fc2ブログ
 
■プロフィール

アカデミックディベーター

Author:アカデミックディベーター
日当たりの良い某法科大学院を2009年3月に卒業。
ライフワークである競技ディベートについてぼちぼち書いています

■最近の記事
■最近のコメント
■カテゴリー
■月別アーカイブ

■最近のトラックバック
■ブロとも申請フォーム
■ブログ内検索

■RSSフィード
■リンク
擬似「セオリー」批判(4:Topicalityの意義とその射程)
休みが終わる前に重要部分については全て言及しておこうということで、続きを書くことにしました。今回でTopicalityについての批判を全て終えるのですが、残りの部分で理解できない部分については、これまで僕が論じてきたような考え方から当然に否定されるようなものですから、改めて取り上げる必要はないでしょう。
それだとアンフェアなので、賛同すべき部分や、やっぱりおかしいと思う部分についてだけは、別途取り上げてもよいとは考えていますが、これは時間が許すかどうかという問題です。とりあえず、今回の内容で僕の述べたいことはほとんど出たといってよいでしょう(今のところは)。

というわけでさっそく検討に進みたいところなのですが、今回は趣向を変えて、POPを逐次見ていくというのではなく、僕の考えるTopicalityの体系に合わせて彼らの議論を見ていくという方式をとります。というのも、そもそもPOP(や一部コメントであった方々)のTopicality(ひいてはディベート)に対する考え方は、僕のそれと大きく異なっており、なおかつ理由のないものと見えるからです。
僕はあくまでセオリーについての議論をしたいので、以下で検討するのは全て理論的側面についての論点です。過去の論題が具体的にどう解釈されるべきだったか云々という点は検討外に置き、POPでのTopicalityという議論についての考え方がいかに無根拠であるかということにつき反省を促すという構成で議論を進めます。

THE PERIOD OF "period"



1.Topicalityという議論の意義(正当化根拠)
最初に、そもそもTopicalityという議論がなぜ投票理由となるのか、Topicalityとは何を目指す議論であるのかという点について見ていきましょう。これは、POPの言い方を借りると、TopicalityのLogical Legitimacyを探求する作業です。POPではTopicalityのLogical Legitimacyについて何らの論証もしていません。彼らの理屈によれば合意されたルールで許容されたものにLogical Legitimacyがあるらしいのですが(POP12頁)、ここでいう「許容」の意味がよく分からない(禁止されてなければ何でもよいのだろうか?)のはともかく、NAFAのルールにはTopicalityが投票理由になるといった規定はどこにもありません(ADやDAについてもそうです)。
この点はPOPのみを責めるのは酷で、実際には少なくないディベーターが、なぜTopicalityが投票理由になるのかという点について十分な検討をしてこなかったのではないでしょうか。しかし、ここをきちんと議論しない限り、Topicalityについてまともな理論的検討などできるはずはありません。

それでは、Topicalityとは何でしょうか。POPの言い方に従って、ルール(あるいは競技が当然に予定する議論方法)からTopicalityの正当化根拠を検討してみましょう。
前掲のNAFA規則では、「予選及び本選を通じての全ての試合は、予め主催者が提示した論題(resolution)の下で肯定側と否定側に分かれて行われる」(3章2節1項)とされています。試合の勝敗についてヒントになりそうなのは、(2章のジャッジに関する規定を除けば)ここだけです。論題の下で肯定側と否定側が議論する、ということです。
一般的なディベートのあり方を参考にもう少し噛み砕くと、ディベートでは論題の是非をめぐって肯定側と否定側が争います。肯定側は論題を肯定し、否定側は論題を否定することがその試合の目的で、ジャッジは最終的に「論題は肯定されたか」を判断することになります。

このような当たり前のことを考えただけでも、「論題が文法的に誤っているかどうか」ということは本質的問題ではなさそうだということは思いつくわけですが、その話は後にとっておきましょう。このような枠組において肯定側が勝つためには、論題の採択(政策論題なので「採択」と呼びます。以下同じ)が望ましいという理由を出す必要があります。それがADに当たります。
このADは、論題の採択を支持する理由である必要があります。「日本は死刑を廃止すべきである」という論題で「原発を廃止すると核汚染が防がれる」と主張したところで、論題は肯定されません。これは、ADには論題との対応関係が要求されると表現することができます(DAと論題はどうか、というのは別途問題となりますが、ここでは省略します)。この対応関係の有無について問うのが、Topicalityであるということができます。
例えば、「日本は死刑を廃止すべきである」という論題の下、Affが「日本は死刑をやめて終身刑にしよう」という主張をし、終身刑は死刑で侵害されていた囚人の人権を守るというADを議論したとします。これに対して、「終身刑は死ぬまで人を閉じ込めるという点で『時間による死刑』だから、Affは死刑を廃止していない」という攻撃をするのが、Topicalityです。
しかしながら、もしAffのADの中で「死刑であれ終身刑であれ、閉じ込めたまま死をもたらすことに固有の問題があるところ、死なせることをやめればそれだけで問題は解決する」ということが言えていたとすれば、Affのプランが実際には死刑廃止を言うものでなかった(終身刑もまた死刑だった)という場合でも、当初問題とされてきた「日本は死刑を廃止すべきである」という理由付けとして「死をもたらす刑罰には固有の問題がある(からそれを廃止すればその問題がなくなるだろう)」というものが見出せる以上、論題が肯定される余地はあります。これはおそらく通説ではないのですが、あくまで論題が争われているのだ(Resolution Focus。多分通説)と考えれば、Affがどういうプランを出したかというのはそれ自体重要ではなく、ADと論題に対応関係があればOKということができます。

一般的には、AffがNon-Topicalなプランしか出していない段階で負けになると理解するのですが、上述の通り、そのような考え方はResolution Focusを前提とすれば直ちに出てくるものではなく、ADで出てきた内容と論題が対応していさえすれば論題は支持されうるのですから、Topicalityに絶対的な意味合いを持たせるとすれば、そこには別途の論証が必要となります。
この点、蟹池他3名著『現代ディベート通論[復刻版]』[蟹池](ディベート・フォーラム出版会、2005)56-57頁には、以下のような理由が挙げられています。

1.肯定側は論題を肯定する立場に立たなければならない。よって、肯定側の主張する政策が論題を支持しない場合、それは肯定側と呼びえないものであり、そのような立場に投票することは不可能である。
2.論題には話題(Topic)を提供する役割があり、これを無視することは許されない。
3.肯定側に論題を無視することを許すことは、ディベートの本質的な教育価値を失わせる。否定側が論題の領域をリサーチして試合に臨んでいるのに、それを無視した議論が展開されるとなれば、議論の衝突が減少し、教育的に望ましくない。


こうした理由付けなくして、Topicalityが絶対的な投票理由となる理由を説明することはできません(私見は反対です。拙稿「論題充当性の性質に関する一試論」参照)。

ともかく、通説的に考えるとしても、僕のように考えるとしても、問題としているのは「肯定側は論題を肯定できているのか」ということです。そのために、Affが前提としている論題の解釈をチェックし、論題の意味するところを明らかにし、それとAffのプランの乖離を問うという具体的な議論がなされますが、こうした個々の議論(Interpretationの提出などなど)は、それ自体が目的ではなく、最終的には「肯定側が論題を肯定できているか」という説明につながらなければならないのです。
そんなことも考えずに、UnreasonableなInterpretationを示すことがどうとか訳の分からないことを言うことには何の意味もありません(POP39頁参照)。ここではやたら鼻息が荒くなっています(イラジャッジと言いすぎてイライラしてるんでしょうか?)が、TopicalityのLogical Legitimacyは「肯定側が論題を肯定できていないことの論証」ですから、Interpretationを示したかどうかすらそれには関係ないのです。ただ一点、Affのプラン(あるいはAD)が論題とずれているかどうかだけが問題とされるのであって、UnreasonableなInterpretationを示しただけで論題が肯定できなくなるというトンデモ帰結を理由なく書いているほうがよっぽどイリーガルです。アナーキストなのでその辺は気にしないのでしょうか。

2.論題の解釈と「文脈」
以上のような役割からすれば、Topicalityによって論題の解釈を問題とすることは、肯定側が肯定すべき論題の意味、すなわち「ゴール」を明らかにする作業ということができます。それでは、このゴールは、どのように定められるべきでしょうか。
POPや、当ブログに寄せられた多くのコメントでは、ディベートでは常識を参照できないとか、ディベートにおける論題の解釈は外部的な文脈を考慮してはならないということを言います(POP38頁など)。そもそもなぜ外部的文脈を考慮してはならないのかという理由付けが何らされていない(*)というセオリストらしからぬ態度については散々指摘してきましたが、以下では「論題の解釈は外部の文脈をも参照されるべきであるし、そうでなければディベートなどできない」ということをきちんと説明することにします。

(*)ここで、外部文脈排除を主張する論者は「ディベートの試合の勝敗は客観的にされないとダメだから」というのでしょうが、これは「客観的」の意味を誤ったものであるということは前回述べたとおりです。一応補足しておくと、ディベートで求められるのは「AffとNegに対して公平な判断」という意味での客観性であって、主観を排するということではありません(ちなみに普通の裁判でもそうです)。
そもそも、彼らの言う意味(常識に縛られない?)での客観性というのは、何に対する客観性なのでしょうか。辞書などのエビデンスはなぜその客観性を満たすのでしょうか。また、かかる客観性はどうやら唯一の正しい答えを想定しているように思われるのですが、そうするとディベートの判定は本来誰がやっても同じ答えに達するはずだということでしょうか。それとも、自分にとって満足の行く(イラジャッジでない)判定だけが「客観的」なのでしょうか?

ディベートで選択されている「論題」は、我々の生きる社会において生起している問題です。論題は話題性がないといけない、などということが言われたりしますが、政策論題として選ばれているのは、いずれも社会的意思決定が迫られている重要なテーマといえます。
そのようなテーマをあえて選んでディベートをしている以上、ディベートでは社会問題を論じるのと同様の態度が要求されているといえます。すなわち、選手やジャッジは一定程度の前提知識(常識)を有するものとされています。また、ジャッジは意思決定者として一定の立場を前提として試合に臨みます(日本政府がAgentの論題では、アメリカ人や宇宙人などの意思決定主体はdefaultでは想定されない。この点はPOP64~65頁でも正当に指摘されている)。そして、論題の理解についても、その論題が選ばれた社会で生活している一般人の見地からされることが想定されているというべきです。
そんなの関係ない、とおっしゃる方は、JDAで論題が決定される過程を想起してみてください。JDAの推薦論題は、JDAから候補が出され、その中から試合を主催する団体やJDA会員が投票して選出されます。そこでは、論題の文言だけでなくその論題が想定している議論内容によって態度が決定されます(Topicalityがつきやすいかどうかという視点で選ぶ人もいるのかもしれませんが)。このような民主的過程で決定された論題については、その背景となる「当該論題についての一般的な理解」を前提とするのが自然だということができます。POPではいわゆるFramer's intent(論題策定者の意図)というStandardについて「JDAの意思を尊重しようということ」(POP29頁)と説明していますが、これは誤りで、実際には「論題を決めたみんなの意思」ということなのです。彼らのルール-フィロソフィー論からすれば、当然に尊重されるべき意思ではないでしょうか。

関連して、コメントでの指摘として、Non nativeとしては文言の意味を誤って解釈する可能性があるから、常識は排して考えようという議論がありました。文言の解釈について常識的英語力を排するという姿勢についての疑問は前回述べたとおりですが、このような考え方にはもう一つの疑問があります。それは、Non nativeとして英語の正確な文言が分からないからこそ、外部文脈に依存する必要があるのではないかということです。
Non nativeの英語学習者は一般的に経験することだと思いますが、我々は単語や文法の意味が分からなくても、一部の分かった部分や文章のテーマから分からない部分を類推し、言わんとすることを理解しようとします。これは実のところ母語についても同様のことがいえて、聞いたことのない熟語や読めない漢字が入っていても、我々は一定程度その意味を類推することができます。
ディベートの論題についても、厳密に一字一句解釈を定める必要はなく、全体として「論題が意図するアクション」が分かれば足りるはずです。Topicalityとの関係で問題となるのは「Affが論題を肯定しているといえるかどうか」ですから、それが分かる程度に論題の意味が特定されれば、我々は十分にディベートできます。現に、ADやDAの判断について、我々は厳密な比較ではなく、証明がなかった点について一定程度補充しながら比較検討しています。論題だけこれと全く次元を異にするといわなければならない理由は、実際にはないのではないでしょうか(ある程度の厳格さは要求されるのかもしれませんが)。

3.あえて「教育的意義」からTopicalityを考える
ここで、POP著者らが最も忌み嫌うEducationなどの価値観から、Topicalityに期待されているものを考えてみましょう。

前に紹介した通論の説明では、Topicalityの正当化根拠として「否定側が論題の領域をリサーチして試合に臨んでいるのに、それを無視した議論が展開されるとなれば、議論の衝突が減少し、教育的に望ましくない」ということが挙げられていました。これは、一般的にイメージされる「教育」という言葉を越えて、ゲームとして面白いかどうかということを挙げています。これはある意味当然のことで、ディベートが教育的であるということの中には、競技として楽しんで取り組めることが結果的に選手の努力を促し、教育につながるということが含まれているからです。教育的というと反発が多いようですが、その内実には、競技として楽しめるようになっているのかという観点が含まれているのです。
このようにして考えると、論題の解釈について「常識」を排し、文法的な誤りなどにこだわってAffのプランを否定しようということは、ゲームのあり方としてどうなのでしょうか。

そうしたゲームのあり方を楽しんでいる人は確かに存在するようなので、そのような需要はあるのでしょう。しかし、ディベートという競技はみんなで取り組むものですから、全体の需要を考えた上でディベートのあり方を論じるのが健全でしょう。
ここに寄せられたコメントだけを見ると「常識排除派」が多数のようですが、公開されているディスパッチを見る限り、関東地区で行われている議論は割と「普通」で、変わったTopicalityはあまり出ていないようです。また、先に述べたようなJDAでの論題決定経緯からすれば、多くのディベーターが論題の解釈論より論題の中身について論じたいと考えているように思います。また、僕がこれまで接してきた一般的な知的好奇心を有する大学生から判断するに、文章の文言解釈にウンウン唸るよりは、社会問題について議論したい人のほうが圧倒的に多数だと思われます(というか前者のような人はほとんどいない)。

これはお節介かもしれませんが、ディベートという活動には、リサーチからブリーフの作成、練習試合などなど、膨大な時間がかかっています。ディベートという活動を選んだ我々は、貴重な青春時代のうち少なくない時間を、そうやって本を読み、文章を書き、スピーチを練習するという、一見華やかではない地味な作業に費やしているわけです。
せっかくそういうことをしている以上、我々は「意義ある」活動をすべきではないでしょうか。Non nativeとして常識を排して英語を勉強することや、社会的な前提を無視した議論の立論方法を勉強することには、おそらくほとんど意味がないと思います。それだったら、これまで習ってきた英語の力を生かして社会問題を英語で議論するという活動に打ち込む方がずっとためになるでしょうし、そしておそらく楽しいはずです。それでもなお、「常識」に反発することに快感を覚えて議論をするという楽しみ方はあるのかもしれません(コメントにあった、解釈態度としてNon nativeなりの謙抑的態度をとるというあり方は、僕は賛同しませんが謙抑性の程度によっては一定の理由があると思います)が、それは「ディベート」の楽しみ方とはズレているというべきです。少なくとも政策論題のディベートからは外れているように思いますので、英語の構文集か何かから適当な文章を取ってきて、その解釈論を競うような論題を作ればよいのではないでしょうか。そもそも、アナーキストがJDAの論題に従う必要などはなから存在しないはずですから。

それでは、反転して、我々「常識派の」ディベーターが待ち望むTopicalityとは何か、考えてみましょう。僕のイメージでは、過去に出版されていた書籍に載っていた1981年のNDTのFinalです(日本語スクリプトつきだったので全部理解することができました)。その時の論題は「RESOLVED: "That the United States should significantly increase its foreign military commitments." 」というものだったのですが、Affは「アメリカを含む数か国で核管理委員会を作り、核兵器の管理方法や効果的核抑止のための核兵器運用方法を共有する」というプランを出していました。これに対するNegの主要な攻撃としてTopicalityが出ていたのですが、そこでは”military commitments”の解釈が「危機の際の援助」という意味合いであり、Affのプランは危機の際の援助とはいえないといった議論や、AFfのプランは「核に関する情報の開示」という国内政策に過ぎず、対外的ではないから”foreign military commitments”に当たらない、といった議論がされていました。こうした議論が、実例の援用やAffの解釈を取った場合の帰結(Fairnessなどを考慮する)から提示され、Affもそれと同様に実質的な理由付けで返すという、読んでいるだけでわくわくする内容でした。
POPの筆者はアメリカの議論を毛嫌いしていますが、紹介されたところに拠れば史上最強の英語ディベーターらしいので、多分このスクリプトも読んでいるのでしょう。それでもなおPOPで推奨するようなディベートの方がアメリカのディベート(今は違うのかもしれませんが)より質が高いといっているのだとすれば、おそらくアメリカのディベートについてきちんと理解していないということなのだと思います。くだらない(失礼!)文法の解釈でぐだぐだやるのと、僕が見たNDTのスクリプトのように「論題の射程」についてきちんと議論するのと、どっちが楽しいかと問えば、100人中99人は後者だと言うのではないでしょうか。

こうした「論題の射程」については、今季の論題(核燃料の再処理)についても盛んに議論しうると思います。日本語で恐縮ですが、再処理の「放棄」とは何を指すのか、国内でやめて海外(フランスなど)に処理を委託する場合は放棄にあたるのか、といった議論がさしあたり考えられます。こうした観点は、論題を肯定ないし否定するにはどうすればいいのか…ということを考えるなかでしか出てきません。最初からTopicalityありきで考える思考は、ディベートという競技に取り組む姿勢として不自然だということです(Topicalityの正当化根拠からして不自然だということ)。

4.「誤訳」が投票理由になるか?
ここからは、POPで大々的に取り上げられ、彼らの「功績」(?)になっているらしい、論題の誤訳という問題について触れます。ただし、僕は論題の解釈そのものにはさして興味がないし、この点での批判能力には乏しいので、専ら理論的観点(*)に限った指摘を試みることにします。

(*)前にも少し述べましたが、Topicalityという議論を提出する行為そのものは、セオリーではありません。セオリーというのは、勝敗を決定したり議論を処理するための枠組に関わる議論です(いわゆるシフトの議論がこれに該当する)。それに対し、BMD論題がいかに誤っているかとか、カジノ合法化論題が実際にはパチンコ合法化論題を意味しているだとかいう話は、セオリーでもなんでもなく、単なる議論の選択に過ぎません。既に述べたところから明らかですが、TopicalityもADやDA(いわゆるnetの議論)と同じ次元の、論題の是非を争う一手段に過ぎません。その位置づけを論じるのはセオリーの範囲ですが、既に指摘したとおり、POPでは肝心のその部分が完全に欠落しています。これでセオリストを自称するのは、昔の日本人が舶来品を有難がっているのに似た、ちょっと恥ずかしい態度だと思います(カステーラ、みたいな)。
日本語でのディベートでは、こうしたセオリーの議論はあまりなされておらず、その点ではちょっと弱いところがあるのかもしれません(それが議論の質を下げているとは思えませんが)。日本の英語ディベートで僕が見た中で一番興味深かった「セオリー」の議論は、93年のJNDT-FinalにおいてAffが提出した、ディベートにおける論題は法的義務を意味し、AffはDAにもかかわらず、論題として挙げられた法的義務を具体化する一例を示すことで勝つことができる…といった趣旨の議論です(ディベートフォーラム33号(1994年)145頁以降を参照)。結果はAffの負けで、議論の中身自体にも賛否両論あるのですが、このような創造的なチャレンジこそが、我々が理想とすべき「セオリー」だと思います。

POP51頁及び85頁以降の付録では、BMD論題(2006年前期)が文法的に間違っており、存在していないものをAbondonさせるのが無理だからAffは勝てない(論題を支持していないという意味なのか、その論理構成は不明)といった趣旨のことを長々と書いています(*)。
しかしながら、まずもって検討されるべきは、そのような誤訳があったとして、それはAffを負けにする理由になるのかということです。この点の「セオリー」を詰めず、鬼の首を取ったかのように誤訳を主張して喜ぶのは、セオリストの態度ではありません。そこで、この点について以下で検討してみましょう。

(*)誤訳云々の中身については議論しないと言いましたが、ここで単純な疑問を呈しておくと、それではどうして早くそれを伝えなかったのか?ということが気になります。だからJDA-MLであてつけ的な謝罪文なるものを書いたのでしょうが、そこまで論題委員会に申し訳なく思うのだったら、委員会に参加するなり、委員会にコメントするなりして修正すればよかったはずです。本当にディベートという営みを大切に思っているのなら、その能力を生かすべきです。それを、後になって「あの論題は間違っていた!」というのは、論題委員会の方々だけでなく、そのシーズンに試合をした全てのディベーターに対して失礼でしょう。

第一に、たとえ論題が文法的におかしいとしても、それは直ちにAffを負けにする、すなわち「Affが論題を肯定できていない」ということにはなりません。
例として、POP51頁でBMD論題の英語版の訳とされている「(日本政府は)全ての防衛システムを導入しようとする全ての試み(をやめるべきである)」を挙げてみましょう。確かに、「全ての」という言葉が重複しており、文意が良く分からないように思えます。しかしながら、これによって直ちに「この論題は肯定できない」という結論にはなりません。これと同じテーマでシンポジウムが開催されたとしても、参加者はテーマの文章に違和感を持つ(打ち間違いかな?とか)ことはあっても、言わんとするところを察して、BMD計画の是非を議論するでしょう。要するに、みんなそんなに馬鹿じゃないということです。
この「誤訳」をもってAffを負けにするには、Affが論題を肯定できていないというところまで議論を推し進めなければなりません。そのための一つの方法としては、上の例文から何らかの合理的と思われる読み方を持ってきて、Affの支持方法がそれとズレていることを示すものがあります。要するに普通にTopicalityをやれってことです。もう一つの方法としては、論題の文言からは想定できるアクションがない(論題が間違っている)場合にはAffが負けるという理由を理論的に示すということです。POPではここが抜けているわけですが、本当に想定できるアクションがないという前提で、そんな論題を支持することはできないのでAffが負ける、といった理屈はありうると思います。ただ、そんな風に考えるのはおかしいだろうということは、続けて論じます。

第二に、論題が誤っており、そこから想定できるアクションがないとしましょう。しかし、本当にその論題は何の意味も有さない支離滅裂な文章なのかというと、そうではないはずです。POPでも梁山泊がこの論題からどういう議論ができるか検討していたという経緯が書いてありますが、論題が文法的におかしいとしても、それが一般的に指し示す問題領域は分かるはずです。日本語版の論題がなかったとしても、普通に読んでいれば分かるでしょう。
そのような代物について、厳密に解釈したところ議論不可能なのでAffの負け、というのは、いったいだれが望むのでしょうか。むしろ、推薦論題が投票によって選ばれるという経緯や、議論の予測可能性(屁理屈として「オレにはわかんねーよ」というのは別として、普通の人間は渦中のBMD論題の中身が意味するところについてはだいたい分かるはず。ちなみにくだんの論題はNative checkも経てるみたいですね)があることからすれば、議論不可能と思われる場合には指し当たって一般的に理解できる文脈で解釈することも許されるのではないでしょうか。これに対してNegがFairnessなどの見地で反論することはありえますが、「論題が間違っているのに、間違った部分を補うなんておかしいよ!」というのは、先ほどのシンポジウムの例で「皆さん、このテーマは誤植か何か知りませんが間違って表記されているので、無意味です。帰りましょう」と言っているのと同じで、非常識な人間の考え方だということができます。
(こういうとまた「お前の常識を入れるな」と批判がありそうですが、おそらく多くのディベーターは「論題の中に書いてある政策を争うため」に試合に出ているのであって、「そんなの関係ない、論題の厳密な解釈こそセオリストの命」などというのは普通じゃないし、そんな常識こそディベートには存在しないのではないでしょうか)

第三に、以上の補足のような位置づけになりますが、ディベートにおけるTopicalityの意義という点から考えると、文法の間違いだけで投票理由を左右するというのは、そもそもTopicalityの予定するところではないということができます。Topicalityは揚げ足取りの道具ではなく、Affが論題を肯定できているかの検証材料にすぎません。検証の理由付けとして論題の意図するところを限定し、それとAffとの乖離を問うことは求められますが、論題のあら捜しをすること自体には何の意味もありません。論題が間違っていてAffが困るという場合が本当にあったのだとすれば、そこで健全な(FairnessやEducationの精神も背景とした)Topicalityが志向するのは、試合がまともに(これは「AffもNegもできるだけ公平に」ということを含む)進むよう論題を善意解釈することであり、絶対Affが勝てないというような、大会を台無しにするような判断ではないはずです。

以上、誤訳Topicalityについてそもそも考えられるべきと思われる点を指摘しました。
これにもかかわらず、論題を外部の文脈(論題選択者の意図など)から解釈するのはおかしいという見解はあるのでしょう。僕はこれまでの述べたとおり、そんなこと不可能だという立場(外部の文脈なしで議論などできない。Affは全ての語句について定義してからディベートをはじめないとダメなの?もちろん、引用した辞書で出てきた語句も全て!)ですが、それでもそういう態度を無理して取るというグループは出てくるのかもしれません。それについては、少なくとも僕には関係ありませんので、仕方ないことです。ただ、そのせいで政策ディベートをきちんとやりたい人が困っているとすれば、気の毒だとは思います。
これは最終的には、ジャッジの問題だと思うのです。僕はある判定を軽々しくイラジャッジだとか言うつもりはありません。しかし、分からないものを分かったふりして判定するのは不誠実だと思うし、自分の直感にある程度自信がもてないというのなら、そもそもそんな活動(選ぶ言語も含めて)は辞めて、より適切なNativeに判定をさせればいいんじゃないかというのが正直なところです。僕も日本語のディベート大会を審査する際に、全ての予備知識をもって判定できるわけではありません。もしかしたら論題の解釈も誤っているかもしれない(可能性としては否定できない)し、議論されなかったところは無意識であれ意識的であれ、僕の推測が入ったりすることは避けられません。それでも求められている程度に合理的な判断はできると思うからこそ、きちんと「判断」する責任を引き受けて、ジャッジを引き受けています。そして、選手として大会に参加するときには、同じような責任を引き受けているであろうジャッジの判断を信用しますし、そのジャッジと「常識」も含めた論理的な結論を共有できるように努めようとします。

ある論題が誤訳だといって、それを否定するのは簡単です。しかし、その背後には論題委員会の献身的なリサーチがあり、またそれが選ばれるに当たっては、そのテーマで試合をしたいという多くの人の希望があります。そういうものを否定し去って、常にAffが負けるとかいうゲームとして非常識な(つまり「楽しくない」)帰結を導くのが「セオリー」の役割ではないはずです。
ディベートという活動にどんな特殊な意味を読み込んでいるのかは分かりませんが、ディベートコミュニティだって他のそれと同じく、みんな何かしらの意義を求めてやってきます。シンポジウムで誤植を見つけて騒ぎ立てる人間がナンセンスであるのと同様、論題が間違っているというだけで試合の勝敗がどうこうと決め付けるのは、端的に言って迷惑なのではないでしょうか。ましてや、TopicalityのLogical Legitimacyとの関係で何らの理由付けもないただの揚げ足取りだとすれば、彼らの言う「論理」のみによっても、その存在は否定されるべきです。


今回はちょっと感情的なきらいのある記述が入ってしまいましたが、Topicalityについては概ねこんなところです。POPへの具体的言及は少なくなりましたが、既に言及すべき観点については触れてしまっているので、「Fairnessは関係ない」などの該当記述を見るたびに「その理由はどこにあるんだよ!」などとつっこみを入れていただければ足りるという感じです。

ここまで書いてきた内容は、あくまでPOPの内容に対する議論であって、既存のディベートコミュニティに対する提言を意図したものではありません。もしそのように読まれたとすれば、その観点からコメントしていただくことはご自由ですし、僕も可能な範囲でお答えしますが、僕の議論はあくまで「素材」にすぎません。
もし、僕の議論に賛同し、そこから何らかの変革すべき事情を見出している方がいらっしゃるとすれば、ご自由に援用していただいて構いません(もっとも、より洗練させていただかないとダメでしょう)。僕の見解が誤っており、僕と同様の「誤解」をしている人間にイラっときている方々は、ここで僕をこてんぱんにして、その余勢を駆って誤解している人間を駆逐されればよろしいでしょう。
ともかく、僕の稚拙な検討が何らかの意味で皆さまの議論を喚起し、ディベートという営みがより価値ある形で展開されれば、相応の時間を割いて駄文を垂れ流してきた甲斐があったというものです。

とりあえず以上で連載自体は一休みすることにします(とかいって再開した過去はあるのですが…)。お読みいただいた方々、そして貴重なご意見ご感想をコメントしてくださった多数の方々には感謝しております。どうもありがとうございました。
コメントには引き続き可能な限りお答えいたしますので、遠慮なくお願いします。

擬似「セオリー」批判 | 01:17:31 | トラックバック(0) | コメント(19)