fc2ブログ
 
■プロフィール

アカデミックディベーター

Author:アカデミックディベーター
日当たりの良い某法科大学院を2009年3月に卒業。
ライフワークである競技ディベートについてぼちぼち書いています

■最近の記事
■最近のコメント
■カテゴリー
■月別アーカイブ

■最近のトラックバック
■ブロとも申請フォーム
■ブログ内検索

■RSSフィード
■リンク
事例で学ぶディベートのルール(3.現状が論題採択を支持している場合)
入院日記といいつつディベートの話ばかりを書いている今日この頃です。そろそろ入院生活第1ターム(2年の夏学期)が終了するということで、そのころには軽く思うところでも書いてみたいところなのですが、とりあえずは書きかけていたディベートの話を続けます。

事例で学ぶディベートのルール、と称してケースに即して問題点を見ていく形式で書いてきたのですが、先の大会で見られた議論のうち気になるポイントについては、今回までの内容で一通り触れたことになります。というわけで、ディベートについての今後の記述はルールの解説を時間の空いたときに続けるということになります。
ルール解説については、もう1回試合外の手続(証拠請求と反則の指摘)について書いたあと、議論を行う上での重大争点である証拠法に入っていくことになります。証拠法と、それに引き続いて書いていく予定の議論の規律、判定の規律はいずれも超重要論点であり、ディベートの資格試験があるとすれば毎年頻出の特Aランクになる部分です。というわけで全国大会までにいくらか書いておきたいのですが、時間の関係で難しそうではあります。

と、長々と無関係な前置き(なのか?)を書いてしまいましたが、前回取り上げた「論題外性をめぐる諸問題」に関連して、もうすぐ発行される『トライアングル』(全国教室ディベート連盟の機関紙)に、渡辺先生の連載としてスパイクプランについての解説が書かれています。
紙面の都合もあって若干説明に物足りなさが残る部分もあるのですが(スパイクプランを認めるべきでないという立場の論拠や、スパイクプランにデメリットをつけられるかという論点の理由づけなど。どちらにせよマニアックなので連載趣旨として不要ではある)、重要な点を分かりやすく網羅的に解説してあり、有益な内容となっておりますので、選手の方々におかれましては、お読みいただくことをお薦めいたします。もっとも、トライアングルは連盟会員に発送されるのでなかなか読む機会はないかもしれませんが…。

では、本編に入っていきます。

*7月15日に本編の内容を少し修正しています(一部改説したため)


第3回 現状が論題採択を支持している場合

問題の所在
通常の競技ディベートでは、ある政策を採用することの是非が論題として問われた上で、肯定側はその政策を採用すべきという立場から議論し、否定側はその政策を採用すべきでないという立場を支持します。
このとき、肯定側が拠って立つのは「現状よりも論題採択後の世界の方が望ましい」という立場で、否定側が拠って立つのは「論題採択後の世界より現状の方が望ましい」という立場です。つまり、両方とも「現状は論題を採択していない」という、現状と論題採択後の差異を前提としているのです。
ディベート甲子園では、これがルール上も明示されています。本則2条1項では「否定側立論は,現状維持の立場をとる」とあり、ここから「否定側は論題が採用されていない現状を支持する」ということを読み取ることができます。

しかし、ここでいう「現状」というのは、論題発表の瞬間の世界の状況を固定的に捉える…というものではなく、その後の出来事によって流動的に変化していくものです。論題発表後に消費税が上がれば、それも「現状」になるのです。
そして、このような変化の中には、「論題を採用する」という変化だってありえます。例えば、「日本は炭素税を導入すべきである」という論題で議論している最中に、炭素税の導入が実際になされることが決まる、という可能性だってあります。

このような場合、肯定側や否定側が前提としてきた「現状とプラン後は違う」という前提は崩れてしまいます。このような状況においてどんな問題が起こるのか、そしてそれらにどう対処していけばいいのか。これが、今回のテーマです。

1.否定側の立場はどうなるか
現状の世界が論題を採択してしまう、ということが否定側にとって何を意味するのか。ディベートと関係ない簡単な例で考えてみましょう。

【設例3-1】
ガラス棟高校3年1組では、修学旅行の班分けをしています。Aくんは友達に「3班に入れてもらおうよ」と言われましたが、自由行動で安田講堂を見に行ってもつまらないと思ったAくんは「3班は安田講堂に行くみたいだけど、僕は興味ないから今の1班でいいよ」といって断りました。
しかし、話し合いの結果、安田講堂の地下にある赤門ラーメンが食べたいという班員が現れ、結局Aくんのいた1班も安田講堂を見に行くことになりました。


Aくんが支持していた立場がいつのまにかAくんの気に食わないものに変わってしまっていた、ということです。もっとも、この場合、Aくんは「1班はいやだから安田講堂に行かない2班に入れてもらおう」という選択をすることができます。
この設例をディベート的に表現すると、「修学旅行の自由行動で安田講堂に行くべきである」という論題について、Aくんは否定側で現状維持(1班のまま)の立場にある、ということになります。そこで現状維持が論題を肯定してしまった、という場面でAくんはどうすべきか。上で書いた「2班に行く」という選択は、現状維持ではなく、論題を否定するために別のアクションを採るということであり、いわゆるカウンタープランの提出に当たります。

では、ディベートの試合で同様の問題が生じたときはどうなるでしょうか?

【設例3-2】
論題「日本は死刑を廃止すべきである」でディベートの大会が行われることになったが、大会10日前に実際に死刑を廃止するという法案が国会で可決されてしまった。


この場合、否定側は現状のままでは論題を否定できなくなってしまいます。Aくんと同様に考えれば「それじゃあ否定側としては死刑を存続させるというプランを主張して、その立場から議論する」ということになりますが、ディベート甲子園のルールではカウンタープランが禁止されていますから、このような議論は許されないことになります。
すると、否定側は論題を支持する立場に立たなければならないから、試合では決して勝つことができない…ということにもなりそうです。

もちろん、このような結論は不当ですから、否定側はあくまで論題を否定する立場に立っている、と考えなければなりません。
そのための理屈としては、(カウンタープランが認められないにせよ)「現状維持」の「現状」とは論題が採択されていない状況ということを含意しており、論題を採用するという政策については、否定側はあくまで支持しないということになる、といえます。

以上が、これからの説明の前提となる基本的な部分です。しかし、論題が複数のアクションを規定しており、そのうちの一部が現状において実現するという場合、話はやや複雑になります。
この応用問題について、今年の高校論題を例に、実際に考えてみましょう。

【問題3-1】
論題「日本は18歳以上の国民に選挙権・被選挙権を認めるべきである。是か非か」のもとでディベート大会が開催されることになった。しかし、18歳以上の国民に選挙権を認めるという法案が実際に国会に可決され、次の選挙から施行されることになった。
このとき、現状維持という立場は論題を一部サポートしていることになるが、否定側としては「選挙権も認められていないという状態」を現状と見なし、そのような立場に立つことができるか。


この内容は以下の解説の前提ともなるので、本来なら解説してしまうべきなのですが、今季の論題に関連した事例なので、あえて「問題」としました。後の内容を見れば、設問の趣旨は何となく分かるはずです。

2.現状における論題の採択とデメリットの関係
現状が論題を採択してしまったという場合でも否定側は論題を否定する立場に立てる、というのは上記の通りです。しかし、デメリットの固有性との関係で、問題は残ります。
例えば、次のような状況があります。

【設例3-3】
論題「日本は死刑を廃止すべきである」でディベートの大会が行われることになったが、大会10日前に実際に死刑を廃止するという法案が国会で可決されてしまった。
ここで、否定側は「現在は死刑があるので犯罪が防がれているが、死刑を廃止すると犯罪が増える」というデメリットを述べましたが、肯定側は第一反駁で「現状のままでも死刑は廃止されるから、デメリットには固有性がない」という反論をした。


固有性というのは、デメリットが現状では生じない、ということです。死刑があるからデメリットである犯罪の増加が生じない、と言っているところ、現状でも死刑がなくなってしまうのであれば、現状でもデメリットが生じることになるから、デメリットは評価できない…というのが肯定側の言い分です。

もちろん、これはおかしな話で、このような議論を認めると否定側はデメリットを一切出せなくなってしまいます(スパイクプランにつくデメリットは別ですけど)。上で検討したとおり、現状が論題採択をサポートしているという場合でも否定側に論題否定の立場が擬制されるのですから、否定側は「(現実の現状とは異なるけど)論題を採用していないという世界」を支持しており、そのような世界においては肯定側に指摘された固有性が備わっている、ということになります。

では、次のような場合はどうでしょうか。

【設例3-4】
論題「日本は18歳以上の国民に選挙権・被選挙権を認めるべきである。是か非か」のもとでディベート大会が開催されることになった。しかし、18歳以上の国民に選挙権を認めるという法案が実際に国会に可決され、次の選挙から施行されることになった。
ここで、否定側は「選挙権を引き下げると質の悪い有権者が増えて政治がダメになる」というデメリットを述べましたが、肯定側は第一反駁で「現状でも選挙権は引き下げられるから、否定側のデメリットは現状でも生じるものであり、デメリットには固有性はない」という反論をした。


ここでは、否定側がいかなる立場を採るのかが問題となります(問題3-1の答えそのものです)。ここで「否定側は選挙権は認めるけど被選挙権は認めないという現状を支持する」ということになると、設例におけるデメリットへの反論は的を射ていることになります。否定側の立場によってもデメリットは生じるからです。
このように考えても、否定側は被選挙権拡大から生じるデメリットを出せますから、設例3-3の場合のような不都合は生じないといえます。

ということで、肯定側からのデメリットへの有力な攻撃方法として「論題は現状でも採択されている」という議論がありうることになります。しかし、それはメリットについても同様に言えるのでは?という疑問が沸いてくる人もいるでしょう。というわけで、次はこの点を見ていきます。この問題を検討した上で、現状が論題を肯定している場合の固有性の扱いについて再度見ていくことにしましょう。

3.現状における論題の採択とメリットの関係
先ほどまでの議論を裏返すと、メリットについて「現状で論題が採択されるのであれば、メリットには内因性が存在しないことになる」という反論ができそうに思えます。
ここで確認しておくと、内因性とは、現状に問題が存在し、それが論題の採択によってしか解決しないということです。この定義から考えると、現状が「論題の採択」をするということは、内因性に言われている問題は現状によって解決されているということになり、どこにも問題はないということになりそうです。

しかし、ディベートで議論している論題は「~すべきである」という形で表現されます。これは、論題に示されている行為の採択が望ましいか否かということを問題とするものであり、その行為が既に行われているかどうかとは直接関係ありません。「君は毎日勉強すべきである」と言われて「僕は毎日勉強しています」と答えることは、「勉強すべき」ということについては何も否定していません。これと同じことです。
こう考えると、以下のような事例でも、反論は意味をなさないことになります。

【設例3-5】
論題「日本は18歳以上の国民に選挙権・被選挙権を認めるべきである。是か非か」のもとでディベート大会が開催されることになった。しかし、18歳以上の国民に選挙権を認めるという法案が実際に国会に可決され、次の選挙から施行されることになった。
ここで、肯定側は「選挙権を引き下げると若者の意見が反映されて政治が活性化する」というメリットを述べましたが、否定側は第一反駁で「現状でも選挙権は引き下げられるから、肯定側のメリットは現状でも生じるものであり、メリットには内因性はない」という反論をした。


これは聞いていると「なるほど」と思わされそうですが、先ほど説明したとおり、この反論は「論題を採用すべき」という理由としてのメリットを否定していません。「今だって論題はあるんだから、論題を採用する必要はないよね」という反論は、論題を支持するものとはなっても、論題を否定する理由にはならないということです。
なお、これは実際の試合で見られたものであり、そのときには「国民投票法案との関係で、18歳以上に選挙権を認める動きが進んでいる」といった議論が前提とされていました。この場合、実際に選挙権が認められるようになるのか、といった部分も問題になることはいうまでもありません(特にデメリットに対する反論について)。

以上のように、論題が既に行われていることを理由にメリットの内因性を攻撃する議論を「擬似内因性」と呼びます。このような擬似内因性の議論は反論として無意味であるというのが、一般的な理解です。この見解の根拠は、「否定側は論題が望ましくない(「すべき」とは言えない)ことを示す必要があり、論題に規定された政策が既に実行されていることからメリットを否定する方法はこれを達成できない」ということです。
しかし、このような考え方について、現実が論題を肯定しているという事実と論題が望ましいという事実が無関係であるとはいえないのではないか、という批判もあります。この批判は、「すべき(Should)」は何かと比較してそれが望ましいということを意味するのであって、論題が望ましいというのは、論題に規定された政策が採用されていない状況と比べてそれが「望ましい」という意味であるから、現状が論題を支持してしまっている以上、比較対象と支持対象が同一化してしまっており、もはや「すべき」とはいえない、として擬似内因性の考え方を否定します。

これに関係して、ディベート甲子園のようにカウンタープランが禁止される場合だと、擬似内因性の考え方を貫くと、肯定側と否定側で不公平に思える事態が生じてきます。
というわけで、かなり難しい問題ですが、以下のような問題を考えてみてください。

【問題3-2】
論題「日本は18歳以上の国民に選挙権・被選挙権を認めるべきである。是か非か」のもとでディベート大会が開催されることになった。しかし、18歳以上の国民に選挙権を認めるという法案が実際に国会に可決され、次の選挙から施行されることになった。このとき、次の各問いについて考えよ。
(1)ここまでの解説内容を前提とすると、肯定側は選挙権拡大・被選挙権拡大のそれぞれについてメリットが出せるが、否定側は被選挙権拡大についてのデメリットしか出せなくなる。これは不公平ではないか。
(2)否定側にカウンタープラン(論題を否定する別の政策を提出してそれを採用する立場に立つこと)を提出することを許すルールの場合、否定側が選挙権拡大から生じるデメリットを出すためにはどうすればよいか。
(3)カウンタープランを許さないディベート甲子園のルールで否定側が選挙権拡大のデメリットを出せると考える理屈はないか。
(4)擬似内因性の考え方にもかかわらず、肯定側は現状で解決されている問題をメリットとして主張できないという理屈は成立しうるか。そのような理屈を採ると生じる問題点はないか。


かなりの難問ですが、頭の体操だと思って、プレパの合間にでも考えていただけると幸いです。

この問題の解答と、それを受けての解説の続きは、追記に記載しています。

続きを読む >>
事例で学ぶディベートのルール | 19:08:30 | トラックバック(0) | コメント(0)
事例で学ぶディベートのルール(2.論題外性をめぐる諸問題)
先生に提出すべき課題があって面倒だなぁと思っていたのですが、やってみると思ったほどでもなかった(「そこそこに切り上げた」ともいう)ため、多少時間が出来てしまいました。

というわけで、先日に引き続いて、大会で見られた議論の中で詰めて考えるべき問題を二、三取り上げてみることにします。
今回は割と実践的なおはなしで、選手にとってもジャッジにとってもしっかりと理解しておくべき問題だと思います。こんなところの記事を読んでどうにかなるものでもないといってしまえばそれまでですが、参考になれば幸いです。

というか、(いつも書いていることですが)そもそも参考にしている人がどれだけいるかというのが根本的な問題ではあります。そのことは一向に構わないのですが、せめて全国大会に出場される常連校のようなチームの選手や、ジャッジをされる方は、ここで紹介している程度の内容については押さえておいてほしいものではあります。じゃあお前は押さえられているのかよ、という突っ込みにきちんと答える自信はありませんので、以下の内容で変な点があったら教えてくださるとありがたいです。

では、本編に入ります。


第2回 論題外性をめぐる諸問題

問題の所在
ディベートでは、論題の是非が勝敗を分ける争点となります。ディベートで一般的に出されるメリットやデメリットという議論も、論題を肯定ないし否定するために提出されるものです。
そうすると、メリットとして評価されるためには、それらが論題の肯定や否定に関係するものでなければならない、ということになります。この観点からすると、例えば、以下のような議論について、これを「論題と関係のある」メリットとして評価できるでしょうか?

【設例2-1】
「日本政府は原子力発電を廃止すべきである」という論題のもと、肯定側は以下のようなメリットを提示した。
○肯定側のメリット「原子力発電所を廃止することにともなって交付される原発立地への補助金により、原発のある地方が発展する」


このようなメリットは、原発を廃止することによって生じるメリットではなく、原発を廃止するおまけで支払われる補助金によって生じるメリットであると考えることができます。すると、このメリットは「日本政府は原発立地に補助金を支払うべきである」という命題を肯定することはできますが、「日本政府は原子力発電を廃止すべきである」という命題を肯定する材料ではないということになります。
とすれば、このような議論は論題を肯定するものではありませんから、いくらそれが事実であるとしても、メリットとして肯定側の投票理由になることはありません。

メリットが論題を肯定する材料になっているか、言い換えればそのメリットが論題から発生するものであるかどうかということは、肯定側の主張の前提として要求されるものです(ディベート甲子園のルール本則2条もそのような原則を示しています)。
この部分を問題にする議論を「論題外性」(extra-topicality)といいます。すなわち、「肯定側がメリットとして主張する利益は論題外の理由から生じるものであるから、論題を支持する理由にはならない」という反論です。

以下では、この論題外性について問題となりうる点をいくつか見ていくことにしましょう。

*賢明な読者の方はお気づきかと存じますが、ここまでの説明では「メリット」の話だけをしており、「論題とデメリットの関係」については触れていません。この点については、肯定側のプランをどう理解するかという関係で検討すべき問題があるのですが、今回は省略することにします。

1.論題外性の判断基準
論題外性とは何か、という点については説明しましたが、論題外性が問題となる議論については、具体的にはどのようなものがあるか、少し説明しておきます。
一般的な試合では、肯定側は論題を実行するための具体的方法として数個のプランを提示します。例えば、原発廃止の論題では以下のような形になるでしょう。

【設例2-2】
「日本政府は原子力発電を廃止すべきである」という論題で肯定側が出したプランは以下の通りである。
1.2008から2020年までに段階的に原発を廃止する。
2.現在建設中ないし計画中の原発は建設を中止する。
3.現在原発が立地している地域には雇用対策の補助金を出す。
4.廃止した原発の代替発電として火力発電所を増設する。
5.その他必要な処置をとる。


このような数個のプランのうち、論題のアクションそのものを実行する方法を示しているのは1と2だけであり、3~5はそれを補助するための追加的措置です。論題外性が問題となるような議論は、上記のうち補助的な追加的措置のみから発生するようなメリットです。
設例2-1のメリットも、設例2-2でいうプラン3から発生しているだけである、ということができます。

論題外性を具体的に判断する方法としては、そのメリットがどのプランから生じているのか、そしてそのプランは論題に示されたアクションを実行するためのものであるのか、ということを見ればよいということです。
もっと簡単な方法としては、「そのメリットは論題を実行しなくても発生しうるのではないか」ということを考えることができます。例えば設例2-1の例で言えば「そのメリットは原発を廃止しなくても、補助金を出しさえすれば発生するのではないか」ということです。この場合、メリットは原発廃止から生じているものではないという疑いがかけられそうだということになります。
(いわゆるカウンタープランによって取り込めるような内容ではないのか…ということです。この点は後でも少し触れます)

2.論題外性の問題を免れる方法
以上のような場合にもかかわらず、論題外のメリットではないと主張する方法も、当然あります。これについて、代表的なものを見ていくことにします。

【設例2-3】
設例2-1と設例2-2のような肯定側の立論に対し、否定側は「肯定側のメリットは原発立地への補助金により発生するものであって、原発廃止とは関係はないから、論題を支持するメリットとしては認められない」と述べました。
これに対して肯定側は「我々の補助金プランは原発廃止を前提としている。原発廃止により雇用がなくなった人々に対し補助金を交付し、地元で産業を興すなどして新たな仕事をしてもらうことで地方が発展するという議論であるから、原発廃止がない場合には所定のメリットを得ることはできない。よって、このメリットは論題を肯定するものである」と論じました。


ちょっと難しいかもしれませんが、上の設例で肯定側が言っているのは「原発を廃止せずに補助金を出すだけでは我々の主張するようなメリットは発生しない。我々のメリットは原発廃止というアクションがあってはじめて成立するのだ」ということです。

このような議論は、メリットが論題と無関係のプランだけではなく、論題のアクションを実行するプランとも結び付いている、という趣旨のものです。こうした議論はよくあることで、例としては「地方分権をした上で補助金をあげると地方が発展する」とか「刑事裁判について学校で教えた上で裁判員制度を導入すると国民の法意識が高まる」といったものが挙げられます。

ここで注意すべきことは、メリットが論題とも関係しているとはいえ、その関係性が極めて弱く、実質的には論題のアクションと無関係のプランにほとんど依存しているという場合には、結局のところメリットと論題の関係はほとんどないと評価されうるということです。
例えば、設例2-3について、確かに原発を廃止して補助金を出した方が効果があるとしても、補助金だけを出してもほとんど同じ効果が出るのだとすれば、結局そのメリットは「補助金によるメリット」というべきである…ということです。このような場合、補助金によるメリットと評価すべき部分については論題外と考え、論題が貢献している部分については論題内として評価する、一部論題外の扱いをすることになりそうです。

カウンタープランを認める場合には、このような議論については、否定側から「肯定側と同額の補助金を出す」というプランを出すことによって、メリットのうち論題と関係ない部分を取り込んでしまうことが可能です。しかし、カウンタープランが認められないルールであっても、このように取り込まれてしまうような部分については、論題外性の問題として退けることが可能でしょう。

このほかに、次のような方法で論題外性を回避する主張もありえます。

【設例2-4】
設例2-1と設例2-2のような肯定側の立論に対し、否定側は「肯定側のメリットは原発立地への補助金により発生するものであって、原発廃止とは関係はないから、論題を支持するメリットとしては認められない」と述べました。
これに対して肯定側は「原発を廃止する際には、一般的にはその立地に対して補助金が出る。日本政府も『もし原発を廃止する場合はその立地に雇用対策の補助金を出す』といっています。よって、原発を廃止すれば補助金が出るのですから、補助金によるメリットは原発廃止から生じるであり、論題を肯定する理由になる」と論じました。


肯定側の主張の趣旨は、「論題の採択と補助金交付の間にはリンクがあるので、補助金によるメリットも論題採択から生じるものである」ということです。普通のメリット同様に解決性をつけにいく(現状では補助金が出ないが論題を実行すると補助金が出る…)というものです。

これは論題外とされた議論を論題内に持ち込むものであり、リンクをきちんと証明できれば、有効な反論となります。
もっとも、このようなリンクの証明は必ずしも容易ではありませんし、カウンタープランが認められるルールの場合、メリットの発生原因となるアクションを否定側のシステムに取り込んでしまうという攻撃を受けてしまいます。

さらにこうした主張の正当性を突き詰めて考えていくと、肯定側が論題採択と付随的政策の採択の間にリンクを示したとしても、それをもって付随的政策から生じるメリットを論題内とすることはできない、という反論を考えることもできそうです。すなわち、ディベートで議論されるのは論題主体が行う行為の是非であって、そこでメリットとして主張されるべきは論題主体の意思決定(論題の採択)によって生じる影響であるから、それに伴って行われる論題主体の別の意思決定については、別途の論題としての検討対象にはなりうるとしても、もともとの論題の決定理由にはならない…という理屈です。
分かりにくいので具体例でいうと、国会で原発廃止法案を審議するに当たって、その採択に当たって補助金を出すかどうかは原発の廃止とは別に審議されるべき問題である(別の法案として審議されるか、原発廃止法案を採択することを前提としたオプションとして審議される)ので、そのようなアクションから生じる影響を原発廃止法案の採択を支持する理由として主張することは不当であろう…ということです。

このような理屈が成り立つかどうかはこの場ではこれ以上議論せずに皆さんの検討に任せるとして、ここではこの節の締めくくりとして、以下の問題を考えることにしましょう。
今年の高校論題で実際に出てきた議論ですので、いろいろ考えてみてください。

【問題2-1】
「日本は18歳以上の国民に選挙権・被選挙権を認めるべきである。是か非か」という論題について、肯定側は以下のようなプランとメリットを提示した。
○プラン
1.2010年から公職選挙法を改正し、18歳以上の国民に選挙権・被選挙権を認める。
2.選挙権・被選挙権の拡大に対応すべく、中学校と高校における政治教育を充実させる教育カリキュラムを整備する。
3.その他必要な処置をとる。
○メリット
プランによって政治教育がしっかりとなされることで、若者が正しい政治的判断ができるようになり、また政治参加への意欲関心も高まるため、政治がよくなる。

これに対して、否定側はメリットの内容が正しいことを前提としたときにどのような反論をなしうるか。また、そのような否定側の反論に対して肯定側はどのような反論(あるいは立論での主張立証)をなしうるか。


同じような問題は「成人年齢の引き下げ」や「供託金の引き下げ」というプランから生じるメリットについても妥当することです。
(筆者の解答については後日追記の形で掲載します。次の問題も同様)

3.ターンアラウンドと論題外性
いわゆるターンアラウンドは、実のところメリットやデメリットとして評価されるべきものです。相手の議論の一部を借りてメリットやデメリットを反転ないし新設するものですから、当然のことです。
ですから、ターンアラウンドに内因性や解決性、固有性などの要素が必要であることは当然のこと、ターンアラウンドは論題内のものであることが求められます。例えば、以下のような議論を考えてみます。

【設例2-5】
「日本は死刑を廃止すべきである」という論題で、否定側は「死刑を廃止すると犯罪抑止力が減ってしまい犯罪が増加する」というデメリットを提示した。
これに対して肯定側は「我々は死刑の代替刑として終身刑を採用しているところ、実は終身刑の方が犯罪抑止力は高い。よって、否定側のデメリットはむしろメリットである」と反論した。


このように主張されると、ジャッジとしては「肯定側のいうことが正しければ、実際にはプランで犯罪が減りそうだから、デメリットはむしろメリットだ」と考えたくなりそうです。
しかし、よくよく聞いてみると、「終身刑だと犯罪が減る」という部分については、死刑廃止とは関係ない話です。すると、この部分についてメリットとして評価することは許されませんから、このターンアラウンドは無効となるわけです。

もちろん、前に説明したように「死刑を廃止した上で終身刑にするからこそ抑止力が出るんだ」という議論で論題外性をクリアすることは可能ですが、そのような特別の説明なしにこのようなターンアラウンドを認めることはできないということです。
なお、「終身刑の方が犯罪抑止力が高い」という主張は、「死刑を廃止すると犯罪が増える」ということへの反論としては問題ない(終身刑のプランによってデメリットが防がれる)ので、デメリットが減じられるという限りにおいて、この議論は評価されることになります。単に「メリットとはできない」というだけだということに注意しましょう。

では、確認のため、高校論題での同様な議論を考えてみましょう。

【問題2-2】
「日本は18歳以上の国民に選挙権・被選挙権を認めるべきである。是か非か」という論題について、肯定側は以下のようなプランを提示した。
○プラン
1.2010年から公職選挙法を改正し、18歳以上の国民に選挙権・被選挙権を認める。
2.選挙権・被選挙権の拡大に対応すべく、中学校と高校における政治教育を充実させる教育カリキュラムを整備する。
3.その他必要な処置をとる。

否定側はこのプランに対して、「選挙権を拡大すると判断能力の低い若者が政治参加して政治が悪くなる」というデメリットを提示した。
これに対して肯定側は「プラン2で政治教育を行うと、若者はきちんとした判断能力を身につけるので、デメリットは発生しない。むしろ、政治教育が行われるようになると、今の大人よりしっかりした判断能力が備わるので、今後の有権者の質はどんどん上がっていくため、むしろ政治はよくなり、デメリットはメリットになる」と反論した。
この反論をどのように評価すべきか。



4.論題外性は主張がなくても採用できるか
最後に、応用問題として、論題外性の欠けたメリットについて、否定側から主張がない場合にジャッジが取り上げて判断することが許されるか、ということを簡単に考えてみます。

この問題は論題外性という議論の性質をどのように考えるかにかかってきます。
論題外性に近い議論として論題充当性(topicality)というものがあり、ここでは「肯定側はそもそも論題を支持していない(論題を満たすプランを出していない)から負けとすべきである」ということが問題とされます。このような主張はメリット・デメリットの次元とは独立に評価されるということになっており、この点については否定側から反論されない限りは問題とされない(肯定側に推定が置かれる)というのが一般的な理解です。
論題外性も論題とプランの関係(論題充当性)を問題としていると考えれば、否定側の指摘がないのにジャッジが勝手に判断してしまうことは許されないということになりそうです。
一方で、論題外性は論題とメリットの関係を問題としており、一般のメリットについての評価と何も変わりがないと考えれば、論題内にメリットがあることにつき証明が弱い場合、ジャッジの専権で評価を下げることができるということになるでしょう。
さらにいうなら、そもそも、論題充当性が論題とプランの関係を問題とした、メリット・デメリットと独立した次元の問題であるという理解が間違いであって、論題充当性はメリットの成立を判断する手段である論題外性の中の特殊な類型として「プランの全てが論題と無関係だから、どう頑張ってもメリットはでない」(論題によって解決される問題として挙げられているメリットは存在しない…という意味で解決性への攻撃となる)という形で把握すべきであるとの指摘も可能かもしれません。この考え方からすれば、論題充当性だって通常の議論と同様、ジャッジの専権で取り上げて構わないという結論を導くことも可能です。
*この点につき筆者の書いた文章として「論題充当性の性質に関する一試論」があります

このように、一筋縄ではいかない問題ではあるのですが、一般論として明らかに理由のない議論については当事者の指摘がなくてもジャッジ限りの判断で否定してしまってよいと考えられること、論題外性についてはプランとメリットのつながりを問題とするものであり、メリット・デメリットの評価と同様に処理して問題はないことから、少なくとも論題外性の議論については、否定側から主張がない場合も、明らかに論題外のメリットについてジャッジの判断でこれを評価しないことが許されるのではないでしょうか。

続きを読む >>
事例で学ぶディベートのルール | 03:38:28 | トラックバック(0) | コメント(0)
事例で学ぶディベートのルール(1.コミュニケーションの責任とジャッジの判定)
先週大会の審判に行ってきて、いろいろ面白い議論を聞かせていただきました。それらを具体的に紹介したいという気持ちもあるのですが、それは面倒だということで、ここではディベートのルールや理論を考える上で有益な事例を抽出し、私見を述べていくというスタイルで紹介することにします。

というわけで、別途書いているディベート甲子園ルールの逐条解説とは別に、新コーナーを設立して記事にすることにします。逐条解説(実は逐条的に解説してないのでタイトルを変えようか思案中)の方ではわざと難しげに書いているのですが、こちらは僕の能力の範囲内で分かりやすく問題点を取り上げて書ければと思っています。というのも、実際に見た議論で気がついた点の解説ですから、選手(中高生を念頭においていますが大学生のディベーターでも同様の問題はありうる)に理解されないようでは意味がないからです。
もっとも、こんなblogを読んでる選手がいるのかという根本的な疑問はあるわけですが。一応質問などあればコメントか何かで書き込んでくれればできる限りお答えします。

というわけで、今回は第1回として、「コミュニケーションの責任とジャッジの判定」と題して問題を取り上げてみます。僕は行かなかったのですが、関東大会で聞かれたというジャッジの判定が元ネタです。
ちなみに今後の予定については、暇な時に記事を書くというのはこれまでと同様ですが、逐条解説よりもこちらの方が多少なりとも有益な内容になりそうな気がするので、2~3回はこちらを優先して書くことにします。


第1回 コミュニケーションの責任とジャッジの判定

問題の所在
競技ディベートは、口頭でなされるコミュニケーションによって成立します。ディベートにおいては議論の中身が評価されるのであり、ただスピーチが上手だったということで投票することは許されないのですが、議論を評価するためにはその議論を正確に聞き取る必要がありますから、スピーチという伝達手段はそのような前提を満たすためのものとして、その限りで勝敗に影響します。
「その限りで」というように書きましたが、実際には、分かりやすいスピーチは議論の理解度を上げ、ジャッジの評価を大きく左右するものですから、無視してはならない要素です。いくらうまくスピーチしたところで、もともとの議論内容より高い評価が得られるということはありませんが、理解しにくいスピーチをしてしまうと、せっかく良い議論をしているとしても、それが伝わらないために結果として内容を十分評価してもらえないということになってしまうのです。

今回は、そのような「コミュニケーションの責任」について基本的な部分を確認する一方で、ジャッジがそのような責任を判定に反映させる方法やその限界について考えてみることにします。

1.コミュニケーションの責任
まずは以下の設例を考えてみましょう。

【設例1-1】
肯定側は否定側のデメリットについて、その発生過程を否定する反駁をした。しかし、肯定側の反駁者は時間不足から、その反駁の根拠である証拠資料を早口で読み飛ばしてしまい、ジャッジは資料の内容を全く聞き取ることができなかった。


このような場合、ジャッジは資料の内容が理解できなかった以上、その反駁について十分な根拠があると判断することができません。ですから、この反駁は根拠が(ほとんど)ないということになりますから、判定の際に考慮されないことになってしまいます。
これは、ジャッジが判定に考慮できるのは「スピーチの中で理解できた内容である」という当然のことによる処置です。これは、ディベート甲子園のルールガイドラインには「発言内容がどんなに優れたものであっても、審判が発言内容を適切に理解できなければ判定に考慮されません。」とあることからも理解できるでしょう。

少し難しい言葉でいうなら、ディベーターがある議論を出し、ジャッジがそれを評価する過程は、表現⇒知覚⇒理解⇒記憶⇒評価という過程をたどります。ディベーターが議論の内容を正確に「表現」し、ジャッジがそれをスピーチを聞くことで「知覚」し、その内容を「理解」し、フローシートに書きこむなどして「記憶」します。その内容が最終的に「評価」され、判定の理由に採用されるのです。
ここからも分かるように、ジャッジが議論を評価するまでには様々な過程がありますから、ジャッジに議論を正しく理解してもらうためには、ジャッジが聞き取りやすい(知覚を助ける)表現やジャッジにとって分かりやすい(理解を助ける)表現を選ぶこと、そしてジャッジがフローシートを取りやすいようにスピーチする(記憶を助ける)ことが求められるのです。

ここで、ジャッジによって理解や記憶の能力が異なる場合、あるジャッジには聞き取ってもらえたのに別のジャッジには理解されなかったということが起こることになるのはおかしいのではないか、という意見があるかもしれません。
確かに、ジャッジによって議論の理解に差がある場合があります。それは、経験の差や、論題についての慣れなどによって生じます。しかし、そのような理解の差は少なくともその試合での両チームに対しては平等に現れるものですから、差が生じているとしても判定に不公平が生じるというものではありません。ディベーターに課せられているコミュニケーションの責任は「最も優れたジャッジに理解してもらう責任」ではなく、その試合を判定するジャッジに議論を理解してもらえるようにスピーチを行う責任なのです。

2.分からない議論を確認できるか
以上の説明は、選手の側からの話でした。ここからは、ジャッジが分からない議論にどのように対処すればよいのか、という点について考えてみます。

【設例1-2】
肯定側は否定側のデメリットについて、その発生過程を否定する反駁をした。しかし、肯定側の反駁者は時間不足から、その反駁の根拠である証拠資料を早口で読み飛ばしてしまい、ジャッジは資料中の理由を支える数字について正確に理解できなかった。そのため、ジャッジの中ではその証拠資料の価値が十分判断できない。


先ほどの設例での答えからすれば、このような場合もジャッジはコミュニケーションの不備によって証拠資料の価値を判断できないのですから、そのような議論は判定材料とできないことになります。
しかし、ジャッジとしては、聞き取れなかった数字の内容さえ分かれば証拠資料の価値を判断できるのですから、それについて確認したくなります。果たしてそのようなことが許されるでしょうか?

結論としては、そのような確認は許されません。なぜなら、ジャッジは判定に際して「試合中の」議論のみを判断材料とできるところ、スピーチ以外の場所で知った内容は試合で出された議論といえない以上、判定に考慮できないからです。スピーチが終わってから判定を出す前に資料を見せてもらい、数字を確認するという行為は、この決まりに違反するものです。

なお、設例では証拠資料の「中身」について理解できない点がある場合を取り上げていますが、証拠資料の「出典」が聞き取れなかったという場合も、反駁を採用できなくなる場合があります。出典が不明の証拠資料は証拠としての要件を満たさないからです(ディベート甲子園ルール細則B-4項参照)。そもそも、資料の出典とは証拠資料の価値を高めるための裏付けであって、資料の内容と同等に重視されるべき内容です。試合を聞いていると、出典の部分だけを早口で読み飛ばすディベーターが少なくありませんが、そのようなスピーチは証拠資料の価値を自ら否定する自殺行為といわなければなりません。

さて、聞き取れなかった議論の再確認が許されないということは以上の通りですが、この問題はもう少し詰めて考えることが可能です。例えば、以下のような事例はどうでしょうか。少し考えてみてください。

【問題1-1】
肯定側は否定側のデメリットについて、その発生過程を否定する反駁をした。しかし、肯定側の反駁者は時間不足から、その反駁の根拠である証拠資料を早口で読み飛ばしてしまい、ジャッジは資料中の理由を支える数字の意味について正確に理解できなかった。そのため、ジャッジの中ではその証拠資料の価値が十分判断できなかった。しかし、その後否定側第二反駁においてその反駁についての言及があり、そこで資料において聞き取れなかった数字についても言及があったため、ジャッジはその時点で証拠資料の内容を把握することができた。その結果、肯定側の当該反駁は採用に足るものであり、これを理由として肯定側に投票すべきとの心証が得られそうである。
以上の場合に、ジャッジはこの反駁を判定に考慮することができるか。
*問題文を一部修正しました(下線部)。詳細は追記にて。[2009年1月26日]


ジャッジがスピーチ外で確認したというわけではないが、その資料が読まれたステージとは別のステージ(それも相手方!)で内容を確認できた…という事例です。正しい答えがあるというわけではないので、自由に考えてみてください。ディベートの試合同様、大切なのは結論よりも理由です。
(解答例は追記に記載しています)

3.教育的見地から理解できた議論を不採用にできるか
ここまでのお話は、コミュニケーションの不備で議論が理解できなかったということを問題としていました。ここからは、コミュニケーションとして問題はあったが、議論の内容は理解できた、という場面を考えてみることにします。

【設例1-3】
肯定側の立論のうち一部が非常に早くスピーチされたため、非常に聞き取りにくいものであったが、ジャッジはかろうじて内容を理解することができた。しかしながら、この部分のスピーチは通常の観客や経験の浅いジャッジには到底理解できないと考えられるものであり、コミュニケーションの点で著しく問題と考えられた。


ディベート甲子園ではコミュニケーション点という制度があり、議論を理解できたかどうかとは独立にコミュニケーションを評価することができます。しかしながら、上記の設例のような場合、自分はかろうじて理解できたというだけで、普通は理解できないスピーチであると考えられますから、そのようなスピーチは評価すべきではないのではないか…とも考えられそうです。

ディベート甲子園においては、このように考えるジャッジも存在します。これは、ディベート甲子園が教育的な事業であり、一般人に理解されるような議論でなければならないという理解に基づく判断です(なお、教育的であることや、一般人にも理解されるべきであるということは、競技ディベート一般に妥当することです)。
しかし、競技ディベートは議論の内容とスピーチを切り離した上で前者によって勝敗を定める建前ですから、「分かってしまった」議論について判定から除外するということは、基本的には許されないことというべきです。競技ディベートの最大の教育的目標は議論の内容を対象とするものであり、スピーチそれ自体を評価対象とすることは、むしろ反教育的だということもできます。また、一度理解した内容をコミュニケーションの問題で除外するということは、判定者の恣意的な基準によって議論を不採用にすることでもあります。
この見地からは、ディベート甲子園のガイドライン1項に定められた様々な注意(特にスピーチの速度について)は、あくまで注意や参考のための規定であり、これに反したからといってそれだけで判定を左右するものではないというように理解すべきです。ガイドラインでも「審判が発言内容を適切に理解できなければ判定に考慮されません」とあるのですから、ジャッジが適切に理解したという場合は、ジャッジはそれを判定に考慮しなければならないのです。

ですから、以下のような事例については、なおのこと許されないということになります。コミュニケーションの問題を理由に投票するということは、ディベート甲子園ルール本則第5条で試合の内容(メリットとデメリットの大きさ)により勝敗を定め、同6条で「勝敗とは別に」コミュニケーション点を評価すると定めている趣旨に明らかに反しています。

【設例1-4】
肯定側のスピーチは全体的に聞き取りづらく、一般の観客や経験の浅いジャッジには理解できないものと考えられたため、試合の内容としては肯定側が勝っていると判断したが、コミュニケーションの問題を理由に否定側に投票した。


一旦なされた投票については変更が効かない、ということになっているので、このような場合もディベーターは判定に従うほかないのですが、ルールに照らして問題があるのではないかということを問いただしてみると、将来の違法な判定を抑止するという側面からよいかもしれません。
もっとも、そのような判定をするジャッジは独自の見解に基づいて投票していることが大きいので、おそらく聞き入れてはもらえませんし、多くの場合、コミュニケーションを理由に投票したジャッジは、議論を正確に理解できなかったと感じているため、そのような理由からも判定がされていることがありますから、議論の内容により判定したとしても結論としては同様な判定になっていた可能性が高いです。要するに、文句をつけられるようなひどいコミュニケーションは避けるべきであるということです。

以上述べたとおり、ジャッジはコミュニケーションの不備がある場合も、一旦理解した議論は採用しなければなりません。しかし、このような処置が不当であると考えられる事例もあります。例えば、以下のような問題はどうでしょうか。

【問題1-2】
肯定側が否定側に対して資料を付した反駁をなしたが、その資料は大要以下のようなものであった。『もし○○という状況が改善されるのであれば、論題の採用によって××という効果があるため、(否定側のいう)問題が起こることは考えられない』
ここで、肯定側は資料のうち『もし○○という状況が改善されるのであれば』という部分についてだけ不自然に早くスピーチし、一般には聞きとれないような状況であった。ジャッジはこれを理解できたという場合、この資料の引用を認めてよいか。否定側が肯定側の早読みした部分について認識していた(資料請求をしたり、反駁でこの部分について反論を試みていたという場合)ときに結論は異なるか。


証拠資料の適切な引用という話題にも関係する議論なので、そのあたりも含めて考えてみてください。
(解答例は追記に記載しています)

続きを読む >>
事例で学ぶディベートのルール | 03:58:26 | トラックバック(0) | コメント(0)