2008-07-31 Thu
ディベート甲子園まで残すところわずかとなりました。出場される方々は最後の準備に余念がないことかと存じます。悔いのないよう頑張ってください。僕はというと、全国では専らジャッジの割り振りを担当することとなり、ジャッジとして前線に立つ機会は昨年に引き続いてほとんどなさそうです。選手の皆さんの努力を評価する審判団の決定という大切な仕事を任されている以上、頑張って職責を果たしたいところです(とはいえ、今年から新システムの導入で忌避地区の指定などが楽になり、おそらく苦労はないのですが)。
一部の大人の都合により変なことが起こっていたりもするのですが、たくさんの方々のご協力のおかげで、今年の大会も無事に開催できるのではないかというところです。安心して議論に集中してください。
さて、今日は最初に関東地区の予選2日目についてごく簡単に感想を書いた上で、ある有名ジャッジの方の問題提起に関連して、証拠資料の評価について考えるべきことをまとめておくことにします。
関東大会2日目の感想
一番印象に残ったのは、新規参加校の活躍が目立ったということです。これは既存のチームがふがいないということではなく、新規参加でありながら高いレベルの試合を展開していたということです。僕が見たある試合では肯定側が全国初出場を、否定側が二度目の全国出場を賭けた試合だったのですが、肯定側は団塊の世代の退職に着目して再雇用の余地を論じる解決性のアプローチをひねり出しており、一方否定側は失業の原因として労働者と企業のミスマッチ問題を挙げ、労働者派遣制度はこのミスマッチを緩和する役割を有しているという分析をかなり説得的にしていました。残念ながら肯定側は全国に行けなかったわけですが、個人的には両チームとも先の試合に進んでもらい、もっと素晴らしい議論を見せてほしかったと思っています。
全国出場を決めたチームの中には、中高ともにこうした初出場校が入っているのですが、初出場となめてかかるとやけどをすると思いますよ。こういう勢いのあるチームがどんどん出てきて、全体が活性化してほしいところです。名門校も負けずに頑張ってください。
もう少し議論について思うところを書いておくと、議論の完成度は前より高まっているものの、その反面「小さくまとまっているなぁ」という議論が目立った気がします。勝ちたいという気持ちが先行してしまい、自分たちが回したい議論という視点がどこかにいっちゃっているのかもしれません。反論されても残る議論・・・といって小さな問題を論じるよりは、論じたい問題をずばっと選択し、それを残すためにはどういうアプローチを採ればよいのかと考えたほうが気持ちいいでしょうし、結果もついてくると思います。相手の反論やジャッジの反応を恐れず、これはと信じた議論で突撃する勇気を見たいということです。どのチームも突撃を無謀に終わらせないだけの実力はありますから、自信を持って(というか、突撃が成功しないチームがいくら策を弄してもムダです)。
そんな感じでした。解決性の議論は依然として改善の余地が大きいとも思いますが、それでも結構よくなっている印象でした。難しい論題だと思いますが、全国大会では素晴らしい議論がされることを期待しています。
証拠資料の評価に関する覚書
松本先生の跡を継いで(?)ディベート甲子園高校決勝の主審を担当されている嶽南亭先生が、ブログの中で「ウィキペディア問題」について注意を喚起しています。
嶽南亭主人 ディベート心得帳(2008年7月29日)
ディベート甲子園関東大会中学の部の、とある試合。
ウィキペデイアが証拠資料として提出された。
ついに来たかとの思いがした。同時に、これは講評の際に注意喚起をしておこうと思った。
ウィキペディアが証拠資料に「ならない」とは言わない。しかし、使用に際しては、相当の注意が必要な出典であろうと思う。私は、個人的には、お勧めしない。
結論としては僕も同感なのですが、これを機に、証拠資料がどのように評価される(べき)なのかということについて、ルールも踏まえて理論的に整理してみることにします。その上で、ウィキペディア問題についてどのように考えればよいのか、少し議論してみましょう。
1.証拠資料としての資格/証拠資料の価値
証拠資料を評価するという作業には、2つの段階があります。第一に、そもそもそれを証拠資料と認めてよいのかという判断があり、それを前提として第二に、その証拠資料がどれだけの価値を持っているのかということです。この2つの違いを理解することが、証拠資料の扱いについて考える上で重要になってきます。
この2つの要素はそれぞれ、証拠資料としての「資格」と、証拠資料の「価値」を表しています。以下では、証拠資料としての資格があるかどうかの要素を「証拠能力」と呼び、証拠資料に価値があるかどうかという要素を「証明力」と呼ぶことにします(例によって法律用語です)。
この用語法に従って、ディベートで用いられる証拠資料に期待されることを説明すると、次のようになります。すなわち、ディベートで用いられる証拠資料は、証拠能力を有した上で、十分な証明力を有していなければならないということです。
2.証拠能力が要求される根拠とその判断方法
証拠資料に「資格」が必要である理由は、何でも証拠として使ってよいとすると議論として適正さが保たれなくなる可能性があることや、類型的に評価を誤らせる恐れの高い証拠はあらかじめ排除しておくことが望ましいことなどに求めることができます。
審判対象の重要さゆえに証拠能力が厳格に要求される刑事訴訟を例に挙げると、違法捜査で得られた証拠(違法収集証拠)は手続きの適正確保や違法の抑止を理由として証拠能力を否定されることがありますし、任意性に疑いを欠く自白や伝聞証拠(又聞き)については類型的に信用性が低いため、例外を除いて証拠能力が否定されます。
ディベートでも、同様のことを考えることができます。例えば、文章の改変などをした証拠資料については、たとえそれが客観的に真実に反しないとしても、適正さを保つために証拠能力を否定しなければなりません(細則B-6項)。
ここで問題となるのは、細則B-4項のように、引用の方法が不適当な場合に「引用された証拠資料の信憑性は低く評価され,あるいは資料として引用されなかったものと判断されます」と書いてあるような場合です。ここでは、証拠能力の問題と証明力の問題が連続しています。
詳しくはこの点について書いた過去の記事(資料全体について網羅的に書いた筆者の文章としてはこちらを参照。クソ長いので注意)を読んでいただきたいのですが、簡単にまとめると、証拠資料として評価しうる最低限の要件も満たしていない場合には証拠能力が否定される、ということです。
なお、ここでいう「最低限の要件」を考える際には、証拠資料が満たすべき条件とは何か、ということを考えなければなりません。これについても詳しくは過去の記事を参照してほしいのですが、細則B-4項(とりわけ同項1号にいう出典の問題)との関係で言うと、再現可能性(検証可能性)があるかどうかという点が重要です。本当にその証拠資料は信用できるのか、ということをチェックするためには、その証拠資料にアクセスできること、その証拠資料の作成源にまで遡ってその信用性をチェックできることが求められるということです。
3.証拠資料の証明力
皆さんが普段考える「証拠資料の評価」とは、証拠資料の証明力についてでしょう。
証明力の要素を整理すると、その証拠資料の内容が証明対象と関連しているかどうか(関連性)と、その証拠資料の内容が信用できるのか(信用性)という2つの要素が問題となります。
例えば、派遣労働を禁止すると労働者がパートに置き換わるということを前提として、そうなると派遣労働者だった人の賃金が低下するという議論を考えてみます。ここで読まれた証拠資料が「パートの平均時給は800円、派遣の平均時給は1200円」というデータだったとしましょう。
この資料と、証明対象(パートになると賃金が下がる)の関連性を考えてみると、この資料が言っているのは「パートの平均時給は派遣より安い」というだけで、それは論題採択後の分析ではなく現在の事実にすぎないこと、同一職種を比べているなどの事情が見られないことなどを踏まえると、証明対象との関連性はあまり強くないという評価をすることができます。
というわけで、この証拠資料は証明対象との関係では「そんなにいいこと言ってない」ことになるのですが、その上でこの資料の信用性をチェックし、掛け合わせて最終的な評価を下すことになります。平均を取った母体が偏っているということなら信用性も低く、全体としてほぼ評価できなくなりますが、とても信用の置ける内容だったとしても、そもそもその内容が証明対象にマッチしていないので、結局評価は低いということです。
証拠資料について反論を試みる上では、この2つの要素について意識してみると分かりやすくなるかもしれません。「この資料の内容はそこまで言っていない」という関連性への反論と、「この資料は派遣業者の意見だから信用ならない」という信用性への反論は、同じ証明力への反論だとしても、その性質は異なっているということです。
証拠資料を用いた議論の組み立てをする場合にも、この2つの要素は重要です。特に関連性については、きちんと吟味してほしいところです。
4.ウィキペディア問題について
以上を前提に、ウィキペディア問題について考察してみましょう。
ウィキペディアが証拠資料として不適切であるというのは、証拠能力の問題でしょうか、それとも証明力の問題でしょうか。これは、ディベートの証拠資料に求められる条件をどこまで厳格に考えるかということなのですが、その条件を構成する要素としてはさしあたり「再現可能性」「客観性」「権威性」を挙げることができるでしょう。この3つについて順に見ていきましょう。
ウィキペディアは「再現可能性」の点で、すぐに改変されかねないという不安があります。もっとも、最近では編集履歴もチェックできるようなので、ある段階で引用文が存在したということを示すことは容易なのかもしれません(こちらの記事などを参照。これを読んでいるとウィキペディアもいいかげんだなぁと思えてしまいますが…)。
「客観性」の点については、極端な話選手自身も書き込めてしまうという指摘があり、その意味では客観性に欠けるということもいえそうです。しかし、理論的には試合中にスピーチしている選手は無作為に立場を決められてスピーチする「選手としての人格」で試合に臨んでおり、試合の前にウィキペディアに書き込んでいる時の人格とは区別することができます。例えば、(今大会では中学論題で藤川先生が試合をするとすれば起こりえますが)自分の著書を試合で引用する行為が禁止されるいわれはありません。ここでいう客観性とは、あくまで試合外の言説という意味での客観性であって、ウィキペディアの編集可能性がディベートに要求される客観性を否定しているものと解することはできないでしょう。
「権威性」については、そもそも証拠能力として要求されているのかという疑問があります。これは証明力のうち信用性の次元で考慮すれば足りるでしょう。もちろん、類型的に誤りが多いという意味で証拠能力を否定する「疑わしい権威」がありうることは確かですが、ウィキペディアの情報がそれに該当するかというと、(大学のレポートで引用すると怒られますが)社会通念上そこまで行っているとは思えません。百科事典と同等の信用性があるという調査(こちらを参照)もありますし…(昔見せてもらった訴訟記録の中には、当事者がウィキペディアの記述を証拠として使用していたこともありました)。
以上見ていくと、ウィキペディアの記事が証拠能力を欠くとまで言えるかというと、そこまではいかないだろうというように思います。細則B-2項が「著者の名前」などを求めていることからすれば、著者が不特定である証拠資料をルールは許容していないのだという理解もできなくはないのですが、その要素だけを形式的に解するというのはちょっと違うような気もします。
ただ、ウィキペディア記事の証明力はどうかと考えてみると、これについては相当に疑わしいといわざるを得ません。誰でも書き込めるということは、ある意味で街頭アンケートのようなものと同じで、いくら内容がもっともらしいとしても、権威性を認めることはできません。最大の問題としては、当該記述に問題があったとして、その責任を負うことがないので、そのような記述には信用が置けないということがあります。適当に書いても損をしないのだから書く側も適当になってしまうのではないか、ということです。
もっとも、このような批判はネット資料全般に当てはまるところです。公的機関などのサイトに信用性を認めることができるのは、そういう機関はいいかげんなことを書かないし、書いたら問題になるということです。裏返せば、そのような事情のない個人による匿名でのネット言論は信用性が低い(そんなことを言っている裁判例もあるそうです。こちらを参照)ということです。
さらに言うなら、立派な機関だから、紙の媒体だから、という考え方についても再考が促されているのが昨今の言論事情だということもいえそうです。全国紙である毎日新聞のサイトで下劣な記事が平然と垂れ流されていたという事件もありましたし、紙媒体であってもトンデモ本はいくらでもあります。個人出版の時代に公刊物性という一事をもって証拠能力や証明力を論じることは、もはや時代錯誤なのかもしれません。
その意味で、証拠資料の評価はパターンとして論じることはできず、当該資料の性質や証明対象との関係などに注意しつつ、個々に判断していくしかないということです。
選手の皆さんには、その証拠資料はなぜ信用できるのか、ということについて、内容面でも形式面でもじっくり考えてほしいところです。ウィキペディアについても、嶽南亭先生が言っているからということで思考停止するのではなく、ウィキペディアではダメだという理由に納得できるかどうか考えてみてください。その結果、ある場合にはウィキペディアでもよいのではないかという結論が出てくるかもしれません。そうであれば、その理由をきちんと説明した上で、堂々と引用されればよいでしょう(そこまでして引用する価値のある内容があるかどうかは知りませんが)。逆に、それらしく引用されている資料についても、その証拠能力や証明力を疑う余地はいくらでもあるでしょう。
以上、また長くなってしまいましたが、重要なことだと思いますので書いた次第です。全国大会の前にこんな記事を書いてどうするんだという気もしますが、こんな長文を最後まで読んでくれた方に何かよいことが起こることを祈って、これでおしまいにします。
P.S.
実は今回はじめてトラックバックなるものをしてみました。本来なら香ばしい記事への乱入プレーのために使いたかったのですが、乱入すべき記事がなかなか見つからない(というかやはり気が引ける)ので、まじめに使ってみた次第です