2019-12-20 Fri
知り合いから寄稿があり、先に当ブログで行った疑似セオリー批判とも通底するものを感じたので、以下に掲載いたします。コメント欄も開放しており、筆者も定期的に覗くといっておりますので、ご感想や反論などあればご自由にお寄せください。
或る原稿群に対する論評(寄稿論文)
Author いちご姫
twitter上で、九州JDAで展開されたという一連のスピーチ原稿に接し、非常に質の悪い議論だと思って若干過激に論評したところ、反響があり、また、投稿者から「解説」なる補足(以下、「解説」といいます。)が出たので、以下、なぜ私がこの記事を取り上げるのかについて説明を加えたうえで、当該議論の問題について詳細に論じることとします。
1.なぜ私はこれらの原稿に過激に反応したのか
端的に言って、これは極めて質の悪い議論だ、と感じたのがスタートです。この「質の悪さ」には、2つの意味があります。第一に、単純に理由がなく、成り立っていないということです。第二に、これが私がわざわざ取り上げたことの本質ですが、この議論が、一般的に想定される議論の枠組を否定しようと意図されていると思われるにもかかわらず、既存の議論に対する悩みも見えなければ、知的営為として意義ある考察を目指しているとも思われないということです。
とはいえ、知らない人が勝手に回している議論だし、しょうもない議論だ、と思ってスルーすることもできたのですが(私のTL上の反応はおおむねそんな感じ)、まかり間違ってもこのような議論が評価されるべきではないし(実際九州JDAでも評価されなかったようですが)、こういう議論が望ましいものだと誤解されることもよくないと考える教育的動機と、(私から見て)ディベートという競技を馬鹿にした議論だと感じられたこと(この憤りは人によると思いますので万人に共有されるものとは思っていません)、そして何より、このような議論がディベートの所期するものだと誤解されては困るという動機から、あえて厳しい言葉でコメントを加えたものです。
もっとも、あえて厳しい言葉を使った一番の理由は、この方が別のアカウントの方とやり取りしている中で、「(自分の議論が評価されなかったのは)はっきり言って、ジャッジの理解力が低すぎたからです」と述べており、これはあまりにも失礼ではないか、と思ったからです。いやいや、あなたの議論の水準が低すぎるだけですから、ジャッジに謝りなさい、という気持ちです(もっとも、ジャッジの説明が上手くなかった可能性も否定できませんが)。
ただ、結果的にケンカを売るようなtweetとなり(実際売っているわけですが…)、不快な思いをさせたことについては申し訳ありません。
2.肯定側の議論(論題が肯定できないなる説)に対する批評
今大会の論題(最低賃金の大幅引き上げ)は肯定不可能であると述べるAの論点について。
論題に「大幅に」という言葉が入っているが、その程度が示されておらず、どの程度まで引き上げればよいか不明のため、論題が肯定できない、などと述べられています。解説によれば、程度があいまいとかではなく、論題の意図が分からないからだ、ということのようです。
私がtwitter上で「意味に幅があり確定しない言葉(不確定概念)はたくさんあるが、別にそれで議論不可能になるわけではない」と指摘したところ、解説では、私が出した景表法の例について、これは前後の文章や文脈で程度がどれだけなのかを理解できるが、今回の論題では理解できない、といったことが述べられています。しかし、そもそも景表法の例だって、趣旨である程度範囲は絞れるものの、依然として不確定です。例えば、消費者庁の解説では、「広告宣伝には通常ある程度の誇張が含まれます。 このような通常程度の誇張は許容されますが、社会的許容度を超え る誇張・誇大は、「著しく」と判断されます。 」「その表示が○か×かの基準はありません。「一般消費者の表示か ら受ける印象・認識」が基準になります。 」などの解説があり、結局何が優良誤認なのかは簡単には決まりません。解説には「消費者の自主的で合理的な選択が阻害されてしまうほど著しく優良であると表示されるのがだめ」と書かれており、条文の理解としては外れていませんが、じゃあどんな場合にそれに該当するのかというのは、そんなに簡単に決まりません。少なくとも、最低賃金を1.5倍にするのが「大幅」に当たるかどうかを考えるより難しいと思います。
さらに根本的に言えば、前後の文脈などでも具体化が困難な不確定概念は、いくらでもあります。また法律からの例ですが、保佐開始の要件となる「精神上の障害により事理を弁識する能力が著しく不十分である者」(民法11条)はどうですか?酩酊者が処罰される「公衆に迷惑をかけるような著しく粗野又は乱暴な言動」(酒に酔つて公衆に迷惑をかける行為の防止等に関する法律4条1項)はどうですか?棚卸資産の移転があった場合にみなし収入を計上する要件である「著しく低い価額の対価による譲渡」(所得税法40条1項2号。この手の規定が税法には多々あります)はどうですか?このような例は枚挙にいとまがありません。
もちろん、このような場合も、なぜそのような規定があるのか、どのように解釈するのが妥当か、といった様々な切り口で、判断が行われます。答えが一つに定まるわけではないし、人によって判断は異なり得ます。しかし、だからといって、議論することができないということにはなりません(不明確すぎたり過度に広範な規定は規制根拠として問題がある、といった議論はありますが、それだって、「議論することができない」という帰結にはなりません。)。
結局何が言いたいかというと、意図が分からないとか不明確だとかいうことは、論題の意味が特定できないとか、肯定できないとかいうことには全くつながらない、ということです。むしろ、そういった意図のあいまいさや不明確さを踏まえて、どう論題を解釈し、その下で自分たちはどのような形で論題を肯定していくのかということを考えるのが、正しい知的営為です。分からないから議論できないという態度は、およそ非現実的だし、深い思考の結果出てきたものとも解し得ません。むしろ、解説の中で景表法の趣旨を議論して見せたように、現在の日本の状況から、最低賃金を大幅に上げるべきという論題の意味合いを論じることは十分可能です。それは、意図が不明なので議論できません、という議論態度よりはるかにハードなことですが(もっとも、実際はそこまで問題にされないと思いますが)、そこから逃げるべきではありません。
次の論点BはAがおかしいということに尽きます。要するに、大幅に、という言葉は、具体的な政策や状態を想起できる程度に解釈可能なものであって、そういう政策や状態を評価して論題を肯定することに特段問題があるとは思われません。
ただ、最大の問題は、論点Cです。百歩譲って、論題の意味がその是非を議論できないほどに不明確だとして、その帰結は、論題を肯定できないので肯定側の負け、というものでしょう。然るに、この原稿では、選手が論題の妥当性や意義を積極的に認めることで論題を肯定する、という、全くもって意味不明な主張を行っています。そもそも、論題が肯定されたか否かを判断するのはジャッジであって、選手が「この論題は妥当です」ということで、ジャッジが「そうだね、肯定されたね」と思うとでもいうのでしょうか。論理の飛躍も甚だしいです。
そもそもこの議論の不当なところは、そもそも理由がないということを措くとしても、仮にこのような理由で肯定側が勝つのだとすれば、常に肯定側が勝つので(自分で「私の勝ちです」と言って勝てるわけですからね…)、試合などする意味がなくなってしまう、ということです。単なる屁理屈をこねるゲームだということであればそうなのかもしれませんが、私はディベートはそのような下らない競技とは思っていないし、そう思われたくもないです。このあたりに、私がわざわざこのような記事を書いて、強い口調でコメントしている理由を感じ取ってもらえるのではないでしょうか。
以上の次第で、解説の中身を踏まえても、この原稿の主張が成り立つ余地はありません。文の意図が分からないと程度が決定できないから議論できない、という安易な帰結ではなく、文の意図を考えて、自分たちはこう考えるという立場を打ち出して議論すべきですし、実際の社会で通用する(求められる)のは、そういう議論です。
3.否定側の議論に対する批評
Topicalityについて。「大幅に」の程度が不明なので肯定できない、というのがおかしいことは前述のとおりです。私はTopicalityについて肯定側に特別な推定を置くわけでもなく、Topicalityが出ただけで肯定側に反証義務が生じるとも考えませんので(理由はこのあたりの記事と同旨)、なぜ肯定側のプランが「大幅に」を満たしていないのか、積極的な理由をあげるべきでしょう。そのためには、程度が分からない、というだけでなく、最低でも、程度が分からないので少なくともこういう解釈もあり得る、といった話までつなげていかないといけないでしょう。そういう議論をするほうが楽しくないですか?
Counterplanの1点目は、「柔軟に」ってどうやるんですか、という問題があります。「大幅に」よりよほど難しいと思いますがどうなんでしょうか。さらに、この「柔軟に」やれば望ましい、という話は、いい感じでやれば上手くいきます、と言っているだけで、何らの解決性も示されていません。そんなCounterplanで否定側が勝てるなら、常に「いい感じで対処する」Counterplanを出して勝ててしまうわけで、そんな提案がごろごろあるのなら日本はもっといい国になっているはずです。というわけで、これは一見明白に成り立っていないというべきです。
Counterplanの2点目は、一応あり得るものです。解説性の論証が不明であり、ケースがちゃんと立っていれば、ただちにこれに投票するということにはならないと思いますが、肯定側はこの議論に対しては反論しておくべきでしょう。もっとも、ベーシックインカムについては、財源確保のために増税すればそれも企業の負担になるわけで、これが最低賃金への意味ある対案になるかどうかは、もっといろいろと論じるべきことがあるはずです。そっちの方向できちんと議論してみればよいのに、ということを思いました。
4.パンドラの箱と称される議論に対するコメント
まず、全ての審判が能力や知識において画一的であるべき、という命題自体が自明ではなく、むしろ大いに疑問のある考え方です。少なくとも、直ちに受け入れられる考えではないでしょう。まずもって、九州JDA自体、複数ジャッジ制を取っており、画一的でないことを前提としています(ある「画一的なモデル」があって、たくさんジャッジを入れることでそこに近づける意図があるのだ、という反論があり得るのかもしれませんが)。
そもそも、画一的なジャッジ、同じ議論に対して常に同じ判断が下される、ということは実現できないでしょうが、目指すべきだと言えるかも大いに疑問です。様々な判断基準に照らして議論が評価されるというのが現実社会の在り方であり、その中で評価される議論こそが質の高い議論だ、ということもできます。もちろん、ディベートにおいては、「合理性」などの枠組によって多様性が統制される必要がありますが、それは、バラツキを否定するものではありません。合理的かどうかというのは幅のある概念で、答えが一つに決まるものではありません。関連して、この原稿の「画一的」論は、正しいあるべき判定が存在していることを前提にしていますが、そのようなものは存在し得るのでしょうか。するとして、誰がそれを決めるのでしょうか。こういったことも考えずに、画一的でないといけない、と言っているだけでは、およそ説得力を欠きます。
解説では、ジャッジは人格を捨象すべき、ということも言われていますが、そんなことできるのでしょうか。そうすると、「人が死ぬことはよくないことだ」といった価値観も導入できないのでしょうか。それはジャッジが初期的に持っているべきものなのでしょうか?誰がそういう「画一的」「典型的」判断基準を決めるのでしょうか?そのジャッジがどのような議論を評価するのか分かるのはよくない、ということも言われていますが、別にそれだけで勝負が決まるわけではないし、なるべく多くのジャッジに評価されるような質の高い議論を作れば問題はないはずです(なんなら、ジャッジの傾向を読んで議論を作るのも立派な技能です。実社会で成功するにはそういう要素も必要です。個人的にはあまり好きではない考え方ですが)。
第2項の、画一的である人格は「審判を行う上で最低限の知識や能力を持つもの」という説明もよく分かりません。論理が飛躍していると思います。人格と知識・能力はイコールでないですし、なぜ「最低限」になるのかもわかりません。むしろ「平均的」になるのではないでしょうか。「平均」はよく分からない、不明確だというのかもしれませんが、「最低限」だって分かりません。日本語が理解できればいい?語彙はどの程度ですか?聞き取り能力は分速何ワード?筆記能力は?記憶力は?何も分かりません。何もわからない以上、理想だということすらできません(これは「大幅に」問題と違って、ジャッジに特定のふるまいを求めようとする話なのですから、具体化されないと話になりません。)。そもそも、このパンドラの箱なる原稿は、「最低限」の能力があれば理解できるのでしょうか。私は、ジャッジの経験やスキルは平均以上だと自負していますが(少なくとも「最低限」ではないと思いますが)、この原稿の議論が意図するところは分かりませんでした。とすれば、この原稿自体が、理想のジャッジによっては認められない議論だということにならないでしょうか。
また、「書き取り」にやたらこだわっているところも、よく分かりませんでした。別に書き取ったから評価するわけでもないし、書き取らなくても覚えていれば評価します。かなり昔に九州JDAに出たとき、全然フローを取らないジャッジがいて、取れてるのかと心配したのですが、講評を聞いたら相当精密に理解されていてびっくりしたということもありますので、フローを取ったかどうかというのは本質的ではないかなと思います。これは枝葉の話ですが。
第3項の、速い速度での議論が不当だというのは、あり得る議論だと思いますが、「最低限」でないから、というのは理由になっていません。要するに、ジャッジに対して「馬鹿になれ」と言っているわけで、それで簡単に説得されるはずありません。
パブリックスピーチの観点なども踏まえて、過度に早くて一般の人が理解できないようなスピーチは無視しろ、というのであれば、理由になっていると思います。個人的には、街で捕まえてきたひとにジャッジさせているわけではなくディベーターがやってるのだから、ある程度早いスピーチも許容されて然るべきと思いますが、ここは大いに議論の余地があるでしょう。そういう、真っ当なところで問題提起すべきです。
第4項は、JDA九州のルール第8条によれば証拠資料を使えるのですから、これは明白にルールに反した議論です。
それを措くとしても、「公平性のため」審判は一般常識以外の知識を持ち込めない、というのは、公平性の意味をはき違えています。ここでいう公平性は、根拠となる事実について、証拠資料の引用という手続を求めることで、選手の権威や属性によって勝負が決まってしまうことを否定することを意味します。両チームが資料を使えるのですから、公平性は何ら害されません。出典が効力を持つか判断できない、ということの意味はよく分かりませんが、試合中に資料の出典をいちいち確認できないとしても、信用性を評価するための出典が試合中に読み上げられ、資料集に検証可能な程度に詳細な出典が記録されている限りにおいて、選手の引用が正確であることを一応信用するというのが、競技ディベートの建付です。仮に出典がいい加減な場合があり得るとしても(英語だと誤訳とかが大変なのかもしれませんが)、それこそ解説に言う「運用上の問題」であって、引用を否定すべき理由にはなりません。アカデミックディベートの在り方として資料の引用を許すほうが良いか否かという問題提起はあり得ても、資料の正確性が分からないので引用はだめ、というのは、理由として浅すぎます。
資料の内容が書き取れていないから関連性が判断できない、というのも謎です。一字一句書き取れていなくても、聞いて理解した内容から証拠を評価することは可能です。この原稿で想定される「最低限」のジャッジが、識字能力はあるが記憶能力に難があり、書き取って記録しないと全く記憶に残らない、という人なのだとすれば、書き取れていないのでダメ、ということなのでしょうが、なぜそこまで書き取りが重視されるべきなのか、その根拠は全くもって不明です。
5.全体的な印象
個別の議論に対するコメントは概ね以上のとおりです。解説の内容を踏まえても、議論として評価することは困難だと思います。これが理解できないとしたジャッジは健全かつ真っ当であり、それに対して理解力の低さをどうこういう(「最低限」も満たしていないということ?)のは、本当に失礼だと思います。
それは措くとして背景となっているように思われる考え方に気になるところがあったので、結語に代えて2点触れておきます。
一つ目は、ディベーターの議論にジャッジが拘束される度合いを強く考えすぎではないか、ということです。ジャッジは、自分が理解できない議論については、反論がなくても棄却して然るべきです。ジャッジが守らなければならないのは、判定の基礎となる事実を自分の知識で過度に補充しないといったことであり、判断の枠組についての議論がされても、それに拘束されることはないはずです(この記事の内容に同旨)。もし、選手が議論した以上は反論がなければそれに従えというのであれば、選手が「この試合は声の大きい俺の勝ち」と言って、相手方が反論しなければ、声が大きいことを理由に投票すべきということになりますが、それはおかしいでしょう(おかしくないというのだとすると、ちょっと、私とやっている競技が違うな、という感覚です)。選手が好き勝手言えば理由がなくても枠組が覆る、というものではないはずです。
なお、このことは、ジャッジが「慣習」から議論を否定している、ということを必ずしも意味しません。確かに、多くのジャッジは、断りもなく肯定側がメリットを読みだしても、違和感なく聞きます。これは、メリット・デメリットによって論題を議論する方法に慣れているので、本来選手が言うべき「この試合では、政策による利益が大きいことを説明し、それによって論題が肯定されることを主張します」といったスピーチが省略されている、という話ですが、その背景には、メリデメで論題を評価するのはまぁあるよね、という理解があります。ジャッジによってこのあたりの確信度合いには差がありますが、論題を争う方法としての一定の合理性が前提となって認められています。別に、ルールに政策形成パラダイム的な規定があるとかないとかいうこととも関係ありません。これに対して、今回の原稿や、最近話題のクリティーク(一緒にするのは失礼ですが…)は、なぜそれで論題を云々できるのかがよく分からない、という話であって、慣習に反しているから受け入れられないとかいうことではありません。
二つ目は、議論に一通りの「答え」があるという前提があるように思われました。それは幻想にすぎません。「より良い(説得的な)議論」「不合理な議論」といったものはありますが、唯一絶対の答えがある問題は、むしろ少ないです。だからディベートのように肯定否定にランダムに分かれて議論できるのです(サイドバランスがどうかという論題もあるにはありますが)。「答えがないのが悩み」ということでこんな議論を作ったということなのかもしれませんが、現実を見れば、答えがなさそうなところでも議論をしている例はいくらでもあります。そのような議論はおかしい、といった真剣な悩みがあるならよいのですが、少なくとも、この原稿からは、そういった悩みは読み取れませんでした。
「答え」は作っていくものです。答えが分からないから解かない、ということではなく、よりよい結論に近づいていく、あるいは、自分にとって有利な結論を導こうとするのが、大人の議論態度です。答えが容易に定まらない現実を直視しつつ、それをどうやって御していくかを考えるほうが、楽しい議論ができると思うのですが、どうでしょうか。
以上、50tweet以上にもなる大変な長文になりました。長い割にまとまっていないようにも思いますが、件の原稿の何が問題と考えるのか、なぜそれを指摘したのか、もっと議論すべき問題があるのではないか、ということは一応お伝えできたでしょうか。感想などあれば、元のtwitterアカウントでも、この記事のコメント欄でも結構ですので、ご自由にお書きください。