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アカデミックディベーター

Author:アカデミックディベーター
日当たりの良い某法科大学院を2009年3月に卒業。
ライフワークである競技ディベートについてぼちぼち書いています

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Topicalityの体系的位置づけに関する一考察(下)
前回の続きです。ほとんど別の場所からのコピペなので書き下ろしではありません。あくまで現時点での考えなので、いろいろ詰めるべき点もあるとは思っています。
あと、最後にPOP批判のおまけを少し書いていますが、連載で指摘したこととあまり変わらないのでスルーしてくださって結構です。


4.Topicality as Solvency Attackの構成から見たCounterplan
TopicalityをSolvency Attackとして考えるということは、プランやメリット・デメリットといった議論を、出した側の属性から完全に切り離し、論題との関係だけで評価するということを意味します。Affが出すプランがTopicalでなければならないとか、Negが出すプランはNon Topicalでなければならないというのは、最終的な評価に当たってはそうなりますが、提出段階で規範的に制約されることはないし、どっちが主張してもよいということです。
一応入院日記なので入院患者向けに表現すると、プランは訴訟物ではないので処分権主義の適用はなく、主張共通の原則で規律されるということになります。

このように考えると、Counterplanの「要件」として非命題性(Non Topicality)が要求されることはありません。CounterplanもAffの出すプラン同様に側とは無関係、無色透明の存在と考えてよいので、非命題的でなければ評価対象にならないとかいうことはなく、ただ単にそれが最終的にはAffのオプションになってしまうというだけのものになります(ですから、Negが勝つためにCounterplanを出す場合、非命題性は依然として必要になります)。
競合性や優位性についても、要件として要求するというより、最終的な評価の次元で考えればよいだけです。法律学で「要件」というと、法律効果を生ぜしめるために必要な条件(事実)を指します。Counterplanの「効果」をNegの勝利と位置づける場合にはこれでよいでしょうが(というか普通だと思います)、Counterplanも論題を評価する一手法であって、最終的にはAffのプランと比べて考えられるものですから、Negへの投票を直接的な効果として構成する思考は、Counterplanをあたかも肯定側の議論と別物のように捉えるようにも思え、やや不自然さを感じます。これはあくまで僕の個人的な感想ですけど。

ここで、僕がここで言う「評価」とは何を意味するのかを明らかにしておきます。これは要するに勝敗の決定方法ですが、政策論題のディベートでは論題に掲げられた政策採択の是非が議論対象になっているのですから、試合中の議論の結果政策採択が望ましいと考えられればAffが勝ち、そうでなければNegが勝つということになります。
これをAff、Negのプラン提出行為やメリットデメリットの議論と関係させて噛み砕いてみましょう。試合中、AffやNegはそれぞれプランを出し、あるいは論題そのままの文言を支持したり、(Negは)現状維持の立場を取ったりします。これらの立場は、単一あるいは複数の条項からなる政策群によって表明されます(ちなみに、条項として提案されなかった他の要素については、基本的には現状をいじらないものとして考えます。すなわち、現状において実施されており、あるいは実施される予定のあらゆる政策も黙示的に提案されていることになります)。
以下、ここでいう「政策群」をシステムと呼び、それを構成する条項(個々の政策ないし提案)をプランと呼ぶことにしましょう。一般的には前者をプラン(Plan)、後者をプランク(Plank)と呼ぶようですが、日本語ディベートだと個々の条項をプランと呼ぶのが通例ですので、そちらに従います。評価対象となるのは政策群のことですが、プランが評価対象であるというより、提示されたシステムが評価対象であるというほうが語感もよい気がするので。

以上の前提から、試合におけるシステム評価の枠組を考えます。
試合においては、Affがプランを、Negが(場合によっては)カウンタープランを出すことになりますが、これらは最終的にはシステムの提出と見ることができます。Affが何もプランを出さなかった場合は論題の文言そのものが抽象的にシステムとして主張されたと考えますし、Negがカウンタープランを出さなかった場合は現状維持という状態がシステムとして主張されたと見ることができます。
僕がディベートで勝敗を決するに当たっては、①試合中に提出された全てのシステムについて純利益を評価し、②その中で最も望ましいシステムが論題を肯定しているかどうかを考え、それが肯定されればAffに、否定されればNegに入れるというように考えます。
いわゆる競合性の論点は、①においてどのようなシステムを評価対象とするかという問題に解消されます。また、優位性の論点は②で比較する際に当然考慮されますので、ここに解消されることになります。

5.評価対象となるシステムの認識方法
競合性の論点に関係して問題となる「評価対象となるシステムの範囲」については、以下のように考えます。 基本的にはどのようなシステムであっても認めるが、審理対象とするためにはシステムの構成要素を明示した上で主張されなければならない、というものです。まさに民訴でいうところの「処分権主義」ですね。

第一に、Affがいくつかのプランからなるシステムを提示した場合、そのプラン全てを含むシステムを評価対象とします。システムはその構成要素たるプランを明示する限りで、複数出しても構いませんし、それが相互に背反であってもよいでしょう(Alternative Justificationを認めるということです。ただし個々の事例に即して不当であるとの反論があれば別です)。
第二に、Affがプランを出そうが出すまいが、抽象的に論題を肯定する意思は当然に認められるはずなので、論題の文言そのままというシステムも評価対象とします(ただし、メリットの中でこれとの関係での説明がないと、メリットが論題の文言からそのまま生じているという評価はできないでしょう)。
第三に、Negがカウンタープランを出した場合、そのカウンタープラン全てを含むシステムを評価対象とします。NegもAff同様に複数システムを出してよいですし、議論上の不都合がない限りは相互に矛盾していてもよいでしょう(この点異論もありそうですが、僕は側とプランを完全に分離するので、Negを野党の集合体のようなものと考え、いろんな立場からAffの提案を否定するということが可能だと考えます。共産党と民主党の出すシステムは相互に矛盾するかもしれませんが、自民党に対立するという点ではどちらも否定側だということです)。
第四に、Negがカウンタープランを出そうが出すまいが、現状維持というシステムも評価対象とします。現状維持は「何もしない」ということで、提案を待たずに初期状態として審理対象になっているといえるからです。
第五に、AffないしNegから相手方のプランも含め、試合中に出てきたプランを任意に組み合わせたシステムが提示された場合(いわゆるPermutation)、それも評価対象とします。この場合、採択時間をずらすなどいかなる組み合わせ方もありえます。ただし、組み合わせ方を明示されない場合、ジャッジが勝手に組み合わせを作って評価対象にすることはありません。Affの3つのプランのうち1つのプランだけでもメリットが生じているからこの1つのプランだけで…というのも、明示がない場合には取れません。

このようにして認識されたシステムについて、上記①②の過程を経て評価がされることになります。
①の段階(純利益の算出)では、TopicalityによりSolvencyが削られたことも含めて評価がされます。Counterplanによるシステムの純利益はそのような過程を経ませんが、Counterplanの構成要素がTopicalだという場合には、それは論題を支持するシステムなので(反論の内容に対応して)、Topicalな政策から生じる影響の大きさを評価する必要があるでしょう。なお、論題との関係が示唆されたシステムについてのみTopicalityの要素を加味して評価がされているのは、Topicalであることを前提に出されているか、実質的にそういう反論があったという事情のためですから、特に不自然とはいえないはずです。
そして②の段階では、最も純利益の大きい政策がTopicalなものを含むかを考えることになります。このときには、プラン全てを横断的に考察し、システム全体としての命題性を評価することになるでしょう。

6.小括 ~Topicalityが問題となる2つの場面~
このように見ていくと、TopicalityをSolvency Attackとして構成する場合でも、最後の②の評価のように、システムそのものの命題性を問題とする必要があります。もちろん、そこで通説のように「Topicalityを理由に」投票するわけではないのですが、結局のところ論題との関係で勝敗を決める以上、最も望ましいシステムの帰属をどちらにするかという意味で側との完全な分離を図ることはできないということなのでしょう。
しかしながら、通説のようにTopicalityを考える場合、TopicalityはAffという側そのものへの攻撃と捉えられるのに対し、僕の構成ではTopicalityはあくまでシステムへの攻撃ということになります。これは、個々のプランの命題性を問題とする中で、システムの影響のうち論題と関係ない部分を切除したり、システムそのものの帰属がAffを勝たせるものなのかNegを勝たせるものなのか争うという形で表現されます。 すなわち、Topicalityは①個々の条項の命題性及び条項とメリットの対応関係を明らかにする中でメリットと論題の関係を正す場面と、②最終的に評価対象となるシステムの帰属を定める場面の2つで問題になるということです。共通して「条項の命題性」というのは重要な要素になりそうですが、その判定方法についてはいろいろと議論があるかもしれません。前回検討した減税論題のケースはその一端です。

僕としては、後者のように「側の義務ではなくシステムを問題とする」ニュアンスの方が自然だと思いますが、これは人によるでしょうから、僕のような考え方が絶対正しいとも思いませんし、むしろ少数派であることは十分自覚しています(弟は僕に考えが近いようです。特に話したわけでもないと思いますが)。 ただ、Topicalityの理解を通して、ディベートの試合をどういう風に把握するかが違ってくるということについては、ある程度いえるんじゃないかなぁということを思った次第です。
その他検討すべき点はいろいろありますが、とりあえず今回はこんなところで終わりです。



おまけ:POP完全版で予定されているらしい記述について
先日久々にPOP作成団体こと梁山泊の後釜のブログを見たところ、何やら議論がされていました。

議論の内容自体はCounter Agentの問題(論題の政策主体と別の主体がAffのプランと全く同じアクションをするというCounterplanをどこまで認めるか、という問題)についてで、この点については僕も基本的にはPOPの見解を支持します。論題の政策主体がどう行動すべきかを議論している場において他の政策主体の行動を仮定することは不可能ですから、そこにFiatを認めるべきではないということです(上述した本文での説明と関連付けるなら、論題を吟味するために提出されるシステムは「論題の政策主体がとりうるシステム」であることを前提としている、ということです)

それはともかく、この議論に関連するコメントの中で、POP筆者が以下のようなことを書いていました。

ただ、パンツやジャッジ自身が現実にはあるAgentの意思決定者ではありますが、そのような個人的バックグラウンドを反映することはFairness(Game-Balance)の観点から不可能でしょう。
(なぜ、ここでFairnessを持ち出せるかは、完全版にて詳しく説明します。少しだけ言っておくと、フィロソフィーの前段階であるルールの解釈の選択においてはFairnessをBestな解釈を選ぶ上でのStdとして使用できるということがあります。)
そのため、ディベートというディスカッションの参加者は、ResolutionのAgent以外にFiatを持たない純粋な第三者ということになります。



一連の批判連載をご覧の方にとっては意外なことに、梁山泊は意思決定の想定範囲を限定するに当たってFairnessの論理を持ち出しています。この点は正しいでしょう(ただ、ゲームバランスという説明はちょっと違っているように思われます。まさに「一方に肩入れしかねない」という意味での公平性そのものが問題になっているので)。
ただ、非常に謎なのは「フィロソフィーの前段階であるルールの解釈の選択においてはFairnessをBestな解釈を選ぶ上でのStdとして使用できる」という説明です。フィロソフィーの前段階としてルールの解釈を捉えていることもさることながら、フィロソフィーそのものにはFairnessは含まれないということを含意しているような書き振りです。

一点目の指摘として、フィロソフィーとルールの関係について筆者はあまり整理できていないように思われます。これは連載中でも指摘しましたが、フィロソフィーはルールからのみ導かれるものではありません。一般的には、フィロソフィー(ジャッジの判断枠組)はルールのほかFairnessやEducationの観点など複数の立場から論理的な(Fairnessなどを考慮することも論理的といいうるのですよ)体系として導かれるもので、ルール⇒フィロソフィーという単純な図式ではありません。
この考え方は裁判官が判決に使用できる規範の源(法源)についての理解を参考にすればより分かりやすいでしょう。判決においては、憲法や法律のほか、下位規範としての政省令、条例、判例法、場合によっては外国法、条約、慣習法、そして「条理」など様々なものが基礎となりえます。もちろんそれぞれに上下関係はありますが、法律だけで裁判しないといけないというわけでもないし、裁判できるものでもないということです。
ですから、完全版で「フィロソフィー自体ではFairnessは参照できない」とか書きたいのであれば、フィロソフィーの位置づけをルールその他の規範との関係で明らかにした上で、Fairnessがフィロソフィーの源となりえないことをきちんと論証する必要があるでしょう。頑張ってください。

二点目の指摘として、ルールの解釈としてFairnessを認めるのなら、フィロソフィーそのものでもFairnessを認めてよいのではないでしょうか、というか認めないとおかしいでしょう。少なくとも間接的にはFairnessが入り込んでいることは認めざるを得ないでしょう。
それでもなおフィロソフィーはFairnessを反映しないと強弁するのは、理論上の各論点を検討する際にFairnessとか面倒そうなものを考えたくないだけという逃げなのではないかと疑われてしまうのではないでしょうか。少なくとも僕は疑っているのですが。

三点目に、Counter Agentの範囲(議論との関係で言うなら「ディスカッションの参加者」)を決定することはルールの解釈の範囲なのでしょうか?彼らはおそらくNAFAの規則に従っていると思われるのですが、彼らがルールの解釈と言うとき、そこで条文の摘示がされることは全くありません。これは法律学の答案であれば論外であることは言うまでもありませんが、ディベート理論の議論としても、根拠を示さないという意味でお粗末です。
NAFAの規則には、Agentとして想定すべき範囲について明文の規定はありませんし、それを示唆するものはありません。ですから、Counter Agentをどのように処理するのかというのはルール解釈の問題ではなく、ディベートをどのように理解し、どのようにフィロソフィーを考えるかという問題です(これは「ルールだけでフィロソフィーは決まらない」という好例でもあります)。
ルールの解釈として理論を云々するのなら、ルールの明文をもってきて議論するべきでしょう。それをせずに単に「ルールの解釈としてならFairnessは使う」というのは、説明できなくなったときにマジックワードとしてFairnessを使いたいということであって、まさにPOPで批判されているところの考え方と重なるのではないでしょうか。だったら最初からFairnessを正面から認めればよろしいのです。

四点目に、「ディベートというディスカッションの参加者は、ResolutionのAgent以外にFiatを持たない純粋な第三者」というのは、絶対にそうだということはいえないでしょう。そもそも「純粋な第三者」というのはどういう意味なのかが疑問ですが、Agentに所属するものという属性をジャッジが有したとしても、それだけでFairでなくなるということはないでしょうし、そのような考え方もありえないではありません(僕自身としては第三者的立場からAgentの立場を想定すると考えるので、POPの立場とほとんど変わらないと思います)。
この点に関係して指摘すると、理論というのは一つしか答えがないというものではありません。ディベートの試合自体もそういうテーマを扱っているわけですが、どうもPOPでは「~というのは間違っている」ということに傾斜しがちで、いくつかの考え方がありうるという多様性に全く配慮がないのが気になります。それは端的に言って思考が貧困だと思われるのですが、そこまで他の考え方を排除されるのであれば、それなりの理由を示すべきでしょう。少なくとも僕は彼らの考え方のうち誤っていると思われる部分を批判するために5回の連載とコメント欄での返答をもってしたわけですが、批判というのはそういうものではないでしょうか?

そんなところです。
聞くところによるとこのブログはPOP筆者の所属する周辺の人々にも有名らしいので、POP完成版への期待という意味も込めて簡単に(?)思うところを述べました。
POP完成版に期待するところを要約しておくと、フィロソフィーの根源たる基本原理の扱いについてきちんと考え直すこと、それを踏まえて個々の理由付けについてきちんと考え直すこと、多様な考え方がありうることを理解したうえで、それぞれについてきちんと評価すること、といったところです。要するにほぼ全面書き直すべきだと僕は思うのですが、それは作成者の勝手なので、まあ頑張ってくださいというところです。

ちょっと長くなりすぎましたが、一応おまけということで。

ディベート理論関連の記事 | 19:27:33 | トラックバック(0) | コメント(2)
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