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アカデミックディベーター

Author:アカデミックディベーター
日当たりの良い某法科大学院を2009年3月に卒業。
ライフワークである競技ディベートについてぼちぼち書いています

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関東春季大会の雑感
去る25日のNADE関東春季大会に一部参加してジャッジをしてきたのですが、その時の雑感を短め(当社比)に書いておくことにします。

1.中学論題における還付条項の許容性について
前回高校論題の付帯文について私見を述べて若干盛り上がったところではあるのですが、実はもっと温めていたネタがありまして、それを講評でも披露してきたので、ここでも紹介しておくことにします。

今季中学論題の付帯文には、以下のようなものがあります。

*有料化とは一回の利用につき定額の支払いを義務づけることとする。
*有料化の対象はすべての利用者とする。


これは、症例や財産状態によって利用額に差をつけ、あるいは免除するプランを禁じようとするものと解されます。その理由は、かかるプランの提出を許すとデメリットが制限されて公平性が害されるといったところにあると推測されます。

しかし、この付帯文は、徴収を一律にすべきと定めていますが、その後徴収した費用を還付する(返してあげる)ことは何ら禁じていません。したがって、追加プランとして「結果として重症で救急車を呼ぶ必要があった人にには返金する」「支払不能であると証明された場合には返金する」といったものを入れることは付帯文によって禁じられていない、ということです。
それは実質的に支払義務を免除していることになるという反論もあるかもしれませんが、義務の付与とそれを前提とする義務の免除は分けることができて、少なくとも付帯文が要求する「一律の徴収」を行っている以上、論題の要請は完全に満たしており、その後の還付を禁じたいのならば付帯文で明確に定めなければならないと考えるべきでしょう。
そして何より、料金の還付というのは合理的な政策で、実際に海外の救急車有料化導入事例でもそのような扱いになっているところがあると聞きます。また、肯定側について「気軽な救急車利用が問題だ」などという議論を想定しておきながら、不適切利用者以外の人からも金をとるというプランを強要するのはそもそもが不合理な要求であって、それをあえて公平性という基準で禁じたいのであれば、明確な規定が必要と考えるべきです。

というわけで、中学論題においては、還付プランが当然にありうることを前提として、これに対する対策を考えるべきと思料します。具体的には、還付という方式をとることによるタイムラグ(すぐには戻ってこないでしょう)によって生活に困る人がいるかもしれないという話や、還付とはいえ軽傷なら返ってこないとかの場合にはそれによって救急車を呼ぶのを躊躇する人が出るのは変わらないとか、そういった議論を検討する必要があります。

2.外国語資料の翻訳利用
高校論題である死刑廃止では英語圏のエビデンスでよいものが多く、またJDAでそのような文献の翻訳資料が使用されて出回っている(僕も後輩の文法厨に頼んでいろいろ訳出してもらいましたw)こともあって、英語資料の翻訳利用が許されるかどうかが問題になったようです。

また公式に何か発表があるのかもしれませんが【5月1日に解説が発表されました。本節末尾で簡潔にコメントします】、基本的には翻訳資料というだけで証拠としての適格が否定されることはなく、翻訳の巧拙(誰が訳したか、訳文の検証可能性など)により信用性に差が出うるにすぎないと考えるべきでしょう。
この点については、過去に書いたディベート甲子園ルール解説のテキスト(こちらに入っている「ディベート甲子園判定手続法の概要」)にも書いたので、気になる方はそちらを参照してください。というか、この後で論じる問題も含めて、ルール上問題になることはだいたい過去に書いているのですが、なんというかあんまり読んでくれている人がいないようで悲しいです(別に読まなくても何も困らないのですがw。というかその前にプレパしましょう)。

「ディベート甲子園判定手続法の概要 新版」67頁
ディベート甲子園が日本語でのスピーチを当然に予定していること(また、ジャッジも外国語を理解できるとは限らないこと)から、外国語文献をそのまま使用することはできません。しかし、翻訳を介した場合、それは「原典の文面をそのまま引用」したものとはいえないので、細則B-5項の直接引用主義に反することになるとも思われます。
この点は難しいところですが、ディベート甲子園での論題がしばしば専門的で高度な内容を扱うものであり、外国語文献を利用する必要性が認められることから、翻訳の正確性については証明力の次元で問題とし、翻訳については「原点の文面をそのまま日本語に再現しようとしたもの」として直接引用主義の趣旨に反しないと解しうるものと考えられます。もっとも、この場合にも翻訳の正確性については十分注意する必要がありますし、翻訳により引用された場合には、それが翻訳によることや、誰が翻訳したかという事項についても出典として述べられるべきである(それが欠ける場合証拠能力が否定される)と解すべきです。
(*)過去の見解から改説しています。当時証拠能力否定説をとっていたのは、中高生の翻訳に類型的信用性がないというのが無難かなぁと思っていたからですが、それは英語が苦手だったお前の思い込みだろうと自己批判して現在に至りますw


【5月4日追記】
5月1日付で、試合運営委員会から「特に注意の必要な証拠資料について」と題する解説が発表されました。内容の要旨は、①インターネット上の資料に関する扱いと、②外国語文献の引用の否定する旨の見解表明です。
①については、内容には特に異論はなく、選手として遵守すべきものです。ただ、この解説を読むだけでは「過去に存在していたが現在は削除され、キャッシュとして残っていない」資料の扱いをどうするかはわかりません。下記のとおり、過去に存在していたことが示せるのであれば、現在原サイトがなくなっていても証拠として使用可能と解せるのですが、もめるリスクを抱えてまでそのような資料を使用するかどうかは、選手の皆さまの自己責任です(皆さまご存じのとおり、このブログの見解は必ずしもジャッジの一般的な理解を反映していません)。
②については、私見では解説の内容に十分な理由がないと考えています。その理由を要約すると、(1)細則B-5項の趣旨は必要なく文面を改変する行為を禁じているのであり、例えば図表の内容を口頭で紹介する場合や、英語文献を意味の同一性を保ちながら日本語に翻訳して引用する場合までも否定する趣旨ではないと解すべきであり、(2)翻訳の妥当性が検証困難である点についても、日本語文献であっても適切な引用がされている保証はなく、その検証も一律に容易とはいえないし、英語程度であればジャッジが訳出内容・訳者・原典との簡単な対照などの手段で翻訳の妥当性を検証できると考えられ、証拠能力を一律に否定すべきとの帰結には至らないのではないか、ということにあります。また、今回発出されたのはあくまで試合運営委員会による「ルールの解釈」であり、ジャッジがこれに拘束される性質のものとはいえないように思います。
したがって、翻訳資料の引用に関しては、この解説をもって「必ず」一律禁止の扱いが取られることになるとは、少なくとも理論的には言えないと思いますし、少なくとも僕がジャッジをする際には自身の解釈を前提に判定を行うことになるわけですが、とはいえNADEが政策的に英語文献の利用を非推奨としていることは事実であり(それは立法等しかるべき手段でなされれば妥当足りうるでしょう)、多くのジャッジ・選手もそのように運用するようになるでしょう。ですから、選手の皆さまは、基本的には解説の方向性で準備されるべきだと思いますが、ここではあえて、皆様が取り組もうとするディベートは「ルール」をどう考えるのかも問題とする余地があるのであって、解説が出たからといって(帰結はともかく)その理由づけも含めてすべて正しいと直ちに受け止めることは、ある種の思考停止である、という指摘をさせていただきます。今回の解説の扱いについてはともかく、証拠資料を吟味するうえで最も重要なことは、「証拠」が出ただけでその内容を受け入れてよいかという批判的検証の習慣を持つことです。

3.引用元サイトが消失した証拠資料の証拠能力
もう一つ問題になったのは、引用元のサイトが消滅しており、エビデンスの存在が検証できなかったところ、この資料をどう扱うか、ということでした。某試合運営委員のブログによれば、こんなにもたくさんリンク切れの資料があったそうです。見つけた時にはあったのになぁ…。

問題の所在は、(1)引用元がなくなっている=記録された出典(細則B-2項)が間違っている場合に証拠能力が否定されるかどうか、(2)キャッシュしかなかったり、そもそもキャッシュすらない場合にはどう評価されるか、といったところです。
(1)については、前出のルールテキストでB-2項の意義などを説明しているので、そちらを参照してもらうとして、ここでは(2)の点について、某委員のブログ記事を紹介しつつ、簡単にコメントしておきます。

この問題を考えるにあたっては、「きちんと原典にあたり、証拠保全したうえで使用すべきだ」という理想と、「実際のところその証拠の出所は確かなのか」という理屈を分けて考えることが重要です。翻訳の正確性についてもそうですが、証拠が正しく使用されているかを検証するのはとてもコストが大きく、ディベートの大会では現実的ではありません。なので、実際のところは、ディベーターがちゃんとリサーチして、正しく資料を使っているという「信頼」を前提として考える必要があり、キャッシュがないといった問題が露見するというのは例外的事態です。もちろん、例外的事態が生じないようにするため、または「原則は大丈夫だろう」という信頼を守るためにも、理想的な扱いを守ることの重要性は強調してもしすぎることはないのですが、とはいえ実際に問題が起こった際に、その証拠能力を評価するに当たっては、理想とは区別された「証拠出所の確からしさ」を冷静に分析する必要があります。

前記(1)の問題とも関係しますが、出典の記録は原典の検証可能性を担保する手段であって、それが間違っていても別の手段で原典の存在が確認できるのであれば、出典の記載ミス自体は証拠の価値を減じません。なので、キャッシュであれ何であれ、原典が確かにあったということがわかれば、証拠能力は認められるし、この観点から証明力が減じられることもないと解すべきでしょう。
上記某ブログでは「記録者の信憑性」が問題とされており、それは一般論としては当てはまるのですが、キャッシュというのは自動的に元のデータを複写するものであるので、基本的には元のデータの存在を証明するものと考えてよいでしょう(入院患者向けに表現すると、機械的方法で再現されているので誤りが生じないため伝聞過程が否定されるということです。どうでもいいですけどね)。

また、上記某ブログでは「著者が自ら公開している場合に比べ、著者自身が意見を変えたために公開をとりやめた可能性などが否めないことも考えれば、その信憑性はキャッシュでない場合に比べて劣ったものとならざるをえない」との見解が記されていますが、この見解には賛同できません。そもそも、著者が意見を変えたことによって、元の資料の証明力が落ちるという前提自体が安易というべきです。見解の変更により旧説が信用できなくなるというのは、新説に理由があるからであって、「新しい」ということ自体には何ら理由がありません。優秀な学者が変な占い師の影響で昔の論文を全部取り下げたという場合を想定すれば明らかです。
関連して、証拠の信用性を見るときには発行当時の権威性が参照されるべきである、ということも押さえておくべきです。ノーベル賞学者が書いた学部時代のレポートについて証明力をどう考えるのか、ということです。

ただし、上述の通り、資料の扱いに関する「理想」を守ることはとても大切ですし、そうすることによって余計なトラブルを避けることができます。理論上は「キャッシュで確認できたのでOK」といえても、実際には確認が間に合わずに「なかったです」と評価される可能性もありますし、また少なくないジャッジは「ちゃんと確認してないのか」ということで信用性を下げるかもしれません。それは理論的にどうとかいう問題ではなく、自身の不手際によって信頼を失ってしまった選手が悪いのです。
そういう当たり前のことを踏まえつつ、この問題を契機として、証拠資料の出典とは何か、ということを考えてみると、いろいろ発見があるかもしれません。しかしその前に選手の皆さまが行うべきことは、プレパです。


おわり

ディベート甲子園の選手向け | 02:33:54 | トラックバック(0) | コメント(2)
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