今回は、フィアットなどの理論に関係して、実際見られたプランについて考察することにします。
まずは、以下の事例を見てください。
【事例】
「日本は国会を一院制にすべきである」という論題で、肯定側が「一院制に関係する部分以外の憲法改正は行わない」というプランを提示した。
これに対し、否定側はデメリットで「一院制導入のためには憲法改正が必要になるが、国会議員の中には憲法改正に乗じて『その機会に他の条項も見直そう』ということで、憲法9条などの改正も提案するものがおり、それにより改正がされると良くないことがおこる」といった趣旨の主張をした。
ここで、肯定側の出したプランの効力が問題となってきます。というわけで、問題点を順に見て行きましょう。
1.フィアットについて
フィアットとは、議論を行う前提として、政策主体が行為を実行することを仮定するというものです。ディベートでは政策の当否を論じるのですが、そのためには当該政策が実行された状況を想定して議論する必要があります。ですから、「自民党も民主党も一院制なんて望んでないから、一院制にはならない」といったことは脇において、一院制になったらどうなるかを考えるということです。
もう少し確認しておくと、フィアットはあくまで実行を仮定するだけですから、実行することで生じる効果について何かを保障するものではありませんし、プランの実行に反対するものの動機を変えてしまうという効力も持ちません。例えば、フィアットにより参議院廃止を仮定するとしても、参議院議員が不満を持ってしまい暴れだす(!)可能性は排除されないということです。
また、フィアットは不可能な政策を可能にすることも認めません。一院制の実現は物理的に可能ですが、もし論題が「日本はタイムマシンの製造を行うべきである」としても、せいぜいフィアットされるのは「日本がタイムマシンの製造に向けて研究予算などを組む」といったレベルであって、現在の科学技術で実現不能な「タイムマシンの製造」が可能になるものではありません。
さて、このフィアットですが、果たしてどの範囲のプランに認められるのでしょうか。この点はいろいろな考え方があり、最も狭い考え方では、論題の是非を議論するには論題が実行された状況だけを仮定すれば足りるということで、論題を直接実行するプランにのみフィアットを認めることになります。しかし、多くの論者は、肯定側のプランスパイクなどにもフィアットを肯定するのでしょう(否定側のカウンタープランにも認めるのが多数派でしょう)。これは、政策の当否を考えるに当たっては、政策を実施するうえで有益な付随的政策をも仮定することが必要であるということから正当化されます。否定側にフィアットを認める点についても、それが論題の吟味に有用であること、また肯定側にフィアットを認めることとの均衡から支持されると考えられます。
一方、論題と無関係な(論題実行に通常付随しない)プランについては、フィアットを認める必要がないと考えるのが多数説であるように思われます。よく、通常付随性を欠くプランは提出できないと言われますが、これは「そんなプランにフィアットを認める必要はない」ということでもあるのでしょう。もっとも、私見では、政策の検討に必要かどうかは結局のところ議論の結果判明するものにすぎず、議論の結果どうでもよいプランだったとしたら判定で無視すればよいだけなので、提出時点で通常付随かどうかを判断する必要もなく、したがってフィアットの範囲を制限する必要もないと考えます(おそらく少数説なので気をつけましょう)。
また、上記の説明とは別個に、フィアットの範囲は「政策主体」のアクションに制限されているという考え方があります。政策主体のアクション(政策)の当否について議論するのに、それ以外の主体のアクションを仮定する必要はないばかりか、そのような仮定は不当であると考えられるからです。日本の政策を論じるに当たって、アメリカが何らかのアクションをとることを仮定してしまうのはおかしいでしょう。これが主に問題となるのは、否定側が出す「肯定側と全く同じ政策を、日本政府ではなく地方自治体など別の団体にやらせる」カウンタープラン(今季高校論題では不可能ですが…)などの変り種議論についてです。
さらに、フィアットの意義が「論題の当否を検討するための前提として必要である」ということにあることから、その意義を超えて不当にフィアットを行使していると考えられる場合には、フィアットの濫用としてフィアットを認めないという処理もありうるでしょう。これも一院制の例ではありませんが、男性の育児休業義務化論題で「特定人A以外に義務化する」などのカウンタープランを出す場合、そのような例外についても全て仮定することが許されると肯定側の負担が過度に重くなるため、否定側にはそのようなフィアットを認めないという処理がありえます。
*この点、「フィアットの濫用」なる概念は恣意的だという批判もあるかもしれないので、注を加えておくと、これはディベートジャッジのあり方をいかに理解するかということによるものだと思います。僕の理解を分かりやすい言葉で表現すると、ディベートジャッジは社会的に真っ当な議論を高く評価するようであらねばならないと考えています(ここでいう「真っ当」とは「常識に沿った」という意味ではなく、公平性などの手続的観点も含めて説得的なものといえるかどうかという意味です)。これは、ディベートが実のある形で行われることを志向する、という意味でもあります。
もちろん、フィアットの濫用があったかどうかという点の判断については、選手の指摘があることが望ましいと考えますし、よほどのことがない限りジャッジの専権で処理してしまうのは行きすぎだと思います。しかし、「特定人A以外に義務化する」といったカウンタープラン全てに対応する必要があるとすれば、肯定側は非常に不利な立場に立たされうるし、現実でも「育児休業を義務化すると困る特定人がいる」という事情があったとして、そのような状況を想定した立法はされないでしょう。このような議論は端的にいって不毛であり、そこに議論すべき正当性があるという論証がない限り、ジャッジにより棄却されても仕方ないと考えることができるのではないでしょうか。
上記のような考え方が嫌だという方もいるでしょうが、現実の世界での議論は僕のような考え方でされているはずですし(実際にはもっと恣意的で不合理だと思います)、ディベートではそう考えるべきでない、とも言い切れないでしょう。ディベートでは「合理的な」議論が評価されるべきですが、そこでいう合理性は、形式論理に沿ったものである必要はないし、現実での妥当性を無視することを意味するものでもないはずです。
また、僕のような考え方が「自由な発想」を阻害するという批判もあるでしょうが、僕は決して議論に制限を設けているのではなく、議論の正当性をきちんと説明するようハードルを上げているというだけの話です。例に出した「特定人以外義務化カウンタープラン」については、出す側も狙って出しているわけで、その姑息さ(!)や現実での不自然さは百も承知のはずです。であれば、それにもかかわらずディベートで議論すべき意義について論証が要求されたとしても、何ら不意打ちではないし、不当な要求ともいえないでしょう。自由な発想をめぐらせることと、それを通用するレベルまで練り上げるということは別物です。そして、それはディベートについてどのような考え方に立つとしても必要な区別です。
ここまでの議論は、ディベートをそのようにしか理解すべきでないという主張ではありません。ディベートを通常の議論方式とは異なるものと捉え、結論の妥当性より論理性を重視するあり方も成り立ちうるでしょう。しかし、僕の立場がいわば一つの「常識」に立脚しているのと同様、そうした立場もある別の「常識」ないし「前提」に立脚しているということは意識されるべきですし、またそこにも正当性の論拠が要求されるべきです。僕が上記のような立場を採っているのは、現実の議論のありようがそうであるというところに基礎付けられますし、もっと言うなら自分が専攻してきた学問分野の影響を受けています。「我々のディベートコミュニティではこうなっている」とか「このように考えるのが論理的である」といった理由になっていない理由によるものではなく、自分なりに望ましいと思われる考え方を「選択」しているということです。
ディベートという競技はその構造上も扱うテーマからしても、相対的な確からしさを求めるものであり、何かしらの真理を求めるものではありません。もちろんそのことがディベートの価値を減じることは些かもないのですが、そのような理解に立てば、ディベートにおける諸概念の運用においてはその「趣旨」を考察した上で、より目的に沿った解釈を展開することは許されるし、またそのような選択が望ましいと考える次第です。
注が長くなりすぎてまたいつものようになってしまったのですが、重要なことは、フィアットは論題の当否を検討するための前提として用意されているということ、その効力は論題の政策主体が行為を実行に移すことを仮定するにすぎないということの2点です。これを踏まえて、今回の事例を検討していきましょう。
2.事例検討
さて、冒頭の事例では、肯定側は「一院制に関係する部分以外の憲法改正は行わない」というプランを主張しています。一応確認しておくと、一院制実現のために憲法改正を行うことはフィアットされています。「国民投票は政策主体たる日本のアクションに含まれるのか」という屁理屈もありえますが、先述したフィアットの趣旨や、日本国の主権者は日本国民であってその代表が立法府及び行政府首長を務める点から、国民投票の通過にもフィアットを認めてよいでしょう。
では、それを超えて、「一院制に関係する部分以外の憲法改正は行わない」という点にフィアットを認めてよいでしょうか?
ここからは皆さん自身に考えてほしいのですが、私見を述べておくと、このようなプランはフィアットの問題ではなく実現可能性を満たさないのではないかと考えています。理由は以下2点です。
第一に、日本国憲法の解釈論からすれば、憲法改正を禁止することは理論上許されない(憲法改正の限界)と考えられます。もっとも、憲法改正の限界という論点は、主に根本規範たる平和主義や国民主権に反する改正や、改正手続を緩和する手続的改正などについて議論されるのですが、憲法改正を不可能とする改正についても、現行憲法の所期するところではないでしょう。
第二に、上記のような入院患者好みの議論は措くとして、プランを素直に読むと、「憲法改正を『行わない』」というように、憲法改正にチャレンジすることを認めないことを志向しているように思われます。すなわち、このプランの名宛人は、憲法改正を行おうとする議員だったり国民だったりします。これをどのように実現するのでしょうか。法律により憲法改正に向けた行動を禁止することは、改正手続を定めた憲法に反するので常識的にも許されないでしょう。また、憲法改正を考えている人々の動機を抑圧したり消し去ったりすることは、技術的にも不可能でしょう(洗脳できるのかな?)。
なお、フィアットの問題と考える場合も、行為主体は「日本」なので、政治家や国民に対して憲法改正をあきらめるように強制することはフィアットの範囲を超えています。また、フィアットの趣旨からしても、このようなプランを認める必要はないでしょう。
もっとも、このプランが「一院制のための改正と抱き合わせでの改正を禁止する」という意味で有効であるという見解もありそうですが、少なくとも本事例での否定側の主張は「憲法改正に乗じて」他の改正に向けて動くということであり、一院制と一緒に採択されるといったものではありません。あくまで、一院制導入によって刺激された「別個の」行為であって、これを防ぐことは、フィアットの理解からも、実行可能性の見地からも、認められないと解すべきでしょう。
「一院制のための改正と抱き合わせでの改正を禁止する」という意味のプランであれば、わざわざ肯定側が出す必要はないはずです。肯定側が主張しない以上、一院制導入以外のアクションが改正手続にかけられることは(プランの上では)ありません。もし否定側が「一院制と抱き合わせで変な改正がされる」という主張をしたいのなら、そのような抱き合わせアクションが不可避であるという証明をすべきです。それがされた場合に「一院制のための改正と抱き合わせでの憲法改正を禁止する」というプランが有効かどうかは別個の問題ですが、このようなプランを法律によって達成できると思われないことは上述の通りであり、やはり無効と解するのが妥当ではないかと考えられます。
このような私見に対して「では憲法改正を伴う論題では常に改憲DAが出ることがありうるのか」という疑問があるかもしれませんが、それは仕方ないことだというほかありません。その帰結を認めるとしても、後述するように改憲DAはしょぼいので、フィアットなどの概念を持ち出して処理する必要はありません。こうしたGeneric DA(どんなメリットに対しても出てくるデメリット)で最も有名なものとして、望まない政策をフィアットで強制されるので官僚がキレて混乱が生じるという「官僚サボタージュDA」がありますが、これが不当だから官僚を真面目に働かせるための無茶なプランにフィアットを認めようとかいった議論は管見の限り知りません。嫌な政策を強制されて官僚がサボる(実際はそんなことないでしょうけど)のも仕方ないし、憲法改正で変な改憲が持ち出される可能性も仕方ない、ということです。そして両方とも、ディベートにおいて決定的に重要な議論になるかというとそんなことはなく、放置しておいても公平性などを害することはありません。
3.まとめ
以上の検討を通じて、フィアット概念やプランの実行可能性について少しでも理解が深まったとすれば幸いです。やたら具体的な事例を出してしまいましたが、これを取り上げたのはあくまでフィアットなどの説明をするためであって、他意はありません。
実際のディベートで改憲DAが出ることもありますが、わざわざプランで防止しようとすることはないでしょう。そもそも改憲DAは、①論題採択に固有に改憲アクションが誘発されることがあるか、②国民投票で当該改正が支持されるか、③そもそも当該改正は本当に悪いことなのか(9条改正=悪、という簡単な問題ではありません)、といった問題点を含み、普通のデメリットに比べて格段に実入りの悪いデメリットだといえます。そのあたりの不備をきちんと指摘できれば、ほとんどの場合否定しきることができる議論です。
今季論題で憲法改正という事実そのものが問題となるように考える選手もいらっしゃるようですし、それ自体を非難する趣旨は全くないのですが、ディベート的には上記のような問題がある議論ですし、憲法学の見地からしても、「憲法改正」自体を取り立てて問題とすることはさほど意義があるとは思われません。むしろ改正という観点から問題とすべきは、現行憲法が二院制という制度に何を期待しており、それを改正することが憲法上の権利及びその保障手続をいかに変えるのか、という実質的な論点です。要するに「普通に二院制・一院制を議論しろ」ということなのですが、選手の皆さまがそのような難問に正面からぶつかり、素晴らしい議論を展開されることを願っております。