています。このような前提は、保護対象として着目される属性(今回であれば「帰国子女であること」。保護される側の立場から見れば「非帰国子女であること」)によって分断が生じていたり、社会的な地位や評価に違いが生じているということをさらなる前提としています。
しかしながら、後記2で詳述する帰国子女の置かれた状況を考えるまでもなく、これらの前提は認められないというべきでしょう。すなわち、「帰国子女」であることによって直ちに英語ディベートで強者になるということはないし、「非帰国子女」であることが「帰国子女」に対して社会的に劣位であるということもありません。また、現在の日本において、帰国子女は圧倒的に少数派であり、非帰国子女が劣位に置かれているわけでもありません。平均的英語能力に差があるという事実を捉えても、社会一般で非帰国子女が不遇な立場にあるとは思えませんし(個別に見れば「英語できていいなぁ」ということがあるとしても)、英語教育の場面に限っても、非帰国子女が差別されているとか、辛い状況にあるといったことはないでしょう。
これらを踏まえると、「帰国子女」であること(あるいはそうでないこと)に着目した帰国子女規制は、そもそもAAとして成り立たないか、あるいは、目的の正当性を一見明白に欠いていると言わねばならないでしょう。AAが論じられてきたのは、「有色人種」や「女性」といった、歴史的に差別が厳然と存在してきた属性に関するものであって、帰国子女規制をこれらと同列に論じることは不可能です。
上記を無視して、「帰国子女」という属性に不利益な措置を講じることは、少なくとも数の上で少数であり、かつ、必ずしもその属性から直ちに英語ディベートが得意になるとは限らない帰国子女に対する不当な差別であり、疑わしい目的による措置であることが強く懸念されます。AAではなく、多数者の利益のための措置(後で示唆する「興行的意義」)ではないか、ということです。
また、帰国子女規制は、帰国子女に英語ディベートをやらせると(英語が上手すぎるので)不公平だ、とか、非帰国子女は頑張っても帰国子女に英語で勝てない、といった、誤った観念を植え付ける(少なくともそのような前提を置いている)点でも問題です。それは、まさに、AAに批判的な見解が問題とするスティグマを付与するものであり、教育者としては特に慎重になるべきです。この点、典型的なAAは、性別や能力といった、本来能力と関係ないはずの要素で差別されていることを是正しようとしているのに対して、帰国子女規制は、対象となる属性が能力に直結しているという(誤った)理解に基づき是正を主張していることから、能力に係るスティグマ付与の程度はより大きいであろうことにも留意を要します。
以上の考察は、そもそも「帰国子女」という属性に着目すること自体が間違っているというものです。
帰国子女規制を教育的配慮?からAAとして位置付ける場合に、真に着目すべき要素は、「帰国子女」か否かではなく、「英語が流ちょうに話せるか否か」であろうと思います。英語が流ちょうすぎる選手が多く入っていると不公平だ、英語の勉強にならない、という考えは、もしかしてあり得るのかもしれません。仮に、「帰国子女」=「英語が流ちょう」ということが成り立つのだとすれば(後で述べるように成り立たないと思いますが)、かかる属性をもってAAの体裁を有しているということは言えるのかもしれません。
しかし、このような措定をした場合、今度は、目的の正当性が問題となります。そもそも、英語ディベートは、英語を上達することを重要な目的として取り組む活動のはずです。その目的をよりよく達成した結果、帰国子女規制(=英語が上手すぎる人規制)によって大会に出られなくなる、というのは、英語ディベートの目的と矛盾してしまいます。「ほどほどに英語ができる人だけでMake Friendsしよう、それで参加校を増やそう」というのが、英語ディベート大会運営にとっての「やむにやまれぬ利益」なのでしょうか。もちろん、そのような目的で大会を開催すること自体は否定されませんが、そうであれば、かかる方針をきちんと公表すべきでしょう。
以上より、帰国子女規制をAAとして正当化することは、想定される目的との関係で規制対象を「帰国子女」とすることが誤っており、そもそもAAでないことに加え、「帰国子女」であることに目的との関係性があるという特殊な前提を措いたとしても、AAを基礎づけるだけの目的があるとは考えられないことからして、困難であると考えます。
これは、帰国子女規制が、限定的ながら帰国子女の出場を認めている、といったことで正当化できる問題ではありません。「医学部入試で男性に加点したのは100点満点中の5点にすぎないので女性差別はありません」という話が通らないことと同じです。そもそもなぜ差別的措置を取るのか、という理由がないことが問題なのです。
なお、こういうと、それでは駅伝やプロ球技などで外国人枠があるのはなぜか、という疑問も生じるでしょうが、私は、これらの規制は、教育的意義ではなく――野球やサッカーは、初期の時代は、国内リーグを整備することによる教育的?意味合いがあったのかもしれませんが――、日本人が活躍しないと盛り上がらないという興行的意義で設けられているのだと理解しています。帰国子女規制も、もしかして、その主眼は参加校拡大という興行的意義(そのような効果があるのかは私には分かりませんが)によるのかもしれません。そうであれば、AAとしてではなく、そういった政策的目的でやっているのだという正当化はあり得るのかもしれません。
もっとも、そのような目的は、もはや、教育ディベートの建前の下で説明することが困難でしょう。少なくとも、一定の対象に対する教育を放棄したという批判を免れることはできないはずです。先に示唆したように、かかる目的を認めた上でそれを前提に考えるのであれば、理念を異にする別の団体を作るなり、次元の異なる解決策があるかもしれません。部外者なので無責任な物言いにはなってしまいますが、そちらのほうが健全な論議になるのではないか、と思っています。
2.帰国子女制限は教育上望ましいのか
ここからは、視点を変えて、理屈はともかく帰国子女制限は教育上望ましいのか、ということを考えることにします。この点については、本記事冒頭で言及した実際の帰国子女のnoteが説得的に述べていたのですが、残念ながらなくなってしまいましたので、直接言及はしませんがその内容も参考にしつつ、論じていきます。
まず、上記1の考察でも取り上げてきた、そもそも「帰国子女=英語が得意」ということが疑わしいということを指摘しなければなりません。平均的に言えば帰国子女に英語の得意な人は多いでしょうが、HEnDAの定義で「英語を第1言語とする国で12ヶ月以上滞在経験のある生徒」とされていることだけを見ても、10歳くらいで1年間アメリカに行ってそのまま帰国し、その後高校入学まで英語に触れる機会がなかったような生徒が、日本の英語好きな高校生と比べてどこまで英語ができるのかというと、疑問があります。アメリカで日本人学校に通っていたとすればなおさらです。外国に行けば英語が得意になる、というのもどこまで本当か不明で、アメリカの某有名ロースクールにLLMで1年留学してNY州弁護士資格を取り、その後外国の法律事務所で1年研修した後の弁護士でも、英語に苦手意識があり、電話会議で苦労したりする人もいたりします(実話。「ぐるめ先生、英語が苦手な人が、留学しただけで英語が使えるようになるほど世の中甘くないんですよ」ということを、全然格好よくないのに格好いいこと言ってる感じで話されていたのが忘れられません…。ちなみにこういう人は少数派ではあります。)。
ここでは、ディベーターらしく、資料を用いて論証しましょう。帰国子女でも帰国して英語を使わなければ忘れてしまうことや、外国生活で身に着けた英語だけでは自分の思考をまとめきれなくなるとされています。
小さな子どもが生活の中で身に付けた英語は、日本に帰国したら忘れてしまいやすいといわれます。
お子さんは、現地の友達との交わりや、買い物やテレビなどの日常生活を通して英語力を身に付けたはずです。いわば「英語漬け」の環境の効果によって短期間で英語を使えるようになったわけです。小さな子どもにとって、もともと言語を習得する時期は環境さえ整えばどんどん吸収していくことができます。お父さんお母さんよりもお子さんのほうが先に英語を使えるようになったといった話は珍しくありません。
しかしこのことは同時に、日本に帰国し、英語漬けの環境から日本語漬けの環境に変わった途端、お子さんは日本語を吸収し始め、使う機会が激減した英語はどんどん忘れてしまうということも意味します。
さらに、生活の中で自然に覚えた場合、複雑な表現や抽象的な言葉などはあまり使われません。特に小学3~4年生くらいまでは、英語だろうと日本語だろうと、思考そのものがまだまだ成長の途中。帰国後成長するにしたがって、在米時に身に付けた英語だけでは、自分の思考をまとめることが難しくなってきます。
森上展安「どうする?!帰国後の教育 ~帰国してから困ったこととその準備~」
もう一点、帰国子女幻想を指摘している記事も紹介しておきます。
(小島)…帰国子女幻想みたいなものがあるけど、みんなそれぞれに苦労しています。アジア圏の日本人学校育ちの私もステレオタイプな帰国子女幻想でだいぶ迷惑しているし。なんで英語できないのとか、やっぱり帰国子女は自己主張が強いとか。それ帰国子女と関係なく、性格ですから。
2019年 Yahoo!ニュース記事(中野円佳)「小島慶子さん「帰国子女は自然と英語ができるようになる」は幻想 海外子育て、バイリンガル教育の悩み」
これらの証言は、帰国子女=英語ができる、という理解が誤っているということのほかに、いくつかの重要な示唆を与えてくれます。第一に、仮にある程度英語ができる帰国子女にとっても、英語ディベートによる教育機会を確保することは重要である、ということです。英語を使えると言っても、外国の初等・中等教育で高度で専門的な語彙を身に着けるわけではないでしょうし、先の森上氏の記事にもあるとおり、英語を話せることと英語を使えることは別であるところ、英語「ディベート」は、まさしく、英語を使えるようにするためのトレーニングであるはずだからです。
英語ディベートが帰国子女にとって有益であるということにつき、私自身が実証的な答えを持っているわけではありませんが、軽くググっただけで、帰国子女を含む高校生に対して英語ディベート指導実践が効果を上げたことを示す高畑伸子=清水真澄「高校 1 年生を対象とした初めての英語ディベート指導実践―より効果的な指導法の気づきと生徒の変容に焦点をあてて― 」(2017、中部地区英語教育学会紀要46巻193-200頁)や、帰国子女教育において非帰国子女との相互交流・相互啓発や異文化共生を学ぶ趣旨でディベート教育が用いられてきたことを紹介する成田喜一郎「本校の帰国子女教育史における「適応」概念の変遷 (帰国子女教育)」(1999、東京学芸大学附属大泉中学校研究集録40号93-104頁)の論文が見つかりました。そもそも、英語ディベートが、帰国子女にだけ教育効果がないはずないのですから、帰国子女に対してもディベートの機会を与える必要があることは明らかです。
正直なところを言えば、論理的思考力なり意思決定能力なりを鍛えたいのであれば、第一言語でディベートをするのが一番効率的だし、(英語でスピーチする気持ちよさや世界大会など競技的に広がりがある点を除けば)そっちの方が言語的制約に縛られず言いたいことを言えるので楽しいはずです。その上で、敢えて「英語で」ディベートをする意味があるとすれば、英語が話せるだけではなく英語を使って議論できるようになりたいか、あるいは、英語のほうが日本語より得意であるかのどちらかでしょう。帰国子女の英語力が運用レベルにまで達していないのであれば前者の要請があるし、帰国子女が英語の方が得意な状況であるとすれば、後者の希望を通してあげてもよいのではないかと思います。いずれにせよ、帰国子女の英語能力の如何にかかわりなく、英語ディベートは彼ら彼女らにとって有益足り得るもので、不当に制約すべきではありません。
あるいは、帰国子女規制を正当化する向きは、英語ディベートが「英語力」だけを問題とする競技であり、スピーチが流ちょうであればそれ以上取り組む必要がないと考えているのかもしれませんが、それは大きな思い違いです。そのような理解で取り組まれているのだとすれば、わざわざリサーチなりテーマ学習なりする必要のない、別の英語活動に取り組まれた方が生産的でしょう。
帰国子女規制のもう一つの問題は、それが「帰国子女は英語ができるはず」という帰国子女幻想に根拠を置くもので、そのことが帰国子女を苦しめることにつながりかねないのではないか、ということです。先に紹介した小島さんの記事でもかかる幻想の存在が指摘されています。これは、先にAAの問題として指摘したスティグマの問題に似るもので、帰国子女という属性のせいで、自分の客観的能力以上に英語力を期待されてしまい、そのギャップに苦しんでしまうということです。
この点、英語が客観的には相当できる帰国子女でも、ネイティブとの比較を考えたりして、いつまで経っても英語に自信が持てないということがあるそうです。
わたしはいつになれば自分の英語力に満足するのだろうか?英語で会話ができるようになった時も、授業を英語で問題なく理解できるようになっても、トッフルで100点超えても、海外の名門大学に合格しても、英語でニュースを読めるようになっても、わたしは自分の英語が満足だと感じたことがない。授業についていけないと大泣きしていた自分も、英語が喋れないから一人でトイレでご飯を食べていた自分も、テストでDしか取らなかった自分も、アジア英語のアクセントで喋るわたしも、もういない。それでも発音の良さに騙されて喋っていくうちに相手にいつボロが出るかとヒヤヒヤしている自分がいるし、英語ネイティブスピーカーと初めて喋る時わたしの耳は今でも必ず赤くなり、汗がドッと出てカラカラになる口に喋る前にいっぱい唾を飲み込む。
2019年 baibaihui(筆名)「帰国子女だから「英語強者」だけど、英語はいつまでも「最大の敵」」
私からすれば羨ましすぎる英語力ですが、それでも、自分の中では納得がいかないわけです。引用箇所以外も見ていただきたいのですが、彼女は、ノンネイティブとしてトラウマになるほど苦労した結果英語を身に着けているわけで、「帰国子女」だから英語が上手くなったわけではありません。それを「帰国子女だから英語が上手」といった形で片付けることはそもそもフェアでないし、そのような、彼女の主観と乖離した決めつけが、彼女が英語へのトラウマを払しょくできない一因でもあるのではないかと思います。
いくらトレーニングしても(客観的に英語力が上がっても)、日本人がネイティブになることはできません。そのような帰国子女がトラウマを克服するには、英語力だけでない総合力が試される英語ディベートが役立つのではないでしょうか。少なくとも、そのような教育を担うことも目指されて然るべきであろうと思います。
ここまでは帰国子女の立場から見た考察ですが、非帰国子女にとっても、帰国子女規制はプラスに働かないと考えられます。
帰国子女規制支持者は、おそらく、帰国子女ばかりが活躍するようになると非帰国子女が萎縮してしまうとか、非帰国子女の活躍機会が損なわれる、ということを言うのでしょう。仮にそうだとしても、そのような懸念であれば、「帰国子女」か否かという基準ではなく実質的な英語力(英検1級はアウトとか?)で判断ですが、そのことを措くとしても、帰国子女規制撤廃で非帰国子女が萎縮するかは疑問です。
アカデミックディベート流に反論するなら、第一に、そのような懸念には固有性(Uniqueness)がないと思われます。すなわち、拝見する限り、全国大会上位入賞校はおそらく英語に力を入れている私立を中心にある程度固定しているように思われます。英語力や議論能力(の基礎となる知的体力)については、進学校の中でも相当差があるはずで、帰国子女規制がある現在でも、トップ層とミドル層が試合をすれば、ちょっと勝負にならない、という現実は既にあるのではないでしょうか。
第二に、非帰国子女の活躍機会を帰国子女と比べて尊重すべき理由が分かりません。そもそも英語ディベート(の全国大会)は学校教育を離れた余技であって、最初から生徒全員が取り組むことが期待されるものではないのですから、上手い人が順に出ればよいのです。将棋部に藤井聡太級の俊英が3人入ってきたら、団体戦は普通に考えてその3人でエントリーするでしょう。それと同じことです。仮に、個々の学校で違うポリシーがある場合に、その学校で登録選手を工夫することは自由ですが、大会ルールで一律に帰国子女を制限すべき必要性は見出せません。
第三に、英語が得意な帰国子女と試合をすることは、むしろ、非帰国子女にとっても、上手な英語に触れることができてメリットになるはずです。
最後に、なんだかんだ言ってこれが一番重要に思えますが、英語ディベートが英語能力の向上を本質的目的として掲げている(はずである)以上、その英語力の巧拙に結び付けて出場資格を制限するのは、教育目的と矛盾しているというべきです。英語が上手くなりたい、それだけでなく将来は世界で活躍してほしいと考えるのであれば、英語の流ちょうな帰国子女だらけのチームからは保護しますなどという生温いことを言っていてはいけないのではないでしょうか。
実際には、議論の勝敗は、英語力だけでなく、論題について深く考え、準備した成果も問われるはずですから、英語の上手い下手だけで勝負は決まらないでしょう。また、非帰国子女が、英語の流ちょうな帰国子女に負けないようなスピーチをすることだって、十分あるはずです。そういった要素を無視して、帰国子女チームと戦わせるのは不公平だとかいう余計な世話を焼くことは、真に意欲的な選手(帰国子女かどうかを問わず)に対して失礼です。
さらに言えば、帰国子女の参加を制限する規制は、HEnDAが重要視しており、私としても素晴らしい理念だと共感するところであるMake Friendsの理念とも相入れないのではないでしょうか。
3.総括
ここまで述べたとおり、帰国子女制限には、少なくとも教育的見地から正当化根拠を見出すことはできないと考えます。もしかして大会初期には何らかの事情で帰国子女規制に正当性があったのかもしれませんが、昨今の権利意識の高まりや国際化の潮流からすれば、もはや維持が困難な規制であるように思われます。
百歩譲って、初心者にとって英語が流ちょうすぎるチームと対戦させるのはよくない、という懸念があるのだとすれば、それは、初心者向け大会を作ったり、全国大会を二部制にすればいいだけの話です。もちろん、この場合の初心者かどうかの区別基準は、帰国子女という属性によるのではなく、実質的なところに求められる必要があります。コスト的に難しいのかもしれませんが、帰国子女制限が帰国子女にとって不当な制約であることに鑑みれば、真剣に検討される必要があると思います。
帰国子女制限が合理性を欠いており、当事者からも問題提起があったことを踏まえれば、HEnDAとしては、この点について何らか誠実な対応を検討すべきなのではないかと思います。そうでなければ、帰国子女制限は教育的配慮ではなく別の疑わしい動機(教育現場における帰国子女=教師より英語が話せる生徒への嫌悪感等、差別的動機)によるものではないかとして、大会の正統性が損なわれかねない状態であるとも思います。仮に、HEnDAが帰国子女規制という差別的な規定をもって大会運営しているということが世界大会の運営母体(ESU)に告発されでもしたらどうするのでしょうか。
近時の高校英語ディベートの広がりはとてもうれしいことですし、HEnDAの取り組みを通じて、国際的に活躍する人材やディベート愛好者が増えてほしいということを大いに期待しています。だからこそ、生徒のためにならない、不合理な規定については、真剣に見直されるべきではないかとも思います。私自身は高校英語ディベートの当事者でありませんが、一ディベーターとして、老婆心ながら、問題提起させていただいた次第です。本稿が、ディベートコミュニティの健全な発展に向けた討議に若干なりとも資することがあれば幸いです。