JDAディベーターは大麻に忙しく、ディベート甲子園は論題発表前ですので、今回は議論の内容とは関係ないテーマを取り上げようと思います。
一時期、全国高校ディベート連盟(HEnDA)の主催する高校英語ディベート大会において、帰国子女の登録が2名、出場が各試合1名に制限されていること(HEnDA大会ルール1.4.1条及び1.4.2条)について、一部選手などから疑問の声が上がっていました。詳細は後述しますが、かかる疑問はもっともだと思っていたところ、ふと見てみると、疑問を呈していた選手のnoteが削除されていることに気づきました。
この削除がどのような経緯によるものか分かりませんが――仮に何らかの圧力によるものであるとすれば、極めて遺憾であり、ディベート教育に携わるものとしてそのような事態が生じていることは大いに問題とすべきものです――彼または彼女が提起した問題は重要だと思いますので、英語ディベートについては門外漢であること(過去に、HEnDAの外国語公用語化論題について解説文を書いたことがあるくらいです。もちろん日本語で…)を承知で、以下、私見を述べます。
なお、本ブログの典型的読者ではない英語ディベーター向けに簡単に自己紹介しておきますと、20年ほど前から日本語ディベート(アカデミック/調査型)に関わっており、現在は弁護士として執務するほか、某大学非常勤講師としてディベートを教えたり、各種大会でジャッジを務めております。
高校英語ディベートにおける帰国子女制限に対する問題提起
はじめに
本稿は、HEnDA大会ルールで、帰国子女(ルール上は、(1)英語を第1言語とする国で12ヶ月以上滞在経験のある生徒(就学前の滞在は不問)、(2)英語を第2言語とする国の出身である生徒(就学前の滞在は不問)、(3)家庭で常用的に英語を使っている生徒、の3類型が禁止されていますが、以下、便宜これらをまとめて「帰国子女」といいます。)の登録及び出場に制限を設けていること(以下「帰国子女制限」といいます。)の正当性について論じるものです。
帰国子女制限の趣旨は明らかでありませんが、おそらく、非帰国子女に対する教育的配慮を目的としているのだと推察されます(それ以外に、「表向き」標榜できる正当化根拠は思いつきません。)。これは、一種のAffirmative Action(積極的差別是正措置。以下「AA」といいます。)を意図したものとして捉えることができるかもしれません。
以下では、上記のような目的を想定した上で、かかる目的による帰国子女制限がAAに関する一般的な理解に照らして正当化し難いこと(下記1)、及び、帰国子女の実情などを踏まえても、帰国子女制限を正当化すべき立法事実は見出し難く、かえって弊害を生じさせる恐れが高いと考えられること(下記2)を論じます。その上で、総括として、外部からの意見ではありますが、帰国子女制限より緩やかな手段で目的を達成する手段が考えられることなどを指摘します(下記3)。以上の検討を通じて、筆者としては、帰国子女制限は速やかに撤廃されるべきではないかとの見解を表明するものです。
なお、HEnDAルールでは、英語のネイティブ・スピーカーの生徒の参加は全面的に禁止されており、これについても問題提起の余地はありますが、本稿では検討対象から除外することにします(規制の根拠は帰国子女制限より強いと思いますが、下記論旨の一部は当てはまると思います。)。
1.帰国子女制限は積極的差別是正措置(AA)として正当化され得るか
帰国子女制限をAAとして正当化しようとする見解は、帰国子女の英語力が高く、非帰国子女と混じって英語ディベートをすると帰国子女が突出して活躍してしまうので、自由に競争させると非帰国子女が出場枠に入れなくなる、帰国子女のいないチームが勝てなくなってしまう、非帰国子女が萎縮してディベートから離れてしまう…といった想定の下で、帰国子女の出場を制限することで、非帰国子女を保護し、もって、非帰国子女に対する教育効果を確保する、といったことを考えているのかもしれません。もう少しリアルな想定をすれば、帰国子女制限がないと、帰国子女のいない学校に勝ち目がないので、そういった学校が参加しなくなるから、普及のために帰国子女規制を設け、非帰国子女だけのチームに可能性を与えてあげよう、といったことを考えているのかもしれません。
そのような効果があるかということは疑わしいのですが、そのことは下記2で詳述するとして、ここでは、仮に上記のような事情があったとして、そのための規制がAAとして正当化され得るか、ということを考えます。
AAというのは、「積極的差別是正措置」と説明されることからも分かるように、差別を是正するために取られる行動のことです。アメリカで問題となった例としては、大学において、学生の人種的多様性を保障するために、有色人種の受験生について一律加点する、といったものがあります。ディベートの論題になりそうなネタで言えば、議会や取締役会などの合議体に一定割合の女性の登用を義務付けるクオータ制もAAに属します。要するに「有利な人を逆に差別することで、不公平を解消する」ということです。
差別を是正するものだから問題ないじゃないか、と思われる向きもあるかもしれませんが、AA自体が、差別対象となっている属性――多くの場合先天的な事情であって、自分で選べない。帰国子女という属性も、当該生徒が自分で選べることはほとんどないでしょう――に基づき不平等な取扱いをするものであり、当事者の立場から見れば不正な扱いを受けたことになるのですから、簡単に容認することはできません。
また、AAを導入することは、優遇された対象が「是正を要する劣位者である」ことを前提にし、実際にも「自由競争では獲得できなかった地位をAAで獲得させる」効果があることから、優遇対象者が「AAがないと地位に着けない人」であるという烙印(スティグマ)を付与してしまうという問題もあります。仮に、AAがなくても合格したような人であっても、それは周りから見て区別できませんから、「AAのおかげで合格した人」と見られてしまう、ということです。このような効果により、かえって差別が広がる可能性もあるわけです。
上記のような問題点を踏まえて、アメリカの判例では、AAが正当化されるのは、①目的がやむにやまれぬ利益を促進するものであり、 ②選択された手段が目的達成と密接な関連性を有している場合(必要最小限の手段であるなど)に限られるという、厳格な立場が取られています。日本でも、何を対象とする措置かにもよるでしょうが、同様な見解が有力であるように思います。
もっとも、AAについては、実質的平等を達成しようとする手段であり、対象を少数者に置いていることからして、是正の名のもとに多数者を利するような不当な政策は生じにくい(カモフラージュが難しい)ということから、より緩やかな基準(目的が重要であり、その目的と規制手段との間に実質的関連性があることで足りる)で認めてもよいのではないか、という見解もあります。
本稿で論じる帰国子女規制の問題が、直ちに憲法問題となるわけではありませんが、上記のような議論は、AAとして帰国子女規制を捉えることの妥当性について、参考になるでしょう。なお、AAの憲法学的問題についてネットで見られる論考としては、穐山守夫「高等教育におけるアファーマティブ・アクションの根拠づけと厳格審査」、茂木洋平「Affirmative Actionの司法審査基準」などがあります。後者の方が問題の所在を捉えやすいので、AAについて興味のある方には一読を勧めます。
さて、ここで、帰国子女規制がAAとして正当化されるかを考えましょう。
まず問題とされるべきは、そもそも帰国子女規制をAAとして位置付けてよいのか、ということです。AAは、その結果保護される立場の者がマイノリティないし劣位者であることを前提としています。このような前提は、保護対象として着目される属性(今回であれば「帰国子女であること」。保護される側の立場から見れば「非帰国子女であること」)によって分断が生じていたり、社会的な地位や評価に違いが生じているということをさらなる前提としています。
しかしながら、後記2で詳述する帰国子女の置かれた状況を考えるまでもなく、これらの前提は認められないというべきでしょう。すなわち、「帰国子女」であることによって直ちに英語ディベートで強者になるということはないし、「非帰国子女」であることが「帰国子女」に対して社会的に劣位であるということもありません。また、現在の日本において、帰国子女は圧倒的に少数派であり、非帰国子女が劣位に置かれているわけでもありません。平均的英語能力に差があるという事実を捉えても、社会一般で非帰国子女が不遇な立場にあるとは思えませんし(個別に見れば「英語できていいなぁ」ということがあるとしても)、英語教育の場面に限っても、非帰国子女が差別されているとか、辛い状況にあるといったことはないでしょう。
これらを踏まえると、「帰国子女」であること(あるいはそうでないこと)に着目した帰国子女規制は、そもそもAAとして成り立たないか、あるいは、目的の正当性を一見明白に欠いていると言わねばならないでしょう。AAが論じられてきたのは、「有色人種」や「女性」といった、歴史的に差別が厳然と存在してきた属性に関するものであって、帰国子女規制をこれらと同列に論じることは不可能です。
上記を無視して、「帰国子女」という属性に不利益な措置を講じることは、少なくとも数の上で少数であり、かつ、必ずしもその属性から直ちに英語ディベートが得意になるとは限らない帰国子女に対する不当な差別であり、疑わしい目的による措置であることが強く懸念されます。AAではなく、多数者の利益のための措置(後で示唆する「興行的意義」)ではないか、ということです。
また、帰国子女規制は、帰国子女に英語ディベートをやらせると(英語が上手すぎるので)不公平だ、とか、非帰国子女は頑張っても帰国子女に英語で勝てない、といった、誤った観念を植え付ける(少なくともそのような前提を置いている)点でも問題です。それは、まさに、AAに批判的な見解が問題とするスティグマを付与するものであり、教育者としては特に慎重になるべきです。この点、典型的なAAは、性別や能力といった、本来能力と関係ないはずの要素で差別されていることを是正しようとしているのに対して、帰国子女規制は、対象となる属性が能力に直結しているという(誤った)理解に基づき是正を主張していることから、能力に係るスティグマ付与の程度はより大きいであろうことにも留意を要します。
以上の考察は、そもそも「帰国子女」という属性に着目すること自体が間違っているというものです。
帰国子女規制を教育的配慮?からAAとして位置付ける場合に、真に着目すべき要素は、「帰国子女」か否かではなく、「英語が流ちょうに話せるか否か」であろうと思います。英語が流ちょうすぎる選手が多く入っていると不公平だ、英語の勉強にならない、という考えは、もしかしてあり得るのかもしれません。仮に、「帰国子女」=「英語が流ちょう」ということが成り立つのだとすれば(後で述べるように成り立たないと思いますが)、かかる属性をもってAAの体裁を有しているということは言えるのかもしれません。
しかし、このような措定をした場合、今度は、目的の正当性が問題となります。そもそも、英語ディベートは、英語を上達することを重要な目的として取り組む活動のはずです。その目的をよりよく達成した結果、帰国子女規制(=英語が上手すぎる人規制)によって大会に出られなくなる、というのは、英語ディベートの目的と矛盾してしまいます。「ほどほどに英語ができる人だけでMake Friendsしよう、それで参加校を増やそう」というのが、英語ディベート大会運営にとっての「やむにやまれぬ利益」なのでしょうか。もちろん、そのような目的で大会を開催すること自体は否定されませんが、そうであれば、かかる方針をきちんと公表すべきでしょう。
以上より、帰国子女規制をAAとして正当化することは、想定される目的との関係で規制対象を「帰国子女」とすることが誤っており、そもそもAAでないことに加え、「帰国子女」であることに目的との関係性があるという特殊な前提を措いたとしても、AAを基礎づけるだけの目的があるとは考えられないことからして、困難であると考えます。
これは、帰国子女規制が、限定的ながら帰国子女の出場を認めている、といったことで正当化できる問題ではありません。「医学部入試で男性に加点したのは100点満点中の5点にすぎないので女性差別はありません」という話が通らないことと同じです。そもそもなぜ差別的措置を取るのか、という理由がないことが問題なのです。
なお、こういうと、それでは駅伝やプロ球技などで外国人枠があるのはなぜか、という疑問も生じるでしょうが、私は、これらの規制は、教育的意義ではなく――野球やサッカーは、初期の時代は、国内リーグを整備することによる教育的?意味合いがあったのかもしれませんが――、日本人が活躍しないと盛り上がらないという興行的意義で設けられているのだと理解しています。帰国子女規制も、もしかして、その主眼は参加校拡大という興行的意義(そのような効果があるのかは私には分かりませんが)によるのかもしれません。そうであれば、AAとしてではなく、そういった政策的目的でやっているのだという正当化はあり得るのかもしれません。
もっとも、そのような目的は、もはや、教育ディベートの建前の下で説明することが困難でしょう。少なくとも、一定の対象に対する教育を放棄したという批判を免れることはできないはずです。先に示唆したように、かかる目的を認めた上でそれを前提に考えるのであれば、理念を異にする別の団体を作るなり、次元の異なる解決策があるかもしれません。部外者なので無責任な物言いにはなってしまいますが、そちらのほうが健全な論議になるのではないか、と思っています。
2.帰国子女制限は教育上望ましいのか
ここからは、視点を変えて、理屈はともかく帰国子女制限は教育上望ましいのか、ということを考えることにします。この点については、本記事冒頭で言及した実際の帰国子女のnoteが説得的に述べていたのですが、残念ながらなくなってしまいましたので、直接言及はしませんがその内容も参考にしつつ、論じていきます。
まず、上記1の考察でも取り上げてきた、そもそも「帰国子女=英語が得意」ということが疑わしいということを指摘しなければなりません。平均的に言えば帰国子女に英語の得意な人は多いでしょうが、HEnDAの定義で「英語を第1言語とする国で12ヶ月以上滞在経験のある生徒」とされていることだけを見ても、10歳くらいで1年間アメリカに行ってそのまま帰国し、その後高校入学まで英語に触れる機会がなかったような生徒が、日本の英語好きな高校生と比べてどこまで英語ができるのかというと、疑問があります。アメリカで日本人学校に通っていたとすればなおさらです。外国に行けば英語が得意になる、というのもどこまで本当か不明で、アメリカの某有名ロースクールにLLMで1年留学してNY州弁護士資格を取り、その後外国の法律事務所で1年研修した後の弁護士でも、英語に苦手意識があり、電話会議で苦労したりする人もいたりします(実話。「ぐるめ先生、英語が苦手な人が、留学しただけで英語が使えるようになるほど世の中甘くないんですよ」ということを、全然格好よくないのに格好いいこと言ってる感じで話されていたのが忘れられません…。ちなみにこういう人は少数派ではあります。)。
ここでは、ディベーターらしく、資料を用いて論証しましょう。帰国子女でも帰国して英語を使わなければ忘れてしまうことや、外国生活で身に着けた英語だけでは自分の思考をまとめきれなくなるとされています。
小さな子どもが生活の中で身に付けた英語は、日本に帰国したら忘れてしまいやすいといわれます。
お子さんは、現地の友達との交わりや、買い物やテレビなどの日常生活を通して英語力を身に付けたはずです。いわば「英語漬け」の環境の効果によって短期間で英語を使えるようになったわけです。小さな子どもにとって、もともと言語を習得する時期は環境さえ整えばどんどん吸収していくことができます。お父さんお母さんよりもお子さんのほうが先に英語を使えるようになったといった話は珍しくありません。
しかしこのことは同時に、日本に帰国し、英語漬けの環境から日本語漬けの環境に変わった途端、お子さんは日本語を吸収し始め、使う機会が激減した英語はどんどん忘れてしまうということも意味します。
さらに、生活の中で自然に覚えた場合、複雑な表現や抽象的な言葉などはあまり使われません。特に小学3~4年生くらいまでは、英語だろうと日本語だろうと、思考そのものがまだまだ成長の途中。帰国後成長するにしたがって、在米時に身に付けた英語だけでは、自分の思考をまとめることが難しくなってきます。
森上展安「どうする?!帰国後の教育 ~帰国してから困ったこととその準備~」
もう一点、帰国子女幻想を指摘している記事も紹介しておきます。
(小島)…帰国子女幻想みたいなものがあるけど、みんなそれぞれに苦労しています。アジア圏の日本人学校育ちの私もステレオタイプな帰国子女幻想でだいぶ迷惑しているし。なんで英語できないのとか、やっぱり帰国子女は自己主張が強いとか。それ帰国子女と関係なく、性格ですから。
2019年 Yahoo!ニュース記事(中野円佳)「小島慶子さん「帰国子女は自然と英語ができるようになる」は幻想 海外子育て、バイリンガル教育の悩み」
これらの証言は、帰国子女=英語ができる、という理解が誤っているということのほかに、いくつかの重要な示唆を与えてくれます。第一に、仮にある程度英語ができる帰国子女にとっても、英語ディベートによる教育機会を確保することは重要である、ということです。英語を使えると言っても、外国の初等・中等教育で高度で専門的な語彙を身に着けるわけではないでしょうし、先の森上氏の記事にもあるとおり、英語を話せることと英語を使えることは別であるところ、英語「ディベート」は、まさしく、英語を使えるようにするためのトレーニングであるはずだからです。
英語ディベートが帰国子女にとって有益であるということにつき、私自身が実証的な答えを持っているわけではありませんが、軽くググっただけで、帰国子女を含む高校生に対して英語ディベート指導実践が効果を上げたことを示す高畑伸子=清水真澄「高校 1 年生を対象とした初めての英語ディベート指導実践―より効果的な指導法の気づきと生徒の変容に焦点をあてて― 」(2017、中部地区英語教育学会紀要46巻193-200頁)や、帰国子女教育において非帰国子女との相互交流・相互啓発や異文化共生を学ぶ趣旨でディベート教育が用いられてきたことを紹介する成田喜一郎「本校の帰国子女教育史における「適応」概念の変遷 (帰国子女教育)」(1999、東京学芸大学附属大泉中学校研究集録40号93-104頁)の論文が見つかりました。そもそも、英語ディベートが、帰国子女にだけ教育効果がないはずないのですから、帰国子女に対してもディベートの機会を与える必要があることは明らかです。
正直なところを言えば、論理的思考力なり意思決定能力なりを鍛えたいのであれば、第一言語でディベートをするのが一番効率的だし、(英語でスピーチする気持ちよさや世界大会など競技的に広がりがある点を除けば)そっちの方が言語的制約に縛られず言いたいことを言えるので楽しいはずです。その上で、敢えて「英語で」ディベートをする意味があるとすれば、英語が話せるだけではなく英語を使って議論できるようになりたいか、あるいは、英語のほうが日本語より得意であるかのどちらかでしょう。帰国子女の英語力が運用レベルにまで達していないのであれば前者の要請があるし、帰国子女が英語の方が得意な状況であるとすれば、後者の希望を通してあげてもよいのではないかと思います。いずれにせよ、帰国子女の英語能力の如何にかかわりなく、英語ディベートは彼ら彼女らにとって有益足り得るもので、不当に制約すべきではありません。
あるいは、帰国子女規制を正当化する向きは、英語ディベートが「英語力」だけを問題とする競技であり、スピーチが流ちょうであればそれ以上取り組む必要がないと考えているのかもしれませんが、それは大きな思い違いです。そのような理解で取り組まれているのだとすれば、わざわざリサーチなりテーマ学習なりする必要のない、別の英語活動に取り組まれた方が生産的でしょう。
帰国子女規制のもう一つの問題は、それが「帰国子女は英語ができるはず」という帰国子女幻想に根拠を置くもので、そのことが帰国子女を苦しめることにつながりかねないのではないか、ということです。先に紹介した小島さんの記事でもかかる幻想の存在が指摘されています。これは、先にAAの問題として指摘したスティグマの問題に似るもので、帰国子女という属性のせいで、自分の客観的能力以上に英語力を期待されてしまい、そのギャップに苦しんでしまうということです。
この点、英語が客観的には相当できる帰国子女でも、ネイティブとの比較を考えたりして、いつまで経っても英語に自信が持てないということがあるそうです。
わたしはいつになれば自分の英語力に満足するのだろうか?英語で会話ができるようになった時も、授業を英語で問題なく理解できるようになっても、トッフルで100点超えても、海外の名門大学に合格しても、英語でニュースを読めるようになっても、わたしは自分の英語が満足だと感じたことがない。授業についていけないと大泣きしていた自分も、英語が喋れないから一人でトイレでご飯を食べていた自分も、テストでDしか取らなかった自分も、アジア英語のアクセントで喋るわたしも、もういない。それでも発音の良さに騙されて喋っていくうちに相手にいつボロが出るかとヒヤヒヤしている自分がいるし、英語ネイティブスピーカーと初めて喋る時わたしの耳は今でも必ず赤くなり、汗がドッと出てカラカラになる口に喋る前にいっぱい唾を飲み込む。
2019年 baibaihui(筆名)「帰国子女だから「英語強者」だけど、英語はいつまでも「最大の敵」」
私からすれば羨ましすぎる英語力ですが、それでも、自分の中では納得がいかないわけです。引用箇所以外も見ていただきたいのですが、彼女は、ノンネイティブとしてトラウマになるほど苦労した結果英語を身に着けているわけで、「帰国子女」だから英語が上手くなったわけではありません。それを「帰国子女だから英語が上手」といった形で片付けることはそもそもフェアでないし、そのような、彼女の主観と乖離した決めつけが、彼女が英語へのトラウマを払しょくできない一因でもあるのではないかと思います。
いくらトレーニングしても(客観的に英語力が上がっても)、日本人がネイティブになることはできません。そのような帰国子女がトラウマを克服するには、英語力だけでない総合力が試される英語ディベートが役立つのではないでしょうか。少なくとも、そのような教育を担うことも目指されて然るべきであろうと思います。
ここまでは帰国子女の立場から見た考察ですが、非帰国子女にとっても、帰国子女規制はプラスに働かないと考えられます。
帰国子女規制支持者は、おそらく、帰国子女ばかりが活躍するようになると非帰国子女が萎縮してしまうとか、非帰国子女の活躍機会が損なわれる、ということを言うのでしょう。仮にそうだとしても、そのような懸念であれば、「帰国子女」か否かという基準ではなく実質的な英語力(英検1級はアウトとか?)で判断ですが、そのことを措くとしても、帰国子女規制撤廃で非帰国子女が萎縮するかは疑問です。
アカデミックディベート流に反論するなら、第一に、そのような懸念には固有性(Uniqueness)がないと思われます。すなわち、拝見する限り、全国大会上位入賞校はおそらく英語に力を入れている私立を中心にある程度固定しているように思われます。英語力や議論能力(の基礎となる知的体力)については、進学校の中でも相当差があるはずで、帰国子女規制がある現在でも、トップ層とミドル層が試合をすれば、ちょっと勝負にならない、という現実は既にあるのではないでしょうか。
第二に、非帰国子女の活躍機会を帰国子女と比べて尊重すべき理由が分かりません。そもそも英語ディベート(の全国大会)は学校教育を離れた余技であって、最初から生徒全員が取り組むことが期待されるものではないのですから、上手い人が順に出ればよいのです。将棋部に藤井聡太級の俊英が3人入ってきたら、団体戦は普通に考えてその3人でエントリーするでしょう。それと同じことです。仮に、個々の学校で違うポリシーがある場合に、その学校で登録選手を工夫することは自由ですが、大会ルールで一律に帰国子女を制限すべき必要性は見出せません。
第三に、英語が得意な帰国子女と試合をすることは、むしろ、非帰国子女にとっても、上手な英語に触れることができてメリットになるはずです。
最後に、なんだかんだ言ってこれが一番重要に思えますが、英語ディベートが英語能力の向上を本質的目的として掲げている(はずである)以上、その英語力の巧拙に結び付けて出場資格を制限するのは、教育目的と矛盾しているというべきです。英語が上手くなりたい、それだけでなく将来は世界で活躍してほしいと考えるのであれば、英語の流ちょうな帰国子女だらけのチームからは保護しますなどという生温いことを言っていてはいけないのではないでしょうか。
実際には、議論の勝敗は、英語力だけでなく、論題について深く考え、準備した成果も問われるはずですから、英語の上手い下手だけで勝負は決まらないでしょう。また、非帰国子女が、英語の流ちょうな帰国子女に負けないようなスピーチをすることだって、十分あるはずです。そういった要素を無視して、帰国子女チームと戦わせるのは不公平だとかいう余計な世話を焼くことは、真に意欲的な選手(帰国子女かどうかを問わず)に対して失礼です。
さらに言えば、帰国子女の参加を制限する規制は、HEnDAが重要視しており、私としても素晴らしい理念だと共感するところであるMake Friendsの理念とも相入れないのではないでしょうか。
3.総括
ここまで述べたとおり、帰国子女制限には、少なくとも教育的見地から正当化根拠を見出すことはできないと考えます。もしかして大会初期には何らかの事情で帰国子女規制に正当性があったのかもしれませんが、昨今の権利意識の高まりや国際化の潮流からすれば、もはや維持が困難な規制であるように思われます。
百歩譲って、初心者にとって英語が流ちょうすぎるチームと対戦させるのはよくない、という懸念があるのだとすれば、それは、初心者向け大会を作ったり、全国大会を二部制にすればいいだけの話です。もちろん、この場合の初心者かどうかの区別基準は、帰国子女という属性によるのではなく、実質的なところに求められる必要があります。コスト的に難しいのかもしれませんが、帰国子女制限が帰国子女にとって不当な制約であることに鑑みれば、真剣に検討される必要があると思います。
帰国子女制限が合理性を欠いており、当事者からも問題提起があったことを踏まえれば、HEnDAとしては、この点について何らか誠実な対応を検討すべきなのではないかと思います。そうでなければ、帰国子女制限は教育的配慮ではなく別の疑わしい動機(教育現場における帰国子女=教師より英語が話せる生徒への嫌悪感等、差別的動機)によるものではないかとして、大会の正統性が損なわれかねない状態であるとも思います。仮に、HEnDAが帰国子女規制という差別的な規定をもって大会運営しているということが世界大会の運営母体(ESU)に告発されでもしたらどうするのでしょうか。
近時の高校英語ディベートの広がりはとてもうれしいことですし、HEnDAの取り組みを通じて、国際的に活躍する人材やディベート愛好者が増えてほしいということを大いに期待しています。だからこそ、生徒のためにならない、不合理な規定については、真剣に見直されるべきではないかとも思います。私自身は高校英語ディベートの当事者でありませんが、一ディベーターとして、老婆心ながら、問題提起させていただいた次第です。本稿が、ディベートコミュニティの健全な発展に向けた討議に若干なりとも資することがあれば幸いです。