愚留米の入院日記
日当たり良好の某法科大学院既習病棟を退院した法務博士の日記。しかし内容はほとんど趣味のディベートの話
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ジャッジングの留意点~オンラインディベートの判定を素材として~
東海地区の高校予選が終わったのですが、その感想に係る内容は翌週の決勝戦を見てから書くことにします。その代わり、以前にも紹介した私的論題解説がNADEのサイトにこっそり公開されているので、道州制について何か期待していた方はそちらをご覧ください。というわけで、今回は暖めていたオンラインディベートのネタで記事を書いてみました。

例によって批評的記事なので攻撃的になっているきらいはありますが、いつものとおりということでご容赦ください。ちなみに今回のオンラインディベートでは僕も判定を書いているので、そちらのほうに問題があればご批判いただけましたら幸いです。署名であれ匿名であれ何らかの名義で文章を書くということはそういうことなのだと思っております(し、他の文書についても当然そのような責任を持って公開されているものだと理解しています。この点については異論もありうるのでしょうが)。

序.企画の趣旨
今年もオンラインディベートで中学2試合、高校4試合が行われ、大会でジャッジをしている方が判定講評を述べています。そこで、その中から判定の部分に限定して、個人的に気になったものを取り上げ、そこからジャッジングで気をつけるべき一般的教訓を抽出しようという趣旨です。

1.どこをどうやって評価したのかきちんと述べる
当たり前のことながら難しいのは、自分がなぜそのメリット・デメリットを評価したのか、あるいはしなかったのかという点について、具体的かつ説得的に説明するという点です。しかし、この説示をきちんと行わなければ、選手は納得しませんし、どのように議論を改善すればよいのかも分かりません。
この「どこをどうやって評価したのか」という説明に難があると思われるのが、富山第一高校と岡山白陵高校の試合をジャッジされた名越先生の判定です。

判定については実際に見ていただきたいのですが、判定では、メリットについて「肯定側の議論に関して」という部分で具体的な評価を全く述べず、結論部分で「人口や企業が、現在過疎化の進んでいるような道州、地方の市町村等に“確保できれば”という条件のもとに述べられているメリットの、その条件がプランで満たされるのかが、“立論、及びそれに続く反駁の表現だけでは”判断できなかった」と述べるだけでメリットを排斥しています。この試合のメリットは確かに強く評価できるものではなかったのですが(本記事の趣旨から講評はしませんが、前の記事で指摘したことがこの試合、というか全試合の立論に当てはまります)、メリットでは現状において中央省庁の縦割りによる無駄があるという話が一応示されており、公共投資の効率化で財源が生まれるという解決性の分析と対応していることから、無駄が削減できる部分があると認められること、必ずしも内因性とは対応していませんが道州制にすると何らかの前向きな可能性があるという話が出ていることから、直ちにゼロということはできません。であるのに、上記判定のように「メリットの条件が満たされているのか判断できなかった」という旨の表現だけでは、選手はなぜメリットがダメだったのかを理解できません。

一方、デメリットの評価については、判定では「否定側の議論に関して」というところで、『「現状で起こっている問題点」「プラン後に“新たに”起こるだろう問題点」の区別が、私には分かりにくいです』という記述があり、これ自体は正当な指摘です。というか、この試合のデメリットでは、プラン導入後の事情について何ら証明がなく、発生過程が全く示されていないという評価が妥当でしょう。ですから、僕はデメリットはゼロであると評価しています。
しかし、判定では、結論部分で「新たに形成される“州都という都市”に、人口や企業が集中するだろうことが想定されるので、深刻性で示された部分が、やや限定的ではあるものの発生するだろう」ということで、デメリットがわずかながら発生していると評価されています。この点については議論の評価として(少なくとも僕の見解としては)疑問があるところで、現在でも県庁所在地として存在している大都市が、州都となるだけで一極集中の元になるのかという点については、何らかの論証を要するところでしょう。何しろこの試合のデメリットは「大都市に集中する」ということを言っているだけで、証拠資料には許認可権限など州都固有の意義と思われる要素と一極集中の関係すら言及がないのですから。判定では「否定側の議論に関して」の部分が「人や経済は都市部に集中する。(発生過程4の資料中の「効率」重視で)、過疎化した地域は大変(深刻性の最後の資料)は、資料で示されたことに加えて、常識的にありうる話」といったことを述べているものの、これは道州制による変化とは関係なく、これだけでは判定理由にはなりません。判定自身も「プランでどう変わるのか、が議論の評価を分けます」と明言しているところです。しかし、その重要な部分について、判定はほとんど何も理由を述べていません。メリットをあんなにあっさり切ったのに、デメリットの重大な立証不備については大目に見るというのでは、判定の妥当性にも疑問が生じてきます(個人的には、この試合では否定側に入れるのは難しいと考えています。メリットを切るという判定はありえるし、本当はそう評価したいのですが、このレベルでメリットをゼロにすると、ほとんどの試合で否定側が勝ってしまいます)。

名越先生のコメントでは、講評の部分に大変参考になる内容が多く、その点では教育的によくできたコメントだと思います。しかしながら、ジャッジにとって最も重要で、教育性に貢献する仕事は、判定理由をきちんと述べるということです。その意味で、今回の判定は、あまりにも貧弱であると言わざるを得ません。
実際の試合でジャッジを行う際にも、何となくで判定を下してはいけませんし、特に判定理由を説明する主審は、議論のポイントについてきちんと判断を示すよう心がけなければならないということです。

*上記コメントはかなり厳しく書いており礼を失しているとも思ったのですが、敢えてこのように書いているのは、名越先生自身が大会で思うような成績をあげられなかった選手に対して厳しいコメントを書いているのを拝見して、僕の立場から「自分の判定のどこに非があるのか、が自覚できないからこそ、説得的な講評判定ができない」ということで私見を述べさせていただいたことによります。
なお、関連して名越先生の選手に対するコメントについて感想を申し上げると、公開のブログにおいて「選手の頑張りが足りなかった」などの指摘を行うことが果たして教育的に適切なのだろうか、というのが率直な感想です。こう書くと「お前のブログはもっとヤバいだろう」と突っ込まれそうなのですが、僕は議論内容に即した批評にとどめており、その意味で試合で述べる講評と本質的に変わりませんし(実際、僕は同じようなことを皆が見ている試合会場で話しています)、客観的に議論を見ている第三者が批評を行うのと、選手の唯一の理解者となる指導者が叱責するのでは、意味合いが違ってくるはずです。
ディベートの指導方針については様々ありうるところで、名越先生のディベートに対する情熱・意欲や、選手に対する思いは十分に承知しているつもりではあるのですが、個人的にはもっとディベートについて気楽に構えて、ディベートを楽しんでもらうのがよろしいのではないかと思っています。全敗だったということ自体も、ディベート教育という観点からはどうでもよいことで、そこから何を得たのか、得させてあげられたのかということだけが、(特に指導者が)反省すべき点です。拙い指導経験からではありますが、僕は、ディベートをやる気にさせられないのは指導者に全面的に責任があるのだと考えています。ディベートは本来的に楽しい競技ですからね!
以上、本来は先生のブログにコメントすべき内容ですが、先生はこちらの記事をご覧になるかと思われることから、元記事の空気を壊さないよう、あえてこちらでコメントさせていただいた無礼をお許しください。

2.重要な論点・証拠の評価を厳密に
上記は「説明が足りない」という指摘でしたが、説明がされているとしても、重要な部分について妥当性を欠いたり、説得力に欠ける判断・説示をしているということも当然問題となりえます。
この点で判定説示の一部に疑問があるのが、岡山白陵中学校と南山中学校女子部の試合をジャッジされた武田さんの判定です。
この試合の判定は、個々の議論評価については総じてよく分析されており、さすがに経験を積んでいると感じさせられる内容となっています。しかし、デメリットで大衆操作の議論を採用したところについては、以下のような疑問があります。

この試合の否定側立論では、大衆操作が起こるということの立証として、「また、投票率が90%を超えるような高さであった場合、それが個人主義的自由主義や代表民主制の健全な維持・発展にとって望ましい姿である、とは一概には言えない。というのも、政府の側からの巧みな宣伝(大衆操作)によって有権者が特定の投票行動をするよう駆り立てられる、ということもありうるからである。」というエビデンスが読まれているだけです。これは、政府が大衆操作をするという証明を伴っていないし、「ありうる」としか言っていない、その意味で弱い証明です。
さらに突っ込めば、この資料の「投票率が90%を超えるような高さであった場合」でも望ましいと一概には言えない、という部分は、(判定で示唆されている)「低投票率なら大衆操作がない」という固有性ないし高投票率により大衆操作がやりやすくなるということをいう趣旨ではなく、単に「投票率が高くなるだけで望ましいというのは単純すぎる」ということを述べているに過ぎないという理解も可能です(もちろん、数が増えると適当な投票も増えるので操作されやすいということを含意しているとは思うのですが、これは別の証明なども見て推論することで出てくる結論です)。
これに対して、判定では、肯定側第二反駁の反論が遅すぎるとして評価できないことを理由として、大衆操作の可能性を認めているように読めます。そして、この論点の帰結として、「40%の2割ちょいの無関心な層の多くは大衆操作されることになります」と述べた上で、否定側に投票しているものと解されるのですが、これはどうでしょうか。少なくとも否定側立論そのものに対する評価が不当に高い、あるいは何らかの理由で採用するとしても説明が粗雑過ぎるという評価を避けることはできないでしょう。

この試合で否定側に投票するとしたら(どっちもありうると思います。僕は後述する理由から肯定側に投票します)、むしろ強く指摘すべきは、肯定側立論が「投票母数が少ないと特定団体の支持の影響力が相対的に強まる」という根幹のロジックについて明確に主張立証できていないという点でしょう。僕は「投票率が低いと組織票を持つ団体の応援を受けた候補者が当選しやすくなる」という主張に着目し、その根拠は一般的な推論から十分言えるだろうということでメリットをそれなりに評価するところですが、このあたりはもっと説明を要するところであり、実は直接の立証がないということで厳しく評価することも可能でしょう。この点については武田さんの判定でもきちんと触れられているところです。
その上で、大衆操作の議論について、政府が大衆操作を行う動機について立証がないにもかかわらずデメリットの発生を認める理由付け(例えば、大衆操作しやすくなること自体が問題だという説明がありえますが、否定側立論はそのような趣旨の主張をしていないので厳しそうです)を述べることではじめて、否定側に投票する説得的な判定理由を説明したということになります。

以上のように、総じて説得的な説明ができているにもかかわらず、判定の核心となるポイントで評価が甘くなると、判定全体の説得力が下がってしまいます。そして何より怖いのは、全体としてよく説明されているだけに、選手が上記のような「甘さ」に気付かず、議論を改善する機会を失ってしまうということです。
武田さんのように経験豊富なジャッジでも、こうした判定の甘さが出てしまうわけで、より短い時間で聞いた内容に基づいて判定を行う普段のジャッジングでは、(僕も含めて)詰めの足りない判定をしてしまうということは大いにありうることです。それだけに、特に重要な争点となっている部分に限ってでも、逆の見方はありえないか、他の争点での評価と整合しているか、鍵となるエビデンスの証明力をきちんと評価できているか、きちんと確認することが求められます。

3.争点としてあがった部分に適切に言及する
判定自体には問題がないけど、選手を説得するという見地から、取り上げるべき事項を取り上げていないという問題も良く見られます。
その一例として、東北学院高校と高岡第一高校の試合をジャッジされた後藤さんの判定を取り上げることにします。

この試合は判定は見やすいところで、ほとんどのジャッジが否定側に投票する内容となっています。というわけで後藤さんも否定側に投票しており、判定理由もまぁそうだろうという内容になっています。
しかし、この試合では、肯定側第一反駁が証拠資料を付し、財源不足をいうデメリットに対して「現行の補助金制度が財政破綻の原因であるからプランで補助金をなくせば財源不足も解消される」といった趣旨の反論を試みています。この反論はデメリットを否定しきる強度ではないし、主張の付け方なども上手でないので分かりにくくなっており、判定を覆すには至っていないわけですが、上記反駁はこの試合で両サイド通じて唯一証拠資料つきで出された「中身のある」反駁であり、その成否がデメリットの成否に影響するものですから、結論が変わらないとしても判定上ぜひとも触れるべきものです。
にもかかわらず、試合の判定では、この議論についての言及がどこにもありません。これでは、肯定側が「あのジャッジは反論をちゃんと聞いてたんだろうか」と疑問を抱く可能性がありますし、判定の合理性という点からも、一応中身がある反論がある以上、それを排斥することではじめて自分の判定を正当化できると考えれば、上記反論に言及しないのは説明不足ということができます。

ただ、限られたコメントの時間で試合中の議論をどこまで取り上げるか、というのは難しい問題です。効率よく判定を行う基本は、判定を左右する重要な争点に集中して議論を見ることであり、選手の中では勝手に盛り上がっているけど的外れだったり勝敗から遠い論点だったりする部分については、一応フローには取るけど検討対象からは外すというのが通常のジャッジだと思います。だからといってそうした議論に一切言及しないと、選手からすると、あんなに議論したところのコメントがない!ということで、ジャッジは議論を全然分かっていない…と誤解されてしまうところです。試合中長い時間をかけて議論された内容について、勝敗と関係ないという理由だけで無視してしまうのは、その議論をきっかけに何か気付くことがあるかもしれないのにそれを切り捨てるという点で、もったいないところでもあります。
このような場合、重要でないのに盛り上がった部分について、取り上げた上で「なぜこの試合では重要でなかったのか」ということを説明してあげるという作業が必要となります。望ましくは、その中で「どうすれば勝敗に関係する議論になったか」「その議論を応用して他の部分で使えないか」といった話をすることで、自分たちのした議論が勝敗の関係では無意味だったとしても、次につながりうるものだったという可能性を教えてあげることを目指すべきです。もちろんこれは余技であって、本筋である判定の理由付けが優先されるべきではあるのですが、選手の中には、勝敗以上に「自分たちの出した議論がどう受け取られたか」も気になる人がいるのだということです。

終わりに~ジャッジにとって大切なこと~
以上、僭越ではありますが、オンラインディベートの判定を取り上げて批評をさせていただきました。書いてしまっておいてなんですが、取り上げた方々には申し訳なく思っております。しかし、選手のスキルアップにとって最も有益なのが第三者であるジャッジのコメントであるように、ジャッジのスキルを磨くにあたっても第三者の批評や検討が重要ではないかと考えたため、敢えて上記のような記事を書いた次第です。お前がそのようなコメントをする適格にはないとか、自分の判定を先に見直せという批判は甘んじて受ける所存です。

このような記事を敢えて書いた理由と関係して最後に「ジャッジにとって大切なこと」について私見を述べておきます。
ジャッジにとって一番大切なことは、ジャッジが選手に対していかに影響を与えるのかということを自覚し、その責任を受け止めてジャッジをするということにあると思います。僕自身もそうであったように、ジャッジの講評判定は、選手の議論内容に影響を与え、それを通じて選手の「議論する力」の成長を左右し(時には妨げ)、さらには選手の進路や人生を左右しうるものです。ジャッジという職責がそのようなものであるということを自覚した上で、それではそのような役割を自分はなぜ引き受けるのか、引き受けたからには選手にどのような影響を与えるべき/与えたいのか、ということを考えた上で、自分なりの「ジャッジの役割」についてイメージを持って判定に臨むことが、よいジャッジになるために必要不可欠なことです。そこでは、単にディベートがよく分かっているかどうかといったことではなく、ジャッジとしての良心が問われます。この良心がある限り、そのジャッジは判定をよりよくするために努力し続けることができるし、いつか素晴らしいジャッジになることができるはずです。

そして、ここで問われている「ジャッジとしての良心」とは、突き詰めると大変深いものです。ジャッジは最終的に一方の側を勝たせなければならないし、その論理構成においても「人がそう思うから」ではなく「自分がこう思うから」という理由を貫かねばなりません。もちろん、その理由を選手に納得してもらう努力は怠ってはならないし、そのために気をつけるべきこととして上のような批評を書いてきたわけですが、議論の中にはどこまでいっても答えがない、いわば「自分はこう思うから」ということでしか決断できないものがあります。そのようにして答えを選び取る立場であることをきちんと分かった上で、自分なりの理由を持って答えを選び取ること、それがジャッジに求められるものです。
そこで「この選択を取ることが選手にとって望ましいのだ」と言い切るには、自分の選択、もっと言うなら自分の考え方や人格そのものを肯定する必要がありますから、ジャッジというのは自分自身が問われる、本当に大変な仕事です。僕自身、そのような仕事を引き受けてよいのかと思うことも正直なところあります。そういう大変さを感じるということこそが、選手に影響を与えるということ、教育的であろうとすることの難しさだということなのでしょう。

ただ、自分へのなぐさめという意味も込めて書いておくと、上記のような難しさを感じないような完璧なジャッジはおそらくどこにもいません。だからこそ、そういう難しさにもかかわらずジャッジを通じて自分にできることをしようという「ジャッジとしての良心」が大切になってくるのだと思います。幸いなことに、中高生の大会でも、大学生の大会でも、それぞれに試合を楽しみ、よりよい議論を目指す選手や、それを支えようとする多くのスタッフの姿を見ることができるため、それに恥じないような良心を持たねばならないという刺激を得る機会には事欠きません。あとはそれを実践できるかというのが難しいところではあるのですが…。
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