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アカデミックディベーター

Author:アカデミックディベーター
日当たりの良い某法科大学院を2009年3月に卒業。
ライフワークである競技ディベートについてぼちぼち書いています

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ジャッジ入門講座(6.手続的な規律)
また間が空いてしまいました。ジャッジ入門講座の第6回です。当日のパワポの7~8(/12)枚目の内容です。今回は前回に引き続き理論的なお話しです。New Argumentの規律や証拠の取扱いなどの手続的なところをさらっていく、想定読者にとっては退屈であろう内容ですが、いわゆるディベート理論の中では解説の薄い分野でもあります。ディベート研究者は意外と手続法の知見が乏しいのかもしれません。
本来であればかなり突っ込んだ話をしたいところなのですが、あくまで入門編ということで、さわりだけになっていることにつきあらかじめご了承ください。

ジャッジ入門講座 第6回

新出議論(ニューアーギュメント)の規制
さて、ここからは、出てきた議論をどう処理するかという手続的な説明に移ります。プラン周りの話以上に、ジャッジがどのように整理するか、という要素が重要になるところですので、ややこしいところもありますが自分なりの整理を持っていただく必要があります。
最初に、新出議論の規制についてお話しします。皆様が普段ニューアーギュメント(New Argument)という言葉で説明する概念です。ニューアーギュメントというのは、正確に定義すると、「反駁のステージにおいて、直前の相手方のステージで出た論点に対する反論を除く反論及び論点の提示を行うことを禁止するルール」のことを指します。ここでいう「論点」とは、メリットやデメリット、論題充当性といった投票理由になる議論群を構成する個々の議論のことをいい、「反論」とは、別の理由を付して議論を争う行為をいいます。直前の相手方のステージで出た議論には反論できるので、1NRで2ACの議論に、1ARで2NCの議論に反論するといったことはもちろん可能です(2NR、2ARも直前の相手のスピーチに反論可)。また、立論では議論の提出に制限がありませんが、反駁になると、論点を新たに出すことは一切禁止されます。
こう説明すると、ディベート甲子園出身者の方は、「レイトレスポンスはどうなっているんですか」という疑問を持たれるでしょう。私も昔同じことを思いました。実は、ディベート甲子園では、一回立論形式の下で新出議論規制を説明するために、ニューアーギュメントの規制を、直前の相手方のステージで出た論点にしか反論できないということと、反駁で論点(メリット・デメリット)を出せないということの2つに分けて、前者をレイトレスポンスと名付けているのです。といってもそんな説明が公式にされているわけではないのですが、ディベート理論的にはそう理解するしかありません。少なくとも、一般的なディベートでレイトレスポンスなる概念はないですし、理論的にも分ける意義は乏しいと思います。しかし、ディベート甲子園では分かれていますし、別に分けて困るものではないので、ディベート甲子園出身者はそのままの理解でも全く構いませんが、元々一つの規制なのだということは知っておいて損はないでしょう。

新出議論を規制する趣旨は、直接的には、反論機会を保障することにあります。その結果、議論の深化を促すことにもつながります。反論機会の保障というのは、いきなり2ARで強い反論が出てきて、否定側に反論機会がないままデメリットが死んで肯定側の勝ち、ということになっては否定側が浮かばれない、ということを考えればお分かりになるでしょう。立論でしか論点を出せないというのは、勝敗を左右する基礎的な議論については特に反論の機会を十分に確保すべきということであり、副次的には、質疑の機会も保障すべきであるという考慮もあります。
このような趣旨から、反論機会を与えなくても足りるスピーチ、例えば、新たな理由付けを伴わず議論を評価するに過ぎない総括的スピーチや単なるダウトは、新出議論として排除する必要はありません。後者のダウトは、そもそも選手がスピーチしなくてもジャッジにおいて当然評価上考慮済みという場合も多いでしょう。また、反論する必要があるかどうかは議論の展開によって異なるところであり、例えば、2回立論形式で、1NCではカウンタープランの非命題性について議論していた部分を、2NCで新たに論題充当性の議論として転用したという場合は、非命題性への反論機会は2ACであったと言えるが、論題充当性への反論機会は2ACの時点ではなかったので、1ARで反論してもニューアーギュメントにはならない、といった評価をすべきです。

ニューアーギュメントで実務的に悩むことが多いのは、いわゆるターンアラウンドの議論が、実質的なメリット・デメリットの提示になっているのではないか、というものです。ターンアラウンドの議論は、3要素のうち解決性/発生過程か重要性/深刻性をそのまま借りてきて、そこからリンクやインパクトをひっくり返すという限りにおいて、独立の論点を生まない反論と評価し得るものと考えられますので、発生過程の最初だけ借りてきてその後に別のリンクを付け足すようなスピーチは、実質的にメリットを出したものとしてニューアーギュメントに該当し得る、といった処理をすることになります。もっとも、議論の内容次第といったところもありますので、反論機会を保障するという趣旨から考えて各自判断する必要があります。
また、ディベート甲子園では、論題充当性の議論を否定側第一反駁で出せるのか、といったことが問題にされたりします。実践的には、論題充当性の議論が実質的にメリットへの反論的意味合いが強く、1回立論形式で十分に機会を与えるためには第一反駁での提出も可能と解すべきだろうと思います。ルール解釈上は、「相手の持ち出した主張・根拠に反論する必要から生じた主張・根拠」は反駁でも出せるとなっているところ(ルール本則4条2項4号)、ディベート甲子園ではメリット・デメリット方式が取られており論題充当性が独立の投票理由とならないことが明確になっている(プランの排除をもってメリットを攻撃する趣旨になる)ことからして、論題充当性は「相手の持ち出した主張・根拠」(メリット)への反論として、反駁でも展開できる、という理解が可能です。というか、これに反して論題充当性を立論でしか出してはいけないと解すべきルール上の根拠はないと私は思いますが、皆さん自身でルールを読んで考えてみてください。

なお、ニューアーギュメントに該当する議論については、なかったものとして扱うことになります。したがって、そこの部分の議論を他の論点の評価に参照することはできません。ニューアーギュメントであるかどうかはジャッジが判断するので、選手の指摘を待つ必要はないし(むしろ指摘がなくても気づいたら排除すべき)、選手から指摘があっても理由がなければ無視して結構です。
マニアックなところで、ニューアーギュメントであるが自分たちにとって有利な議論を含むので、ニューアーギュメントであることを認めた上で援用するというスピーチがされた場合に、このような援用を認めるかという問題があり、これは両説あり得ると思います。私は、ざっくり言うと、一般的には認めてよいが、ディベート甲子園でのニューアーギュメント(反駁で出たメリット・デメリット)は試合が荒れるので同意を認めるべきでない、ということを考えていたのですが、最近は、ディベート甲子園のルールの文言上は、同意の余地なく排除することでよいのかなということを考えています。そうあることではないので趣味の領域に近い問題ですが、皆さんも余裕があれば考えてみてください。

議論の同意・撤回
新出議論の規制に比べるとマニアックな話ですが、議論の処理という点で、選手が相手の議論を認めた場合の評価方法について簡単に説明します。試合でもたまに出てくる展開です。
あくまで議論はジャッジが評価するものであり、単なるゲームジャッジではなく、自身も合理的一般人、教育者的な立場から議論を責任もって評価するというジャッジ観を前提とすれば、選手が同意したというだけで議論の評価が変わるものではありません。「日本の首都は岡山です」という議論に相手方が同意したとしても、それを認めることはしないでしょう、ということです。ただ、これは公知の事実に反する例であって、審議がよく分からず争いのある議論について、相手方が争わず前提にしようとしている場合には、争いがないということをもって、判定の基礎として認めるという処理をするのが妥当でしょう。対立する二当事者間の議論においては、反論可能性があったのに反論を積極的に放棄していること自体、おそらく正しいのだろうという評価の理由にすることが可能です。なので、間違っているかどうかは分からないが立証が足りないかも、という場合でも、積極的な同意がされれば、一応試合の中では認めてあげよう、ということができ、そうすることが選手にとっての判定の満足感にもつながるところがあります。選手が満足すればなんでもよいわけではないですが、敢えて選手の意に反する判断をする必要がなければ、選手の意向に沿うほうがよいということは言えます。
もっとも、このように考える以上、同意としての意味を認めるには、積極的に反論を放棄する意思が表示されている必要があります。単に反論できずドロップしたというだけでは、争っているが具体的に反論する時間がなかった、と見るべきですので、判断を緩めるべきではありません。ドロップしたことの意味は、新出議論規制により反論機会を失う、ということだけです。

同意は相手の議論に対する反論機会の放棄ですが、自分の議論の撤回ということができるか、ということも問題になり得ます。たまに「今のは忘れてください」というスピーチがありますが、それのことです。結論としては、一回聞いてしまった以上はなかったことにはできないというのが原則であろうと思います。同じステージでのスピーチであっても同様です。自分のスピーチには責任を持つべきです。ただ、言い間違いを直した程度のことは当然認めてよいですし、そもそも明らかな言い間違いはジャッジの方で善解してあげるべきでしょう。

証拠資料の取扱い
証拠資料の取扱いについては、きちんと説明するとそれだけで独立の講座になってしまいます。というわけで、要点だけをかいつまんだ説明になることをお許しください。

まず、証拠資料が調査型のディベートにおいて持つ意味について説明します。証拠資料というのは、その引用を通じて、本来判定の基礎とすることのできない事実や知見を呼び出すための道具です。本来、特別な権威を持たない選手は、公知の事実を超えた事実を議論として提示することができません。たまたま医者がディベートをしているからといって、医学的な説明を正しいと認めることはしないし、してはいけません。しかしそれでは専門的な領域の議論を行うことは困難です。そこで、きちんと出典を明らかにし、外部に存在する情報をそのまま引用する、という形式をとることによって、事実や専門家の知見を試合の中に持ち込むというわけです。この意味で、証拠資料の引用というのは強い儀式性を持ちます。証拠資料という触媒を通じて英霊を召喚するようなものと思ってください。引用の適法性を考える上では、このような視点を持っていると見通しが良くなると思います。

証拠の評価においては、その証拠がどれだけの価値を持っているかという「証明力」と、そもそもその証拠を判定において考慮することが許されるかという「証拠能力」の2つを区別して考えることが重要です。後者が満たされることが前提となって、前者を評価することになります。証拠の不正引用、というのは証拠能力の問題であり、ここでもその観点で説明をします。証明力の評価方法は、判定を考える箇所で詳しく説明します。
証拠能力を問うのは、証明力を偽る行為を排除する必要があり、また、かかる行為自体が倫理上許されないからです。ディベートの議論も一種の学問的議論であり、根拠を偽ることは最も重大な不正です。したがって、証拠能力が否定される場合、単に判定上その証拠を除外するだけでなく、排除理由によっては、当該試合の反則負けや、大会からの排除等、厳しい処分が下される必要があります。ジャッジは、ディベートという営みの健全性を守り、ひいてはそれに参加する選手が将来道を踏み外さないようにするため、証拠能力を的確に判断する必要があります。
具体的に、どのような行為が問題となるかについての詳細な説明は残念ながら省くことになりますが、主な判断要素は、当該行為によって証明力が偽られたり反論可能性が減じられた程度と、当該行為に対する選手の故意・過失の程度の2点です。後者については、行為そのものの性質(例えば、不利な部分を中略して文意を変えるような行為は、それ自体故意を推認させます)や、質疑応答で話題になっていた場合はその内容、弁明の内容等から判断します。

先に述べたように、証拠能力の問題が懲罰的な要素を含むことから、ジャッジとして証拠能力を問題とする場合には、その前提となる調査や、選手に対する弁明の機会の付与といった手続的な配慮が必要になります。
まず、問題を看取したジャッジは、選手に対して証拠の提示を求めることができます。選手が証拠請求している場合には多くの場合それを優先させるのが妥当でしょうが、重大な不正が疑われる場合には、試合中の準備時間であっても、なるべく早く提示を求め、検証すべきです。その結果、証拠排除が相当であることが確実に言える場合には、(複数ジャッジの場合は必要に応じて合議の上)証拠排除を言い渡すことが相当です。そうでないと、相手方がその証拠を有効だと思って反論の時間を費やしてしまうような事態が想定されるからです。他方、引用開始と終了が分からずどこまでが証拠かわからないような場合は、証拠を確認の上、「確認した結果~から~までが証拠でした」ということをアナウンスするだけで足ります(このような軽微な問題の場合、反則処分にはつながらないし、証拠の排除にもならないので、重い手続きは不要です)。なお、証拠提示できることを利用して、証明力評価のために証拠を見ようとするジャッジも散見されるのですが、個人的にはどうかと思っています。それは、スピーチ外で心証を取ってしまうことになり、公平ではないというべきでしょう。
証拠の不正引用等を理由として反則処分を検討するに当たっては、その前に選手に対して弁明の機会を与えるべきです。これは、試合終了後すぐ、あるいは合議後講評判定の前に、選手に対して、どういう不正があったと疑われるかを具体的に提示した上で、それに対する言い分を聞く、という手続です。弁明の内容を経てなお処分が相当だという場合にはじめて、反則処分を行うというのが、手続的に望ましいです。複数ジャッジの場合、証拠排除自体は各自の判断によって行えますが、反則処分は審判団の合議により決することになるので、弁明の機会付与などは主審が取りまとめることになるでしょう。

証拠能力の判断で悩ましいのは、他の試合で同じような事例があったとか、実は自分は原典を読んでいて不正引用だと気づいたといった、試合外の知識による判断を持ち込んでよいかということです。結論としては、証拠能力の判断については、試合内の指摘の有無に関係なく「正しさ」を優先すべきで、試合外の知識であっても考慮して判断すべき、ということになります。議論の前提となる部分が侵されている状態ですので、選手の議論を待つことなく是正する必要があるということです。その代わり、弁明の機会を付与するという手続的な配慮が求められることは、先に述べたとおりです。
特に中高生の中には、十分な指導がないことから、証拠資料の引用について意識が弱い選手も散見されます。それ自体は仕方ないことですが、議論していくうえで守らなければならないルールがあるということはきちんと教える必要がありますので、ジャッジの側でも時に厳しく、他方で選手の気持ちにも寄り添った(許せということではなく適切にフォローするということ)、適切な対応をする必要があります。

ジャッジ入門講座 | 02:36:33 | トラックバック(0) | コメント(0)