愚留米の入院日記
日当たり良好の某法科大学院既習病棟を退院した法務博士の日記。しかし内容はほとんど趣味のディベートの話
論題肯定的現状における「決議の利益」論の可能性について
現在最後の定期試験期間ですが、一応卒業に必要な科目数を受けおえ、あとは保険的な科目を1つ受けるだけとなっています。長かった入院生活もいよいよ終わり、手術(新司法試験)を待つばかりです。入院患者は退院してからが本当の治療なのです…。

さて、そんなわけで若干余裕が(?)あるので、今季JDA論題に関連して思いついたことを簡単に書いておくことにします。

今季のJDA論題は、「日本政府は原則全ての企業に対してワークシェアリング又は同一労働同一賃金の原則を推進すべきである。」というものです(こちらを参照のこと)。

ここで、以下のようなニュースがあるそうです。

2009年2月12日03時09分 読売新聞
政府・与党は雇用対策として、従業員の労働時間短縮で新たに失業者を雇う形態の「ワークシェアリング」(仕事の分かち合い)を実施する企業に財政支援する方針を固めた。この形態は労使双方の慎重意見で導入が進んでいないが、政府は失業者救済に有効な手段だと判断し、財政支援で導入を促すことにした。[中略]新たな助成制度導入に際し、新規雇用者の賃金を著しく引き下げ、助成額との差額獲得を狙う悪質な企業が出ることを防ぐため、企業に「ワークシェアリング計画」策定を義務づけ、ハローワークで審査するなどの案も浮上している。与党は「新雇用対策プロジェクトチーム」(座長=川崎二郎・元厚労相)で、政府側と詳細な制度設計を詰める。


これは、論題のうちワークシェアの推進が既に進んでいるということですから、現状がTopicalであるという状況になっていることを意味します。このような場合、メリットやデメリットをどう処理すべきかという点につき、ここでも過去に「事例で学ぶディベートのルール第3回」で議論したことがあります。

そこでは、論題が既に行われていることを理由にメリットの内因性を攻撃する議論は、論題を否定する理由にはならない(擬似内因性)という考え方の紹介と、それに対する批判(Shouldは現状と比較したときの望ましさを指すから、現状がTopicalなら内因性はない)、そして私見として『ディベートにおいてはつねに論題に規定された政策のある世界とない世界を比較するのであり、肯定側は常に「論題の全部が採用されている世界」を、否定側は常に「論題が採用されていない世界」を支持する』という考え方を紹介しました。
この内容について、前に書いたTopicalityの捉え方との関係で説明すると、以下のようになります。

前々回からの2回の記事及びコメント欄での議論で示した僕の見解は、「Topicalityは試合中に提出されたシステム(プラン群)の帰属を定めるための議論である」というものでした。すなわち、AffとNegはそれぞれプランを出したり現状維持を支持したりするところ、それらの立場(システム)のうちどれが望ましいかという問題と、そこで望ましいとされたシステムは論題を支持するものであるのかどうかという問題は別であり、Topicalityは後者を問題とする場面で働くということです。ジャッジは試合中に出た一番いいシステムを選び出して、そのシステムが帰属する側(AffのオプションなのかNegのオプションなのか)に対して投票します。一般的には、Aff/Negが支持する立場に投票する、すなわち「Affのシステム」「Negのシステム」のようにして側とシステムの関係を連動させる考え方が取られる(従って、Affの出すプランはTopicalでなければならない、という考え方に傾く)のでしょうが、僕のような考え方も理論的にありえないとは言えないでしょう。
このような僕の見解を前提とすると、現状がTopicalというのは、通常なら現状がNon topicalだからNegのオプションになるということに対し、現状がAffのオプションになっているというだけのことになります。これは、Affの側からTopicalityで攻撃するという構成がありうることを意味します。すなわち、Negが現状維持で(Counterplanを出さずに)いる場合に、Affから「現状はTopicalなのでNegの出しているシステムは論題を否定できていない(肯定している)」と攻め立てる議論です。システムと側を切り離すのですから、TopicalityはNegが出す、といった固定された考え方にならないこともまた当然でしょう。

ここで、僕が『ディベートにおいてはつねに論題に規定された政策のある世界とない世界を比較する』というのは、ディベートの判定において興味の対象は望ましい政策が論題を支持するものかどうかということで、どちらの側がシステムを出したかということは本質的ではないという意味を持ちます。そして、『肯定側は常に「論題の全部が採用されている世界」を、否定側は常に「論題が採用されていない世界」を支持する』というのは、肯定側を勝たせるオプションと否定側を勝たせるオプションの分け方(側の帰属の決定方法)について述べていると理解することができるでしょう。
過去に論じた内容も今の着想と関連しているということを言いたいだけなので、別に分からなくても構わないのですが、要するに「現状が論題採択を支持している場合の処理はメリット・デメリットの要件(内因性や固有性)で考えるのではなく、システムの帰属の問題で処理すればよい」ということです。

さて、今日の本題はここからです。
以上のような考え方にもかかわらず、Affは現状がTopicalだと負けるという議論はありえるか、という問題を提起することができます。これも前に紹介したものですが、瀬能先生は『すべき(Should)」は何かと比較してそれが望ましいということを意味するのであって、論題が望ましいというのは、論題に規定された政策が採用されていない状況と比べてそれが「望ましい」という意味であるから、現状が論題を支持してしまっている以上、比較対象と支持対象が同一化してしまっており、もはや「すべき」とはいえない』といった趣旨のことを述べ、擬似内因性の考え方を否定するようです。
このような理解について僕は支持できないということはその後で述べているのですが、それをもう少し補足しておくと、次のようになります。すなわち、Shouldが比較している対象は「論題に規定されている政策が採用されていない状況」そのものであって、現状が論題の政策を採用しているのだとすれば、それは採用していない状況に比べて望ましいと考えることはできるでしょう。これに対する瀬能先生の反論は「そこで比較対象とされているのはどういう社会なのか。100年前の世界など、任意の『論題の政策を採用していない状況』を想定できるので、一義的でない。だから、常に『現状との比較』を考えるべきだ」というものですが、これは比較対象とすべき内容を十分整理できていない故の反論でしょう。政策の望ましさを議論するための「比較対象」は、「取られている政策」であって、それが遂行されている社会状況とは区別されます。確かに、(おそらく)江戸時代の日本も、10年前の日本も、ワークシェアリングは推進されていません。しかし、我々が比べるのは「江戸時代の日本」でも「10年前の日本」でもなく、「ワークシェアリングが推進されない(これ以降の)社会」です。これは十分一義的といえるのではないでしょうか。上で紹介したニュースとの関係で言えば、政府が財政支援もせず、プロジェクトチームも作らないという状況を想定すればいい(ニュースを忘れればよいだけ)のですから。

しかしながら、瀬能先生は次のようなこともおっしゃっていました(伝聞ばかりですいません)。「『すべき』というのは、今していないからいえることだろう。既に勉強している人に対して『勉強すべきだ』というのはナンセンスであろう」
これはもっともな指摘ですが、もう少し詰めて考える余地があります。『すべき』というのは、当事者の中で使われる場合と、対象を客観的に評価する場合で、異なりがあるのではないでしょうか。先ほどの例で言えば、既に勉強しているAくんに説教しているお母さんがいう『すべき』と、一般論としてAくんがどのように生活すべきかを論じる場合の『すべき』では、感じる違和感が違ってくるはずです。既に勉強しているAくんを評して『Aくんは勉強すべきだ』というのは、そこから「Aくんは現在望ましい状態にある」という評価につながりこそすれ、特におかしな語法でないように思われます。そこでは、勉強していないAくんというものを想定し(これは常に想定可能でしょう)、それと比べてAくんのあるべき姿を『すべき』という言葉で表現しているわけです。しかしながら、既に勉強しているAくんに対して直接『勉強すべき』という場合には、それはAくんに対して勉強するよう促す意味合いを含むので、既に勉強しているAくんに対してナンセンスな発話であることは否めません。
*この辺の語法については全く専門外なのであくまで感覚的なものです。ご了承ください

以上のような区別が可能だとすれば、この問題は次のようにまとめることができます。「意思決定を促す文脈での『すべき』については、既にされている意思決定について用いることはできない。しかし、主体の状態を客観的に評価するための『すべき』は、その主体が当該行為を行っているかどうかに関係なく使用することができる」
これをディベートの論題で考えると、「その政策を(日本は)実施すべきである、という議論の場合、既に政策をやっている場合には『すべき』というのはナンセンスである。しかし、その政策を(日本が)行うべきかどうかを客観的に評価する場面では、その政策が既にされている場合でも、『すべき』と言うことは可能である」というようになります。ですから、この問題は、ディベートの試合が①政策主体の意思決定を行う場として捉えられているのか、②政策主体のあるべき行動につき議論する第三者的な場として捉えられているのか、ということを考えることで解消することができます。

①のように考える場合、既にされている政策について重ねて実行を決議することは、意味のないことになります。この場合、その論題は「意思決定の決議」であり、現状が既に決議を実施している(現状がTopical)のであれば、改めて決議する意味はない、すなわち「決議の利益はない」ということになります。
(「決議の利益」というのは、民事訴訟における「訴えの利益」という訴訟要件を参考にした用語法です。訴訟の場合、その紛争を裁判で解決するに足る理由がない場合、訴えの利益がないとして訴訟は却下されます。例えば、自動車免許の効力停止処分を受けたあとでこの処分の取消を争う訴えを提起した場合に、処分停止期間を過ぎ、さらに一年間無事故無違反で違反点数が消えてしまった場合、もはや効力停止処分を取り消したのと同じ状況になっているわけですから、訴えの利益が否定されます。最判昭和55年11月25日)
一方、②のように考える場合、ディベーターは第三者的立場から政策主体の行動について論じ、ジャッジも客観的に評価するだけですから、政策主体が今どうしているかということとは別に、評価の問題として論題を議論することはできます。ですから、現状がTopicalであるとしても、Affが勝つことには支障ありません。

問題は、ディベートの試合は①と②のどちらに近いかということです。これは「ジャッジはどういう立場で審査を行うか」という観点でよくフィロソフィーに書かれたりするもので、理論的にどちらでないといけないというものでもないでしょう。ただ、側とシステムを切り離して考える僕の立場は②に親和的であり、一般的にとられていると思われる、各チームは自分の立場を一貫させるべきであるという、側とシステムを連続的に捉える見解からは、①のように考えることが自然でしょう(それぞれ逆もありうるとは思います)。
この問題を議論するに当たっては、論題の文言も参考になります。これは特に英語ディベートでは重要かもしれません。というのも、JDAの推薦論題では”Resolved: That the Japanese government should …”というような論題になっているのですが、どうも英語ディベートの試合では”Resolved: That”というのは文法的におかしいというTopicalityが出ているらしく(*) 、それとの関係でJDA推薦論題はResolved: Thatではじまり、NAFAが実際使う論題はJapanese government shouldではじまるというズレが生じているからです。

(*)このブログの愛読者(?)には言うまでもないでしょうが、僕はこれはナンセンスだと考えています。そもそもこの語句は決議を表す定型句であって(アメリカの論題でも使われています)、そんな部分の文法部分をどうこう言うことには意味がありません。POPの記述では「インビテの内容にチームは同意している」とありましたが、そうだとすれば、かかる定型句の意味も理解した上で試合をやっているわけで、わざわざそんなところにケチをつけるというのは合意に反するのではないかということも言えるでしょう。何にせよ、こんなところに文法書などを持ち出してTopicalityと称するケチをつけ、それを「確かにそうだ」と考えたりするのは、ディベートの一般的なお約束(英語の大会でスタッフの部屋をGHQとか呼ぶのと本質的に同じ次元でしょう)を分かっていないか、あるいは一般的感覚(意味のある議論って何だろう、ということ)からズレているというほかありません。まぁ、このTopicalityがあまりに強すぎるということでNAFAはResolved: Thatを削除することにしているわけですが、それ自体は別に構わないものの、論題から削除しないとResolved: Thatは処理できないと本気で思っているのだとすれば、これもやはりズレているというべきでしょう(もちろん、こんなTを取る変なジャッジが多く、真面目に対応するのが面倒なのでだったらResolved: That消しちゃおう、という機能的な動機は十分ありうるし、それは賢い選択なのかもしれません)。

Resolved: Thatから論題が始まる場合、これは決議を意味していると考えられますから、この場合ディベートの試合は上記①の考え方に沿って理解すべきことになります。一方、Japanese government shouldから論題がはじまるのであれば、これは決議など特別な状況を想定しておらず、単にJGがどういう風に振舞うのが良いかということをディスカッションする場としてディベートの試合を捉えることができるので、②のような考え方に親しむものということができます。
NAFAがここまで意図して論題の文言を変えているということは恐らくないのですが、あえてJDAの推薦論題からResolved: Thatを削除しているという事実の評価として、決議を争うものでないということを読み込めば、現状がTopicalなので「決議の利益」が欠如しているという議論は成り立たないという結論につながるでしょう。

一方、日本語の論題は①と②のどちらでもありうるところで、ディベートの試合の性質(何をモデルとしているか)についての理解によっては、決議の利益の欠如を独立の投票理由とし、現状がTopicalであることの証明によりNegが勝つという議論も十分ありうるでしょう。少なくとも、訴訟法的な考え方からはそのような結論がかなり自然に導かれます。
ただ、AffがTopicalな現状よりもさらにワークシェアを推進するというプランを出し、それによってなお決議の採択を肯定することが可能ではないかという議論もありえます。決議としては同様かもしれませんが、決議の採択というのはその細目も含めてはじめて認識できるものであり、細目たるプランが現状と異なるのであれば、その肯定を通じて決議を肯定できると考えることも可能かもしれません。あるいは、今回のような論題であれば、「推進すべき」という語句の意味には幅があり、現状のあり方よりさらにワークシェアを推し進める政策は、既に推進している現状をさらに推し進める「新しい決議」であるから、決議の利益はあるという構成もありうるでしょう(こっちの方が自然か)。

以上、現状が論題を肯定している場合の処理方法につき、前回の内容との関係での説明と、「決議の利益」という概念の提案でした。
例によってアイデアの段階なので、ご意見などあれば幸いです。

[2/14追記]そういえば同じようなことが通論に書いてあった気がすると思い読み直してみたところ、裁判をモデルとした司法的パラダイムを取れば擬似内因性の議論は訴えの利益を欠くものとしてAffを却下する理由になるという記述がありました(伊豆田・蟹池・北野・並木『現代ディベート通論』35頁[蟹池](ディベート・フォーラム出版会、復刻版、2005))。というわけで、上記の記述の意義は、政策形成パラダイムにおいても同様の帰結を導きうることを提案したということになります。
どうやら僕の見解全体が司法的パラダイムとかなり似ているようで、入院生活に毒された結果だと思われるのですが、推定に関する考え方は異なるように思われます(これは裁判と政策論争は異なると考えるからです。拙稿参照)。ディベートの全てが裁判とのアナロジーで語れるわけではないし、語る必要もないとは思いますが、証明責任論やその他主張立証の規律などはディベート理論などより訴訟法の方がはるかに蓄積の多いものであり(まあ同じ法文で飯食ってる人が多いので当たり前です)、ディベートにうまく移植できる分は、参考にしていっても損なものでもないし、それは司法的パラダイムとして新しい枠組を提案しなくても十分可能だと思う次第です(司法的パラダイムについては元の論文を読んでいないのでコメントできません)。
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