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アカデミックディベーター

Author:アカデミックディベーター
日当たりの良い某法科大学院を2009年3月に卒業。
ライフワークである競技ディベートについてぼちぼち書いています

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或る東大生の競技ディベート批判に対するコメント
一部ディベート界隈で、ITB(一高東大弁論部)に所属しているという東大生が競技ディベートを批判している動画(こちら)があるということが話題になっております。

私も視聴しましたが、全く外れたことを言っているわけではないものの、ずれたコメントが多く、競技ディベートに対する批判として特段新しいところもなければ傾聴すべきものとも思われなかったので、スルーしていたのですが、同様の感想を持った知り合いのいちご姫さんが下記のようにツイートしたところ、これに対して批判が来ていました。





いちご姫さんのコメントは、ツイッターなので簡潔で具体性を欠くところはありますが、動画の感想としてはこんなものだろうと思うのですが、これに対するやんすとさんの反応は、論理の飛躍と決めつけによるものに見え、いちご姫さんに何か恨みでもあるのか(恨みを買いかねないキャラではある)という内容だったのですが、あまりごちゃごちゃ論争をしても仕方ないので、いちご姫さんの意向を受けて、私のほうで上記動画について何がずれているのか(クリティカルでないのか)解説し、そのうえで、ディベートの意義について説明しておこうと思います。いちご姫さんに直接記事を書いてもらってもよいのですが、一応ITBのOBでもある私からコメントしておきたいという気持ちもありますので、今回は愚留米の名義とさせていただきます。もっとも、事前にいちご姫さんとすり合わせているので、以下の記載はいちご姫さんの意見と同じだとご理解ください。

なお、ここで取り上げている内容は、そのほとんどが私の書いたテキストでも書かれているところです。宣伝になっているのかどうかよくわかりませんが、興味があればそちらをお買い上げください。

1.机上での議論だから意味がないのか
動画1:01以降で、競技ディベートは机上の空論で、議論しても現実は変わらないということが指摘されています。それはそのとおりですが、別にディベートで直接現実を変えようとしているわけではないので、so whatというところです。直接現実を変えたいのでNPOやロビイング活動などに行く、という意気込みは素晴らしいことだと思いますし、それについては何もコメントすることがありません。
しかし、ディベートの意義ということで言えば、ディベートではむしろ「机上の空論」にすることによって、議論のトレーニングを行っているのです。現実の意思決定では、誤れば被害は甚大ですし(とかいう資料を一院制論題で何度聞いたことか…)、そもそもそのような意思決定を行える機会は普通の人にはそうそうありません。しかし、重大な意思決定の場を仮設して議論することで、思考能力を働かせるトレーニングをノーリスクで行うことができます。そうやって、現実を変えるために有用な能力を養うことは、現実への働きかけという「実益」にもつながってくるはずです。
言ってしまえば、彼の議論は、竹刀で切り合う剣道は所詮戦場では役立たないので真剣で切り合えという話と一緒で、そうするのは勝手ですが、実際には武士や剣術家も竹刀で練習したりしてるんじゃないですか、ということです。

2.1人ずつ口頭で話す形式について
2:04以降では、ディベートの試合形式についてのコメントがされています。その中で最初に指摘されているのが、口頭だけで、1人で制限時間を決めて議論するような会議の方法は現実にはない、ということです。

まず1人で制限時間を決めて発言するという形式について。大学生の彼がどのような理由で「社会でそんな場面はない」と言っているのか謎ですが、厳密にタイマーで時間管理するかはともかく、英米系の訴訟や仲裁では割り振られた時間で順番にスピーチしていくということは普通にあります。
ただ、ここで重要なのは、そういう方法のスピーチが社会にあるかどうかではなく、それが競技のルールとして合理的かどうかということです。時間や発言者を制限しているのは、発言機会を公平にするためです(パーラメンタリーディベートでは途中でPOIという質問の割り込み機会がありますが、これどこまでも取り上げるかはマナーを踏まえたスピーカーの裁量であって、好き勝手できるわけではない)。それではそのことが現実の議論機会での対応力を削ぐのかというと、そうでもなく、単に「現実の社会では別の要素もありますよね」ということ以上でもそれ以下でもないでしょう。好き勝手スピーチ割り込み放題のルールにすれば、議論を公平に戦わせるという要素が失われ、ディベートの教育効果は失われてしまいます。

次に、口頭での説明だけである、パワポやホワイトボードの説明ができないのはおかしいということですが、これも現実社会の議論場面をきちんと捉えた発言であるかがまず疑問です。私の職業経験で言えば、法廷での裁判官とのやり取りは、プレゼン資料を持っていくこともないではないですが(裁判員裁判ではパワポを使います)、普通は口頭で議論しますし、それこそ弁護士同士の打ち合わせでは立ち話的なものも含めて資料なしでやり取りします。コンサルは異様に力の入った神パワポを持ってきますが、高額のフィーをチャージする以外にどこまで意味があるのかは正直よくわからないところもあります(他方で弁護士の作るパワポは字が多すぎるのでこれまた大変不評)。
話がそれましたが、パワポ作成や図示の能力はどこかで役立つであろうものの、ディベートでそれも身に着ける必要があるのか、ということです。パワポや図も評価の対象にして、パワポ作りが上手い選手が勝つようになれば(ならないと思いますが)、その分、ほかの要素が軽んじられることになります。図の使用を認めないことで、口頭での議論説明能力を高めるというのがディベートの一般的ルールの選択であり、それが不合理だとは、少なくとも私は思いません。むしろ書面作成能力を競いたいという法曹的発想で書面ディベートをやるというのはあってよいのかもしれませんが(文字でのオンラインディベートはこれに近い。実際の訴訟や仲裁でも、何ページ以内とか、何ワード以内といった制限付きで書面提出を要請されることがあります)、試合に時間もかかりますし、別の競技として捉えたほうが良いでしょう。
なお、昔静岡で行われていた男女共同参画関係のディベート大会では、図表の使用も認められていました。それで、図表を使ったプレゼンのあった試合をジャッジしたことがあるのですが、図を見ながらスピーチを聞くのは必ずしも分かりやすいものではなく、かえって議論の理解が浅くなった気がします。図表というのは、分かった気にさせる要素が強く、思考強度の高い議論場面ではそれほど役立たないのではないかという気がしています(あるいは、文書で別途ゆっくり検討できる材料があるところで補足として使う限度で理解を深化させることができるかもしれません)。

さて、以上の指摘を踏まえて、彼は競技ディベートには実用性が足りないと論じます。そこでいう実用性が、個々の議論場面を取り出したときに、もっと直接的なトレーニングがあるのではないか(例えば、大統領候補の討論会であれば、討論会のリハをやったほうがいい)というのは、それはそうでしょう。しかし、ディベートはそういう特定の場面を念頭においた議論の練習ではなく、楽しく議論能力を向上させるという観点から、現実の議論場面を単純化、理想化した議論空間を設定しているのです。そこで、現実の諸場面で必要となるすべての要素が養われることはないですし、そんなことはディベート関係者も最初から期待していません。しかし、競技ディベートのルールの中で、相手方を説得するためのロジック構築能力、分かりやすいスピーチの技法、分析能力などは確かに身に付きます。それを各フィールドでどう生かすかは各人の努力次第であり、ディベートがそのまま生かせるかというとそうではないでしょうが、だからといってディベートが実用的でないのだとすると、あらゆる議論トレーニングが、特定の議論場面でしか役立たないことをもって実用性を否定されることになります。
したがって、彼の指摘は、「私にとってディベートは役立たなかった/不十分だった」ということであれば、「そういうこともあるかもしれませんね(というか私にとってもそういう役立ち方はしていませんね)」ということになるのですが、競技ディベートへの有効な批判になっているかというと、とてもそうとは思えません。

3.ディベートに通じたジャッジが判断することについて
3:18からは、普通の聴衆ではなくディベートの専門家が聞く、ということが問題とされています。ジャッジは専門知識を入れずに判定するということになっていますが、ディベートの経験から、早いスピーチを理解してしまう、平均的社会人より知識・思考水準が高めの人が母集団になっている、というのはそうでしょう。そういった特殊性や価値の偏りを問題とすること自体はごもっともですし、ジャッジも気を付けないといけないとは思います(ただ、だからといって分かったものを分からないと言うべきなのか、普通の人なら誤解しそうだということで間違った帰結を選ぶべきなのか、というとそれは違うと思います。)。
しかし、これも、より緻密で深い議論ができるようになる、ということが目的であると考えれば合理的なことでもあります。また、水準の高いジャッジに評価されるような能力を身に着けた選手は、一般の人にも理解できるパブリックスピーチにもある程度対応できます。が、その逆は無理です。どちらを目指すのがより合理的か、といえば、高い目標を置いたほうがよいのではないかと思います。
もっとも、パブリックスピーチの能力を重視すべきだ、という考え方は十分あり得ます。ディベートの枠内で、あえてジャッジを一般の聴衆から選ぶというのは手かもしれません。JDAのFinalでオーディエンスボートを導入したりするのも、(ほとんどディベーターが聴衆ですが)そういった配慮の一つと言えます。それは大会のポリシーとして行えばよく、そういう大会があることは否定しませんが、ディベート甲子園その他一般的なディベート大会が全部そうなるべきかというと、私はそうは思いません。

彼は、友達を説得するようなときに役立たないということを言っていますが、それは競技ディベートに求めるべきものなのでしょうか。歴史学を研究している人に、そんなことを学んでも役立たないので法律学をやれ、と言っているのに近い議論だと思います。そんなにコミュニケーション能力を高めたいなら、渋谷でナンパでもしてきたらどうでしょうか(私の弟が某ITBの後輩に冗談でこれを命じたところ、その後輩は朝6時の渋谷で女性を朝マックに誘いまくっていた)。最近はパリピ選手権なる「競技」もあるようです。
聴衆(一般人)を説得するという点をもっと考えたいのであれば、弁論大会も一つの選択になるでしょう。あれもインテリが審査員であることは同じですが、ディベートに比べると「一般聴衆」が意識される要素は強いです。彼もITBのメンバーであれば、そのあたりも踏まえて議論してほしかったです。

4.早口問題について
4:28からは、早口になるという問題が取り上げられています。これは昔から言われている問題で、競技であっても分かりやすさを無視していいかというとそうでもないのですが、議論の内容を高めるという条件とフォーマットからすると、ジャッジが理解できる範囲内でスピーチが早くなってしまうところはあります。しかし、これも3と同じで、それが問題だとするなら、パブリックスピーチを重視したルールで大会を行えばよいだけの話です。より深い議論、という目的からは、やむを得ないところです。
しかし、一つ強調しておきたいのは、早口でスピーチする優秀なディベーター(こう述べるのは、ただ早いだけで中身のないスピーチもたくさんあるからです。それは一般的なルールでも評価されません)は、スピードを落として議論することが要求される場面でも、良好なパフォーマンスを上げるということです。これは当たり前の話で、F1レーサーはスピードを落としても運転は上手でしょう(多分)、ということです。現に、過去の九州JDAで、ディベートにあまり慣れていない選手も含めた全選手のオーディエンスボートで予選をやった際に、決勝に残ったガチガチの競技ディベーター(決勝はとても速いスピーチです)は、スピーチをかなり落として分かりやすく議論した結果、票を全く落とさず勝っています。
ディベートをやると早口になるというのも、実際そうなのか疑わしいです。私は早口なほうだと思いますが、昔からそうだったと思います。また、ディベートをやっていなくても早口な人はたくさんいます。頭の回転が速く、それをそのまま話そうとする人は、だいたい早口になるのであって、それは別途気を付けるべきことだではあるとしても、仕方ないことだと思います(単にテンパって早口の人もいるので、私が頭の回転の速い人だという意味ではありません、残念ながら。)。

5.地方によってジャッジが違う
6:00からは、地方によってジャッジが違うという問題が指摘されています。今でもあると思いますし、これはジャッジの質の問題など含めて考えるべき問題を含みますが、競技ディベート批判というより現在のディベートコミュニティの問題ですので、ここでは論じません。また、ディベートコミュニティについての問題提起としてみると中身がほとんどないので、論じる意味もないです。
あと、関係ないですが、7:12くらいで、司法試験もどれだけ書けるかという腕の力の問題だとかいう話が出てくるのですが、書けばいいというわけではなく、コンパクトでも的を射ていれば合格する試験ですので、そういうことを言い訳にしているうちは司法試験合格の道は遠いのではないかということをコメントしておきます。というか1秒に3文字も書けるはずないだろう…。

6.準備するのに時間がかかる
8:00からは、リサーチなどの準備にものすごく時間がかかるという話が出てきます。ディベートにいろんな取り組み方があってよいとは思うし、ライトなディベート大会があってもよいのではないかと思います。もっと主催者が情報提供するというのもあってよいかもしれませんし(とはいえリサーチすること自体がトレーニング的要素もありますので、論題解説を充実化するとか、そういう方向かなと思います)、地方間のリサーチ資源の均等化など、考えるべきことはあります。大学でディベートを続けてもらうためにどうするかということは、彼の指摘を待つまでもなく課題として議論されていることで、最近では資料を準備するスタイルの大会などもありますが、なお考える必要はあるでしょう。もっとも、「楽しさ」という点では、一般的に、テニスや合コン(こんなに楽しそう…いや、おっさんにはきつい……)と張り合って勝てるのかというとそうでもないでしょうし、そういうことを目指すものでもないと思います。
しかし、本気でやれば大変だというのはディベートに限ったことではなく、最高峰の大会で勝つためにそれだけの努力がいるということ自体が否定される理由が私には分かりません。彼はディベートが無茶苦茶大変だと言いますが、多分本家甲子園の高校球児はもっと激しく大変な思いをしていますし(私は高校時代授業中も授業外もずっとプレパしていたので、かけた時間は高校球児を上回っているかもしれませんが)、現実社会でも、ディベートのプレパ以上に労力を使う仕事はいくらでもあります。
なお、即興ディベートが取り組みやすいというコメントも出ているのですが、本当に深めていくと時事問題や様々な価値、思想、社会問題について学習する必要があるわけで、即興なので楽、というのはパーラメンタリーディベーターに失礼でしょう。もちろん、即興型に取り組みやすい要素があることは事実なので、ディベート普及の一つの方法だと思います。私は専らアカデミック畑の人間なので説得力がないですが、両方やったほうが深い議論ができていいのは間違いないでしょう。

7.事実と論理だけで議論するとサイコパスになるのか
10:07からは、本論とされる、ディベートが「サイコパス」を生むという話がされています。事実と論理だけで議論されており、「人の気持ち」が抜けているという話です。
しかし、人間がジャッジしているわけで、人の気持ちが抜けているという認識そのものが、ディベートへの理解が浅いと言えます。分かりやすいところで言うと、価値に関する議論は、判断者の個性が反映されるものですし、議論の際にも、人の気持ちに訴えかけるような事実を含めて論じることで、評価を大きくできます。例えば、単に「バーやスナックがつぶれる」という話ではなく、そういったバーやスナックでどういう営みが行われているのか、経営者がどうやって店を作ってきたのか、店がつぶれるとどうなってしまうのか、といった事情を重ねて、そういった店舗に対する規制が何を帰結するのかということを説得的に論じることが、ディベートでは求められています。失業するかどうかが大事、といったプリミティブな思考に反省を促すことこそが、ディベートの目的です。関連して、ディベートでは議論を数字で評価しなければならない、という指摘もありましたが、これも全くもって浅い理解です。議論の評価は、数字だけでなく、それが生じた文脈を踏まえて行われます。
このように、事実と論理を通じて人の心を動かすということは、現実社会でも強く求められます。彼も少し述べていましたが、社会において、事実と論理で合理的に判断する建前になっている場面は数多くあります。建前とあるように、それは実際のところそうでもなかったりするのですが、そうであるとしても、人の心に訴えかけるように構築された議論は、結論を変える大きな武器となります。私が生業としている裁判実務の世界は、まさにその典型例です。実際の事件では、筋の良し悪しというように、どっちが悪いということがあったりするのですが、裁判官にそう思ってもらえるかは、どんなストーリーを、どんな証拠で、どう主張するかということにかかってきます。小説のような抒情的な準備書面を書いても裁判官は読みませんし、事実が追いつかないのに言い分をいくら語ったところで裁判官の心証は動きませんが、「これはひどい」と思わせる事実、「相手の言っていることがどうしておかしいのか」を明快に指摘する主張などを通じて、弁護士や検察官は、この事件はこういう事件なのだということを裁判官に「発見」させることを試みます。そこでは確かに、事実や論理を用いて、感情が動かされています。

彼は、自分の経験に基づいて、ディベートでの議論が「サイコパス」のようだと述べていますが、個人的には、それはとても悲しいことです。実は私は、彼の高校時代の最後の試合を主審としてジャッジしています。そのときの様子はこちらの記事で書いているのですが(1で出てくる2NRのこと)、そこでは、ジャッジの心を動かすためにはどうすべきだったのかということを、彼の議論に即しつつ、説明したつもりです。彼の議論(及び創価の議論)は、外国人労働者問題の議論としては質の高いものであったし、手前味噌ながら私の講評も、彼がサイコパスと呼ぶような底の浅いものではなく、外国人労働者の人権問題という痛ましい議論を論じるにあたってどんな事実に光を当てるべきだったのかということを幾許かは示唆できていたのではないかと思っています。そういう素晴らしい議論を行っていた彼が、なぜ「サイコパス」というような浅い理解を露呈しているのか、私としては正直戸惑いがあります。

最後に、17:10から、彼はディベートで立場が固定されて思っていない立場で議論するということを指摘していますが、自分と思っている立場と違う場合でも、理があると思う範囲で議論することはできますし、自分の立場と議論での立場が切り離されていますので、様々な立場から議論するトレーニングとして割り切って議論することができます(思想信条からしてあり得ないという場合は試合に出ないということもできます。)。これが「サイコパス」ということになると、弁護士はみんなサイコパスなのかということになってしまいます。もしかしてそうなのかもしれませんが…。

8.まとめ
以上を総括すると、動画における競技ディベート批判は、一言で言えば「そんなすべてを満たすような競技は存在しない」ということに尽きるもので、現在一般的に行われているディベートの在り方に対する批判としてはクリティカルではない、ということになります。少なくとも「意味がない」「有害だ」ということは言えていないでしょう。そもそも、私もそうですが、この動画を見て首をひねった人は、合コンに行く暇があったらディベートをやれとか、ディベートが最高の競技だとか言っているわけではなく、そういう要素が重要ならほかのトレーニングをやるか、違った形のルールの大会を提案するなりすればいいのに、ということを思っているだけでしょう。
さらに言えば、彼が強調し、やんすと氏も共感するところであるような「一般の人への説得」力を養う競技というのは、どういうものが想定されているのでしょうか。まず論題の選び方からして違ってくると思います。そういうalternativeがないまま、競技ディベート批判と言われても、クリティカルでないとしか言いようがないです。
このような反応に対して、批判を受け止めろとか、ディベートの捉え方が凝り固まっていると言われては、温厚ないちご姫さんとしても、腹を立ててしまうのは仕方ないところでしょう。ディベーターであればなおさら、いちご姫さんの感想に疑問を持ったのであれば、どこがおかしいのか確認した上で意見を交わすべきであって、決めつけで論難するのでは、これまで何のためにディベートをしてきたのだと言われても仕方ありません(今後に期待してのコメントです)。

何はともあれ、よりよいディベート、意義のあるディベートとは何かという問いは我々ディベーターにとって等しく重要であり、そのことについて議論すること自体は奨励されて然るべきですので、いちご姫をつつくとブログで長文を書かれるといったことで萎縮するのではなく、建設的な議論ができるといいなと思います。(いちご姫談)

ディベート関連一般 | 00:54:02 | トラックバック(0) | コメント(1)