2013-12-09 Mon
去る11月16日にJDA秋季大会があったのですが、結婚式に出席していて観戦できず、大変残念でした。決勝のトランスクリプトがJDA-MLであがってはいるので、全日本大会などでジャッジをしていた感想も交えつつ、分析のようなものを書ければと思っておりますが、トランスクリプトが公開されるまでは批評もできないので(実は綿密な分析も未了)、今日は控えておきます。その代わり、某フェイスブックで、JDAでAlternative Justification(A/J)を回された某選手の感想に対していろいろとコメントが付いていたのに接し、ちょっと書きたいことができたので、そのことを当社比短めに書くことにします。元記事にリンクとかは貼りませんが、元記事を見るまでもなく一般的にコメントできる内容なので問題ありません。
上記の論争では、A/Jの正当性を論じるかという点で若干盛り上がっており、その内容自体は特に目新しくもないので論ずるには及ばない(!!)のですが、その中で気になりましたのは、議論している方々の前提として「A/Jが認められるべきかどうかもジャッジは試合中に出てきた論拠に基づいて決めなければならない」というような考え方があるように思われたことです。A/Jの正当性に関するAffとNegの説明でAffがより説得的だったらA/Jを認め、Negの説明がより説得的ならNeg…という考え方が前提にされているのではないか、ということです。
この考え方は、少なくとも法律家にとっては、極めて奇異なものです。A/Jの正当性という、いわゆる「セオリー」に属する議論(あるプランがTopicalかどうかというのは事実認定の問題なのでセオリーではない。念のため)は、言ってしまえば法律論であって、そんなものは弁護士が何を言おうが、最終的には裁判官が決めることです。もちろん、説得的な議論だと思えば裁判官が支持してくれるかもしれませんが、裁判官の採用するところでなければ、いくら有名な学者の意見書や論文が並んでいても、意味はありません(実際、法律家なら誰でも知っている著名な学者の意見書を並べても、負けるときは負けます)。これをディベートに置き換えれば、選手がいくら頑張ってセオリーの議論をしても、ジャッジが自説を変える必要がないと思ったら、自説に従えばよく、選手の議論は判定上無視して差し支えない(もちろん講評では適宜説明する)、ということになります。
以下では、この「法律家の常識」がディベートでも当然妥当するはずであるし、そうでなければまともなジャッジングなどできないのではないかということを述べることにします。
まず、ジャッジが選手の議論に基づいて判定を下す、ということの意味について考えてみることにします。このような原則があるのは、議論の判定が恣意的にならないようにすることを直接的な目的としており、それによって、選手の議論の優劣が純粋に判定に反映されるようにすることで、教育的目的やゲームの公平性を維持する、ということが目指されているのだと理解することができます。
このような目的からは、選手がきちんと自分たちの議論を論証し、反論する必要があって、ジャッジが片方に有利になる形で肩入れしたり、特定の議論が成立していることをあらかじめ前提としてしまってはいけない、ということになりますから、選手が議論するまでは公知の事実以外の事実を考慮することなく、選手が提出した議論のみにしたがって勝敗を決めなければならないということになります。
ここで注意すべきは、上記のような説明は、「『事実』ないしそれに基づく『主張』」については選手による提出に依存しなければならない」という命題でしかない、ということです。すなわち、ディベートという競技をどのように理解するのか、勝敗をどうやって決めるのか、という「ゲームのルール」に関する事項は、大会のルールなり、ジャッジの理解などにゆだねられており、選手はこれを直接変える権限を有しないということです。
「事実」や「事実に基づく主張」と、「ゲームのルール」の違いは、それが最初から用意されているかどうかによって分けることができます。試合で選手から提出される主張や立証は、選手から出されるまでは試合の前提とされていないし、また、前提にする必要もありません。しかし、「ゲームのルール」は、最終的に判定で持ち出す必要があるかどうかは別として(Counterplanに関するルールは、Counterplanが出なかった試合では持ち出す必要がない)、ルールの適用場面になれば自動的に必要となるものであって、選手がルールの説明をしようがしまいが、ジャッジにおいて前提として揃えておく必要があります。
このような事情は、当然ディベーターも承知しています。すなわち、ディベーターは、ジャッジが何らかの「ゲームのルール」を持っていることを前提として試合を行っているのです(そして多くの場合、その前提に寄りかかって議論しています。JDAのルールにはメリット・デメリット方式なんて決まりはありません)。ですから、「ゲームのルール」について、ディベーターは、少なくとも事実に関する主張立証と同様に、自分たちの議論に依存しなければならないとか、自分たちの議論を無視してはならないと言える立場にはないのです。
それでは、ディベーターは、自分たちがいったん「ゲームのルール」に異議を唱えた以上は、ジャッジはそれを無視してはならないと言える立場にあるのでしょうか。この問い自体が「ゲームのルール」であるため、これ以降は(以前も?)筆者の見解であるということをお断りした上で述べると、ディベーターが言えるのは、せいぜい「こういう考え方もあるがいかがでしょうか」ということにとどまると言わざるを得ません。
まず、ジャッジが前提として「ゲームのルール」を持つことを認める以上(これを否定すると、ジャッジを行うことはできません)、そこでジャッジが選択したルールは、何らかの理由でジャッジによって選択されているということも認めなければなりません。そうでなければ、ジャッジングの正当性が担保されないからです(何も考えずに「みんながそういう風に処理しているから」という理由でジャッジをしている人もいらっしゃるかもしれませんが、弊ブログはそのような人を対象としておりません)。ともかく、フィクションかどうかは別として、そのような前提を置く以上、ディベーターが「ゲームのルール」を変えるために反論すべきは、相手方の議論ではなく、「ジャッジが当該ルールを選択した理由」だということになります。ですから、ジャッジは、選手の議論が、自分があるルールを選んだ理由(最初の例であれば、そもそもA/Jを認めるか、認めるとして常に認めるのか、など)を変更するに足るものではないと判断したのであれば、これを当然スルーすべきであるということになります。
もちろん、ゲームのルールとして、「ディベーターがゲームのルールについて議論を一旦出した以上は、ルールの議論であってもそれを尊重すべき」という議論もありうるかもしれませんし、冒頭で紹介したような前提を取っている(ように見えた)方々は、このような見解に立っているのかもしれません。しかし、このような見解については、なぜ「選手の議論を尊重すべき」なのかという点の考察が足りないように思います。
上で述べたとおり、主張立証について選手の議論を尊重しなければならないのは、それが試合の公平性=ゲームの面白さを保つ最低条件であるし、試合中の議論だけで勝敗が決するということで選手が全力を尽くすことで、教育効果が最大化されるからです。このような「公平性」や「教育効果」、もっと言うなら「真っ当なゲームとして成り立つ前提」を確保するのが「ゲームのルール」です。そして、このルールを変えるところまで、選手の議論に拘束されるというのでは、選手の議論を尊重すべきという理由の根本が掘り崩されかねないということになります。このことは、選手が「ジャッジのぐるめさんは弁護士なんだから、そのプロフェッションとしての知識(笑)を当然判定に考慮してくださいよ!」と主張した場合に、ゲームのルールを崩してそういう前提を受け入れてしまってよいのかということを考えれば、よく分かるかと思います。
上記については、「選手の主張が最低限の理由を備えていなければ当然考慮されない」という反論があるかもしれません。それは極めて真っ当な考え方です。しかし、そう考えることは、既に述べている、「ゲームのルールを変えたい選手はジャッジの見解に反論する必要がある」という命題と組み合わせると、結局のところ、ゲームのルールについて選手の議論は参考としてしか扱われないのだということを帰結することになります。
そもそも、まともにセオリーを論じるというのは、試合の限られた時間で期待されるべきことではありません。最初に「論ずるに及ばない」と書いていたのに反して少し論じますが、A/J一つとっても、公平性がどうとか、無責任とか、(最終的にそういった要素を考慮することはあるかもしれませんが)そんな簡単に論じられるものではありません。このあたりは、以前に謎の合宿でざっと喋っており、その内容をまとめようまとめようと思いながら全然作業できていないところでもあり、ここでも詳述することは難しいのですが、端的に言えば、A/Jの問題は、ディベートを「各サイドの立場の優劣」を競うもの(側の論理)と見るか、「政策の優劣」を競うもの(政策の論理)と見るかという大きな見方の違いが前提となって出てくるものだと思います。A/Jの許容性について側の論理と政策の論理で必ずしも一対一対応の答えが出てくるものではないでしょうが、例えば、側の論理から見ると、立場を一つに定めないことが側の在り方としておかしい(否定側はCounterplanを出した時に現状維持と両取りできるじゃないかといった反論も考えられますが、そもそもCounterplanは立場の提示なのか、単なる反論にとどまるのではないか…というところから、一つ深遠な議論に行く余地もあります)という考え方を取る余地が出てきます。他方、政策の論理からは、最後に残った政策がTopicalかどうかを考えればよいとして、政策をどう出すかは別に考えなくてよいのではないか、というのが自然な考え方になりそうです。ただ、論題の性質上議論の過度な拡散が予想される場合などには、政策の論理からしても、公平性とか論題の解釈といった形でA/Jを制限する余地はあると考えられます。
要するに、A/Jに関する議論も、一つの体系の中でどう考えるかという問題になりうるわけで、そのジャッジのディベートに関する理解の体系全体の整合性との関係で、結論を出さなければならない難しい問題だということになります。それを、6分だか8分だかのスピーチの応酬の中で議論するということは、不可能ですし、また、期待されてもいないというべきでしょう。
それでは、ディベーターはセオリーを議論する必要がないのかというと、そういうことではないだろうと思います。時間バランスの問題もありますが、試合の中でも、特に問題と考える点について意見を述べることで、ジャッジは、講評においてそれに応答する必要が生じます。その試合の判定は変わらないかもしれませんが、講評で述べられた理由を元にジャッジに試合外で質問を投げかけることで、議論が深まり、そのジャッジが次の試合では見解を変えてくれるかもしれません(それが次の試合の自分たちにとって有利なのかどうかは分かりませんが)。
また、試合を離れて、セオリーとよばれる理論的問題について詰めて考えることは、試合に直結するかどうかは別として、物事を考えるよいトレーニングにはなるかもしれません。
というわけで、いわゆるセオリーに関する議論は、選手の議論を前提にする必要はないのではないかといったお話でした。少なくとも、ゲームのルールに関する議論と、論題の是非に関する通常の主張立証を区別せずに考えるのは乱暴ではなかろうかと思いますので、上記の雑文がそのあたりの注意喚起として何かしら意味を持てば幸いです。