さて、今回記事を書いたのは、ディベート甲子園の中高論題で練習試合としてオンラインディベートが行われているのを発見し、そこに判定コメントがついていたのを読んだ結果、いくつか理論的(というほどでもないですが)な問題に言及されており、それを読む限りでは十分な理解がされていないのではないか…というように思われたからです。
そういえば昔にオンラインディベートで高校生の対戦相手を務めたことがあるのですが、結局判定は出されずに終わってしまいました。勝敗自体は明らかだったと思うのですが、教育的観点からも(もちろん自分の議論についても)コメントがあってしかるべきだったところ、今回はきちんと機能しているようで素晴らしいことです。
それでは、読んでいて気になったポイントを挙げておきます。なお、以下では試合の内容について独自の評価を下しているわけではないこと(試合内容は軽く読んだ程度です)、判定内容について批判的と取れるコメントをしていますがジャッジ担当者を非難する意図ではないということをお断りしておきます。お忙しい中試合を判定された方々には頭の下がる思いです。
1.論題充当性(topicality)の定義と機能
中学論題の第二試合に対する講評の中で、以下のような記述がありました。
*この記事を読んでいただいたらしく、現在は修正されています
解説コメント
また、ターンアラウンドのような反駁がありましたが、それはトピカリティーが絡んできますので、デメリットと一緒に触れます。
(…)
もうひとつ、論題充当性(トピカリティー)の議論がありました。つまり、Cに関する反駁の議論です。この対象は論題内なのか外なのか、という議論ですが、「プランにより、直接発生するデメリット」なので論題に含まれるととっています。つまり、プランの対象ではない人たちではあったにせよ、「プランからデメリットをうける」ことには変わりありませんから論題内です。
ですから肯定側へのターンアラウンドの議論も、論題内とみなし、成立はします。
[参考:問題となっている主張は以下の通り]
【否定側立論】
C)「大量の不法所持者の発生」
軽度依存者も含め、携帯所有の欲求は強く、法を犯してでも入手しようと考えるものが多数現れます。親が契約し子に貸与することは肯定側プランでは禁止されています。しかし親が隠蔽した場合、家庭内まで立ち入って規制することは極めて困難ですから、簡単に不法所持ができます。B)に示した暴行、自殺よりは、法を犯しても貸与を選ぶのは親として自然な行動です。結果として不法所持が大量に発生します。
【肯定側第一反駁】
Cについて。[中略]そもそもプラン(編注:論題である「中学生以下の携帯電話所持禁止」のこと)は、携帯の所持を禁止することで論題を肯定するものなので、Cは論題から外れている人の内容です。Cから発生するデメリットはカウントしないで下さい。
否定側立論で、携帯所持を禁止すると親と中学生が共謀して不法に携帯電話を持たせるようになるという議論をしていることに対し、肯定側から「それは論題と関係ない人について発生する人のデメリットである」という反論がされた、ということです。
後で述べるとおり、この反論は的外れなのですが、これに対するジャッジのコメントは「これは論題充当性の議論であるが、プランから生じるデメリットなのでこのターンアラウンドは論題内である」という趣旨をいうものでした。ターンアラウンドにはなってないだろうという突っ込みは置いておくとして、この言明は結論として正当ですが、論題充当性という論点の内容と機能を正確に表現しているかというと、ちょっと怪しいという印象を受けます。
論題充当性というのは、肯定側の(否定側のCounterplanについても対象となりうるのではないかと思われるのですが、ここでは立ち入りません)提出したプランが論題を満たしているかどうかを問う議論です。例えば、ディベート解説書では以下のような定義があります。
伊豆田=蟹池=北野=並木『現代ディベート通論』(復刻版)
アカデミック・ディベートの前提として決論命題(注:論題)が存在するのであるから、どんな場合にもディベートはこの決論命題をめぐって行われなければならない。Affの議論や政策が果たして決論命題の示す領域の中に含まれているか否か、その関係を問うのが命題(内)性(topicality)である。[55頁]
安井省侍郎『初心者のためのディベートQ&A』(第4版)
このように論題について、肯定側がプランを提出するときは、そのプランは当然論題に規定される範囲内でなければなりません。そうでなければいくら肯定側のプランが採択されたとしても、それは論題を肯定することができないからです。そこで、肯定側が出しているプランが論題に規定される範囲内にあるのかを調べるための論証が必要になります。これを論題充当性(topicality)の論証といいます。[102頁]
後者の説明について、「プランは当然論題に規定される範囲内でなければなりません」というところが説明として不正確に思われることについては後述しますが、論題充当性の定義については以上でよく説明されているでしょう。
論題充当性の議論は、肯定側の提出したプランが論題の範囲内であるか、すなわちそれが論題を実現するための政策といえるかどうかを問題とすることにより、論題と無関係のメリットを除去する機能を有しています。論題と関係ないプランから生じるメリットは論題を支持する理由として不適切というべきところ、そのような結論を導くためには、当該メリットの発生源であるプランが論題と関係あるかどうかを調べる必要があるため、これを論題充当性の議論によって明らかにしようということです。(*)
つまり、論題充当性それ自体はあくまでプランを対象にして論じられるということです。ですから、正確な言葉遣いをすると、論題充当性の議論で論題外となるのはプランであって、そのようなプランからのみ生じるメリットは「論題と関係ない」メリットである、ということになります。
(*)上記のような説明は一般的な論題充当性の理解とは異なる部分もあります。通説は論題充当性を独立の勝敗理由を形成する論点と捉え、論題を充当しないプランしか提示しなかったことが肯定側を敗北させることから、これを問うために論題充当性が議論されると理解します。こう考えると、「メリットが論題外/内」という言い方はさらに不自然であるということになります。
しかしながら、ディベート甲子園のルールではそのように捉えるのが不自然ですし、一般的に言っても論題充当性を純利益の議論(メリット・デメリット)から切り離して理解することには理由がないというのが筆者の見解ですから、敢えて本文のように記述しました。筆者の見解については、差し当たりこちらを参照のこと。
ここで「論題外のプランから生じるデメリットはどう扱われるのか」という問題が生じます。このブログのルール解説第4回でも触れているのですが(3.3.3.3の後半を参照)、そのようなデメリットは依然として論題を否定する理由になると考えるべきでしょう。
これは肯定側が出しうるプランの範囲についての議論と関わるので先にそちらを説明しておきましょう。ある政策を実行するためには、その実行から予想される不利益を除去したり、その実行を円滑にしその効果を最大化するための処置を同時に取ることが通常行われるところ、ディベートにおいても肯定側は同様の主張を許されてしかるべきであり、それが論題外のプランであるとしても、全体として論題を肯定する政策が提示されていればよいと考えることができます。従って、いわゆるプランスパイクのようにデメリットを防ぐための政策も提出が許されるというわけです(ここで、かかる付随的プランとして提出が許される範囲が問題になり、「付随的なプランも論題の中になければならない」とかいう論点があるのですが、論題を体現しないプランからメリットが生じないと考える以上、どのような付随的プランであっても提出を許してよいだろうというのが筆者の見解です)。(*)
そうなると、肯定側は論題外のプランをも提出することが許されるのですが、そこで提出されたプランは「論題を肯定するための肯定側の提案」として取り込まれ、以後肯定側はそうした一連の提案から生じるメリット・デメリットを論じることになります。これは、肯定側の提出した一連のプランを通じて論題が肯定される、と捉えることができます。そこで否定側は、肯定側の提出した一連のプランの望ましさを否定すればその試合で論題を否定することが可能になるわけですから、肯定側が一旦提出した以上、論題外のプランからでもデメリットを生じさせることができるというわけです。
(*)これとの関係で、オンラインディベートの高校第二試合におけるジャッジのコメントで「ちなみに、「論題充当性」の議論は、時々見られます。特にデメリットを発生させないようにするためにたてたプラン(いわゆるスパイクプラン)でこの議論が起こります。」ということが書かれていました。
一般的には、プランスパイクで論題充当性を議論してその効力を否定するということはないと思います。理論的にありえない議論ではないと思いますが、上記の通り、プランスパイクが論題外であるとしてもその効力は否定されず、そこで論題充当性を議論しても実益がないからです。そもそも、論題外でないスパイクプランなんて存在しないのではないでしょうか(論題外=通常付随しない、という理解なら別ですが)。
ここまで見ていくと、中学2試合目で肯定側がした議論は論題充当性と何の関係もないということがお分かりいただけるでしょう。そもそも、肯定側は「論題から生じていない」というだけであって、プランと論題の関連性を議論しているものではありません(自分が出したプランだし…)。
この反論は、肯定側の提出したプラン(論題内であるかないかに関わりない)と当該不利益との間に因果関係がないという趣旨をいうものだと思われるのですが、実際そんなことはないだろうということは、ジャッジのコメントで言われている通りです。禁止されたのでそれをかいくぐって所持しようとする…というのは自然なことで、それが禁止されていない親による行為(中学生に対して禁止することは当然ながら保護者に対してももたせることの禁止がされていると思いますが)であろうがなんだろうが、プランから生じたメリットとして評価されます。論題の予定する規制対象以外の人が苦しむのが論題外だとすれば、高校論題では失業→家族も自殺という(別に推奨するわけではないけど)よくある議論も論題外ということになってしまいます。
すると、ジャッジのコメントとして、この議論を論題充当性と理解したという部分についても、独自の見解であって支持しがたいということになります。Counterplanの提出が許されないルールで肯定側が論題充当性の議論をやること自体が通常ないことなのですが、ジャッジをされた伊藤さんは高校生で、実際に論題充当性の議論を扱うないし体系的に教わる経験がなかった可能性があり、仕方ないといえば仕方ありません。僕もこんなに偉そうなことを書いておりますが、高校時代はこんなこと考えてもいませんでしたから(かといって今も全然偉くないのですが)。
論題充当性についてはなかなか馴染みがなく、ジャッジの中にもきちんと理解できている人は少ないのではないかと思われるのですが、検討すべき機会がないとはいえないので、その意味と基本的な争い方くらいは知っておいて損はないでしょう。
ここまでの内容では論題充当性の議論を展開する具体的方法は書いていませんが、この点につき中高生向けに論題充当性について分かりやすく解説したものとして、NADE監事であり名ディベーターの渡辺先生が書かれた連載解説「スキルアップ講座 論題充当性」があるので、参考にされるとよいでしょう。
2.総括スピーチが遅すぎる反論に当たるか
続いて、中学第一試合のジャッジコメントについて述べていきます。ジャッジをされている方が病棟は違うものの同じ入院患者ということで、遠慮なく書かせていただきます。
今回取り上げるのは、以下のようなコメントです。
第二試合のコメントより引用
よく、第2反駁は総括をするんだ、などといいますが、そういうアバウトな言い方については、もっとよく疑って、具体的に何が必要で、何をするべきなのか、というところまで考えてほしいと思います。まとめ、といっても、ただの「要約」をされても、あまりジャッジとしてはうれしくありません。(要約もあると助かる場合も多いけれど、結局は繰り返しなので、勝敗を決定する決め手にはなりにくい。)それよりも、いわゆる「比較」、つまり、最終的に、どちらが勝っているか、ということの根拠付けを説明してほしいと思います。(これが「新しい議論」にあたるのではないか、という論点もあるかとは思いますが、一応現行の大会運営上は問題視されていないようなので、用いて良いと思います。)
前半部分は全くその通りで、皆さんも参考にすべき内容なのですが、下線を付した括弧書き部分は新出議論の判断基準に係るコメントであるところ、ルールの明文からして説明できる内容を慣行の問題にしてしまっており、説明として妥当でないと思われるので、補足する必要があります。
いわゆるニューアーギュメントについては過去にこのブログでもルール解説第13回で触れているので詳しくはそちらを読んでもらいたいのですが、上記コメントに関係する範囲で繰り返し説明させていただきます。
第一に、コメントの中では比較ないし総括のスピーチが「新しい議論」に当たりうるとされているのですが、ルールによれば、新しい議論とは「相手が持ち出した主張・根拠に反論する場合を除き,立論で提出されず反駁で新たに提出された主張や根拠」(本則3条3項)であるところ、比較や総括は相手の主張・根拠に対する反論であるといえるため、新しい議論に該当することはありません。
第二に、それでは比較や総括は「遅すぎる反論」に該当しうるのかということですが、これについては、遅すぎる反論に当たるというためにはそれが第一反駁の時点で提出できた必要があるところ、比較や総括は相手方の第一反駁終了を待って、両チームの基本的な攻撃防御方法が出揃ったところではじめて可能になると考えられるため、第二反駁で遅すぎるということはないという説明ができます(このため、総括と言いながら実質的に反論している場合はアウトです)。
なお、第二の点については遅すぎる反論を規制する趣旨との関係で説明することも可能です。すなわち、遅すぎる反論を規制しているのは反論機会を保障する目的からであるところ、比較や総括というのは既に提出された主張立証を否定するのではなく既出の議論に対して評価を加えるだけのスピーチであり、かかる評価は本来ジャッジの裁量に属するところであって試合の判断材料を提出するという要素に乏しいため、これに対する反論機会を保障する必要性はないと考えられるのです。
結論としては、総括や比較のうち、新たな論拠により相手の議論を否定しようとしないものについては、ルール上の主張制限にかからないため自由にスピーチしてよいということです。実際にはジャッジのコメントにもあるとおり、慣行としてそういうスピーチが問題になっていないわけですが、その理由はきちんとルールから導けるということです。
と、コメントを見ていて気が付いたことを書きました。
わざわざ不備という形で指摘したのは、こういう指摘をする人がディベート界にはあまりおらず、それは間違った理解を定着させかねないということを前々から考えていたからです(もちろん僕が間違っている可能性もあり、それを是正するためにも、批評の批評という文化が必要なのです。ディベーターなんだからなおさらのこと!)。正直なことを言えば、僕も含めて中高生時代のディベート理解は今の僕からすれば結構てきとうで、よくある「先輩から教わりました」というだけの部活動だと、先輩の誤りが拡大再生産されて変な常識を作ってしまうということも珍しくありません。もちろん、そういった指導が貴重であることは否定しないのですが、その一方で、指導的なコメントについても批判的に検討する文化がなければ、もったいない事態が生じてしまうと考える次第です。
あと、オンラインディベートの主催者である名越先生もブログで「ジャッジ教育のためのオンラインディベート」ということをおっしゃっているので、それでは一応ルールについて立案担当をした立場からコメントすれば何かしら有益になるかも…ということもあります。こんなところで勝手に書くなということはありますが。
そんなわけですが、最後に、オンラインディベートのジャッジの中で特に出来がよく、ジャッジとしても選手としても参考になると思われる解説について少し触れておきます。中学第3試合の塚田さんの講評解説です。塚田さんはこれまでにいろいろとお世話になっている方で、ディベーターとしての経験やジャッジングにも定評がある方なのですが、今回の解説も分かりやすくてためになるものになっています。
その中で一つアドバイスを紹介しておきますと、総評の部分で「スタンダードな論点を深めること」と「着目点を変えた説明方法を考えること」の2つを挙げている点がよいと感じました。
ディベートを準備するに当たっては、出てくるであろう基本的な論点(メリット・デメリットのラベルや、それらについてよくある議論展開)を準備し、完全に返るようにするという作業と、そういう普通の議論とは違った説明方法・シナリオを考えるという作業の2つがあります。後者の作業には、基本的な論点それぞれの説明方法を考えるというミクロの角度付けと、議論全体として全く違うシナリオを構想するというマクロの角度付けがあるわけですが、そうした角度付けを行うに先立って、まずは「よくある議論」を徹底的に準備し、完全に対応できるようにしておく必要があります。その上で着目点を変えた議論にチャレンジすると有効になるわけですが、最初からイロモノに手を出してもうまくいきませんし、基本ができないと勝てる試合に勝てなくなってしまいますから、この順番は大事です。少なくとも、この2つのフェイズがあるということを意識することで、準備に対する目的意識や議論の整理の仕方がかなり変わってくるはずです。
そんなところです。もうすぐ6月で地区予選も近づいてきますが、基本的な論点について準備を怠らないようにしながら、その中で一つでも「これで勝負!」という角度のついた議論が作れれば、それなりの成果がついてくると思います。選手の皆さん頑張ってください。
(選手がどのくらいここを読んでいるんだってことですけど)