2010-08-17 Tue
大会終了から1週間以上経ってしまいましたが、引き続いて高校の部の感想です。例によって辛口で書いているのは仕様です。高校の部の皆さまへの期待の表れということでご容赦ください。1.高校決勝の感想
今年の高校決勝は肯定側が洛南高校、否定側が早大学院の対戦でした。結果は3-2で肯定側・洛南高校の初優勝ということになっています。
まずは、この決勝においてよかった点を述べた上で、両チームの議論の改善点と、来年以降に向けて特に考えてほしいことなどを書いていきます。
(1) 決勝戦の見所
この決勝戦で目立ったのは、両チームとも立論に工夫が見られたことです。これは決勝のみならず全体的な傾向としていえるのですが、前回の安楽死論題の大会より、法制化というアクションの意味について考えようとしているチームが多く、議論も一歩深くなっていたように思います。
決勝の肯定側については、単に技術的に痛みが取れないという話ではなく、現場の医師の負担などから事実上痛みが取れていないという分析があり、痛みが取れる技術云々にとどまらない、より医療の現実に即した議論が行われていたように思います。また、尊厳死では楽に死ねないという分析は、安楽死を認めるべき理由を論じる上で説得的な切り口だと感じました(が、後で論題の雑感として述べるような説明があればよりよかった)。
一方、否定側については、安楽死の法制化によってどのように圧力が生じるかという点について、非常に説得的な議論が用意されていました。特に、選択肢が加わること自体がプレッシャーになるのだという説明は、終末期医療において安楽死を認めることの本質を突いているように思われました。立論での説明振りや質疑での応答からも、否定側がこの点について考えてきた成果が伺われました。
決勝に進んだ両チームの立論からは、それぞれ今季論題についてより深い議論を展開しようと努力し、それを戦略として練り上げてきたことが伝わってきました。また、これは全スピーチを通してですが、そうした説明を分かりやすいスピーチで説明しようとしていたことも素晴らしいことです。後で述べるような課題はありますが、スピーチを向上させようと努力することは大切なことであり、この点で決勝のスピーチは大いに参考にされるべきです。
(2) 議論の改善点
しかし、正直な感想を告白すると、僕個人としては今季の高校決勝戦については、両チームともそのポテンシャルを十二分に発揮できていなかったように感じました。以下そのように感じた理由を詳述しますが、ここでの感想はあくまで「もっと素晴らしい議論が展開できたはずだ」という前提の下に書かれており、レベルの高い要求をしているのだということを最初に断っておきます。
実は僕は準々決勝で北嶺vs早大学院の試合のジャッジに入っており、その時に早大学院の否定側の議論は見ていました。その時にも感じたのですが、早大学院の否定側第一反駁は相手の議論を完全に断ち切るところまで踏み込めていませんでした。スピーチはとても上手で、余裕もあったにもかかわらず、主だった反論としては「今後痛みは取れるようになっていく」「技術的に痛みは取れる」という除痛に関する議論しか出されていませんでした。これは準々決勝でもほぼ同じで、僕以外のジャッジからも評判はよくありませんでした(ドロップしすぎ、ということ)。せっかく立論で厚みのある議論を準備しているのに、反論はこれだけか…とがっかりしたというのが偽らざる気持ちです。
決勝に即して言うなら、否定側第一反駁は除痛についての議論だけでなく、痛みがあることを前提としてもそこから安楽死が望まれているとは言えないという切り口の反論(死にたいという言葉が本心ではない、などの議論)や、安楽死を認めることが緩和ケアの充実を阻害するというターンアラウンドなど、複数の勝ちどころを用意すべきでした。特に、否定側がスタンスとして「先に生きられる環境があって、その後に死ぬ権利があるべき」と主張するところからすれば、最後のターンアラウンドはそれを支えるものとしてかなり説得力のある議論になりえたはずです(オレゴン州の例で返される云々の戦術的議論はあるのでしょうが、綿密なカードチェックをすれば否定側もかなり戦える論点です)。
肯定側・洛南高校については、第二反駁で読まれたGood Deathのエビデンス(負担を慮って死ぬのもよい)を第一反駁で出すべきだったということに尽きます。また、プランによって安楽死の要件が絞られていることがデメリットを減じるという説明も、オーストラリアの実例へのアタックとともに第一反駁でもう少し説明してよかったでしょう。肯定側第一反駁はとても丁寧で聞きやすく、メリットの返しもしっかりされていたので最低限の仕事はこなしていましたが、戦略的にはもっと優先順位の高い議論はあっただろう、ということです。
このような不備があったため、肯定側第二反駁のスピーチは、言いたいことは分かるがその根拠が今出てくるようでは…という悩ましいものでした。おそらくある程度覚悟した上で強引にまとめていった側面もあるのでしょうが、それにしても強引すぎだろう…ということです。肯定側の反駁者はいずれも印象的な良いスピーチをしていたと思いますが、そこにベストディベーター賞が行かなかったということは、(否定側立論が極めて優れたデリバリーだったこともありますが)議論の内容において一歩不備があったことの表れだということでしょう。
(3) 今後に向けての課題
以上のような改善点が残った理由にはいろいろあると思いますが、一つ思い当たるのは、大会上位校がスピーチ重視に傾きすぎているという感覚です。
スピーチの分かりやすさを追求することはそれ自体望ましいことではあるのですが、それはあくまで議論を伝えるという「手段」であるべきです。それなのにスピーチの分かりやすさが「目的」となってしまっては本末転倒です。この点については(理由はあえて書きませんが)大会運営側の事情などにも責任がないともいえませんが、選手の側が一部過剰に反応しすぎているような気がすることも否めません。
例えば、上で述べたように、決勝の否定側第一反駁は明らかにボリューム不足だったのですが、早大学院の立論の内容やスピーチの技量からいって、これは明らかに不自然です。聴いている側とすれば、わざと議論を落としているようにしか思えません。少々スピーチの速度が速くなるとしても、第一反駁ではもう1枚2枚エビデンスを読み、相手を追い詰める議論が志向されるべきです。
おそらく、今大会のように議論を落とした(?)のはチームの戦略だと思いますし、残念ながらそれが合理的になってしまう場面が少なくない現実があることもまた否めませんが、それにしてももう少し詰めようはあったと思うし、議論を詰めていく方向性で戦った方が純粋に楽しいディベートにつながるはずです(あと、勝敗的な観点から言っても、5人ジャッジになる準々決勝以降、少なくとも3日目の準決勝以降からは、スピーチ重視の姿勢にこだわる合理性は弱くなります。どういう意味かは察してください)。
肯定側については、どちらかというとまだ議論を回しきるだけの経験を積みきってなかったといった印象があるのですが、もう少し第一反駁の時点から議論を積み重ねてまとめるという姿勢を固めていてもよかったように思います。他の試合ではそうだったと聞きますが、第一反駁者と第二反駁者を入れ替えてみるというのも魅力的な戦略だったかもしれません。光る議論は出ていたので、これが完全に準備された上で出ていれば、より素晴らしいスピーチになっていたはずです。
また、総じて自分たちの議論の防御についてはよく準備されている一方、相手への攻撃を自分たちの議論と一貫させて行うという戦略的攻撃の意識については、まだまだ低いという印象も受けました。今季論題は終末期医療についての理想や現実といった分析を両チームともしっかり行うことが求められており、また決勝戦でもそのような分析がある程度されていたのですから、それを攻撃にも援用して、一本筋の通った議論を展開してほしかったところです。
この部分について、決勝戦では否定側がほとんど無策だったのに対して、肯定側はプランの要件を持ち出しつつ、苦しんでいる人が決定している以上は問題ないという形でデメリットに対して攻撃することができていました。このあたりに、僅差で肯定側が勝利した理由があったように思われます。ということは、こうした「自分たちの議論を起点とした攻撃」がより充実していけば、勝ちどころはもっと膨らんでいくということです。
以上、少々改善点に関する記述が長くなりましたが、そのことは今大会の決勝戦の価値を否定するものではありません。決勝に進んだ両チームのスピーチからは、そこに至るまでに並々ならぬ準備を重ねてきたことが伝わってきました。一ディベーターとして、そのような熱戦を見せていただけたことに感謝の意を表します。
2.安楽死法制化論題の私的解題
ここからは決勝戦の議論を離れて、今季高校論題である安楽死法制化論題において期待された議論について、私見を述べていくことにします。なお、今季論題については既に私的解説を書いています(前編・後編)が、長いので暇な人にだけお勧めします。まぁこの記事も相当長いわけですが。
今季論題については、「法制化」の意義をどう考えるか、ということが各所で(といっても、ここと獄南亭主人のブログくらいですかw)問題提起されていました。今季全国大会で見た議論も、そのような問題意識に対して一定の解を出そうとしているチームが散見され、特に否定側については、決勝戦の否定側立論のように、法制化によりどのように圧力が生じるかという説明で過去の安楽死論題2大会に比べて大きな進歩があったと感じています。
しかしながら、特に肯定側について、安楽死の法制化が求められる必要性について十分に詰めきっていたと感じられる議論は、僕が知る限りありませんでした。これは容易ならざる課題なので仕方ないといえばそれまでですし、僕自身もどこまで議論できるか分かりません(少なくとも高校時代の自分を想像すると自信はありません)が、一応考えるところを記しておくことにします。
*なお、以下では終末期医療における安楽死を前提として検討し、いわゆる「自殺」一般を認める制度については考えないことにします。そのような議論もありえますが、終末期医療における安楽死法制化より社会的な議論の必要性が小さいと思われるからです
(1) 安楽死の法制化が求められる理由(肯定側の論理)
積極的安楽死を法制化しなければならない、と主張するための出発点は、現在法制化がされていないということ、そしてそのために問題が起こっているということの説明です。このことを説明するためには、いくつかのハードルを乗り越える必要があります。
現在安楽死が認められていないということについては、一見明白に思われますが、ここにも最初の落とし穴があります。それは、現行法は積極的安楽死について明確な態度表明をしていない、ということです。安楽死については少ないながら判例法があり、それを見ると実質的には認められそうにない要件が示されていますが、そこでは安楽死が合法化される余地が認められており、「完全禁止」という状況はありません。判例になるような事件は起訴に至っているような例外的なものですから、おそらくより微妙な事例はたくさんあるし、その中には問題になっていないけど積極的安楽死に近いことがされているということもあるでしょう(少なくともそのようなことを言っているエビデンスはあります)。
このような宙ぶらりんの状態を前提として、そのために医療現場においてどのような問題が起こっているのか、そのような思考を経ることによってはじめて、法制化が求められる理由に迫ることができます。
安楽死が求められているというためには、死によってしか解決できない問題があるということを述べなければなりません。そこで多くのチームは、取ることができない激しい苦痛があるということを論じています。そのこと自体はよいのですが、それだけでは「痛い」ということしか述べておらず、安楽死という極端な手段を法律で認める必要性を述べたことにはなりません。
今季の大会では、決勝の肯定側もそうだったように、単に技術的に取れない痛みがあるというだけでなく、現場において様々な事情で痛みを取ることができないという議論が出されていました。これは、技術的な問題だけが注目されていた過去の大会と一線を画する、よい考察です。しかし、この考察が「否定側の反論への返しにする」というだけにとどまっていては、法制化の意義を論証するには不足しています。
取れない痛みがあるなら取るように努力すべきであるといった議論が、おそらく終末期医療に携わる医師の主張であるし、否定側が展開するであろう論理です。安楽死というのは患者の生存を前提として行われる伝統的な医療行為とは異なるものですから、このような反発は当然予想されます。それにもかかわらず、安楽死という手段を終末期医療で法的に認めるべきだと言うためには、「取れない痛みがあるなら努力すべき」という論理を突き崩す理由付けとして、現実の除痛率の低さを主張する必要があります。
このような主張を行うためには、現実に痛みが取れていないということの理由付けを掘り下げることが有効でしょう。試合ではあまり見られませんでしたが、病院間の格差という問題はもっと取り上げられてもよかったはずです。練習会で見た岡崎高校の立論には、定員不足のためにがんセンターから追い出される患者の話などが取り上げられており、心に迫るものがありました。そういう現実をジャッジに見せていくことで、通常の医療ではどうしようもない困難が終末期医療に存在している、すなわち「安楽死」という手段を認める必要性があるということを示すことができたはずです。
安楽死の必要性を強調するためには、そのほかの手段より安楽死が望ましいということを論証することも考えられます。決勝の肯定側立論では、尊厳死は患者に苦痛を与えるものであるという分析が含まれていましたが、それが安楽死の必要性と十分にリンクしていなかった点で惜しいものでした(尊厳死の存在でデメリットの固有性を弱めるという議論もあってよかったかもしれません)。
法律に触れない形で既に行われている尊厳死や消極的安楽死という手段が患者にとって真の救済にならないのだとすれば、少なくとも彼らの救済を全うするための手段として、積極的安楽死は魅力的な選択になるはずです。積極的安楽死という極限的手段の肯定を目指す以上、同じように極限的な状況で現在選択されている尊厳死などの手段と比較して安楽死の優位性を述べた上で、それが認められていないことの問題性を主張するというのは、自然な帰結といえます。
このような現実を踏まえつつ、法制化がされていないために無理な安楽死が行われているという分析があってもよかったでしょう。安楽死は(消極的安楽死ですが)少ないながら刑事事件にも発展していますが、水面下ではより微妙なケースに対して、問題のある処置が行われている可能性があります。患者の懇請に対して医師が断りきれない…という事例もあるでしょう(川崎協同病院事件はそういうケースです)。
これは現行法が安楽死に対して態度表明していないためにグレーゾーンが存在しているということに起因した問題です。肯定側としては、患者の苦しみと関連させつつ、このようなグレーゾーンを解消するために法制化が求められているという論陣を張ることもできたはずです。その帰結として安楽死を事実上不可能にするような厳格な制度を作るのか、それとも安楽死の実施もやむを得ないものと考えて現実的な要件を定めるのかはチームの戦略によります。ディベート戦略的には、後者の選択を取って、患者の安楽死による救済と不当な安楽死を防止することの2点をメリットとして主張する(後者のメリットはデメリットの固有性を弱める意味もある)ことが賢いでしょう。
以上が、安楽死の法制化が認められるべき理由付けです(特定疾患にフォーカスした論じ方もありますが、前の記事でも触れているので省略します)。しかし、法制化を肯定するためには、法制化によってこうした問題が解決するということをきちんと論証する必要があります。
医療現場で除痛が難しいのだという論証をした場合には、積極的安楽死であれば現場でも適切に実施できるということをきちんと説明する必要があります。安楽死の方が施術に必要な施設や技術の水準が低くてよいという説明がなければ、切羽詰まった終末期医療に対する処方箋として安楽死を認めるべきだとはいえません。この点について十分議論されていなかったことは、今季大会で残念だったことの一つです。
また、上記で見たような問題、とりわけ「病院を追い出されてしまう」ような問題を前提とすると、試合でよく見る「安楽死を約束すると安心する」という議論が違った形で活きてきます。安心の対極には不安がなければなりませんが、多くのチームの議論ではその部分が説明不足でした。最後まで面倒を見てもらえないという不安が安楽死によって緩和される、という形できちんと説明されれば、安楽死を認めること自体の「安らぎ」がジャッジにも伝わってくるはずです。
重要性については、上記で見てきたような医療現場の現実を解消すべき理由として、伝統的な医療倫理に対抗するロジックを用意する必要があります。まず前提となるのは、何が何でも生きればよいというものではない、すなわち「死ぬことのほうが幸せなことがある」という主張でしょう。いわゆるQOLなどの考え方ですが、これは現代医療の進歩によって延命だけは昔より容易になってしまっているといった分析を背景にすれば、より説得的な議論になるように思われます。
こうした主張を踏まえてなお疑問であるのは、QOL向上のためには除痛の徹底などの方向を曲げるべきでないのではないか、という点です。そこで、肯定側はこれに応えるために、除痛が十分でない現実を日本国民はどう受け止めるべきか、という考え方について説得的な見方を提示する必要があります。法制化の必要性を説く上ではおそらくここが一番の勘所です。法制化というのは、国民の間の論議によって意思決定するということであり、そこでは「末期患者」や「医師」という終末期医療の利害関係者ではなく、これからガンなどの末期患者になるかもしれない一般国民の目線から見た制度の是非が語られねばなりません。そこで肯定側は、「終末期にはこういう現実があります、この現実を前にして私たちには安楽死という道が保障されるべきではないか?」という問いかけができるような考え方を提示することが求められます。
この点の説明は難しいところです。自己決定権という切り口で説明できなくもないでしょうが、ご案内の通り個人的にはあまり賛同できない議論です。誰もが万全の医療を受けられない現実、という問題との関係で整合する説明としては、いわゆる保険的な意味合いとして安楽死を認めることが、社会全体で見た終末期患者のケアにとってよいのではないかという主張ではないでしょうか。否定側の言うような問題もあり、また要件判断の関係で言えば「誤診」といった問題も不可避かもしれないけれども、そういった副作用を考慮したとしても、将来がんになって十分ケアを受けられない可能性を考えると、安楽死という選択を認めてほしい、そう思わせることができれば、積極的安楽死の法制化を肯定できたと言ってよいでしょう。
(そして、こうした説明を行うには、現状の問題について述べた直後で重要性を説明する構成が分かりやすいように思われます。この点については先に書いた中学論題についての感想を参照のこと)
(2) 安楽死の法制化を否定すべき理由(否定側の論理)
こうした肯定側の主張に対して、否定側は何を論じるべきか。まずはデメリットについて考えてみます。
この点については、決勝の否定側が丁寧に論じていた、選択肢を加えること自体の影響という議論がよかったと感じています。負担を解放することができる安楽死という選択肢が存在すること自体が、それを選ばなければならないのではないかと患者に思わせる圧力になるのだという説明でしたが、これはかなりありうるストーリーでしょう。法律によって認めること自体が問題なのだという意味で、法制化を否定すべき論拠としても優れています。
ただ、改善点という形で述べると、このような議論を出すのであれば、固有性に当たる部分、すなわち「現在は圧力がない」という部分についてもう少し議論があってもよかったように思います。安楽死が正面から肯定されていない現在の終末期医療において、医師がどのように患者に向き合っているのか、患者は自分の意思をまっとうできているのかという分析があるだけでも、印象はぐっと変わってきます。決勝の否定側立論で出てきた表現を借りれば、現在の日本に「生きたいのであれば生きられるだけの環境」があるのかどうか、ということです。
また、法制化の影響という抽象的な説明だけでなく、より具体的な影響の生じ方について踏み込んだ議論があればより説得力を増したとも思います。例えば、安楽死を法制化すれば、安楽死要件に該当する患者に対して医師は安楽死が可能であることの打診をすることが予想されます。そのような状況で、医師から安楽死という選択肢がありうると告げられることが患者に与える影響が論じられてもよかったと思います。がん告知ですら問題とされているのですから、安楽死ができるというメッセージが医師から伝えられることは、患者の意思に大きな影響を与えることでしょう。患者の「死にたい」という意思の把握が難しいという問題と絡めて、安楽死の告知とそれに応答する患者の心理状況の分析を丁寧に行うことで、不本意な意思表示がされる危険性を検討することができれば、かなり説得的な議論ができたはずです。
デメリットの深刻性については、各チームとも様々な工夫があり、概ねよくなっていると感じました。ただ、肯定側への反論と連関させるという意味では、肯定側がある種妥協的な「安楽死」という解決策を取ろうとしていることそのものに対する批判の起点となる価値観が提示されてもよかったかと思います。「死ぬ権利の前に生きたい人が生きられるようにすべき」という早大学院のスタンスと称される議論はその一例として評価されるべきものです(が、反論で全く活きていなかったということは既に述べたとおりです)。
おそらく一番伝統的な見解としては、「医療行為というのは患者の生命を救い、苦しみから解放させることが目的であって、患者を殺して解決するというのはおかしい」という議論があるでしょう。これは予選でみた創価高校が反駁の中で展開していた論理であって、反駁も全体として質の高いものでした(優勝した洛南高校が唯一負けた試合です)。安楽死という「一線」を越える行為を認めてしまうことが終末期医療にとってどういうインパクトを持つのかという形で、安楽死法制化の意味を正面から論じることが、否定側に求められていた一つのポイントだと思います。
このポイントをきちんと論じるためには、安楽死の法制化が(患者の意思ではなく)医療現場にもたらす影響についても議論する必要があります。海外の例でも議論されている、安楽死を認めることが緩和ケアの発展に対してどういう影響を持つのかという問題です。否定側としては、緩和ケアから安楽死に流れることでケアの需要が減って緩和ケアの発展が止まるという論陣を張ることになるでしょう。オレゴン州では安楽死の法制化で安楽死実施を避けようと医師が頑張ってケアが進んだということもあったようですが、医療制度が異なり、また試合中の分析によれば医師の意欲と関係ない事情でケアに手が回らない日本において、安楽死の法制化がどういう影響をもたらすかについては、様々な議論がありうるはずです。
安楽死の法制化というアクションを論じるのであれば、医療政策の一環として、こうした問題がもっと意識的に展開されてもよかったはずです。特に否定側としては、現に苦しんでいる患者の救済という主張にとどまりがちなメリットに対してより大きな視点からの疑問を提起するという意味でも、終末期医療の進むべき方向性について積極的にチャレンジしてほしかったところです。
3.高校ディベーターの皆さまへの今後の課題
以上の内容は、ある種後出しじゃんけんのようなところがあり、全てを選手に求めることは現実的でないという代物です(とはいえ、論題検討委員会はこのくらいをほのめかす解説をきちんと出してもいいんじゃないかと思うのですが…)。
しかし、僕が上記のような議論展開を考えるに至った過程は実のところそこまで複雑なものではなく、現状の問題とプラン後の分析を対応させるとか、論題の文言に着目してその正当化方法を考えるといった、ディベートの基本に当たる考え方に沿って考え、または皆さんの展開していた議論を位置づけただけのものです。具体的にフィットするデータを探したりすることは大変かもしれませんが、きちんとリサーチし、ディベートの基本をしっかり身につけていれば、それなりの骨組みを考えること自体はそこまで骨の折れる作業ではない、ということです。
現在のディベート甲子園に参加しているディベーターの皆さんは、昔に比べてレベルが高く、議論についても年々向上していると思います。例えば昨年の大会と比べてみても、反駁でエビデンスを伴った反論が顕著に増えており、反駁の厚みは(まだ不十分な面もあるとはいえ)ぐっと増してきています。
しかし、議論構築の基本に当たる部分については、スピーチ技術など他の部分の向上ぶりにくらべると、伸びる余地がまだまだ大きいように思われます。それは、指導する立場になってしまった僕を含めたジャッジなどの責任によるところが大きいということで反省しているわけですが、それとは別に、選手の皆さんにも、議論の中身にこだわっていく姿勢を今一度強く持ってほしいと感じています。
急いで断っておくと、これは現在の選手の皆さんの努力を認めないという趣旨ではありません。今年東海支部の練習会で指導させていただいた代表校の皆さまは様々悩まれた上で議論を考え抜いていたし、過去に関東支部などでジャッジや指導などしたときにも、そのような熱意に溢れたディベーターをたくさん見てきました。そのような努力が実を結んできているということは、大会のレベルが年々向上しているということからも明らかです。
しかし一方で、「上手くなりすぎた」ゆえの盲点として、勝てそうにない論点や説明しにくい問題について早々に見切りをつけたり、分かりやすさや印象を重視して議論の内容を犠牲にする(これは僕の妄想なのかもしれませんが…)という方向で効率化を志向している部分があるような気もしています。それだけの配慮ができるようになったという意味では技術の目覚しい向上だという意味で評価できるのですが、せっかくの技術を議論そのものに注力しきっていないのではないかという点では、ディベート本来の魅力が失われてしまっている側面があるのかもしれません。まず自分たちのやりたい議論をとことん考えて、そのデリバリーは後で考えるという姿勢があってもよいのではないかと、少なくとも個人的には思います(僕はデリバリーを無視する特攻スタイルですが、これは公式見解的にも推奨されない)。
また、いわゆる伝統校については、先輩からの指導などにより力をつけている一方で、基本がおろそかになっている可能性も否めません。メリット・デメリットの3要素などの基本的考え方について十分押さえていないと思われるチームは今でも散見されますが、このような状況を脱するためには、各チームが今一度ディベートの基礎を押さえた上で、それを試合において実践するという地道なトレーニングを積むほかありません。
今季論題は(も)とても難しい論題で、選手の皆さまにおかれましても大会までにいろいろな悩みを抱えて議論を考えてきたことかと思います。その悩みをきちんと昇華させるためには、今季自分たちができたことと、及ばなかった点をきちんと反省した上で、次の機会に反省を生かせるように課題を一般化しておく必要があります。
僕の目から見えた高校の部の課題は、上記にあげた「議論そのものに注力する姿勢」と「今一度基本をしっかりと」という二点です。もちろんこれが全てのチームに当てはまるわけではありませんし、こういうことを書く人が他にいないので敢えて厳しい表現になっているということもあるのですが、現状で満足せずにさらに素晴らしい議論を展開してほしいということで、今季の努力を無駄にしないためにも今一度考えていただければ幸いです。
といったところで、中高それぞれについての感想は終わりです。
いろいろ批判的な内容を含む感想でしたが、全力で試合に臨んだディベーターの皆さまに対して適当なことを書くのは逆に失礼に当たるだろうということで、正直な感想を述べた結果です。何度も書いているように、皆さまの努力や、試合そのもののレベルの高さ自体は何ら否定しておりません。
僕自身も特に大学以降の大会で実感していますが、いくら準備を重ねても後悔は残るし、全ての試合でベストパフォーマンスを見せられるわけではありません(むしろしょぼいときの方が多い)。そういうわけでいろいろご指摘をいただくこともあるのですが、そういった体験の積み重ねが自分の成長につながっているような気がしています。僕の感想がそのような成長をもたらすことのできる質を備えているかは疑わしいのですが、大会に出場された皆さまにとって何かしらの糧となればと願っています。
そして最後に、大会に出場された全てのディベーターの皆さま、本当にお疲れ様でした。感想の初回でも書きましたが、今皆さまの心の中に残っているものを大切にして、それを今後に活かせるように頑張ってください。