愚留米の入院日記
日当たり良好の某法科大学院既習病棟を退院した法務博士の日記。しかし内容はほとんど趣味のディベートの話
ディベート甲子園ルール逐条解説(14.議論の規律(4))
そうこうしているうちに入院生活二年目がはじまりました。既習入学なので三年生、すなわち受験生です。
三年次の授業は発展科目が多く、わがガラス棟はビジネス界に羽ばたく法曹(高級奴隷)を養成するための科目が数多く用意されている――というかビジネス科目があからさまに多すぎ――ため、それを受けないと充実した単位取得が難しくなっています。というわけでそんなに興味のないファイナンス(数学を使って資産の評価などを考える。ビジネスロイヤー必須の学問らしい)などをやっていますが、実務家教員の話は割と面白く、受験云々を考えなければそこそこ楽しめそうです。

さて、今回は議論に同意をすることの意味について解説します。書いていて改説を要すると思われるところがあり、多分変えたほうがすっきりするなぁと思っているのですが、そうするとこれまで書いた部分との関係でいくつか記述を改める必要があるので、とりあえず留保しておくことにします。
以前から断っている通り、ここでルール解説は一旦お休みとなります。残された部分については、司法試験が終了した後に気力が残っていれば書くかもしれません。前回いろいろ書いたので長くは書きませんが、ここまでの解説内容でルールはその中にいろんな含意を持っているということや、いろいろ考える余地があるということはある程度伝えられたのではないでしょうか。解説の内容が正しいかどうかは別としても、ルールを通してディベートを考えることは、ディベート実践において入院患者の暇つぶし以上の意味を持っていると思いますので、皆さんも折を見て自分なりに考えてみてくれると、長文を書いた意味があるというものです。

それでは以下本編です。例によって以下の内容は何らの正解も保証しない私見であることをお断りしておきます。


6.5 議論への同意

6.5.1 総説

ディベートにおいては、自らあえて争うつもりのない議論に対して同意をすることがしばしば見られる。これは、争点を整理するためや、証拠共通原則との関係で相手方の議論を自分たちに有利に援用しうることから、その援用を確定ならしめるために行われることが通常である。
同意を行うことそれ自体は選手の自由であり、また議論整理という観点からは不要な争点については同意により争点を絞ることは推奨されるべきことである。しかし、そのような同意に判定上特殊の効力を認めるべきかどうかは、別途の問題である。同意が単なる争点整理を超えて審判や選手の議論処理を拘束するものであるというためには、その根拠や要件効果について検討する必要がある。

以下では、最初に判定上他の議論と区別して扱う価値を有する「同意」というために必要な要件について考察を加えた上で、そのような同意がいかなる効果を持ちうるか(あるいは持ちえないか)について検討することにしたい。

6.5.2 同意の定義と成立要件

最初に、ディベートにおいて議論に「同意」するということの意味、すなわち同意の定義を確認しておく。本解説において、ディベートにおける同意とは、相手方の議論の論拠が正しいことを積極的に認める旨の意思表明を意味する。もちろん、(すぐ後で論じるように)これ以外の理解もありえるところだが、以下に検討するように、同意に積極的な効力があるかどうかを議論するに当たっては、その前提としてかかる効力にふさわしい積極的な意思表明をもって同意とする必要があるため、以降ではこのように定義される「同意」の効力について論じる。
なお、このように同意を定義する場合、それは必然的に反論権の放棄をも意味することに注意する必要がある。ここで、同意の定義について単に反論権の放棄である――従って、必ずしも論拠の正しさを認めない場合でも同意は成立しうる――と構成する立場もありうる。ディベートにおける立場の無作為性を強調すれば、論拠に対する立場と議論の処分を分離して考えるところからこのような理解を採ることにもなりそうだが、ディベートで立場が無作為に決定されるということと、一旦決定された立場を擁護することは別の次元の問題であり、敢えて相手の議論に同意をする以上、単なる反論権の放棄を超えてその前提についての評価も含むと解すべきである。反論権の放棄はその結果なされるものに過ぎない。

以上のように同意を定義すると、そのような同意として認められるための要件も自ずと定まってくる。すなわち、相手の議論を積極的に認める旨の「明示の意思表示」が同意の要件である。
この点、同意を反論権の放棄であると解する立場からはいわゆるドロップ(意図して、あるいは意図せず反論をしないこと)も同意であると捉えることになる。ディベーターの中にはむしろこのような理解が一般的とも思われるが、意思表示を伴わず単に反論をしなかったということは消極的な反論権放棄(反論権を行使しなかったということ)にすぎず、それ以上に論拠の内容に同意をしたと見る合理性はなく、従って新出議論の規制による処理に付け加えてそのようなスピーチにつき論じる実益はない。

では、同意を根拠付ける明示の意思表示としては、どのようなものがあるか。これについては、明確に当該議論の論拠を認めるという発言だけでなく、共通了解として相手方の議論に言及するなど、相手の議論の論拠が正しいことを前提として議論するスピーチなど、実質的に論拠を認めると考えられるスピーチ一般が含まれると考えてよいだろう。この判断には、当該ステージの議論全体の趣旨を参照することが許される。

6.5.3 同意の拘束力

以上の定義を前提として、そのような同意が議論に対してどのような影響を与えるか(あるいは与えないか)を検討する。具体的には、同意が生じさせる可能性のある試合当事者への拘束力についてその理論的根拠の有無を考え、その上でそれぞれの当事者に対する効力を分析することになる。

6.5.3.1 拘束力の根拠

同意が相手方の論拠の正しさを認める意思表示であるところ、そのような意思表示の内容に当事者が拘束されるといえるだろうか。これは、同意によって当該議論に証明がなされたと考え、当該主張を採用することが義務付けられるという拘束力が生じるか否かという問題である。

そのような効力を認める肯定説としては、ディベートでは選手に議論が委ねられており、そのような選手の中で同意がされている以上は審判がその内容に介入するべきではないということや、同意が争点の整理や相手の議論の利用など議論教育上好ましい行為である以上、そのような同意を推奨するために同意に拘束力を認めるべきであるという理由が考えられる。
しかしながら、ディベートで選手に議論が委ねられているということは、判定の対象が選手の提出した議論に限られるということを意味するものに過ぎず(弁論主義について解説した6.2.1を参照のこと)、それを超えて選手の議論に対する見解に審判が拘束されることを根拠付けるものではない。また、教育的観点から同意を推奨すべきという議論については、証明の伴っていない議論にもかかわらず同意によってそれを認めてしまうことはその点について論証の必要性を不問にするという点で教育的でないし、明白に誤った議論についても同意を認めることは、むしろ「同意の悪用」を促進し、議論教育の理念に反すると評することもできる。ディベートは客観的な説得力を競う競技であり、またその教育効果も実際に有用な議論能力を養おうとするものであるから、中立の立場にある審判が説得されない議論について当事者の同意で結論を違えるということは不当である。

従って、同意の判定に対する拘束力は認められず、同意によって当該議論の証明力が増強されるということはできない。ただし、当該議論の証明力を判断するに当たり、相手側から同意がなされているという事実を評価材料として考慮することは妨げられない。この意味で、同意には不完全ながら審判に対して事実上の拘束力を有するという側面があることは否定できない。
*ここで、6.4.5で新出議論であることへの同意が審判に対して影響力を有する旨記述していることとの関係につき補足する。新出議論性の判断は手続的事項であり、その趣旨は選手の反論機会を保障することにあるから、保護されている選手の意思表示によって処分されうるものと考えてよい。また、新出議論性につき同意がされることと、当該議論の証明力の評価は別物であり、新出議論でないと解することが直ちに当該議論の採用につながるものではないことは言うまでもない。

以上の議論とは別に、同意が当事者の議論処理に対して何らかの拘束力を持つという考え方がありうる。一旦された意思表示については、相手方がそれに従って議論を展開するだろうという期待が働くところ、相手の議論に対して同意を行うということは、同意された側にとっては以後当該議論につき反論がないことに期待が生じるし、同意した側にとっては当該議論を前提として議論が進むことを期待している。
同意がなされた場合、このような期待を裏切るような議論の処理は信義則上禁じられると考えられる。この信義則は相手の議論展開の予定を不当に狂わせるということと、議論を行うものとして不誠実であるという二点から根拠付けられるものである。
もっとも、一立論形式においてこのような場面が生じることは考えられないのであるが、後の記述では二立論形式に拡張して同意の信義則上の拘束力を論じることにする。

6.5.3.2 審判に対する拘束力

上で論じたとおり、同意が審判の判定に対して義務的な拘束力を生じさせることはない。しかしながら、特定の場面において、議論処理上選手からの同意に従って判定を下すべき場面が存在しうる。それは、矛盾した議論が提出されたことに対抗して選手が同意を迫られているという場面である。

例えば、肯定側が「Aである場合生じるメリット」と「Aでない場合生じるメリット」という矛盾した議論を展開しているとする(なお、この場合のAという事実は存在するか否かで二者択一であると仮定する)。このような議論がいわゆるContradictionとして独立の投票理由となるかは措くとして、この場合審判はAという事実の有無につき試合内の議論から判断を行い、いずれかのメリットを認めることになる(6.3.4.2参照)。しかし、Aという事実が常に試合中に確定するものではなく、Aの存否についていずれも十分に確からしい証明が試合中でされることは十分ありうるところである(Aがあるともないともいえない、ということ)。この場合、Aという事実の存否について確率的に心証を採り、その心証の割合に応じて両方のメリットの成立を認めるという判定もありうるが、このような結論は矛盾した議論を提出した肯定側を不当に利することになる。
この場合の処理については諸説ありうるところで、ここで詳細に検討することは避けるが、一つの処理方法として、矛盾した議論を提示した肯定側へのペナルティとして、試合全体を評価する上で肯定側に最も不利な解釈を採るということが考えられる。すなわち、メリット・デメリットの評価が肯定側にとって最も不利となるようにAの存否を確定する(Aの存否はデメリットの議論にも影響しうる)ということである。このとき、肯定側にとって最も不利な判断=否定側にとって最も有利な判断を考えるに当たり、否定側がAの存否について何らかの見解を表明した、すなわち肯定側のAに対する態度のいずれかに同意をした場合には、その同意を尊重し、同意された側の立場を採ることが否定側にとって最も有利であると考えることができよう。つまり、矛盾した議論に対してなされた同意は、当該矛盾点の存否が不確定な場合において、審判を拘束するということである。これも事実上の拘束力ということができるが、その意味合いは通常の同意とは異なるところである。

6.5.3.3 相手方に対する拘束力

ここで、同意された相手方に対して同意が及ぼす信義則上の拘束力を考える。
6.5.3.1で論じたとおり、同意により生じた同意者の期待は保護されるべきである。相手方は一旦自分で出した議論につき同意がされたのであるから、それ以降議論を撤回することは許されないと考えることになる。
ここでいう「撤回」とは、立論中に議論を撤回してなかったものにする行為である。6.3.5では議論の撤回は認められないと論じたが、これは一立論形式の場合であり、二立論形式立論の場合においては議論構築の一環として主張の撤回が認められるところ、これが同意によって制限されるのである。一旦同意されたにもかかわらず、相手方が第二立論でそれを覆して別の議論を展開するということは、第一立論における同意者の議論をだいなしにするだけでなく、一旦議論を提出したものとしてあまりに無責任である。一旦同意がされてそれを前提とした議論が展開された以上、立論における議論処分の自由を超え、相手方の期待保護が優先されるべきである。

一方、実質的撤回、すなわち自分で自分の議論に反論を加える行為については、同意によっても妨げられないと考えるべきである。その理由は、議論は(反駁に至って)確定的に提出された段階で主張共通・証拠共通の原則が及ぶ中立性を帯び、同意の相手方に対する効力は立論の段階でこのような確定(相手方による処分権の剥奪)を意味するところ、中立な議論に対して反論を加えることはもとより自由であるからである。
従って、同意がされたにもかかわらず、相手方は当該論点について別の理由をもって否定を試みることが許される。同意の相手方に対する効力は、立論段階での処分権を奪い、主張の撤回を封じることにとどまることになる。

6.5.3.4 同意した者自身に対する拘束力

続いて、同意が同意者自身に対して及ぼす信義則上の拘束力について見ていく。
これも6.5.3.1で論じたとおり、同意により生じた相手方の期待は保護されるべきであり、一旦された同意は反論権の放棄として、以後当該論点への反論が認められなくなると解すべきである(同一ステージ内で「言いなおし」の形をとる場合はこの限りでない)。よって、二立論形式において否定側第一立論で同意がされた場合、否定側第二立論では当該論点に反論をすることはできない。
このような結論は、6.5.3.3において相手方が同意された議論に対する反論(事実上の撤回)をなしうることとの関係で均衡を欠くとの批判もありうるが、議論提出行為は相手から反論を受けることを前提として立論段階で撤回が許されているものである一方、同意は相手方の撤回を妨げる確定的効果を有した意思表示であり、そのような同意の撤回はそもそも予定されていないということから、このような結論もやむをえない。
*ただ、議論提出行為はそもそも自身の議論に対する同意をも含意しているのではないかというもっともな疑問もあるところで、ここからは二立論形式においても一旦提出した議論の撤回はできないということを前提に、同意の有無に関わらず議論の撤回というものを認めない立場もありうる。今のところ疑問を留保し、関連分野を含めた再考を踏まえた検討を行いたいと考えているが、これについては他日を期したい。

以上の結論は、同意した議論を起点として相手方が新しい議論を構築したという場合でも同様である。この場合、同意した側に新しく反論の必要が生じていると評価することもできるが、このような議論の構築こそがまさしく同意を受けた側の期待が保護された結果であり、これを否定することは信義に反する。また、同意があくまでも論拠の正しさを認める意思表示である以上、その意思表示は同意をした後の議論展開によって左右される性格のものではない。
ディベート甲子園ルール逐条解説(Intermission.「マニュアル」としてのルールを考える意味)
今日はルール解説第6章の最後となる「議論の同意」について書くことにしようと思っていたのですが、そこでルール解説を一旦お休みしようと考えており、第6章がちょうど一つの区切りになります。そこで、最後の解説を書く前に、ここまで書いてきたルール解説の趣旨を解説するという意味で、ルールを考えることの意義について簡単に書かせていただくことにします。これは解説の本編ではないのですが、実質的にはルール解説の総論に当たる内容であり、競技ディベートに取り組む選手として一度は考えてみてよいのではないか…ということを取り上げています。なので、言葉遣いも前置きと同様普通にしてあります(本編は格好つけてるだけです。『現代ディベート通論』の文体よりましだと思いますが!)。

マニュアルを形作る手続法としてのルール
ディベートという競技を簡単に説明するなら、議論によって論題の是非を争うというものです。ここから、勝敗(論題の是非)は議論の優劣によって決するという当たり前の決まりごとが出てきます。そして、ディベートにおける「議論の優劣」を判断するためには、議論の中身を吟味する作業と、出てきた議論を吟味するための枠組を準備する作業が必要になります。
前者の「吟味」というのは、出てきた議論が論理的に筋が通っているか、説得的であるか…といった評価のことです。ジャッジングというと普通はこれを想像することになります。しかし、少し考えてみれば、ディベートの判定がこれだけでできるものではないということに気づかされるはずです。ここでいう「論理的」とか「説得的」といった要素は、何らかの評価すべき模範を前提としているはずですが、どのような模範が論理的か説得的なのか…と考えていくと、収拾がつかなくなってしまいます。そこから生じる哲学的問題は省いて先に進むと、こうした模範(評価規範)は試合の中で議論することが不可能であり、結局は判定者が用意するしかないということになります。

ですから、ジャッジは議論の吟味のため、出された議論をどのように扱うかという「マニュアル」を事前に用意しておく必要があります。このブログでルール解説として論じてきた内容は、そのようなマニュアルのうち、ルールとして明文化されているものを中心にして説明したものです。ルールとして定められる内容の多くは、議論を実質的に評価する前段階の手続的な要素を定めるものですから、ルールは「手続法」であると考えることができます(ちなみに、ルール解説を書くに当たっては、法律の中でも手続法と呼ばれる分野の内容を多く参照しています)。

一方、マニュアルのうち、吟味するにあたってどのような議論を高く評価するか、どのような議論をもって勝敗を決定するかという要素は、出された議論の扱い方を考える中でもより事実認定に近いものとして、少し別に考えることができます。実体的評価に強くかかわることからこれを「実体法」と呼ぶことができますが、ディベート甲子園のルールでは上述した手続法の要素に加えてメリット・デメリット方式という実体法の要素も重要な位置を占めていますから、ルール解説の中では特に意識して区別していません(*)。

(*)一般のディベートでいうなら、New argumentの概念・判断基準や証拠資料の要件論は手続法に当たり、TopicalityやCounterplanの要件論・判断基準は実体法に当たるものであり、この両者をあわせてTheoryと考えることになるでしょう。もっとも、一般にTheoryとして議論されるのはこのうち実体法にあたる部分であり、さらには具体的にどういう議論をTopicalityとして展開するのかという内容(もっと言うならTopicalityの議論そのもの)をも実体法的Theoryと呼ぶ混同があるように思われます。Topicalityの議論そのものは論題の是非を争う一手法にすぎず、試合中に提出される各要件の論証内容はメリットやデメリットの証明と同じ次元の問題です。Theoryの名に値するのは、それらの要件をどのように考えるのかという枠組の問題であり、枠組の中でどういう議論を展開すべきかというのは、ジャッジを説得するための事実認定のレベルで考えるものです。

このような注意が重要になってくる理由は、後述するところと関係して、TopicalityやCounterplanの各要件は実は自明ではなく、これまでの蓄積からジャッジが一応認めているに過ぎない(従ってそのような枠組に依拠しないことは理屈として必ずしも不当とはいえない)という点にあります。一方、手続法と実体法の区別は、概念の整理としては意味があると思いますが、理論を考える上で区別が必要かというとそうでもないし、区別しにくい部分もあるように思います。


議論と独立した「マニュアル」が存在してよいのか?
ジャッジがマニュアルに従って議論を処理するというと、ジャッジは選手の議論を尊重していないのではないかという批判が出てくるかもしれません。しかし、マニュアルに従って形式的に答えを出すということと、マニュアルを用いて議論を吟味するということは決定的に異なります。例えば、証拠資料が読まれた場合は必ずその主張を採用するという規範は提出された議論の中身と関係なく(とはいえ証拠資料の有無という点で議論の内容とは関係があるのですが)判定を行う点で問題がありますが、証拠資料として認められるための要件を設けた上で、それを満たした適切な証拠資料が伴った主張については相応の信用性を認めるという考え方には、おそらく誰も文句を言わないはずです。

問題は、そのようなマニュアルが妥当なものであるかという点です。その前に、どのような基準でマニュアルを策定すべきかということが検討されるべきなのですが、これはジャッジ各人によって異なるとはいえ、そこに合理性・公平性・教育性といった要素を欠かすことはできないでしょう。この中で「教育性」という要素を考えることには異論がありうるし、教育性とは何かというあいまいさもあるのですが、ここでいう教育性とは単純に「より質の高い(合理的な)議論が生まれるような枠組であること」を要求するものだと考えれば、異論は少ないでしょう。実のところ、ジャッジの判断が恣意的かどうかという議論の根幹は「どのような議論が合理的であるか」という価値観の相違にあり、そう考えるとマニュアルの恣意性は「マニュアルの内容が合理的であるか」ということに帰着されます。

僕がルール解説の中で「合理性」として尊重してきた要素は、①当該規範が規定された明文に反しないこと(形式的合理性)、②当該規範が実社会において価値を持ちうる議論を推奨するものであること(実質的合理性)の2点です。前者はルールの解釈論として当然のことですし、選手に対して明示されている枠組を裏切ることは不合理ですから、あまり説明を要しないでしょう。
問題は後者の実質的合理性について、「実社会において価値を持つかどうか」という判断はジャッジの恣意を許すのではないかという批判が避けられないという点です。しかし、そもそもジャッジが判断において裁量を有しているということは否定できない事実であり(そうでないとすれば、複数ジャッジで見解が割れることはありえないことになります)、そうするとその裁量を左右する何らかの一義的でない規範が存在すること自体は認められなければならないはずです。そして、その規範はディベート独自に用意されなければならないという必然性はなく、むしろディベートが依拠する実社会が採用する価値観を前提として用意されることが自然であると考えるべきでしょう(*)。

(*)本当はこの点についていろいろ考えるところがあるのですが、ここでは省略します。しかし、およそ全ての想定しうるプランをNon-topicalにするような論題充当性の議論が本当に成立してよいのか、といった点について、冷静に考えればそのようなものが合理的になるはずはない、といった考え方ができないようでは、ディベートという競技が社会に受け入れられる日はこないでしょう。そんな議論が本当に成立するとすれば、論題が不合理だということで変更をしなければならないわけですし、想定する領域を議論できるような論題が存在しないなんてことは普通ありえないからです(だったらアメリカ人はどうやって議論してるんだと。…すいません英語ディベートの話です)。
こんな補足をしているのは、伝え聞くところで存在している「おかしな議論」がディベートが本来有すべき合理性を破壊し、本当にディベートに打ち込みたいと思っているであろう選手の利益を殺いでいるのではないかと感じるからです。自己満足的にディベートをやること自体は別に選手の勝手ですが、そのようなディベートには何も得るところがないし(ディベートの試合で勝つこと自体には何の意味もない)、不合理な議論が横行することでそれへの対処に忙殺されるようでは、他のディベーターもかわいそうです。

とにかく、勝敗や選手の納得といった要素だけで判定を行うということはあってはなりません。合理的な判断というものが先にあって、それがディベートの勝敗として適正なものであるというのが本来の順序であって、ダメなものはダメだというのが本当の合理性です。もちろん、それにもかかわらず合理性に対する批判はありうるのですが、合理性というのは単一の答えしか許さないものではなく、「文法上(?)そのような解釈は存在しないからNon-topical」という結論と「文法上そうなのかもしれないけどそのように解する場合およそ試合は成立しないからこの点は不問にする」と考えることはともに合理的でありうるはずです。少なくとも法律の世界ではそういうことになっているのですが、それで納得がいかないという場合は、亡命でもしてどこかで独裁政権でも打ち立てていただくほかありません(だからといってディベート界でそれをしてもらうと困るのですが)。


マニュアルの守備範囲であるということの意味
マニュアルは、試合の前にジャッジが用意しておかなければならないものです。従って、そのマニュアルの内容は試合で提出された議論とは関係なく適用されます。証拠資料が要件を満たさない不当なものであるかどうかの判断は、明文に規定がない限り、選手の指摘とは関係なくジャッジが自由に行ってよいものです(そもそも、証拠資料が特別に証明力を担保するものであるといえるかどうかという点ですら、ジャッジが自由に決める「マニュアル」の範疇にあります)。一方、証拠資料の内容を評価するに当たり、そこに書いていないようなことを導き出す判断手法は、選手の出してきた議論を間違った方向で見ている点で不当です。
以上のような違いは、法的問題(マニュアルに沿って議論を認識すること)と事実認定(認識した議論を吟味すること)の違いとして説明することができます。実体的判断は選手の議論を前提としますが、手続的判断はジャッジの職権によって自由に行え、選手の議論に拘束されることはありません。例えば「この試合の勝敗は声の大きさで決めるべきだ」という議論が出され、それらしい証明が一応されたとしても、ジャッジが「しかしそのような判定方法は望ましくない」と考えるのであれば、選手の議論にもかかわらず、勝敗の決定は通常通り行われることになります(*)。

このような理解は、一般に法律を適用して事件を処理する裁判のあり方に例を取ったものです。例えば、ある人Xが人を殺したとして起訴され審理を受ける場合、発見された凶器やその鑑定書、証人尋問の結果などからXが人を殺したかどうかを判断するのは事実認定であって、証拠として提出された内容に反する評価を行うことは許されません。しかし、被告人のXを拷問して作成した供述調書を証拠として使うことが許されるかどうか、Xは本当のところ人ではなく横にいる犬を殺そうとしていた事実が判明した場合そこに殺人罪の故意を認めてよいのかという判断については、法律上の問題として裁判官が独自に正しいと考える通りに判断しなければなりません。
そして、ディベートが元々法廷論争を模していることから、このようなモデルをディベートにおいて適用することも自然であるといえるでしょう(議会での論争が模範であると考えた場合も、法治国家における議会運営には同様の規律が妥当しています)。

(*)マニュアルは選手の議論によって自由に変更(Shift)できるものだという考え方もありますが、それは「変更しても良い」というものであって、「変更しなければならない」という筋合いのものではないはずです。もちろん、ジャッジが自説より優れた見解だと感じた場合には職業倫理として説を改めるべきでしょうし(その意味で、いかなる場合でも立場を改めないというPhilosophyは望ましくないでしょう。ただし、事前に述べたPhilosophyは少なくともその試合で変更しないというのは、判定の安定性を保証するという意義を認めうるとは思います)、「マニュアルの一内容」としてマニュアルの内容は議論によって可変であると定めることもできます。


ディベート甲子園のルールを考える意義
以上を踏まえてディベート甲子園のルールを考える意義を述べるならば、以下の2点に集約されると思います。

第一に、ディベート甲子園に関係するディベーター(選手及びジャッジ、大会運営者)は、ルールの内容を当然知っておくべきです。ディベート甲子園は明文のルールに従って運営されるべきであり、大会関係者にはそのことを自覚した上で適正な運営・試合審査を行う義務があります。また、そのような大会で議論を展開する選手としては、その前提となっているルールを理解した上で、ルール上意味のない議論を出すといった無駄を避けることが望ましいでしょう。
これは当然のことであり、改めて述べるまでもないでしょう。

第二に、これが最も重要なことですが、ここまで述べてきた「マニュアル」の一部としてのルールを考えるということは、ディベートという競技を貫くマニュアルの体系を考えることにつながります。マニュアルについて考えることとは、ディベートという競技が何を目指しているのか、どのような理由で勝敗の決定方法が決まっており、出せる議論が制限されたり証拠資料の要件が決まっていたりするのか…といったことを考えていくことです。それは、ディベート甲子園に限らずディベート一般に取り組む上で有益なことですし、ディベートという営みを実社会で応用していく上でも必要不可欠です。
(筆者としては、ルール解説の内容は、ディベート甲子園ルールの明文にかかる解釈を除けば、競技ディベート一般に妥当するものだと考えています)

ですから、ルールについて考えるに当たっては、その帰結だけを気にするのではなく、なぜそのように考えられるのか、どうしてそのようなルールが存在しているのか、といったことを意識することが必要になってきます。本編のルール解説がそのような要求に応えうる水準であるかは保証できないのですが、ここを読まれているという熱心な(暇な?)ディベーターの方には、ルールや決まりごとを表面的に理解するのではなく、それが何を意味している/すべきなのかという点に突っ込んだ上で、実り豊かなディベートができるような考え方ができるようになっていただきたいと期待しています。
ディベート甲子園ルール逐条解説(13.議論の規律(3))
かなり久々になりましたが、三月中にきりのいいところまでルール解説を書いておこうということで、第6章の残りとしてNew argumentなどの解説を書いておくことにします。もっとも、第6章では議論の処分方法である同意の効力についても論じねばならず、あと1回書く必要があるのですが。
第7章(判定の方法)などは重要ではあるのですが、書き始めると時間を取ってしまいますので、本格的に受験勉強をはじめてから気分が乗ってきたときに書くかもしれないということで、とりあえずここまでで一旦お休みにすることにします。既に公開したテキストで一通り解説しているので、そちらを参照していただけば僕の考えていることはだいたい書いてあります。もっとも、反則の要件などについてはもっと細かく論じるべきことがありますが、そのあたりはまた全体を見直す機会があれば加筆修正して公開するという形を取りたいところです。

新出議論は判定実務上も極めて重要な要素でありながらその処理方法について論じた文献が日本語では存在せず(ルール解説の内容はほとんどそんな感じですが)、そういった意味で僕もいろいろ困惑した経験がある…というか今でも処理に迷う事例があるのですが、そのような問題に本解説が役立てば幸いです。ただし、内容の正しさは保証できないのでその点は読者の方々で別途検討してください。特に、新しい議論であることに同意がされた場合の扱いについては、明文との関係でおそらく少数説なので、いろいろと気をつけてください。
それでは本編に入ります。くどいようですが、以下の内容は公式な見解でもなければ正解を保証するものでもないということをお断りしておきます。


6.4 新しい議論と遅すぎる反論

6.4.1 総説

本則3条3項では、「新しい議論」と「遅すぎる反論」が無効とされる旨の規定がある。これは細則D-2項4号・5号でも詳細に規定されており、判断材料を制約する明文の規律として極めて重要である。

ルール本則 
第3条 議論における注意事項
3.相手が持ち出した主張・根拠に反論する場合を除き,立論で提出されず反駁で新たに提出された主張や根拠は,「新しい議論」と呼ばれ無効となります。第1反駁で出せる反論を第2反駁ではじめて出すことは「遅すぎる反論」と呼ばれ無効となります。

細則D
2.
4)立論で提出されず,反駁で新たに提出された主張・根拠(新しい議論)は,判定の対象から除外します。ただし,相手の持ち出した主張・根拠に反論する必要から生じた主張・根拠はこの場合にあたりません。
5) 相手チームの主張・根拠に対する反論のうち,第1反駁で行えたにもかかわらず第2反駁で初めて提出されたもの(遅すぎる反論)は,判定の対象から除外します。


ルールによれば、新しい議論とは『「立論で提出されず反駁で新たに提出された主張や根拠」から「相手が持ち出した主張・根拠に反論する場合」』を除いたものとされている。すなわち、反論としてでない主張立証を反駁で行うことが「新しい議論」である。これは、メリット・デメリットを反駁の段階で提出することが新しい議論であるということを意味する。
遅すぎる反論については、「第1反駁で出せる反論を第2反駁ではじめて出すこと」と定義されている。これによれば、メリット・デメリットに対する反論として論点を提出する機会を第一反駁に限り、また肯定側がメリットへの反論に再反論する場合にも第一反駁で行わなければならない。
すぐ後で詳述する(6.4.2)が、このような規制が設けられているのは、反論の機会を保証するために議論をできるだけ先に提出させるためである。

注意すべきことは、以上のようにして新しい議論(New argument)と遅すぎる反駁(Late response)を分ける理解は、一般の競技ディベートにおいて取られる2回立論形式においては取られていないということである。一般的には、反論の機会を制限する上記のような規律はNew argumentに一元化されており、しかもその内容は「立論段階で投票理由となりうる論点は全て提出すべきであり、反駁の段階では既に提出された論点のみを議論しなければならない」と把握されている。すなわち、第一反駁でメリットへの反論をすることについても、新しい議論として規制を受けることになる(*)。
しかし、ディベート甲子園のような1回立論形式では否定側の立論の後に肯定側が立論を行えないため、このような理解を取ると、肯定側は否定側の議論に対して反論ができなくなってしまう。従って、ルールではメリット・デメリットなどの積極的論拠とそれに対する反論という消極的論拠を分けて把握し、前者については「新しい議論」の規制として立論段階で全て提出するよう要求し、後者については「遅すぎる反論」の規制としてできるだけ早く提出させるよう規定したものである。
競技ディベートのフォーマットの理解としては、2回立論形式で採られているように新しい議論と遅すぎる反論を一元的に理解し、立論は論点を提出する場であり反駁は提出された論点を検討する場であると考えることが合理的である。しかしながら、ディベート甲子園ではこの原則を1回立論形式に合わせて再構成した形で規定を置くものであり、以下に検討する若干の問題があるものの基本的には妥当する枠組である。本解説の性格上、以下ではディベート甲子園のルールを前提として1回立論形式における理解から記述を行うが、フォーマットの趣旨を正確に考えるため、参考として2回立論形式における一般的な理解についても簡単に言及することにしたい(6.4.4.2)。

以下では、1回立論形式でいう「新しい議論」と「遅すぎる反論」を一元的に把握した場合の規制対象を「新出議論」と記述することにする。

(*)もっとも、2回立論形式においても、肯定側第一反駁で再反論できなかった内容について肯定側第二反駁で再反論する行為を「遅すぎる反論」として分けて考えることは不可能ではない。しかし、立論と反駁の役割分担という見地からは、このように一旦作り出された論点について返答しなかったという行為は新出議論の規制としてではなく、一旦出された論点に再反論しなかったことを黙示の同意として反論の機会を放棄したものとみなす方が理論的に正しいと考えられる。

6.4.2 新出議論の規制趣旨

新出議論の規制はルールによって定められない場合においても妥当する、競技ディベートの一般法理である。このような規制が存在する理由は、反論の機会に晒された議論のみが評価に値するという議論評価の一般原理に由来する(この考え方は、反証可能性を要求する科学的方法論の基本原理にも合致する)。すなわち、十分な反論機会を保証するため、重要な議論については初期の段階(立論)に提出させ、それに対する反論もできるだけ早く提出することを義務付けるというのが、新出議論が規制されている趣旨である。
これをディベートの競技枠組から説明し直すと、新出議論の規制には以下2点の意義がある。第一に、できるだけ早く議論を出させることで議論を深めるという実体的教育効果と反論機会を保証するために早期の反論が必要であるとの規範意識を与える手続的教育効果からなる教育的意義が認められる。第二に、反論機会を保証された議論だけを判定対象とすることで不意打ちを防ぎ、判定の公正を保つという手続的正義の観点からの意義を認めることができる。このような理由から、新出議論の規制は厳正になされなければならないことが分かるだろう。

6.4.3 遅すぎる反論の該当要件

便宜上、最初に遅すぎる反論の要件から検討する。遅すぎる反論とは、第一反駁で出せる反駁を第二反駁で出すことと定義されている。これを分析的に見ると、その要件は①当該議論が反論(反駁)であること、②それが第二反駁で提出されたこと、③当該議論は第一反駁の時点で提出可能であったこと、の3つである。それぞれについて詳しく見ていくことにする。

①の要件については、反論であるといえる議論の範囲が問題となる。一般的には、主張と根拠がセットとなった形で述べられた言明を議論として評価することになるため、相手の議論に対抗するために新しく主張立証する行為が反論であると捉えることになろう。そこで問題となるのは、相手の立証の不備を指摘するなど独立の根拠を伴わない議論についてもこれに該当するかという点である。
結論としては、反論として規制対象となるためには、独立の根拠を伴う必要があり、立証の不備を指摘するような反論は遅すぎる反論に当たらない。新出議論の規制趣旨に照らすと、新しい議論として規制されるべきは、反論機会を保証しないような形で議論が提出される行為であるところ、独立の根拠を伴わない主張については、独立の根拠を付した再反論をする必要がない、もしくはできないからである。例えば、相手の立証を不備するにとどまる反論に対して、そのような不備が認められない場合には再反論は不要であるし、実際にかかる不備がある場合には、その不備を補うために立証を追加する再反論そのものが新出議論として規制を受けることになる(最初から十分に立証すべきであった)。さらに、立証の不備について指摘がされなかったとしても、当該論点は既に提出されている以上主張責任は果たされており、立証不備を理由に審判が当該論点を棄却することは弁論主義に違反しない。従って、そもそも独立の論拠を有さない議論を提出するという行為は新しい論点を形成するものではないから、反論機会を新たに設けるものではなく、規制する必要はないのである(そう考えると、そのような指摘にとどまる議論は判定上独自の意義を有さないことになるが、ジャッジの心証を形成する上では無益とはいえない)。

②の要件については、特に付け加えて論じることはない。問題は③の要件である。第一反駁の時点で提出可能であったということは、反論対象となる議論が既に第一反駁の時点で提出されていたということを意味する。しかしながら、証拠共通の原則(6.2.3参照)を利用し、別の論点で提出された議論を援用して反論を行うような場合、対象となる議論は第一反駁の時点で提出されているが、援用すべき議論はその時点で顕出しておらず、結果として「援用による反論」は第一反駁でなしえなかったということがありうる。分かりにくいので例を挙げると、否定側第一反駁において反論しなかったメリットの解決性につき、肯定側第一反駁がデメリットへの反論を行った中で出された一論拠を援用し、否定側第二反駁において攻撃したという場合がある。
このような場合にも、反論した側としては援用ではなく自らそのような論拠を提出して反論することができたのであるから、当該議論は第一反駁の時点で提出可能であったから遅すぎる反論に該当するという見解もありうる。しかし、反論を行うかどうかの判断は、相手方の議論展開も考慮してなされるのが通常であるところ、相手方の反論を援用する機会が生じたにもかかわらずそれを援用する機会を制限するということは、援用者が試合状況の変化に合わせて議論を展開する利益を奪う一方で、相手方に第一反駁で反論がなされなかったことを奇貨として援用の危険性がある議論を提出することを認めることになり、不当である。援用されるべき議論が出た時点で新たに「援用という形式での反論」が可能になったと考えて規制対象から外すことは、それを機会に議論を深めることが可能であること、また援用されるような議論を提出した側はその議論が援用されるリスクをも甘受すべきであることから、新出議論の規制趣旨にも反しない。
よって、第一反駁の時点で提出可能かどうかを判断するに当たっては、対象となる議論だけでなく、反論として出された根拠が第一反駁において提出されることが期待されたかどうかも加味して考えるべきである。なお、このように考えたとしても、自分たちの第二反駁で別の論点について出した根拠を反論してこなかった別の論点にも適用して反論をするという場合については、例外的事情がない限りは第一反駁でなしえたものであると評価することになろう。

6.4.4 新しい議論の該当要件

6.4.4.1 一立論形式における要件

ルール上の定義によれば、新しい議論に該当するというためには、①主張・根拠が提示されること、②それが反駁の段階であること、③それが相手の主張立証に対する反論でないこと、という3つの要件を満たす必要がある。以下、それぞれの要件について詳しく見ていくことにする。

①については、遅すぎる反論と同様、独立の根拠が付されず相手方の議論を援用することによってのみ構成されたメリット・デメリットのごとき議論がこれに該当するかが問題となる。この点、遅すぎる反論と同様に考えれば、独立の根拠がない主張に再反論を認める利益はないため、規制は必要でないとも思われる。しかし、メリット・デメリットのような議論を提出する行為は既存の論点についての指摘ではなく、新たに論点を形成するものであるから、同一に考えることはできない。すなわち、弁論主義の関係で、根拠が現れているというだけでは審判はそれをメリット・デメリットとして考慮することはできないから、援用の上それをメリット・デメリットとして再構成して主張することは判定上独立の意味を持つ(従って、再反論の利益が生じる。このような場合には議論への反論として自身が提出した議論についての反論が許される――ただし信義則上認めるべきでない場合もありうる――と解すべきである。この点、6.3.5での見解を一部修正する)。よって、メリット・デメリットを提出する行為は、その根拠が新しく提示されていないという場合でも、新しい議論に当たりうる。

②については特に問題はないが、③については難しい問題がある。いわゆるターンアラウンドの議論は、相手の議論の一部を援用しつつそのリンクや帰結を差し替えることで新しいメリット・デメリットを提出する議論と捉えるのが自然である(ターンアラウンドされた議論についても、元々の立証とターンの立証は論理的あるいは確率論的次元で両立する場合があり、そのような状況ではメリット・デメリットが並立していると評価することになることに注意)が、これはもはや反論とはいえないのではないかという疑問がある。
この点については、遅すぎる反論(6.4.3)の要件③について論じたところと同様に考えることができよう。すなわち、ターンアラウンドされるようなメリット・デメリットを提出したということが新しい議論状況を作り出すものであるから、少なくとも肯定側第一反駁においてはそのような議論を利用したターンアラウンドを認めるべきであり、そうであれば否定側についても同様の条件で(すなわち、否定側第一反駁でも)ターンアラウンドを認めるべきであるという理由から、ターンアラウンドを「反論」と同視して新しい議論には当たらないと考えるというものである。ターンアラウンドが全く新しいメリット・デメリットを作り出すものではなく、実質的には元のメリット・デメリットを減じる目的で提出されていることがほとんどであることに照らせば、かかる理解も不当とはいえない。
しかしながら、元となるメリット・デメリットの一部だけを援用し、その後で多数の論拠を追加することで全く別のストーリーからなるメリット・デメリットを立てるような行為は、それがターンアラウンドと称されているとしても、実質的に新たなメリット・デメリットの提出であり、相手の主張立証に対する反論と呼ぶべきではないだろう。判断基準は一義的に定まるものではないが、元の議論と提出されたターンアラウンドの議論との関連性や、援用によらない追加の論証の分量、ターンアラウンドの試合に及ぼす影響などを考慮材料として事例ごとに新出議論性を判断することになる。

6.4.4.2 二立論形式における要件

二立論形式においては、遅すぎる反論も新しい議論も一元的に新出議論として考えることは既に述べたとおりである。具体的には、2回の立論の段階でメリット・デメリットその他の積極的論拠も反論などの消極的論拠も全て出し切ることが原則であり、反駁のステージでは既に提出された論点についてのみ論拠を付した議論を追加できるということになる。もっとも、否定側第二立論で新たに出された論点については、肯定側第一反駁において反論することが許される。それに伴ってターンアラウンドを提出するような行為についても、6.4.4.1で検討したところと同様に判断されよう。
二立論形式で若干理解が分かれるように思われるのは、否定側第二立論と否定側第一反駁が連続したネガティブブロックであるところ、この2つのステージでは両方とも論点の提出が許されるのではないかという点である。ありうる立場として、肯定側としては両ステージはいずれも肯定側第一反駁の前にあるという点で同一であり、否定側第一反駁で新しい論点を提出しても肯定側の反論機会を奪うことにはならないため、このような反論は許されるのではないかという考え方がある。しかし、あくまで反駁のステージは既に提出された論点を吟味するための場であるから、上記のように考えるべきではない。肯定側の利益としては、否定側が新しい論点を提示する機会が肯定側と同一である(2回の立論での制限時間に限られる)というものを観念することができるし、新しい論点について質疑を行う機会も保証されるべきであるから、いかに連続しているとしても、立論と反駁を同一に考えることはできないのである。
なお、このように考えるとしても、第一反駁以降では既存の論点については自由に検討できるのであるから、そのために証拠資料を読むことは(事実認定上の意義があるかは別として)何ら妨げられない。この点、反駁以降では資料を読むべきでないという論者も少数いるようであるが、教育上も手続的観点からも理由がないというべきである。

二立論形式のディベートにおいては、主張責任と立証責任の分別が不十分であることに由来する新出議論性の誤解が生じうる。一例として、否定側第一立論においてCounterplanの非命題性を立証する趣旨で論題の定義を行い、それについて肯定側第二立論が反論をしなかったところ、否定側第二立論でこの定義を援用してTopicalityの議論を提出する場合、肯定側はこのTopicalityの定義についてドロップしている以上、肯定側第一反駁で定義を攻撃することは新出議論に当たるため不可能であるという理解がある。
ある定義を提出するだけで論題の解釈がそれによらねばならなくなるという実体的理解がそもそも正しくないという疑問は措くとして、このような新出議論の理解は正しくない。なぜなら、新出議論というためには、その反論が以前のステージで可能であった必要があるところ、否定側第一立論でCounterplanの一部として提出された定義については、Topicalityとして提出されていない以上、「Topicalityに対する反論」として定義を攻撃することは不可能である(正確に言えば、相手から主張されていない以上無意味である)。すなわち、主張責任との関係で言えば、否定側第一立論で出されたCounterplanの非命題性と否定側第二立論で出されたTopicalityのDefinitionとは全く別の議論である。従って、肯定側は否定側第二立論で新しくTopicalityとして定義が援用されたことを契機として、一旦はドロップした定義に対して再反論する機会を得たことになる(これによってCounterplanの非命題性に対して反論が可能になるということはないが、Topicalityへの再反論として当該定義が否定されると、証拠共通原則からCounterplanの非命題性の論拠もまた否定されることになる)。否定側が一旦ドロップされた議論を援用し、再反論されるリスクを生じさせた以上、このような議論に対する反論を認めることは新出議論の規制趣旨に何ら反しない。
まとめると、主張責任が果たされていない議論に対して反論する義務はディベーターにはなく、たとえ論拠だけが提出されていた(対象が存在した)としても、そのことだけで「以前に反論が可能であった」ということはできない。これが一立論形式のディベートでも同様に妥当することは、6.4.3での説明で述べたとおりである。

6.4.5 同意された新出議論の効力

6.4.5.1 総説

新出議論の趣旨は、教育的意義と手続的意義の両面から説明できるものであった。そうであれば、この意義を損なわないような場合については、新出議論に当たるとしてもなお当該議論を排除しないという処理が許されることがあってよいはずである。そのような例として、新出議論であることについて相手方が了承した上で、当該議論を排除しないよう求めているという場合である。違法な証拠資料については、これを排除する必要性は同意によって左右されるものでないため、絶対的に無効であったが(5.5.5)、新出議論であることを理解したうえでそれを認めて援用するような場合には、当事者の利益や試合の公平が損なわれることはないし、新出議論として当該議論を排除する場合より議論が深まることが期待されるから、むしろ排除しないことが期待されるともいえる。
従って、新出議論においては相手方の「新出議論であることについての同意」があるときには、例外的に規制の適用外として処理することを考えるべきである。この点について、ルールは本則第3条において、要件に該当する新出議論を「無効」としており、そのような例外的処理を許していないと読むことが自然であるとも思われるが、無効とされた議論が同意によって効力を復活することまでを明文が禁じているわけではないから、新出議論の規制趣旨に反しない場合には試合の展開によって無効としないことも許されるとしてよいのではないか。そのように考えにくいという場合には、そもそも同意がされたような場合には「相手が持ち出した主張・根拠に反論する場合」であることや(新しい議論)や「第1反駁で出せる反論」でなかったこと(遅すぎる反論)について相手から同意があったことを理由として審判の裁量から新出議論の要件該当性を否定する――そもそも新出議論でなかったことにする――という構成も可能である(後で論じるとおり、筆者は同意の拘束力を否定するが、新出議論の要件該当性は実体的議論でないため審判の裁量事項であり、審判が自由に判断できる)。

以下では、上記のような理解を前提に、新出議論の規制を例外的に外す要件としての同意を考察することにしたい。もっとも、その前提として注意すべきことは、新出議論についての同意は「それが新出議論であること」の同意でなければならず、新出議論に該当する議論の内容について同意するにとどまる場合は除くということである。新出議論の規制は相手方の保護をも目的としており、新出議論であるにもかかわらずそれに気づかないという場合こそ、ルール上の保護を及ぼして当該議論を排除する必要性が高いということができる。

6.4.5.2 遅すぎる反論に対する同意

遅すぎる反論に対する同意が上述した意味でされた場合、当該議論は新出議論として規制されることはないと判断すべきである。もっとも、これは審判の裁量であり、同意を否定して遅すぎる反論であるとすることが直ちに違法となることはない。
同意を認めて遅すぎる反論でないとする場合には、当該反論は排除されず、判定の基礎として考慮することになる。ありうる見解として、反論そのものは排除した上で、援用された限りで議論の存在を認める立場を考えることもできるが、このような無効の相対効を認める理論的根拠はないし、そのような扱いは遅すぎる反論をした側にとって不公平であり、妥当ではない。

同意がされたかどうかを判断するに当たって、遅すぎる反論を受けた側による明示的同意が必要か否かが問題となる。遅すぎる反論に当たる議論が実は相手方に有利なものであり、そのような議論は証拠共通原則から当然に相手方に有利に判断されうるところ、そのような有利を認識しないままで当該反論に言及しない、または反論を加えているという場合に、黙示の同意を推定して相手方に有利に扱う余地はあるか。
これについては、ルールが新出議論の排除を原則として定めていること、相手方が認識していない場合にまで審判の判断で一方に有利に取り扱うことは不公平であることを理由として、明示的同意のない新出議論については原則どおり排除すべきと考える。審判としては、相手方が新出議論であることを明確に認識しているという判断ができない限り、例外的な規制不適用の処置は留保すべきである。

6.4.5.3 新しい議論に対する同意

以上に対して、新しい議論に対する同意がされた場合には、例外的な規制の不適用はないと考えるべきである。その理由としては、ルール本則2条1項において、立論においてメリット・デメリットを提出するということが明記されており、反駁の段階で新しい議論としてメリット・デメリットを提出することは予定されていないことを挙げることができる。また、メリット・デメリット形式においてはこれらの議論は判定を左右する唯一の論点であり、質疑により内容を検討する利益が特に保証されるべきであるから、遅すぎる反論とは異なり厳格な規制を受けるべきであるとの実質的理由もある。立法論として新しい議論についても同意による規制の不適用を定める余地はあるが、現行ルールの解釈からは、新しい議論として反駁段階で提出されたメリット・デメリットは絶対的無効と解することが相当であろう。

6.4.6 新出議論の処理方法

新出議論に該当するとされ、同意による規制の不適用もない場合には、当該議論は無効となり、提出されなかったものとして扱われる。従って、当該議論はもちろんのこと、それを前提として主張立証された議論も無視することになるが、排除された議論に対する反論については、独立に主張立証を観念することができる範囲で、判定に考慮することができる。例えば、遅すぎる議論への再反論で読まれた証拠資料の内容を、証拠共通の原則から別論点に適用することは許されよう(一方、遅すぎる議論に付された根拠は無効として排除されるため、そのような適用も許されない)。

新出議論であるかどうかは手続的判断であり、審判の裁量事項である。従って、審判は選手の指摘に従う必要はないし、指摘がなかった場合でも排除措置を取ることができる(新出議論である場合には積極的に排除しなければならない)。新出議論の判断が審判ごとに異なるという批判がたまに見られ、そのような批判には正当な部分もあるが、上述の通り判断基準については必ずしも明確でない部分もあり、明らかな誤りを除いてばらつきが生じることはやむを得ない。判定講評の場においては、新出議論として排除した理由などを明らかにすることが望ましい。
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