2015-02-01 Sun
前回予告した、選挙棄権への罰則論題で戦われた第16回ディベート甲子園中学決勝の解説です。こちらは過去にデジタルトライアングルに寄稿したものを改訂したものです。JDAの準備に役立つというより、精密にジャッジングするということを筆者なりに考えた記事ですので、そういう興味関心でお読みいただけるとうれしいです。あと、少なくない試合で見られる、スタンスなる議論についての考え方についても、ある程度まとまった記載があるので、何か参考になるかもしれません。なお、今回は記事の性質上ないと思いますが、先日実施された関東の冬季大会(創価高校主催)では、なんと当ブログでアップロードしていた記事から引用されていたという冗談のような話を聞きました。執筆当時は無職法務博士だったのでオーソリティレベルでも全く正当化できない恥ずかしい記事の原稿であることは措くとして、こんなところの記事を引く暇があったらプレパしてほしいなと思いました。ちなみに本業では若干ながら地味に執筆めいた仕事もしており、最近書いた原稿の入った本も出版されたのですが、ディベートには全く関係ないですし今後も関係することはないと断言できる内容ですのでここでは紹介しません。
第16回ディベート甲子園中学決勝の解説
~中学決勝動画を教材としたジャッジ教育の試みとして~
本稿の目的
本稿は、「日本は選挙の棄権に罰則を設けるべきである。是か非か」の論題の下で戦われた、第16回ディベート甲子園の中学決勝(創価中[肯定]-東海中[否定]。4-1で創価中が勝利。)およびその判定講評スピーチを分析し、解説を加えたものです。
ディベート甲子園の決勝戦は、動画によりネット視聴することが可能です(2つに分かれています。肯定側立論/続き)。全国の頂点を争う選手たちの集大成が発揮された各決勝戦の記録は、様々な気付きを得ることができる、貴重な教材です。しかし、選手やジャッジ、指導者の方々の中で、決勝戦を仔細に振り返り、議論の改善点や判定のあり方について検討する機会を持たれている方は多くないのではないでしょうか。これは、NADEとして決勝戦ジャッジのバロット(投票理由)の公開や試合の解説などのコンテンツを用意していないことにも責任があるというべきですが、他方で、多数のディベーターが観戦しているはずの決勝戦について、詳細な解説を誰も書かないとか、誰も求めないというのは、せっかくの視聴機会があるのに残念なことです。
第16回大会の中学決勝は、試合のレベルも相応の水準にあり、判定的にも極めて僅差の試合であることから、ジャッジングの訓練として格好の教材となっています。しかしながら、決勝戦の判定スピーチは、時間の制約などもあって必ずしも詳細な解説はされず、漫然と聞いているだけでは実際にどのような思考を経て判定が導き出されたかは分かりません。
そこで、以下では、決勝ジャッジが下したと思われる判断の内容やその当否について、筆者なりの見方を補いながら説明しています。解説に当たっては、表題のとおり、ジャッジングの参考となるような内容を意識していますが、ジャッジの目から議論がどう見えるのか知ることは選手にとっても有益なことですので、ジャッジのみならず選手の方々にも参考になる内容であると考えております。その際には、実際に試合を見て自分なりの判定を下し、講評スピーチを聞いた後で、本稿を読まれることをお勧めします。
なお、本稿は、2011年9月15日に筆者が講師を務めた、東海支部ディベート勉強会の内容を基にして執筆されています。同勉強会は、当時東海支部で定期的に開催されていた、学生ジャッジや教員の指導者などがジャッジングや議論構築、ディベート甲子園のルールについて講義や演習を行い、スキルアップを図るというイベントです。本稿で取り上げる内容にも、当日の討議内容が反映されております。参加者の皆さまに、この場を借りてお礼申し上げます。また、他地区でも同様のイベントが開催されるなどして、ディベート技術の研鑽が進むことを願っております。
1.本稿で検討する課題
最初に、この試合の内容について概説した上で、本稿で特に取り上げる課題を3つに絞って特定することにします。
肯定側(創価中学校)は、最初にスタンスと称して「みんなが自分の利益を主張し、それらをつき合わせる中で公益を発見するのが政治のあるべき姿である」という理想を提示し、その後で具体的なメリットとして「現在若者の投票率が低く、そのために高齢者優遇政策により若者の負担が大きくなるという格差が生じており、持続可能性を確保するための負担の公平分担が課題となっている。ここで選挙の危険に罰則を設けると、無党派層が多い若者の投票率が上昇し、その投票で勝敗が左右されるようになるから、政党が若者の民意に耳を傾けるようになり、問題が解決する」という内容の議論を展開しています。
これに対する否定側の主な反論としては、①関心がない有権者による非合理的判断は民主主義の基礎を破壊する、②既に若者向けの政策はマニフェストに取り入れられている、③少子高齢化は今後ますます進み、高齢者優位の状況は変化しないから、若者が投票するようになっても政策は変わらない、といったものがありました。
一方否定側(東海中学校)のデメリットは、「選挙棄権者の中には政治に関心のない人が多く、現在政治に無関心で棄権している人が全体で15%いるところ、現在投票している人はきちんと議員を選んでいるのに、プランで無理やり棄権者を投票させるようにすると、オーストラリアでそうだったように適当な投票を行い、その結果質の悪い政治家が選ばれてしまう」というものでした。
これに対する肯定側の主な反論は、①そもそも今でも無関心層の半分近くは投票に行っているし、全体の15%しかない無関心棄権者が新たに投票して何が起こるのか不明である、②プランにより棄権者が自分の結果で選挙結果が左右されるようになって関心が上がり、また政治参加により教育効果が生じることから、長期的には有権者の質は改善される、といったものであり、特に後者の論点を中心に、激しく議論が衝突しました。
講評でも極めて僅差だったと評されていたように、本試合の議論展開は、いずれが勝ってもおかしくない、拮抗したものでした。そこで、以下では、第一の課題として「ジャッジの判断が分かれた部分はどこか、そしてそれがどのような形で判定の相違につながったのか」という問題意識から、本試合の議論について詳細に分析することで、判定上考慮されるべきポイントを浮き彫りにすることを目指します。
続いて、第二の課題として、この試合で特徴的だった、肯定側が冒頭で提出したスタンスなる議論について、これが判定にどのような影響を及ぼしたか(あるいは及ぼさなかったか)、より一般的にはスタンスのような議論はどのように機能しうるかという点を検討することにします。
そして最後に、第三の課題として、ジャッジが議論の講評を行うという観点から、この試合を踏まえて、両チームは特にどのような点を改善すべきといえるか、さらには今季論題においてどのような議論がありえたかという点について、簡単に私見を述べることにします。
本稿は、以上3点の課題の検討を通じて、選手の提出した議論を適切に位置づけた上で、判断の分かれ目をできるだけ具体的に特定し、より精緻な判定や有用な改善点の提案を行うという、ジャッジに求められる任務をよりよく果たすための方法論を探ろうとするものです。
2.判断の分かれ目、判定の分かれ目
2.1 「ゼロではない何か」を探る
講評において印象的であったのは、ジャッジがメリット・デメリットの双方について、立論の説明不備や反論の内容を踏まえて相当程度評価を減じた上で、「ゼロではない」という評価を下していたことにあります。そして、この「ゼロではない」メリットとデメリットを比べた上で、メリットが上回っていると評価したジャッジが4人と多数を占め、肯定側が勝利しています。
筆者が、この試合のジャッジとして議論を判断し、判定理由を端的に述べることを要求されたとしても、同様のコメントをすることになりそうです。しかし、当然ながら実際の判断においてはジャッジの中で「ゼロではない」部分の評価がある程度具体的になされる必要がありますし、その大きさをどのように比較して判定を下したのかという理由も求められます。決勝の講評で詳細な理由の説明がないのは、時間的な制約と、5人のジャッジの意見を集約する必要性から、詳細な解説をすることができないという事情によるものです。個々のジャッジが実際に下し、また下されるべき判断は、講評で述べられた程度の大まかなものではありません。
そこで、以下では、講評でなされた指摘を手掛かりにしながら、各ジャッジがメリット・デメリットをどのように評価し、どこを重視して投票したのかということについて、筆者の私見を交えつつ分析することにします。
2.2 メリットが示唆する3つの変化とその評価
講評スピーチによれば、メリットに対する決勝ジャッジの評価は、否定側の反論を考慮してもなお、「若者向けの政策が今より充実する可能性」がゼロではないということだったようです。
しかし、この試合で肯定側が主張している内容からは、「若者向けの政策が今より充実する」というストーリーを複数見出すことが可能であり、またスタンスの議論からはそれ以外の利益を主張していると見ることも可能です。そこで、これらの「プランによる望ましい変化」として観念しうる筋書きのうち、決勝ジャッジが採用した可能性があるものを差し当たり3つ取り上げ、この試合で述べられたそれぞれの根拠とその当否について見ていくことにします。
§1 政治家の構成が変わる
メリットを素直に見て最初に思い浮かぶのは、プランにより若者の投票率が上がり、それが選挙結果に直接反映されるため、政治家の構成が若者に理解を示すように変化し、格差が是正されるというストーリーです。
立論の3枚目のエビデンス(フローシートを取った時に上から何番目、ということで特定しています。以下同様)において、高齢者の投票率が高いので若者の代弁者がいないということが証明されており、また解決性の部分では、新たに投票する若者には無党派層が多く、その帰すうによって選挙結果が左右されるという主張立証が試みられていることからも、肯定側がプランにより選挙結果が変わるという主張をしようとしていることを読み取ることができます。
問題は、このような理解に基づき、メリットを評価することが可能かどうかということですが、結論から言うとかかる評価は困難です。
まず指摘されるべきは、肯定側は解決性の立証として「義務投票制で浮動票が増えると『政治の中立化、保革両陣営の類似化』が進む」(肯定側立論エビデンス6枚目)と言っているだけで、世代間格差の是正という変化がもたらされるという証明がないということです。これは他の筋書きにも言えることですが、そもそもプラン後に若者が格差是正を求めて行動するのかという点について、肯定側の説明は十分ではありません。
さらに、この試合においては、否定側から「プランをとっても高齢有権者が数で優っていることは変わらない」と反論があり、選挙結果が変わるという筋書きが積極的に否定されています。若者世代が多く分布する選挙区や、全国区の比例代表制などを考慮すれば、プランによって選挙結果が左右される可能性はありますので、そのような再反論があれば話は違ったかもしれませんが、この試合でそのような議論は出ていませんでした。
以上を踏まえれば、せいぜいジャッジとして取ることができるのは、「若者層が増えることで、あまり大差なく高齢者寄りの政治家が勝っていたところで、若者寄りの政策を強調する政治家が勝つことがあるかもしれない」という、願望に近い可能性にとどまります。ジャッジの中には、これを「ゼロではない可能性」として評価している方がいるのかもしれませんが、その大きさは極めて小さいものと言わざるを得ません。
§2 政治家が若者を意識する
先ほどの筋書きは「政治家の顔ぶれが変わる」というものでしたが、そこまでいかなくても、「政治家の意識・行動が変わる」というレベルで、若者の投票増加が政策に影響を及ぼす可能性を考えることもできます。
このような、若干マイルドな影響の与え方を論じる方向性は、肯定側が述べるスタンスなる議論にも通じるところがあり、肯定側のスピーチでも「政治家が若者の意見を取り入れる」といった形で議論を伸ばしていることから、政治家の意識変化を説くのが肯定側の戦略であったことがうかがわれるところです。
それでは、このような筋書きによって格差是正が実現するという評価をすることは可能でしょうか。以下、試合の議論に即して検討します。
まずこのような筋書きを評価する上で問題となるのは、否定側から示された「既に若者向けマニフェストは出ている」という反論です。第一の筋書きとの関係では、選出議員の変更という大きなインパクトから、「口だけでなく実現する」という形で肯定側立論3枚目のエビデンスで言われている現状が打破されうると見れば致命的な反論でない上記主張も、意識が変わるかどうかというレベルで見ると、既に(形だけかもしれませんが)政党が若者向け政策を意識しているという事実は、現状にどこまで問題があるのかという疑いを抱かせるに十分なものといえます。すなわち、肯定側が「政治家の意識・行動が変わる」という筋で勝ちたいのであれば、現状の問題として「現在政治家の意識は若者に向いていない」という主張立証をすべきところ、この試合では否定側の反論でその部分が否定される格好になっているということです。
また、第一の筋書きで見た「高齢者の数の優位は変わらない」という反論は、政治家の意識を論じるこの筋書きにおいても、肯定側の議論を大きく減じています。政治家にとって選挙の関心事は議席を得るかどうかという点にあるでしょうから、若者寄りか高齢者寄りのいずれかしか選択できないとすれば、政治家はプラン後も依然として数の多い高齢者寄りの行動しか選択しないと考えるのが自然なところです。もちろん、有権者の意見の変化はより複雑な形で政治家に影響を与えるものではあるのですが、この試合でそのようなきめ細かな証明がされているものではありません。
ただ、第一の筋書きに比べて、この筋書きは若者の相対的な発言力が増すという確実に認められる変化を起点として認められうるものであり、若者の影響力が増せばその分だけ若者を意識した政策が立案される動機が増えると考えることはそれほど不合理でもないことから、否定側がこの筋書きを完全に否定できているとは言えず、その意味で肯定側の主張する政治家の意識変化は「ゼロではない」という評価はありうるところです。おそらくは、決勝のジャッジも、このレベルでメリットを評価しているものと推察されます。
§3 若者の意識表明自体が重要
先ほどまでの筋書きと違う流れとして、結果ではなく過程に着目し、若者が意見を表明すること自体が重要であるという議論もありうるところです。これは、スタンスの議論と密接に関連するところであり、肯定側第二反駁もこのような価値を前面に押し出してスピーチしていました。
しかしながら、詳細は後で節を改めて検討しますが、若者の意見表明という過程自体を評価してメリットと構成するような理解は、この試合の議論を前提とする限り無理があります。かかる過程が重要である理由が不十分ですし、メリットの具体的内容は「若者が投票しに行く」以上の意見表明を示しておらず、肯定的評価に値する行動の変化を見出せないからです。
講評スピーチにおいても、スタンスの意義について一定程度の言及はあったものの、それに基づく投票があったとの言明はなく、むしろ「若者向けの政策が今より充実する可能性」という結果の議論に基づいてメリットを評価していることから、上記のような「過程」の意義に基づく評価は採用されていないといえます。
2.3 デメリットとして残ったものは何か
デメリットについては、否定側の主張は明確であり、意欲が低い投票が増えることによって質の低い政治家が選ばれるようになるということが最後まで主張されていました。
これに対する肯定側の反論として、講評スピーチで特に言及があったのは、プランで新たに投票に行く意欲の低い棄権者は全体の15%だけであり、結果にどれだけ影響を与えるのか分からないという点と、長期的に見れば有権者の意識は向上するから問題ないという点でした。このうち後者の反論は、デメリットを根本から否定しうるものであるし、ジャッジにより判断が分かれているようであるので、先に詳しく検討します。
プラン後の有権者の変化をいう肯定側の反論は、肯定側第一反駁で否定側立論に対して読まれた1枚目の松崎のエビデンスにある「オーストラリアでは浮動票により結果が変わるから有権者の関心が上がる」という議論と、2枚目の蒲島のエビデンスにある「政治参加で有権者は成長する」という議論の2つを根拠としています。これに対して、否定側第二反駁は、フィシュキンの文献を引用し、オーストラリアの義務投票制は情報レベルの低い有権者を無理やり投票に行かせただけで、有権者の知識・関心を向上させなかったという事実を示して反論しています。
実際には判断が分かれているようですが、私見では、この試合においては以下の理由から否定側の再反論が上回っており、肯定側の反論は失敗していると考えます。第一に、否定側が読んだフィシュキンのエビデンスは、松崎のエビデンスの内容を実証的に否定し、蒲島のエビデンスとの関係では、実証的な批判に加えて、「義務投票制では」という形でよりプランに即した理由で反証することに成功しており、いずれも肯定側の反論を上回っていると評価できます。第二に、フィシュキンのエビデンスに加え、否定側立論の4枚目、6枚目のエビデンスも義務投票制のオーストラリアで有権者が改善されていないことを述べており、肯定側はこれら議論を上回る形での説得的理由を示せていないというべきです(もっとも、否定側第二反駁がこのように整理された形で自分たちの反論の優位性をスピーチできていたわけではありませんが。)。
講評スピーチであった「否定側の再反論には具体的理由付けが足りない」という指摘は、肯定側第一反駁が読んだ松崎のエビデンスが、有権者の関心が上がる理由を述べていたこととの対比で論じているのでしょうが、同資料がオーストラリアの例を下敷きにしており、そこでの成果が否定側の議論により否定されている以上、肯定側の理由付けを採用するには無理があるでしょう。
この論点について肯定側に有利に評価するのであれば、むしろ否定側がオーストラリアの失敗例にのみ依拠している点に着目し、否定側は背景が異なる日本での失敗可能性を言えていないという判断が筋の良い見方です。ただし、この試合において、肯定側から「日本ではオーストラリアと違ってうまくいく」といった議論(例えば、日本で棄権している有権者は政治に無知であったり関心がないから棄権しているのではなく、自分の投票に意味がないと感じていたり、良い政治家がいないと思っているから棄権しているにすぎないのだという分析をした上で、最初から情報や関心を持たないとされるオーストラリアとは事情が異なる、といった議論がありえますし、実際に提出されていればかなりの説得力を持つと考えられます。)が出されていたものではなく、実際出ている議論を前提とすれば、この論点は否定側に有利に評価するのが妥当でしょう。
しかし、上記論点については以上のように否定側に有利に解しうるとしても、否定側は、15%の新たな投票によりどのような変化が生じるのかという点について十分説明できていないという、大きな問題を抱えています。そもそも、否定側立論では、選挙に関心のない棄権者が判断能力を欠くという証明を直接しておらず、オーストラリアの例についても、無責任な投票による具体的弊害を示せていません。また、肯定側が指摘するように、もし15%が無責任に投票するとして、それによって選挙結果にどのような変化が生じるのかについては、疑問符のつくところです(なお、このように考えられることの裏返しとして、「若者寄りの政治家が当選するようになる」という肯定側の第一の筋書きも否定されることになります。)。
そうなると、否定側がデメリットとして主張していた「今までは選ばれてこなかったような質の悪い政治家が選ばれるようになる」という変化が生じるという評価を下すことは無理だということになりそうです。おそらくは、決勝のジャッジも、同様に判断しているはずです。
それでは、決勝ジャッジがデメリットについて認めた「ゼロではない」部分とはいったい何でしょうか。これは、メリットの第二ないし第三の筋書きに対応するような抽象的レベルでの「よくない投票が行われる可能性」といったものだと考えられます。
否定側はこのような抽象的な懸念を明示的に主張していませんが、例えば肯定側立論のスタンス部分への反論として読まれた否定側第一反駁1枚目のエビデンスがいうような、関心のない人による投票は民主主義にとって有害であるという考え方は、かかる抽象的な懸念に対応するものです。
そして、デメリットで見られた「実際に悪い政治家が選ばれるようになる」という主張の中には、「悪い政治家を選ぶ可能性が高い、質の低い有権者の政治参加が増えることは望ましくない」という主張が当然包含されていると見ることができます。決勝ジャッジは、この部分を捉えて、その深刻性の大きさはともかく、新たに生じる15%の無関心な投票を「ゼロではない」懸念として評価したものと考えられます。
2.4 投票に至る思考過程
以上を踏まえて、本試合で決勝ジャッジがどのような考えのもとに投票を行ったのか、筆者なりに想像して述べることにします。
まず、肯定側に投票した多数派は、「政治家の意識が変わる」ことを通じて格差是正につながりうるという形で、小さいながらもメリットを評価しているように思われます。あるいは、可能性レベルにとどまるとしても、選挙結果に影響が及ぶという主張を限定的に認めているかもしれませんが、いずれにせよ、「ゼロではない」という表現からは、絶対に格差が是正されるとまでは言えず、格差が是正されやすくなるという意味で望ましい方向性にいくという評価にとどまるのでしょう。
その上で、デメリットについて、長期的に有権者の質が改善されるという肯定側の反論を採用したジャッジは、先述した抽象的なレベルでの懸念も長期的には解消されることになるため、デメリットは抽象レベルで短期的に生じうる限りなく小さなものとして捉えられ、この時点でメリットが大きいと判断することになるでしょう。
一方、有権者の改善が望まれないと判断したジャッジについては、15%の新たな無責任投票がどのような弊害を有するのか不明であるし、そもそも無責任な投票が直ちに質の悪い政治家の当選につながるものとも思われないということなどを強調して、質の悪い有権者が増えるということ自体もどれだけ問題といえるのかよく分からないと考えたのでしょう。このように考えると、メリットは「程度はどうあれ、若者の声が大きくなれば若者に不利な格差状況が改善される方向に進むのが自然である」と言えるのに対して、デメリットは「無責任投票の増加が直ちに悪いことにつながるとは言いにくい」ということから、肯定側をより自然に支持できると考え、肯定側に投票することになります。
一方、否定側に投票したジャッジは、メリットについて、第二の筋書きに基づきわずかながら評価することは否定しないものの、既に若者向け政策が行われているし、プラン後も高齢者優位の構造は変わらないという反論や、若者が自分の利益を主張して格差是正を求めるという前提自体が明らかではないといった点に注目し、格差是正につながるような変化はほとんど示されていないとして、肯定側に投票するジャッジよりメリットを低く評価したものと考えられます。
その上で、デメリットについては、意欲の低い有権者が選挙に参加することが具体的にどう問題であるのかは明らかにされていないものの、スタンスに対する否定側第一反駁の反論を考慮し、あるいは選挙という営みに対する一般的な感覚から「意欲のない人が無理に投票することはよくない」と判断することで、小さいながらも一定の評価を与えることが可能です。そのような評価を前提とすると、15%とはいえ意欲のない人が投票するようになるという明確な変化が示されたデメリットに対して、単に若者が投票するようになるというだけで、それによって格差是正という課題がどのように好転するのか不明であるため、棄権に罰則を設ける必要性は見出せないとして、否定側に投票することになります。
なお、筆者自身は、決勝の多数意見とは異なり、否定側に投票すべきと考えています。前述した2つの投票理由はいずれも成り立ちうるものではあるのですが、肯定側が述べる格差是正というゴールとの関係で、若者の投票率増加がどれだけのインパクトを持つのかという点について、メリットの解決性の鍵となる証明(肯定側立論5ないし6枚目のエビデンス)が単に「浮動票の影響が出やすくなる」と言っているだけで、世代間格差の問題がメインで取り上げられるという主張とは距離があるように感じられること、また世代間格差という土台で問題を設定したときには、否定側の反論である現状の政党の動きやプラン後の高齢者の数の優位といった点を考慮すると、プランを導入すべき必要性も効果も見出しがたいと考えられることから、そこまでして現在の有権者より意識が低く判断力も相対的に劣ると考えられる棄権者を選挙に駆り出す必要はないと判断するのがより自然であり、試合中に提出された立証からも説明しやすいと考えるからです。
もちろん、上記の思考過程には随所に筆者による選択――両チームとも説明に不備がある中でどちらを重く見るか、あるいは残された「ゼロではない」議論についてどちらをより説得的と捉えるか――の結果が反映されており、絶対的な答えというにはほど遠いものです。ジャッジによる判定というのは唯一の正解がないものであって、本試合でも投票が分かれているという事実もその現れです。だからこそジャッジは、他にどのような判断がありうるのか、それと比べて自分は「どこで」、「なぜ」判断を違えているのか、自覚した上で判定を下せなければならないのです。
3.スタンスという議論の位置づけ
3.1 本試合でスタンスは意味を有していたか
以上の分析からお気づきのとおり、おそらくこの試合では、肯定側が意図したとおりにスタンスの議論がジャッジに受け入れられ、勝敗を左右したものではないように思われます。
講評では肯定側がスタンスを出したことが肯定的に評されていますが、それと同時に試合中出されたスタンスの議論について疑問点が留保されており、また判定理由の中でスタンスの議論に立ち返った説明がされていないことからすると、講評の言明はあくまで「スタンスとして一定の立場を打ち出すあり方の先進性」を評価するにとどまり、この試合で肯定側が出したスタンスが成功したという評価はしていないと見るのが自然です。
(なお、講評スピーチでは「システム」という表現がされています。これは、プランが現在の社会にどのような影響をもたらし、それが試合中に出てくる各論点の評価をどのように左右するのかということを議論横断的に説明し、一貫したビジョンを説明する方法論ないしそれに基づき構築された議論を意味する用語であり、肯定側がこの試合で企図していたものとはおそらく異なりますし、少なくとも、システムとして機能させることには失敗しています。)
なぜ上記のように言えるのか、講評中になされた指摘に沿って説明すると、以下のとおりです。
まず、肯定側が提出した「各自が意見を表明して突き合わせる中で公益を発見する」という方法論について、それがなぜ望ましいのか説明がないという指摘がありました。これは、スタンスに基づき「意見表明という過程」を重視すべきというメリット(前述した第三の筋書き)の重要性が欠けるということを示唆するものです。スタンスとして物の見方を提示するのであれば、どうしてそのような見方に従うべきなのかという実質的理由を述べる必要があるということです。そして、すぐ後で述べるように、そのような理由は現状の問題として具体的に論じられている部分がいかに的確に選択されているかどうかに大きく左右されることになります。
続いて講評で指摘されていたのは、スタンスで述べられていた議論と、具体的に論じられていた世代間格差の議論との関連性が見えにくいということです。本試合でスタンスの部分が機能しなかった最大の理由はここにあります。
肯定側が取り上げている世代間格差の問題は、少なくとも立論を聞く限り、世代間格差という問題自体は意識されているものの、投票者数の差による影響力の違いから若者の意見が反映されていないというものでした。これは、公益に叶う問題は発見されているけど実現されていないという文脈で把握できるものであって、各自の利益をぶつけ合う中で公益を発見するというスタンスの議論とは直ちに整合しません。特に、若者が現在自分の私益を表明できていない理由があるとか、プラン後に私益を表明するようになるといった議論が欠けていることが、スタンスとメリットの議論の乖離を際立たせています。
肯定側が今回出したスタンスを活かしたかったのであれば、例えば否定側第一反駁の5枚目で読まれた資料を用いて「若者は高齢者と違って自分の生活に直結しないように思える選挙に関心がない」という分析をした上で、そのような若者に意見表明させるためには強制的に投票させる必要があると論じた上で、若者が投票するようになればその票の獲得を狙って問題提起する政治家が増え、それにより若者が刺激されて意見を主張し、選挙結果やその後の議論を通じて世代間格差を解消する方策が真剣に検討されるようになる…といった議論を展開すべきだったところです。
3.2 スタンスとされる議論の判定上の位置づけ
この試合でもそうですが、スタンスとして提出される議論には、さまざまな解釈の余地があります。ジャッジとしては、それをメリット・デメリットの比較基準として参照すべきなのか、単なる重要性や深刻性の補強なのか、それとも別個のメリット・デメリットないしそれとは異なる独自の投票方法を提案するものであるのか…という、悩ましい問題に直面することになります。
以下では、本試合から少し離れた一般論も含めて、スタンスないし判断基準として提出される議論を判定上どのように位置づけることができるのか、という点について、代表的な類型を挙げて考察することにします。ただし、以下の類型は全てのありうる位置づけを網羅したものではありませんし、それぞれの位置づけは排他的なものではなく、いくつかの意味合いが併存していることもありうるということを、最初に断っておきます。
§1 重要性・深刻性の補強的位置づけ
実際の試合でよくあるのは、スタンスという形で、後で出てくるメリット・デメリットの重要性・深刻性を補強しているというものです。この試合でも、後で出てくる世代間格差の議論がスタンスの話に整合する形であったならば、重要性の一部として扱う余地がありました。
重要性や深刻性を立論の最初にスタンスという形で前出しすることには、スピーチの技法として議論を際立たせるという意義が一定程度認められるところです。しかしながら、少なくない選手は、自分たちが主張しているスタンスの内容が重要性・深刻性の一部分をいうものに過ぎないということを十分自覚できず、スタンスの部分だけを単独で強調し、解決性や発生過程といった他の部分が十分説明されないままであるにもかかわらず、重要性や深刻性だけを過度に伸ばしてしまいがちです。中には、スタンスと名前をつければ特別な考慮が受けられるという誤解、ないし確信犯的悪意(これはどちらかというと社会人に見られ、筆者が最も嫌悪する議論のあり方です。)に基づき、無理やりスタンスとして主張している場合もあるように思われます。
ジャッジとしては、スタンスと称されて議論が出されていることに惑わされず、そこで論じられている価値が本当に実現するのかといった点をきちんと吟味しなければなりませんし、必要に応じて、選手に対して「その議論はスタンスとして出される必要があったのか」という問題提起を行い、再考を促すことが求められるところです。
§2 独自の投票理由の定立
選手の中には、スタンスとして出されている議論の独自の意義を強調する観点から、その議論が独自の投票理由を構成すると論じる者もいます。それは例えば「この議論が認められるならば、他の論点の成否にかかわらず肯定側に投票すべきである」といった形の主張です。
このような主張は、ディベート甲子園のルール第5条の明文に反するとしてルール上認められない可能性があることを措けば、理論上は十分成り立ち得るものです。例えば、「この試合では純利益による政策の評価(メリット・デメリットの比較)ではなく、論題採択が憲法に反しているか否か(あるいは、現状が憲法に違反しており、論題採択による合憲化が求められるといえるかどうか)により勝敗を決するべきである」という形で、(現在支配的なディベートパラダイムが前提とする立法府のアナロジーではなく)司法府の憲法判断をモデルとした判定を行うべきであるといった主張をすることが考えられます。もっとも、首相公選制論題は、選挙のあり方、行政府の構成方法という憲法的規律によるべき事項を問題とするもので、どのみち憲法改正が不可避なので、上記のような基準は厳しかろうとは思いますが。
しかし、この形式を取る議論の多くは、突き詰めれば「とても大きな重要性・深刻性」を主張しているにすぎません。つまり、そのメリット・デメリットがとても重要であるから、結果的にそのメリット・デメリットが認められるのであればそれを理由に投票すべきである、ということを言わんとする主張です。
ジャッジは、選手が「この議論は特別である」と主張していることを鵜呑みにするのではなく、その主張がジャッジに判断枠組の変更を真に迫っているのかどうか、判断しなければなりません。もしそうであれば、(ルール上の問題はともかく)かかる枠組変更の必要性があるか審査を行った上で判断を下すことになりますし、結局は重要性・深刻性の提示にとどまるというのであれば、普段どおりに議論を処理することになります。
§3 比較基準の提示
メリット・デメリット方式におけるスタンスの意義として最もポピュラーと思われるのは、メリット・デメリットで主張される(ことが予想される)議論について、いずれが優先されるべきかを先立って論じるものです。これはいわゆる、比較の基準を提示しようとするものです。
これは必ずしも冒頭で提示されるとは限らず、重要性や深刻性の部分で提示される場合もあります。例えば、環境系論題において「環境対策は経済よりも重視されるべきである」ということをいう議論は、環境保護を目指すメリットの重要性であるとともに、否定側のデメリットを踏まえた上での肯定側の価値観を表明するものとして、比較基準を提供する効果を有します。
§4 推定ないし論証責任の転換
一般的に「価値基準」として提出される議論の中には、ディベート甲子園のルール第5条にあるような「メリット=デメリットなら否定側の勝ち」という推定の所在を変更し、自分たちの側に有利な判断を導くことを企図した議論があります。
ディベート甲子園のルール上このような推定の転換が認められるかどうかには争いがありますが、ルールが推定を否定側に有利に設けている実質的理由を正確に攻撃しているものであれば、事実上メリット・デメリットの比較に色をつけるという形を取るなりして、推定の転換がなされたのと同様の判断を行うことはありうるでしょう。
もっとも、実際に「メリット=デメリット」として推定による処理が行われる場面は、極めて例外的であって、ほとんどの場合はメリットとデメリットの間に何らかの差異を見出して投票が行われますし、またそのような違いを見つけることがジャッジに要求されているものというべきです。そして、判断基準やスタンスとして推定の転換を主張する議論は、実は推定の所在を議論することを超えて、ジャッジに対して議論に対する判断の厳しさ(審査密度)を違えるように要求するものであるように思われます。
例えば、死刑廃止論題においてよく主張される「死刑は非人道的刑罰であるから、廃止論者ではなく、死刑の存置を主張する側に挙証責任がある」という価値基準の議論は、メリット=デメリットなら肯定側、という主張を超えて、人道的見地から証明されるメリットがある程度認められることを前提として、死刑存置を主張する否定側の各論拠(デメリット)を厳しく審査し、また比較の際にもメリットを相当程度上回らなければ否定側に投票することはできないということを意味しうるところです。
このような「議論の審査密度に変化をつけるための主張」という形で価値基準の議論が提出されることは従来あまり意識されていなかったように思われますが、実際の政策形成においてそのような議論がされることは必ずしも珍しくありません。そこで、かかる意図に基づく主張を「論証責任の転換」をいう議論であると整理した上で、そのような議論がありうることを意識することが、より妥当な判定を導く助けになると考えます。それは、実際に論証責任の転換を図る議論が出されていない場面においても、自身の判断がどちらかに不当に有利・不利になされていないだろうか、といった点を自己検証することにも役立つはずです。
§5 議論の概要の提示
スタンスという語義からずれてきますが、冒頭に自分たちの議論の概要や、依って立つ基本的な考え方を示すことで、議論の見通しを良くしようとする主張もありえます。一般的には、議論の概要(Overview)を示す議論といいます。
このような議論は、その後の議論を分かりやすくするという効果だけでなく、場合によっては立論・反駁の背景にある一貫した原理を示すことで、自分たちが出す議論の説得力を底上げする効果を有することがあります。
例えば、今回の試合ではそのような主張はされていませんが、否定側は肯定側立論のスタンスに対して読んだような「意欲のない投票は民主主義をダメにする」との趣旨を言う議論をスタンスとしてデメリットに先んじて主張してもよかったでしょう。無責任投票による政治家の質の低下というデメリットはスタンスの議論を具体化したものとして位置づけられますし、政治参加による有権者の変化を言う反論に対しても「意欲のない者を無理やり投票させても教育効果は出ない」という形でスタンスに沿った反論が可能です。さらには、意欲のない者の投票に意味はないという考えをメリットにも及ぼし、若者を無理やり投票させても格差是正のような積極的効果は生じないといった反論を行うこともできます。これら各議論の根本を貫く考え方として、選挙では自発的投票にこそ価値があるのだというスタンスを説得的に打ち立てていれば、議論全体の説得力を大きく高めることができたはずです(講評スピーチにおいても、否定側に推奨される議論として「棄権の自由を侵害することが民主的なのか」という主張がありうるとの提案がされていましたが、これも本段落と同様の趣旨をいうものと解されます。)。
上記のように、選手が提出したスタンスの議論が、そのチームの各主張全体をサポートするようなものであった場合、ジャッジとしては、スタンスとして述べられている内容の説得力に応じて、各論点における肯定的な評価材料として考慮することになります。
4.本決勝における両チームの改善点
4.1 議論の位置づけを意識したスピーチ
最後に、以上のまとめとして、本稿の分析を元にして選手に議論の改善点を伝えるとすればどのような内容となるか、その一例を記しておくことにします。
第2節で「なぜ判定が分かれたのか」を示す部分で縷々述べてきたことは、両チームが主張するメリット・デメリットには複数の受け取られ方がありうるということでした。そこで選手に求められるのは、自分たちの議論がいったいどのような筋書き・中身で評価されるのかということに敏感になった上で、それに対応した形で議論を提出するということです。
例えば、否定側の反論のうち「今後も高齢者の数的優位は変わらない」という議論は、プランで選挙結果が直接変化するというメリットの第一の筋書きとの関係ではストレートに当てはまりますが、政治家の意識が変わるという第二の筋書きとの関係では、もう一言説明を要するところです。政治家は結局選挙で勝つためには多数派に嫌われてはならないから、意識の上でも多数派たる高齢者優先の姿勢は変わらないし、若者向け政策を主張したところでそれは口先だけに終わるだろう、という説明がそれにあたります。また、否定側が重要性への反論として出した「高齢者は生活に直結するから意識が高いが若者はそうではない」という議論は、位置づけが不明であったことから判定上考慮されていないようですが、これもメリットの第二の筋書きとの関係で「結局、若者にとって世代間格差の問題は見えにくいからプラン後もアピールの効果は薄い一方、高齢者は自身の利益に敏感であるから、政治家は選挙のためにそちらを優先し続ける」という説明が加われば、判定上重みを持っていたはずです。相手の議論が何を言おうとしているのか(あるいは何を意味しうるのか)を理解した上で、それに合わせた理由付けが用意されなければ、せっかく出した議論も判定上活きてこないのです。
位置づけという点では、第3節で論じたスタンスなる議論の扱いについても、同様のことが言えます。本決勝の肯定側は、スタンスの議論を提出した上で、第二反駁においてやや強引な形でスタンスの話に沿ってメリットを説明しなおしていましたが、メリットの内容とスタンスの主張の不整合を修復することはできていませんでした。立論段階から、自分たちはどのような意図でスタンスを述べているのか、スタンスとその他の議論の関係性はどうなっているのかという点をきちんと準備することができれば、スタンスに沿った形でメリットが評価され、より安定した形で勝つことができていたはずです。
以上を要約すると、ディベートで出される議論は放っておくと様々な受け取られ方をする(あるいは受け取ってもらえない)から、どのような意図をもって議論を出すのかという「議論の機能」を意識して主張を展開しようということです。
4.2 さらなる議論の可能性
本決勝そのものの講評から離れて、今季論題において本決勝で論じられたようなメリット・デメリット以外を議論する余地についても、若干触れておくことにします。
肯定側については、第3節で示唆したところではありますが、スタンスの議論との関係で「なぜ強制してでも全員参加を求めるのか」という点を掘り下げた議論を展開することができたはずです。これを「若者が投票しない」という世代間格差の角度から論じるのであれば、若者が投票しない理由から論を起こした上で、それを無理やり投票させることのインパクトを主張していくことになります。そこでは、単に「若者は投票するとなったら自分たちに有利な投票をするだろう」という話ではなく、論題導入というアクションをきっかけとして、若者に対する働きかけを行って新しく票田を得ようとする争点政党の誕生といった、プラン後の変化を想像した上での主張が期待されます。そこでは、今回の肯定側が十分意識できていなかった、選挙制度に即した若者票の影響力についての細かな分析なども求められるところです。
否定側としては、政治家の質が下がるという具体的な問題にこだわることなく、その前段階である「投票の質の低下」という部分に独自の意義を見出す立論を構築することも可能だったでしょう。そこでは、選挙の意義、とりわけ「投票の自発性」が重要と考えられる理由について突っ込んだ考察が求められるところです。
さらに視点を広げれば、否定側には、「自発的投票」がより大きな意味を有すると考えられるフィールドに話を絞った立論を展開するという選択もありえたところです。例えば、肯定側の言う国政と異なり、市町村議会などの地方選挙では、都市部を中心に当該地域とのつながりが薄い有権者が相当数存在すること、地方議員の中には地域に根ざした特定の政治テーマを信条にしている人が多く、そのテーマに関心を持つ有権者の支持で議員になっていることが多いことなどから、関心のない層の投票により現状が(少なくとも現在投票している人にとって)望ましくない方向で破壊される蓋然性が高いように思われます。
もちろん、時間の制約や論題の難解さもあって、上記のような議論を後付けで求めることに無理があることは否めませんが、本稿で指摘した問題点を考慮してもなお賞賛に余りある決勝戦のスピーチからすれば、中学生に対してより発展的な議論を求めることは必ずしも酷ではないでしょう。ジャッジや指導者は、選手がより進んだ段階の議論にたどり着けるようにするためにも、選手が提出した議論にきちんと判定を下し、改善点の所在を明らかにできるよう努める必要があります。
おわりに
以上、稚拙ながら、本年度の中学決勝について、判定の道筋という観点から解説を試みました。
ジャッジとして判定を行う上でも、選手として議論を考える上でも、自分が様々な可能性の中から特定の議論を「選択」していることを自覚し、その選択の理由付けに意を払うという意味では、同じ作業をしていると言えます。本稿の内容が、かかる「選択」の質の向上に若干なりとも貢献できたとすれば幸いです。