愚留米の入院日記
日当たり良好の某法科大学院既習病棟を退院した法務博士の日記。しかし内容はほとんど趣味のディベートの話
いわゆる「いちごT」の批判的検討
ついに司法試験も終わったので、早速予告どおりの内容を書いていくことにします。
試験の手ごたえは…足切りがこわいです。勉強が足らなかったということでしょう。

それではさっそく本論に移ります。答案を書いてきたばかりなのでそういう文体で書きたくもありますが、ここはできるだけ平易に書くことを心がけるようにしたいと思います。

いわゆる「いちごT」の批判的検討

1.はじめに
過日、日本ディベート連盟(JDA)のMLにおいて、日本語ディベート団体で著名な某氏から、以下のような問題提起がされました。

[ぐるめ注:JNDT予選の壁パッチ(関東関西)を]拝見していて気づいたのですが、

Topicalityの議論で
JPN = うるし
the = theater
というのは、きっと何かの誤植ですよね。

それとも、こうした一見して文脈を無視した辞書的な定義を元にTopicalityを議論することに何らかの意味があるというのは、英語アカデミックディベートにおけるコンセンサスなのでしょうか?
[後略]



これは、英語ディベートの論題に含まれるある一語について、辞書から突拍子もない定義を引用し、それをTopicalityと称する、いわゆる「いちごT」という議論についての強烈な批判でした(いちごTについて詳しくは廣江氏のサイトにある「Topicalityレクチャー」などを参照のこと)。
これに対するJDA-MLの英語ディベーター(ほとんどは年長のOB)の反応は概ね2種に分かれており、第一の見解は「議論を出すのは自由であり、制限すべきでない」という方向、第二の見解は「馬鹿げた議論ではあるが、母国語ではないので限界もあるのではないか(後段の点については論者により濃淡があります)」という方向でした。

筆者の見解は、上記いずれでもありません。結論から言うと、少なくともMLで前提とされているような、辞書から定義を引っ張ってきただけのいちごTは、英語だろうが何だろうが採用されるべきではなく、これを評価するジャッジはディベート理論的にも誤っているし、判定者として不適格であるといわざるを得ないということです。したがって、上記第一の見解に対しては、ディベートにおける「自由」の意味を理解できていないと応えることになりますし、第二の見解については、馬鹿げたものにはきちんと馬鹿と言わねばならない(上で引用した問題提起のメールはまさにそういう趣旨であったはずです)と応えることになります。

では、なぜいちごTは否定されねばならないのか。個人的にはJapan=うるしなどと言っている時点で自明であると思われるのですが、どうやらそのように解さない方が少なくないようであると思われるので、以下、理論的に検討してみることにします。

2.Topicalityとは何か
何はともあれ、いちごTもTopicalityを標榜するのですから、最初にTopicalityとは何かという点から考察する必要があります。どうもESSディベートのパッチを見る限り、そこではTopicalityの実質的意味につきほとんど意識がされていないように思われるので、この点はもっと検討されるべきだと考えます(もっとも、予選以降のトーナメントでは本気のまともな議論がされている可能性もあるので、この点はあくまで予選の壁パッチを読んだ限りでの所見に過ぎません)。

当たり前のことから入ると、Topicalityは、肯定側(Aff)が論題を支持できているかを問うための議論です。ディベートでは(この点は後で少し突っ込みますが)論題の是非が争われるのですから、否定側(Neg)が勝つために出す議論は、論題の採択を妨げるものでなければなりません。ですから、AffのPlanがおかしいということや、論題が間違っているということを示すだけではダメで、当該試合において論題が支持されないということを最終的な立証対象としなければなりません。
では、TopicalityはいかにしてAffの論題採択を妨げるのでしょうか。これはいくつか考え方がありうるところですが、一般的な考え方としては「Aff(のPlan)が論題を支持するものでないから、結果としてAffは論題を支持できていない、したがって負けとなる」となるでしょう。いくらADが大きかったとしても、そもそも論題を支持できていないAffに投票することは出来ないということであり、Topicalityが独立で投票理由になるというのはそのような意味です。

それでは、Affが論題を支持できていないというためには、いったい何を証明すればよいでしょうか。それは、Affの出したPlanが論題を支持していない、言い換えればAffのPlanは論題に規定されたアクションを具体化したものではないということを証明するということになります。
今季論題で言えば、”The Japanese government should encourage companies to introduce equal pay for equal work.”という論題に規定されている範囲のアクションを提案していない場合、この論題を肯定する立場にはないということが導かれ、そのようなAffは負けとなるのです。

これを証明するために、Negが示すべきことはただ一つ、「AffのPlanが論題が指示する範囲内のアクションではない」ということです。上記論題で言うなら、Affが法科大学院制度を廃止するPlanを出していて、それがいくら素晴らしいPlanであったとしても、そのアクションは論題が指示する範囲内ではないので、Affは負けとなります。
ここでNegが具体的に論じるべきは、①論題が指示する範囲とは何か(論題の解釈)、そして②AffのPlanは①の範囲に含まれているか、という2点だけです。解釈基準(Standard)がTopicalityの要件だと言われたりもしますが、それは①につき援用される判断の一材料であって、それ以上でもそれ以下でもありません。ともかく、上記2点につき攻防がされた結果、Topicalityの成否が決まるといってよいでしょう。
(この点、一般的には、上記2つに加えて、StandardとImpactがTopicalityの要件だと説明されます[参考:NADEスキルアップ講座 論題充当性第3回(渡辺徹)]が、Standardは必須ではないと思いますし、Impactについては上記で見たとおりの実質的な理解は必要なものの、一般的なアカデミックディベートのジャッジであればその意味するところは共有しているはずです。私見は異なる構成を取っているのですが…)

ここで、いちごTの内容たる「いちごの辞書的定義」は、上記要件のうち①について何か述べようとしているようです。それでは、いちごTが①でいう論題の解釈においていかなる役割を果たしうるのか、というか果たせないのかを見ていくことにしましょう。

3.辞書的定義の証明力
ここで、いちごTの例として、パッチにあった「the=tea party」なる定義に基づく主張を考えてみましょう。実際どのような議論がされているのか理解できないのですが、上記の定義を辞書から引用した上で、それを前提に論題を解釈し、AffのPlanはそこから外れているとするのでしょう。そりゃあ、the=tea partyなる意味に基づいてまともなADの出るPlanを作ることはできないでしょうから、ほとんどのチームのPlanはthe=tea partyにより解釈された論題の定義からは外れるでしょう。

しかしながら私たちは、the=tea partyなる定義が辞書から読まれるということは、ディベートにおいていかなる意味を持つかということについて冷静に考えなければなりません。
当たり前ですが、一つの単語には複数の意味があります。Theについても同様です。そこで、ありうる複数の定義から一つを恣意的に選び出して引用しただけで、なぜthe=tea partyと解釈しなければならないのか。辞書はそれには答えてくれません。したがって、the=tea partyというひとつの珍しい定義を聞いた者としては、せいぜい「そういう意味もあるのね」ということしか確信できず、辞書からの引用はそれ以上の証明にはなりません。

むしろ、一般的には、このようなもの珍しい定義については、引用されても論題とは無関係であるという強い推定が働くはずです(それは論理的でない、変な「常識」を挟むなと言いたい人はもう少し我慢してもう少し後の記述を読んでください)。これは日本語で言えば簡単です。「日本政府は増税すべきである」という文章のうち「日本」について「辞書によると『日』は太陽、『本』は書物なので、日本とは太陽について書かれた本である」といったことを言ったところで、こいつは馬鹿だと思われるだけでしょう(日本語で政策について議論できるレベルの外国人でも同じように感じるはずです)。

そもそも、私たちは、英語であれ日本語であれ、自分が有している言語的感覚や語彙、文脈に即して、論題の意味を理解しているはずです。”The Japanese government should encourage companies to introduce equal pay for equal work.”という文章についても、英語ディベーターの皆さんは同一労働同一賃金についての話題だと(JDAの解説がなくても)分かるでしょうし、それを前提にプレパしているはずです。ジャッジも、何もTが出ないのであれば、そのように理解しているはずです(できなければジャッジなど務まらないでしょう)。
それに対して、the=tea partyなる珍妙な定義が出てきた瞬間、論題の指示する範囲について何らかの新しい証明がされたと考えるのは明らかに不合理です。選手やジャッジは試合前から論題についてあるイメージを抱いている(もちろんぶれはあるでしょう)のですから、これに対してチャレンジする、あるいはそのイメージをより精密にしていく――Topicalityという議論は、いわゆる「普通の」解釈をぶち壊して変な意味を作るのではなく、「普通の」解釈をより精密にしていくことでAffの支持できる議論の範囲を制約している議論であるべきです――ためには、単に代替的な定義を出すだけではなく、その定義にしたがって解釈すべき理由がなければなりません。もちろん、別途理由をつけなくても定義として受け入れられるようなものもあるでしょうが、すくなくともJapanese Governmentの前につくtheについてのtea partyという定義は、通常の言語感覚からすれば受け入れられないでしょう(そもそも文章として有意味な解釈になりうるのでしょうか?最低限その証明をしない限り無理でしょう)。

それでもまだthe=tea partyの定義に何らかの意味があると考える方には、こう問わねばなりません。それではあなたは、他のEvidenceやディベーターのスピーチで出てきたtheについても同様にtea partyを念頭に置いて解釈されるのか、と。この試合ではやたらお茶会が出てくるなぁ…ということにでもなれば、それはそれで一貫して馬鹿だという話になりますが、それを馬鹿だと感じつつもTopicalityについてだけ辞書の定義を一々取り上げるというのも、結局同じことだということに気づいていただきたいものです。

以上、当たり前のことを長々書いてしまいました。一言で言うと「そんな馬鹿な解釈ありえないだろう」ということなのですが、これを「何が駄目なのかよくわかりません」などとおっしゃるジャッジもおられるようなので、丁寧に記述しました。

次の節では、このように馬鹿な定義でも「ディベートでは」取らねばならない、と考える向きの方のため、そのような考え方はディベート理論上もとりえないということを論証することにしましょう。

4.Topicalityの主張立証構造と「推定」論の誤りについて
よく言われるのは、TopicalityについてNegからチャレンジがあった場合、Affはこれに返さなければならないという理屈です。この見解は、NegがTopicalityを出した瞬間に、AffのTopicalであることにダウトがかかり、Affに何らかの立証責任がかかるということです。
これについては、いくつもの疑問を挙げることができます。第一に、ダウトがかからなければAffのTopicalであることは前提とされるのでしょうか。第二に、どんなダウト(NegのT)でもAffに責任を負わせることができるのでしょうか。第三に、Affが負う「立証責任」とはどこまでの内容を指すのでしょうか。

これらの問題を考えるために、AffがTopicalであることは誰が示すべきなのかということから検討してみます。
第2節で見た通り、Affは論題を肯定できていないと負けになります。JDA-MLの過去ログなどを見ると証明責任がどうとかいう話で何か論争がされていて、「主張したものが証明しなければならない(One who asserts must prove)」という原則が出ていたりしますが、これに従えば、Affが論題の肯定を提案するのが試合の構造なので、自身の提案であるPlanがTopicalであることもAffが証明すべきということになります。
また、法律学では証明責任とは「ある事実が真偽不明のときにその事実の存在又は不存在が仮定されて裁判がなされることにより当事者の一方が被る危険ないし不利益」などと定式化され、不利益を課される側が「証明責任を負っている」ことになります。Topicalityについて真偽不明になれば、AffはTopicalでないと考えるのが通常ですから、ここからもAffに証明責任があるということになります(これは、主張した側が証明しなければならないので、Topicalであることを主張するAffはそれを証明できないと不利益を負う、という説明と同じですが、実際には主張責任と証明責任が常に一致するとも限らない――ほとんどは一致するでしょうが――し、いわば消極的要件については誰が主張するかという問題が重要になってくるので、One who asserts must proveという原理だけで主張立証の構造を整理することには限界があるように思われます。JDA-MLの某大御所は論理学の先生なのでその専門的見地から考えるのでしょうが、ディベートにおける議論の審理については法律学の方が近いように思います。まあ僕もよく分かってないのですが)。

長くなってしまいましたが、要するにTopicalであることはAffが証明しなければならない、ということです。この点はほとんど異論はないでしょう。
さて、これを前提とすると、Affは1ACからでもTopicalであることの証明をしなければならないということになるはずです。しかし、普通は誰もそう考えませんし、通常のCaseについてはそのような要求をする必要は無いでしょう。なぜかというと、そんな証明を別途しなくても、我々はAffのPlanがTopicalであるだろうことは(よくあるPlanなら)分かるからです。Topicalityが出ようが出まいが、最初からTopicalでないPlanではAffは勝てません。また、TopicalなAffに対してTopicalityが出されても、それに理由がなければ、Topicalであることは否定されず、Affが負けることはありません。

この点、ESSディベーターの中には「AffにはTopical Presumption(推定)があるから、Negから攻撃されない限りTopicalである」と考える方がいらっしゃるようです。しかしながら、(少なくとも判定上ジャッジを拘束する効力を認める場合)その正当化理由は薄弱です。
「Topicalityはそれだけで勝敗を決めるから」という理由付けでは、Affが唯一出すADについても同様に妥当しますから、これにもPresumptionを認めねばなりませんが、この結論は不当でしょう。「Affの解釈は議論の前提となるから推定を置くべき」というのは幾分ましな理由付けですが、だからこそきちんと議論すべきであり推定など認めるべきでないとも言えるし、逆に議論の前提を掘り返すにはいちごTなどというしょぼい理由付けでは足りないと言えるので、少なくともいちごTに反論必要性を認める論者が援用できる理由付けとはいえないでしょう。
そもそも、Topical Presumptionとか言っている方々は、推定という言葉の意味を分かっていらっしゃるのでしょうか。こういうときこそ辞書などで調べる必要があります。Gooの辞書だと「〔法〕 明瞭でない法律関係・事実関係について一応の判断を下すこと」という意味があります(正確には「ある事実から他の事実を推認すること」です。新堂幸司『新民事訴訟法』3版521頁)が、法律の世界では、推定を破るにはそれを覆滅するための主張立証が必要とされます。「Negからチャレンジがされただけで」推定が破られるという物言いはてんでおかしいということです。
(おそらく、ディベートでPresumptionと呼ばれているのは、真偽不明の際にどっちに入れるかという場面で働く基準のことを指すのでしょう。そういう局面があるのは分かりますが、それをAffが1ACでTopicalityの証明をしなくてすむ理由として持ち出すのが不当であるというのが僕の言いたいことです。つまり、一般的にディベートで言われているPresumptionというのは法律学で言うところの「推定」とは意味が違い、もしAffがTopicalityにつき何らかの証明免除を受けるという説明をしたいのであれば、その際には法律学で言うところの「推定」概念を持ち出す必要があるでしょう。私見は、Affにこのような推定を認める必要もないし理由もないので持ち出すべきでないと考えます)

Affに何らかの理由で(ルールには明文にないので、いわゆるPOP派は口が割けてもいえない理屈のはずです)1ACにTopicalityの証明が免除されると考えた上、その免除効果がNegのチャレンジによりなくなってしまうとするのであれば、もはやいちごTのように辞書引用すらする必要はないでしょう。Negは「Topicalityに疑問がある、全ての単語につき意味が間違ってる」というだけでよいはずです。一種の儀式ですね。
それではダメで、「せめて辞書的定義としても理由がないといけない」と考える場合、既に「チャレンジには一定の理由を要する」という(正当たりうる)立場にコミットしていることになります(法律用語としての「推定」に近い考え方です)。そうなると、なぜいちごTはチャレンジに足る理由になるのかを論証する必要がありますが、それは前節で見たとおり極めて無理筋でしょう。辞書に書いてあるからとか言っている人は、完全に思考停止していて、個人的にはもはやディベーターではないと思いますので、これ以上言うことはありません。

それでも儀式として、Negの何らかのチャレンジを求めるべきだという考え方はありうるのかもしれません。しかし、いちごTであれなんであれ、Tが出されるという「儀式」だけでTopicalityにつき反論の必要性が生じるというのは奇妙ですし、逆に儀式が出なければどんな変なCaseもTopicalなままというのも不合理でしょう。いちごTとは関係なく、Negの反論がない限りはTopicalityは取れないという論者はこれまた多数いるのですが、だったらどんなに証明の薄いADも反論がなかった取るというタブララサを徹底させるべきだといえます(が、今やそんな人はいないでしょうし不当な帰結だと思います)。Topicalityは重要な議論だから…というのは理由にならなくて、普通のADも同様に重要といえるということは前に指摘したとおりです。
さらに、儀式が成立したとして、そこでAffが負うTopicalityについての立証責任とはいかなる内容なのでしょうか。儀式で出てきた理由付けを否定できればよいのでしょうか、それとも論題の全文にわたって正しい解釈を与える必要があるのでしょうか。前者の見解であれば、儀式においても否定するに足る理由付けがされねばならない(つまりいちごTでは儀式は成立しない)と考えるべきでしょうし、後者の見解は、通常のPlanについて一見明白にTopicalであるとの評価を許さないという前提に立つと、Affに過剰な負担を負わせるものといえます。
したがって、儀式としてのNegチャレンジ論は、理由がない上その帰結も不合理であるというべきです。

もう一度前の部分に戻ると、Topicalであることの証明責任を負うはずのAffが1ACでTopicalityを証明する必要が通常ないのは、ジャッジはPlanと論題をつき合わせて、そのTopicalであることを看取できるからです。常識的に証明不要なほど一見明白である、ということです。
これを否定される方は、そのような恣意的なことは許されないなどというのでしょうが、これは恣意とかそういうことではなく議論の評価の問題です。ジャッジがPlanと論題をつき合わせてTopicalかどうかを考えられないのだとしたら、EvidenceとClaimをつき合わせてReasonableかどうかを考えることもできないことになります。母国語ではないディベートだと本当の意味が分からないから慎重に、という意見も昔ありましたが、だったらTopicality以外の議論もそうやって判断すべきだし、もっと言うなら、典型的なPlanが論題の中に入っているか分からない程度の英語力なのだとしたら(多分そうではないと思うのですけど)、英語ディベートはちょっと早いのではないでしょうか。まずは英会話学校に通ったりしたほうがよいでしょう。ネイティブの講師もいるみたいですしね。

5.ディベートにおける「自由」とは
ここまでで、いちごTに判定上何らかの意味があるという立場は取りえないことが示されたと思います。すなわち、いちごTの理由とされる辞書的定義はTopicalityのために何の証明にもなっていないし、Tが出されるという行為自体に判定上の意味を見出すこともできません。何のことはありません、理由のないTでは勝てないという当たり前のことを長々書いただけなのですが、世の中にはそんなことも分からない人がたくさんいる(それも「ディベート」をやってるのに!)というのが驚きです。

そこで、以下では少し話を変えて、ディベートにおける「自由」について考えてみます。というのも、JDA-MLでは、いちごTへの批判に対して「ディベートでは自由に創造性を働かせて議論するべきで、現実的ではないなどの理由でいちごTなどの議論を制約するのはよくない」といった趣旨の発言がされていたりするからです。
ここまで見たように、そもそもいちごTは現実的云々以前に議論とは呼べない代物なので、このような見解は的外れだと思うのですが(ついでに、ML上ではいちごTを規制しろという議論はされておらず、単にしょぼいと言っているだけなので、その意味でも的外れでした)、このような発現から推測するに、どうやらディベート関係者の中には「理由付けはどうあれ好き勝手言うことが自由だ」というぶっとんだ考え方の持ち主がいらっしゃるように思われます。しかしながらこれはディベートという競技の性質及び意義を全く理解しない、誤った考え方です。

ディベートという競技は、ジャッジを説得するものです。そこでは、説得するための理由付けが求められる反面、然るべき理由付けがされればジャッジはそれを採用するだけの合理的判断能力を有するということが前提とされています。ですから、ディベートにおいては、理由付けさえ伴えばどんな議論でも評価されるという意味での自由はありますが、何でも言ったら取ってもらえるというような自由はありません。それはただの無秩序ないし狂気の世界です(実際、the=tea partyとかいう「議論」が違和感なく回っているとすれば、それは相当気違いじみています)。

もちろん、選手がどういう議論を出すかは自由です。別にいちごTがやりたいのであればいちごTを出せばよろしいのです。しかし、ジャッジはそれを自由に評価してよいものではなく、合理的な判断を下していかなければなりません。
いちごTが評価されるべきかどうかという問題は、ジャッジングスタイルとかフィロソフィーとかいう問題ではなく、単に議論の評価に尽きるものです。要するに、馬鹿な議論を馬鹿と切って捨てられるだけの能力があるかないかということです。そして、馬鹿な議論でも評価すべきだという理論上の根拠もありません(だいたい、そんな根拠まで用意しようとしているジャッジはいるんでしょうかね?これこそ「セオリー」ですよ)。それを「自由」とかいうもっともらしい言葉でごまかすのは、ディベートに対する無理解に加え、ジャッジの職務放棄でもありますから、これは厳しく戒められるべきです。

ディベートで自由に考えることで創造的な議論ができるようになる、というのは確かにあるでしょう。しかし、創造というのは、何も考えずにできることではなく、価値あるものを作ろうと苦しんだ末にようやく達成できるものです。辞書で適当に取ってきた定義を論題の単語にひっかけて読むような議論は、全く創造的ではありません(今やほとんどのチームがやってるようですし)。そんな議論を評価することは、まともな議論を考える動機付けを失わせる点で、むしろ選手の創造性を損なっています。安易ないちごTを戒め、理由ある議論を求めていくことこそが、ディベートにおける自由を尊重する態度だというべきです。誤解を恐れずに言うと、いちごTに理由があるかどうか考えずに「ナイスチャレンジ」だとか言っているのは、柔軟な姿勢などではなく、単に頭がゆるいだけではないでしょうか。

6.まとめ
以上、いちごTの不当性について、そしてそれを認めようとする考え方の誤っていることについて、縷々論じてきました。いちごTについては従来「Tとして弱い」といった角度で論じられていたようですが、そもそもいちごTはそれ自体理由になっていないし、そのように評価できないレベルのジャッジはEvidenceの意味も理解できないはずなので(いちごTを認めるなら、同じことをEvidence内の単語にもすることができますね!皆さん新戦略として試してみてはどうですか?)、いちごTが認められること自体ありえないというのは、僕の思うところです。

もっとも、上記の議論は、実際に試合で議論されているディベーターの方々を責める趣旨ではありません。純利益について十分に議論されているディベーターの方々からすれば、いちごTが馬鹿げていることは当然分かっているはずです(でないと英語の文章を読めませんよね?)。それでもいちごTを出しているのは、ジャッジがそういう馬鹿な議論を取るからでしょう。ディベーターとしては試合に勝ちたいと願うのは当然のことなので、まあそんな議論で勝って何がうれしいんだとか恥ずかしくないのかということを思わないでもありませんが、ある意味仕方ないことではあります。

ですから、いちごTについては、100%こんなものを取るジャッジに問題があると考えます。いちごTなどで時間を浪費させていることは、選手の正当な努力を無視し、ディベートの価値を日々切り下げています。それは、選手に対する教育的効果という面でもそうですし、いちごTのような下らない議論が出ていることが知られることでディベートが怪しい競技だと思われてしまうことからもそうです。だって、英語ディベートって凄いなぁ(実際凄いことだと思います)と思われているところにthe=tea partyとか言ってることがばれたら、こいつら馬鹿かと思われてしまいますよ。事実、僕の友人にこの話をしたら、それはやばいとひいていました。これが普通の感覚です。

というわけで、ここを読んでいるようないちごT派ジャッジがいらっしゃるとしたら、今後はそのような議論に対して批判的に評価されるようお願いしたいところです。もしそうすべきでないと考えるようでしたら、そこには理由があると思いますので、コメント欄ででも是非聞かせていただきたいものです(それができないのにいちごTを取り続けるのはジャッジとしての任務懈怠です)。
選手の側も、勇気を出して、いちごTなる下らない主張はやめて、もっと実のある議論をすべきです。いくらジャッジがいちごTを取るとしても、Case Attackに1枚余分にEvidenceを読むなりしたほうが効果的ではないでしょうか。AffでいちごTを出されたとしても、別にレスポンスする必要はないでしょう。それでいちごTにVoteされたら、ジャッジを締め上げて、お前はこんな単語の意味も分からなくてよくジャッジなんてできるな、と思いっきり批判してやればいいのです。それは、ディベートコミュニティにおいては正当に行使できる「自由」であるはずです(理由もあるし!)。

以上が本論です。意図的に攻撃的な内容にしてありますので、異論もたくさんあると思います。是非ご意見いただけましたら幸いです。


補論 Reverse Voterの可能性とディベートジャッジのあり方
JDA-MLでは、いちごTに対して、そのような程度の低い議論を出した側を負けにすべきだ、という”Reverse Voter”の理論についてもやりとりがありました。Reverse Voterとは要するに、論題の是非以外の理由で勝敗を決すべきという議論なのですが、これに対して「論題の是非で勝敗を決するのがディベートの原則であり、これを逸脱する方法での勝敗決定は許されない」という反対論が展開されていました。

この問題について論じるといろいろ長くなりますので、ここでは、ディベートの原則として論題の是非で勝敗を決するということだけが一義的に出てくるものではないということを論じることにします。
ディベートの原則は、ディベートという競技の予定する方式や構造から導かれるべきです。ディベートは、2つの対立する側に分かれて議論する対審構造をとるものですから、そこから「どちらかに投票しなければならない」という原則が出てきます。また、ディベートでは言語で議論しますから、「試合中の発話に基づき、その内容から勝敗を決しなければならない」といったこともいえるでしょう。しかし、議論のテーマとして論題が定められているということは、そこから「論題の是非で勝敗を決するべき」ことを必然的に導くかというと、そうとも言い切れないでしょう。事実、一般の議論では、テーマがあったとしてもそれ以外の理由(個人的な好みや、スキャンダルなど)で結果を決めることはよくあります。
特に、政策形成パラダイムにおいては、実際の政治での意思決定がディベートの一つのモデルであると考えられるところ、選挙では当事者のスキャンダルなどを理由とした投票行動が見られることもあります。もちろん、ディベートにおいて議論と関係ないスキャンダル(一方チームの選手とジャッジが前に別れたカップルだった…とか)で勝敗を決することは許されませんが、議論の内容と関連したスキャンダルであれば、それを理由に一方に投票することが、ディベートの競技方法上許されないとまではいえないでしょう。

また、Reverse Voterを認める見解に対して、「ジャッジは神ではないから、勝手に投票理由を作ることは出来ない」という批判がありました。これに対しては、上記5節の内容と関連して、理由付けが求められる限りでディベーターもジャッジも神にはなれない、と答えることができます。
Reverse Voterによる投票をするには、それなりの理由が必要でしょう。いちごTのくだらなさに加えてその弊害(教育効果&ディベートのイメージダウン)からして、いちごTを出し続けるチームにAgainstする理由はないでもないと思いますが、何にせよ、そのような投票をするためには、ディベーターもそれなりに説明すべきですし、ジャッジも自身の判定としてこれを正当化できる必要があります。
そして、このような正当化が必要とされる時点で、ジャッジは神として自由に振舞うことは出来ません。ディベーターもジャッジも理由付けを通じて合理的に議論に関わっていく必要があり、その中で自由が認められるというのが、ディベートという競技です。だから、僕もいちディベーターとして、上記の通りいちごT批判に相応の理由付けをしているつもりですし、いちごTをジャッジングスタンスなどとして容認するジャッジは、それだけの覚悟が必要なはずです。
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擬似「セオリー」批判(5・完:総括と提言)
予想外の反響があった今回の連載ですが、コメントも落ち着いてきたこともあり、POPの完全版とやらも公開はかなり先になるらしい(筆者の所属する大学の方がご覧になっているようなので、僕の批判に対する返答を織り込んでいるのではないかとひそかに期待しています)ので、とりあえずここまでのまとめということで、総括を書いておくことにします。
ちょうど10月末日でPOP作成母体の梁山泊は解散したらしく、その弔辞といった趣きにしようかと思ったのですが、名前を変えて存続という某カルト教団のようになっているようです。僕には関係ありませんが、日本のディベート理論の発展が阻害されないことを願うばかりです。

さて、今回の内容についてですが、僕の見解はここまでの4回のエントリー並びにコメントへの返答という形でほとんど言い尽くしてしまっていますので、以下ではそれらのうち重要と思われるものを再度取り上げ、整理するという形を取ります。そのため、新規な議論を展開するというより、これまでの議論の繰り返しに近くなってしまっていることをご了承ください。その割に長くなっているのは仕様です。

最初に
最初に、POPへの批判を端緒としていただいた数々のご意見をいただいたことにつき、感謝の意を表させていただきます。僕の見解に対する賛否に関係なく、いずれも自分の見解を見直すものとして参考になりました。
実際英語ディベートを経験されている方に多くコメントをいただきましたが、このような意見は僕にとって非常に新鮮なものでした。以下の総括ではそれらのご意見を前提にした内容を少なからず含んでいますが、コメントをいただいた方をはじめとするディベーターの方々に対して有益な返答が少しでも含まれているとすれば、それはコメントを下さった方々のおかげです。

また、ここで謝罪しておかなければならないこともあります。ここまでのエントリーやコメント欄でのやり取り(そして以下の議論の一部)で、意図的あるいは無意識のうちに、若干(?)揶揄的なことを書いてしまっていることについては、一応自覚しているつもりであり、申し訳なく思っています。
この結果僕の文章が品位を欠くものになってしまっているという批判は当然のこととして受け止める所存ですが、ここでは某MLとは異なり十分に反論の機会はあると思いますし、POPや一部コメントの語調と対比して許される範囲の記述だと思っているので、あえて個人的な感情を抑えないようにしているということでご理解いただければ幸いです。

ともかく、最初にPOP批判の記事を書いたときには考えられないような展開で、筆者としても大いに刺激になりました。ここの主要な読者はディベート甲子園などの日本語ディベーター中心だと思っていたのですが(だから何も言われないだろうということで批判をしたわけではありません、念のため)、今後もコミュニティに関係なくご意見ご感想などいただけましたら幸いです。もっとも、それに値するクオリティの内容を書けているかは怪しいものですが。
もちろん、当初想定していた読者層の方々も、遠慮なくコメントしていただいて結構です。普段ジャッジをしているような人間に殴り込みをかけることのできる機会もそうそうないと思いますので。

1.「セオリー」とは何か、あるいは何でないのか
最初に、僕の考えるセオリー観についてまとめておきます。
日本における英語ディベートで「セオリー」というのがどのような意味を持っているのかは実際のところよく分からないのですが、POPやコメントの中の用法から僕なりに推測すると、そこでは「ADやDAなどの純利益以外の議論一切」を指すものとして使用されているようです。
しかしながら、そういったものを”Theory”と呼称するのは、その辞書的な定義からも不自然ですし、ディベートという営みを描写するものとしても無益だと感じます。そもそも、純利益(net benefit)に関する議論も、CounterplanやTopicalityなどの議論も、論題を争う手段であるという意味では何の違いもなく、純利益の議論とそれ以外の議論を分けて論じる合理性はどこにもありません。POPの最後の方についている対談には「(純利益以外の議論、という意味の)セオリーはプレパが少なくても勝てるからいいんだ」といったことが書いてありましたが、そもそもそのような理解が間違っているということは後で論じるとして、自分たちの好みで勝手に二項対立的な定義をしてしまっているだけではないか、と感じざるをえません。

正しい「セオリー」の定義としては、「ディベートの勝敗を決定するための枠組に関する議論」といったものを挙げることができるでしょう。そこでは、どうやったら論題を肯定ないし否定できるのか(ADやDA、Topicalityはなぜ投票理由になるのかetc)、どのような議論が許容されるのか(Plan amendやAlternative Justificationは認めてよいのかetc)、ジャッジは出された議論をどのように判断すべきか(Tabura RasaとCritic of Argumentの対立やNew Argumentの判断基準など)といったことが議論の対象になります。これらは、試合を離れて論争の的になりますし、試合の中で議論されることもあるでしょう。

このようにセオリーを理解することのディベート実践的な意味は、試合中でジャッジが裁量的に見解を形成できる範囲を明らかにすることにあります。
POPでは「フィロソフィーはShiftできる」とありますが、これは「Shiftする前にジャッジの初期枠組が存在している」ということを前提にしています。つまり、フィロソフィーとして用意されている判定枠組は、選手の議論によらず準備され、適用されるということです。こうした領域については、ジャッジは選手の議論に拘束されることなく、自らの見解を適用することができます(*)。Shiftの議論は、ジャッジに見解変更を促すことであって、ジャッジに対して判定のための事実(無視できない)を提供する行為とは根本的に異なります。このことを明確に区別するための概念として、セオリーという言葉は意味を持ちます。

(*)ですから、ジャッジはShiftの議論に一応の合理性があっても、なお自らの見解が妥当と考える場合、Shiftの議論を採用せず自分の立場で判定を行うことが許されます。そのようなことは許されない(セオリーに属する議論においても選手の議論や合意が優先される)という見解もありえますが、それすら一個のセオリーであって、議論の余地がある問題です。
この点について、裁判でどうなっているかということを一応述べておきますと、裁判では法律の解釈は裁判官の専権であって、当事者の法律上の主張は一個の意見でしかありません。これに対し、事実の問題については裁判所は当事者の主張や証拠に基づいてしか判断できません。法律問題と事実問題は完全に別個のものであり、前者がディベートにおける「セオリー」に当たります。

以上の理解を前提とすれば、POPで書かれている内容のうち、過去の論題を題材にしてTopicalityの具体例を論じている部分は、セオリーではなく単なる議論の展開方法を書いているだけということになります。だから全く価値がないのだというわけではありませんが、そういった内容をセオリーという名前で呼称することは、セオリーという概念の意義を単なるニックネームのようなものに切り下げることになってしまいます。セオリストなんて呼び名はその象徴として批判されるべきだと個人的には思います。ネットジャーゴンでいうところのスイーツ(笑)みたいなものです。
それでもあえてTopicalityなどの議論にアイデンティティを求めたいのであれば、トピカリティストなどの呼称を用いればよろしいかと思います。POPでの議論を読む限り、トピカリティストを名乗るほどの理論があるとも思えませんが、スピリチュアリストを名乗る某タレントのような人もいますからね。

2.ディベートで参照できる基本原理について
POPの中で(真正な意味での)セオリーについて論じている内容のうち、最も問題だと感じたのは、EducationやFairnessといった要素を理由付けもなく完全に否定している点です。この点において、彼らと僕の(そしておそらく通説に近い)ディベート観が最も相違していると感じましたので、以下に詳述させていただきます。

連載の中でも述べていますが、そもそもNAFAのルールですらEducationをジャッジの基本原理として明記しており、この点でPOPの議論は完全に破綻している(ルールが最重要と言いながら実際ルールを読んでいるのかすら疑わしい。NAFAの大会に出たことのない僕ですら30秒で発見できた規定なのに…)のですが、この点はひとまず置いておきましょう。
POPにおいてはディベート原理の根拠としてルールのみをあげているのですが、そもそもそのような態度でディベートをジャッジすることはできません。POPで論じられている種々の内容についても、ルールにはそんなこと書いていないわけで、彼らも実は「ルール以外の何か」を前提としています。与えられた規則だけで物事の判断ができるほど、言語というものは万能ではないということです。

ジャッジの判断枠組を支える根拠としては、ルールのほか、様々な要素を考えることができます。その中には、EducationやFairnessも含まれうるでしょう。そういった観点を踏まえ、論題を肯定ないし否定するというディベートの基本構造を前提にして構築されるのが、いわゆるフィロソフィーであり、セオリーの議論だということです。

Educationについては、現に全国教室ディベート連盟という団体がそれを主要原理にしており、少なくとも「ディベートと相容れない」ということはいえないはずです。NAFAも規則でEducationの原理を肯定していることは既に触れましたが、POPのようにEducationを否定されるのであれば、その理由をきちんと示すべきです。「そんなの関係ねぇ」というのは何の理由にもなっていません。
一応、Educationの実質的根拠について説明しておくと、①沿革的に競技ディベートは議論教育を目的としており、実際にもアメリカのディベートトーナメントや日本の諸団体では議論教育(日本の英語ディベートでは英語教育も?)を目的に活動している、②より優れた議論を促すことは一般的に望ましいことであるし、それがゲーム性を高めることとも符合する、といったことが挙げられます。

ここで、Educationという価値観につき反発を持つ方が多いようである(ちょっと古いのですが英語ディベーターのブログでこういう議論があったりするようです)ので、その点について②の補足ということで書いておきます。
Educationというと、ジャッジの恣意で議論を切るといった悪いイメージがありそうですが、Educationはそんなことを考えるものではないし、「試験勉強」のように辛気くさいものでもありません。上記の通り、Educationというのは、質の高い議論がかみ合って展開されることを推奨するというものだというのが僕の理解です。ですから、それは本来ゲーム性と相反するものではないのです。Educationという言葉は確かに多義的で、何かうっとうしそうだから要らないと言いたい気持ちは分からなくもないのですが、ジャッジがそう思うことを否定する理由付けはないというのが一つあります(選手が望んでないから…というのはどれだけ説得的な理由なのでしょうか)し、何より「楽しければいい」ということでディベートを考え、教育的意義でディベートを語る人を「全否定」する人が、本当にディベートのことを大切にしているとは僕には思えないのです。なので、Educationという原理をかたくなに否定する見解については、自分の議論がしょぼいことをEducationによる「不当な」介入のせいにしているだけの人が多い気がするのが正直なところです。

Fairnessについては、議論という営みから当然に要求されるものということができます。POPでは「強すぎるものをUnfairと言ってるだけじゃないか」としてFairnessを否定していますが、これはFairnessの意味を誤解しています。Fairnessとは、AffとNegの機会を平等にし、対等な立場で議論をさせることを保障する原理です。例えば「Alternative Justification(A/J)はUnfairだ」というとき、それは「A/Jは強すぎて卑怯だ」という意味ではなく、「A/Jは2ARで最も伸ばしやすい1つのケースを守るという利益を得ており、(それはNegにはできないので)平等でない」という実質的な理由を含意しています(もっとも、その分A/Jを取るAffは1つ1つのケースに時間を割けていないので、結果として均衡しているといえるわけですが)。一番分かりやすいのはNew argumentについての話ですが、相手に反論機会を与えないのはUnfairであるということがNew argumentの根拠であって、それを「ルールに禁止されているからでしょ」としか理解しないのは、了見が狭いというほかありません(そのような理解では応用的な場面において何らの解決も与えられないので、ジャッジとしても問題があるでしょう)。
Fairnessの原理は、裁判などを例に出すまでもなく、まともな議論空間であれば当然に尊重される価値です。これを殊更に批判するというのは相当に特異なことで、かなりの理由付けを必要とすると思われます。また、Fairnessを否定することでどのような利益が得られるのかも不明です(Affを選択し続ける…といったこともできないわけですし)。

以上はPOPに対する反論(連載第1回)の繰り返しですが、これを通じて僕が言いたかったことは、ディベートというのは定められた規則だけで扱えるものではなく、様々な要素を考慮して考えなければならないということです。
確かに、EducationやFairnessという要素は一義的な基準を与えるものではなく(論理というものもそういう側面はあると思いますが)、考えにくいところがあるかもしれません。しかし、だからといって面倒そうなものを避けるのではなく、正面からそのような価値観を扱い、妥当な結論を探求するというのが、セオリーを議論するものの正しい姿ではないでしょうか。その結果様々な立場が生じうるかもしれませんが、それこそがディベートの予定する健全なあり方だといえるでしょう。なぜなら、競技ディベートというのは、理由があればどのような見解も許容するという、合理的で開かれた議論空間を志向する営みだからです。

さらに言うなら、そういった多様性を否定し、ややこしそうな概念を避けて「Logical Legitimacy」なるもっともそうな原理(その内容の説明はない=都合よく言ってるだけに思えますが)だけに寄りかかるという姿勢は、セオリーについて精密に考えることを放棄しているという点で、ディベートに対して誠実ではないというべきではないでしょうか。
論理というともっともそうですが、その背景にはいろんなものがあって、必ずしも簡単に語れるものではありません。それでもその中に何らかの理由を見出して自分なりの立場を作っていくというのが「セオリーを考える」ということであって、自分以外の見解について何ら配慮しないという姿勢は、そもそも論で問題があるということです。
*この点、僕はPOPやコメント欄での見解について、どこに疑問があり、なぜ支持できないのかをできる限り論じているつもりです。それでもなお、理由があればそれを認める(自説を変えるかは別として、ありうるかどうかという話でということ)にはやぶさかではありません

3.ジャッジングにおける「常識」と「論理」
コメントの中で一番多かった意見は、「愚留米の議論は常識に縛られていて、論理によってのみ勝敗を決するディベートのあり方とは違う」といった趣旨の内容です。そのうち少なくないものは前述した「偽りのセオリー概念」と関連させられたりしていたのですが、そのこととも関連させつつ、僕の立場を確認させていただきます。

「ディベートでは論理によってのみ勝敗を決する」という命題は、それ自体も批判的な検討の対照とされるべきです。まずもって、そこでいう「論理」とは何を指すのかが問題となります。コメントで頂戴した意見は、この点について明らかに定義するでもなく、単に「愚留米の議論は論理的でない」と述べるにとどまっていたように感じました(どのような点で、なぜ論理的でないかということも指摘されていなかったと思います)。
ただ、コメントの内容から推察するように、そこで言われる「論理」とは、常識を差し挟まないということを含意しているようでした。ということは、そこでは常識というものは論理と相容れないものと捉えられているのでしょう。確かに、常識が常に論理的であるということはないでしょうが、(一般的な)論理的推論の過程で常識を用いることができないということは明らかに誤りです。数理論理の世界ならともかく、一般の意思決定において、経験則などによる推論過程を飛ばして議論をすることは不可能であるか、あるいは著しく非効率です。コメントをくださった方々が常識というものをどのように捉えるのかは分かりませんが、常識というものを「一般人の感覚」とするなら、核戦争のDAを立てる時には「人がたくさん死ぬということはよくないことだ」という議論までしなければならないのでしょうか。

ディベートでいう論理性というものは、一義的に結果が与えられることを意味するものではなく、ある程度の幅を許容する「合理性」を意味するものだというべきです。全ての人が満足する意思決定が常にできるわけではありませんから、ジャッジはAffとNegの議論を比較し、自分の尺度で判断をしなければなりません。その尺度が一般とずれているとか、試合で出された事実と乖離しているという批判はあって然るべきですが、それに理由があるかないかということをすっ飛ばして、論理的だとか論理的でないだとかいう批判しかしないのは、それこそ非論理的だということです。

この点につき、僕のようにディベートにおける論理という概念を合理性と理解する立場に対して、「それはネッター(純利益の議論をする人?)の考え方だ」という反応がありました。これは、少なくともTopicalityなどの議論においては論理のみで勝敗が決せられるべきであるという趣旨かもしれませんが、そのように限定したとしても、完全に主観や外部文脈を排して判断を行うことは不可能です。そもそも、論題の文言について外部文脈を排除するなら、それを解釈しようとする辞書の記述についても同様のレベルの解釈を要求すべきでしょうし、論題だけでなく試合中の全てのスピーチについても同様に厳格な解釈を要求するのが筋ではないでしょうか。そんなことを言っていたらきりがありません。Nativeでないから慎重に…という話についても、そこまでして無理にNon nativeの言語でディベートをするくらいなら、大人しく言語そのものの勉強をして、ディベートはNativeの言語でやればいいんじゃないかというのが素直な感想です。
実際の「解釈」活動においても、契約の解釈などでは当事者の意図や衡平の観点を考慮しますし、言語の翻訳においても最終的には訳者の主観が混じってくることは否定できないでしょう。それなのに、政策論題という一般的な領域に属するテーマにおいて、殊更に「常識」を排除し、普通の解釈活動では行わないような言語研究的解釈を試みることにいかほどの理由があるのか、是非ともうかがってみたいものです。

「ディベートでは論理によってのみ勝敗を決する」ということを論理的に主張されたいのであれば、そこでいう論理とは何物であるかを明らかにした上で、そのような論理だけで判定が可能であることと、そのような論理以外の要素を考慮することがなぜ許されないのかということを論証すべきです。ここまで書いてきたとおり、僕は(論理=主観的意見の排除、と理解するとして)そのような判定はディベートにおいては不可能であるし、それが可能だとして常識のような要素が排除されなければならない必然性はないという立場を取ります。そもそも、(可能かどうかはさておき)本当に常識を排したいのであれば、常識などの外部知識や主観を交えなければ議論できないような政策論題を選択しているのは不自然でしょう。

なお、この点につき僕の見解と同様の主張をされるものとして、井上奈良彦先生がJDAニュースレター14巻2号(1999)で書いた巻頭言がありますので、紹介しておきます。

最後に、僕の言う「常識に基づくジャッジング」という立場の中でありうる基準について説明しておきましょう。
僕の評価基準は、「論題につき中立の立場にある合理的通常人からしてどのように評価されるか」というものを基準とするあり方です。ここでいう合理的通常人というのはどのような人間なのかが問題となりますが、新聞などのメディアで情報を摂取し、日本で暮らしているそこそこの教養水準の人を想定し、そういう人が議論の中身だけで判断を行うという状況を想定しています。僕は自分のことを「そこそこの人」くらいではあるだろうと勝手に思っているので、多分自分とあまり変わりません。ただ、ちょっと人より余計に法律を勉強しているとかいうことは無視することになります。
*ただ、専門的論題のジャッジを続けていると「常識の汚染」というものも否定できず、その辺はどうやって克服しようか考えないといけないような気もしています。だからといってそういった予備知識を完全否定できないというのは既に論じているので、そこでの方法論は「試合中に参酌できる外部情報の限界」を探求するということになります。

こういう立場に対して、それはジャッジの恣意による介入であるとか、ディベーターの議論を尊重していないとか、(英語ディベートであれば――日本語ディベートでもありうる状況ですが)言葉の本当の意味を分かっていない人間がでしゃばるとよくないとかいう批判がありそうですし、現にそのような批判を頂戴しています。
しかし、然るべき証明があれば別論、自分の知っていることと相違するものにつき、ディベーターが言ったからその通り判断するというのは、むしろ「分からないのに分かったという」点でディベーターに対して不誠実ではないかと思うのです。ましてや、Topicalityの論点だけそういうように考えて、読まれたエビデンスの中身については何となくそういうものだと捉える…という立場があるとすれば、不誠実というだけでなく一貫していないというべきです。
ディベートにおける証明活動というのは、ジャッジの持っている基本的な世界観を前提として、それを修正したり補足したりしつつ、一定の心証を形成する行為です。ですから、ジャッジの世界観(常識)に照らして合わない議論については、それだけ強度の理由付けがないとジャッジの心証を勝ち得ないということになります(分からないものについてはそれだけしっかり説明しなければならない)。これは、価値観云々というより、人間はそういう風にできているので仕方ないという部分があると思います。こういうあり方を完全に否定されるのであればその理由をお示しいただきたいところですが、そういう理由があったとして(*)、少なくともディベートコミュニティ以外の一般社会での合理的な議論というのは、判断者の世界観を前提としているということだけは、理解しておく必要があると思います。

(*)あまりにも理由が示されないので、この無理筋の議論を何とか説明する方法として、僕のほうで一つのアプローチ方法を提案しておきます。事実を判断するための前提情報と、判断される対象である事実そのものについての情報で扱いを分けるというのは、一つの考え方としてありえそうです。すなわち、辞書や専門書については「事実判断の方法」として認められることを受け入れた上で、それによって判断される対象については外部情報を一切参酌しないという方向性です。もっとも、こう考えても「ではどういうものが前提情報として許容されるに値するのか」という議論は避けて通れませんし、事実の判断に外部判断を一切参酌しないということが不自然であるしそれも無理ではないか…という批判は依然として妥当しうるでしょう。

4.<価値ある>ディベートとは何か
POPの記述を読んでいると、POP筆者と僕ではディベートという活動に求めるものが異なるのではないかということを感じました。それが、ここまで見てきた内容の相違とも密接に関係しているというように思います。そこで、僕がディベートにどのようなものを求め、どこに価値を見出しているのかということについて、説明しておくことにします。

POPの筆者は、ディベートを選んだ理由として「先輩がいない」とか「弱いチームを強くできればかっこいい」ということを挙げており、「正直、ディベート自体はどうでも良かった」と記述しています(POP98-99頁)。それ以外にディベートの意義を論じていないところからすると、ディベートは一つの自己満足ゲームであって、それ以上の意義は求めていないのでしょう。
それ自体は別に勝手ですし、他人事ですので批判するつもりもない(ただ、ディベートを語る相手としての魅力はかなり減じられてしまいますね)のですが、そのような価値観をセオリーの根拠に据える(Educationの否定など)のであれば、説得的な理由が示されなければならないはずです。みんながみんなディベートに教育的意義を求めていないということはありえないし、POP筆者の自慰的ディベート観を他の選手に押し付けるというのは迷惑そのものです。もちろん、自説として展開するのは勝手ですが、彼らは独りよがりの自説を元にジャッジなどを批判しているのですから、迷惑というほかありません。

僕にとって、ディベートは他の競技で代替できるというものではなく、それ自体に価値があります。ディベートによって自分の見識が広がったという実感は多少なりともありますし、何よりも「考えること」の楽しさを味あわせてくれる、貴重な機会です。ディベートには他の方法にはない教育的意義がある(万能ではないですが…)ということもその通りだと思いますし、だからこそ少なくない時間をディベート団体の活動に割いています。
こういった意義は、おそらく他の多くのディベーターも、多かれ少なかれ感じているはずです。忙しい学生時代に、膨大な時間を使って取り組むディベートですから、そこにできるだけ多くの意義を求めるというのは当然のことです。学生ディベートコミュニティの中で特異な議論を回して賞賛を得たりすることより、十年後二十年後に生きるような議論能力を身につけることのほうが、ディベーターにとって有益であることは疑いようもありません。
更に言うなら、ディベート大会で優勝したという事実自体も、はっきり言ってさほど価値のないことだと思います。少なくとも僕は、自分の知るディベーターをそういった肩書きで評価することはありません。

ディベートという営みは、現実社会から乖離したものではありません。そこでは、現実の社会で扱われている問題を議論し、その社会に生きる一員としてのジャッジが判断を行います。その意味で、ディベートは極めて社会的な営みであり、自閉した学生ディベートコミュニティの中に限定されるものではありません。現実社会で全く評価されないような議論は、ディベートにおいても高い評価を受けることはないでしょう。それでもなお、現実にはありえないような議論がディベートにおいて評価されてしまっているとすれば、それはディベートコミュニティが不健全であるという証です。
これは梁山泊とは関係ないようですが、Japanがうるしであるとかいう意味の分からないことを言っていて、何を得られるのでしょうか。一度、そういう議論が回っている試合をトランスクライブして、和訳した上で冷静にお読みになってみてはどうでしょうか。そして、その原稿を親や友達に見せて「私は大学でこんなことをしてるんだ」と胸を張っていえるのでしょうか。将来子どもができたときに、「昔こんな議論をしていたんだ」と誇れるのでしょうか。詰まるところ、そういうことだと思います。

最後に、誤解を招くといけないので断っておくと、僕はTopicalityなどの議論がインチキであるとか、そういうことを言いたいのではありません。テーマについてきちんと解釈し、その意図するところを特定する作業というのは有用ですし、論題を争うに当たって必要不可欠である場合もあります(連載第4回で紹介したNDTの議論などはその好例でしょう)。しかし、Topicalityはあくまで勝つための一手段に過ぎないわけで、それを回すことにこだわるあまり、時に無理な議論になってしまうということは大いにありえることです。

5.論題の「善意解釈」について
ここで、僕がTopicalityについて主張するところのうち最も反発の強そうな「善意解釈」論について説明しておくことにします。「善意解釈」とは、論題に何らかの欠陥があると考えられる(その帰結が著しく不当である)場合、論題策定者の意図や論題の置かれた社会的文脈を参酌し、AffとNegの両方にとって公平でかつ無理のない論題解釈を想定するという考え方です。

このように考える必要性としては、さしあたり以下4点が挙げられます。
①そもそも論題はディベートの試合を有意義に成立させることを前提に作られているはずであり、そのような観点から調整を行うことは許される
②論題策定者(論題を選んだ選手も含む)の意図として、議論が論題の有意味な解釈の存否に終始したり、片方だけが不当に有利な形で試合が展開せざるをえないような状況は想定されていない
③Educationの観点から、意味のある議論が展開できる領域を確保できるような解釈が取られるべきである
④Fairnessの観点から、AffとNegで著しく格差を生じさせるような解釈は取るべきでない

そして、このように考えることが許されるという許容性については、以下3点を挙げておきます。
①そもそもTopicalityも普通の議論と同じくジャッジの自由心証により決するものであり、ディベートをする上でおよそ不当といいうる解釈であれば、当然に否定されてよい
②善意解釈がAffとNegに対して公平なフィールドを保障するように行われれば、Fairnessの観点から問題はない
③Negが出したTopicalityが無駄になるという意味での選手の不利益については、善意解釈の要件を「善意解釈しなければ試合がおよそ成立しない場合」と限定的に解釈する(僕も、常に善意解釈すべきとは考えません)のであれば、善意解釈される可能性を予測できるので問題はない(そういうリスクを加味した上で出すべき。事前にジャッジにフィロソフィーをチェックしてもよいでしょう)

このような理由から善意解釈が認められると考えることができますが、否定説からの反論を考えることを通じて、善意解釈が実質的に許されるものであるかどうかをもう少し検討してみましょう。
善意解釈を否定する理由として、論題の文理解釈に反するような解釈は取りえないというもっともな批判がありえます。しかし、文理解釈によってのみ判断がされなければならないというものでもありません。実際にも、文理解釈に沿わない形で法文や契約を解釈する判例は多数存在します。
Topicalityの目的はAffが論題の意図を越えて自己の支持すべき政策を不当に設定していることを非難するものであって、試合の成立を妨げたり、およそ現実的でない帰結を持ち出してNegを有利ならしめることではありませんから、文理解釈だけでおよそ現実的でない解釈を導くことはそもそもTopicalityの所期するところではなく、善意解釈によって「論題が本来担うべき領域」を設定することがTopicalityの趣旨に即しているということができます。
妥当な形での善意解釈は不可能であるという批判もありうるでしょう。確かに、善意解釈を許すことがジャッジの恣意的な判断につながる可能性は低くありません。この点を理由に善意解釈を否定する立場もありうるとは思います。しかし、恣意性を避けるため善意解釈を行わずに論題の解釈だけで一方が事実上勝利してしまうような偏った状況を生むことと、多少の恣意性は生じるかもしれないが善意解釈によってAffとNegの双方にとって公平な状況を作ろうとすることを比較したとき、前者が判定のあり方として優れているとはいえないのではないでしょうか。また、論題の解釈はその他の事実に比べて試合判定のための枠組としての側面が強く、ジャッジによる一定の裁量的判断が許される余地があるとも考えられます。

おそらく、善意解釈を否定する方の意見としては、「勝てる議論をジャッジの善意とやらで制約するのは迷惑だ」というものがあるのでしょう。しかし、ジャッジは政策形成者を模して議論を判断していると考えれば、論題が間違っているだとか、現実的でないといった主張は政策形成において十分なインパクトをもっていないのですから、否定されて当然ということができます。そもそもそんな揚げ足取りで説得される人がどのくらいいるのかということです。関連して、Topicalityだとリサーチがいらないので楽に勝てる…という都合なども、セオリーを構築する上ではどうでもいいことです。論題を肯定したり否定する理由は自由なのですから、Topicalityだけ尊重しなければならないということもありません。
筋の通った揚げ足取りであれば説得されるという人がいるかもしれないし、場合によってはそういうことがあってもよいのかもしれません。しかし、そんな議論は論題の是非を論ずるに当たって本質的でないと考える僕のようなジャッジも存在すると思いますし、それを絶対に否定しなければいけないという理由もないでしょう(少なくともPOPでは議論されていません)。そして、一般社会においては、議論不可能なテーマは適宜修正ないし善意解釈して議論されるものであって、実質的議論と切り離してテーマの解釈を云々するようなことはありません。

善意解釈の方法論についてはなお詰めるべき部分はありますが、基本的な考え方は以上の通りです。ディベートは政策の中身について議論するために行うものであり、テーマの意味について政策論争と関係なく云々するための競技ではないはずです。Topicalityという手段を目的化してしまうことは、結果としてTopicalityという議論が持っている本当の可能性を忘れ去らせることとなり、Topicalityというイシューを腐らせてしまうことになりかねない(実際の例を聞くと、既に腐敗臭が漂っているように感じます)というのが、僕の懸念です。

6.小括~梁山泊及びPOPに対する評価~
以上を要するに、POPに記されている内容の核心的部分は、独善的な動機に基づく、理由を欠いた暴論であるということができます。彼らの方向性に全く可能性がないと言いきることまではしませんが、少なくとも彼らの提示した論拠だけでは、理論としての正当性を何ら証明できていないというべきです。
さらに付言しておくなら、彼らの取る態度は、ディベート理論を真剣に考えることから離れ、「常識」や「公平」など、曖昧ではあるものの避けて通れない価値観から逃げ出す、「逃げの精神」をその本質とするもののように感じます。そのような精神は、荒木飛呂彦先生(ジョジョの作者)も、板垣恵介先生(グラップラー刃牙の作者)も、賛同するところではないでしょう。

梁山泊のメンバーが、理論的であると称してPOPなる経典に記している内容の多くは、まったくのたわごとにすぎません。POPの記述を見る限り、同書の筆者が、本当の意味での「議論」とはどんなものかも知らず、ディベートの初歩的な教科書にも書いてあるような確立された原理すら理解できていないことは明らかです。POPの読者が、批判精神を欠いてPOPの内容を鵜呑みにし、誤った理解をしていないことを願うばかりです。

以上の評価について不当だと感じられる方もいらっしゃるでしょうが、少なくとも僕が当連載で検討し、コメントでのご指摘を踏まえて考えた結果、そのような結論に至らざるを得ません。
ご覧になっていただければ分かりますが、検討の中では、POPの記述のうち賛同できる部分についてはその理由とともに同意し、自説とは異なるものの成立の余地があると思われた部分についてはその旨明示して議論しています。その上で、理由がない内容については、できるだけその理由を明らかにした上で、批判をしたつもりです。コメントの中には「最初からPOPを批判するつもりで見下して読んでいるのではないか」という指摘もありましたが、それは僕の議論に対する幾つかのコメントには当てはまるかもしれませんが、僕の議論に対しては妥当しないと思います。僕の場合は「読んだ結果批判する気になった」というものであり、それ以上の動機はありません。また、某MLでの過去の論争から一部のディベーターが不満に思っているらしい「権威的議論」をしているものでもありませんし、英語ディベートだからどうとかいう不毛な言説にも乗らず、POPの内容に即した検討を心がけたつもりです。
少なくとも、何らの理由も示さずに通説的なディベート理論を批判するPOPの言説に比べれば、遥かに公正中立の立場から論評を加えることができたのではないかと自負していますが、どうでしょうか。

もちろん、以上の評価は、公開されたPOPという文章を対象としたものであり、筆者たる一ノ宮氏のディベート能力全般や、氏の実績などを否定する意図によるものではありません。ディベートにはセオリーだけでなく、スピーチの能力などその他重要な要素が多々あります。POPに記されているような稚拙なセオリー(もどき)の理解しかないとしても、大会で優勝することは十分可能でしょうし、そのような優勝が無意味であるとも限りません。

ここまでの検討ないし評価をもって、僕から梁山泊に対する、弔辞と代えさせていただきます。実際面識があるわけではありませんが、一応ご冥福をお祈りしておきます。
そして、新しく生まれ変わったらしい殺虎塾とやらには、稚拙な擬似セオリーをいつまでも奉じるのはやめて、真にディベート普及の為に意味のある活動をしていただきたいと願っております。エビデンス検証という活動自体は意義があることだと思いますし、POPの中にもまともな議論はあります(例えば、本文でも書きましたが、TopicalityをADの一要素と捉える構成はその通りだと思います)ので、批判的に再検討したうえで、きちんとした「セオリー」について普及を行っていくことは可能でしょう。

7.一ディベーターからの提言
以上がPOPに対するコメントですが、ここからは、今回の一連の議論を踏まえて、敢えて僕なりの提案を記させていただきます。前にも書いたとおり、コミュニティ論争をするつもりはないのですが、一ディベーターとして(それ以前に議論に関心のある一大学院生として)おかしいと感じることが多々あることは否めませんので、敢えてコミュニティを超えた(身勝手な)提言になっていることをお許しください。
*前提事実の多くは伝聞という形になってしまっており、そのため当を得ない提案になっているかもしれませんが、その点はご容赦ください

7-1:真っ当にディベートをしたいディベーターの方へ
コメントの分布や伝聞での内容によれば、英語ディベートで擬似セオリーなど「不自然な」議論が回っているのは主に関西地方(近畿?)で、関東ではいわゆる日本語ディベートとあまり変わらない(といっても毛色は違いますが)、真っ当な議論が回っているように思います。
とすれば、ある程度存在する、真っ当にディベートをやっている英語ディベーターの方々は、そういったディベートに対して、正直食傷気味なのではないでしょうか?

もし「そういう刺激も悪くない」と思われるのでしたら、それも結構です(もっとも、それはセオリーでもないゲテモノでしかないし、将来役立つこともないということは既に指摘したとおりです)。しかし、本当はそんな議論に付き合いたくないという人も少なくないと思います。
*昔ディベーターのブログをあさっていたら、西の方の変な議論に辟易していた関東の有名なディベーターが愚痴っていたら関西の人に怒られて謝っていたという可哀想なことになっていたのを覚えています。もう消されてしまっていますが…

しかしながら、現状ではそのような人は「そういうもの」だと思ってあきらめるほかは、梁山泊のブログに半ばヤケ気味に暴言をぶつけるということしかできない状況のようです。これは非常にもったいないことです。
僕から皆さんにオススメしたいのは、おかしいとおもったらそれをはっきりと「試合中」及び「ブログなど理論につきじっくり議論できる場」で指摘し、批判することです。皆さんの直感は正しいので、恐れることはありません。僕がここまで書いてきたように、彼らの議論にはほとんど理由はありません。POPの筆者は大会で何かしらの実績をあげているようですが、そんなもの関係ありません。そんな権威など無駄だということは、POP自身が保障してくれています!

大切なことは、暴論に対して暴論で応対しないということです。おかしいと思うのなら、その理由をはっきり示すことです。ジャッジに対しても、おかしいと思う議論についてはおかしいことをきちんと指摘してやればよいのです。くだらないTopicalityのために辞書を引き引き頑張る必要はありません(この辺はよく分からないのですが、部室かどこかに何冊か信用できる辞書を備えておけば足りるのではないでしょうか?)。「なぜこれでAffが負けるのか分からない。分からないものは分からないのだから取るな」と言ってやればよいのです。
後で詳しく触れますが、おそらくPOPにあったり、(梁山泊以外の)一部が出しているような変な議論が取られてしまうのは、そういうものにマトモに付き合ってしまうために批判される機会が失われ、ジャッジの心理として「これを無視すると文句言われそうだなぁ」という(情けない)態度を取ってしまうからだと思います。だったら、おかしい議論にはしっかりと「おかしい」というリアクションを取って、ジャッジにきちんと考えるよう促せばよいのです。

このような戦略は、おそらく最初のうちは受け入れてもらえず、負けることも出てくるでしょう。しかし、それでもよいではないですか。くだらないと思う議論に付き合って「よりくだらない」議論を出すことを目指すより、くだらないものはくだらないと突き放した方が精神衛生上もよいのではないでしょうか。そんなくだらない議論で負けても、何も痛くもないはずです。JapanがうるしだとかいってNegにVoteされたなんて、コンパか何かでいいネタになりますよ。
最初は受け入れられなくても、ずっと同じ批判を続けていれば、ジャッジも気づいてくれるはずです。それに、誠実な異議申立てを続けることは、くだらないと思う議論に真面目に付き合うよりずっとためになること請け合いです。

繰り返しますが、真っ当にディベートをしたい皆さんが取るべき道は、大人しく真っ当でない議論に従うのではなく、真っ当でないということを正々堂々争うということです。これは、きちんとセオリーについて考えるということを意味します。相手は擬似セオリーしか知らないのですから、普通に考えていれば勝つこと間違い無しです。

7-2:POPを信奉するディベーターの方々へ
僕の一連の批判に理由がないと考える方は、僕の提案などどうでもいいでしょうが、一応コメントしておきます。同じディベートという競技に取り組んでいることには変わりありませんから。

まずは、もういちどPOPの内容を読み直し、本当にそれが理由のある内容なのか、そういうディベートをやっていることが自慰的行為以上の意味合いを持っているのかを、考え直してはどうでしょうか(失礼に当たることを承知で書いています)。
かなりの時間を割き、おそらくは英語でのスピーチ能力についてかなり熟練した方々だと思うのですが、そのような能力をもてあまし、政策ディベートでまともに政策を論じないというのは、端的に言って勿体ないことだと思います。僕の知る限り、そのような議論能力を必要とするフィールドは、日本には(そしておそらく外国にも)存在しません。むしろ、真剣にそのようなことに意義があると考えているとすれば、それは極めて有害な思考様式だとみなされるでしょう。

その上で、なおPOPの記述が正しいと考えるのであれば、それはNAFAという団体の基本理念と相反している恐れがあります。これは部外者からの指摘なので実際はそうではないのかもしれませんが、Educationの否定がNAFAの規則に反することは既に指摘した通りであり、梁山泊もとい殺虎塾が第一に行うべきは、当該規則の修正削除を目指したロビイングでしょう(冗談です)。
結社の自由及びそれに付属する団体活動の自由(信教の自由?)は、公共の福祉に反しない限り保障されます。ですから、POPに代表される思想に貫かれたディベートを行うこと自体は自由ですし、それについて僕がとやかく言うことはできません。しかし、ディベートを本当に大切に思っているのでしたら、変な論題だと思うのであれば論題検討の段階でその旨伝えるべきだし、自分の立場と異なるディベーターやジャッジを理由なく非難するのもお控えになったほうがよろしいでしょう。皆さんが僕やその他普通のディベーター(ネッターというのですか?)にとやかく言われたくないように、POP流の擬似セオリーを押し付けられるのが苦痛でしょうがないという方もいらっしゃることに、想像力を逞しくしていただきたいということです。

7-3:ジャッジの方々へ
実際に英語ディベートのジャッジングがどのようになされているのかよく分からないのでこの点は推測の域を出ないのですが、うるしTや渡り鳥Tなど無意味な議論が出されているということに鑑みれば、このレベルの擬論であってもcritic outしないジャッジが相当程度いらっしゃるということなのでしょうか。
それは、Tabura Rasaの立場を貫かれているのでなければ(純粋なTaburaは理論的にも採りえないと思いますけど)、ジャッジとして期待される最低限の批判水準を満たしていないというべきです。特定のジャッジを批判する意図はもとよりありません(知りませんし)が、明らかに理由のない議論を「出されたから」という理由だけで評価してしまうことは、ジャッジとしての誠実性を欠くものだと思います。
もしかしたら、理由がないかどうかも分からないから、とりあえず採用しておこうという立場なのかもしれませんが、それについても「最低限の批判水準」以下であるということは変わりないというのが僕の見解です。英語だから実際の解釈はよく分からない…というコメントもありましたが、そんな程度の英語力しかないようでは、そもそも英語ディベートのジャッジは勤まらないのではないでしょうか(辞書で新しい定義を出されただけで迷っているのであればなおさら)。もっとも、僕は「その気になれば」そういう方でもきちんと英語ディベートの判定は可能なのだと信じています。何しろ、高速で読まれるエビデンスの内容をきちんと理解できている(と思われる)のですから。

さらに突っ込んで言うと、いわゆるBMD論題のTのような、およそまともな議論を不可能にするような解釈についても、疑問を呈するような考え方は持っていてしかるべきだと思います。もちろん解釈としてそのようなもの以外ありえないという判断をされることは自由ですし、それにも合理性はあるのかもしれませんが、そのようなTopicalityで勝負が決まってしまうことが議論のあり方として不自然であるということを感じ取れないのは、ジャッジ云々以前に、議論を行うものとしてどうかと思うのです。

これはジャッジ観にも関わってきますが、ディベートのジャッジというのは社会から隔絶されたディベートという世界(そんなものないと思いますけど)を見ていればよいものではありません。選手として割り切ってディベートしているならともかく、ジャッジとして来ている以上、選手の今後の議論についてもある程度責任を持つべきではないでしょうか。そんな議論は一般では通用しないということを教えず、不自然な議論を喜んで取っているようでは、信徒を破滅させるカルト教団と同じではないですか。

ジャッジは、いかなる権威からも自由に、出された論拠を批判的に検討し、その上で正しいと思う答えを導き出さなければなりません。ただ単に出されたというだけで評価するのではなく、そこに理由があるかをきちんと吟味し、自分の良心に照らしてディベートの判定として妥当と思われる判定を出すのが、ジャッジの仕事です(NAFAの規則も同様の趣旨を確認するものでしょう)。
そこでは、自身の評価という「常識」の要素がある程度加味されることも避けられないでしょう。それだけにジャッジの判定には重みがありますし、その結果は(講評なども含めて)選手の今後の議論にも大きな影響を及ぼします。その意味で、ジャッジの仕事は責任重大です。そんな中、分からないものは分からないと、ダメなものはダメだと言ってあげることのできるジャッジこそ、ディベートで求められているのではないでしょうか。

8.あとがき
長くなりましたが、以上で総括を終わります。
例によって、意見や感想などあれば自由にコメントしていただいて結構です。可能な限り応対させていただきます。

POPの完全版は今シーズン終了後に出るということなので、受験勉強との関係で言及する余裕はないように思われます。ただ、僕の見解を修正する必要性を感じた場合には検討のうえその旨少しでもコメントできればと考えているので、POP筆者の方には頑張っていただきたいと思います。

それでは、最後まで読んでいただき、どうもありがとうございました。
擬似「セオリー」批判(4:Topicalityの意義とその射程)
休みが終わる前に重要部分については全て言及しておこうということで、続きを書くことにしました。今回でTopicalityについての批判を全て終えるのですが、残りの部分で理解できない部分については、これまで僕が論じてきたような考え方から当然に否定されるようなものですから、改めて取り上げる必要はないでしょう。
それだとアンフェアなので、賛同すべき部分や、やっぱりおかしいと思う部分についてだけは、別途取り上げてもよいとは考えていますが、これは時間が許すかどうかという問題です。とりあえず、今回の内容で僕の述べたいことはほとんど出たといってよいでしょう(今のところは)。

というわけでさっそく検討に進みたいところなのですが、今回は趣向を変えて、POPを逐次見ていくというのではなく、僕の考えるTopicalityの体系に合わせて彼らの議論を見ていくという方式をとります。というのも、そもそもPOP(や一部コメントであった方々)のTopicality(ひいてはディベート)に対する考え方は、僕のそれと大きく異なっており、なおかつ理由のないものと見えるからです。
僕はあくまでセオリーについての議論をしたいので、以下で検討するのは全て理論的側面についての論点です。過去の論題が具体的にどう解釈されるべきだったか云々という点は検討外に置き、POPでのTopicalityという議論についての考え方がいかに無根拠であるかということにつき反省を促すという構成で議論を進めます。

THE PERIOD OF "period"



1.Topicalityという議論の意義(正当化根拠)
最初に、そもそもTopicalityという議論がなぜ投票理由となるのか、Topicalityとは何を目指す議論であるのかという点について見ていきましょう。これは、POPの言い方を借りると、TopicalityのLogical Legitimacyを探求する作業です。POPではTopicalityのLogical Legitimacyについて何らの論証もしていません。彼らの理屈によれば合意されたルールで許容されたものにLogical Legitimacyがあるらしいのですが(POP12頁)、ここでいう「許容」の意味がよく分からない(禁止されてなければ何でもよいのだろうか?)のはともかく、NAFAのルールにはTopicalityが投票理由になるといった規定はどこにもありません(ADやDAについてもそうです)。
この点はPOPのみを責めるのは酷で、実際には少なくないディベーターが、なぜTopicalityが投票理由になるのかという点について十分な検討をしてこなかったのではないでしょうか。しかし、ここをきちんと議論しない限り、Topicalityについてまともな理論的検討などできるはずはありません。

それでは、Topicalityとは何でしょうか。POPの言い方に従って、ルール(あるいは競技が当然に予定する議論方法)からTopicalityの正当化根拠を検討してみましょう。
前掲のNAFA規則では、「予選及び本選を通じての全ての試合は、予め主催者が提示した論題(resolution)の下で肯定側と否定側に分かれて行われる」(3章2節1項)とされています。試合の勝敗についてヒントになりそうなのは、(2章のジャッジに関する規定を除けば)ここだけです。論題の下で肯定側と否定側が議論する、ということです。
一般的なディベートのあり方を参考にもう少し噛み砕くと、ディベートでは論題の是非をめぐって肯定側と否定側が争います。肯定側は論題を肯定し、否定側は論題を否定することがその試合の目的で、ジャッジは最終的に「論題は肯定されたか」を判断することになります。

このような当たり前のことを考えただけでも、「論題が文法的に誤っているかどうか」ということは本質的問題ではなさそうだということは思いつくわけですが、その話は後にとっておきましょう。このような枠組において肯定側が勝つためには、論題の採択(政策論題なので「採択」と呼びます。以下同じ)が望ましいという理由を出す必要があります。それがADに当たります。
このADは、論題の採択を支持する理由である必要があります。「日本は死刑を廃止すべきである」という論題で「原発を廃止すると核汚染が防がれる」と主張したところで、論題は肯定されません。これは、ADには論題との対応関係が要求されると表現することができます(DAと論題はどうか、というのは別途問題となりますが、ここでは省略します)。この対応関係の有無について問うのが、Topicalityであるということができます。
例えば、「日本は死刑を廃止すべきである」という論題の下、Affが「日本は死刑をやめて終身刑にしよう」という主張をし、終身刑は死刑で侵害されていた囚人の人権を守るというADを議論したとします。これに対して、「終身刑は死ぬまで人を閉じ込めるという点で『時間による死刑』だから、Affは死刑を廃止していない」という攻撃をするのが、Topicalityです。
しかしながら、もしAffのADの中で「死刑であれ終身刑であれ、閉じ込めたまま死をもたらすことに固有の問題があるところ、死なせることをやめればそれだけで問題は解決する」ということが言えていたとすれば、Affのプランが実際には死刑廃止を言うものでなかった(終身刑もまた死刑だった)という場合でも、当初問題とされてきた「日本は死刑を廃止すべきである」という理由付けとして「死をもたらす刑罰には固有の問題がある(からそれを廃止すればその問題がなくなるだろう)」というものが見出せる以上、論題が肯定される余地はあります。これはおそらく通説ではないのですが、あくまで論題が争われているのだ(Resolution Focus。多分通説)と考えれば、Affがどういうプランを出したかというのはそれ自体重要ではなく、ADと論題に対応関係があればOKということができます。

一般的には、AffがNon-Topicalなプランしか出していない段階で負けになると理解するのですが、上述の通り、そのような考え方はResolution Focusを前提とすれば直ちに出てくるものではなく、ADで出てきた内容と論題が対応していさえすれば論題は支持されうるのですから、Topicalityに絶対的な意味合いを持たせるとすれば、そこには別途の論証が必要となります。
この点、蟹池他3名著『現代ディベート通論[復刻版]』[蟹池](ディベート・フォーラム出版会、2005)56-57頁には、以下のような理由が挙げられています。

1.肯定側は論題を肯定する立場に立たなければならない。よって、肯定側の主張する政策が論題を支持しない場合、それは肯定側と呼びえないものであり、そのような立場に投票することは不可能である。
2.論題には話題(Topic)を提供する役割があり、これを無視することは許されない。
3.肯定側に論題を無視することを許すことは、ディベートの本質的な教育価値を失わせる。否定側が論題の領域をリサーチして試合に臨んでいるのに、それを無視した議論が展開されるとなれば、議論の衝突が減少し、教育的に望ましくない。


こうした理由付けなくして、Topicalityが絶対的な投票理由となる理由を説明することはできません(私見は反対です。拙稿「論題充当性の性質に関する一試論」参照)。

ともかく、通説的に考えるとしても、僕のように考えるとしても、問題としているのは「肯定側は論題を肯定できているのか」ということです。そのために、Affが前提としている論題の解釈をチェックし、論題の意味するところを明らかにし、それとAffのプランの乖離を問うという具体的な議論がなされますが、こうした個々の議論(Interpretationの提出などなど)は、それ自体が目的ではなく、最終的には「肯定側が論題を肯定できているか」という説明につながらなければならないのです。
そんなことも考えずに、UnreasonableなInterpretationを示すことがどうとか訳の分からないことを言うことには何の意味もありません(POP39頁参照)。ここではやたら鼻息が荒くなっています(イラジャッジと言いすぎてイライラしてるんでしょうか?)が、TopicalityのLogical Legitimacyは「肯定側が論題を肯定できていないことの論証」ですから、Interpretationを示したかどうかすらそれには関係ないのです。ただ一点、Affのプラン(あるいはAD)が論題とずれているかどうかだけが問題とされるのであって、UnreasonableなInterpretationを示しただけで論題が肯定できなくなるというトンデモ帰結を理由なく書いているほうがよっぽどイリーガルです。アナーキストなのでその辺は気にしないのでしょうか。

2.論題の解釈と「文脈」
以上のような役割からすれば、Topicalityによって論題の解釈を問題とすることは、肯定側が肯定すべき論題の意味、すなわち「ゴール」を明らかにする作業ということができます。それでは、このゴールは、どのように定められるべきでしょうか。
POPや、当ブログに寄せられた多くのコメントでは、ディベートでは常識を参照できないとか、ディベートにおける論題の解釈は外部的な文脈を考慮してはならないということを言います(POP38頁など)。そもそもなぜ外部的文脈を考慮してはならないのかという理由付けが何らされていない(*)というセオリストらしからぬ態度については散々指摘してきましたが、以下では「論題の解釈は外部の文脈をも参照されるべきであるし、そうでなければディベートなどできない」ということをきちんと説明することにします。

(*)ここで、外部文脈排除を主張する論者は「ディベートの試合の勝敗は客観的にされないとダメだから」というのでしょうが、これは「客観的」の意味を誤ったものであるということは前回述べたとおりです。一応補足しておくと、ディベートで求められるのは「AffとNegに対して公平な判断」という意味での客観性であって、主観を排するということではありません(ちなみに普通の裁判でもそうです)。
そもそも、彼らの言う意味(常識に縛られない?)での客観性というのは、何に対する客観性なのでしょうか。辞書などのエビデンスはなぜその客観性を満たすのでしょうか。また、かかる客観性はどうやら唯一の正しい答えを想定しているように思われるのですが、そうするとディベートの判定は本来誰がやっても同じ答えに達するはずだということでしょうか。それとも、自分にとって満足の行く(イラジャッジでない)判定だけが「客観的」なのでしょうか?

ディベートで選択されている「論題」は、我々の生きる社会において生起している問題です。論題は話題性がないといけない、などということが言われたりしますが、政策論題として選ばれているのは、いずれも社会的意思決定が迫られている重要なテーマといえます。
そのようなテーマをあえて選んでディベートをしている以上、ディベートでは社会問題を論じるのと同様の態度が要求されているといえます。すなわち、選手やジャッジは一定程度の前提知識(常識)を有するものとされています。また、ジャッジは意思決定者として一定の立場を前提として試合に臨みます(日本政府がAgentの論題では、アメリカ人や宇宙人などの意思決定主体はdefaultでは想定されない。この点はPOP64~65頁でも正当に指摘されている)。そして、論題の理解についても、その論題が選ばれた社会で生活している一般人の見地からされることが想定されているというべきです。
そんなの関係ない、とおっしゃる方は、JDAで論題が決定される過程を想起してみてください。JDAの推薦論題は、JDAから候補が出され、その中から試合を主催する団体やJDA会員が投票して選出されます。そこでは、論題の文言だけでなくその論題が想定している議論内容によって態度が決定されます(Topicalityがつきやすいかどうかという視点で選ぶ人もいるのかもしれませんが)。このような民主的過程で決定された論題については、その背景となる「当該論題についての一般的な理解」を前提とするのが自然だということができます。POPではいわゆるFramer's intent(論題策定者の意図)というStandardについて「JDAの意思を尊重しようということ」(POP29頁)と説明していますが、これは誤りで、実際には「論題を決めたみんなの意思」ということなのです。彼らのルール-フィロソフィー論からすれば、当然に尊重されるべき意思ではないでしょうか。

関連して、コメントでの指摘として、Non nativeとしては文言の意味を誤って解釈する可能性があるから、常識は排して考えようという議論がありました。文言の解釈について常識的英語力を排するという姿勢についての疑問は前回述べたとおりですが、このような考え方にはもう一つの疑問があります。それは、Non nativeとして英語の正確な文言が分からないからこそ、外部文脈に依存する必要があるのではないかということです。
Non nativeの英語学習者は一般的に経験することだと思いますが、我々は単語や文法の意味が分からなくても、一部の分かった部分や文章のテーマから分からない部分を類推し、言わんとすることを理解しようとします。これは実のところ母語についても同様のことがいえて、聞いたことのない熟語や読めない漢字が入っていても、我々は一定程度その意味を類推することができます。
ディベートの論題についても、厳密に一字一句解釈を定める必要はなく、全体として「論題が意図するアクション」が分かれば足りるはずです。Topicalityとの関係で問題となるのは「Affが論題を肯定しているといえるかどうか」ですから、それが分かる程度に論題の意味が特定されれば、我々は十分にディベートできます。現に、ADやDAの判断について、我々は厳密な比較ではなく、証明がなかった点について一定程度補充しながら比較検討しています。論題だけこれと全く次元を異にするといわなければならない理由は、実際にはないのではないでしょうか(ある程度の厳格さは要求されるのかもしれませんが)。

3.あえて「教育的意義」からTopicalityを考える
ここで、POP著者らが最も忌み嫌うEducationなどの価値観から、Topicalityに期待されているものを考えてみましょう。

前に紹介した通論の説明では、Topicalityの正当化根拠として「否定側が論題の領域をリサーチして試合に臨んでいるのに、それを無視した議論が展開されるとなれば、議論の衝突が減少し、教育的に望ましくない」ということが挙げられていました。これは、一般的にイメージされる「教育」という言葉を越えて、ゲームとして面白いかどうかということを挙げています。これはある意味当然のことで、ディベートが教育的であるということの中には、競技として楽しんで取り組めることが結果的に選手の努力を促し、教育につながるということが含まれているからです。教育的というと反発が多いようですが、その内実には、競技として楽しめるようになっているのかという観点が含まれているのです。
このようにして考えると、論題の解釈について「常識」を排し、文法的な誤りなどにこだわってAffのプランを否定しようということは、ゲームのあり方としてどうなのでしょうか。

そうしたゲームのあり方を楽しんでいる人は確かに存在するようなので、そのような需要はあるのでしょう。しかし、ディベートという競技はみんなで取り組むものですから、全体の需要を考えた上でディベートのあり方を論じるのが健全でしょう。
ここに寄せられたコメントだけを見ると「常識排除派」が多数のようですが、公開されているディスパッチを見る限り、関東地区で行われている議論は割と「普通」で、変わったTopicalityはあまり出ていないようです。また、先に述べたようなJDAでの論題決定経緯からすれば、多くのディベーターが論題の解釈論より論題の中身について論じたいと考えているように思います。また、僕がこれまで接してきた一般的な知的好奇心を有する大学生から判断するに、文章の文言解釈にウンウン唸るよりは、社会問題について議論したい人のほうが圧倒的に多数だと思われます(というか前者のような人はほとんどいない)。

これはお節介かもしれませんが、ディベートという活動には、リサーチからブリーフの作成、練習試合などなど、膨大な時間がかかっています。ディベートという活動を選んだ我々は、貴重な青春時代のうち少なくない時間を、そうやって本を読み、文章を書き、スピーチを練習するという、一見華やかではない地味な作業に費やしているわけです。
せっかくそういうことをしている以上、我々は「意義ある」活動をすべきではないでしょうか。Non nativeとして常識を排して英語を勉強することや、社会的な前提を無視した議論の立論方法を勉強することには、おそらくほとんど意味がないと思います。それだったら、これまで習ってきた英語の力を生かして社会問題を英語で議論するという活動に打ち込む方がずっとためになるでしょうし、そしておそらく楽しいはずです。それでもなお、「常識」に反発することに快感を覚えて議論をするという楽しみ方はあるのかもしれません(コメントにあった、解釈態度としてNon nativeなりの謙抑的態度をとるというあり方は、僕は賛同しませんが謙抑性の程度によっては一定の理由があると思います)が、それは「ディベート」の楽しみ方とはズレているというべきです。少なくとも政策論題のディベートからは外れているように思いますので、英語の構文集か何かから適当な文章を取ってきて、その解釈論を競うような論題を作ればよいのではないでしょうか。そもそも、アナーキストがJDAの論題に従う必要などはなから存在しないはずですから。

それでは、反転して、我々「常識派の」ディベーターが待ち望むTopicalityとは何か、考えてみましょう。僕のイメージでは、過去に出版されていた書籍に載っていた1981年のNDTのFinalです(日本語スクリプトつきだったので全部理解することができました)。その時の論題は「RESOLVED: "That the United States should significantly increase its foreign military commitments." 」というものだったのですが、Affは「アメリカを含む数か国で核管理委員会を作り、核兵器の管理方法や効果的核抑止のための核兵器運用方法を共有する」というプランを出していました。これに対するNegの主要な攻撃としてTopicalityが出ていたのですが、そこでは”military commitments”の解釈が「危機の際の援助」という意味合いであり、Affのプランは危機の際の援助とはいえないといった議論や、AFfのプランは「核に関する情報の開示」という国内政策に過ぎず、対外的ではないから”foreign military commitments”に当たらない、といった議論がされていました。こうした議論が、実例の援用やAffの解釈を取った場合の帰結(Fairnessなどを考慮する)から提示され、Affもそれと同様に実質的な理由付けで返すという、読んでいるだけでわくわくする内容でした。
POPの筆者はアメリカの議論を毛嫌いしていますが、紹介されたところに拠れば史上最強の英語ディベーターらしいので、多分このスクリプトも読んでいるのでしょう。それでもなおPOPで推奨するようなディベートの方がアメリカのディベート(今は違うのかもしれませんが)より質が高いといっているのだとすれば、おそらくアメリカのディベートについてきちんと理解していないということなのだと思います。くだらない(失礼!)文法の解釈でぐだぐだやるのと、僕が見たNDTのスクリプトのように「論題の射程」についてきちんと議論するのと、どっちが楽しいかと問えば、100人中99人は後者だと言うのではないでしょうか。

こうした「論題の射程」については、今季の論題(核燃料の再処理)についても盛んに議論しうると思います。日本語で恐縮ですが、再処理の「放棄」とは何を指すのか、国内でやめて海外(フランスなど)に処理を委託する場合は放棄にあたるのか、といった議論がさしあたり考えられます。こうした観点は、論題を肯定ないし否定するにはどうすればいいのか…ということを考えるなかでしか出てきません。最初からTopicalityありきで考える思考は、ディベートという競技に取り組む姿勢として不自然だということです(Topicalityの正当化根拠からして不自然だということ)。

4.「誤訳」が投票理由になるか?
ここからは、POPで大々的に取り上げられ、彼らの「功績」(?)になっているらしい、論題の誤訳という問題について触れます。ただし、僕は論題の解釈そのものにはさして興味がないし、この点での批判能力には乏しいので、専ら理論的観点(*)に限った指摘を試みることにします。

(*)前にも少し述べましたが、Topicalityという議論を提出する行為そのものは、セオリーではありません。セオリーというのは、勝敗を決定したり議論を処理するための枠組に関わる議論です(いわゆるシフトの議論がこれに該当する)。それに対し、BMD論題がいかに誤っているかとか、カジノ合法化論題が実際にはパチンコ合法化論題を意味しているだとかいう話は、セオリーでもなんでもなく、単なる議論の選択に過ぎません。既に述べたところから明らかですが、TopicalityもADやDA(いわゆるnetの議論)と同じ次元の、論題の是非を争う一手段に過ぎません。その位置づけを論じるのはセオリーの範囲ですが、既に指摘したとおり、POPでは肝心のその部分が完全に欠落しています。これでセオリストを自称するのは、昔の日本人が舶来品を有難がっているのに似た、ちょっと恥ずかしい態度だと思います(カステーラ、みたいな)。
日本語でのディベートでは、こうしたセオリーの議論はあまりなされておらず、その点ではちょっと弱いところがあるのかもしれません(それが議論の質を下げているとは思えませんが)。日本の英語ディベートで僕が見た中で一番興味深かった「セオリー」の議論は、93年のJNDT-FinalにおいてAffが提出した、ディベートにおける論題は法的義務を意味し、AffはDAにもかかわらず、論題として挙げられた法的義務を具体化する一例を示すことで勝つことができる…といった趣旨の議論です(ディベートフォーラム33号(1994年)145頁以降を参照)。結果はAffの負けで、議論の中身自体にも賛否両論あるのですが、このような創造的なチャレンジこそが、我々が理想とすべき「セオリー」だと思います。

POP51頁及び85頁以降の付録では、BMD論題(2006年前期)が文法的に間違っており、存在していないものをAbondonさせるのが無理だからAffは勝てない(論題を支持していないという意味なのか、その論理構成は不明)といった趣旨のことを長々と書いています(*)。
しかしながら、まずもって検討されるべきは、そのような誤訳があったとして、それはAffを負けにする理由になるのかということです。この点の「セオリー」を詰めず、鬼の首を取ったかのように誤訳を主張して喜ぶのは、セオリストの態度ではありません。そこで、この点について以下で検討してみましょう。

(*)誤訳云々の中身については議論しないと言いましたが、ここで単純な疑問を呈しておくと、それではどうして早くそれを伝えなかったのか?ということが気になります。だからJDA-MLであてつけ的な謝罪文なるものを書いたのでしょうが、そこまで論題委員会に申し訳なく思うのだったら、委員会に参加するなり、委員会にコメントするなりして修正すればよかったはずです。本当にディベートという営みを大切に思っているのなら、その能力を生かすべきです。それを、後になって「あの論題は間違っていた!」というのは、論題委員会の方々だけでなく、そのシーズンに試合をした全てのディベーターに対して失礼でしょう。

第一に、たとえ論題が文法的におかしいとしても、それは直ちにAffを負けにする、すなわち「Affが論題を肯定できていない」ということにはなりません。
例として、POP51頁でBMD論題の英語版の訳とされている「(日本政府は)全ての防衛システムを導入しようとする全ての試み(をやめるべきである)」を挙げてみましょう。確かに、「全ての」という言葉が重複しており、文意が良く分からないように思えます。しかしながら、これによって直ちに「この論題は肯定できない」という結論にはなりません。これと同じテーマでシンポジウムが開催されたとしても、参加者はテーマの文章に違和感を持つ(打ち間違いかな?とか)ことはあっても、言わんとするところを察して、BMD計画の是非を議論するでしょう。要するに、みんなそんなに馬鹿じゃないということです。
この「誤訳」をもってAffを負けにするには、Affが論題を肯定できていないというところまで議論を推し進めなければなりません。そのための一つの方法としては、上の例文から何らかの合理的と思われる読み方を持ってきて、Affの支持方法がそれとズレていることを示すものがあります。要するに普通にTopicalityをやれってことです。もう一つの方法としては、論題の文言からは想定できるアクションがない(論題が間違っている)場合にはAffが負けるという理由を理論的に示すということです。POPではここが抜けているわけですが、本当に想定できるアクションがないという前提で、そんな論題を支持することはできないのでAffが負ける、といった理屈はありうると思います。ただ、そんな風に考えるのはおかしいだろうということは、続けて論じます。

第二に、論題が誤っており、そこから想定できるアクションがないとしましょう。しかし、本当にその論題は何の意味も有さない支離滅裂な文章なのかというと、そうではないはずです。POPでも梁山泊がこの論題からどういう議論ができるか検討していたという経緯が書いてありますが、論題が文法的におかしいとしても、それが一般的に指し示す問題領域は分かるはずです。日本語版の論題がなかったとしても、普通に読んでいれば分かるでしょう。
そのような代物について、厳密に解釈したところ議論不可能なのでAffの負け、というのは、いったいだれが望むのでしょうか。むしろ、推薦論題が投票によって選ばれるという経緯や、議論の予測可能性(屁理屈として「オレにはわかんねーよ」というのは別として、普通の人間は渦中のBMD論題の中身が意味するところについてはだいたい分かるはず。ちなみにくだんの論題はNative checkも経てるみたいですね)があることからすれば、議論不可能と思われる場合には指し当たって一般的に理解できる文脈で解釈することも許されるのではないでしょうか。これに対してNegがFairnessなどの見地で反論することはありえますが、「論題が間違っているのに、間違った部分を補うなんておかしいよ!」というのは、先ほどのシンポジウムの例で「皆さん、このテーマは誤植か何か知りませんが間違って表記されているので、無意味です。帰りましょう」と言っているのと同じで、非常識な人間の考え方だということができます。
(こういうとまた「お前の常識を入れるな」と批判がありそうですが、おそらく多くのディベーターは「論題の中に書いてある政策を争うため」に試合に出ているのであって、「そんなの関係ない、論題の厳密な解釈こそセオリストの命」などというのは普通じゃないし、そんな常識こそディベートには存在しないのではないでしょうか)

第三に、以上の補足のような位置づけになりますが、ディベートにおけるTopicalityの意義という点から考えると、文法の間違いだけで投票理由を左右するというのは、そもそもTopicalityの予定するところではないということができます。Topicalityは揚げ足取りの道具ではなく、Affが論題を肯定できているかの検証材料にすぎません。検証の理由付けとして論題の意図するところを限定し、それとAffとの乖離を問うことは求められますが、論題のあら捜しをすること自体には何の意味もありません。論題が間違っていてAffが困るという場合が本当にあったのだとすれば、そこで健全な(FairnessやEducationの精神も背景とした)Topicalityが志向するのは、試合がまともに(これは「AffもNegもできるだけ公平に」ということを含む)進むよう論題を善意解釈することであり、絶対Affが勝てないというような、大会を台無しにするような判断ではないはずです。

以上、誤訳Topicalityについてそもそも考えられるべきと思われる点を指摘しました。
これにもかかわらず、論題を外部の文脈(論題選択者の意図など)から解釈するのはおかしいという見解はあるのでしょう。僕はこれまでの述べたとおり、そんなこと不可能だという立場(外部の文脈なしで議論などできない。Affは全ての語句について定義してからディベートをはじめないとダメなの?もちろん、引用した辞書で出てきた語句も全て!)ですが、それでもそういう態度を無理して取るというグループは出てくるのかもしれません。それについては、少なくとも僕には関係ありませんので、仕方ないことです。ただ、そのせいで政策ディベートをきちんとやりたい人が困っているとすれば、気の毒だとは思います。
これは最終的には、ジャッジの問題だと思うのです。僕はある判定を軽々しくイラジャッジだとか言うつもりはありません。しかし、分からないものを分かったふりして判定するのは不誠実だと思うし、自分の直感にある程度自信がもてないというのなら、そもそもそんな活動(選ぶ言語も含めて)は辞めて、より適切なNativeに判定をさせればいいんじゃないかというのが正直なところです。僕も日本語のディベート大会を審査する際に、全ての予備知識をもって判定できるわけではありません。もしかしたら論題の解釈も誤っているかもしれない(可能性としては否定できない)し、議論されなかったところは無意識であれ意識的であれ、僕の推測が入ったりすることは避けられません。それでも求められている程度に合理的な判断はできると思うからこそ、きちんと「判断」する責任を引き受けて、ジャッジを引き受けています。そして、選手として大会に参加するときには、同じような責任を引き受けているであろうジャッジの判断を信用しますし、そのジャッジと「常識」も含めた論理的な結論を共有できるように努めようとします。

ある論題が誤訳だといって、それを否定するのは簡単です。しかし、その背後には論題委員会の献身的なリサーチがあり、またそれが選ばれるに当たっては、そのテーマで試合をしたいという多くの人の希望があります。そういうものを否定し去って、常にAffが負けるとかいうゲームとして非常識な(つまり「楽しくない」)帰結を導くのが「セオリー」の役割ではないはずです。
ディベートという活動にどんな特殊な意味を読み込んでいるのかは分かりませんが、ディベートコミュニティだって他のそれと同じく、みんな何かしらの意義を求めてやってきます。シンポジウムで誤植を見つけて騒ぎ立てる人間がナンセンスであるのと同様、論題が間違っているというだけで試合の勝敗がどうこうと決め付けるのは、端的に言って迷惑なのではないでしょうか。ましてや、TopicalityのLogical Legitimacyとの関係で何らの理由付けもないただの揚げ足取りだとすれば、彼らの言う「論理」のみによっても、その存在は否定されるべきです。


今回はちょっと感情的なきらいのある記述が入ってしまいましたが、Topicalityについては概ねこんなところです。POPへの具体的言及は少なくなりましたが、既に言及すべき観点については触れてしまっているので、「Fairnessは関係ない」などの該当記述を見るたびに「その理由はどこにあるんだよ!」などとつっこみを入れていただければ足りるという感じです。

ここまで書いてきた内容は、あくまでPOPの内容に対する議論であって、既存のディベートコミュニティに対する提言を意図したものではありません。もしそのように読まれたとすれば、その観点からコメントしていただくことはご自由ですし、僕も可能な範囲でお答えしますが、僕の議論はあくまで「素材」にすぎません。
もし、僕の議論に賛同し、そこから何らかの変革すべき事情を見出している方がいらっしゃるとすれば、ご自由に援用していただいて構いません(もっとも、より洗練させていただかないとダメでしょう)。僕の見解が誤っており、僕と同様の「誤解」をしている人間にイラっときている方々は、ここで僕をこてんぱんにして、その余勢を駆って誤解している人間を駆逐されればよろしいでしょう。
ともかく、僕の稚拙な検討が何らかの意味で皆さまの議論を喚起し、ディベートという営みがより価値ある形で展開されれば、相応の時間を割いて駄文を垂れ流してきた甲斐があったというものです。

とりあえず以上で連載自体は一休みすることにします(とかいって再開した過去はあるのですが…)。お読みいただいた方々、そして貴重なご意見ご感想をコメントしてくださった多数の方々には感謝しております。どうもありがとうございました。
コメントには引き続き可能な限りお答えいたしますので、遠慮なくお願いします。
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