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アカデミックディベーター

Author:アカデミックディベーター
日当たりの良い某法科大学院を2009年3月に卒業。
ライフワークである競技ディベートについてぼちぼち書いています

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関東支部秋季大会の感想
最近の連載で中高生の読者が離れてしまったのではないか――そもそもどのくらいいたのか、という点はさておき――という懸念もあるのですが、先日NADE関東地区秋季大会のジャッジに行ってきたので、その感想を少し書いておきます。

なお、例の連載については、コメントも一段落したので、とりあえず能動的に記事を書くことはしないと思います。本当ならば批判云々と関係なく論じたい内容もあるのですが、受験もありますので。
何か西のほうでは緊急セミナーとやらも開かれたそうで、何が急を要するのかよく分からないのですが、それに関連して何かあればコメントしていただければお返事はします。ただ、多少いるらしい中高生ディベーターのことも配慮したやさしいコメントをお願いしますね(批判が鋭いということ自体は一向に構いません、というか期待しております)。僕は未来のディベーターを失望させたくありませんので。

それでは本論です。

秋季ディベート大会では、当日朝に論題を発表し、使用できる資料を配布したものに限定した上で準備させ、午後から試合をするというスタイルをとっていました。そのため、議論構築能力が問われるという格好になっていることが特徴的で、提供された資料から伸びの期待できる/できない議論が見えてきてしまう(見えてほしい)ということもあり、普段と違った厳しさがあったのではないでしょうか。

この大会では中学の部(論題は制服の禁止)で決勝主審を担当させていただいたのですが、その時にも上記のような特徴を前提とした話をさせていただきました。話が長すぎたりしてスピーチとしては微妙だった気もするのですが、以下では少しだけその中での説明を書かせていただきます。

今回の大会のような半即興ディベートを通じて選手の方々に学んでほしい――といっても僕が企画した大会ではありませんが――ことは、資料に頼るのではなく、まずは自分たちで考え、資料にそれを語らせるという「正しいディベートの方法」を実践するということです。
これは僕も含めたディベート経験のそこそこあるディベーターにもいえることですが、ディベートの準備をする際には、ついつい見つかった資料にあわせて議論を作ってしまい、全体として必ずしもベストな筋を追えていないということがあります。これでは、発想が限定されてしまったり、無理のある議論になってしまったり、よいことがありません。
もっとも、これはいわゆる「資料偏重主義批判」ではありません。ディベートにおいて、証拠資料による論証は極めて重要です。ただ、資料にあわせて議論を作るというのは本末転倒であって、展開したい議論を念頭に置き、それを実現するために、主張をよく支持してくれる論拠(資料)を探すことこそがディベートにおけるリサーチの意義であり、ディベートの試合を準備するという作業の本質です。

展開したい議論からスタートする、ということは、資料を使いこなす上でも重要です。というのは、自分たちが主張したい(すべき)議論を探すという目的から資料を見ると、漫然と資料を探しているときとは違った発見があるからです。

例えば、「公立高校の制服の値段は50000円」という資料があったとします。これだけを見ると、「制服は高いから、家庭によっては負担になってしまう」という議論を思いつくのが一般的だと思います。
しかし、もしここで否定側の立場として「制服がなくなると私服を着るようになって服装の違いが生じ、それをきっかけにしていじめが起こる」という議論を考えようとしていたとして、この資料を見るとどうなるでしょうか。確かに5万円の制服は安くありませんが、毎日違う服を着ていくこと、それもそれなりにおしゃれな服をと考えると、5万円どころでは済まないのではないでしょうか。すると、お金のない家庭はいじめられるような安い服(そんな問題なのかは分かりませんが)を着るかしかなくなってしまう…という議論の根拠として、上記の数字を使うことに思い至ることができます。

ディベーターの方々のなかには、シーズンの最初に読んだときにはなんとも思わなかった資料を後から読んでみると、よい資料が入っていたという経験をしたことがある人も少なくないのではないでしょうか。それは、上記のように、新たな目的意識をもって資料を見るからです。
ですから、シーズン最初にありうる議論につきブレインストーミングをするなどの作業が重要になってくるわけですが、その目的が「展開できる議論を念頭に置くことで見えてくるものが変わってくる」ということにあるということは、覚えておいて損はないと思います。

こうやって、資料をしっかり読む――資料にあわせるのではなく、資料を使っていくという姿勢――ことは、資料の中身をきちんと吟味し、意味のある反論を展開するということにもつながります。それらしいことを言ってるだけの資料で反論を組み立てても、ジャッジの心にはなかなか響きません。自分たちが言いたいことをサポートしてくれる資料を探し、それを自分たちでしっかり理解したうえで議論として出すこと。それこそが、ディベートで勝つために皆さんがすべきことです。

そんなことを思いました。
大会では皆さんとても楽しそうにディベートをしていて、ジャッジとしても大変うれしく思いました。実は大会の翌日、僕も久々にディベートの選手をやることになり、恥ずかしいスピーチをしてしまったのですが、やっぱり選手としてディベートをするのは楽しいです。選手の皆さんにも、そうやってディベートを楽しんでほしいし、そのために何かしらの役にたてたというのは正直に言ってうれしいことです。
来年には新たな論題が発表され、また新しいチャレンジがはじまるわけですが、これからも選手の皆さまにはディベートを楽しんでほしいし、その中で価値ある発見をしてくれることを、いちディベーターとして心より願っております。

といったところで、今日は終わりです。われながら(いつもより)コンパクトになったなぁと密かに喜んでいたりしますが、相変わらず長い文章を最後まで読んでいただきどうもありがとうございました。

ディベート甲子園の選手向け | 23:54:05 | トラックバック(0) | コメント(0)
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