愚留米の入院日記
日当たり良好の某法科大学院既習病棟を退院した法務博士の日記。しかし内容はほとんど趣味のディベートの話
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良い議論とは何か、そしてそれを目指す意義
ディベート甲子園高校論題が道州制に決まったというニュースもあるようですが、これについては次の機会に書くことにして、今日は別の話題を取り上げることにします。もちろん、入院日記(法律関係)とは関係ないことです。考えさせられることはいろいろあるのですが、立場上書けないので。

さて、今日の話題は、「良い議論とは何か、そしてそれを目指す意義」というものです。こんなテーマで突如文章を書くのは、春の陽気で頭がおかしくなったとかそういうことではなくて、震災の影響もあるとはいえ時期的に大学では新入生のサークル勧誘時期ということもあって、大学でディベートを続けようかと考えている人に対して何か書くことがないかなぁと思ったからです。大学からディベートを始めるという人も大歓迎なのですが、多分そういうことはここを読まないだろうから…。
あと、後輩などの議論を聞いたりしていると、自分なりにいろいろと思うところもあって、ここでもたまに書いているように小言のようなことを言ってたりするのですが、結局僕が何を言いたいのかということを十分整理して伝えたことはそんなになかった気がするので、そのあたりの説明も兼ねています。なんか弁論部の後輩とかも読んでるらしいので…。

というわけで、今回の記事はいつも以上に誰に向けて書いてるのか謎のイレギュラーな内容になっております。書き終えて読み直してもなんだかよく分からない内容になっているのですが、そういうものだと思って読んでいただけましたら幸いです。


1.良い議論とは何か、あるいは良くない議論とは何か
選手がディベートで目指すことにはいろいろあると思うのですが、その中に「良い議論をしたい」という目標があることについては、ほとんど異論は無いと思います。もちろん僕もそのように思っていますし、今ではそれだけが目的になりつつあるような気もしています。

では、ディベートにおける「良い議論」とは一体なんでしょうか。これを定義するのは難しいことで、人によって議論の好みは違うし、魅力的な議論のあり方というのは複数存在するので、こういうものがよい議論だ、と決めることはできないように思われます。
ただ、「良い議論」の逆にある、「良くない議論」「つまらない議論」というものについては、自分なりにいろいろと思うところがあって、そういうものは自分ではやりたくないし、ジャッジや観客として見るときにも厳しいコメントをしているような気がします。以下では、自分がどういう議論をよくないものだと考えているか、整理してみることにします。

準備不足とかディベートの基本的理解が不十分であるといったような問題は措くとして(そういうのはまぁしょうがないかなぁと思うだけです)、個人的に一番残念に思うのは、ある程度ディベートに慣れてきた選手が「こういう議論出しておくといいよね」といった感じでマニュアル的に議論を出していて、それが透けて見えるというものです。
例えば、挙証責任の転換ということで原則っぽいことを言っているエビデンスをとりあえず読んでおいて、しかもそれが自分たちの議論に全然即していないというパターンで、こういう議論を聞いていると、選手の議論構築に対する誠実さを疑わざるを得ないところです。だって、これは聞き手がそういう安いマニュアルに従って議論を評価するものだと決めてかかっているわけで、聞き手をなめてかかっていることを意味するのですから。
以上の次第で、とりあえずこういう議論を出しておかないといけない的な発想というのは、良い議論の対極にある思想だと思うので、判定上も厳しくチェックされるべきでしょう。

もう一つ残念に思えるのは、いかにもディベート便宜的な議論を、そういうものだという自覚を十分持たずに回しているような類の議論です。
まだJDAのサイトには速記録が上がっていませんが、JDA-MLに流れていた今年の春JDA決勝戦でも、そのように感じた議論があるので、少しだけ紹介しておきます。この大会の論題は「外国人労働者を認めるべき」というものだったのですが、決勝のAffはプランとして「60歳未満のものについて、単身かつ3年の期限付きで就労ビザを発行」し、ビザについては「60歳未満で、かつ日本で就労しているものについては更新を認め」、「更新時点で失業しているものは、帰国を義務付け」るという内容の規定をおいています。これは要するに、外国人労働者が家族を呼んできたりして社会保障費が増大するのを防いだり、働いてない外国人が国内にとどまることを防ごうという腹積もりのプランなのですが、これは言ってしまえば外国人を働く機械だと捉えるものであって、都合が良すぎる政策だというべきものです。まぁ、そういうものだと割り切って議論を展開するという道もあるでしょうし、実際にシンガポールのように「外国人労働者はバッファだ」と言っちゃう国もあるわけですが、このようなある種ケチ臭いプランを出しているのが単なるディベート戦略だとしたら、もっと考えた方がいいんじゃないかなぁと思ってしまうわけです。これは、ビザを取るときに外国人に同意を求めるプランを入れれば何とかなるという、そんな話では断じてありません。

ただ、上記のような議論が存在するとして、それに負けてしまうというのであればそれはやっぱり「良い議論」とは言えません。僕が「良くない議論」だというのは、それが卑怯だとかいう話ではなくて、そういう議論はディベート的にも強くないだろうという意味です。
例えば、上記の例のうちなんちゃって挙証責任論については、その原則が議論に即していないことを明快に指摘すればそれまでですし、ケチくさいプランについては、上記の例であれば外国人労働者の権利という観点からDAを作ればいいし、ちょっとイレギュラーですがKritikに仕立ててもよいでしょう(が、Negはこのような反論を準備していなかったようで、この点は残念です)。場合によっては、TopicalityやCounterplanで牽制することもできそうです。巷でセオリーと呼ばれている飛び道具は、こうしたケチくさい議論を真っ当に排斥するという場面でこそ、光り輝くという側面があります。
このようにして、なんとなくそれらしいことを言っているようで違和感のある議論に対して、的確に反論するというのは、一つの「良い議論」の形だといえるのかもしれません。このように考えると、僕が「良い議論」だと言っているのは、要するに真っ当な疑問をきちんと形にして提示できているということ、もっと言うなら「きちんと考えて議論を出すこと」という当たり前のことに帰着されるということになります。これについては、後で再び触れることにします。

2.本質的な議論とは何か?
「良い議論」に関係して、僕はよく「本質的な議論をすべきだ」といったことを口にする癖があるようです。しかし、本質とは何かというのもまた難しい話です。ここでも、本質的でない議論とはなんだろうということから、逆に考えてみることにします。

前に日米安保廃止論題で練習試合があったときに、弟が「全然分かってない議論が出ていた」という話をしていました。そこで問題とされたのは、日米安保のせいで原子力空母が事故るリスクがあるからこれを解決すべき、といったケースです。これは、「本質的でない議論」の典型例だと思います。
なぜ日米安保論題で原子力空母の話が本質的でないかというと、これが「原子力空母を日本に寄港させない」というCounterplanに弱いということ(まぁ、安保の効力も落ちるし、実効性にも疑問は出うるけど…)、これを言い換えると、日米安保条約の存在と原子力空母の問題は関連性が低すぎて微妙だということ、すなわち原子力空母の問題が日米安保条約をどうこういう理由になるのかという疑問があるということになります。
そして何より、この議論が嫌悪感を催す理由は、この問題が「人がたくさん死ぬのを避けられる&反論がこなさそう」という理由で選ばれているように思われるところにあります。もちろん、ここで僕がイラっとくるのは、この議論が卑怯だとかいうのではなく、人がたくさん死ぬ問題を取り上げれば評価してくれるんですよね、という形で聞き手として安く見られているように感じるからです(被害妄想だという感想もあるかもしれませんがw)。この点については、矢野論文を読めというほかありません。程度は違いますが、奇抜さやインパクトの大きさだけを求めて深く考えずに議論を組むという点では、上記のような「非本質的」議論は、僕にとってはディベートに感じられないのです。

僕が本質的だとか本質的でないとかいう時に考えているのは、概ね以上のようなことです。これは、この論題でどういうことを議論することが説得的かという、勝つために必要なはずの思考様式と一致しています。おそらく、上記のような空母ADを考えた選手は、それが勝つための近道だと思ったのでしょうが、僕からするとそれはズレています。反論が来ないから強いとか、インパクトが大きいから強いとか、そういう単純な思考は、早い段階で卒業すべき稚拙な発想であって、論題を肯定/否定すべき理由として何が説得的であるかという、より大本のところから考えることが、勝ちを目指すということです。
「こういう議論が強い」とか「こういう議論は本質的だ」というものではなく、論題の背景にどういう問題があって、それをどう切り出すと説得的かということを考えた結果、本質的と評するに値するようなアイデアが出てくるというのが、正しい理解だと思います。

ここでも、結局のところ「きちんと考えて議論を出すこと」が、本質的な議論であるということの意味であるということになりました。
ここでいう「きちんと考える」というのは、想定される議論について一通り準備しておくという意味も含まれるのであって、ディベート甲子園に出場される多くのチームにとっては、このレベルの準備がまずは要求されているということを、一言断っておくことにします。特に高校生のチームなんかは、本質的云々というハードルに囚われて、地に足の着かない議論を展開しがちな気がしているのですが、まずは基本からということです。

3.良い議論を目指すということの意味
最近よく感じるのは、ディベートでは勝つことが大切なのであって、議論の内容より勝利が先立つのだというディベーターがいるように思われるということです。まぁ、僕も試合をするときには本能的に勝ちを求めていますし、(たとえ相手が職業ディベーターであっても)勝てるだけの準備をしてきたつもりで試合に臨んでいるわけですが、別に勝つこと自体は目的ではないし、そのようなところに目的を置くのも違うだろうと感じています。

まぁ、ディベート甲子園のようなイベントであれば、勝ち進んで決勝に行くことで思い出になりますし、青春的な雰囲気もあって優勝を目指したくなるし、目指すべきものであるとも思います。大学以降の大会でも、優勝を目指してやるくらいでないと、ディベートを楽しむことはできないというのもその通りだと思います。
しかし、誤解を恐れずにいうなら、試合に勝つこと、大会に勝つこと自体には、特に意味はないはずです。これも何度か書いた気がするのですが。僕自身、大会で優勝したからあの選手はすごいとかいうことを考えたことは一度もなくて、展開していた議論の中身であるとか、ディベートとしての生き様(!)であるとか、そういうところに共感する形で、選手を見ています。むしろ、自分の試合も含めて、試合に勝ったり大会に優勝したりという場面でも、中身的には大したことないと思ったことはいくらでもあります。

こう考えると、最終的にディベーターが満足を得られるのは、試合の勝ち負けといった皮相的なところではなく、自分が納得できる「良い議論」を展開できたかというところにあるように思います。相手の議論も良い議論であって、それを上回って勝つというのが一番ですが、何はなくとも、自分たちがきちんと議論できたかというのが前提です。なので、昨年の秋に出たJDAで、勝ったとはいえAffのプランのケチ臭さを矢野先生に指摘されたときはリアルに穴に入りたくなったし、最後に職業ディベーターに破れたときも、悔しいと感じたのは負けたこと自体ではなくて、自分たちの議論が至らなかった点にありました。
また、このような姿勢でディベートに臨むことによってこそ、聞いている側に何かしらの余韻を残すことができるのではないでしょうか。少なくとも自分にとって、これまでに印象に残っている選手は、スピーチが上手いとかそういうことではなく、議論に対する姿勢であるとか、議論の中身であるとか、そういうところに惹かれるところがありました。僕自身がそういうディベーターであるかについては自信がありませんが、どうせ試合をするのであればそういう選手でありたいと考えて、自分が出したいと思う議論を出来るだけ詰め込むというズレたディベートをしていた次第です。

高校までディベートを続けていて、大学でもディベートを続けるという選手にとっても、そこでの動機は表面的な勝ち負けではなく、自分の納得できる議論というところに置かれるのが理想的なのではないかな、と個人的には思っています。
というのは、大学以降は高校までと違ってチーム・学校に対する責任という側面が薄れ、自分たちのやりたいように議論を作ることができるし、ジャッジも(特にJDAでは)考え抜いた議論を遠慮なく出しても受け止めるだけの力量を持っています。また、大学から学ぶ専門的な内容を踏まえて議論を考えることができるというのも、当然ながら大きいです。勝ち負けを超えて良い議論を目指すというのは、それ自体「考える楽しさ」を最大限享受することでもあるし、他の試合を見る目も変わってきて、よりディベートという競技を楽しく感じられるはずです。あのチームは優勝してるから強いだとか、あの議論はなかなか反論できないから強いだとかいう、安い(!)視点で試合を見るより、面白い議論が出ていないかという観点で試合を見るほうがずっと楽しいです。

そして、かなり対象が絞られてしまって恐縮なのですが、わが母校の弁論部(ITBと呼ばれております)なんかは、良い議論というものを考える上でよい環境が整っているのではないかな、というように思っていたりします(唐突ですいませんw)。
ITBというところは、(最近もそうだと思いますが)伝統的に「適当に考えた議論」に対して非常に厳しいサークルだし、弁論という活動を通じてディベートを相対化できるという点も、ディベートにとって有益です。最近はテクニック的なところも先輩が指導してくれるようですし、もし僕も含めた先輩が間違ったディベート理論を解説していたり、ディベート便宜的なことばっかり言っているような場合、下克上的に先輩を批判することが許されるサークルでもあります。この雰囲気のありがたさは、自分が先輩になって、後輩に適当なこと言ってたら締められるという緊張感を感じるときなんかに強く感じます(別にマゾというわけではなく)。あとそうですね、部室には漫画なんかもたくさんあって居心地がよいです。

4.まとめになってないまとめ
なんか最後は謎のサークル宣伝(?)になってしまいましたが、結局言いたいことは、高校以降もディベートを続ける意義があるとすれば、それは勝ち負けを超えた「良い議論」を目指すことであるし、それはおそらく高校を卒業したからこそ本気で目指せる目標であるという側面もあるので、是非高校卒業後もディベートを続けていただきたい、ということです。
まぁテニスとかほかに楽しいこともあるかもしれませんが、それはいろいろな意味で非本質的というべきものですw
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