2020-11-03 Tue
かなり久々の投稿になってしまいました。投稿が止まっていた間に、オンラインでのディベート大会も開催され、色々と興味深い議論に接することもあったのですが、今回は、直近の第23回JDA秋季大会に触発された内容として大きく3点書かせていただくことにします。その上で、同大会でも話題になったクリティークについてさらに雑感を書きたいのですが、3点だけで十分長くなったのでそれは次回に回します。
1.Counterplanの効果的活用方法
第23回JDA秋季大会(国会クオータ制導入論題)の決勝戦は、STARクラブA(肯定側)とシュラク隊(否定側)が戦い、1-4でNegが勝利しました。私も決勝ジャッジとして議論を拝聴しましたが、大変レベルの高い試合だったと思います。
特に興味深かったのは、否定側が回していたCounterplanです。否定側は、女性議員の増加という目的自体は肯定しつつ、人材プールの不足や性急な増加による反発を考えると、ゆっくり増やしていくほうがよいという立場を取るため、直接女性議員枠を指定するのではなく、政党助成金減額のペナルティを用いて各政党の候補者レベルでの男女同数を促す政策を提案しました。その中で、Counterplanの方が望ましいことを示す理由として、女性議員不足の問題は(ゆっくり)解決できることと、徐々に増やすCounterplanの世界における状況を固有性としつつ、性急な増加で反発が生じるというデメリットを提示していました。デメリットの説明については、Counterplanの要件を一通り述べた後で、「Counterplanの世界と比べたPlanの問題点」という説明の上でデメリットを述べるとより分かりやすかったように思いますが、いずれにせよ現実的かつ戦略的な良い議論だと感じました。
いわゆるCounterplanの3要件との関係で、上記のCounterplanの特徴を述べると、競合性を「肯定側のPlanの結果を任意に実現させる政策」であることで基礎づけているという点にあります。
よく、肯定側のPlanより小さいプランを小幅修正(Minor Repair)として提示することがありますが、多くの場合、肯定側のPlanとは別の観点から問題を解決しようとするもので、そのため問題を解決しきれないということが多い(そもそも問題を削る狙いでしかない)ように思われます。これに対して、今回の決勝のCounterplanは、物理的に両立不能とまでは言えないものの、共通の目的を「強制」ではなく「任意」に実現することを促す(が、全く同じアクションを取らせようとする、行政指導Counterplanのような便宜的なものではない)政策であり、肯定側のPlanと同時採択することが現実的に考えられないという形で競合性を立証しています。これは、同時採択可能であっても純利益の観点で同時採択しないほうが良いという説明でもなく、どちらかというと、理念的に両立しないという切り口の説明(Philosophical competition)と言えます。
なお、今回のCounterplanの競合性を上記のように正しく位置付けると、議論の説明方法も変わってきそうです。具体的には、PlanとCounterplanの違いは理念の点だということになりますので(否定側も正しく「ファストトラック」と「インクリメンタル」の違いだと議論しています。)、優位性の議論は「どちらの理念がより良いか」という話になり、それぞれの理念で違ってくるところ――今回のCounterplanであれば女性議員増加の数や速度、それによる効果(政策で新たに選ばれる女性議員の質など)、政策への反発の大きさetc.――を争点として論じていくという説明方法になるものと考えられます。そうすると、否定側としては、単にCaseの解決性を叩くということではなく、Counterplanと比べてどちらがよりよく問題を解決するか、という観点からの反論をする、ということになります(ただ、こういう視点で反論するときに、どこにフローを取らせるか、というのは難しい問題ではあります。結局、フローの複数の部分を同時に見てもらう、というやり方は避けがたいところですが、どういう観点の議論なのかというラベルを書き取らせることで見比べてもらいやすくする、といったことは考えられるかもしれません。)。
2.ディベート及びディベートジャッジの価値中立性について
今季JDA論題はジェンダーギャップの解消を主眼としたものでしたが、(引用は控えますが)そのような論題で男性ばかりがジャッジをすることはどうなのか、といった問題提起、というか揶揄をする言説がありました。
[2020/11/3 10時45分追記:上記指摘が試合中の某Kritikを指すとの誤解が見られたことから、出典は伏せたうえで問題の言説を引用すると「クオータ制のジャッジが男性ばかりって『かながわ女性の活躍活動団』を思い出すわ」というものです。私が練習試合で接した、男性優位のディベートコミュニティであることを問題とするKritikは、個々の男性ジャッジの振る舞いを問題としていましたが、論題との関係で特定の属性が問題になるというところまでは述べておらず、また、揶揄的な内容ではありませんでした(とはいえ、下記で述べるような、属性に着目した議論としての問題点は有していると思います。これは次回触れる予定です)。]
一般的に、ジェンダーギャップ解消だと言いつつ、その推進責任者が全員男性であるということに違和感が生じるということ自体は、特に否定するつもりはありません。しかしながら、ジェンダーギャップ解消を主眼とする論題のディベートジャッジのほとんどが男性である――一般化すれば「差別是正を主眼とする論題のディベートジャッジのほとんどがマジョリティである」――ことを問題とする言説には、無視できない2つの問題があると考えます。
上記言説に存する第一の問題は、ジャッジの属性に判定との関係で特別な意味を付与することで、不当にジャッジないし判定の価値を毀損してしまうということです。
上記言説は、「ジャッジが男性であるとジェンダーギャップ解消にかかる問題を正しく判断できないのではないか」という疑問を含むものと解さざるを得ないでしょう。しかし、そのような主張は全く自明ではありません。少なくとも、先の言説の合理性は「ジャッジが女性であるとジェンダーギャップ解消にかかる問題を正しく判断できないのではないか」という言説と同レベルであるように思われます(両方とも疑わしい、ということです)。
もしかして、ジェンダーに限らず、ジャッジの何らかの属性が判定に影響を与え得る、それも特定の論題類型について偏りが比較的強く出る、という事実自体は存在するのかもしれません。しかしながら、競技ディベートにおけるジャッジの任務は、自己の判定を合理的に理由づける義務を負っており、そのため、自身や選手の属性といった議論の客観的価値と無関係な要素を捨象して判断を下す必要があります。本当にそのようなことができるかどうかはともかく、そう努めなければならないというのがディベートジャッジの職業倫理です。かかる職業倫理がある以上、違反が予想される特別な事情(当該ジャッジの過去の不合理な判定や、論題との関係で特に公正性を疑わしめる発言の存在等)を除き、属性にかかわらずジャッジの判定は公正妥当なものであると信じて然るべきということになります(そういう信頼を受けているという前提にあってはじめて、ジャッジも試合に向き合えます。)。
こう述べると、「それでは出身校/地区のチームを忌避するような扱いも必要ないのではないか」という疑問が生じるかもしれません。実際には、十分成熟したジャッジであれば個人的関わりによって判定に影響が出ることはない――厳しく見てしまう可能性はあるかもしれません――と思いますが、このような忌避の扱い自体は、第三者から見たときに公平に見えるかという観点から了解可能です。ここでの問題は、個人的関わりによって「判定を誤り得る」ことではなく、「判定に手心を加える可能性がある(そのような疑いを持たれる」ということです。換言すれば、選手との個人的関わりを理由とする忌避は、議論と関係ない個人的心情で判定が影響されるのではないかという、ジャッジとしての職務の公正性に疑念を生じさせ得る事情であることから正当化される余地があります。
これに対して、論題と関係するジャッジの属性を一般的に問題とすることを何らかの理由で正当化することは適切ではありません。なぜなら、ジャッジの個性(思想信条)ですらない「属性」が議論の内容に関係して判定を左右してしまうという想定は、当該属性によって一定の判断傾向が必然的に導かれるという誤った理解を前提にしているからです。また、上述した「個人的関わり」の忌避との対比で言えば、属性を問題とすることは、ジャッジが不正を働く可能性への疑念ではなく、ジャッジが真摯に判断しようとしてもなお誤りがあるという、判断内容や能力に対する疑念に踏み込んでジャッジの判定の価値を切り下げることであり、選手の属性によって議論評価を変えるのと同様、許されるべきでないということができます。
加えて、一旦ジャッジの属性を問題として公平性や中立性を論じ始めてしまえば、「正しい判断を期待できるジャッジ」は観念できなくなります。男性ジャッジが偏っているとすれば、女性ジャッジもまた偏っているのではないでしょうか。LGBTQのジャッジであっても同じです。そうではなく特定の属性だけが誤っているのだ、という見方は、それ自体差別的ですし、後で第二の問題として述べるとおり、そのような特権的判断を誰が行い得るのかという根本的な問題があります。
上記言説に存する第二の問題は、特定の価値観を称揚しようとしていることです。
「ジャッジが男性であるとジェンダーギャップ解消にかかる問題を正しく判断できないのではないか」という疑問を認めることは、「ジャッジが経営者だと解雇規制の是非にかかる問題を正しく判断できないのではないか」「ジャッジが法律家でない/あると裁判員制度の是非にかかる問題を正しく判断できないのではないか」「ジャッジが支障なく子を儲けられた人だと代理出産の是非にかかる問題を正しく判断できないのではないか」といった疑問も認めてよいということにつながります。しかし、このようなことまで考えるディベーターはおそらくいないでしょう(もっとも、職業等が絡む場合にジャッジ側が忌避することはあり得ますし、現にそういう事態はありますが、それは「正しく判断できない」ことではなく、「そう思われてしまう」ことを恐れたり、立場上憚られるという理由によるものと理解しています。)。
そうであれば何故「ジェンダー問題における男性性」だけが特別視されるのでしょうか。ジェンダー問題においては男性が自明に悪なのでしょうか。マジョリティは須らくマイノリティに対して無理解だというのでしょうか。上記言説は、無自覚にでもそのような理解を前提にしてしまっています。そのような観念は、ディベートコミュニティにおけるジェンダーギャップ(もしあるとして)の解消にとって有害であるというべきでしょう。
しかし、本稿の目的は上記言説の批判そのものにはないので、より一般化して考えます。特定の属性を有することがディベートジャッジにとって望ましくない、あるいは望ましいものだという主張は、当該属性に仮託した、あるいはそれが表象する何らかの価値観が望ましいものであるということを当然前提とするものです。であるのみならず、かかる主張は、それがディベートの試合の中で尊重され、もっと言えばディベートに取り組んだ参加者によって肯定されるべきであるという主張を含意しています。クリティークのインパクトで言われる話と共通するところがあると思います(クリティークとの関連性については別稿で改めて論じます)。
このように、ディベート活動で特定の「正しい」価値観を前提とし、これを称揚しようとする考え方は、ディベートの価値中立性を侵し、ディベートに名を借りた価値観の押しつけにつながるものとして、強く忌避されるべきものです。ディベート実践を通じて獲得する果実の豊かさは、それを自由な議論を通じて自身で発見することによって得られるものであって、最初から特定の価値観を前提としてその受容を期待する態度では、多様な価値観に触れ、批判的に吟味する中で各自がそれぞれの答えを見つけるというディベートの教育効果は期待できませんし、何より面白さが失われます。そして、実際にも、日本語ディベート業界においては、歴史教育にディベートを用いるという形で、特定の価値観を称揚しようとした前例があります。
これは、称揚する価値観が「正しい」ことによって正当化されるものではありません。そもそも、絶対に正しい価値観があるかどうか疑わしいですし、唯一無二とは言えないまでも妥当そうな価値観であるとしても、その「妥当さ」を誰が決められるのでしょうか。また、現在妥当そうだとして未来永劫そうだと誰が保証できるのでしょうか。そういった不確かな正しさを無批判に受け入れるのではなく、批判的に検討することでより優れた議論を目指すというのが、ディベートの所期するところであるはずです(重要なことは、ジャッジや選手が特定の価値観を持っているとしても、ディベートの場ではそれに理由なく特権的地位を与えることは許されない、ということです。)。
私も、ジャッジを含むディベーターの多様性はあって然るべきだと思いますし、仮に特定の属性を有する人がディベートコミュニティにおいて排除ないし制限を受けているという事実があるとすれば、それは直ちに解消されるべきであろうと思います。しかしながら、それと同じ程度に、動機はどうあれ、特定の属性を有することを問題とする言説一般について我々は敏感であらねばならないし、特にディベートという営みにおいては、「多様性の確保」や「マイノリティの保護」といった理由をもって特定の価値観を安易に正当化しようとすることに対して懐疑的であるべきと考えます。
3.今大会決勝講評に対する雑感
これは書くかどうか迷ったのですが、上記の話とも関係しますし、誰かが述べておく必要があるのではないかと思いましたので、異論を承知で敢えて書くことにします。
今大会の決勝講評の前半では、チーフジャッジ(女性です)がJDAの20周年記念大会のイベントで、女性はディベートに向いていないのではないかという(そう受け止め得る内容の)発言を甘受してしまったことへの後悔や痛み(ここでは書きませんが、相当強烈な言葉を使ってらっしゃいました)を語り、ディベートコミュニティの女性に対する理解の低さを訴える趣旨のスピーチをされました。
私は、チーフジャッジが過去に体験したことやそれに対する思い、ディベートコミュニティに否定的な評価を持たれていること自体は何ら問題とするつもりはありません。それは当人にとって紛れもない事実でしょう。また、実際にディベートコミュニティに問題があるのかどうかということもここで取り上げるつもりはありません(全くないと言い切ることはできず、他方でスピーチで言及されたほどの状況かというと率直に言って疑問なしとしませんが、それも「お前が鈍いからだ」と言われるとどうしようもありません。このことについては後で少し触れます)。私がこの講評を聞いて思ったのは、単純に、それを決勝講評で述べることが果たして適切だったのか、ということです。
上記スピーチには3点、不用意なところがあると感じました。
1点目は、ジャッジングの公平性に疑問を抱かせかねないということです。今回の決勝は、否定側も女性議員増加の理念自体は共有していたのでそこまで問題になっていないとも言えますが、一般的に言って、ディベートコミュニティで女性が虐げられているという問題を切々と語ったジャッジが、女性差別の積極的是正措置であるクオータ制の導入に賛成であろうことは容易に想像でき、それが判定にも影響してしまっているのではないかという疑念につながることは当然のことと言えます。上述のとおり、ジャッジは職業倫理として個人的な信念を判定に容れないよう努力するわけですが、判定に先立つ講評でわざわざ論題と関連する信念を開示されては(おまけに、今季論題でジャッジをすることに躊躇したということまで述べています。その躊躇自体は健全なことだと思いますが――ジャッジを忌避すべきだったという意味ではありません。念のため)、判定への影響を疑うべき特別な事情が看取できると言われても仕方ありません。
2点目は、これはチーフジャッジの役割をどう考えるかということにも関係するので必ずしも問題だとは言えないかもしれませんが、既に述べたところとも関係して、ディベートジャッジとして特定の価値観に強くコミットする内容を述べることが適切なのかということです。
3点目は、今回のスピーチが、ディベートコミュニティのマジョリティとされる「無自覚な」男性に対する暴力性を帯びているということです。私も男性ジャッジであり、あのスピーチで個別に名指しされていたわけではないと思いますが(20周年企画は、決勝の協議をやっていたか何かの理由で参加できていなかった記憶です)、そうでないとしても、相当否定的な評価を受けたディベートコミュニティにおける性的マジョリティの一員であり、当然自分に対する批判でもあると受け止めています。もちろんそういった批判はあって然るべきですし、自分が完全に無謬であると言い張るつもりもないのですが、突然あのようなスピーチを聞いて、暗い気持ちになったことは否めません。決勝講評という場で、しかも、ディベートコミュニティではマイノリティかもしれませんが現代のインテリ層(ディベーター)における価値的マジョリティと言うべきテーマで批判されていることには、率直に言って異議を述べるのが難しく、一種の権力性、もっと言えば暴力性を帯びたスピーチであるとも言えます(ディベートコミュニティに凌辱されたと言われているのですからね…)。
以上の指摘にかかわらず、講評の内容はディベートコミュニティにおいて重く受け止めるべき内容を含むものであり、ジェンダーの切り口にとどまらず、寛容さ、多様さとは何かということを考えていかねばならないという示唆を与えていただきました。チーフジャッジの方は選手としてもジャッジとしても活躍されている先輩であり、ディベートに対して誠実な方でありますので、上記のような問題点も認識しつつ、是非とも伝えたいという想いから、振り返るのも辛い深刻なテーマに切り込まれたものと察しており、その姿勢には一ディベーターとして敬意を表するものです。
その上で、そのような重みを帯びたスピーチであっても、誠実に批判する姿勢を維持すべきであるというのが、私の立場です。これは今回の講評を超えた一般論に及びますが、より穏当ないし正当とされる価値観に基づく言説には、そのことを理由とする固有の権力性、暴力性が生じる危険があると思っています。被害者のあるところには加害者があり、その立場は不変ではなく流動的なものです。たとえメッセージが正しいとしても、というより正しいからこそ、それで傷つく人も出てくるわけです。だからといって正しさを訴えることを止めるべきだということにはなりませんが、その正しさを述べることが期待されているのか、十分理性的であるか、といった省察の必要性が免除されることにはなりません(これは筆者に対するブーメランとして返ってきそうですが…)。
ディベートという場に限らず、問題提起的言説、批判的言説は大きな意義を有しますが、そこには副作用も伴います。それを理解した上で、何のために議論をするのか、相手の人格を尊重するとは何なのか、ディベートにおける寛容さとは何かということを考え、豊かなコミュニケーションを目指す必要があります。これは、私にとってはもちろんのこと、現在のディベートコミュニティが抱える大きな課題というべきでしょう。
今回の決勝講評は、副作用は小さくないと思いますが、コミュニティへの豊かなメッセージを含むものだったと思います。このメッセージを我々が正しく咀嚼するためには、単に決勝講評に感じ入るだけではなく、賛意や反発といった思いを表出させる強いコミュニケーションや、それに対する適切なレスポンスも必要になってくるのではないかと考えますが、本稿はそういった問題提起の嚆矢にとどめておくことにします。
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