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アカデミックディベーター

Author:アカデミックディベーター
日当たりの良い某法科大学院を2009年3月に卒業。
ライフワークである競技ディベートについてぼちぼち書いています

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大会に向けたアドバイスと不正資料についての注意
今日はタイトルの通り、大会に向けて選手の皆さんに役立つのではないかという小さなアドバイス2つと、(これが本題なのですが)不正引用につながるまずい資料があるので注意を喚起するための文章を書きます。

ちなみに最近の僕自身のディベート関連の動きとしては、東海支部の練習会にたまに顔を出したり、全国出場が決まった某中学校にディベートの指導にいったりという感じです。ディベート指導のあり方についていろいろ思うところもあるので、また後日まとめてみるかもしれません。

それでは本編です。

1.質疑のポイント
試合を見ていると、質疑パートの意義について十分理解できていない人が少なくないように感じます。質疑は難しいので仕方ない面もありますが、質疑が上手にできると反駁がとても楽になるし、コミュニケーション点の観点からも質疑で好印象を与えるべきなので、ポイントをいくつか書いておくことにします。

(1) 質問事項は絞っていい
立論全部にわたって質問しないとダメであるかのように思っている選手がいるように感じられるのですが、実際はそんなことありません。むしろ、聞きたいところにポイントを絞って質問するべきです。まんべんなく質問するより、ポイントを絞ってそこを深く聞いていく方がよいです。
例えば、今季高校論題の否定側質疑であれば、デメリットの起点として、プランの要件について時間全部を費やしてもよいのではないでしょうか。

(2) 「答えが大切な質問」と「答えはどうでもいい質問」の2つがある
質疑には大きく3つの目的があります。1つ目は、自分たちが聞き取れなかったり、理解できなかった事項を確認すること。2つ目は、反論の前提となる事実を確認すること。3つ目は、相手の弱点をアピールして反論の前出しをすることです。

このうち、前2つの目的については、「相手から」答えをもらう必要があります。ダメな質疑だと、質疑者が勝手に自分の見解を押し付けて(時には恫喝に近い形で!)「はい」などの言質を取りにいったり、黙りこくるのでさっさと次の質問に行ってしまったりしますが、これは改めるべきです。前者については、そのようにして得られた答えをジャッジが信用するはずありません(いわゆる「自白の強要」)し、それどころかコミュニケーション点を下げるだけの結果に終わります)。後者についてはいうまでもなく目的達成に失敗しています。答えがいらなかったのなら最初から聞くなってことです。
答えを必要とする部分については、自分たちの望む答えが得られるような質問を工夫する必要があります。この辺を書くと長くなるので詳細は省きますが、例えば証拠資料を弾劾したいのであれば、相手に証拠資料を読んでもらった上で、問題となる部分をとめて「さっき~ということを言ってましたね?」と聞くなどの方法は、印象にも残るし効果絶大です。あと、質問文は短く、一つの質問で一つのことだけを聞こうとする姿勢なども大切です。こうやって努力を尽くしても相手が無言だったりしたときには、「分からないということでよろしいですか?」といった確認をして次に進めばよろしいのです。そこまでしていれば、ジャッジも納得してくれるはずです。

これに対して、相手の弱点をアピールする目的のためだと、答えをもらう必要は必ずしもありません。むしろ、質問に上手く答えられない立論者の態度をジャッジに見せることが目標となります。答えがほしかったけどもらえなかったという場合には、このような質問に切り替えるという選択もあります。
例えば、相手が読んだアンケートの出典(誰が調査したか、など)が不明であったが、実は自分たちはその出典や中身を知っており、その中身に基づくカードチェックをしたいという場合、カードチェックの前提として相手のアンケートの出典を確認する必要があります。しかし、相手が本当にその中身を知らなかった場合などは、答えをもらうことができません。そのような場合には、出典も分かっていないのにアンケートを読むなんて…という方向で責めるようにシフトし、「ではあなた方は誰が調査したか分からないアンケートを引用したのですか?」「どうしてそこに理由があると思えるのですか?」といった質問を適度にやればよろしいのです。
もちろん、この質問について立論者がどう答えるかは関係ありません。これらの質問はジャッジに対して「相手方は出自不明のアンケートを引用しているのですよ!」「こんなの信じられますか?」と言外に訴えかけることに意味があるのです。そして、反駁ではこれを踏まえて端的に「どういうアンケートか良く分からないので信用できません」と言えばよいというわけです。

(3) 攻撃的な質疑・応答は嫌われる
これはどちらかというと応答者に多いのですが、相手の言い間違いなどを殊更に指摘する人が少なくないように思われます。例えば「立論の発生過程3で~と言ってましたが…」「それは発生過程4です (`ヘ´)」といった感じのやりとりです。これは人によって感じ方に差があるかもしれませんが、僕はこういうやり取りを聞くと「この応答者にはコミュニケーション点4点以上はつけたくないなぁ、他に何かあったら2点とかつけるか」なんて思ってしまいます。
質疑応答は、相手をやりこめる場ではありません。応答をする立論者も、相手にやられてなるものかという意識でいるのではなく、相手に自分たちの見解を説明してあげるのだという気持ちで接してください。上の例にしても、ラベリングが間違っていたとしたら「あ、発生過程の4のところですね、確かに言ってます。」とかいう感じに応答すべきです。こういうつまらないことでコミュニケーション点を下げたり、ジャッジに嫌な思いをさせる必要はどこにもありません。

2.反駁は落としどころを考えて作る
最近でもまだ、「よって相手のメリットはゼロです」などの極端なまとめをする反駁者が散見されます。そもそもが「エビデンスも読まずに反駁とな!?」的なしょぼい反駁だったりするという話は措くとしても、きちんと反駁すれば相手の議論がゼロになる、というような単純な話もなかなかありません。
例えば、高校論題で「どんな痛みでもとる技術はある」と反論したところで、全ての痛みが現実的に取れるとまで証明することは難しいです。ですから、否定側が痛みの議論について満足すべき目標は、「これからどんどんよくなっていく」とか「完全に取れないとしても、死にたいほどの苦痛は緩和できるはず」といったところです。第一反駁では「完全に取れるはずだ」と突っ張るにせよ、最後はその辺に落ち着くのですから、第一反駁時点のまとめでも「ゼロです」というのではなく「安楽死を認める必要性はありません」といった表現に改めてみてはどうでしょうか。それだけでも、ジャッジに与える印象はかなり違ってきます。

3.不当引用の資料についての注意
先日紹介したように、僕の母校がHPで公開している立論に不当引用のものがありました(NADEサイト参照)。
これに加えて、同じHPの否定側立論にもう一つまずい資料がありましたので、注意を喚起しておきます。本来ならHPを修正すべきところ、現在そのような措置が取れないので、このような形で注意するにとどまることをお許しください。

問題があるのは、同立論の深刻性3点目にある資料です。これは、以下のような原文から一部を切り出してきたものです(原文は坂井昭宏「自然の流れと生命の終止-殺すことと死なせること」、坂井昭宏・松岡悦子共編『バイオエシックスの展望』所収の論文のようです)。

積極的安楽死に対する抵抗の支柱は、「くさび」論法あるいは「滑りやすい坂」論法にあった。すなわち、死の介助の特定の行為はある場合には道徳的に正当化されるかもしれない。しかし、「殺す」という医療慣行を認可することは、乱用と誤用という深刻なリスクを伴うから、結果として利益よりも害悪を社会にもたらすだろう。むろん、自発的安楽死の法制化後、ただちにこうした負の結果が生ずるというのではない。時を経て、徐々に増大するだろうというのである。このように、「滑りやすい坂」論法は道徳的抑制の進行的侵食に対する思弁的予測に依存する。この予測が正しいことは経験によって、我々の社会的実践経によって実証されなければならない。
医師の介助による自殺と自発的積極的安楽死の法制化から悲惨な結果が帰結するなら、こうした慣行は法律で禁止されるべきであろう。しかし、悲惨な結果が起こるであろうという証拠は十分なのか。我々がその乱用を制御できないと考える十分な理由はあるのか。T・ビーチャムの指摘するように、最近の安楽死をめぐる議論では、この種の経験的な問題に何らかの実証的な回答を与えることが重要になっている。こうした観点から見るなら、オレゴン州の試みに非寛容であるべきではない。それは「リスクと利益の双方について我々によい視点を与える社会的試み」(ibid., p.40)だからである。事実、尊厳死法施行一年後の州当局の報告では、それを「乱用する動きをまったく発見できなかった」という。(http://www.so-net.ne.jp/medipro/jamic/bn/9906/wnf/index.html)
同論文より。下線部はHPの立論で引用した箇所


文単位で引用すべき原則を逸脱している(「しかし」の削除)こともさることながら、この引用方法は、著者の意図に反する部分を選択的に引用した上で、著者が必ずしも支持していない見解を著者による支持があるものと誤解させる形で示している点で、不適切な省略に該当する不正引用にあたると考えられます。
すなわち、下線で示した引用部分は、著者の言うところの『「滑りやすい坂」論法』の見解を要約したものの一部であって、著者自身はそのような見解を採っていません。事実、著者はその後で「この予測が正しいことは経験によって、我々の社会的実践経[原文ママ]によって実証されなければならない」としていますし、オレゴン州における、予測の誤りを疑わせる報告が紹介されていたりします。

というわけで、HPの立論にある当該引用部分は、証拠能力が否定される可能性が高い資料だと言えますので、使用を考えているチームの方々は注意してください。
今年のオンラインディベートの立論にも、おそらく四日市高校ディベート部HPの立論から引っこ抜いたのであろうと思われる同部分を使用したものがありましたが、全国大会ではそのようなことのないことを願っております。

僕は当時の立論作成について、リサーチを担当していないので不備に気づきませんでしたが、(これは僕の高校現役選手時代もそうでしたが)原典に当たるという習慣が確立していなかったため、このような不当引用が出てしまったと考えられます。
皆様におかれましては、ネット上でよい資料を見つけたとしても、必ず原典に当たってから使用してください。不当引用の責任は、いかなる場合であっても、引用したチームが証拠排除ないし反則処分という形で負わなければならないのです。そんなつまらない負け方で大会を去るような無念は味わってほしくありませんので、重ねて注意のほどよろしくお願いします。


資料引用の方法について追記(8月3日)
コメント欄にて匿名で下記のような質問をいただきましたので回答させていただきます。
なお、質問に関しましては、(ペンネームなどでも結構ですので)公開のコメントで書き込んでいただけますと、コメント欄でお返事できて便宜ですので、何か特別な事情がなければそのようにしていただけますと幸いです。

(質問 *適宜編集しています)
日本医師会は「QOLを下げるなら延命治療の中止はやむを得ない」としているが、安楽死をその方法として認めてはいない。ここで、肯定側が日本医師会の資料を使って「無益な延命治療よりもQOLを下げるのを防ぐほうが良い」と説明した上で、安楽死をその方法として認めるべきである、ということを日本医師会の資料とは異なる資料を用いて説明することは、(結論として日本医師会の見解と異なる帰結を導いている点で)不適切な引用方法に該当しないか。

(回答)
結論から言うと、何ら問題はありません。
「無益な延命治療よりもQOLを下げるのを防ぐほうが良い」という主張と、「安楽死によりQOLを高めるべきである」という主張は、独立に成り立つものであり、前者が後者を否定する関係でもありません。ですから、日本医師会の手による資料を用いて延命治療の中止がありうることを立証した上で、そこから異なる論拠により日本医師会の見解と異なる帰結を導くことは、資料の意味を歪曲するものでもなく、また(延命治療の中止がやむを得ないという主張との関係で)日本医師会の意図に反する引用方法を採ったものともいえません。
著者の見解に反する引用が問題となり得る理由は、それによって本来存在しない「著者による支持」があるものと誤信させ、誤った権威性に基づく証明力を生じさせてしまうからです。ですから、このような類型の不当引用があるかどうかの判断は、立証したい事項との関係で検討されれば足ります。一般的な引用慣行からしても、著者の見解の一部を援用しつつ、それを起点とした独自の考察により引用先とは異なる帰結を導くということはしばしば見られます。

議論構築やスピーチについての解説 | 02:12:26 | トラックバック(0) | コメント(9)
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