2012-12-24 Mon
どうもお久しぶりです。秋以降仕事のために余裕が取れず、全く記事を書けませんでしたが、クリスマスということで時間の余裕ができたので、若干だけ記事を書くことにします。といっても、何かの大会の感想などを書くこともできないので、最近JDAやら全日本大会でジャッジをした際に感じた雑感めいたものを書き散らす程度の内容です。
1.メリット・デメリットをどうやって勝利理由につなげるか
ディベートにおいては、肯定側と否定側がそれぞれメリット、デメリットを示し、いずれが大きいかという点を議論します。そのためには、メリット・デメリットをそれぞれきちんと証明する必要があるのですが、その上で、自分たちの議論がより重要である、ということをどうやって示すかという点で、いろいろと工夫の余地があるはずです。そのあたりの工夫が最近あまり見られないように思います(昔から少ないのですが)。
ここで重要な発想は、メリットとデメリットを比べるというのは、それぞれの大きさを個別に評価して比べるということではない、ということです。メリットが100点でデメリットが120点…といった単純な評価はそうそうできないもので、むしろ自分たちの議論の優位を訴える側としては、「このようなメリット/デメリットが存在することを踏まえれば、このデメリット/メリットは到底論題を否定/肯定する理由とはなりえない」といった形で、自分たちの勝ちどころを起点にして相手の議論を評価していくことになります。
抽象論だとわかりにくいので、今年のディベート甲子園の準決勝で戦われた東海高校-創価高校の試合を例にしましょう。この試合は動画にもなっておりませんが、一方の議論を観る機会があったため、どういう議論が回っていたかは何となく分かっているので、その前提で簡単に説明させていただきます。
*あと、準決勝の感想を記載したこのサイトも参考になります。本当はこの記事をネタにしていろいろ書こうと思っていたのですが、時間がなく断念しております
死刑廃止論題で戦われた東海高校と創価高校の試合において、東海高校は、生命権の保護というメリットを示して戦いました。このメリットは、死刑囚の生命権という権利的要素がインパクトになっていて、単独では評価しがたいところがあるため、多くのチームが敬遠してきました。しかし、東海高校は、準決勝になってこのメリットを投入し、3-2の僅差ではありましたが、創価高校に勝利しました。
普通に考えると、悪いことをした死刑囚の人権と、犯罪抑止で守られるかもしれない普通の人の命を比べると、どうも前者に分が悪そうです。もちろん、正当な権利論からすると、生命権は絶対に保護されなければならないという話になり、そういうエビデンスも実際読まれているはずなのですが、その理屈だけで投票するのは困難なところがあります。
しかし、肯定側は、この不利を覆すために、生命権の重要性を権利論としてきちんと証明した上で、「そのような権利を否定するためには、やむを得ない理由が必要である」という議論を展開しています。要するに、否定側が勝ちたいのであれば、デメリットをある程度きちんと示さなければならない、という考え方です。こうなってくると、デメリットもいろいろ反論される余地があるだけに、今度は否定側が厳しくなってくるというわけです。
この考え方は、実質的には、メリット>デメリットという肯定側の勝利条件をひっくり返して、デメリットが一定の水準に達しているかどうかを問題とする新たな勝利条件を立てていることになります(それだけの要求を強いるだけのメリットが存在すると考えれば、メリット>デメリットというルール上の勝利条件を変えていないと説明はできます)。単に「メリットがデメリットより大きい」というのではなく、「大事な権利を制約するだけの理由が示されていない」から肯定側が勝つのだという形で、勝利条件を論題に即して具体化したというわけです。
このように、メリット/デメリットがデメリット/メリットより大きい、ということを、論題に即してより具体的な言葉に置き換えることで、議論がわかりやすくなるとともに、自分たちに有利な勝利条件を設定することができます。たとえば今季JDA後期論題の道州制でも、肯定側は「現行制度のままでは明白に破たんするから、制度の変更を前提として、中長期的に成功の可能性があるならプランを取ろう」といった話ができるかもしれませんし、否定側は「最低水準を保障すべきという理念から、一つでも失敗する地方があった場合にはプランを取るべきではない」といった話ができるかもしれません。これはいずれもメリットとデメリットの比較として論じることは可能ですが、例えばその中で「現行制度のままでは福祉は破たんする」「落ちこぼれの地方を作ってはならない」という鍵となる議論を示したうえで、それを起点に勝利条件を設定することで、実質的に自分たちに有利な観点での評価をジャッジに迫ることができるかもしれない、ということです。
そういう意味では、第二反駁でよく聞く「数の観点から…」「発生確率の観点から…」という比較は、具体的な議論や論題の性質と無関係に議論を整理しようとするもので、ジャッジとして心を動かされるところは少ないというのが正直なところです。というか、数とか発生過程といった話は、言われなくてもジャッジは判断しているのです。ディベーターが自分たちに投票してもらうためにすべきことは、ジャッジに対して「無視できない議論」を突きつけたうえで、そこから必然的に自分たちが勝っているということを示すこと(必然的とまでは言えなくても、その議論を取れば投票まで行き着くという筋を見せること)なのだと思います。
2.エビデンスを読むことの意義
エビデンスで議論を論証することの重要性については多言を要しないところですが、近ごろでは、逆に「エビデンス読んどけば大丈夫」、エビデンスの価値を十分引き出せていないようなスピーチが散見されるような気がしております。
言うまでもないことですが、エビデンスを読むこと自体には何の意味もなくて、大事なことは、エビデンスによって説明された何事かをジャッジの判定材料に供することです。ですので、読みっぱなしではなく、そこに書いている議論の内容や、それが判定上どういう意味を有するのかということを、重要度に応じてきちんと説明する必要があります。
また、ジャッジが判断において考慮するのは、エビデンスで読まれた文言そのものではなく、エビデンスで証明された事実だということも、もっと意識されるべきです。海外の実例や、技術的な説明などについては、内容が合理的であればそこで示された事実ないし経験則がジャッジの判定材料になりますが、価値に関する議論については、エビデンスで「~が大事」と言われても、それだけでジャッジが「~が大事」だと思ってくれるとは限りません。価値の議論についてはジャッジも自信の価値観に基づいて議論できるので、そのようなエビデンスで示される事実は、「~が大事、だと偉い人が言っている」にとどまり、それをジャッジが直ちに採用するとは限らないからです。
ですから、そういう価値の議論を採用してもらうためには、なぜそれを採用すべきかという理由を、ほかの事実(苦しんでいる人がたくさんいることなど)を示すことで訴えかける必要があります。
上で説明した死刑囚の生命権という価値についても、確実に支持してもらうためには、なぜそれが大事なのかということを、手を尽くして議論する必要があります。刑罰の存否を論じる法律学的文脈において重視されているということ、国際的にもそれを理由にして死刑廃止が決まっており妥当な価値観といえること、実際の死刑囚の中にも生命権を奪うことが躊躇されるような人がいること…など、いろいろな説明方法がありうるでしょう。こういった議論を充実させるには、1回しか立論がないフォーマットでは足りないかもしれないし、二回立論でも容易ではないのですが、価値の議論を「言ってるエビデンス」だけでなく、それを支える事実できちんと論証するということができれば、ディベートのレベルはぐっと向上するのではないかと思います。お前ができてたのかと言われると困りますが…。
上記を格言風にまとめると「エビデンスはね、文章よりも中に入った事実の方が一番美味しいの。説明されたほうがいい味出すのよ」といったところです。意味不明ですが、元が意味不明なので仕方ありません。
ともかく、単にエビデンスをたくさん読むだけでなく、そのエビデンスでどんな事実を証明しようとしているのか、どうしてその事実が判定に影響するのか、といったことをよく考えてエビデンスを読むようにすると、議論のレベルが上がってくるはずです。
といったところが最近の雑感です。ただ、どこまでいっても一番大切なことは、基本を押さえることでもありますので、まずは3要素にそって議論をきちんと整理すること、それから、典型的な議論についてはきちんとリサーチを済ませて、原稿を作って対策すること、ここからのスタートです。そのレベルが覚束ないチームも相変わらず散見されるように思われますので、念のため。プレパ無くして、大きな勝利を得ることはできないのです。
というわけで、皆様もそれぞれのディベート道を究められるよう、頑張ってください(松本道弘とは関係ありません、念のためw)