マニュアルを形作る手続法としてのルール
ディベートという競技を簡単に説明するなら、議論によって論題の是非を争うというものです。ここから、勝敗(論題の是非)は議論の優劣によって決するという当たり前の決まりごとが出てきます。そして、ディベートにおける「議論の優劣」を判断するためには、議論の中身を吟味する作業と、出てきた議論を吟味するための枠組を準備する作業が必要になります。
前者の「吟味」というのは、出てきた議論が論理的に筋が通っているか、説得的であるか…といった評価のことです。ジャッジングというと普通はこれを想像することになります。しかし、少し考えてみれば、ディベートの判定がこれだけでできるものではないということに気づかされるはずです。ここでいう「論理的」とか「説得的」といった要素は、何らかの評価すべき模範を前提としているはずですが、どのような模範が論理的か説得的なのか…と考えていくと、収拾がつかなくなってしまいます。そこから生じる哲学的問題は省いて先に進むと、こうした模範(評価規範)は試合の中で議論することが不可能であり、結局は判定者が用意するしかないということになります。
ですから、ジャッジは議論の吟味のため、出された議論をどのように扱うかという「マニュアル」を事前に用意しておく必要があります。このブログでルール解説として論じてきた内容は、そのようなマニュアルのうち、ルールとして明文化されているものを中心にして説明したものです。ルールとして定められる内容の多くは、議論を実質的に評価する前段階の手続的な要素を定めるものですから、ルールは「手続法」であると考えることができます(ちなみに、ルール解説を書くに当たっては、法律の中でも手続法と呼ばれる分野の内容を多く参照しています)。
一方、マニュアルのうち、吟味するにあたってどのような議論を高く評価するか、どのような議論をもって勝敗を決定するかという要素は、出された議論の扱い方を考える中でもより事実認定に近いものとして、少し別に考えることができます。実体的評価に強くかかわることからこれを「実体法」と呼ぶことができますが、ディベート甲子園のルールでは上述した手続法の要素に加えてメリット・デメリット方式という実体法の要素も重要な位置を占めていますから、ルール解説の中では特に意識して区別していません(*)。
(*)一般のディベートでいうなら、New argumentの概念・判断基準や証拠資料の要件論は手続法に当たり、TopicalityやCounterplanの要件論・判断基準は実体法に当たるものであり、この両者をあわせてTheoryと考えることになるでしょう。もっとも、一般にTheoryとして議論されるのはこのうち実体法にあたる部分であり、さらには具体的にどういう議論をTopicalityとして展開するのかという内容(もっと言うならTopicalityの議論そのもの)をも実体法的Theoryと呼ぶ混同があるように思われます。Topicalityの議論そのものは論題の是非を争う一手法にすぎず、試合中に提出される各要件の論証内容はメリットやデメリットの証明と同じ次元の問題です。Theoryの名に値するのは、それらの要件をどのように考えるのかという枠組の問題であり、枠組の中でどういう議論を展開すべきかというのは、ジャッジを説得するための事実認定のレベルで考えるものです。
このような注意が重要になってくる理由は、後述するところと関係して、TopicalityやCounterplanの各要件は実は自明ではなく、これまでの蓄積からジャッジが一応認めているに過ぎない(従ってそのような枠組に依拠しないことは理屈として必ずしも不当とはいえない)という点にあります。一方、手続法と実体法の区別は、概念の整理としては意味があると思いますが、理論を考える上で区別が必要かというとそうでもないし、区別しにくい部分もあるように思います。
議論と独立した「マニュアル」が存在してよいのか?
ジャッジがマニュアルに従って議論を処理するというと、ジャッジは選手の議論を尊重していないのではないかという批判が出てくるかもしれません。しかし、マニュアルに従って形式的に答えを出すということと、マニュアルを用いて議論を吟味するということは決定的に異なります。例えば、証拠資料が読まれた場合は必ずその主張を採用するという規範は提出された議論の中身と関係なく(とはいえ証拠資料の有無という点で議論の内容とは関係があるのですが)判定を行う点で問題がありますが、証拠資料として認められるための要件を設けた上で、それを満たした適切な証拠資料が伴った主張については相応の信用性を認めるという考え方には、おそらく誰も文句を言わないはずです。
問題は、そのようなマニュアルが妥当なものであるかという点です。その前に、どのような基準でマニュアルを策定すべきかということが検討されるべきなのですが、これはジャッジ各人によって異なるとはいえ、そこに合理性・公平性・教育性といった要素を欠かすことはできないでしょう。この中で「教育性」という要素を考えることには異論がありうるし、教育性とは何かというあいまいさもあるのですが、ここでいう教育性とは単純に「より質の高い(合理的な)議論が生まれるような枠組であること」を要求するものだと考えれば、異論は少ないでしょう。実のところ、ジャッジの判断が恣意的かどうかという議論の根幹は「どのような議論が合理的であるか」という価値観の相違にあり、そう考えるとマニュアルの恣意性は「マニュアルの内容が合理的であるか」ということに帰着されます。
僕がルール解説の中で「合理性」として尊重してきた要素は、①当該規範が規定された明文に反しないこと(形式的合理性)、②当該規範が実社会において価値を持ちうる議論を推奨するものであること(実質的合理性)の2点です。前者はルールの解釈論として当然のことですし、選手に対して明示されている枠組を裏切ることは不合理ですから、あまり説明を要しないでしょう。
問題は後者の実質的合理性について、「実社会において価値を持つかどうか」という判断はジャッジの恣意を許すのではないかという批判が避けられないという点です。しかし、そもそもジャッジが判断において裁量を有しているということは否定できない事実であり(そうでないとすれば、複数ジャッジで見解が割れることはありえないことになります)、そうするとその裁量を左右する何らかの一義的でない規範が存在すること自体は認められなければならないはずです。そして、その規範はディベート独自に用意されなければならないという必然性はなく、むしろディベートが依拠する実社会が採用する価値観を前提として用意されることが自然であると考えるべきでしょう(*)。
(*)本当はこの点についていろいろ考えるところがあるのですが、ここでは省略します。しかし、およそ全ての想定しうるプランをNon-topicalにするような論題充当性の議論が本当に成立してよいのか、といった点について、冷静に考えればそのようなものが合理的になるはずはない、といった考え方ができないようでは、ディベートという競技が社会に受け入れられる日はこないでしょう。そんな議論が本当に成立するとすれば、論題が不合理だということで変更をしなければならないわけですし、想定する領域を議論できるような論題が存在しないなんてことは普通ありえないからです(だったらアメリカ人はどうやって議論してるんだと。…すいません英語ディベートの話です)。
こんな補足をしているのは、伝え聞くところで存在している「おかしな議論」がディベートが本来有すべき合理性を破壊し、本当にディベートに打ち込みたいと思っているであろう選手の利益を殺いでいるのではないかと感じるからです。自己満足的にディベートをやること自体は別に選手の勝手ですが、そのようなディベートには何も得るところがないし(ディベートの試合で勝つこと自体には何の意味もない)、不合理な議論が横行することでそれへの対処に忙殺されるようでは、他のディベーターもかわいそうです。
とにかく、勝敗や選手の納得といった要素だけで判定を行うということはあってはなりません。合理的な判断というものが先にあって、それがディベートの勝敗として適正なものであるというのが本来の順序であって、ダメなものはダメだというのが本当の合理性です。もちろん、それにもかかわらず合理性に対する批判はありうるのですが、合理性というのは単一の答えしか許さないものではなく、「文法上(?)そのような解釈は存在しないからNon-topical」という結論と「文法上そうなのかもしれないけどそのように解する場合およそ試合は成立しないからこの点は不問にする」と考えることはともに合理的でありうるはずです。少なくとも法律の世界ではそういうことになっているのですが、それで納得がいかないという場合は、亡命でもしてどこかで独裁政権でも打ち立てていただくほかありません(だからといってディベート界でそれをしてもらうと困るのですが)。
マニュアルの守備範囲であるということの意味
マニュアルは、試合の前にジャッジが用意しておかなければならないものです。従って、そのマニュアルの内容は試合で提出された議論とは関係なく適用されます。証拠資料が要件を満たさない不当なものであるかどうかの判断は、明文に規定がない限り、選手の指摘とは関係なくジャッジが自由に行ってよいものです(そもそも、証拠資料が特別に証明力を担保するものであるといえるかどうかという点ですら、ジャッジが自由に決める「マニュアル」の範疇にあります)。一方、証拠資料の内容を評価するに当たり、そこに書いていないようなことを導き出す判断手法は、選手の出してきた議論を間違った方向で見ている点で不当です。
以上のような違いは、法的問題(マニュアルに沿って議論を認識すること)と事実認定(認識した議論を吟味すること)の違いとして説明することができます。実体的判断は選手の議論を前提としますが、手続的判断はジャッジの職権によって自由に行え、選手の議論に拘束されることはありません。例えば「この試合の勝敗は声の大きさで決めるべきだ」という議論が出され、それらしい証明が一応されたとしても、ジャッジが「しかしそのような判定方法は望ましくない」と考えるのであれば、選手の議論にもかかわらず、勝敗の決定は通常通り行われることになります(*)。
このような理解は、一般に法律を適用して事件を処理する裁判のあり方に例を取ったものです。例えば、ある人Xが人を殺したとして起訴され審理を受ける場合、発見された凶器やその鑑定書、証人尋問の結果などからXが人を殺したかどうかを判断するのは事実認定であって、証拠として提出された内容に反する評価を行うことは許されません。しかし、被告人のXを拷問して作成した供述調書を証拠として使うことが許されるかどうか、Xは本当のところ人ではなく横にいる犬を殺そうとしていた事実が判明した場合そこに殺人罪の故意を認めてよいのかという判断については、法律上の問題として裁判官が独自に正しいと考える通りに判断しなければなりません。
そして、ディベートが元々法廷論争を模していることから、このようなモデルをディベートにおいて適用することも自然であるといえるでしょう(議会での論争が模範であると考えた場合も、法治国家における議会運営には同様の規律が妥当しています)。
(*)マニュアルは選手の議論によって自由に変更(Shift)できるものだという考え方もありますが、それは「変更しても良い」というものであって、「変更しなければならない」という筋合いのものではないはずです。もちろん、ジャッジが自説より優れた見解だと感じた場合には職業倫理として説を改めるべきでしょうし(その意味で、いかなる場合でも立場を改めないというPhilosophyは望ましくないでしょう。ただし、事前に述べたPhilosophyは少なくともその試合で変更しないというのは、判定の安定性を保証するという意義を認めうるとは思います)、「マニュアルの一内容」としてマニュアルの内容は議論によって可変であると定めることもできます。
ディベート甲子園のルールを考える意義
以上を踏まえてディベート甲子園のルールを考える意義を述べるならば、以下の2点に集約されると思います。
第一に、ディベート甲子園に関係するディベーター(選手及びジャッジ、大会運営者)は、ルールの内容を当然知っておくべきです。ディベート甲子園は明文のルールに従って運営されるべきであり、大会関係者にはそのことを自覚した上で適正な運営・試合審査を行う義務があります。また、そのような大会で議論を展開する選手としては、その前提となっているルールを理解した上で、ルール上意味のない議論を出すといった無駄を避けることが望ましいでしょう。
これは当然のことであり、改めて述べるまでもないでしょう。
第二に、これが最も重要なことですが、ここまで述べてきた「マニュアル」の一部としてのルールを考えるということは、ディベートという競技を貫くマニュアルの体系を考えることにつながります。マニュアルについて考えることとは、ディベートという競技が何を目指しているのか、どのような理由で勝敗の決定方法が決まっており、出せる議論が制限されたり証拠資料の要件が決まっていたりするのか…といったことを考えていくことです。それは、ディベート甲子園に限らずディベート一般に取り組む上で有益なことですし、ディベートという営みを実社会で応用していく上でも必要不可欠です。
(筆者としては、ルール解説の内容は、ディベート甲子園ルールの明文にかかる解釈を除けば、競技ディベート一般に妥当するものだと考えています)
ですから、ルールについて考えるに当たっては、その帰結だけを気にするのではなく、なぜそのように考えられるのか、どうしてそのようなルールが存在しているのか、といったことを意識することが必要になってきます。本編のルール解説がそのような要求に応えうる水準であるかは保証できないのですが、ここを読まれているという熱心な(暇な?)ディベーターの方には、ルールや決まりごとを表面的に理解するのではなく、それが何を意味している/すべきなのかという点に突っ込んだ上で、実り豊かなディベートができるような考え方ができるようになっていただきたいと期待しています。