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アカデミックディベーター

Author:アカデミックディベーター
日当たりの良い某法科大学院を2009年3月に卒業。
ライフワークである競技ディベートについてぼちぼち書いています

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第26回ディベート甲子園の感想(1.高校決勝)
ジャッジ講座は予定通り間に合わず、今年のディベート甲子園も終わりました。参加された皆様、大変にお疲れ様でした。初のオンライン開催でしたが、オンライン化したためか練習試合を重ねてきた様子も伺え、中高ともに全体的にレベルの高い大会でした。望むらくは対面での大会再開ではあるものの、オンラインの良さも活かしたポストコロナのディベート実践が実現することが理想であり、その可能性を大いに感じさせる大会であったように思います。

今回は、高校決勝(創価 vs. 慶応)について振り返っていきます。結果は1-4で否定側の慶応高校が優勝しました。試合の判定自体は主審を務めた山脈こと竹久氏の講評が分かりやすくまとめているのでそちらを聞いていただければよいのですが、私自身は肯定側が勝ったかなと思っていました。このあたりの違いは、私のスピーチの好みによるところが大きいのですが、以下では、メリットとデメリットに分けて決勝多数意見と自分の判定を対照しつつ、今大会を通じて安楽死論題について考えたことを若干述べることで、今季論題の私なりの総括をすることにします。

メリットの評価(~1AR)
メリットは、末期患者が他人に依存しないと生きられないなどケアで緩和しきれない尊厳ないし自律の喪失による苦しみ(スピリチュアルペイン)を問題とするものでした。終末期の患者にのみ安楽死を認める理由との関係で、精神的、肉体的苦痛という話より根源的なところに踏み込んだ、完成度の高いメリットでした。ただ、解決性が「安楽死は安心を得るためのお守り」といった話になっているのは、スピリチュアルペインとの関係ではちょっとよく分からないところがありました。スピリチュアルペインに苦しむ(苦しもうとしている)患者にとって、いつでも死ねるということが安心につながるのか、というのは、痛みほど直ちには言えないのではないかというように思います。が、試合では問題になりませんでしたし、それが直ちにメリットを否定するものでもありません。

これに対する1NRの反論について、1ARの再反論とともに順に見ていきます。
精神的苦痛は取れるという話は、スピリチュアルペインに対応しているのかよく分からないのと(余談ですが、日本緩和医療学会の「がん患者の治療抵抗性の苦痛と鎮静に関する基本的な考え方の手引き 2018年版」のⅡ章やⅧ章を読むと、反駁資料に出てくる「治療抵抗性の苦痛」はスピリチュアルペインには対応していないようです。この資料が使われたのは聞いたことがないですが、鎮静についてかなり詳細に論じており、結構使えそうです)、最良のケアでもダメとか、現に希死念慮が出ているという肯定側の分析との関係で、内因性を切るには弱い印象です。山脈も首をかしげているところであり、1ARでも同様にフォローされています。
死の願望は持続しないという話と、いつでも生きる希望を取り戻すという話は、撤回できるかどうかという話に依存するのと、「生きる希望を取り戻す」話は、おそらく尊厳や自立を失ったまま戻らないであろう末期患者に当てはまるのかという疑問があるところです。このあたり、メリットが苦痛の中身に踏み込んでいることに十分対応できていないうらみがあります。関連して、なぜ将来の可能性で今の苦しみから解放する必要性が否定されるのかという指摘がされていた点は、説明が足りない感はあるものの、一理ある話に思えました。死にたくなるほどの苦痛と緩和が繰り返すということだとすれば、結局総体として解放されたいという気持ちも分かりますし、完治の見込みがない末期という状況を考えるとなおさらそう思えます。このことは後述するうつ病の論点で1ARでも言及されていました。
判定を分けるのは、死を望む患者は抑うつ性錯乱のせいで死にたがっているだけという反論の成否です。末期でもうつ病は治るが見分けにくく、そういった患者を死なせることは患者の利益に反するという話で、死の願望が病気のせいだということになると、メリットのストーリーは切れていくことになりそうです。ただ、これもスピリチュアルペインに対応しているのか、ということにはよく分からないところがあります。抑うつで錯乱しながら、自分で自分のことができないので死にたいです、とか、終末期鎮静は受け入れられない、といったことを言うのだろうか、という疑問があるところです。これに対して1ARの返しの第一は、ALS患者の例を引いて、うつ病以外でも死を望む患者がいるというものですが、引くのはそこではなくてスピリチュアルペインではないかという疑問があります(ALSでうつになる人もいるでしょう。ちょっとググったらそういう話も出てきます)。返しの第二は、うつ病でも意思決定に問題はないというもので、これは良い反論になっていると思います。返しの第三は、終末期になってまで死の選択を制約する理由になっているのかというもので、これはなるほどと思うのですが、否定側は終末期でもうつ病は治るということを言っているので、それとの関係で微妙なところはあります。

デメリットの評価(~1AR)
デメリットは、現状患者の家族にとって介護が負担であるという現状を前提に、プランを取ることで本当は生きたいと思っている患者が家族からの圧力を感じて安楽死を希望し、医師も患者の本心を見ぬけず撤回も難しいので不本意な安楽死が生じるという話です。弱い立場にある終末期患者を保護すべきとの考え方が随所に見えて、これもよい立論でした。

これに対する1ARの反論を見ていきます。
憎しみを持っている家族との関係で消極的安楽死は既に行われている、という固有性に対する反論は、肯定側の分析に比べて深く、今はやろうと思えばできるのかなという心証までは行けそうですが、プランで予想される積極的安楽死の実施状況と同程度まで行われているのかということを考えると、ちょっと苦しい印象です。(消極的安楽死は治療中止で死ぬほどの直前にしか行われないので)対象が違うといっても時期的な問題にすぎない、というスピーチも、それを言うなら末期患者もほどなくして死ぬわけで、スピリチュアルペインも消極的安楽死で少しだけ早く解放されることと比べて時期的な違いに過ぎないのではないか、ということだって言えそうで、やや乱暴です。ここで勝負を決めることは難しそうです。
家族を思って死ぬことの何が悪いのかという話はさすがにそれだけで取れないとして、家族が止める、日本人は特に延命を望む、という話については、ある程度デメリットを削る部分もあるでしょうが、止めない家族もいそうだし、患者がどう受け止めるかというところまで否定側の説明をフォローできてはおらず、デメリットを否定するまでの踏み込みには至っていないところです。
死ぬ主な理由は自律が損なわれることだ、という反論は、立論の議論を引っ張ってくればよかったのに、かえって36%が他人の厄介になりたくないので死んでいるようだという話が出てきて、デメリットをサポートしてしまっています。
最後に、撤回できないという話は、推論に過ぎないというカードチェックは浅いですが(ALSの例であり安楽死一般に当てはまるのか?ということ等突っ込みどころはあるが…)、解決性を参照しているところは、説明不足ですが一応「薬をもらったが死んでない」ということで返しにはなっている気がします。その例とプランが対応しているのかは怪しいですが…。

ということで、デメリットは削れているもののそれなりに残りそうではないかという感触です。実際圧力を受けていないことが海外で確認されているといった、直接バッティングする議論も交えて叩くなどしたほうがよかったのではないかという気がします。

第二反駁を踏まえた評価
おそらくここまでの評価は決勝ジャッジともそう違わないのではないかと思うのですが、その後の第二反駁をどう見るかで判定に差が生じているように思われます。ということで両第二反駁を見ていきます。

2NRは最初に患者の利益にならないと決定を尊重すべきといえないので、弱い個人が死んではだめだということで、デメリットの総括からはじめました。自分たちの立場を貫くという点で最後まで一貫しており、その勢いには見るべきものがありました。
個々の論点について、固有性の返しについては、「肯定側のあげる『やったことある』は一回でもやったことがある人の話かもしれない」というものでしたが、一回でもやってたら否定側の分析とはバッティングするのではないかということで、ここは返しとして失敗しているように思います。ただ、その後で、少なくともLinearには残るし、それも積極的安楽死はより早い段階でできる等対象が拡大するという話は、まぁそうでしょうということで、結果的には返せています。その他の反論は、デメリットが残っているという話をしており、これはまぁ肯定側の議論が詰め切れていないのでそのとおりということになろうかと思います。
最終的なまとめとして、選択肢をうまく選べない弱い個人を優先すべきということを強調しており、ここが否定側の勝負どころなのだと思います。個人的には、このあたりの話は単にインパクトを引っ張っているだけで、メリットの想定する対象者との関係をどうとらえているのか(ある程度は重複するのでしょうが、自律を大切に思って死ぬ人と、家族に申し訳ないと思って死ぬ人には重ならないところがあるように思います)、といった説明がないのに、ちょっと上滑りしているという感じを受けました。私は、価値の議論について、単に伸ばされただけで評価することをしないので、ここは刺さりませんでした。

メリットに対する反論は、うつ病で死にたくなるという話に絞ってきています。意思決定能力に関する1ARの資料が仮想実験にすぎないという話は、証拠もないしちょっとよく分かりませんでした。ただ、見逃しやすい、ということは伸ばしていて、うつ病のせいで死にたくなる人もいること自体は1ARでも否定できていないように思うので、そういう人も混じってくることをどう考えるか…ということになります。ここも仔細に見ると、肯定側が想定するスピリチュアルペインで死にたい人と、うつ病のせいで死にたい人は被っていないようにも思われ、そうすると否定側の議論はデメリットのリンクを追加しているだけでNew Argumentではないか、という見方もできなくはなさそうです。肯定側から指摘がなければそこまでは取らないと思いますが、内因性を否定できているというためには、もう少しスピーチがないと厳しそうに思われるところ、デメリットの深刻性に引っ張っていく2NRのスピーチは、戦略としてはそういうものだろうと思いつつも、個人的には腑に落ちないところがありました。

続いて2AR。全体的にとてもよく整理されており、分かりやすいスピーチでした。
メリットについて、ケアでも不十分というところは十二分に説明されフォローしきっています。死にたい気持ちが両価的(行きたい気持ちと同居している)という点については、説明できてはいるのですが、末期であるとなぜ両価的であることを無視してよいかということの説明は実は不十分に思えます。この部分はうつ病の話にも関係してくるところです。一番重要なうつ病の話は、何となく返っているのですが、他の部分に比べるとやや反論が錯綜しているように思いました。まず、メリットが想定する理由で死にたがる人がいる(それが多い)ことを確認してそこのメリットを残しつつ、うつ病で死にたがっている人について、判断能力の有無について再反論を処理した後、判断能力があればその判断を尊重してよい、たとえ治る可能性があったとしても終末期であることなどを踏まえれば選択を尊重すべき、といった感じで論じていくべきものでしょう。特に最後の点は、治ったとしてもスピリチュアルペインの原因は解消されないとか、見逃されるのであれば結局治らないのだから、見つけることができていればという仮定でもって、その時点での患者の意思を否定するのはおかしい、といった議論ができたと思います。ただ、個人的には、2NRもここを十分掘り下げていたとは思われないことから、意思決定能力があるという話で十分返っているのではないかと考えたところです。

デメリットについて。一応残っているので固有性を伸ばしており、言っていることはもっともですが、ここだけで切れるものでもなく、そこまで時間をかけるのかという感はあります(「そこ一応やるんだ~」的なジャッジの反応もある)。時期的な差に過ぎない、という話も、そんな話かねというところで、ここで勝敗は決まらないというべきでしょう。
患者が止める云々という話は、「愛が勝つ」とか「氷山の大きさを示せていない」とか、プレゼンとしては秀逸で、実際分かりやすくはあったのですが、否定側のストーリーを切りきるところまではいけないところです。これは1ARから言うべき話なのかもしれませんが、メリットで述べられているような自律の欠落に苦しむ状態と、家族への心配(圧力という形で感じる)は実は重なっていて、家族への申し訳なさ自体がスピリチュアルペインだ、ということは言えるのかもしれません。いわゆるGood Death的な話でもありますが、今回のメリットからはそういう話が出てもよかったのではないかという気がしています。

結論として、それぞれがそれぞれの議論を立場毎にアピールし、分かりやすくまとめてくれていたのですが、最終的にメリットとデメリットが交わることはなかったように思います。正確には、否定側のほうが深刻性をゴリゴリと当てていた点で無理やりデメリットをかぶせている点で交わらせるようにしていたところはあるのですが、肯定側はそれには応接していません。
私としては、上述のとおり、デメリットのかぶせ方が不十分だと思ったのでそこには乗らず、スピリチュアルペインの苦痛を訴える人の解放というメリットがうつ病の論点を踏まえても残っているということで、削れたデメリットよりメリットを取って肯定側だと判断した(重要性と深刻性の話は明示の比較もなくどっちもどっちと思った)のですが、冒頭に述べた通り実際は1-4でした。ということで講評を簡単に見ていきましょう。

決勝多数意見との相違
講評を聞く限り、決勝多数意見と判断が大きく違うように思われるのは、やはりメリットにおけるうつ病の観点です。多数意見も色々な意見があるようですが、メリットで言われているような理由で死を望む患者もいることは認めつつも、うつ病のせいで死にたがっている人を死なせることはデメリットの深刻性で言われている観点から問題であるという点や、治療の余地があったり見逃される可能性を考えると正当化できないような安楽死が相当数あるのではないか、という判断が多かったようです。肯定側の言うスピリチュアルペイン的な理由で死にたい人の中にもうつ病の人がそれなりにいそうだと考えると、その分は確かに解決性を削るとも言えそうです。
本当は、スピリチュアルペインとうつの影響は併存しうるのではないか、併存している場合その死の願望は否定されるべきなのか、等いろいろ難しい問題はありますが、この試合でそこまでは議論されていません。私は、(観戦していた時に先の併存云々の問題まで分析的に考えてはおらず)少なくとも判断能力にはそう問題なさそうだし、メリットで論じている対象者の事例を正当化できなくするような事情とまでは言えないのではないかと考えたわけですが、ここは、否定側がデメリットをかぶせていったことも含めて色々と判断の余地があり、私のような肯定側の判断が必ずしも多数派ということでないことはそうだろうと思います。

今季論題についての雑感
決勝戦をはじめとして、今季の高校論題の議論は大変水準が高く、過去の同種論題の議論と比べても格段の進歩があったと思います。春季JDAと比べても遜色ない、あるいはより深まった論点もあり、安楽死論題のかなり核心的なところまで迫れていたのではないかと思います。私をはじめジャッジにとっても発見が多く、選手の皆様の努力には敬意を表します。

上記決勝の感想でも触れましたが、肯定側が想定する「安楽死を望む患者」と、否定側が想定する「安楽死を選ばされる患者」(ここにうつ病の影響で安楽死を望む患者が入るのかどうかは議論の余地がある)は動機に重なるところがあるのかもしれないものの、それぞれ別の対象を構成しているように思います。とすれば、今季論題の各種論点は、①動機が重なる患者の安楽死をどう評価するか、②安楽死を真摯に望む患者の意思と、安楽死を選ばされてしまう患者の防止のどちらを尊重すべきか、という2種の課題に大別できそうです。
①については、そもそもどういう重なりがあり、どちらが主因なのかという分析も重要ですが、それはディベートでは(でも)限界があるところです。重なりがある場合に、全部ひっくるめて死の質を高める要素として考えられるのではないかというのが所謂Good Deathの議論ですが、死にたくないという気持ちが混じっているときには死を選ばせるのはよくない、というのも直感的に肯定できるところです。このあたりは、具体的に患者がどういうことを考えるのかという要素の細かな分析や、終末期という状況に置かれた患者の意思決定の在り方をどう考えるかといった問題があり、今回の決勝戦で両チームが論じていたインパクトの議論のように、終末期においてはQODを意識すべき(もっとも、QODって何なんだ問題はある)とか、終末期という生きるか死ぬかの場面で、生きたい人が生きられる状態を実現すべきだ、といった様々な考え方があり得ます。どれが答え、ということはないのですが、今大会では、少なくないチームが、このような難しい問題にある程度アプローチできており、大変刺激的な経験となりました。
②については、今決勝で立論を聞いた感じだともう少し議論されるのかなと思いましたが、案外ぶつかることはなかったように思われます。正確に言えば、立論上ぶつかっているのですが、最終的なまとめの中では、メリットの想定者とデメリットの想定者の「両方が」いるということがあまり意識されず、そのどちらを優先すべきかという議論がされなかったということです。これは他の試合でもあることです。①の問題よりは簡単なのですが、かえってそのせいでフォーカスされにくかったのかもしれません。あるいは、両方がいるというまとめ方に不安があったのかもしれませんが、特に否定側は、この部分は勝ちどころにしやすい気がするので、もう少し意識的に論じられてよかったように思われます。立論段階で既に材料は出ている場合が多く、スピーチ中そこまで強調しなくても取られる、ということもあったのかもしれません。

結局、上記①や②を踏まえると、全てのケースが理想的な死の選択と言えるのかというと難しそうだし、真摯に死を望む人の中にさえ、葛藤は生じるのではないかとも思います。そう考えると、現状安楽死を認めていないということには十分な理があるようにも思いますが、他方で、終末期で真摯に死を望む人も、意志の強さという面では比較的「強い個人」と言えそうであるものの、健康状態等の観点からはまさしく「弱い個人」なのであって、そのような立場の人が苦しみながら死の選択を希求していることに対して、自己決定として疑義がある等の観点で選択肢を与えないことは、それ自体が権利侵害ともいえるし、社会の側が選択から逃げている(この表現は私のアイデアではありません)という評価もできそうです。私個人は、悩みつつも、医学的に可能なのだとしたら選択肢が与えられてしかるべきではないか(それこそ持続的鎮静を認めているのに、殺さないという一点にこだわる合理性がどこまであるのかというと、「いつ」「誰に」認めるかという制度設計の問題にすぎないようにも思う)という気がしていますが、この思い自体も、議論を聞くたびに揺れています。それだけ示唆深い議論に触れる機会が多かったことは、ジャッジとして、ディベーターとして大変幸せなことでした。

このように難しい問題に果敢に挑戦した選手の皆様に改めて感謝するとともに、決勝主審ではないですが、今後もディベートを楽しんでほしい、一緒に楽しんでいきたいという思いをお伝えして、高校論題の私的総括とさせていただきます。

ディベート甲子園全国大会の感想 | 00:41:45 | トラックバック(0) | コメント(2)