愚留米の入院日記
日当たり良好の某法科大学院既習病棟を退院した法務博士の日記。しかし内容はほとんど趣味のディベートの話
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2つのおはなし~コミュニケーション点の採点方法、そしてディベート甲子園のあり方について~
1ヶ月記事を書かないと広告が出た気がするので、時効中断のために何か書こうと思います。とはいえガラス棟の話も特にないので、最初に簡単に最近の受験生活について書き、その後ディベートの話をすることにします。今年最後の記事ということで、思うところがあれば何かご意見などいただければ幸いです。できれば選手の意見も聞きたい内容ではありますが。
(どうでもいいですが、「ガラス棟」と「ロー」のキーワードでググると4番目くらいにこのブログが来てしまうようで若干恥ずかしいです。ガラス棟というネーミングは東大のRWDなる授業のケースで出てきたので僕の発案ではないのですが、無味乾燥さを体現するものとして個人的に気に入っているので使っているのです)

0.受験勉強について
そろそろ寒くなってきたので受験勉強をはじめました。一応年内に6回(公法・民事・刑事各2回)論文の答練も受け終え、答案の書き方的なものはある程度掴んだつもりです。点数はというと知識不足もたたってだいたい6割くらいにとどまっていますが、相対的順位はそこそこっぽく、これから頑張っていけば何とかなるんじゃないかというところです。本番だと5割くらいで最低合格点なのですが、それは「本番まで勉強しきった人たち」の点数なので、おそらくは今の僕が本試験でその点数を取れるわけではありません。なので、このまま力をつけて満遍なくよい答案が書けるように励みたいところです。
あとは短答試験(センターのようなもの)もあるのですが、こちらはもうすぐ模試があり、問題集をコツコツ解いているところです。コツコツというよりコツ……コツ…といった頻度でしか解けてないのがアレですが、これはあと5ヶ月の間でどんどん詰めていくべきですし、詰めていきたいところです。

何にせよ、落ちてもディベートのせいではなくて僕が馬鹿なだけなので、関係者の皆さんは気にしないでください。あと、受験生の人は是非とも高3の夏までディベートに励んでください。

1.コミュニケーション点について
最近、ディベート甲子園におけるコミュニケーション点やマナー点のつけ方について若干の議論があったりなかったりするようです。そういう声に鑑み、近日専門委員会から見解を発表する予定があるのですが、それとは別に(まぁ中の人は同じなのですが)個人的な見解を簡単に書いておくことにします。

一番問題となっているのは、コミュニケーション点の評価基準は何か、ということです。ガイドラインには話し方、スピーチの構成、姿勢、スピーチ速度といった要素が挙げられていますが、これらは例示列挙に過ぎませんから、その他の要素も加味されることはあります。
この点、ガイドラインに書いてあることだけしかコミュニケーション点の評価で考慮できない、という見解もあるようですが、これは端的に言って誤りだと考えています。なぜなら、①そもそもガイドライン自体にそのようなことは書いていないし、②ガイドラインは「ルールには定めていないことで、選手の皆さんに連盟が推奨する事項」ですから、強制力を持たない(無視していいってことではないですよ、念のため)ばかりか、ジャッジはそもそも名宛人ではないからです。

では、その他にどういう要素が評価できるのでしょうか。容姿が評価対象外であることは当たり前として(僕のコミュニケーション点が低い理由はそれで説明できるかもしれませんが)、問題となるのは「議論の内容」を評価にいれていいか、ということです。
答えは、内容そのものは入らないけど、議論の内容が分かりやすさに反映された結果コミュニケーション点に加味されることはありうる、というところです。ルール本則6条は「勝敗とは別に」コミュニケーション点をつけるとしており、これは議論の内容とコミュニケーションを区別する趣旨です。ですから、説得力があったからコミュニケーション点も高くなるとか、分かりやすかったから証明はないけどメリットを取るといったことは許されません。
一方、議論が明快であるとか、構成が優れているということは、議論の内容として高い評価を受けるだけでなく、コミュニケーションの見地からも評価の対象になります。例えば、相手の議論に対してかみ合った(関連性の高い)反論をするということは、議論を流れとしてみたときにジャッジにとって理解しやすくなりますし、相手に適切に応答しているという点でコミュニケーションとして優れています。逆に、相手の議論に対して全く的外れな反論というのは、聞いている側も混乱してしまうし、コミュニケーションとしても失敗しているというべきです。
以上のような要素をコミュニケーション点でも評価することは、本則6条の趣旨にも反しません。なぜなら、それは「分かりやすさ、適切さ」といった要素のうち、コミュニケーションの側面を取り出して、議論の内容に対する評価とは別個に評価しているといえるからです。

もう一つ「誤解」があると思われるのは、早ければそれだけでコミュニケーション点を下げるということについてです。スピーチの速度はコミュニケーションにとって重要であるとはいえ、それだけでディベートのコミュニケーションが決まるわけではありません。かかる考え方には、第一に「早ければそれだけで分かりにくい」という誤った理解をしている過ちがあり、第二に「スピーチだけがコミュニケーション点を左右する」というこれまた誤った理解をしているという過ちがあります。
第一の点について。ただ早いというだけでは、スピーチが聞きにくくなることはありません(多くの場合そうなりますが)。今年のJDA決勝の1ACは、相当の分量のケースではありましたが、聞いていて全く速さを感じさせませんでした(普通の人が聞いたらそれでもかなり高速なのでしょうが!)。読み方の工夫で、同じ分量でも分かりやすさは全然違ってきます。立論の字数にやたらこだわる(それで、平仮名をやたら漢字変換して字数を減らそうとしたりするが、当たり前のことながらこれは無意味です)学校もあるようで、確かに無駄なスピーチを除く作業は重要ではあるのですが、他にも配慮すべきポイントはあるということです。具体的な方法はここでは詳述しませんが、単純にスピーチ練習をしてよどみなく読めるようにするだけで、聞きやすさは全然違ってきます。
第二の点について。上でも書いたように、コミュニケーション点はいろんな要素で決まってきます。確かに、早すぎて聞き取れなかったという結果を低く評価することは当然あってよいのですが、早かったというだけで、自分は十分理解できたのに低い点数をつけるというのは、「好み」だとしても十分正当化されないのではないでしょうか。いわゆるスポンサー受けを考えているのだとしたら、正々堂々ルールにそう書けばよいではないですか(その時は僕も委員会を辞することになるでしょう)。ルールには総合評価と書いてあり、ジャッジの心証によって点数をつけているのですから、ジャッジが分かりやすかったかどうか、それだけでコミュニケーションを評価すべきです。

2.理想のディベートのあり方に関する試論
上述の内容と関係して、今後のディベート甲子園がどうあるべきか、私見を述べておくことにします。実は前からちょくちょく書いてはいるのですが(前身となる某ディベート日記をご存知のかたは分かると思います)。

現在の全国教室ディベート連盟(NADE)においては、大きく2つの考え方があると思います。第一に、学校でディベートを根づかせようという教室ディベート派があり、第二に、競技ディベートとしてのディベートを普及させていこうという競技ディベート派です。一応建前としては前者が理念になっているようですが、現在の中心活動は競技ディベート大会としてのディベート甲子園であって、その両者に微妙なズレがあるということは関係者も皆さん感じているところでしょう(だからここでも書いてしまいます)。

個人的には後者のあり方がよいと思っているのはご案内の通りですが、僕は前者についても意義を感じています。しかし、僕が問題だと思っているのは、競技ディベート大会であるはずのディベート甲子園において教室ディベートの要素を無理に取り入れようとすることです。
例として、授業のサッカーと全国高等学校サッカー選手権大会の違いを挙げることができます。前者のサッカーは授業内でやるので、時間も限られているし、レベルもそんなに高くなりません(僕のような生徒もやらされるわけですから)。そもそも、フルタイムでサッカーができる高校生なんてそうそういません。だから、国立競技場を目指す後者のサッカーは、授業のサッカーと明確に分けられているし、それでサッカーという競技の普及が阻害されているわけでもありません。むしろ、サッカーという営みは全国に広がり、みんなそれぞれのレベルでサッカーを楽しんでいるわけです(ガラス棟でもサッカー大会があるくらいです)。

最悪なのは、競技大会としてみんなが必死に目指そうとする大会に、教室の制約をはめ込もうとすることです。それでは、競技としてのディベートの魅力にかげりが出ることは必然です。中学のフォーマット短縮は選手のレベルなどに鑑みて仕方ない点もありますが、スピーチの速度に制限をいれたいだとかいう要求があるのは、分かりやすさを教えたいという教室ディベートの理念(まぁこれはスポンサーの理念でもあるのでしょうが)が競技ディベートの要求を制約しようとする点で極めて問題だと感じるのです。
別にそういう具体的な要求が「現在」あるわけではありませんが、方向性として授業のディベートと競技のディベートを分けないことは、おそらく両者にとって不幸であり、ディベートをダメにしてしまうと考える次第です。

ちょっと話が錯綜しかけているので、具体的なテーマに落とし込んで、いくつか問題提起をしてみます。

(1)競技ディベートの徹底について
個人的には、ディベート甲子園という競技ディベートの場面では、もっと議論の内容にFocusした評価をしてもよいと思っています。端的に言うと、ディベート未経験者にはついていけないような高速スピーチであっても、内容が優れていれば(必要に迫られての速度であれば)評価されてよいのではないでしょうか。
前にも書いた気がしますが、アメリカの大学ディベートでは、それこそネイティブも聞き取れないような速度で、膨大な議論が提出されます。そこでは徹底的に議論の内容で勝負し、考え抜いた方が勝つというスタイルになっています。そのこと自体にも賛否両論があり、僕もあそこまで行くとちょっと行き過ぎな気がしないでもないのですが、それでもそういった営みの中から優れた人材を多数輩出しており、それを支持するスポンサーもついているという現実については、我々も無視できないところでしょう。

そもそも、ディベートの本来の目的はコミュニケーション教育などというものではありません。ディベートは、意思決定に関わる諸能力を訓練する道具であって、その本質は「議論の中身」です。そこで考え抜いた内容を分かりやすく伝えようとすることは、ディベートとは別のトレーニングに任せるべきであって、ディベートがその教育的効果を最大限に発揮しようと思ったら、議論の中身に集中してディベートに取り組むべきだということです。
これは皆さまもうすうす感づかれていることでしょうが、現在のディベート甲子園においては、必ずしも議論の内容だけで勝敗を決するという理想が100%達成されていないというのが実情だと思います。それは、判定理論の不徹底(いわゆる「主張共通・証拠共通原則の認識不足」――フローを越えた議論を十分チェックしない)やジャッジにおける競技ディベート経験の不足など様々な理由によるのでしょうが、そういう要素に気づいたチームの中には、議論の本筋とはあまり関係のない「口当たりのよい」スピーチを意識し、それがある程度成果になって表れてしまっている(悪いことともいいきれませんが…)ということがあるように感じています。それは、選手にとっても幸せなことではないような気がするのです。賢いからこそうまく対応しているのだけれども、もし彼ら彼女らが議論の内容に100%注力できるのであれば、もっとすごい議論が聞けるのかもしれないと思うと、寂しい思いがします。

僕のような考え方ではスポンサーがついてこないというもっともな疑問もあるでしょうが、本来はそういうディベートのあり方を尊重してくれるスポンサーを探すことこそが求められているはずです。日本に求められている議論文化というのは、口当たりのよいスピーチをする中高生が増えることを意味するのでしょうか?僕はそうは思いません。そして、アメリカのようにとは言いませんが、考え抜く中高生を応援し、そこから日本をリードする人材が育つことを期待する企業も日本にはきっとあると思いますし、ないのであれば説得して理解してもらわないといけないのだと思います。

(2)教室ディベート万能論の誤り
僕は教育現場においてディベートをやることに賛成ですが、一方で「何でもディベートをやらせればいい」という安易な考えには疑問符を付さざるをえません。

例えば、一定のテーマを教えるためにディベートをするという行為は、自由に考える中で判断能力を高めるというディベートの本筋に反し、教師が知識・思想を教え込む道具としてディベートが利用されてしまう恐れがあります。歴史問題とディベートの関係でこのようなことがよく言われますが、歴史問題を平和・反戦という価値に置き換えても、同じくらい問題があると僕は考えます。ディベートとは批判的な思考を通じて各人が各人なりの答えを導き出すトレーニングであって、答えを一方的に与えるという教育方法とは根本的に矛盾するのです。

また、考える道具としてディベートをやらせればよいじゃないかというのも、なかなか難しいところです。例えば、国語科で文学作品を題材にディベートをさせるというカリキュラムがあるようです。高校の教材でいうなら、夏目漱石の『こころ』における先生は善人か悪人か…といった感じなのでしょうか。これについては各人の読みがありうるところで、そもそもディベートさせる意味があるのかという疑問もある(更に言うなら、国語科で文学作品の読解をやるということが教育上どれほどの意味があるのかということは昔から疑問だったのですが!さだまさしも同旨のことを述べています)のですが、価値論題のディベートは指導者が習熟していないと単なる言い争いになって不毛に終わる可能性が高く、無理にディベートという形で取り組ませるメリットはあまりないように思います。それよりも、単純に『こころ』を順に読ませ、同じテーマで感想文でも書かせた後でみんなで議論させた方がよいのではないでしょうか。

従来のディベート導入本においては、ディベートの素晴らしさだけが縷々述べられ、その中にはディベートと直接関係のない「コミュニケーション能力の育成」といった要素も含まれていたように思います。しかしながら、これは言いすぎであって、ディベートで全ての言語能力・思考能力が鍛えられるわけではないし、またそれを目指すべきでもありません。
何事もそうですが、手段というのは目的に応じて選ばなければなりません。鶏をさばくのに牛刀を以ってするのは間違っているのと同様に、スピーチのトレーニングとしてディベートに取り組ませることが直ちに推奨されるわけではありません。もちろん、教室ディベートという独自のあり方として、分かりやすさと議論能力を並行的に高める方法はありうるのでしょうし、そのような実践に成功しているように見受けられる先生方もおられます。しかし、ディベートという言葉も(間違った理解はあるとはいえ)一応は広まってきた現代においては、「何はなくともディベート」ではなく、その意義と効用をきちんと理解したうえで、必要な場合に必要な形で取り組ませるということが求められているのではないでしょうか。ましてや、体育館に生徒を集めてディベートもどきでメディアリテラシーを教えるというのは、もはやディベートですらないわけですから。



以上、割と過激なことを書いてしまいました。
このようなことを書いているのは、現在のディベート甲子園が「目先の大会を回す」ことに精一杯で、どういう大会をやりたいのかということがあいまいになってきているような気がするからです。お前も実行メンバーだろうという批判はさておき、そういう問題意識を持つことは重要です(僕は末端の人間であって、中央にはたくさんよく分からない肩書きの人がいて、多分今年一度もディベートの試合を見ていないような人も混じっているのです)。

ディベート甲子園が競技ディベートの大会としてレベルの高い議論を目指すことに注力すれば、それ自体がディベートという競技を大いに普及する原動力になると思います。教室ディベートは、それと一線を画するとしても、独自の意義を見出すことは十分可能だし、またそうあるべきです。僕は教職経験がないので「教室ディベート」の構想について多くを語る資格はありませんが、教室でのコンパクトなディベート実践でも生徒に与える影響は大きなものがあると思いますし、それがディベート甲子園への挑戦につながることも十分ありえます。むしろ、教室では得られないレベルの大会を提供することこそが、全国教室ディベート連盟の目指すディベートの一つのあり方なのではないでしょうか。少なくとも僕はそういう気持ちで高校時代ディベートに取り組んできたし、これまでディベート甲子園の運営に携わってきました。そして、そのあり方は必ずしも間違っていなかったのではないかと自分では思っています。

それでは皆さま、少し早いですがよいお年を。
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