2018-08-29 Wed
以前に書くといってなかなか着手できていなかったのですが、JDAの後期論題も決まったことから、近時のディベート理論談義の中心を飾っているクリティーク(Kritik)について、私見を書いてみようと思います。筆者はKritikの具体的な構成について詳しくないので、基本的には、US Exchangeで本場のKritikに触れ、JDAでも実践して見せたかなるん氏のブログにおける解説と、トランスクリプトとして残っており、Kritikが投票理由として認められNegが勝利した第20回JDA秋季大会準決勝の内容(こちら)を中心に、筆者としてのKritikに対する理解と、現代日本語ディベート界――こう限定するのは、Kritikがコミュニティの属性や状況に依存して発生・発展してきたように思われることによります――においてKritikが受容される可能性があればどのような議論なのかということについて論じようと思います。
序.Kritikの定義
Kritikの定義については、定まっていないところもあるようですが、大雑把であることを承知で述べれば、メリット・デメリット等を通じた政策論争として勝敗を決する判定方法(政策形成パラダイム)と異なる理由での投票を求める議論、ということになろうかと思います。Kritikの特徴は、異なるパラダイム(仮説検証パラダイムなど)を前提に論題の是非を争うという形ではなく、そもそも論題の是非という勝利条件に縛られない形で、自らの側に対する投票を求めようとするところにあるように思われます。
代表的なKritikの切り口としては、相手方が使用した言葉の用法に問題がある(例えば、「看護婦」という言葉が女性を当該職業と結び付ける差別的用語である…など)ので自分たちに投票すべきという言語Kritikや、相手方の議論が立脚する価値に問題がある(例えば、経済発展を利益とするメリットが資本主義的価値観を前提としておりかかる価値観に問題がある…など)ので自分たちに投票すべきという価値Kritikなどが挙げられます。かなるん氏は、AffでもKritikを使用しており、文学での共感の感情に基づき論題を肯定してほしいという文学Kritik?を展開しています(こちらを参照)。いずれも、論題の当否とは別に、投票理由を構成しようとする議論ということができます。
Kritikの要件がどんなものであるか、といった解説は、上述したかなるん氏のブログで詳細に説明されているので、ここではそれを改めて紹介するのではなく、筆者として、Kritikを受け入れることについてどのような問題があると考えるか、逆に、どのような場面であればKritikが成立する余地がありそうかということを、なるべく丁寧に論じようと思います。現実にKritikがJDAで回るようになった現代ディベートにおいて、Kritik論議を読者諸賢の指摘に委ねている場合ではないので、なるべく実践的に意味のあるような考察をしたいと思っておりますが、他方で、以下の考察はあくまで私見に過ぎず、議論水準の向上のための批判的検討が望まれる内容であるということを最初にお断りしておきます。
1.Kritikの理論的課題
Kritikの先進性は、メタディベート的な観点を導入することで、ディベートの勝敗を論題の是非に限定せず拡大していることにあると見ることができます。このような議論は、現実社会においても一定程度見られるものであり、例えば、国会論戦では、政治家の失言やスキャンダルといった、政策の是非と直接関係ない問題によって、政策が結果的に棄却されるということはあります。本当に純粋な政策論争だけがディベートの前提なのか、という疑問は、十分成り立ち得るものであるとは思います。
しかしながら、Kritikの議論が広く受け入れられるものであるかというと、以下の理由から、厳しいものがあることは否めません。順を追って検討することにします。
1.1 ジャッジが前提とするディベート観は当然には棄却されない
以前のエントリで詳細に論じたのですが、何をもって投票理由とするのか、という理論的な問題については、ジャッジが自分の見解を試合に持ち込む必要があり、現に持ち込みが認められているのであるから、選手によるチャレンジがあったとしても、選手の議論に拘束されることはないと考えるべきです。
Kritikに即して述べるのであれば、ほとんどのディベーターは、政策形成パラダイムに基づき、論題の是非を議論することを通じて勝敗を決するものと考え、ジャッジもそのように判断しています(後述するようにこれには相応の理由があります)。Kritikを回すディベーターであっても、もしKritikが回っていない試合であれば、そのように判断することに違和感はないでしょう。そこに、Kritikが出てきたというだけで、直ちにそれに従わなければならないということにはならないはずです。勝敗決定の方法は択一的、あるいは優先順位がつくべきものですので、政策の当否ではなくKritikで決めるべきと主張する側は、政策形成パラダイム下での勝敗決定によることに問題があるとか、Kritikによって勝敗を決定することが有益であるといった議論を通じて、Kritikによる勝敗決定のほうが望ましいことを論証する責任があるというべきです。さらに、ここでの論証は、試合上の議論の優越というだけではなく、ジャッジが抱いている前提的理解を踏まえてなお説得的である必要があります。勝敗決定方法を論じるに当たっては、相手の議論ではなく、ジャッジの前提と戦わなければならないということです。
1.2 論題の是非と別に勝敗理由を設定することのハードルは高い
私を含む多くのディベーターは、ディベートにおいては、論題の是非を論じるものと考えています。アカデミックディベート(調査型ディベート)における一般的な論題が、政策主体は~すべきである、という政策論題を採用していることからして、かかる理解は合理的なものです。議論の場を政策形成の場であるという特別な擬制を置かない場合であっても、通常の聞き手(市民)であれば、日本は~すべき、という命題に対しては、選挙のマニフェストのようなものと考え、日本にとって(あるいは自分にとって)利益があるかどうか、という枠組みで判断しようとすることが、唯一無二ではないとしても、一般的な考え方でしょう。
これに対して、Kritikの議論は、政策の是非とは異なる観点で勝敗を決しようという、新しい見方を提案します。多くの場合、そこで議論される内容は、一般に論題の是非を議論する文脈とはかけ離れており(後述しますが、JDAで出ていた議論もそうでした)、通常の聞き手からすると当惑する内容と言えます。例えるなら、カレーを注文したらあんみつが出てきたような状況です。なぜ、これまで当然と思っていた考え方を変えないといけないのか、カレーを食べに来たのにあんみつを食べないといけないのか、これを証明する必要がKritikerには求められますが、これは、これまでジャッジが採用していた枠組みの見直しを迫るという、かなりハードルの高い証明です。Kritikerは、そんな常識に縛られるのは不当だと主張するのでしょうが、それは、Kritikが認められるべきであるという別個の常識に基づいた主張であって、論題の是非こそが議論の対象であるという規範を持っている人間を説得する理由にはなりません。
なお、Kritikでよく使用されるのは、ハイデガーやらジジェクやらボードリアールやらといった、哲学者の文献であるようです。私が不勉強であるということを差し引いても、そういった文献が何かを言っているというだけで、これまでの見方を変えなければならないということにはならないでしょう。Kritikerは、論題の是非にこだわる考え方を硬直的だとして批判する立場でしょうが、哲学や文学やらを持ち出して政策論議の有効性を批判する立場についても、同じように、インテリぶった書生談義にすぎず考慮の必要はないという批判があり得るところで、論題の是非を無視してでも議論すべき説得的な理由を具体的に挙げられなければディベーターの前提を変えることはできないということは、当然覚悟されるべきでしょう。
教育的観点からも、論題の是非を議論するということには理由があります。もちろんここには色々な考え方はあり得るところですが、現実社会における政策の是非を議論するということが、社会における意思決定のトレーニングになり得ることは、否定しがたいところでしょう。そこでは、与えられたテーマ(論題)を所与のものとして、それを調査し、検討するというプロセスが重要になります。
以上のような営みに、論題の是非と関係のない理由でKritikを持ちこみ、それで勝敗を決することは、ディベーターの準備してきた内容に水を差すことにもつながります。もちろん、Kritikの問題提起が重大なものであれば、それに対しても対応する必要があったと言えるわけなので、水を差すという表現は不適切なわけですが、政策論議を棄却するような理由がない議論を安易に認めてしまうことは、論題についての検討を浅くしてしまうことにもつながります。
もちろん、Kritikerからすれば、そもそも議論すべき内容は論題の是非に限られないのだから、ということになるのでしょうが、それこそ前提となる価値観の相違が問題になるところであって、多くのディベーター(さらに言えばディベートに触れ得る一般の人)が期待しているのが現実の世界で通用する政策論争であり、そのために論題の是非を議論したいと考えているのだとすれば、それを妨害するKritikの枠組が安易に採用されることが「迷惑」である、と考えることは自然なことでしょう。少なくとも、政策の是非について議論しているところにKritikのような議論で対抗する態度は現在の社会では一般的ではなく、意思決定の変化を促す効果に乏しいので、そのような議論が主流になることはディベートの教育的効果を「マニア向け」のものにしてしまい、社会との適合性を著しく損ねるだろうということが言えます。そういった社会が不当なのだということをKritikerは考えるのでしょうが、それはディベートの場ではなく別の社会運動として行ったほうがよく、社会に通用する議論が望ましいと考えるジャッジに対して態度変更を促そうとするのであれば、それなりの理由付けが必要とされます。
2.実際に日本で出されたKritikの批評
以上は一般論ですが、これでは分かりにくいので、実際に日本で出たKritikの議論を批評する形で、Kritikの可能性と限界を探っていくことにしましょう。
2.1 難民論題における否定側議論(JDA大会ver)
最初に、難民論題のJDA大会準決勝で出されたKritik(トランスクリプトはこちら)を批評していきましょう。
この試合でNegが提出したKritikは、1NCで以下のように要約されています。
彼らのアプローチでは難民問題の裏にある現代政治の根本的な問題が議論できません。結果、彼らの考え方では難民といった問題を解消できません。肯定側の考え方を認めることは難民問題の本質を無視するに等しく、そのような考え方が広まれば、我々は難民といった問題を現実に解決することができなくなります。だから肯定側へ投票すべきでないのです。
論題の是非という枠組みを無視するか否かは別として、上記の議論を理由に投票するためには、肯定側の考え方(難民認定を緩和して難民を救おうというもの)が難民問題の解決にとって有害であるということ、また、それを拒絶することで難民問題が解決ないしヨリ前進する(少なくとも肯定側の考え方よりも難民にとって望ましい)ということが示される必要があるのではないか、というのが第一感です。
この試合のNegは、難民問題の本質として、難民認定という枠組自体が非認定者の排除を意味し、国家の暴力性を肯定してしまっているということを主張し、その上でアガンベンなる学者が提唱している「単にそこに定住し居留しているというただそれだけで、みな同じ扱いを受けるという、誰もが移民や難民の状態にある共同体のあり方」を提案しているのですが、そもそも迫害が生じている地域でそんな扱いは受けられるはずがなく、その他の地域においても来た人間全員に社会保障なり参政権を与えて…ということになれば、国家運営は破綻します。そもそも国家として成り立たないことを措くとしても、移民や難民が無秩序に流入した地域で「みんなが同じ低い扱いを受ける」ことになるだけだと容易に想像されます。Negの主張は、非現実的で、端的に言って書生談義という印象を超える議論ではありません。ロールズが「私は、こうした社会秩序の可能性というそのこと自体が、まさしく、われわれを社会的世界へと宥和させるものとなると信じている。」と言っているのだとしても、私がジャッジなら信じないですし、普通の人間もそうでしょう。
この点についてのAffの反論は、1ARで、Negの考える世界ではむしろ不平等が拡散されるという形のものでしたが、2ACの段階で、より端的に、Negの議論はAffの議論が漸進的に難民問題を良くしようとしていることを完全に無視しており、他方でNegの理想論が難民問題の解決に向けて現実的であり得る可能性の一端すら示していない(ロールズも可能性が「十分な理由とともに信じられる限り」ということを言っている)ということを指摘すべきだったでしょう。
さらに、Affとしては、国家の暴力性だとか何とか言って漸進的な改善に向けた議論を否定するNegの考え方は有害だと踏み込むべきでした。Affの議論で、政策の議論と価値の議論を両方すればよいという趣旨の話があって、その趣旨はごもっともなのですが、それだけではなく、Negの議論は現実に政策で救える難民の救済可能性を書生談義によって無視するものであって極めて悪質であり、このような議論を支持してディベートコミュニティにおいて真面目な政策論議が行われなくなることは、競技としての教育性はもとより、有害な思考態度を醸成することで現実社会に害悪をもたらしかねない、と論じることができるでしょう。
もう一つの議論は、Kritikの枠組を採用すべきかという問題です。個人的には、このKritikはそもそもAff Planの価値に対する批判や代替的価値観の提示が弱く、Kritikの枠組に乗った上でボコボコにしたほうがAffの議論としてはすっきりしてよいとも思ったのですが、Kritikなる枠組にそもそも乗っかる必要があるのかということも当然検証されるべきですし、実際の試合ではこの点が議論されているので、これも見ていくことにします。
Kritikの枠組によるべきというNegの理由付けは、ジャッジの投票がディベートで提出される議論に影響を与え、それによってディベートコミュニティの考え方が影響を受けることから、Affの間違った価値観による議論でディベーターが現実の政治を批判する機会が奪われてしまう、という形で、現実社会に影響するような考え方の変化が起こるということを主眼にしています。これに対するAffの反論は、①Negの言うような批判的思考は、論題の是非を議論する在り方と両立するので、Affの議論を排斥する理由になっていない、②ディベートはプレーヤーの思想と立場を分離する競技なので、投票が思想に影響を与えるといった理由で投票すべきでない、という趣旨のものでした。
この点については1NRが反論しています。①については、Affの前提とする思想が有害なので同時採択という話にならないし、そういう思想を一切否定するNegの考え方のみを採択しなければならないという反論で、Negの主張を前提とすればそうなのかもしれません。ただここは、Affとしてはさらに反論すべきで、そもそもどう有害なのか分からない(別に積極的に現状の枠組を擁護する言説とまで言えない)ということを前置きにして、仮に理想論があるとしても、理想を踏まえつつ現実を改善するため、今できることを検討するという姿勢は可能であるということを指摘すべきところでした。
②については、1NCの議論を敷衍しているだけですが、結局、Affの思想の有害性が強いということに立脚した主張です。ここについては、上で述べたような、Negの考え方のほうが極端で有害だ、という議論を推していくのが説得的ではないかと思います。それとは別に、思想と立場は分離されるのではないかというAffの反論があったところについてはスルーされてしまっているのですが、Affはここをもうひと踏ん張りしつつ、Negの主張に合わせて説明しなおすべきでした。すなわち、ディベーターは、勝てる議論を選ぶかもしれないけど、勝てる議論だから正しいと思うわけではなく、勝敗とは別に試合やプレパの経験を通じて自分の思考を深めていくのであって、投票しないとディベーターの思考がおかしくなるというのはディベーターを馬鹿にしている、ということができます。また、教育的配慮や競技の性質上思想と立場が分離されているということから、思想を問題とするKritikが原則投票理由にならないということが競技上の想定である、ということで補助的な議論にすることも考えられます。
以上のとおり、個人的には、Negの主張する思想の有害性なるものがよくわからないので、そもそもこのKritikには乗れないと思うところではあるのですが、Affの反論は、面白いものではあったものの整理されていなかったり不十分なところがあり、ジャッジがNegに投票したのもやむを得ないところだというところでした。
2.2 難民論題における否定側議論(CoDA全日本大会ver)
先に見たNegチームのかなるん氏は、CoDA全日本大会でも、同様のKritikを回しているのですが、そこでは、Kritikの枠組によるべき理由に少し変更があります。これはトランスクリプトがないのですが1NCのブリーフが公開されているので、それに基づき検討してみます。
CoDAでの議論において、Negは、現実社会に変化を与えるという理由付けではなく、政策ディベートでは実際の政策形成を行う場ではないところで公共のトピックを扱う性質から、理想や考え方を議論すべきだ、という主張を行っています。さらに付随して、Affが適切な議論の在り方を証明しない限り、政策分析による判断をしてはならない、という主張もついています。
まず、政策ディベートでは理想や考え方を議論すべきだということは、端的に言って田島先生の資料のoverclaimではないか、という疑問があります。田島先生の言う、ディベートが市民教育であるということ、シミュレーションの議論であるからこそ様々な議論形式を試行錯誤していくこと、というのは異存のないところですが、そこから政策分析による議論が排斥されたり、理想像や考え方「のみ」を議論すべきという命題が導かれる理由は、さっぱりわかりません。むしろ、一般的な市民教育というのは、難民認定基準を緩和すべきではないかというテーマで、アガンベンやらロールズをもってきて「そんなテーマを議論すること自体けしからん」とぶちあげるようなものではないと思いますし、田島先生は「政治の実現へとむけて実践を開くべき」と言っているところ、政策の実現とあまりに乖離した、理想論「だけ」の議論をすることが望ましい、ということを本当に言っているのか、少なくとも証拠の文面上疑問です。
そのことを措くとしても、肯定側の議論が悪しき理想像を積極的に擁護しているとまで言えないのに、ディベートの場においてそういった議論を排斥すべきという理由付けがされていると考えることはできません。これはKritikの可能性を考えるうえで重要なことですので強調しておくと、難民論題でAffが一般的に論じているプランやメリットは、Negの批判する国家の枠組を前提にしているかもしれませんが、それを維持強化する意図があるわけでもないし、かかるプランが実現することでNegの主張する理想から遠ざかるような内容でもありません。つまり、Negの主張するような理想像や価値批判を前提としても、かかる対抗価値と、Affの議論との間の緊張関係は実は乏しく、その意味で、Negの主張は「こじつけ」の域を出ません。そのようなこじつけを議論することが政策分析より重要だと考えるべき理由は、この原稿には何ら見出されないのです。
肯定側が政策分析のディベートの正当性を証明すべきという主張については、1.1で述べた通り、政策分析を排斥する側に立証責任があるというべきですし、そもそも、上述の理由から、理想や考え方を議論すべき理由が示されたとは思われないので、Affに反証の責任が生じているとも見られないところです。誤解を恐れずに言えば、このKritikは、こじつけである点において(田島先生のエビデンスと文面上乖離している点からJDAのそれより弱い)、いわゆる「いちごT」のようなもので、判定上考慮に値しないというべきです。
2.3 難民論題における肯定側議論
かなるん氏は、CoDA全日本大会において、AffからもKritikを提示しています(原稿はこちら)。概要は、難民の苦しみに関する文学に共感する感情を根拠に論題を肯定してほしい、というものです。
これはアイディアとしてはなかなか面白いですし、私も含めたディベーターに対する注意喚起としては傾聴に値するものを含んでいるのですが、投票理由として考慮し得るかというと、下記2点の理由から、難しいと考えられます。
第一に、そもそも、冒頭に引用されたマッサンバに関する物語が、そこまで感動するようなインパクトを持っていると思われないということです。マッサンバ自身の言葉というわけでもなく、その内容も、難民が苦しんでいるということは分かるものの、さほど身に迫るものには思われません。NegがCounterplanの関係でよく読んでいた、難民キャンプの悲惨な実情みたいな話のほうが、よほど悲惨な内容だと思います。その意味で、Negは、普通の自分たちの議論を出したうえで、これに共感してNegに入れろ、という話もできたのではないでしょうか。
第二に、文学的共感で投票しなければならない、という点にやはり疑問があります。エビデンスを材料としてしか見ない観客的スタンスに問題があるというミッチェルの指摘はなるほどと思わされるところもありますが、それは、ディベートで政策論争を無視して文学的共感にのみ着目しろ、ということまでも帰結しないでしょう。むしろ、政策論争をしつつ、感情に迫るような重要性の説明付けを考えるなど、説得技法を考えるとか、それこそ教室ディベート的に題材で扱った議論について現場を見て勉強するような実践を考えるとか、色々な考え方ができるでしょう。私は、前者の、ディベートの議論の中でも感情的要素は考慮されてよいのではないか(「中身」のある感情論)という発想に親和的なのですが、それは政策分析を否定するのではなく、より現実に近く、かつ妥当な説得方法として、感情をどう利用するかというものです。
また、文学的共感によるべきという考え方は、市民教育としても望ましくないでしょう。そういった共感だけで政治を決めてしまうことが本当に望ましいのかということは当然疑問を呈されるべきであり、プロパガンダ文学が戦争や対立を生んだりもするわけです。共感をもって論題を肯定しようとするAffの考え方は、理性的な議論を拒絶するものであって、むしろ極めて有害であり、ディベートの所期する教育性にも完全に反するものだと言うことができます。
ということで、このAff Kritikも、かなり苦しいものがあるのではないかというところです。
3.Kritikはどこまで可能か
以上を踏まえると、Kritikの成否は、ジャッジに「Kritikを無視してはいけない」と思わせることができるかどうかにかかってくるところであり、そう思わせるためには、Kritikに対立する議論の在り方のどこに問題があるのかということを明快に示す必要がある、ということになりそうです。
Affの政策論議に対するNeg Kritikという観点で見ると、これは、Affの拠って立つ議論の仕方がどれだけ有害なのかということと、それに対してKritikに投票することがなぜ、どの程度切実に求められるのか、ということをしっかりと議論する必要があるということになります。そのために考慮される要素は種々あると思いますが、重要と思われる観点をいくつかあげておくことにします。
3.1 問題性と相手方の議論との密接な関連性があるか
上記2で見た難民論題のNeg Kritikは、難民を認定するというプロセス自体が非認定者の排除という暴力的要素を有するので、そもそも難民という概念を排して移動の自由を認める必要がある、という形で、Affの議論の問題性を指摘しようとしました。しかし、既に述べたとおり、この批判は、現状の下で難民認定基準を変えて漸進的に問題を解決しようというアプローチを否定するようなものとまでは思われず、少なくとも私には説得的に思えませんでした。
なぜ説得的でないかと考えると、その理由は、Affのプランやそれに基づく議論が、非認定者の排除という側面を意図したものでもなければ、難民という概念の終局的解消を否定するものでもなく、Negが指摘する問題性がAffの議論の中核に根差したものとは言えないという点にあるように思われます。Negの掲げる理想を否定するのであれば別論、Negの理想を実現するものではないにせよ、理想から遠ざかるような政策や議論態度ではないAffの主張に対して、勝手に理想だけをぶつけて「理想が実現しないのでだめだ」というだけでは、言いがかりというべきでしょう。理想が実現しないのでダメというのであれば、自分たちの理想が実現するということを立証する必要があるはずで、それができないのであれば、結局Negも理想を実現できないので等しくダメ、ということになります。少なくとも、そんな理屈で、理想論を論じることが好きな一部の特殊なディベーター以外を説得することは永遠にできません。
しかし、逆に言えば、Affのプランやそれに基づく議論が、尊重されるべき理想ないし理念と積極的に矛盾しているという場合には、それによって理想や理念から遠ざかるという理由をもって、Affの議論を棄却すべきという理由付けが成り立ち得る可能性があります。例えば、国会議員のクオータ制(議員の一定数を女性とする制度)導入論題において、Affのプランが男女同権の理念に矛盾しているとか、女性を保護すべきものと決めつけることで尊厳を否定している、といった批判が成り立ち得るとすれば、かかる批判が指摘する問題点は、Affのプランの核心に関係するものであり、Affのプランを採択することで誤った理念や価値観にコミットすることになってしまう…という議論は可能でしょう。こうした議論は抽象的価値を論じるデメリットとしても展開できるでしょうが、どうしてもメリットとの比較になると「結果的に女性の社会的地位が男性に並べばいい」という話で解消されてしまいそうだということで、敢えてKritikとして仕立てる、ということはあってよいのかもしれません(Kritikのほうが難しそうですが…)。
その他にあり得る議論としては、ヘイトスピーチ規制論題で、ヘイトスピーチ規制を訴えるAffの議論が、実際にはヘイト団体の規制弾圧を意図しているものと見える場合(読んだエビデンスがヘイト団体への憎悪を感じさせる場合など)に、そのことを捉えてKritikにしてみるということもあり得るかもしれません。相手方の「意図」(ここでいう意図とは、本当にディベーターがそう思っているという話ではなく、議論の内容からそういう意図を読み取れるかどうかという話です。)を問題にするのは、Kritikにしかできないことなので、これは何らか可能性があるかもしれません。
3.2 論題との関係でKritikに必然性があるか
Kritikの議論は、論題の是非ではない方法で判断せよということを求めるものですが、とはいえ論題が事前に決まっているのですから、Kritikの議論自体も、その論題との関係でなぜ正当性を持っているのか、ということが示される必要があるように思われます(例外的に、相手の議論の切り口等、相手の議論に固有に問題がある場合を除く)。それすら不要ということでは、およそディベート一般の議論の在り方を変えろという主張になり、ハードルは極めて高くなるでしょう。
これは3.1で見たところにも重なるのですが、相手方の議論の問題点として指摘されるところは、論題との関連性が強い必要があるでしょう。単に、そのテーマに関係するというだけではなく、論題の指定する政策の内容(プランと重なります)と関連している必要があります。難民論題で認定に係る国家の暴力性を論じる、というのは、一見難民問題に関係するので関連性がありそうに見えますが、実際には「難民」という概念自体を問題としており、難民認定基準を緩和するという政策を直接問題とするものではないので、関連性はさほど高くありません。それよりも、上で見たように、女性の地位を制度的に引き上げようとするクオータ制における男女同権や女性の尊厳といった問題や、特定属性の人を抑圧から守ろうとするヘイトスピーチ規制における規制対象者に対する抑圧意図といった問題のほうが、論題のはらむ問題に肉薄しており、それ故に、論題の是非以前のところで議論しようという主張に説得力が出てくるように思います。
どんな論題でもとりあえずKritikを出そうという発想(もしあるとすれば)は、Kritikの価値を切り下げ、いわゆる「いちごT」や、時間稼ぎとしてのGeneric Tに堕してしまいます。出す以上は、なぜその論題において、相手方の議論との関係で、Kritikが考慮されるべきなのかということが示される必要があるはずです。
3.3 論題の是非に関する議論に優先すべき理由があるか
上記のような「相手の議論の問題性」を前提として、はじめて、Kritikが論題の是非に関する議論に優先すべき理由について論じることが可能となります。
アメリカではKritikが優先すべき理由として様々な方法が議論されているようですが、そもそもの起こりは、コミュニティが実際に差別的だったりと、社会運動的にディベートの判定を動かしていく必要性や機運があったということによるようです。しかし、日本のディベートコミュニティにそういった事情があるわけでもないところからすると、投票を通じて現実を変えようという方向の議論には説得力を感じず、社会を変えたいならディベートをやるより自分で社会運動をやればよいのではないかと思ってしまいます。ゲームとして思想を重視すべきという、上でも見たような議論についても、思想のみによって判断すべきという理由付けがあるとはおよそ思われません。
個人的には、Kritikを優先すべき理由があるとすれば、それは、「相手の議論の問題性」が高度に認められることを前提に、かかる議論を無批判に容認することが教育上望ましくない、という理由が、一番Kritikを正当化しやすいように思います。教育性の観点は、ジャッジの多くがそれなりに受容しているところであり、そのような観点から、現実の政策論議として見ても、相手の議論の問題性を無視して論議を続けることには問題があり、Kritikとして指摘されたところを踏まえて議論を考えるよう促すことが教育的なのだ、という方向で議論すれば、投票理由としての基礎づけは一応成り立ち得るのではないかと思います。
ただ、教育性を基礎として用いるためには、相手方の議論をそのまま認めることが教育的に有害であるということを言わなければならないので、「相手方の議論の問題性」について高度な論証を要することになります。また、前提として、ディベートの目的が教育的なところにあり、政策論議として表面上成立していても、問題のある議論を無批判に容認するような姿勢は看過できない、といった話を説得的に行う必要もあるでしょう。
4.Kritikの可能性
以上より、筆者の現時点での検討結果からイメージできるところとして、Kritikが成り立つとすれば、相手の議論に大きな問題があるということを、議論の内容及び論題との関係で必然性のある形で示した上で、教育的見地からかかる問題を看過することはできないということを論証するという方法があり得るのではないかということになります。
このようにKritikを位置づけることで、Kritikは政策論議を邪魔しようとするものではなく、むしろその深度を別の観点から深め、または是正しようとするものと評価し得ることになります。平たく言えば「あんまり」な議論に対する牽制ないし批判の手段として、あるいはメリットデメリットの次元ではどうしても評価されにくい価値的な議論を投票理由にするための方法として、Kritikを活用するというアイディアは、可能性を秘めているように思います。
他方で、とにかくKritikをしたい、新しい議論なのでやってみたいということで、無理やりKritikを出そうというような発想は、かえってKritikの可能性や意義を切り下げることにつながりかねないように思います。それこそ、理由のないこじつけのようなKritikが乱発されるようになれば、Kritikと聞いただけで「またこれか」となるような忌避観が醸成されてしまいかねません。せっかくの発想なのですから、ここぞという時に、必然性をもってKritikが出てくるようになれば、日本のディベートシーンはさらに一歩先に進むのではないかと期待する次第です。