2016-04-03 Sun
どうもご無沙汰しております。例によって時間が取れておりませんでした。誰が待っているのかという話ですが。いろいろとディベートイベントがあり、旬が過ぎたものもちらほらあるのですが、いろいろ刺激的なものもありましたので、簡単に書いておきます。速報性を考えるとツイッターとかを導入したほうがよいのかもしれませんが、文字数が少ないですからね・・・。
1.JDA春季大会決勝戦雑感
オリンピック返上論題という、率直に言ってバランスが狂いまくっている感のある論題でのJDA春季大会でジャッジをしてきました。論題として適切ではなかったように思われたことは今も変わらないのですが、決勝戦では不利と思われるAffが新機軸の議論で勝つという、なかなか面白いものを見せてもらいました。仕事の都合で決勝ジャッジを外してもらっていたのですが、割と後悔しています。
試合自体は後で音源の提供を受けて聞き直しております。
Aff(ディベート実験室の安藤・後藤チーム)のケースは、地球規模で考えてオリンピックの開催地を決めようという価値観を提示した上で、イスタンブールで行ったほうがよい、というメリットを立てるものでした。
冒頭のスピーチがやや構成が分かりにくかったのですが、この枠組みの根拠としては、①オリンピックは世界的イベント、②日本だけでなく世界のことも考えたほうがより教育的、③Affに判断枠組みを定立する資格がある、といったことがあがっていました。
①については、なるほどとは思うもののIOCの招致基準を超えてイスタンブールの経済発展などというメリットを考慮要素にしてよいのか疑問があります。②については、世界の影響を考えないのはよくないと思いますが、日本中心で考えることが教育的でないとか、世界の観点を「考えなければならない」ということまで言えるのか疑問です。③は苦しい議論で、筆者の私見からすれば判断枠組みはジャッジの専権ですし、そこまで考えないとしても、Affだけが枠組み定立の権利を有する理由は薄弱である上、タブララサ的に「何でもアリ」と考えることは不当なので(美人がいる方が勝ち、とかいう枠組みが出てきた際にそれで決めてよいのか?という問題)、いずれも必ずしも十分な根拠とは言えないと思いましたが、こういうチャレンジングな設定が見られてよかったなぁとは思います。正直、この論題で普通にケースを立てても相手がまともに準備していたら勝てないでしょうし、試合も全然つまらないと思いますので。
筆者としては、Affの主張も踏まえると、世界規模で考えてもいいがせいぜいIOCの観点で、もう一度招致選挙をやったらどうなるだろうかということで判断することでどうだろうと思いました。その上で、日本が招致選挙で原発問題でうそをついたという話は、現在コントトールされていないわけではなく招致の判断を覆すべき事情は現在ないし、イスタンブールの経済発展はIOC的に(おそらく)招致基準と関係なく、そうすると、招致基準で重要な治安の問題でイスラム国のテロが怖いので日本のままでよいのではないか、といったことで考えました。
Affとしては、基準をもっと現実的にIOC招致基準+イスタンブールが望んでいる、みたいな話にして、今選挙したらイスタンブールですよとか、東京オリンピックは騒動ありすぎでしょうとか、そういう話を盛り込んでいくとより面白かったのかもしれません。
Negは、Affの枠組みに真面目に付き合いすぎで、ここは枠組みの問題で「地球規模とか言っているがここで問題になっているのは東京が返上するかどうかで、一度招致した場所の責任は、いまさら難しいとか言って辞めることではなくてきちんと立派なオリンピックを開催することだ、IOCでもない東京が何勝手に招致をやりなおそうとしているのか、おこがましい」とか言ってやればよかったところです。そんなにイスタンブールがよければ2024年にやればいいのではないか、という話も面白かったかもしれません。
いずれにせよ、ディベーターとして刺激を受ける面白い試合でした。このような議論を生む土台となったのは、職業ディベーターの力だけではなくて、これまでのJDA大会で議論を尽くしてきた選手の方々が議論のレベルを底上げしてきたからだと思っております。かなり前にディベート実験室で飲み会があり、そこで職業ディベーターが「あと10年は俺を楽しませろ」みたいなことを言っていたのですが、私自身がそうできていないのは本当に申し訳なく思うものの、後の世代のディベーターがそれを立派に成し遂げていることには本当に頭が下がります。そして、こんなおっさんのようなことを書くほかない自分にはテンションが下がります。
なお、決勝戦の判定についてはあるジャッジが感想を書いています(こちら)。私とは異なる理由で判定が導かれていますが、こういう判定理由の開示はもっとあってよいと思います。
2.即興ディベート大会雑感
最近恒例になっている即興ディベート大会というものも開催されており、こちらもジャッジで伺いました。これも見ていていろいろ刺激があり、来年はサプリメントあたりで結構ですので是非出させていただきたいと思うところです。
なお、当日の論題はこちらで解説されています(予選だけ)。
この大会では、期せずして、論題からして怪しいプランが出ている試合にあたることになりました。
そのうち1つは、第3試合の、「日本は海外の危険地帯への渡航を禁止するべきである。是か非か」という論題で、Affがすべての外国への渡航を禁止していました。ADの解決性をつけるためだったそうですが、どうみてもDAがでかすぎて戦略的には全くよくないプランだったとは思います。それはさておき、この「鎖国」プランは、付帯事項で「違反者はパスポートの返納を行うものとする。」と書いてあることと整合しません。違反者がパスポートを返納するということは、違反しない場合パスポートは残ります。つまり、この論題は、パスポートを不要とするような鎖国プランは全く想定していないわけです。
もう1つは、決勝戦の「日本は臓器売買を合法化すべきである」というもので、Affは意表を突く「(牛の)生レバー販売解禁」プランを出してきました。生レバー禁止は悲しいので個人的にはAffに投票したかったのですが、この試合では、今生レバーの販売は禁止されているのか?という反論を取ってNegに入れています。ただ、Negが本当に指摘すべきだったのは、付帯事項で、「ここでいう臓器には血液、骨髄・・・などを含む」みたいなことが書いてあったことであり、このようなものが全部販売禁止されているのは人間だけではないか、という話から、論題で想定されているのは人間の臓器だ、ということを言うべきでした。あと、生レバーを「臓器」とは言わない、あれは「臓物」だ、といった話も分かりやすかったかもしれませんね。
ここから導き出されるのは、Topicalityをやるには、まずは論題を、付帯事項含めてきちんと読みましょう、ということです。法律学を学ぶにあたって条文から入れと言いますが、ディベートも同じです。ディベート理論的な話の前に、まず、この論題は何を指しているんでしょうか、ということをきちんと解釈することが必要です。そういうことを実感できるよい機会だったと思います。
3.NADE関東春季大会雑感
と、付帯事項をよく読めという話をしたところで、本題?である今季高校論題の話にスムーズに入っていこうと思います。
今季の論題は、中学が地方自治体首長の三選禁止、高校が国民投票制度の導入です。
中学論題はまた機会があれば書きますが、高校論題の試合をいくつか見た感想として、Affの議論が、国民投票の結果どうなるのかというところを十分深めきれていないということを感じました。ここでいう「国民投票の結果」は、国民投票で可決されるとしてどうなるのか、ということだけでなく、そもそも国民投票にかけられるという行為自体が何を生むのか、ということも入ります。たとえば、原発について国民投票で是非を問うことは、結果的に原発廃止にならないとしても、国民投票を契機に議論が巻き起こることで、エネルギー政策に影響を与えるはずですし、それは間接的に選挙結果やマニフェストにも影響を与え得るでしょう。なんなら、国民投票要件を満たさない(したがって投票は行われない)としても、それまでの投票実施に向けた動き自体が意味を持つこともあり得ます。そういった観点の考察がこれから深まっていくことが期待されます。
ここで、Affとしては、国民投票が実施されること自体に価値があるのだと考えることから、国民投票の結果は「その法律を作る」ことではなく「その法律を審議するよう求める」でもよいのではないか、と考えたくなるでしょう。現に、現在地方自治で導入されている直接請求の制度は、条例の改廃を付議することだけを認めています(地方自治法74条3項)。
しかし、NADEの論題解説(こちら)は、「今回の論題は法的拘束力をもつ国民投票制度についてのものですので、諮問型ではないということに注意をしてください。」として、このような付議にとどまるプランは認められないとの見解を取っているようです。
ここで皆さまが留意すべきことは、この論題解説は論題の解釈や議論の範囲を制限するものではないということです(NADEウェブサイト「論題に関連した補足 ― 付帯文および論題解説の位置づけ ―」)。皆さまは、論題をよく読んで、どんなプランが出せるのかを考えなければなりません。
まず、付帯文第1項は「ここでいう国民投票制度とは、18歳以上の有権者の署名により、法律の制定、改正、廃止について請求する制度とする。」としています。これは、地方自治法の直接制度に関する規定が「条例の制定又は改廃の請求をすることができる。 」(地方自治法74条1項)としていることと対応しており、諮問型であることと何ら矛盾しません。
問題は、付帯文第2項です。そこでは、「投票の結果は法的拘束力を持つものとする。」と書いていますが、ここでいう「投票の結果」とは何か、「法的拘束力」は何について生じるのか、指定はありません。「投票の結果」は、第1項の「法律の制定、制定、改正、廃止について請求」するということで、国会で審議してもらいたいぞ、ということを指すという読み方は十分可能です。この場合、法的拘束力とは、国会に必ず付議される、ということを指すことになります(地方自治法74条3項のように付議義務を定める、ということになります。この規定も法的拘束力を持っているということができます)。
むしろ、論題解説のように、国民投票が直ちに「立法」につながるという読み方は、憲法41条が国会を唯一の立法機関としていることに反しています。もちろん、論題それ自身が憲法改正を当然所期しているということはできるし、もし憲法改正を不可避とする論題であるとすれば、そう解すべきなのですが、憲法に反しない解釈と憲法に反する解釈の両方がある場合、前者がより自然であるということもまた言えるのではないでしょうか。
さらに、肯否のバランスや議論の充実度という観点からしても、諮問型のプランも許容することには何の問題もないと思いますし、むしろそちらのほうが議論の幅が広がり、また、国民投票を通じて広く議論するという過程の意義を論じやすくなる点でも望ましいと言えそうです。
※ここの箇所を「弁護士ぐるめ(の本名)」で引用するのはやめてくださいね、念のため。本当に引用してほしかったら引用用の記事を別途書き起こします(笑)
[4/5追記:再度付帯事項を読み直したところ、付帯文第1項で、署名により国民投票にかけるという建て付けとなっており、投票を実施するためのアクションと、それに基づく投票の2つが区別されていることから、後者のアクションは前者と異なり具体的な立法を求める内容であり、これに拘束力がつくのだ、という読み方も可能かなと思いました。ただ、国会への付議というのもそれ自体国民投票にかけてしかるべき大きな話ではありますし、付帯事項の文言上、付議を求める国民投票のために署名を集めることも否定されていないと思いますので(仮にそういう趣旨だとしたら文言の規定が甘いと言わざるを得ない)、筆者の結論は変わりません。]
以上の理由で、筆者としては、いわゆる諮問型のプランも、今季高校論題では許容されていると解すべきであると考えています。これに対して、諮問型は許されないのだと考える余地もあるとは思いますが、個人的にはそのような見解には与しません(なので、私は、ジャッジをする際に、説得的な説明がないと、諮問型プランを排除することはしません。論題解説とか言われても完全に無視します。NADEがそうしろと言っているわけですし)。そのことが、今季論題をもっと面白くすると信じているからです。
もちろん、立法を強制する結果に法的拘束力をつけるプランにも意義があると思いますし、それを選ぶことではじめて論じられる問題もあるでしょう。そこは選手の皆様が頭を振り絞るべきところです。
4.ある炎上風景に関する雑感
これは完全におまけなのですが、某ツイッターシーンにて、近時のJDA大会の質を云々するなどしたツイートに対して種々反論があり、いわゆる炎上が起こったという事件がありました。この問題については、某打ち上げの場で群衆(筆者含む)が過度に盛り上がり、普段は平穏静粛?な集団が、昂奮、激昂の渦中に巻きこまれ、勢いの赴くところ打ち上げ秩序を蹂躪し、如何ともし得ないような事態に発展してしまったことに対する反省の必要というものはあり、その点は筆者も猛省しております。
しかしながら、この炎上事件の本質は、議論批評に関するあり方の問題だと思いますので、敢えて対象となる議論は指摘しない上で、それについては一応一言しておきます。
問題となった発言は、中高生のディベーターに対してある程度影響力を持った方のものでした。個人的にも、同人がディベート普及や指導に力を入れており、熱心なディベート愛好者であることはよく存じているのですが、当該発言は、事実に即さない上、対象の大会に出ている選手にとっては看過できない内容だったと言わざるを得ないものです。
おそらく、ディベートにおいて何に重きを置くかという問題について、見解の相違があることから、炎上に至るような発言がなされたのだと思いますが、仮にそうであったとしても、具体的に何が問題で、それをどうすべきなのか、ということについて、きちんと明示したうえで議論するというのが、ディベーターとしてのルールであろうと思います。
当ブログは、ずいぶん多くの議論を批評しており、後で読み返してもこれはちょっと書きすぎたかな、というくらい厳しいコメントをつけていたりもするのですが、筆者としては、それらの批評にはきちんと根拠を付し、なぜそう思うのかということを、(自分ができるのかどうかは棚上げしつつ)論じています。そうすることが、単に批評で相手をくさすのではなく、議論の内容をいくらかでも向上することにつながるのではないかと考えているからです。
これは、ディベートのジャッジとしても同様です。問題点を指摘する際には、改善可能性があることを示さなくてはならないわけであって、ジャッジは偉いのだ、ということを示すための独善的批評や、自らの価値観を前提とした反証不可能な言説は、殊にディベートという競技の場では、退けられるべきものと考えます。そのような姿勢は、ディベートという競技がディベートである以上尊重されなければならない、自由に、楽しく議論するという理念に抵触するからです。
本件はたまたま影響力のある方の発言だったので炎上の様相を呈しましたが、(選手の方々はいろいろ思うでしょうが)一ジャッジとしては、今後このような不用意な発言なく、これまでどおりディベートの普及活動が行われていくことが一番だと思っております。しかしながら、より根本的に言えば、ディベートの議論批評文化というものをどう考えていくのかということが問題になっているわけでして、そのあたりについては、関係者各位ともに、よく考える必要はあるのだと思います。もちろん、この課題は、私を含めて、今回火をつけた側に対しても等しく向けられているものです。具体的には、ディベートの教育的効果という観点から、よりライトな層のディベートをどうやって指導し、記述していくかという点については、正直顕著な弱みがあるところで、それをここでやる必要はない(し求められてもいない)とは思うものの、どこかで考えていく必要はあるのかと思っております。