愚留米の入院日記
日当たり良好の某法科大学院既習病棟を退院した法務博士の日記。しかし内容はほとんど趣味のディベートの話
深夜営業の自由とは何か(中学論題のポイント)
どうもご無沙汰しております。
さすがに寄稿記事がトップを飾っているのもどうかと思いますので、短めですが記事を書くことにします。

先日、東北大会にジャッジで出かけてきました。皆様楽しげにディベートをしていてよかったのですが、今日はその感想ではなく、大会前日に行われたジャッジ講座で聞いた関東地区の某中学校同士の試合で出ていた議論を題材にすることにします。
その試合はディベート経験の短いチーム同士の試合だったらしいのですが、大変よく準備されていて、初心者校とは思えないレベルの高い試合でした。ただ、その中で見た否定側の議論について、ちょっと中学生が作ったとは思われない香りがしたのと、その割に理解の浅いところがありありと見えていて残念だったので、そのことを取り上げることにします。選手は自分たちなりに頑張ってスピーチしており、古い演劇主義とは全然違う感じを受けましたが、だからこそ、触れさせるなら良質な議論に触れさせてほしい、という趣旨のコメントです。

さて、件の否定側が回していたのは、深夜営業規制は個人の職業選択の自由や企業の経営の自由(営業の自由)を制約するのでよくない、自由にやらせるべきだ、というものです。この議論自体は、後述するように職業選択の自由というのか疑問があることはともかく、なかなかよいところに目をつけているのですが、深刻性で例によって失業→自殺の話が出てきて、結局これかよという、(中学生には本当に申し訳ないですが)二流の議論に堕してしまっていました。以下、時間の制約もあるので端折りながらの説明で恐縮ですが、簡単に解説します。

なぜこのインパクトが悪いのか。それは、職業選択の自由や営業の自由の重大さは、失業するかしないか、といったこととは全く関係ないからです。
職業選択の自由や営業の自由は、憲法22条1項が「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。 」と定めていることにより保障されています(営業の自由という言葉はないですが、職業選択の自由は職業遂行も含むので、営業の自由も含みます。)。このような自由が保障されているのは、昔は身分制やら何やらで職業や住居が制限されており、そういった制約から人民を解放する必要がある、といった歴史的背景があります。会社員の子どもは医者になりたくてもなれない、とかいやでしょ?というわけで、なりたい職業へのアクセスを制限することは許しません、ということです。ですから、ここで言う職業選択の自由や営業の自由というのは、金を稼ぎたいのに稼げないとかいう文脈の話ではなく、むしろ、自己実現の機会を確保するという、個人の人格的価値と不可分な精神的自由としての性質を有しています(薬事法違憲判決:最大判昭和50年4月30日民集第29巻4号572頁)。
これに対して、失業しないようにするというのは、制約を受けないという「自由」の議論とは関係ありません。生存権を保障する憲法25条が関係するかもしれませんが、生活保障制度はともかく、失業対策を積極的に求める権利があるのかは疑問ですし、ましてや、仕事が見つからないということを「自由がない」と言うことはありません。自由というのはそんなに安易に使われるような概念ではありません。

ですから、職業選択の自由や営業の自由で議論を立てたいなら、深夜に働く/営業するという在り方そのものを希望することに対する制約が存在する、という議論を行う必要があります。例えば、深夜にやっているキャバクラやホストクラブでNo.1になりたいキャバ嬢やホストに対する職業自由の選択の制約だ、という話はあり得て、これは、失業の話を持ち出すより、自由侵害の話としてよほどよくできています。まじめな話、肯定側が良く出す過重労働解消のメリットでは、こういった夜の世界を規制する根拠としては十分ではないかもしれません(まぁ、夕方やってください、ということなのかもしれませんが…。)。
深夜に営業してお客さんが来ている業態もあります、という話も、企業側の営業の自由を論じるという意味ではよいでしょう。ただ、その場合のインパクトは、企業は社会(顧客)のニーズに合わせて営業を遂行し、利潤を上げる目的で活動しているわけで、それを制約するのはけしからん(し、経済的にも不合理だ)、といったところになるでしょう。失業させないと人が死なないから分かりにくい、とかいう話ではないわけです。そういう間違ったprimitiveな議論を中学生に教えるのはもうやめにしましょうよ、と言いたいです。

さて、上記のように職業選択や営業の自由を捉えなおしたとき、これを制約することを正当化したい肯定側の拠って立つべき論理は何でしょうか。憲法においては、「公共の福祉に反しない限り」自由が保障されていることから、そのような制約根拠があるかどうかを問題にできそうです。
職業選択や営業の自由を制約できるかどうかの判断基準についてはいろいろな議論があり、上記の薬事法違憲判決一つとってみても、非常に深い議論があります。なのでここでは詳細には論じませんが、一般的には、規制目的がある目的を積極的に達成する政策的なもの(積極目的)である場合には、問題を防ぐためといった消極的目的の規制より緩やかに規制の合憲性(規制してよいかどうか)を判断するとか、職業を行うことそのものを制約する場合は職業遂行の方法を制約する場合より厳しく合憲性を判断するとかいったことが言われます。これをこの論題に照らしてみると、①一律に規制すべき目的があること、②制約の程度はそこまで大きくないこと、という2点に整理されます。
①の「規制目的」については、試合でも散見されますが、放置しておくと企業は他社との競争目的で深夜労働を強化し従業員がすりつぶされていくので、法律で介入すべき、ということが言えるでしょう。解雇規制などを定める労働法と同じような考え方ですね。キャバクラやホストクラブは関係ないのではないかという説もありますが(たぶん昼間寝てるので。まぁ飲みすぎで体に悪そうですが)、そこは、子どもの深夜労働を禁止しているのと同じで、休息時間をきちんと確保することが大事で、キャバクラやホストクラブはよいとか言い出すと、女性を横に置いとくだけ置いといて食事を出す深夜レストランなど脱法行為?が起こる、とかいうことが言えるのかもしれません。この辺適当ですが。
②の制約程度については、別に昼間働けばいいわけで、仕事自体を否定するものではない、という形でのデメリットへの反駁になります。少し視点を変えて、「夜も働かないと生活できない」というのは、夜働けるようにして解決すべき問題ではなく、社会保障の問題ではないか、といった問題提起や、そもそも夜働きたいというのは「学生にとって給料の実入りがいい」とかいうだけで、そこまで切実ではないのではないか(そもそもアルバイトであり、正社員の失業とは違うのでは?)、といった反論もありでしょう。

といったところでまとめますと、深夜営業規制論題で、否定側の立場から、何か理念的なものを立てたいのであれば、安易に自殺させるような議論ではなく、何を制約しているのかということをきちんと考えてほしい、ということです。上記は法学的な側面から記載していますが、経済学の観点から規制が不合理だという話をすることもできると思います。いずれにせよ、人が死ぬからとか、金がもうからないからとかそういうことで議論が決まるのではなく、この論題で何故それを論じるのかという「事の本質」をきちんと捉えて議論していただきたいということで、皆様が素晴らしい議論を戦わせることを祈念しつつ本日の記事を終わります。
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