今回は、今季中高論題で行われたオンラインディベートの中で、証拠資料の扱いについて問題となった事例をルール適用の観点からまとめて検討するという内容です。議論の内容について感想を書くものではありませんので、読む人はそういうものだと覚悟して読んでください。僕が試合内容にどういう感想を抱いたかについては、高校論題であれば前回と前々回の長文解説を読まれれば何となく想像できるでしょう。まぁ字数制限もあるのでしょうがないとは思うのですが、全国大会ではリサーチをさらに進めた、よりエキサイティングな議論を期待したいところです。
*以下で度々出てくる「証拠能力」とは、証拠資料が判定上考慮されるための資格を意味します(法律用語がもとです)。不正引用などの場合、証拠能力が否定され、その証拠は判定から排除されることになります
4:原本と相違する文面・内容の引用により提示された資料の証拠能力(①②③事例)及び図表を口頭で紹介した場合の細則B-6項類推適用の可否(③事例)
①第8回オンラインディベート練習会中学論題第6試合・平成22年5月29日判定(①事例)
②第8回オンラインディベート練習会高校論題第4試合・平成22年5月24日判定(②事例)
③第8回オンラインディベート練習会高校論題第6試合・平成22年5月22日判定(③事例)
【事案の概要】
[①事例](ペット売買禁止論題)
否定側は、メリットで指摘された問題に対処しつつペットビジネスが行われているということを主張すべく、『捨て犬などを保護し、新しい飼い主を探す「里親探し」を行うペットショップがあります』というクレームに続けて、以下のような文章を引用した(中略された部分は
今年10月、埼玉県越谷市にオープンした日本最大級のショッピングセンター「イオンレイクタウン」。この一回に入るペットショップ「ペコス」の中ほど、子犬たちが展示販売されているその隣に、「ライフハウス」と名づけられた一角がある。常設の里親募集センターだ。
ペコスを経営するペット用品販売大手「ペットシティ」の豆鞘亮二社長はいう。「飼い主が増えれば私たちのビジネスも成長する。でも結果的に飼育放棄され、センターで殺される犬を作り出している側面もある。ペットビジネスに携わる者として、果たすべき責任があると思います。救える命ならば一匹でも助けたい。そんな思いで始めました」埼玉県動物指導センターの協力で、社員が収容犬を引き出しに行く。センターでも独自に里親を募集しているが、貰い手が見つけにくい雑種の成犬で、殺処分目前になってしまった犬を中心に引き受ける。
これに対して、肯定側は試合終了後、中略部分の内容とともに「里親募集センター」(上記太字部分)が実際には「里親募集コーナー」であったことを指摘し、否定側は「コーナー」を「センター」と書き換えることで実際には里親募集しかしていないペットショップが殺処分目前の犬などを引き受けることもしているかのような文意を生じさせたものであり、証拠資料に関する細則3項2号に基づくアピールを行った(どのような違反に基づく主張をするものかは明らかでないが、内容からしてディベート甲子園ルール細則細則B-5項・6項に違反し、また細則C-1項6号の反則事由に該当する不備であるとの主張だと考えられる)[適用条文につき、指摘を受けたため6月6日に修正。詳細はコメント欄参照のこと]。
上記アピールを受けた否定側は、相違が生じていることを認めた上で、中略部分からすればペットショップの「コーナー」が殺処分目前のペットを引き受けているということ自体は正しいので、結論として引用は不当でないと釈明した。
[②事例](積極的安楽死法制化論題)
肯定側は立論で、出典を厚生省「末期医療に関する国民の意識調査等検討会報告書」(1993)として、「痛みがはなはだしく、見るに忍びないほどであるときに、痛みをともなう末期状態における延命治療を中止し、積極的な方法で生命を短縮してほしいかという質問に対して、末期患者の7割がYESと答えているのです」という文章を引用した。この資料について、否定側は質疑で原典にあたったかどうかを確認したところ、肯定側は「はい。」と答えた。
その後、否定側第一反駁で、実際の資料では積極的安楽死に7割が賛成したという調査は末期患者ではなく健康な一般人に対してされたものであるとの指摘がなされた。ジャッジによる事情聴取等の結果、この引用は実際には孫引きであり、アンケート対象についても否定側の指摘が正しく、末期患者が答えたものではないということが明らかとなった(なお、1993年の同報告書が一般国民などを対象にしたアンケートであったことについて、星野一正「日本における終末期医療の現状」予防時報219号(2004.10)15頁を参照のこと)。
[③事例](積極的安楽死法制化論題)
肯定側は立論で、出典を厚生省[注:実際には2001年より厚生労働省]「終末期医療に関する国民の意識調査等検討会報告書」(2004)のグラフを参照するとして、「自分が痛みを伴う末期状態の患者(死期が6ヶ月程度よりも短い期間)になった場合に単なる延命医療を中止することに肯定的である者で、「あらゆる苦痛から解放され安楽になるために、医師によって積極的な方法で生命を短縮させるような方法」を選択する者は14%がYESと答えている」と資料の内容を説明した。
しかし、このグラフの元となっている調査では、積極的安楽死についてYES/NO形式で尋ねてはおらず、疼痛除去や消極的安楽死など他の手段の中から積極的安楽死に該当する選択肢を選んだ者が14%であった。
【判定】
いずれも証拠能力に関連する判断のみ紹介する。
[①事例](実際の判断はこちら)
事案紹介で下線により示した部分の入力ミスについてはいずれも軽微なものとして証拠能力には影響しないと判断した。
「コーナー」とすべき部分を「センター」として引用した点については、「今回の場合センターとコーナーをタイプミスしたこと単独では大きな問題ではなく」「悪意のないタイプミス」であるとしつつ、中略した部分で中略以前に出てこなかった主体である埼玉県動物指導センターが殺処分目前の犬を引き受けている旨の内容があるにもかかわらずこの部分を中略したことから、上記のタイプミスが犬の引受け主体についてミスリードが生じており意味が変わっているとして、細則Bに違反する(適用条項は明らかでないが、B-5項・6項と考えられる)と判断した。反則事由該当性については明示で判断をしていないが、「行動の主体が異なるにもかかわらず、 誤解を招くセンターという言葉のみを残した本中略には悪意と取れる危険性があ」るとしつつ、反則としては処理していないこと、また本件の感想として「本人の悪意に満ちた行為というよりも、その他のタイプミス等から判断するに不注意の極みだったというのが正しいのかもしれません」としていることから、細則C-1項柱書の悪質性要件を欠くものとして反則には当たらないと考えたものと見られる。
さらに、オンラインディベートでは証拠資料の引用について連盟ルールのほかに独自の規制を加えており(こちらを参照のこと)、同規則4項によれば引用不備によって主張内容を不採用と判断することができるとされている。この規定の適用について、ジャッジは中略部分の前後を可分であると解した上で、イオンレイクタウン内のペットショップに里親募集コーナーがあるという事実については認められる一方、中略前の「貰い手が見つけにくい雑種の成犬で、殺処分目前になってしまった犬を中心にペットショップが引き受ける」という中略後の部分については主張内容を不採用とする旨の判断を下した。
[②事例](実際の判断について、判旨①・判旨②・判旨③)
引用内容と原典の内容の相違については、否定側の指摘する通り、実際には末期患者ではなく健康な者の回答であると認定され、また肯定側が実際には原典を参照していなかったことが確認された(判旨①)。
その上で、ジャッジは当該資料について「今回の試合の判定においては、この資料の“有無”を、私は、大きくは採っていません。実は、最初から、資料の“内容”をも、大きく扱ってはいません。」(判旨①参照)として証拠能力や反則事由該当性の判断を行わず、93年のアンケート結果では現在の意思を立証したことにはならないとして、証明力の次元でほとんど考慮できないと判断している(判旨②)。結論として、当該資料を排除することなく、極めて証明力の低い証拠として判定に考慮した(判旨③参照)。
[③事例](実際の判断はこちら)
*適宜判旨の順番を再構成して紹介している
本件ではグラフを文章化して紹介した行為の是非が問題となっており、細則B-6項の直接適用場面ではないためその類推適用の可否が問題となるところ、この点について「原典の内容と異なるものを証拠として使用しようとしたことが問題の中核である以上、同様に解すべき」として、同項の類推適用を肯定した。
その上で、実際には多肢選択形式の質問であったのに、「14%がYESと答えている」としてYES/NO形式の質問への回答であったように紹介した点について、「肯定側立論の文脈にほとんど影響を与えない」が、「元になっている調査結果と肯定側が述べている内容がわずかであっても異なっている以上、それを証拠資料(データ)の内容として評価することはできない」という理由から、「肯定側の表現は、元のグラフの内容を正確に再現しておらず、ルール細則B-6項に反しているということでこの資料を判定から除外する」と判断した。なお、反則事由該当性については検討していない。
さらに、『この資料については、出典の記載にも「厚生労働省」(あるいは「厚労省」)と記載すべきところに「厚生省」と記載している、という問題』があると指摘した上で、『細則B-3項の引用の要件、「著者の肩書き・著者の名前・発行年を示すこと」という部分について、正しい著者の肩書きや名前を示していないという意味での違反とみなすことができる』として、B-4項の適用をも受けると判断した。
【評釈・解説】
[①事例]
本件引用の適法性についての本件判断は妥当であると考える。すなわち、本件引用は、否定側の主観的意図に関係なく、誤記と中略が相まって立証趣旨との関係で不当に有利な文意を作出したものであり、「文章を改変して引用したり、元の文意を変えるような不適切な省略」(細則B-6項)がされていると解すべきである。
肯定側のアピールでも指摘されている通り、本件資料は単に「ペット関連産業としてペットショップがある」ということを述べるにとどまらず、「捨て犬などを保護し、新しい飼い主を探す「里親探し」を行う」ペットショップの存在を立証趣旨(資料のクレーム)とし、このことをデメリットの深刻性を補強するものとしても利用している。さらに、肯定側立論がペットの殺処分を問題としていることから、この立証趣旨はメリットへの反論をも含意しており、実際に否定側第一反駁ではそのような援用がされている。この立証趣旨との関係では、プランで規制されようとしている「ペットショップ」のペット保護・殺処分防止の取り組み内容が問題とされるところ、ペットショップ内の「コーナー」を「センター」と表記した上、「埼玉県動物指導センター」の協力について説明した部分を中略して引用したことにより、ペットショップが単独で里親事業等を行っているような文意を生じさせ、結果としてペットショップの取り組みを誇張する形での引用がされている。これによれば、表記の相違と中略が相まって文意が否定側に有利な形で変更されていることが明らかである。ジャッジの判断もこれと同旨であろう。
否定側は、中略部分からは実際に里親募集をしているのがペットショップであることには変わりなく、誤記と中略による文意は事実と相違しないので、不当引用とされるべきでないと弁解しているが、このような弁解によって本件引用の瑕疵が治癒されるものではない。まず、実際に引用されていない中略部分の解釈を理由として「実際には正しいことを言っていた」として証拠能力を肯定しようとすることは、細則B-5項が直接引用主義の原則を定めた趣旨や、実際のスピーチで資料を提出させるというディベートのあり方に反するものであり、原則として認めるべきではない(後述の通り、反則処分の判断に当たっては考慮も許されると考えられる)。また、本件では単なる中略だけでなく表記の相違も相まって文意が変わっているのであるから、「文章を改変」した点(細則B-6項)について責めを免れることはないし、上述の通り本件引用の不当さは「ペットショップが単独で努力している」ことを誇張する点にあるから、プラン後も残る保健所のペット譲渡について文章中から排除した本件引用は、否定側の指摘する事情を踏まえてもなお、否定側にとって不当に有利な結果をもたらすものといわねばならない。
かかる不当引用によって証拠能力を否定される範囲について、判定では中略前後の内容を可分なものと理解した上で、文意の不当作出がない部分(前半の、里親募集をするペットショップがあるという事実)については証拠能力を肯定している。不当な文意が生じていない以上、その限りでは証拠排除の必要はないといえるから、このような判断は正当であると考える。もっとも、文章によっては全体が不可分であるような場合があり、一部分だけでは単独で意味を持たない場合(統計結果を示す文章とその調査条件についての文章の関係など)もあるし、文章改変等の程度が大きく主観的にも悪意と認められるような場合には、違法抑止や制裁的観点から全部について証拠排除すべき事例もありうるので、証拠排除の範囲については個々の資料や不正の態様によって個別具体的に判断されるべきである。
なお、本件ではオンラインディベートの独自ルールから「主張内容そのものの不採用」が強制されるかという点が検討されているが、ディベート甲子園ルールにおいても、不正引用がされたことを心証の一材料として主張内容そのものを否定することは可能であると解される。そもそも証拠排除されれば通常は主張の根拠が失われる以上主張が採用されることもなくなるし、「根拠の信憑性」(細則D-2項1号)は、選手の主張態様にも影響されるからである。したがって、理論的には、オンラインディベートの独自ルールとして規定される当該部分は確認規定にすぎないということになる(独自の意義を認めるとすれば、不当引用を受けた相手方が改めて別の資料により同様の主張内容を立証した場合でもその立証を否定するということが考えられるが、これには合理的な理由がない。もしかかる運用を意図しているとすれば立法の妥当性を欠くように思われる)。
最後に、本件の不当引用が反則事由に該当するかが問題となる。本件判断では、悪質性の要件につき、限界事例であるとの理解を示しつつ反則には当たらないとしている。否定側の弁解では実際の文意と引用文面の文意は大きく相違しない旨述べられており、確かにペットショップが里親募集の努力をしている事実は認められるから、否定側が不当に大きな利益を得ようとしていたとまではいえず、また主観的悪意もなかったと推認する一材料にもなるから、この事実を重視すれば反則には至らないということになろう。
しかし、ジャッジも指摘するように、本件資料においては異なる複数の主体が登場しており、その理解によって立証趣旨との関係で大きな相違が生じることについては選手も当然予見しえたのであるから、そこには故意の不正と同視しうる重大な過失があったという理解も可能である。私見ではなお反則に至るまでの事案ではないと考えるが、ジャッジによっては反則との判断を下すことも十分考えられる事案であるといえよう。
[②事例]
本件判定は、不正引用が疑われる資料について証拠能力の判断などを行わなかった点でルールに反するものであり、またごく小さなものとはいえども証拠の証明力を認めて判定に考慮した点においても判定上不当であり、支持できない。
本件判定では、末期患者の回答として引用された文章が実際には健康な一般人の回答であったことが明確に認定されている。この資料の立証趣旨は「約7割もの末期患者が積極的安楽死を望んでいる」ということであり、末期患者を苦痛から解放することをメリットとして主張する肯定側にとって、ここで「一般人」ではなく「末期患者」が安楽死を望んでいるのだと主張することには、メリットの評価上極めて大きな意味を持つ。このような事実について虚偽の内容を述べていることは、細則B-5項・6項に明らかに反している。この場合、ジャッジは不正引用であることを前提として、証拠排除が義務付けられる(細則D-2項3号参照)から、これを怠った本件判定は違法というほかない。また、資料の証明力を判断する論理的前提としても、その資料が証拠能力を有することが要求されるから、証拠能力に疑いがあるのにこれを検討せず証明力の問題として検討する判断は論理的にも誤っている。
特に、本件での不当引用は、反則に該当する悪質なものといえる。すなわち、上述のように本件不当引用は提出された議論との関係で中核的な事実について偽ったものであり、また実際には原典を参照していないにもかかわらず、そのような文章があったものとして引用しているという点で、明白な文章改変ないし捏造に該当する。さらに、肯定側は否定側から原典を参照したか質疑を受けた際に「参照した」旨回答しており、捏造資料であったことにつき悪意であるか、少なくとも原典を参照したと偽っているのであって、主観的にも悪質なものといわざるを得ない。その他、肯定側に有利に酌むべき事情は見られない本件では、悪質な不正引用として、細則C-1項5号ないし6号に該当する反則に該当すると判断すべきと考えられる。このような事案であるにもかかわらず、かかる検討を怠ったことにも、判定の実質として大きな疑問がある。
以上の通り、本件不正引用を証明力の問題に回収している本件判定はルールの解釈適用を誤ったものというべきである。これは、判定上不正をした肯定側が負けているからよいという問題ではなく、判定過程にルール上・論理上の誤りがあるというものであるから、同種事例において同様の誤りが生じないよう努める必要がある。
また、証明力についての判示(判旨②)についても、仔細に見れば疑問がないでもない。確かに、ジャッジが指摘するように、93年時点の証拠で2010年の終末期医療水準に照らして同様の苦しみがあるといえるかについては、経験則や常識に照らして疑問がある。しかし、2010年の終末期医療水準が患者の痛みや苦しみをどの程度緩和するのかについても証明が必要なことは事実である。また、本件では肯定側立論で引用された2007年5月のエビデンス(小川節郎)において、末期患者について疼痛治療の限界があることが立証されている。この事実と、問題となっている93年の報告書の文面――実際の内容は不明だが、ここでは引用されているものを前提とする――では「痛みがはなはだしく、見るに忍びないほどであるとき」(ここで「見るに忍びない」とあることから、やはりこの報告書のアンケートは自身が末期患者ではない第三者たる健康人に対してされたのであろうということがうかがえる)に末期患者が行う選択が示されているのであるから、7割には満たないとしても、現在でも末期患者に積極的安楽死を望む動機があるのだということを十分認定できると考えることができる。
このように考えると、判旨②の判断は、資料の古さゆえに証明力が減殺されることを指摘する限りでは正当であるが、他の立証された事実を考慮せず、資料の古さという一事のみをもってして証明力を著しく減殺するものと見える点に疑問がある。不正引用を見逃した場合に本件資料には上記のような証明力が備わっているといえるからこそ、証拠能力について判断し、証拠を排除しなければならないのである(穿った見方をすれば、本件判断は、証拠排除や反則処分を恐れるがあまり、判断を証明力の問題にすり替えた上で、その証明力を不自然に減殺することで実質的に同じ結論を導こうとしたものとも疑われる。しかし、それが判定上不当であることは既に見たとおりであるし、不正な引用を抑止するという教育的見地からも望ましくない)。
[③事例]
本件判断が細則B-6項の類推適用を認め、結論として同項に該当する不正引用と認定した点については、正当と考える。
細則B-6項は、文章の改変や文意を変えるような中略により、本来存在しない文意が作出されることによって判定が害されることを防ぐために規定されたものである。一方、図表やグラフを口頭により紹介する引用方法は、図表の掲示を禁止する細則B-9項(一般の競技ディベートでも明示の禁止はないが通常は口頭で紹介される)との関係で、細則B-5項が定める直接引用主義(文面をそのまま引用する)の趣旨から、図表やグラフの示す内容をそのまま紹介していることを前提に認められるものと考えられる。そのような内容の同一性が認められ、後に図表やグラフを参照して証拠の存在が確認できるのであれば、文章の引用でないという一事をもって証拠としての使用を否定する理由はないからである。これによれば、元の図表等と紹介文言に同一性がない場合、文章・文意の改変に準じるものとして排除の理由が生じ、細則B-6項が類推適用される必要がある。本件判断の理由も同様の理解に基づくと解される。
では、本件引用において、そのような改変があったといえるか。上記趣旨からは、改変によって引用者に不当に有利な文意が作出されたかどうかが問題とされるという理解が素直であるとも思われるところであり、本件引用内容と原グラフの内容の相違の大小を考慮しようとした本件判定もかかる理解に配慮したものと見られる。しかし、ルールの文理からは、有利不利に関係なく改変があれば違法と解すべきとも思われ、本件判断も結論としてこのように考えている。いずれの判断枠組が正当であるかについては意見が分かれうるところであるが、不必要な改変自体が引用の慣行からして「不適切」と考えるのが原則であり、実質的に排除すべき理由がないことは例外事情として別途示される必要があると理解するのが妥当であることから、B-6項該当性についてはひとまず形式的に判断すべきであると考えたい(こう理解することは、実質的に相違が排除相当性を欠く軽微なものである場合にはB-6項に該当しないということであり、その限りで「内容がわずかであっても異なっている以上、それを証拠資料(データ)の内容として評価することはできない」とする本件判断には賛成しない)。
その上で本件を見ると、ジャッジが指摘するとおり、複数選択肢からの選択回答方式であるにもかかわらず、YES/NO形式の質問に対して14%が積極的に安楽死を支持したかのように紹介をした本件引用方法は、グラフの内容と相違しており、B-6項に該当すると判断すべきである。また、B-6項該当性において実質的不当性を考慮する見解に立つとしても、複数選択肢から最も望ましいものとして(妥協的選択の可能性も含めて)14%が賛成したという原グラフの内容と、安楽死の是非に対して積極的にこれを肯定したのが14%であるという引用内容では、後者が肯定側にとってより有利であると見られるので、この意味で不当であるから排除は免れない。もっとも、複数選択肢から選択しなかったのが86%であるという原グラフの内容は、その中に積極的安楽死認容者がいる可能性があるという点ではむしろ肯定側に有利であるとも見えるが、肯定側が14%の積極的支持を強調し、そこに肯定側を利する要素がある以上、ここに強い不当性を見出すべきであろう。
最後に、本件判断は、出典の記載で「厚生労働省」を「厚生省」と誤った点を捉えて、細則B-3項の要求に反しており同4項の適用を受けるとしている。しかし、細則B-4項が証拠資料の信憑性(証明力)を低く判断すべきと要請しているのは、同3項の要件違反が信用性を毀損するようなものであることを前提とするものであるから、そのような信用毀損の実質がない軽微な記載ミスを直ちにB-4項の問題とすることは妥当を欠く。
本件についても、「厚生省」と誤って述べたところで、現在の厚生労働省に相当する公的機関の出典であることは容易に認識できるし、両者とも組織の同一性・連続性が認められる以上その信用性に相違はないのであるから、このような記載ミスを捉えて形式的に細則B-4項を適用することは、ルールの運用のあり方として望ましくない。
オンラインディベートでは中高論題ともにいろいろ試合がされていますが、中身についての感想は書かないことにします。各ジャッジのコメントなどを参考にされればよいと思います(僕の弟もジャッジしている!)。ただ、全体的な感想としては、どのチームもまだまだ改善の余地は大きいように思われます。あと、以下で取り上げる試合の否定側は、議論の中身はともかく(DAはねぇ…)、議論の伸ばし方であるとかワードエコノミーであるとか、そういうテクニック面で職業ディベーターとしての技がいろいろ見えるので、参考にされるとよいでしょう。JDAとかだと中身もガチであのテクニックですから、そりゃ困るというものです。
それでは以下、本論です。ちなみに、後半が刑訴法理論のパクリというのは仕様です。
3:文意を改変する中略のされた資料の証拠能力
(第7回オンラインディベート練習会高校論題第1試合・平成21年5月20日判定)
*試合の内容及び判定はこちら
【事案の概要】
肯定側は論題「日本は国会を一院制にすべきである」を支持する立論において、一院制により審議が迅速化するという議論を展開した上で、その重要性としてグローバル化への対応のため迅速な対応が望まれているということを主張し、以下の形で資料を引用した。
「グローバリゼーションが拡大・深化するなかで、人口減少や急速な少子・高齢化社会を迎える日本は、健全な経済社会を構築し、次世代に引き継ぐことが不可避の課題となっている。(中略)特に、グローバリゼーションがもたらす多様かつ複雑な国内外の課題に対して、的確かつ迅速な対応を可能とする政府の改革に早急に取り組むべきである。」
経済同友会「マニフェスト時代の行政体制と“政策市場”の構築を」2008年4月2日
これに対し、否定側は同資料の中略部分に以下のような内容が含まれることを指摘した上で、このような部分を中略することは文意を曲げ、反論機会を奪うものであるから、反則として敗戦にするべきであり、最低でも当該証拠は判定から除外されるべきと主張した。
中略部分:
したがって、「小さな政府」実現をめざした行政改革をはじめとする財政・税制、社会保障、教育などの構造改革への手綱を緩めてはならない。
これに対して肯定側は、自身の引用は証拠資料の趣旨に反するものではない、中略がされたとしても主張を支持するものであることにかわりはない、などの反論をしている。
【判定】
上記の証拠についての判断のみ紹介する。
肯定側の引用は、「中略部分も含めた引用箇所全文を読むと、著者が意図しているのは対応の迅速化のための行政府の改革であることが明らかですが、肯定側の引用法ではもっぱら立法過程の迅速化を求めているように読めます。これは著者の意図とは異なります」。よって、当該証拠資料は判定から除外されるが、「問題となっている引用は、大抵の人は資料の意図を取り違うが、資料の意図を曲げない解釈もできなくは」ないため、敗戦に至るものとは認めない。
【評釈・解説】
本件は、証拠資料の不当な中略が試合上で問題とされ、これに対して証拠排除の判断がされた画期的な事例であり、実務上も参考になる判断例である。
判定では、問題となる証拠資料につき文意が改変されていることを「著者の意図」との相違に着目して詳細に説示した上で、違法の効果について反則事由に該当するかを主として改変の度合いに着目して判断し、結論として証拠排除にとどめ反則にしていない(ただし限界事例としている)。この処分の結論については妥当といえるが、その判断過程については、なお詰めるべき点があるように思われる。具体的には、①引用の適切性の判断枠組、とりわけ「著者の意図」の位置づけをどのように考えるべきか、②証拠の不当引用の反則事由該当性の判断基準、の2点につき、以下で検討する。
1.引用の適切性の判断枠組
本件判定は、著者の意図を曲げているかどうかを基準として、細則B-6項における「元の文意を変えるような不適切な省略」の有無を判断するようである。しかしながら、引用の適切性においては、著者の意図との相違は重要な判断要素ではあるものの、それ自体が基準とされるものではないというべきであろう。
引用が適切であるかどうか(不当中略との関係で言えば「不適切な省略」がされていないか)の判断に際しては、証拠資料の「不当さ」とは何かという点から出発する必要がある。ディベートにおいて不当とされる証拠資料は、それがジャッジの判断を誤らせることに不当さの理由がある。そこに言われる「誤り」とは、当該証拠資料が本来有していない証明力に基づく心証をジャッジに与えることを指す。ルールはこれを「文章を改変して引用したり、元の文意を変えるような」行為として例示しているものである。
そして、著者の意図に反する形での引用は、それによって常に本来有していない証明力を生じさせるものとは言えない。著者の意図が証明力と関係するのは、当該証拠資料が著者の権威性を通じて立証対象を支持する場合に限られるからである。例えば、法律学の権威が「憲法は二院制を通じて立法府の暴走に歯止めをかけることを意図しており、これは立憲主義の歴史からも正当化できる」という旨の文章を記している場合、ここには詳細な理由付けが記されているものではないが、受け手としては著者の権威性を通じ、そこに確かな理由付け(憲法の解釈として適切に展開されていること、それを支持する歴史的背景があること)を推測し、一定の心証を得ることができる。このような場合、著者の権威性は、当該見解を著者が支持している限りで認められるのであるから、「著者の意図」は決定的な要素となる。一方、単純な統計的事実などについては、その事実について著者がいかなる評価をしているかとは独立して証明力を生じさせるものであり、著者の意図を考慮する必要はない。
したがって、引用が適切であったかを判断するには、証拠の性質と立証対象との関係を考察した上で、当該引用(中略方法)が不正に証明力を作出したものであるかどうかを実質的に検討しなければならない。これに対し、著者の意図に反することをもって直ちに証拠排除を決定した判旨は、その限りで細則B-6項の適用を誤ったものと言わねばならない(条文においても「著者の意図」なる文言はない)。本来ありえた判断枠組としては、第一に当該証拠資料の信用性の発生源を特定し、第二にその発生源との関係で信用性を偽る引用がされているかを判断するというものが考えられる。
(注)実際には、本件判旨は「著者の意図」ではなく「文意」に相違があるかどうかを問題としていると読むことができ、ジャッジもそのように考えているようである(本記事コメント欄を参照のこと)。これは、不正な証明力作出を問題とする点で、上記見解と同様であり、細則B-6項の正しい適用といえる。
これを本件について見ると、グローバル化への対応のために迅速な対応が望まれているという立証をするために証拠資料が引用されているのに対し、問題とされる証拠は、著者の現状に対する認識を踏まえた提言をその内容としており、これは著者の権威性を前提として証明をしようとするものということができる。したがって、ここでは「著者の意図」に着目して第二段階の判断に進むべきであるが、そこでも「著者の意図に反する(相違する)から直ちに不当」ということもできないであろう。ここでも問題となるのは信用性の不正作出があるか否かであるから、①著者の認識・分析に反する文意になっているかどうか、②著者が結論を導く理由付けを省略することで相手方の検証・反論機会を奪っていないか、といった具体的な瑕疵の有無を問う必要がある。
本件では、このうち②が主に疑われるところであり、否定側もこの点を特に問題としている。確かに、中略部分は行政改革を念頭に置いた提言である旨の内容であり、この点を省略することは立法府改革の重要性を証明しようとする肯定側への反論機会を奪うものとして不当に証明力を高めているということができ、証拠排除の理由があるといえよう。また、これは著者が本来意図していなかった立法府改革の必要性という文脈を生じさせているという点で、①の問題としても捉えることができる。
判旨は「中略箇所には「行政府をはじめとする」とあるのに、引用だけ読むと「立法府をはじめとする」という内容であるかのように読めることが問題」とすることから、①の点に着目して証拠排除を決定したようであり、それもありうる判断方法ではあるものの、否定側が主に②の理由で証拠排除を求める以上、これに答える形の判示をすることもありえたように思われる。また、判旨では『「中略のせいで有利になったか」が問題視されているのではなく、「中略によって違うことを言っている資料に見える」ことが問題』とされているが、もしこれが上記②のような不当引用の類型を否定する趣旨であれば、賛同できない。
2.証拠の不当引用の反則事由該当性の判断基準
本件では、結論として証拠排除に加えての反則処分(細則C-1項6号)はされていない。判旨も指摘するとおり、これはルールの文言上「悪質な場合」に該当するかの判断の問題となる。いかなる場合が悪質とされるかについて明文の規定はないから、この点については何らかの判断規範を定立する必要があるところ、これも証拠排除が要求される理由から導かれなければならない。
この点、競技ディベートにおいて不当な証拠が排除されるべき理由は、判定の公正を維持することと、不当な議論方法を戒める教育的理由に求めることができる。前者は、判定が正しい理由付けによってされなければならないという判定理由への信頼維持ということができ、後者は、未来の不当な証拠利用を抑止するという目的と言い変えることが可能である。要するにここでは①判定の信頼保護と②違法な証拠利用の抑止の2点を目的に証拠の排除、進んで反則処分が正当化されることになる。
ここで注意すべきは、①②の目的はいずれも絶対的なものではなく、比較衡量的要素が内在しているという点である。すなわち、①判定の信頼保護という点では、相対的に軽微な証拠違法のために、議論の内容と独立に勝敗を決することがかえって不自然な結論になるということもありうるのであり、②違法な証拠利用の抑止についても、軽微な違法抑止のために反則処分をして議論の内容を判定に反映させないことは、教育上かえってよくないということもありうる。よって、証拠排除を超えて証拠資料の不正を理由に敗戦とすべきかどうかについては、①②の目的との関係で、諸要素を考慮して判断する必要がある。
それでは、具体的にはいかなる判断基準がありうるか。上記で見たような比較衡量の構図からすると、そこでは(1)違法の重大性と(2)敗戦処分の相当性という2つの軸を考えることができる(なお、この2つの両方を満たさないと反則とならないか、片方を満たすだけで反則に値するといえるかも問題であるが、違法の重大性が肯定されれば原則として相当性も肯定されると考えることができ、これにより一応の判断は可能であろう)。
(1)については、)不正の大きさ(証明力が不正作出された度合い、改変の大きさなど)、)不正の有意性(故意でされたかどうか)の2点が主な考慮要素として考えられる。(2)については、)当該証拠の重要性(試合中での位置づけ)、)相手方の被った不利益(相手方に対処可能性があったかどうか)、)不正の頻発性(今後もありうる不正といえるか)といった要素が考慮の対象となるであろう。
本件判旨は、著者の意図と引用文から判断できる内容の乖離の度合いを問題として判断したものであり、上記のうち(1)-を考慮した判断をしたものと思われる。本件では上記の諸要素を考慮しても反則処分に至るほど悪質であるとは言い難いため、結論は妥当であろう。もっとも、否定側が主張するように、オンラインディベートが他チームに参考とされるものであり今後も記録として残ることから影響力を有し、また練習試合の性質上厳しい処分をする許容性もあるということを重視すれば、反則処分が不当であるともいえず、このあたりは判旨も言う「限界事例」として捉えることもできよう。
<参考文献>
筆者の文章として、次のものがある。
「ディベート甲子園ルール逐条解説(10.証拠法(3))」(2007年9月16日『愚留米の入院日記』)
「証拠資料の不正な引用」(2007年4月7日『ディベートの争点』)
ただ、論題解説の件は次回のトライアングルによい原稿が掲載されることと、しばらく法律の本を読みたくないということもあり、すぐには書かないか簡略版にとどめる可能性が高いです。前回の予告はまだその時と場所の指定まではしていません。そのことをどうか皆さんも思い出していただきたい。つまり、僕がその気になれば論題解説の執筆は10年20年後ということも可能だろう…ということです。まぁ、誰が待ってるんだという話ですけど。
というわけで今日は、関東春季大会であったルール違反の問題について取り上げます。百選といっておきながら取り上げる事例が全然なく、今回も前と問題領域がかぶっているのですが、トラブルが少なくてよかったということですか。
それでは以下、本論です。
2:担当ステージ規制の違反
(関東甲信越地区大会平成21年3月29日・第10回関東甲信越地区春季大会)
【事案の概要】
X学校は6名で大会選手登録をしていたものであるが、当日に主催者に許可を求めることなくある試合で3名のチームにより出場した。
さらに、その試合においてX学校は、細則A-6項に違反して立論と第二反駁を同じ選手が担当する旨のメンバー登録をジャッジ・タイムキーパーに提出し、そのまま登録と同様の担当で試合を開始した。その後、試合途中でタイムキーパーがX学校の担当ステージ違反に気づくに至った。なお、その後の調査で、別の学校でも同様のステージ違反があったことが発覚している。
これに対して関東甲信越支部のした判断のうち、担当ステージの違反の点については、本件では細則C-1項1号や同2項1号の直接適用はできず、またマナー違反としての反則についても、運営側が違反を見逃したという落ち度もあることから反則処分は不相当とし、厳重注意にとどめた。
【評釈・解説】
本件ではX学校が①細則A-3項に違反して許可なく4名未満で試合に出場したこと、②細則A-6項に違反したステージ担当で試合を行ったことの2点が問題となるが、①については本連載第1回と重複するので、今回は②の点について検討する。
本件では、細則A-6項違反についていかなる処置を取るかが問題とされている。この点、ルールにおいては細則A-6項違反の場合の処置につき明確に定めた条文がないため、いかなる処置を取りうるかは解釈に委ねられている。以下、ありうる2つの処置について紹介する。
(1)細則A-4項の類推適用
細則A-4項は「試合開始時点で2名以上の選手が揃わない場合には,その試合は敗戦となります。」と定めているところ、ここでいう「2名以上の選手」とは、当然ルールの要求を満たした形で登録された選手でなければならないと考えることができる。そこで、細則A-6項に反する形でステージを申告したチームが、そのまま試合を開始した場合、細則A-4項が要求する「2名以上の選手が揃わない」ことになり、同項が類推適用されると考える余地がある。これによれば、本件のX学校はA-4項により当該試合で敗戦とされることになる。
しかし、この見解については、細則A-4項はその直前にある1~3項(出場人数制限)を受けたものであり、4項の後に配置された6項の違反への適用は予定されていないと読むべきだという文理上の難点がある。また、本件事案と異なり、X学校がメンバー登録上A-6項に反していたものの試合開始後はA-6項違反に気づいて適法にステージを分担した場合において、上記見解では「試合開始時点」を基準に処分を判断するものと考えざるを得ないから、結論において妥当性を欠く。
(2)細則A-6項(なお5項も同様)は行為規範にとどまる
細則A-5項、同6項は細則A-4項のような敗戦処分の規定を欠くため、結局これらの違反についてはルールは敗戦などの処分を直接に予定しておらず、選手に対して取るべきステージ編成を指示する行為規範にとどまるという考え方もありうる。すなわち、一旦違反がされたあとにその行為を反則その他の処置に付す評価規範としての効果は持たないということである。
この見解では、本件のX学校について、行為規範には背いたとしてもこれを処分することはできず、厳重注意にとどめた判断が是認されることになる。
なお、細則C-1項1号については、届けられたステージ担当自体が異なるという本件事案には適用の余地がなく、同2項1号については、出場登録と異なる選手が出場したものでもない上、出場登録ではステージの担当を明らかにすることが予定されていないから、これも適用されない。
それでは、上記(1)(2)のいずれの解釈が望ましいかを考えると、結論としては(2)を支持すべきであろう。一般論として言うなら、(1)が文理上も結論としても妥当でないことは否めないところであり、あえてA-4項のような規定が置かれていないことからも、(2)のように考えることが自然である。
また、本件に即して言うならば、X学校のステージ担当違反を見逃したジャッジ・タイムキーパーに落ち度があるというのはもっともであり、X学校が違反について故意であったかは不明であるものの、過失あるいはルールの不知による誤りであったとすれば、一旦メンバー登録を受け付けてもらった後で処分を受けるというのは酷と考えられる。
このように考えると、本件での支部の処置は正しかったというべきである。むしろ、ここで疑問となりうるのは、そもそも処分規定を設けていないA-5項・6項には何の意味があるのかということであろう。しかし、同条項を行為規範と解する場合にも、そこには以下のような意義を見出すことができる。
本件では試合前の登録時点で違反が発覚しなかったが、もしメンバー登録の提出時点でジャッジあるいはタイムキーパーが違反を発見した場合、当然ジャッジ・タイムキーパーはその補正を命じ、ステージ担当を改めるように促すことになる。そこで修正されるのであれば細則A-5項・6項はその目的を達するし、この補正命令に選手が従わない場合、細則C-1項7号が適用され、指示不遵守として反則負けとなる。
以上を要するに、行為規範として選手だけでなくジャッジ・スタッフに対してステージ担当の制約を命じ、それを遵守させようとすることに、細則A-5項・6項の意義があるということである。裏返せば、ディベート甲子園のルールはステージ担当についてはチーム人数の編成のような処分規定を不必要と判断し、ジャッジ・スタッフが看過したほか相手チームからも指摘がなければ不問に処すという姿勢を取っていることになる。これは、細則A-2項・3項の趣旨が選手の出場機会確保という教育的な見地にあることに対し、細則A-5項・6項の趣旨は一部の選手が重要なステージを全て担当することにより有利になることを防ぐという公平性の見地を中心とすることにあり、したがって相手方が放棄しうる問題であることからも理解できる(もっとも、細則A-5項・6項にも、特定の選手が重要パートを独占することを禁じ、選手の実質的な出場機会を確保するという趣旨があることは否めない。しかし、同条項は細則A-2項・3項で規定未満の人数による出場を認めるべき理由が肯定された後で問題となるから、パートの偏りが問題となるのは、2名チームである選手が質疑以外の全パートを兼ねるような例外的状況に限定される)。
むしろ本件のような問題から疑問とされなければならないのは、細則A-5項・6項それ自体の合理性である。実質的にスピーチの機会が十分与えられていない選手が生じることは避けなければならないが、細則A-5項・6項における担当の制限は、その要請を遥かに上回る強力なものというべきである。特に、細則A-6項が3人チームで質疑だけを担当する選手がいてはならないと定めることは、ルール上単独のステージとして規定された質疑の位置づけを不当に貶めるものであり、その合理性には疑問がある。
ステージ規制の違反を行為規範と捉える場合であっても、以上の問題については立法論の見地からも検討を要するであろう。また、評価規範として細則A-4項類推適用その他の構成でこれを処分すべきと考える場合には、いっそう規定自体の合理性が問題とされるべきである。本稿が解釈論として行為規範説を取るのも、このような事情によるところが小さくない。
<参考文献>
評者のものとして
「ディベート甲子園ルール逐条解説(2.試合の成立)」(2007年5月2日『愚留米の入院日記』)
がある。