2008-07-17 Thu
先週と先々週にあったディベート甲子園地区予選の東海大会と東北大会でジャッジをしてきたので、今日はその感想などを簡単に書いておくことにします。受験生なのにそんなことしてるんじゃないという声がどこかから聞こえてきそうですが、自覚はできているのであまり心配しないでください。性格上追い詰められないと勉強熱が十分に高まらないという性質もありますので(追い詰められて勉強するのかという別論点もありますが…)。
以下、例によって各試合の詳細な展開などは書かず、注目すべき議論などを中心にいつものテンションで書いていきます。また、試合そのものとは関係ありませんが、ルールの解釈論についても少し言及します。
東海大会・東北大会の傾向
両大会とも選手が楽しそうにディベートに取り組む姿が見られ、ジャッジとしてやりがいのある大会でした。特に東海大会では、これまでの慣習もあって試合前の選手紹介で観客などから拍手が起こったり、試合後に相手と握手する習慣があったりと、非常にフレンドリーな感じを受けました。東北大会では予選から色紙の交換(全国大会で行われるもので、両チームが試合の感想などを書いた記念の色紙を交換する。僕も全部で9枚書いたわけですが字が読めなくて残念な色紙になってしまいました)がされていて、工夫しているなぁと感じました。
昨今はディベート甲子園の規模が伸び悩んでいるということがいわれており、今年も東海大会では参加校数が激減していたのですが、そんな中大切なことは、議論に取り組みやすい環境作り(指導方法の研究や議論レベルの向上)や宣伝活動もさることながら、参加して楽しいと思える大会作りだと思います。それはスタッフだけではなく、参加されているディベーターの方々も一緒になって取り組んではじめて達成されるものです。もっとも、「取り組み」と堅苦しく考えることはなくて、対戦相手をはじめとした他のチームのことを思いやりながら、ディベートを楽しめばよいだけのことなのですが、勝ちへの意欲が過ぎて余裕を失ってしまうと、そんな簡単なこともできなくなってしまいがちなので、これから予選を控えている方々や全国優勝を目指す方々も気をつけてください。ちなみに僕の見るところ、そうやって余裕をなくしてしまうと、勝利も逃してしまうことになってしまうようです。
議論全体の傾向としては、高校に関しては関東で流行っていた労災ケースがほとんど見られず、賃金面などに着目した労働者の待遇改善の議論が両地区ともで主流のようでした。これは選択の問題ではありますが、全国大会のことを考えると、普段当たっていない議論に対する対策も怠るべきでないということがいえるでしょう。議論の水準については、前に関東地区の感想として指摘した解決性の論点につき、不十分な点はあるものの一応意識されていて、それなりの論証も見られたというのが収穫でした。このような点を総合すると、全国出場枠のレベルでは両地区の方が関東のそれより若干高いように思われるのですが、来週の関東大会では解決性の点を中心に議論の成長が見られると思いますので、地区によってどうこうということもないのでしょう。
中学に関しては、関東と同じような議論が回っていました。いわゆる出会い系サイトの議論や、災害時に助けを求める話などです。レベルとしてはそんなに変わらないと思いますが、東北大会の中学決勝はかなりレベルが高く、全国が楽しみだという印象を受けました。あと、いつも思うのですが、中学生はみんなスピーチが上手でびっくりさせられます。もう僕は喋らない方がいいんじゃないかとさえ思えてきます。
高校論題の勘所
両大会で出ていた議論を踏まえ、これから全国大会(あるいは残りの地区予選)に向けてより詰めていただくとよいのではないかということをいくつか書かせていただきます。
(1) それでもまだ解決性
上で「解決性の点でよくなっている」といったことを書きましたが、それでもまだ証明の余地があるよなぁということを感じました。解決性をきちんと論じることは、デメリットとの兼ね合いでも重要なところですから、いくら準備しても損をしません。
解決性を論証する基本は、現状の問題(内因性)に対応していることをチェックするということです。賃金の不平等があるという問題分析に対して、派遣労働を禁止すると労災保険の適用がかかるようになると証明したところで何の意味もありません。見た試合の中では、内因性として4つの問題を証明しておきながら、解決性ではそのうち1つだけしか説明できていなかったというものがありましたが、結果として立論のうち3分間を無駄にしていたことになります。
その上で、以下のような角度から検討されると何か出てくるのではないかなぁということを感じました。あんまり書くとよくないとは思うので、あくまでアプローチにとどめておきます。
・各主体(労働者、雇用者など。以下同じ)の意識に着目する。制度のせいでそうなっているのか、制度を運用する人の思惑でそうなっているのか?その思惑は制度の変革で変わるのか?
・各主体は一枚岩ではない。肯定側、否定側が論じている対象はどういう職種/仕事内容の人間なのか。それぞれの対象ごとに求めるもの求められるものは違うし、論題の影響も異なってくるはず
・各主体の取れるオプションは複数ある。特に、企業が派遣労働の禁止後に取ることのできるオプションはたくさんあり、企業の置かれている状況や使用していた派遣労働者の仕事内容、各主体の思惑によって様々に分かれうる
・派遣労働制度とそうでない制度(パートアルバイトだけでなく複数ある)の違いは何か。法的義務だけでなく、金の流れやリクルート方法、管理コストなど実際的な側面も想像してみるとよい
ポイントは、過度な一般化は説得力を欠くということです。自分たちの論じている問題に即した証明を第一に心がける(もちろん、デメリット対策として自分たちの論じる対象以外への配慮も欠かせませんが)ことが大切です。
デメリットの論証についても、上記のアプローチが有効ではないかと思います。リサーチが間に合わないという場合も、想像力を働かせるだけで結構見えてくるものはあるでしょう(必ずしも資料を読む必要のない議論もあるし、既存の資料の違った活用方法が見えることもある)。
(2)重要性・深刻性を実のあるものに
相変わらず、というと失礼かもしれませんが、重要性や深刻性が形だけという議論が目立ちました。重要性や深刻性というのは、単に被害状況などを描写するだけでなく、それをどのように評価すべきかということまで説明してはじめて、内因性や発生過程と違った意味を持ちます。極端にいえば、「なぜその問題はメリット/デメリットより大切なのか」を語れない重要性・深刻性は、論じる意味がないということです。
そのような議論を出すためには、様々な原理原則についてしっかりとリサーチすることが必要です。例えば、労働者の待遇改善というメリットでよく言われていた「同じ仕事をしているのに派遣だと給料が安い!」ということを訴える議論については、同一労働同一賃金の原則(労働基準法3条など。ただし同条では雇用形態の相違を理由とした待遇格差は違法とされない)というものがあります。この原則を掘り下げて考えることで、何か出てくるかもしれません。
とにかく、ただ単に問題を挙げるだけでなく、その問題をジャッジはどのように評価すべきなのか、ということを語ってほしいということです。
(3)戦略を考える際のちょっとしたヒント
ここまでで十分長くなっているので、戦略を考える際のヒントめいたものを2つだけ簡単に書いておきます。
・自分たちの議論と相手の議論につき、ぶつかり合っていて両方とも論じるであろう点(ex:プラン後労働者の雇用形態はどうなるのか)と相違点(ex:日雇い労働者の話は肯定側のメリットでしか問題にならないかもしれない)を明確に意識する。共通している部分については当然しっかり議論すべきであるが、相違点については、それをどうやってアピールし、相手の議論にもあるだろう相違点と比べるかを考えておく
・立論と反論をセットで戦略を組む。特に否定側は、立論と第一反駁の役割分担を明確にする。例としては、否定側立論では肯定側が論じていない、派遣が比較的うまく行っている職種の議論を展開し、否定側第一反駁では肯定側の論じている問題の対象たる労働者が少ないことやその原因が実のところ派遣制度に起因しないことの反論に費やすといった分担がありうる
中学論題の勘所
中学論題については、各チームとも頑張ってリサーチされているようで、平均的水準が高いと感じました。その上でレベルアップを期待して、以下のような点に注意されるとよいのではないかと思いました。
・論題の文言に着目すると、なぜその論題が必要である/ないのかを決める勝負どころが分かる。今回の論題では「携帯電話」と「中学生以下」という文言がポイントになりそう。前者については「なぜ携帯電話を規制するのか?携帯電話特有の要素、他の媒体との違いは何か」ということを念頭にメリットデメリットを議論すべきであり、後者については「中学生以下につき規制することを正当化する理由はないか、中学生以下の携帯の使い方の特徴は何か」といったことが議論できそう
・みんなスピーチが上手で感心させられるが、第二反駁はまだまだ進歩の余地があるように思われる(難しいから当たり前ですが)。既存の議論に反論するだけでなく、自分たちの出した議論をもう一度振り返り、全体のストーリーを訴えかけるための「伸ばし」にも習熟すれば、ジャッジの票をより確実に獲得できる。その際には、上で述べたポイントも参考になるのではないか
・より具体的な理由付け。せっかく自分たちが対象になっているのだから、ただ資料を読むだけでなく、自分の生活に即してどう思うか…などの点を考えた上で議論することで説得力が生まれる。例えば、中学生が痴漢に襲われて、携帯で助けを呼べるという状況はどのくらいあるのか?親は子どもに言われてフィルタリング機能を外すのか(どうして外さなければならないのか、フィルタリングがあると「真面目な」中学生にとって何か困る点はないか)などなど、いろいろ考えることができる
・ややテクニカルであるが、説明しなければならないことはきちんと説明しないといけない。例えば、肯定側が立論中で先回りして「フィルタリング機能は親が外すので機能しない」と証明したところ、否定側は「親は外さない」というような反論だけをしていたが、ここで第一に説明すべきなのは「フィルタリング機能というものがあれば有害サイトにはアクセスできなくなる」ということであり、それをしないままフィルタリング機能が外れるかどうかを論じても時間の無駄である(否定側がこの論点で勝ってとしても「フィルタリング機能という何に使うのか良く分からないものがあるらしい」ということにしかならずメリットへの攻撃は失敗に終わる)
ルールの解釈についての若干の私見
東北大会では前日に短時間ではありますがジャッジ向けのルール講習会を担当させていただきました。予定外だったのでいろいろ不備もあり、服装などで無礼な感じになっていたりしたという反省もあるのですが、こちらとしても勉強させていただく機会になりました。
その中で、いくつか気づいたことや論じておくべきことがあったので、以下簡単に記しておきます。
(1)ルール解釈・運用のあり方
講習会では以下に述べるような内容も含めた僕の独自の問題意識につき話をさせていただいたのですが、それについて「その結論は試合運営委員会で決定されたことなのか。そうでないならその見解見は取るべきでないだろう」という指摘がありました。確かに、このブログなどで勝手なことを書くのならともかく、試合運営委員としての立場で私見を披露するということは差し控えるべきだったと反省しているのですが、その一方で、僕個人のルール解釈・運用観からすれば、委員会の決定の有無というものにこだわる必要性が必ずしもあるというものでもないと考えています。
ディベート甲子園のルールというものは、本来ならジャッジが自由に判断すべき勝敗の決定方法や試合の運営方法につき、大会の便宜や教育的効果確保などの目的から明文で規定したという性格のものです。元々がジャッジの裁量に属することなのですから、明文の規定やその趣旨から「許されない」処理はありうるとしても、その明文が一義的な処理しか認めないというものではありません。
ですから、試合運営委員会その他の名義で出される公式見解が「特定の取扱いを禁止/強制する」という場合、これには従うべきということはできますが、それがない状況においてはジャッジの取扱いはルールその他の制約に反しない限り自由であって、「公式見解が出ていないから従来どおりにしかできない」というものではありません。だいいち、慣習を無批判に受け入れるということ自体が、ディベーターとしてのあり方に反しています。
僕がこのブログなどで書いているルールの解釈は、公式見解でもなんでもない僕の私見であり、せいぜい「愚留米はそのような解釈を見ても文句を言わない」程度の効果しかありません(つまりゼロだということです)。しかし、(僕の解釈が明らかに誤りであるという場合は別ですが)僕が述べている解釈は一つのありうる解釈としてそれに従ったルールの適用・運用が許されるものであり、何らかの公式見解に裏付けられないと採用できないといった類のものではないでしょう。
そして、あるジャッジが僕の解釈を取り、別のジャッジは異なる解釈に基づいた異なる処置を取るという状況が出たとしても、それぞれの解釈に理由があるならば、ルールはそうした多様な取扱いを許容しています。もちろん、その前提となるジャッジの裁量については様々な理解がありうるところで、僕の理解は普通より広くなっていると思うのですが、その当否は別として、慣習に反する扱いが一切許されないとか、ルールの運用は常に一通りであるといったことはないだろうということだけは、ここで私見として述べさせていただきます。
(2)ジャッジによる選手への告知の可否
ジャッジが選手に対して試合中に注意を促したりすることにつき、マナーの問題など形式的なことについてはともかく、議論に関わる内容については口を出してはいけないのではないか、ということが言われます。確かに、議論の当否についてなどのコメントは許されないのですが、公平を害すことなく議論の適切な進行を促すことができる場合、ジャッジは議論の内容に関わる告知や釈明などをしてよいと考えています。
例えば、細則B-3項にある「証拠資料が引用されている部分」の明示特定が十分でない場合にこれをジャッジ側で確認した(細則D-5項)ときには、その証拠調べの結果判明した引用範囲の内容を相手方に告知するという処置が望ましいのではないでしょうか。引用終了部分が言われなかったため、どこまでが資料の内容か良く分からないという場合、ジャッジはこれを確認することができますが、その結果「どこまでが証拠資料なのか」という情報については、相手チームにとって攻撃防御対象を定めるための重要な情報であり、ジャッジが確定した内容を伝えてあげることが、相手にとって便宜であるとともに、それはジャッジがきちんと調べた上で判明し、そもそもそうあるべきであった内容なのですから、公平を害するということもないということです。
このような形で、議論中に現れた形式的な齟齬についてなど、ジャッジが気づいた際にはこれを確認し、選手がその点を誤解したまま試合を進行することのないよう注意を促すという手続を観念することができるというのが、僕の立場です。
これに対し、ディベート甲子園の明文にない以上、そのような取扱いはまずいのではないかという意見もありました。しかしながら、明文にないことがかかる取扱いをできないという結論を直ちに導くものではないということは既に述べたとおりですし、ルールの精神からして議論の実質的評価に踏み込まない範囲での誤解を訂正して試合進行を円滑にするための処置は排除されておらず、むしろ教育的見地から推奨されているということもできます。また、かかる処置を無制限に認めることがよくないということであっても、少なくとも上記のような扱いは細則B-3,4項や細則D-5項の延長線上に位置づけられ、明文が予定するところでもあるということができます。
もちろん、これは僕の私見でありますから、これが絶対正しいというものではありません。かかる取扱いを許すかどうかはジャッジ各位が検討すべき課題ですが、その際には「ルールにないから」とか「これまでそうしてこなかった」という形式的理由にとどまらず、実質的に許されるかどうかという見地から検討されることで、より実りある議論ができるのではないかと思います。
(3)反則処理の扱い
細則C-1項では「次の行為があったときは反則として,悪質な場合,審判団の判断でその試合を敗戦にすることがあります」としており、反則の処分は通常の判定投票と異なり審判団の協議により判断されることが定められています。これは、勝敗の投票と反則処分は別個の制度であるということを示しています(本則でも4条で反則につき定め、5条で判定につき定めるという形でそれぞれを独立に規定しています)。
ここから分かることは、反則行為があったことを理由に「個々のジャッジが」投票を行ってはならないということです。反則行為が証拠資料の使用方法に係るものであり、当該証拠が判定上排除されると判断することは当然できますが、判定を出す際に当たっては反則行為の存在をそれ以上考慮せず、あくまで議論の優劣によって投票を決定し、その上で審判団協議により反則処分の是非を議論するということです(1人ジャッジでも2つの手続きは分けて考えるべきです)。
要するに、議論の評価と反則行為の評価は別個に考えなければならないということです。反則行為が議論の信用性を下げる(著しいマナー違反の発言が信用性を下げるという評価は十分ありえます)という判断は可能ですが、反則行為がけしからんということだけで議論の信用性が下がることはない(選手が口頭でアドバイスしていたという場合、細則C-1項2号の反則事由にあたりますが、かかる事実があったとしてそれにより議論が信用できなくなるということはないでしょう)ので、それを理由に投票をするのはおかしいのです。
すると、投票結果としては3-0で肯定側の勝ちになっているが、肯定側は口頭でのアドバイスが過度であったため反則として負けになる、という処置もありうることになります。反則は独立の効果として敗戦の帰結をもたらしますから、投票結果に上書きされる形で勝敗を決定することになります。
ここで問題となるのは、3-0で投票上勝ったが反則により結果としては敗戦になったチームの評価をどうするかという点です。リーグ戦では勝ち数、得票数、コミュニケーション点の順に考慮して順位を決定するのですが、上記のようなチームについて得票数はどうなるのでしょうか。
私見としては、得票数は反則処分と独立の投票によって得られたものであるから、反則処分は得票数に影響せず、この場合3票の獲得を認めるという処置が正しいと考えます。それは反則をしたチームを有利に扱いすぎであるという批判もありそうですが、反則をしたチームがリーグを勝ちあがることが不当だという事情があるなら大会失格(細則C-2項)で対処でき、かかる批判は当たっていません。
以上、大会の感想などを書いてみました。あまり時間もありませんが、選手の皆さまが悔いのないよう準備され、素晴らしい議論を展開されることを願っております。拙文がその一助にでもなれば幸いです。