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アカデミックディベーター

Author:アカデミックディベーター
日当たりの良い某法科大学院を2009年3月に卒業。
ライフワークである競技ディベートについてぼちぼち書いています

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第14回JDA秋季大会の雑感
実は研修所の寮でもネットがつながる環境にあるのですが、研修やらクラスメイトとの交流やらでなかなか記事を書く機会がありませんでした。
そんな中、去る10月30日にJDAのジャッジを務めましたので、今日はその感想としていくつか思ったところを書くことにします。ちなみに今年の秋季JDA(原発廃止)の決勝はなかなか良い試合で、両チームの激しい攻防、職業ディベーターによるお手本のような二立論的展開(Two constructive speech)など、勉強になりますので、トランスクリプトが出たら(出るのか?)是非ご覧になってください。


1.問題をきちんと特定する
これはどの論題にも言えることですが、メリット(やデメリット)で「何かまずいことが起こる/起きている」といいたいのであれば、その発生原因や過程をきちんと分析し、特定して示す必要があります。
原発論題でいえば、原発が事故を起こすという問題がありますが、僕が予選で見たチームはいずれも「原発の点検はずさんだ」「耐震設計が甘い」などの不安になる要素を挙げてはいるものの、最終的にメルトダウンなどの事故になる理由が示されず、「地震になるとどこかが壊れて事故になるよ!」という程度の説明しかできていませんでした。
確かに、点検がずさんだったり、耐震設計が甘いようであれば、事故が起きそうな気がするものです。しかし、これは実際の意思決定でもそうですが、そういう「何となく」で原発廃止という大きなアクションの是非を考えることはできません。その「何となく」を掘り下げ、論題を採択しなければならないのだとジャッジを説得できるくらいに問題を具体化してこそ、メリットやデメリットは意思決定上考慮しうるものになるのです。

ディベートで社会問題を議論することの意義の一つは、そのテーマについて「何となく」ではなくきちんと考えることにあります。そうやって物事を掘り下げる姿勢を貫くことで、ディベートの勝率が上がるのはもちろんのこと、本当にきちんと決めなければならない場面で思考をさぼることなく、踏みとどまってより良い答えを探そうとすることができるようになるはずです。
実のところ、3要件に基づく議論の構築など、ディベートでの基本的な思考方法は一つのツールとして有用ですし、ディベートという場で議論をすることは非常に良い訓練ではあるものの、ディベートをちょっとやっただけで深い思考力が身につくとかそういうことはおそらくありません(そういうものは、特定の学問を深く学修するなどして、自分なりのあり方として育てていくほかないのではないでしょうか。まぁ僕も育ってませんがw)。しかし、そうした思考力を発揮する前提となる「何となくで物事を考えない」という姿勢は、ディベートをきちんとやっていれば必ず身につくし、それを身に着けているということは大きな武器となります。そういうことを意識しつつ、自分たちはきちんと問題を特定できているのか…ということを考えてディベートに取り組まれることを願っております。相変わらず偉そうな物言いで恐縮ですが。

2.立証責任論の精緻化を
今回のJDA決勝は、立証責任のレベルで競った、僅差の試合でした。立証責任の問題についてはいろいろ考えるところがあるということを以前書きましたが、今日はJDA決勝の議論に即して、立証責任に関する議論を「どこに」働かせるか、そして「なぜ」そこで立証責任を転換できるのか、という角度で、思うところを述べます。

まずは「どこで」立証責任論を用いるかという点について。
JDA決勝で肯定側は、原発は危険なので予防原則から廃止を前提で考えようという資料を引用し、判定に迷ったら肯定側に投票すべきという論旨を展開していました。これがいわゆる推定の転換をいうものか、それともよりダイナミックに議論の審査密度を変動させようとするものであるかという問題はあるわけですが、いずれにしても、上記の議論は「最終的な判断」の場面で判断基準を動かそうとするものです。
これに対して、実際には出ていませんが、この試合においては「最終的な判断」の前段階である「原発の安全性評価」の場面で立証責任を議論する余地があります。例えば「原発は高度に専門的であり未知のリスクがありうるから、これを安全だという側にその説明責任がある」として、否定側に安全性の論点で重い主張責任を課す議論がありえます。このレベルでも立証責任(審査密度)を変動させることができれば、肯定側は一気に有利になるはずです。
立証責任の転換というと、推定の転換というイメージが強く、メリット・デメリットの比較で問題になると決めつけがちなところですが、その可能性はもっといろんなところにあるはずです。もちろん、一番大事なことは「誰が説明すべきか」という議論ではなく「何を説明するか」ということではあるのですが。

次は「なぜ」立証責任を転換できるのかという点について。
実は、僕は今年の秋季JDAで恐れ多くも決勝ジャッジを務めさせていただいたのですが、そこで迷ったうえで判定を下した理由は、肯定側の立証責任に関するエビデンスの解釈にありました。前述のとおり、肯定側は「予防原則から廃止が原則」という話をしていたのですが、僕はこのエビデンスが予防原則を持ち出す当然の前提として、原発事故が他の事故と比べて特に被害が大きい特殊なものであるということが示される必要があると考えました。事故が怖いから予防原則でやめておこうというだけであれば、自動車も乗れないことになってしまうわけですから。そして、試合中の議論を検討した結果、事故発生の可能性は否定されていないものの、事故の被害は否定側が出した発電量ごとの統計的な事故被害者数に現れた「統計的リスク」を超えるものではなく、それを超えて絶対的に事故を忌避すべきということはできないと判断しました。
僕自身も過去に死刑論題で後悔しているところではありますが、立証責任の転換をいう議論について、その根拠まで掘り下げて適用範囲の射程を測ろうとする議論は、実際の試合ではほとんど見られません。しかし、この試合で僕が上記のように判断したように、このあたりをうまく論じることができれば、ジャッジに対して大きな訴求力を持つのではないでしょうか。JDA決勝の否定側は、原発事故のインパクトを否定する戦略に出て成功していたのですが、そこで「この程度のインパクトであれば特別視する必要はなく、予防原則ではなく通常の比較衡量によって決めるべきである。そして、肯定側は燃料費コスト増大を甘受すべき『特別の』リスクを証明できていない」という定式化を図っていれば、何となく事故発生のリスクを考えて肯定側に入れるという可能性を排除し、勝ちに近づくことができたのではないでしょうか。

3.最も大事なことをきちんと明示する
今回のJDA決勝では、非常に多くの議論が提出され、複雑な試合になっていました。こうした試合を動かすのは、争点について「ここを見てほしい」というポイントを的確に明示し、聞き手を「自分たちに有利な方向に」楽にしてあげるスピーチだったりするように思われます。
この点、決勝の2NRは非常に巧妙で、最初に「この試合で大事なのは原発事故のインパクトが示されたかどうかだ」ということを明確にすることで、試合の争点を自分たちに有利なところにぐっと引きつけていました。それでも結果は僅差で肯定側が勝ってはいるわけですが、この試合では実のところ事故発生の可能性について否定側が反論に失敗しており(後述)、普通に考えれば肯定側に入れるのが「楽な」試合です。しかし、否定側が比較的有利に展開していたインパクトの部分に焦点を当てられると、これを無視して肯定側に入れるのは一気に辛くなってしまう。そういう試合だったように思います。
一方で、肯定側は個々の議論について非常によく返していて、その点では非常に良かったのですが、最終的にそうした有利さをコンパクトに示せなかった点で、損をしていたように思います。例えば、この試合で肯定側は炉の冷却ができなくなる理由を精密に分析して提示していたのですが、否定側の反論はほとんど「肯定側が挙げていた福島の事故は、炉がマークⅠという古くてヤバい型だったからであり、これを安全なAP-1000型に代えれば事故は起きない。なのでマークⅠの炉をすべてAP-1000に代えるカウンタープランを提示する」というところに終始していました。肯定側の分析は原子炉一般に言えるもので、少なくともマークⅠだけでなくAP-1000以外の炉全部にも妥当しうるところですから、否定側の反論はマークⅠ以外の原子炉の安全性を示せておらず、主張レベルで事故リスクを否定しきれていないことになります。肯定側は、否定側の上記問題点を最初に指摘し、その上で自分たちの分析がマークⅠ以外の炉にも当てはまることを説明すれば、事故発生リスクについて細かな話をしなくてもよかったし、ジャッジもずいぶん楽ができることになります。そこまで楽をさせた上で、余った時間でインパクトの部分についてそれなりにフォローできれば、ジャッジは安んじてメリットに投票できます。

これはほかの試合にも言えることで、スピーチでは一番大事なことを早めに指摘して、議論の見通しを自分たちに有利な形に持っていくべきです。これは「どういう順番で論点を処理するか」という大きな話だけでなく、「その論点についてどの反論を先に出すか」「その論点のまとめで何を最初に話すか」というレベルでも妥当する教訓で、そういう考え方でスピーチしようとすること自体が、重要な部分に議論を集中させる思考にもつながるのではないかと何となく思っています。
ただ、言うは易く行うは難しということで、ブログでエラそうに講釈を垂れるのと、実際の試合でスピーチして実践して見せるのは大違いだったりするわけですが…。

JDA決勝批評 | 02:20:31 | トラックバック(0) | コメント(0)