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アカデミックディベーター

Author:アカデミックディベーター
日当たりの良い某法科大学院を2009年3月に卒業。
ライフワークである競技ディベートについてぼちぼち書いています

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擬似「セオリー」批判(2:肯定側の提出するプランについての諸理論)
前回の内容に反響があったようなので、もう少し続けて書くことにします。最低でもTopicalityについての誤った考え方について指摘するところまでは書き続けられればと思っていますが、明日以降は用事があり、10月からはまたガラス棟の入院生活がはじまるので、次回は結構間が空くかもしれません。

一応本稿の趣旨をおさらいしておくと、英語ディベート界の異端の勢力・梁山泊なる団体が著した以下のテキストについて批判的に検討するというものです。
僕がこのテキストの内容を支持しているというものではなく、むしろその内容は概ね誤っているということを最初にお断りしておきます。その上で、このように誤った考え方に基づくディベートがなくなり、健全なディベート大会が行われることを願って、批判をさせていただいています。

THE PERIOD OF "period"



では、さっそく本論に入りましょう。前回の続きから再開します。

AFFIRMATIVE PLAN THEORYについて(テキスト14~16頁)
肯定側がプランを出す方法について議論しています。様々な項目に渡っているので、それぞれについて見ていきます。

Plan Spike(1AC以降でプランを追加する行為)についての議論を見ていきます。
この点は、様々な考え方があると思います。僕の見解は、立論段階では提示されたDAへの対策として新しい政策の追加を行うことは許されるというものです。なぜなら、通常の政策論争では想定される問題点に対して政策を修正することは当然のようになされ、それが当該政策の採択を妨げるものとは考えられないということ、また政策の修正によって回避されるようなDAは結局のところ論題を否定する理由として説得的でなかったというだけのことで、2ACでのPlan SpikeによってDAが回避されることが不公平だとかそういうことにもならないと考えるからです(なお、Plan Spikeが政策の修正を超えた範囲でされる場合は別の結論になる余地があります。後述するPlan Amendでの議論を参照)。
梁山泊の見解はどうでしょうか。後でNon Topicalなプランを追加しても全体としてTopicalであれば大丈夫、という点は正しいと思います。個人的には、原発廃止論題で死刑廃止のアクションを追加する行為であっても、そのアクションから出たADが判定に考慮されない(DAを回避するといいつつ、実はADによって相殺しているだけという場合も含む)ようにする限り、プランの追加自体は許されると考えています。
一方、FairnessからPlan Spikeを禁止することに全く理由がないという主張については、賛同できません。Fairnessを排除することに理由がないことは前回こってり議論したので繰り返しませんが、Plan SpikeはNegにとって不意打ちとなるとか、プランの提示だけでDAを切るような安易な手段を認めるのは卑怯だ(Educationの観点も入っている)といった考え方は一応ありうると思います。ただ、上述の通り、僕はFairnessやEducationの観点からしてもPlan Spikeを禁止すべき理由はないと考えています。だいたい、Plan Spikeについても、その効果が証明されない限りDAを切ることは出来ないので、Affには相応の負担があるということができます。
なお、Topicalなプランの追加という行為は、単なるPlan Spikeにとどまらず、Plan AmendやAlternative Justificationといった別の論点を検討する必要があるので、一まとめに論じることはできないでしょう。これについては後で出てきたら議論します。

Plan Amend(プランの修正)についての話題に移ります。
Plan Amendの定義についてなにやら一家言あるようですが、プランの削除(撤回)とプランの追加によってPlan Amendを把握すべきという主張は、そういう考え方もありうると感じます。ただ、なぜそうしなければならないのかは不明です。Plan Amendの定義についてジャッジを誘導尋問(?)してプランの削除に結びつけると何かいいことが起こるのでしょうか。ジャッジを教育すべきという意味も全くもって分かりません。なぜこの項目が論じられているのかすら不明です。
プランの撤回と追加にとってPlan Amendを把握するという彼らの立場に意味を見出すとすれば、Plan Amendが問題とされる理由は一度出したプランを削除することにある、ということを明確に意識できるということでしょうか。すなわち、Aff(NegもCounterplanについては同じことがいえる)は一旦出したプランに責任を持つべきで、問題が生じたからといってそれを撤回することは、その点について相手が議論した内容を撤回という安易な行為によって無駄にすることで、Fairnessの観点からもよくないし、Educationの観点(事前に反論も予期して議論を出すよう促すということ)からも望ましくないということです。
結局、Plan Amendについて彼らがどのような態度を取っているのかよく分からない(多分全面的に認めるのでしょう)のですが、Plan Amendを認める/認めないという議論のために問題を整理するという意味では、彼らの概念構成には意味があると思います。その上で僕は、プランの撤回については、①撤回されたプランがAffの論題肯定方法において重要な位置を占め、②Negに対して撤回されないという期待を抱かせるようなものであり、かつ③撤回を認めてもNegに対して不利にはならない特段の事情が存在しない場合には、プランの撤回は認めるべきでないと考えます。その理由はFairness及びEducationの観点に求められ、またこの判断はジャッジの裁量によるのですが、そういった考え方が正当化できるということは前回説明したとおりです。ちなみに、民事訴訟においても、請求の撤回や変更などについては制限がかけられています。
Plan Severanceの話は改めて触れる必要はないでしょう。

AffのOptionに階層があるという話(15頁~)については、その通りなので特に言うことはありません。補足しておくと、Affはプランを提出する義務はありません。Affは論題を肯定しさえすればよく、プランはそのための一手段に過ぎない(ある程度特定した手段を示した方がADを説明しやすい、というだけ)ので、論題の文言そのものを抽象的に肯定するということも可能なわけです。そうなるとTopicalityのつけようがないので梁山泊としては困るのかもしれませんが、そういう論題の肯定方法を否定する理屈はありませんからね(トンデモTに対抗する方法としてプランを出さないという方法を推奨しているというわけではありません。プランを出さないとADが説明しにくくなるという不利益もありますから、AffとしてはADの説明の便宜と、DAやTがつきにくい場合があるという利益を比べて、プランを出すかどうかを考えることになります。普通はプランを出した方が議論しやすいでしょう)。
さて、Affによるプランの過度な具体化という点については、先に説明したところから分かるとおり、具体化する必要性がないということでは正しいです。また、彼らも指摘するように、過度な具体化がかえって不利な状況を作る可能性もあります。ADがクリアに説明できるということは、DAがクリアに説明できる可能性を作ることでもあるからです。
これを踏まえて、その後で紹介されているインフレターゲットの話についてコメントすると、確かにインフレターゲットは物価上昇率の目標を定めればよいので、+の目標をつけなくてもよいといえばそうなのですが(実際には+2%くらいが多いみたいですけど)、この場合の状況であれば、DAがつくことを恐れるより、+の目標をあげてADを明確に出すほうがよいと思います。これはJDAなどで試合をジャッジした感想なので一般化できないかもしれませんが、ハイパーインフレなどのDAはなかなか立たないので、現状をきちんと分析し、その処方箋として具体的な数値目標をあげてSolvencyをつけたほうがはるかに戦いやすいと思います(英語だと僕の知らないエビデンスがあるのかもしれませんが、英語圏のほうがリフレ論者も多く、よりAffに有利になっていると推測します)。

Alternative Justification(論題を肯定する複数の政策を出すこと。以下A/Jとします。なお、A/Jについての梁山泊の定義――Conditionalである、という部分――は正確ではありません。別に最後まで捨てなくてもよいし、両立する政策でも出せるので)について(16頁~)は、梁山泊の見解は「全く問題ない。Fairnessなんてシラネ」というものですが、そう簡単に割り切れるものではないでしょう。ここからはテキストの話題を少し離れます。
一般論として、論題の文言(~すべき、で表現される)を具体化する政策は複数ありうるところ、論題を肯定するにはその全てを肯定しなければならないというものではなく、そのうち1つが肯定されれば足ります。例えば、「愚留米は司法試験に向けて法律の勉強をはじめるべきである」という命題について、法律にはたくさんありますから、その中には「風営法の勉強」ということも含まれうるのですが、そんなものを勉強しても司法試験には受かりません。だからといって、風営法という法律の勉強に意味がないので法律なんて勉強しても…と思う馬鹿はいないわけで、民法を勉強することは司法試験に必要なので、それだけをもって「愚留米は勉強をはじめるべき」と言えるのです。ですから、Affが論題の文言を正当化する複数の政策を提示し、そのうち1つでも支持される政策があればそれを通じて論題を肯定できる(出した政策のうちいくつかが否定されても問題ない)という方法は、論理的にはありえるものです。
ただし、FairnessやEducationの観点からすれば、常にA/Jを認めるということはできないと考えることもできます。これはおそらく論題の性質によっても異なります。例えば、実際にJDA決勝でA/JによりAffが勝った「日本は代理出産もしくは着床前診断を認める法的枠組を整備すべきである」(2005年後期JDA推薦論題。正確な文言は忘れました。JDAのサイトにもミスか何かで載っていない)という論題であれば、論題そのものが代理出産and/or着床前診断というA/J的な規定振りですし、具体的な政策目標が規定されている以上、それを達成するという目標の為に複数の手段を提示しても議論が混乱する可能性は低く、A/Jを否定すべき理由は弱いように思います。一方で、例えば「日本は環境保護のための規制を強化すべきである」といった抽象度の高い論題の場合、肯定側のプランは広範に定めることができ、またその内容たる論題実現手段も論題から想起・限定できるものではないので、A/Jを許すことが試合を混乱させる可能性は高いといえます。この場合、FairnessやEducationの観点から、放棄によって安易に議論を切り捨てて逃げたり反論を分散させることでAffが不当に有利になることや、議論が深まることがなくなるということを捉えてA/Jを否定する見解もある程度説得的だと考えます。さらに、(あるのかどうか分かりませんが)互いに相矛盾するプランが出ている場合、Contradictionを理由にかかるA/Jを否定するということもありそうです。
これに対して、A/Jは結局Affの議論も分散されていて、各個撃破されれば大したことないからそんなに問題にしなくてもよいとか、Resolution Focusを一貫させればA/Jを否定する理由はないとかいう理論的な反論は出来ますが、否定説も肯定説も両方ありうる立場であって、ここまでくるとジャッジの好みになるというほかありません。
というわけで、梁山泊の見解はちょっと単純すぎるし、その理由付けも「Fairnessでしか否定されないようなものは肯定してよい」という謎理論でしかないので、このままではテキストと呼ぶにはおこがましいものです。せめて上記のような最低限の理由付けがほしいのですが、擬似セオリストに対しては少し要求が高すぎるのかもしれません。
なお、A/Jを条件付きでみとめる(1ARまでに絞れ、というもの)ことに理由がないということも書いてありますが、これについても論者によってはありうると思います。理由としては、Affは(Resolution Focusだとしても)試合の中では論題を肯定するためのシステムを提示して議論しており、否定側は事実上それを否定することで勝ちを得るしかないのだから、否定側の最終スピーチまでにはその攻撃対象を絞らなければならない、というものが考えられます。これもFairnessを理由にしているので彼らからすれば納得できないのでしょうけど。

A/J”Requiem”という話(論題から複数の解釈を出してそれぞれにつきプランを出すという、解釈次元でのA/J)については、そういう議論もありうると思います。ただ、そのような議論を認めることが、Topicalityについての彼らの体系と本当に整合するのか(NegからどんなにひどいTが出てきてもそれでAffに応答義務が生じるとか、辞書で単語を読むと直ちにそれが論題の解釈に取り込まれるとかいうところ)は疑わしいところです。
とりあえず梁山泊がジョジョ好きだということは分かりました。その点では僕も彼らと多少仲良くなれるのかもしれません。

SPECIFICATIONについて(18~20頁)
最初の方に書いてある、Affにプランの具体化の義務はないという点については、既に述べたとおり正しいです。Affがプランにより論題を具体化するのは、ADの説明を容易にし、あるいはDAを回避するための権利であるということです。この点に異論はありません。
問題は、具体性の行き過ぎ(Over Specification)という論点についての説明です。過度の具体化と呼ぶことにしましょう。一般論として、過度の具体化が問題となることはありえるかもしれません。ただ、彼らがテキストの中で挙げている例については、いずれも過度の具体化を理由に負けとすべき理由になるとは思えません。一つ一つ見ていきましょう。

指輪の例について。”He should buy a ring.”という論題を肯定するために、ある特定の店で一番高い指輪を買うというプランを出した場合、このように特定されたプランによっては論題は肯定できないと彼らは説明します。a ringは指輪というものを一般的に指し示しているからだそうです。正直英語はよく分からないのでもしかしたら彼らの言うことが正しいのかもしれませんが、多分違うと思います。そう考えるとすれば、先の論題を肯定するには、想定できる全ての指輪について買わなければならないと主張する必要があることになります。あるいは、ある程度の種類について買うべき指輪が想定される必要があるのでしょうか(彼らが後で躍起になって主張するBoundaryの考え方からすれば採りえないですね)。そんな主張立証は困難であり、事実上”He should buy a ring.”というテーマで考えることはできないことになってしまいそうですが、それではアメリカ人は結婚指輪を買うことについてどうやって考えているんでしょうか?
常識的な言語感覚からすれば、「彼は指輪を買うべきか」と問われたとき、彼に似合いそうな(あるいは彼が買うことのできそうな)特定の指輪を想起することは通常であって、また特定の指輪であってもそれを買うべきだと考えれば、「彼は指輪を買うべきだ」となるはずです。それは論題が英語になっても同じはずで、”Should he buy a ring?”と問われて”I can't say anything about it. I think this silver ring suits him, but I don't know whether he should buy all kinds of rings.”とか答えるような人間は、ちょっと頭がおかしいのではないでしょうか(英語が間違ってたら恥ずかしいですが、その辺は善解してください…)。
*上記では「どのくらい具体化すればいいのか分からないからダメだろう」という趣旨のことを書いたのですが、続きを書く過程でPOPを読んでいたら、別論点との関係で「具体化すべき基準を示す責任もAffにある」といった記述がありましたのでその関連で補足しておきます。なぜそのような基準がAffに押し付けられるのかを考えると、これは理由のない主張だと思います(論題を肯定するということにそこまでの要求は不要でしょう。正体不明の「客観性」を前提とすれば違うのかもしれませんが)。立証責任の分配は、それを分配することが公正にかなっているかということを基準に考えるべきです。Ringの例で言えば、Ringの内容が特定されなくても論題を肯定することは可能であるところ、特定されすぎていてNegが不利である(DAが限定されすぎる?)、あるいは特定が不十分であるからNegが不利である(具体的なDAがつかない?)などの理由で特定の程度を問題としたいのであれば、それを主張するNegにこそ立証責任があるはずです。確認すると、僕の言いたいのは「そもそも過度の具体化で論題が肯定できないなんてことは、少なくともPOPの例のようなニュアンスでは出てこないだろう」ということで、それをことさら問題にするのであれば、どうしてそうなのかという点も含めて、Negに立証責任があるということです。[9/30追記]

クローン河豚の例について。この例については、クローン河豚の肝が河豚の肝の中に含まれるか否かという問題にすぎません。この判断を社会通念で行うか、論理的な基準で行うかは問題ですが、彼らの考え方(外部のContextは無視するらしい。次回で触れられるかな?)からすれば後者の基準を採るのでしょう。すると、クローン河豚も河豚ではあるのでしょうから、クローン河豚の肝は河豚の肝であって、クローン河豚の肝をプランで指定しても、「彼は河豚の肝を食べるべきだ」という論題は肯定できるはずです。ちなみに社会通念を基準としても、クローン河豚の肝を河豚の肝に含めるかどうかは結局のところ「クローン河豚なるものがいるのかどうか」というところで決するでしょうから、クローン河豚の存在をきちんと証明できれば、クローン河豚の肝も普通の肝の一種と考えられるはずです。
クローン河豚を前提にしたADとDAの比較によって論題が肯定できないと考えるのは、クローン河豚の肝が河豚の肝でないと考えるからではなく、(毒のない)クローン河豚の肝の存在が想起できないからでしょう。そりゃ確かに、「毒のないクローン河豚の肝があれば、絶対食べるべきだよ」といわれても、ただの夢物語ですから。一方、将来毒のないクローン河豚ができたとすれば、僕はその肝を食べてみたいと思いますし、河豚の肝を好む人であればみんなそう考えるのではないでしょうか(気味悪いとか他の理由で嫌がる人はいるでしょうけど)。

というわけで、過度の具体化に関する梁山泊の例は、いずれも支持できそうにありません。過度の具体化が問題となる事態はありうるかもしれないので、彼らの主張を元に検討する価値はあるかもしれませんが、ぱっと思いつく例がないので、ここではやめておきましょう。

ただ、彼らが最後に言っている「Net BenefitがSpecificすぎる」ということについては、重要な指摘です。要するに、プランはともかく、ADで主張されている内容は論題の一部からしか発生していないんじゃないかという例を考えることができるということです。例としては、原発廃止論題で「原発全て廃止」というプランを出しておきつつ、メリットでは「浜岡原発が地震でぶっ飛びそうなので危険」という話しかしない、という場合があります。ここでは、原発廃止という論題に対し、浜岡原発に限定した利益しか主張できていません。
このような議論をどう考えるかというのは伝統的には論題被正当化性(Justification)の問題とされているのですが、詳しい説明は省いて結論だけ言うと、Counterplanによって対処しないことには独立の判定理由として考慮するのは難しいかもしれません。この場合なら、Negは「浜岡原発だけつぶして残りの原発は稼動させる」というCounterplanを出す必要があり、かつそれで足りるということです。何にせよ、メリットの中身と論題の対応関係という視点は、きちんと意識しなければなりません。


今日はこのあたりにしておきます。残り、Topicalityの話については、また機会を見つけて言及したいと思っています。

擬似「セオリー」批判 | 18:03:15 | トラックバック(0) | コメント(2)