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アカデミックディベーター

Author:アカデミックディベーター
日当たりの良い某法科大学院を2009年3月に卒業。
ライフワークである競技ディベートについてぼちぼち書いています

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擬似「セオリー」批判(1:ディベート理論を根拠付ける諸原理について、その他)
そろそろ司法試験に向けて勉強をしなければならないのですが、近時香ばしい文章が発表されたので、息抜き(?)も兼ねてこれにコメントすることにします。

以降紹介するのは、大学ESSの英語ディベート界で一部から支持されているらしい異端の競技者グループ「梁山泊」の手によるテキストです。
最初に断っておきますが、僕はこのテキストにある見解を支持するものではありません。というか、その多くは理解不能であり、理論と呼べる代物ではないと考えています。その意味で、これから書いていく内容は「トンデモセオリー批判」となります。

そんなことをわざわざするのは、このようなわけの分からない文章を万が一信じてしまい、おかしな方向に向かってしまうディベーターが出ないことを願うがためです(最近はディベート甲子園から英語ディベートを志望する人も少なくないようなので。勘違いしないでほしいのは、筆者は英語ディベートそのものを批判しているのではなく、英語ゆえに批判的思考がしにくいフィールドで、おかしな考え方に染まってしまう危険性に注意を喚起しているのです)。
また、もう一つの目的として、誤った議論についてその誤りを正すという過程において、ディベート理論についてのより正しい(完全に正しい理論というものは考えがたい)理解を促すことが出来るのではないかと考えたからです。

以上のような趣旨から、この連載(続くかは知りませんが)はディベート甲子園の現役選手向けではなく、ある程度ディベート理論に興味があり、それなりの知識を有していることを仮定して議論を進めることにします。
一方、対象となるテキストは英語ディベーター向けなので英語の用語がたくさん出てきますが、英語の知識は仮定しません。いずれ書きますが、彼らがTopicalityの例として変な解釈をやろうとしているところは、理論(Theory)と呼ぶべき領域の問題ではないし(だから詳しく取り上げません)、英語の用語が分からなくても全然議論できるからです。以下の記述でも、適宜日本語の表現に直して説明を行います。

また、以下ではこのテキストを徹底的に批判していますが、僕の批判が正しいかどうかは読者の皆さんが考えることです。僕はディベート経験で言えば高校からの8年程度で、ディベート理論についても現代ディベート通論を中心として勉強し、考えた程度の知識しか有していません。また、(必要なのかよくわかりませんが)英語力についていうなら、世界でトップ10にも入っていないような世界的には二流の大学にギリギリ受かった程度なので、たいしたものではありません。その程度の人間が書いているのですから、権威性というものはありませんので、内容で判断してください。もちろん、批判も全面的に受け付けます。

それでは、最初に、彼らのテキストの序章部分について、逐次コメントしていきます。引用して説明したいのですが、PDFからうまくコピペできないので、詳しくは以下に紹介する原文を参照してください。なお、繰り返しになりますが、このブログの筆者はこのテキストは概ね誤っていると考えているので、これを後輩などに渡して読ませるといったことはやめておいたほうがよいでしょう。そのあたりは自己責任でお願いします。

THE PERIOD OF "period"



BASIC STANCE TO LEARN DEBATEについて(2~6頁)
最初に、常識を疑え云々といったことが書いてあります。これは、物事を批判的に検討しろという意味であれば全面的に賛成できます。しかしながら、このテキストの以降の記述や、彼らのスタンスなども含めて総合的に検討すると、ここでの記述は「常識や権威も批判的に検討しないといけない」ということを越えて、「常識や権威は間違っている」という過度の規範を含意しているように読めてしまいます。そこまでいくと、単なる反権威主義者にすぎず、賛同できません。さらに、「彼ら(権威の象徴たる「トップディベーター」)は、私が格闘していた疑問に対する解答など、クラッカーの歯糞ほども見つけていなかったからである」などという(品の良くない)表現などを見ていると、むしろ自分の方が正しいという、新しい権威付けを作ろうとしているのではないかと思えてしまいます。

ここでは、以下のような文章を紹介しておきましょう。ちなみに、同書は読み物として面白く、このテキストも含め、トンデモ理論を振り回す人の思考がみな同一であるということを明快に示してくれているので、ご一読をおすすめします。

マーティン・ガードナー著 市場泰男訳『奇妙な論理Ⅰ』(早川書房、2003年)31~34頁 
誠実な疑似科学者の偏執狂的傾向は、次の五つの形で露呈されるようである。
(1)彼は自分を天才と考える。
(2)彼は自分の仲間たちを、例外なしに無学な愚か者とみなす。彼以外の人はすべてピント外れである。(…)
(3)彼は自分が不当に迫害され、差別待遇を受けていると信じる。(…)
(4)彼は最も偉大な科学者や最もよく確立された理論に攻撃を集中する強い衝動をもっている。ニュートンが物理学でずばぬけた名声を保っていたときは、物理学での奇人の仕事は猛烈に反ニュートン的だった。(…)
(5)彼はしばしば複雑な特殊用語を使って書く傾向がある。多くの場合それらの術語や句は彼が自分で作り出したものである。


最後の方で、アメリカのディベート理論についても批判があります。確かに、アメリカのディベート理論だからといって無批判に受容するのは大きな間違いだと思います(例えば、アメリカでは便宜上Topical counterplanが認められているようですが、これはおかしなことだと思いますし、Presumptionについての用語法もあまり賛同できない――アメリカでそうなっているのかはよくわかりませんが――というのは前に書いたとおりです)。しかし、アメリカの理論であるということが警戒を促す要因になるというのはちょっとよく分かりません。アメリカで何かひどい目にあったのでしょうか。ちなみに、アメリカのステーキは赤身でさっぱりしていながら割とやわらかく、おいしかったです。

Basis of Theory Skillについて(7~8頁)
英語の勉強の仕方が書いてあります。ご丁寧に参考書の推薦があります。僕は読んだことがないのですが、受験界の「権威」が書いているようなので、いい参考書なんでしょう、多分。
ちなみに、”the Japanese government should allow the employment of migrant workers from overseas in all or most workplaces by amending the immigration laws.”という文章を和訳して「日本政府は渡り鳥(あるいは働き蜂)を日本に持ち込むことを認めるべき」みたいな解答を書くと、日本の大学には受かりません(受かる大学があるのかもしれませんが)。気をつけましょう。

BASIC CONCEPTについて(9~13頁)
ここが今回の中心となる内容です。
ルールとフィロソフィーについての関係ですが、彼らは「ルールとはインビテ(大会告知)に書かれている決め事で、フィロソフィーは各ジャッジの能力の明細である。セオリーはルールからのみ導かれる」といった趣旨のことを書いています。
ジャッジの能力の明細というのが何を意味しているのか、僕にはよく分からなかったのですが、どうやら彼らの中では正しい理論というのは1つ(あるいは限定された少数)しかなく、それはルールからのみ導かれ、そこから外れるフィロソフィーは全て間違っている(イラジャッジ)ので変えなければならないというように考えているようです。

ここは彼らの分類に従って、ルールとフィロソフィーを分けて考えます。
ルールとは、事前に告知された、その大会(試合)で適用される規範であるということができます。要するに法律ですね。もっとも、彼らがルールとして想定しているものはちょっとよく分からないのですが、インビテに書かれている内容とするなら、ESSの英語ポリシーディベート大会であれば一般的に適用されるようである全日本英語討論協会(NAFA)のディベート大会規則などを指すのでしょう。
ただ、彼らはすぐ後で「Educationはフィロソフィーの根拠にならない」と言っているので、同規則の2章3節2条「全てのジャッジは、その良心に従い独立して試合の判定を下し、この規則及びアカデミック・ディベートの教育的精神にのみ拘束される。」に違反しているようですから、もしかしたらこの規則は彼らの言うルールの範囲外なのかもしれませんね。

さて、同規則を見ても分かるとおり、ディベートの試合で問題となる局面に対し、ルールは全ての解答を与えているわけではありません。それは、ディベート甲子園のルールについて解説してきた内容からも明らかでしょう(もっとも、ディベート甲子園のルールはあれでもかなり「親切」で、通常のディベート大会より細かい規定振りとなっています)。
このことは、フィロソフィーがルールから全て導けるということが誤りであることを端的に示しています(彼らが以降主張する内容も、本当にインビテからたどりつけるルールの明文から導けるかは怪しい――少なくとも彼らは明文を解釈していない――です。多分、彼らの妄想に基づくディベート原理を勝手にルールとしているのでしょう)。

それでは、フィロソフィーとは何でしょうか。それは、ジャッジが議論を判断するに当たって用意する判断枠組です。
この判断枠組は、もちろんルールに反してはなりません。また、この枠組はジャッジごとに裁量で形成された初期条件ですから、うまくすれば議論の中で変更させる(Shift)することもできるでしょう。その限度でテキストの記述は正しいのですが、そこに「ジャッジの裁量」があるということを看過している点で、彼らの議論は独善的になってしまっています。
そもそも、一つしか答えがない(裁量が許されない)のだとしたら、ジャッジはいらないでしょう。脳内でイラジャッジのいない大会を楽しめばよろしいのです。第三者に判定を委ねている以上、そこには様々な考え方があってしかるべきです。だいいち、法律の条文解釈であっても、多くの(おそらくそこそこ優秀な)研究者や実務家が長年格闘して答えが出てこないことが多々あるのですから、ルールや議論の解釈が一通りに定まるなんてことは考えがたいところです。また、第三者に判定を委ねているということは、その第三者の思考を経なければ、答えは出てこないということを意味します。これは、彼らが正しいと思う論理を正しく展開したとしても、第三者たるジャッジがそれを評価するという過程を必要とするということで、その「評価の過程」においては、どのように評価するかという規範が必要となります(例えば、ニューアーギュメントなどの主張制限など)。つまり、唯一つ正しいフィロソフィーがあるとしても、それを確定するためのフィロソフィーが必要であるわけで、そういうことを言っていたら何が正しいのか分からなくなってしまいます。
こう考えると、フィロソフィーは各ジャッジに異なるということ、そしてその内容は試合前にジャッジが事前に定めておく必要がある=裁量があるということを承認するほかないということになります。フィロソフィーはジャッジの裁量に属するので、選手のスピーチと無関係に形成されます。ですから、Shiftを狙ったスピーチが間違っているとしてこれを無視したとしても、ジャッジとして誤りではありません。もちろん、客観的に言って批判の余地はあるのかもしれませんが、ジャッジがフィロソフィーの判断で選手に拘束されるということはないというべきです。
*もちろん、ジャッジが「自分のフィロソフィーに理由がない」と考えるに至ったとすれば、職業倫理としてShiftを認めるべきでしょう。しかし、選手の主張にある程度理由があるとしても、それでも自分のフィロソフィーになお合理性があると考えれば、Shiftしないという選択もまた正当ということです。

続いて、イシュー(議論)がバロット(判定)に反映されるためにクリアしなければならない条件、として議論されている部分(10頁~)を見ていきましょう。
彼らは、Logical Legitimacy(論理的正当性)のみを基準にせよと言っています。そして、純利益の議論(ADやDAの比較)やTopicality、Counterplanなどはルールから論理的に勝敗を確定できるかどうかで争われる、といいます。しかし、先ほど見たNAFAの規則では「どうやったら勝つか」なんて規定はありません。JDAのルールでは、「肯定側が論題を肯定し、否定側はこれを妨げるのが目的」みたいなことは書いてあります(第三条)が、これは各サイドの役割を述べるだけですし、勝敗の判定は「ディベーターが試合中に提示した議論に基づき」決定される(第五条一項)とあるだけです。つまり、ディベーターが当然と思っているイシュー(AD、DAやTopicality)は、慣習上そのような議論で論題を肯定ないし否定できると考えられているだけで、ルールから導かれるものではありません。

もちろん、こうしたイシューにはそれなりの論理的正当性があります。ポリシーディベートが論題の是非を争う競技である以上、その枠組の中で論題の是非につき説得力をもつ議論方法が生き残り、現在一般的に回されているイシューになっているわけですから。
しかし、それは「論理的正当性以外の基準」を排除するものではありません。彼らがどういうものを「論理的正当性」と考えているのかはよくわかりませんが、それがEducationやFairnessを絶対的に排除するものだとすれば、そうであるという論拠を、それこそ論理的正当性の基準で示すべきです。
ちなみに、政策論争以上に厳格さが要求される刑事裁判においては、Fairnessが超重要な基本原理とされ、本当は有罪であってもUnfairな手続きでは有罪にされません。また、政策論争であっても、論理的次元だけではない感情的な要素(いわゆる「失言」など)が問題とされることもあり、そこには一片の合理性を認めることもできます。これは、Fairnessなどの諸要素が別途の基準として採用されているということもできますし、フィールドごとにEducationやFairnessが論理的正当性の一要素として溶け込んでいるという説明も可能でしょう。

では、ディベートにおいて、EducationやFairnessの要素が参照されるべきでしょうか。
Educationの要素について、彼らは「そんなものディベートの参加者は求めていないから不要」と言っています。それがどの程度本当なのかは分かりません(BMDや核燃料サイクルについて学ぶために英語ディベートをやってるわけではないでしょうが、英語で実のある議論をしたいという程度の動機はあるでしょうし、ピリオドの解釈とかくだらなくてやってらんねーよという選手はかなり多いのではないでしょうか)が、たとえディベートの参加者が教育的動機を有していないにせよ、ディベートという競技がその沿革からしても性質からしても教育的性質を帯びていることは否定できないし、ジャッジがそのような信念にのっとって議論を判定することを「禁止」するような原理がディベートの枠組から導かれることはありません。あるというなら、それを論証すべきですし、先ほど見たNAFAの規則を真っ先に批判されるべきではないでしょうか。梁山泊のメンバーはアナーキストらしいので、別団体を作って、教育には何の興味のない人たちだけでディベートをやればいいと思うのですが。
ちなみに、彼らの言う「サッカーでヘディングは禁止しよう」という例について言及しておくと、勝敗の方法がジャッジの裁量に委ねられている(先ほど引用したルールを参照のこと)ディベートと一緒に論じること自体がおかしいし、サッカーであっても、ルールに書いていない方法であれば何でもやっていいということにはならないでしょう(サッカーの競技規則第12条では、「危険な方法でプレー」した場合を間接フリーキックが与えられる反則としており、もしヘディングが危険だと判断されるものであれば反則になるわけです。ディベートでも、ジャッジが説得的でないと感じたのであれば、論題と離れて敗戦理由にすることも可能なはずです)。
Educationの基準があいまいで恣意的であるという指摘もありますが、それを言うなら、論理的正当性という要素だって絶対ではありません。彼らの言い方に沿って説明するなら、「原発労働者の被爆は悲惨なものであり、なくさなければならない」という議論を出したところで、「原発労働者の被爆は自ら選んだリスクに基づくものであり、今以上対策はしなくていい」と言われれば、原発労働者の保護必要性は各人の主観で決まる部分がありますから、これだけで決着はつきません。一つしか答えがない、という意味での論理的正当性は、記号論理の世界などではありうるのでしょうが、ディベートで扱われるような議論では担保されません。
(なお、彼らがここで使っているOffsetという概念は、物事を単純化しすぎるきらいがあり、濫用を避けた方が良いです。たとえTopicalityの教育的意義という点についても、「言語に関する知識」と「教育に関する知識」を、具体的に将来役立つ可能性や利益の大きさから比較検討することは可能であり、同じ「知識」であるからと思考停止することは、優れたディベーターのすることではありません)

Fairnessについて、彼らは「ルールで許容されていれば何でもOKなのだから、Fairnessはいらない。ルールに選手が同意している以上、そこで許容された議論を認めないのはおかしい。Fairnessで否定されるというUnfairな議論だとされてきたのは、それがStrongだと言っているだけだ」ということを言っています。
そもそもルールに使用可能なイシューが規定されていることは(ディベート甲子園での例外を除き)ないのですが、それはさておき、それでは彼らはニューアーギュメント(新出議論)の概念を否定し、2ARで新規な論点をばら撒きまくって勝つという方法をも肯定されるのでしょうか。ちなみに、NAFAのルールも(*1)JDAのルールも、ニューアーギュメントについて規定していません。
普通に考えたら、Affの最強の戦略は、1ACから何も言わずにひたすらにNegの反論に返し、2ARで絶対立つADをいくつか展開して勝つというものになるでしょう。これは相手に反論機会を与えないのでUnfairそのものですが、Strongですよね。だったら梁山泊の武器庫において第一に備え付けられるべきは、こうした議論ではないでしょうか。
もちろん、僕はそんな議論を推奨しているわけではありません。そんな議論はディベートの価値を殺ぎ、ゲームとしても面白くならないからです。しかし、Fairnessを基準としない場合、ニューアーギュメントによる主張制限は説明できません(ちなみに、Educationでも説明できます)。この点をどう説明されるかは知りませんが、ニューアーギュメントを当然に支持しておきながらFairnessを基準から排除するのだとすれば、彼らの体系には論理というものが欠如しているということの自白となってしまいます。
ちなみに、Fairnessという基準は、議論という営み一般に要求される基本原理ということもできますし、ゲームとして議論を行うディベートにおいて当然要求される要素として説明することもできます。少なくとも、ディベートという競技の枠組から論理的に導けないという代物ではありませんので、それを否定されるのであれば特別な説明を要するはずですが、彼らのテキストではそういった説明はありませんね。

(*1)NAFAのルールにはニューアーギュメントの規制にあたる条文があるという指摘があり、確かにその通りだったので、この点は訂正します。ただし、それであっても、本文でいう批判の趣旨はなお妥当します。なぜなら、NAFAのルールにかかる規定がある理由はやはりFairnessやEducationでしか説明できず(JDAのルールにはやはりニューアーギュメントの規定がありませんが、それでもジャッジは当然にニューアーギュメントを許しませんし、選手もそう考えています。その理由は、FairnessやEducationでしか説明できません)、彼らがセオリーの正当性と呼ぶルールにもこうした要素が含まれている以上、セオリーを考える上でかかる要素を考慮しないというのはおかしいからです。関連して言うなら、そもそも、ルールに書いてあるから従う、という考え方自体がおかしいのではないでしょうか。彼らの論理的正当性云々の考え方からすれば、ディベートという競技との関係でルールがどういう趣旨で規定を作っているのかということも当然考えるべきです。ましてや、彼らは自称アナーキストなのですから、ルールがあるから従うといった態度はもってのほかでしょう。[9月23日追記]

最後に、12~13頁のFocus(ディベートにおいて議論の対象となるのは論題かプランか、という議論)についてですが、これは彼らの言うとおりのResolution Focus(論題がディベートの議論対象である、という考え方)でよいでしょう。ディベートでは論題の是非が問題となっていて、プランは論題を肯定するための一手段に過ぎませんから。
この辺は別に変なことを書いているわけでもないと思います。また、(触れるかどうか分かりませんが)後のほうで出てくるCounter Warrantについても、Resolution Focusの立場からも問題なく否定できますから、別に問題はないですね。


と、こんな感じでコメントしていくと結構疲れるので、今後続けていくかは分からないのですが、何となく僕の問題意識は分かっていただけたかと思います。
英語ディベート界の近況がどういう感じなのか実際にはよくわかりませんが、こうしたおかしな議論がある程度の発言力を持っているらしい現状については、健全ではないと思うのです。

もちろん、ニュートンを批判してはならないというつもりはありません。現に、地動説は天動説に取って代わったし、ニュートン力学が一般相対性理論との関係の特殊な近似に過ぎないということはアインシュタインによって示されたわけで、これまでの理論が常に正しいというわけではありません。しかし、既存の理論を批判(?)して新しい考え方を持ち出す際には、それなりの理屈を立てる必要があります。それができたからこそアインシュタインは現代に名を残しているわけです。
そのようなことをスルーし、単に自分のフラストレーションを解消するために変わったことを言おうとするのは、狂人のすることです。そういうものは単なる擬似「セオリー」であって、我々ディベーターが学ぶべきものではありません。

お前は何をむきになっているんだという向きもあるでしょうけど、実際におかしなことになっている人が少なからず存在し、そのために不毛な議論が実際展開されているようなので、このように筆をとった次第です。本当なら、MLで不毛なケンカをしているESSのOBが書けばいいのにと思うのですが、そういうこともなさそうなので、暇な日本語ディベーターが老婆心ながら書かせていただいたということです。
あまり需要はなさそうですし、ここまでの内容で十分「おかしさ」は指摘できたと思うのですが、気が向いたら続けてみることにします。

擬似「セオリー」批判 | 18:10:02 | トラックバック(0) | コメント(24)