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アカデミックディベーター

Author:アカデミックディベーター
日当たりの良い某法科大学院を2009年3月に卒業。
ライフワークである競技ディベートについてぼちぼち書いています

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論題解説とルール解説の感想
どうも御無沙汰しております。
最近は相変わらず修習に励みつつ、ディベート関係では、新書版テキストの作成(ようやく6章に入りました…)と、原稿作成に関するセミナーの準備などをしております。セミナーについてはまた機会があればここでもご紹介させていただきます。

今回は、NADEのサイトで最近公開された高校論題解説と、ルール解説の連載記事について、簡単に(?)感想を書くことで、広告出現の時効を中断することにします。例によって攻撃的記事になっているのは仕様です。


高校論題の解説文について
今回の論題解説は、論題が急遽変更になったということもあり、時期的に大変な発行だったと推測します。そのような中、解説を執筆された委員の方には頭が下がる思いです。

…と言っておいてすぐに頭を上げてしまうのですが、率直な感想を申し上げると、この論題解説は(というか最近の解説は多かれ少なかれそういう要素があるのですが)内容的に毒にも薬にもならないというか、議論構築の便宜になる要素は少ないように感じました。
急いで断っておくと、これはおそらく執筆者の資質がどうとかいう問題ではなく、論題検討委員会が議論について中立的立場を貫こうとしてわざとそういう方針で記事を書くことにしているのか、あるいは論題解説の方向性について議論がなされていないため混乱しているのか、いずれにせよ、論題解説の方針がうまく定まっていないことによる問題だと思われます。この点については前々からここでも疑問を呈しているのですが、選手に対して良い議論を期待する立場として、論題解説の在り方について論題検討委員会でもきちんと議論していただきたいと願っております。

なお、なぜか今回の論題解説では紹介されていなかったのですが、道州制論題解説については、第7回大会で発行された西部委員の解説や、第11回大会で発行された市野委員の解説も存在します。いずれもよくまとまっており、特に西部委員の解説は道州制の概要について的確にまとめてありますので、まずはこれらの解説を読むことをおすすめします。

せっかくなので、内容に即して少し感想を述べておきます。
地方分権論議の歴史に関する記述は、よくまとまっていて充実しているように思います。議論づくりには直接影響しませんが、このような経緯を知っていると、資料を読む際に理解が進みますし、議論する際の問題意識を養うことができます。
ただ、第16回大会の論題解説であるのに、前回の道州制論題採択時以降の地方分権論議の動向について全く触れていないのは、残念と言わざるを得ません。道州制に極めて近い志向を持つ大阪都構想を打ち出した橋下知事などの革新派首長の誕生や、阿久根市の首長リコール問題など、近時の地方自治の有り様については、当然選手の方々も関心を抱いて然るべきですし、そのような現状の観察も踏まえて、現在進行形で議論されている道州制について考えることが、選手の皆さまに求められていることです。

中央と地方の関係について説明されている部分については、財政的に国が地方を支配しているという問題に言及がないところが不十分だと感じられます。これは今季論題でも重要な論点ですので、当然リサーチを進めるべき事項です。これについては市野委員の解説が簡潔にまとめているので、そちらを参照されるとよいでしょう。

プランとメリット・デメリットの関係についての注意書きは、重要なことではあるのですが、ディベート一般の解説にとどまっていて、今季論題の解説としては踏み込みが足りないように思われます。
この点でよく問題となるのは、財政調整のプランの扱いです(財政調整については西部解説に言及があります)。メリットとプランの関係では、地方の財政的自立という解決性を論じているメリットは、財政調整を規定するプランによって弱められてしまう可能性があるという点に注意が必要です。デメリットとプランの関係では、財政調整のプラン、あるいは道州の区割りを定めたプランに対して、デメリットの発生過程が整合しているかという問題があります。
特に、財政調整プランと財政破たん系デメリットの関係では、立証責任の所在を考える必要があります。攻撃防御の構図としては、肯定側が財政調整のプランを掲げ、これに対して否定側がデメリットを示し、肯定側がプランによりデメリットに反論を行うという形になるのですが、ここで否定側がプランとの関係でどこまでデメリットを立証する必要があるのかが問題となります。
プランの実効性を示す責任は肯定側にある一方、プランからデメリットが生じることの立証責任は否定側にあるわけで、どちらを優先させるべきかという疑問が生じるところですが、私見としては、財政調整のプランが外見上合理的(無理がないもの)に見えれば、現状何らかの形で機能しているように、赤字を補てんするという程度の実効性を認め、それを上回る財政破たんの蓋然性を示す責任が否定側にかかると解するのが妥当と考えます。この場合、否定側は、競争により格差が拡大するとか、現状でかなり深刻な赤字を背負う道州が想定されるといった事情から、単純な財政調整では埋めるのが困難であると評価できるだけの発生過程を示す必要がありますが、これはそこまで重い立証責任とは言えません。この責任が果たされた場合、肯定側は反証として、プランの財政調整が上手く機能し、デメリットを防ぐことを証明する必要があります。このように立証責任を分配することは、判断方法として合理的であり、ディベートの攻撃防御方法との関係でも自然な流れにつながるでしょう。

ほかにも内容について思うことがないでもありませんが、とりあえずこの辺にしておきます。というのも、実は後日某所で今季論題を素材とした論考を掲載する機会を得たので、そちらで詳しく私見を述べているからです。
そちらの記事では、(修正の可能性はありますが)先日ここでも書いた「良い議論」を目指すための考え方を示すというコンセプトで、今季論題をどのように考えるのかという実例を示しているのですが、これをお読みになっていただければ、僕が「良い議論」と言っているのは何も特別な思想や価値観に基づくものではなく、強い議論を作るためにはもっとしっかり考えたほうがいいという当たり前のことを言っているに過ぎないということがお分かりいただけるはずです。冷静になって読めば明らかなとおり、僕がここでいつも書いているのは「奇抜な議論はよくない」といった特定種類の議論を排斥する主張ではなく、「考えが浅いのではないか」「もっと強い議論があるだろう」という、当たり前の議論批評です。
ちょっと話がそれましたが、上記の原稿では、解説の方向性や紙幅の制約がないので、論題解説の実質的な補足となるよう、論題の意義や背景などについてもそれなりに詳しく説明してあります。というわけで、道州制で議論する上で多少なりとも参考になる中身になっているはずですので、もしご覧になる機会があったらお読みいただけましたら幸いです。


ルール解説について
ルール解説も第2部第3回ということで、気が付いたらそれなりにたまっているようです。ここで定期的に取り上げるといっておきながらずっと放置してきたのですが、今回はよい機会なので、関連する論点も含めて、検討してみます。

まず、「プランは論題を肯定するためにある」という項について。解説では、ルールの本則2条1項に「肯定側立論は、論題を肯定するためのプランを示し」とあることから、「もし肯定側のプランが、「論題を肯定するためのものではない」と言えるなら、メリット・デメリットの比較以外の理由で否定側の勝ちとなります」と説明しています。
しかし、このような理解には勝敗の決定方法としてメリット・デメリット方式のみを規定する本則5条の趣旨に反する疑いがあり、理論的にも疑問があります。そもそも、肯定側にはプランを出す義務はありません。したがって、本則2条1項の「肯定側立論は、論題を肯定するためのプランを示し」というのは、肯定側がそのようなプランを出さなければならないという義務を定めるものではなく、そのような(論題を肯定するための)プランに限って出すことができるという、肯定側の権利を定めたものと解すべきです。これは、理論的には「通常付随性」の問題として説明されるところで、論題採択に通常付随するような政策についてはプランとして提示することが許される、という考え方に基づくものです。このような趣旨の条項から、論題充当性を独立の投票理由と位置付ける解釈を導くことはできないはずです。

しかしながら、一般的には、論題充当性は独立の投票理由と理解されています。肯定側にプランを出す義務がないという通説との関係で、このように考えることができる整合的な理由付けとしては、「一旦プランを提示した場合、肯定側はその立場に責任を持つ必要があり、それに拘束される。そして、その立場が論題を肯定していないのであれば、肯定側はもはや論題を肯定するという立場に立っていないことになるから、負けとなるほかない」というものが考えられます。これはこれで説得的な考え方と言えますが、ディベート甲子園のルール上そのように解することができるかは疑問のあるところです(なお、ルール解説が「論題の政策を実施する意味がなくなるため」と説明している部分は、趣旨不明ではあるのですが、上述のような理解に基づくものではなく、いずれにせよ間違った説明と思われます)。
また、肯定側がプランを出した場合にそれに拘束されるという考え方は、絶対のものではありません。ディベートが第三者的立場から政策の優劣を判断する場であるという理解に立てば、各チームがいかなる立場を取っているかということ自体は、特に問題にする必要がないということになります。僕はこのように考え、否定側のCounterplanの提出方法についても緩い基準を取ったりして、自分なりに体系的な理解を目指しているわけですが、それはともかくとして、提出したプランと側の立場を一致させる考え方(先に説明した通説的見解)と、プランと側のつながりを重視しない考え方(後に説明した私見)の2通りの考え方があり得て、後者によればTopicalityは独立の投票理由にはならない(論題外性:extra-topicalityに一本化されます)という理解も成り立つだろうということです。

紙幅の都合からは、ルール解説がどのような理解からTopicalityを独立の投票理由と考えるのか(あるいは実は考えていなかったりするのか)について説明を要求することには無理があるのですが、以上のとおりこの問題はディベートにおける議論の在り方をどのように捉えるかということに深く関連していますので、読者の皆さまにおかれましても、一度ゆっくり考えてみてもよろしいのではないかと思います。
というわけで関連してもう一つだけ問題提起しておくと、解説のケース1で「積極的安楽死論題で、消極的安楽死のプランを出しているチームは、たとえメリットがデメリットを上回っていても勝てない」と説明している部分も、プランと側のつながりを重視しない立場に立つと、実は自明ではなくなってしまいます。というのは、プランと側のつながりを重視せず、「肯定側は常に抽象的に論題を肯定している」「論題が望ましいことが示されれば肯定側が勝つ」という理解を一貫させると、メリットの説明が明らかに積極的安楽死にも当てはまるとするならば、メリットが直接論題を支持していることになり、それによって肯定側に投票することができると解する余地が出てくるからです。これは、プランを何も述べなかった場合に同様のメリットを主張した場合に、肯定側が勝利しうることとも整合します。
では、プランと側のつながりを重視しない立場では、このような場合に否定側に投票する理由がないのかというと、そのようなことはありません。ただし、この場合の理由付けは、プランが論題とずれていることではなく、主張責任が果たされていないということに基づきます。すなわち、肯定側が「積極的安楽死によってこのようなメリットが発生する」という主張(これはいわゆるClaimのレベルの問題なので、積極的安楽死のプランを提出することではありません)によってメリットを構成していない場合、ジャッジは積極的安楽死によってメリットが生じるという判断をすることができないので、メリットを評価できず、負けとなるということです。
ルール解説の「なぜなら、このプランからメリットが発生したとしても、それは『消極的安楽死を認めるべき根拠』であって、『積極的安楽死を認めるべき根拠』にならないからです」とあるのは、上記のような考え方をいうものとして理解できます。ただし、その後に続く「したがって、これは論題を肯定するためのプランとは言えません」と述べている部分は趣旨不明で、おそらくは「これは論題を肯定するためのメリットとはいえません」の誤りであり、かつ、そのように正したとしても(僕の立場からは)賛同できない説明です。

続いて、プランの実現不可能性について説明したケース2の部分に移って検討しましょう。
ここでは、プランが実行不可能である場合、論題を肯定できていないという趣旨の説明があります。これが、実行可能性の議論をTopicalityに結び付ける趣旨なのかどうかはよくわかりませんが、そうだとすれば理論的に誤っていると言わざるを得ません。プランが実行不可能であるということは、その効果が認められないということしか意味せず、肯定側が論題を支持する立場に立っているかどうかを問題とする論題充当性の議論とは無関係です。
これは、いわゆるフィアットの問題として捉えられます。ディベートにおいては、論題の是非を議論するため、論題(を具体化したプラン)が実行に移されるという仮定を置きます。この仮定がフィアットです。
ですから、例えば、親友を魔法少女の宿命から救うためにタイムマシンを作るというプランも、そこにフィアットが認められるのであれば、実行に移されることまでは仮定されます。ですから、物理学者とかエンジニアによるプロジェクトチームができて研究がはじまるのかもしれませんが、タイムマシンを作ることができるという証明がない以上、結局時間遡行はできず、親友のまどかちゃんを救うことはできない、ということになるわけです。まぁ契約すればいいんですけど。

何か変な話が混入したので元に戻すと、解説において、論題の主体が日本になっているのにアメリカが実行主体となっているプランを出すことは「実現不可能」だから許されない、と主張している部分も、フィアットの問題として捉えられるべきであって、実現不可能だとかいう話とは関係ありません。これは、もし実際の試合において、日本の論題採択によってアメリカが特定のアクションを取ることが示されれば、それは判定上考慮されることになるということからも明らかです。この点に関するルール解説の説明は、端的に言って誤りです。
論題の主体以外の実行主体によるプランにフィアットが認められないという考え方は、フィアットが認められる主体の範囲の限界に関する論点なので、フィアットの主観的限界と呼ぶことができます(僕が呼んでいるだけです)。このような限界が設けられる理由は、論題の主体以外の実行主体による行為を仮定することは、論題の是非を議論するうえで不必要であるばかりか、非現実的であるからです。日本の政策論を議論する上で、「アメリカが~のように動くから」という仮定を勝手に置かれても困るというわけです。
フィアットの主観的限界は、論題の主体の下部組織を実行主体とするプランを認めてよいかどうかという形でも問題になり得ます。たとえば、道州制論題で、市町村を主体としたプランにフィアットを認めてよいかという問題です。市町村は独立した議会が意思決定を行うからダメだといえそうですし、市町村はあくまで国の下部行政機関であるというところからは、プランの中身によっては日本国の行為と同視してフィアットを認める余地があるのかもしれません。

フィアットの限界については、どのような行為についてフィアットを認めることができるかという「フィアットの客観的限界」という問題も観念することができます。これは前述した通常付随性の概念と密接に関連しており、考えるといろいろ難しい問題もあって面白いのですが、気が付いたら感想が長くなっているので、今日は省くことにします。気になる人は、ここで公開している「ディベート甲子園判定手続法の概要」に説明があるので、暇なら読んでみてください。上で書いている内容もちょいちょい盛り込んであります。
ディベートのルールというのは分かりやすそうに見えるのですが、実はそれなりに考えるべき点がいろいろあって、試合での議論と同様に、様々な理念に基づく複数の考え方が成り立つ面白い世界です。もし余裕があったら、リサーチの息抜きにでも考えてみるとよいかもしれません(こういうのが好きな人はおそらく法科大学院への入院にも向いているのでしょう。ただし将来は保障されない)。

[5/30追記]
ルール解説の執筆者がブログで私見を書いていたのでトラックバックしておきました。

詳細に検討することも可能ですが、ここでは以下2点だけ、コメントしておくことにします。

1.論題充当性の理解について
1.1 ディベート理論一般との関係
執筆者は、少なくともディベート甲子園のルール上において、論題重要性の議論はメリットの否定を通じて投票理由になるという点については、筆者(愚留米)と近い見解を採っているようです。
しかしながら、プランの提示が肯定側の義務ではないという問題との関係で、「たとえ肯定側がプランを示さなかったとしても、その試合においてさえ、ルールに言う「肯定側のプラン」は存在する」と述べるように、肯定側のプランの存在にこだわる部分については、個人的には賛同できません。というのは、抽象的に論題を肯定する立場のように、肯定側に何らかの立場を認める必要はあるのですが、それを「プラン」と表現する必要性はないからです。ディベート理論的には、主にCounterwarrantという議論との関係で、ディベートで争われるのはプランの是非であるという見解(Plan focus)と論題の是非が争われるのだという見解(Resolution focus)が争われてきたのですが、後者が現在の通説であり、僕もそのように理解しています。論題をめぐって争っているのに、わざわざプランの是非という形に置き換えて考える必要はないからです。このような考え方からすれば、肯定側がプランを出していないのに「プラン」を求め、そこからしかメリットの発生を評価しないと考えなければならない必要性はないでしょう。

したがって、解説者が「肯定側が「死刑を存続する」ということを明示的直接的に、あるいは立論中の資料の前提などの形で黙示的間接的に、示した場合、もはや「常識的に肯定側プランには死刑廃止条項が含まれるはずだ」という判断をすることができなくなるからです。この場合、先述したTopicalityの議論を通じて、否定側に投票することになります。」と書いている部分についても、賛同できないということになります。
あくまで「プランからのメリット」にこだわるのであれば成立する見解ではあると思いますが、そのようなこだわりに個人的には納得できないということもありますし、黙示の主張なども考慮して肯定側の立場を何らかの形で一に定めようとする(抽象的な論題の肯定という立場を認めない)のであれば、それは「反論題的立場を取ること自体が肯定側の敗戦理由になる」という、論題充当性を独立の投票理由に位置づける見解に近づきます。そうすると、メリットの評価を介して論題充当性を位置づけるという先述の理解との整合性が問題になってくるように思われます。

1.2 ディベート甲子園のルール理解との関係
他方、上記のような考え方は、ディベート甲子園の本則2条1項の「論題を肯定するためのプラン」という文言の意味を重視し、そこから一貫した解釈を導こうとする趣旨で主張されているのだとすれば(おそらくそうでしょう)、傾聴すべき見解といえます。同項の文言から「論題を肯定するためのプラン」からだけメリットが発生すると解することは自然ですし、そこから「ディベート甲子園のルールはプランとの関係でのみメリットを理解する」と理解して、プランの存在を常に考慮することでメリットを評価しようとするという姿勢は、ルールの整合的解釈運用として正しいでしょう。
しかしながら、個人的には、本則2条1項にそこまで読み込む必然性もないように思われること、前述のようにプランとのつながりにこだわること自体に違和感があることから、本文で述べたように、抽象的に論題を肯定するという肯定側の立場を想定して判断すればよいのではないかと考えています。本則2条1項は、プランによってメリットを説明するという典型的場面を想定しているにすぎず、論題そのものからメリットが説明されることを否定するものではないという理解です。

2.実行可能性の問題について
ここは短めにコメントしますと、執筆者補足解説には「「実行不可能」であるプランは「~~すべきである」という論題を肯定する論拠になりえない。したがって、このプランはルール本則2条にいう「論題を肯定するためのプラン」になりえない。よって、他の論点に関わらず、判定上考慮されるべき「メリット」はないことになり、否定側に投票すべき、ということです。」とあるのですが、これは間違っているように思われます。
具体的には、実行不可能性の問題を「他の論点に関わらず」という形で特殊な(独立した)投票理由として説明しようとしている点です。プランが実行不可能であるという反論は、プランに解決性がないという普通の反論と本質的に変わりません。ルールに即して言うなら、論題を具体化する方法であれば、それが実現不可能であっても(そういうことが現実的にありうるのかは置いといて)、本則2条1項の「論題を肯定するプラン」には該当するものの、実行不可能である以上問題解決の手段にならないので、メリットが証明されずに負けるというだけの話です。

基本的には、普通の議論と同様に説明できるものについて、独立の投票理由として説明する必要はないと考えられます。実行可能性の問題を適切に位置づければ、それは「フィアットが及ばない、肯定側が立証すべき事項」という理解になるのであって、これはプランの実効性という一般的な議論と並列的に位置づけられるので、だったらそのように説明すればいいだろうということです。


以上、簡単な感想と言いつつ長文を書いてしまいました。いつものことではありますが。
内容についてもいつも通りで、無駄にアグレッシブな記事になっているのですが、批判的に検討するのがディベート文化だということでご容赦ください。もちろん、上記記事に関するご質問やご批判もお待ちしております。

ディベート甲子園の選手向け | 02:10:19 | トラックバック(0) | コメント(2)