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アカデミックディベーター

Author:アカデミックディベーター
日当たりの良い某法科大学院を2009年3月に卒業。
ライフワークである競技ディベートについてぼちぼち書いています

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論題関連性要件の必要性に関する一考察
永らくご無沙汰しておりました。ジャッジ講座もディベート甲子園の決勝批評も滞っており、秋季JDAも終わって久しいところです。色々と書くことはあるのですが、お待ちいただいている方がいらっしゃいましたら気長にお待ちください。

さて、去る11月8日、一院制論題によるJDA秋季大会が開催されました。私も出場しましたが2勝1敗で終わりました。素晴らしいパートナーや対戦相手のおかげで充実したシーズンではありましたが、同時に己のディベーターとしての衰えも感じたシーズンでした(単にプレパできていないだけなのかもしれませんが…)。20代の頃は、相手のスピーチを聞きながら反論を考えてフローに書き殴りつつ議論を追って行けたのですが、30代後半で迎えた今シーズンは、反論に気が回りすぎて相手の議論を見失いそうになったりで、単純に回転力が落ちたことを実感しました。その分、要点を分かりやすく話すスピーチは多少上手くなったような気もしないではないですが、それに合わせたスピーチや議論構築ができていたわけではありません。職業ディベーターも微妙にスタイルを変えつつトップレベルのスキルを保っているように思いますが、私も自分の変化に合わせてスピーチスタイルを変える必要があるのかなと思いました。そもそも次いつ出る機会があるかは不明ですが…。

と、こんな反省を綴っても誰も興味がないと思いますので、今大会でも話題になったKritikの話をします。一院制論題ではKritikは出ないだろうと思っていたところ、練習試合や本番で、エビデンスの使用方法への問題提起や、ディベートの魅力を伝えたほうが勝ち、多様性に資するほうが勝ち(だいぶデフォルメしているので正確ではないかもしれませんが本題とは異なるのでご容赦ください)、といった、論題と関係しない――関連していると強弁するがこじつけに近いように思われる――議論を投票理由とするKritikが出て、本番でも一定の票を獲得しました。
今回、個々の試合について論評することはしません。その代わりに、より一般的な話として、論題にも相手方の議論にも関連しない議論が投票理由となるとは考え難く、帰結も相当でないと考える立場から、論題ないし相手方の議論と関連した議論を出すことがディベートで投票を得るための前提条件として求められることを、いくつかの観点から論じることにします。年内に上げることを優先し、やや粗い議論になっておりますことをご容赦ください(ご意見、ご批判などいただければ回答いたします。)。

なお、上記のような趣旨から、本記事は、Kritikに対する包括的な批判を論じるものではありません。特に、政策形成パラダイムによるべきか否かという論点については言及していません。個人的には、後述のとおり、論題との関連性か、相手方の議論との関連性のいずれかを満たしていれば、いかなるパラダイムで議論するかは特に問題ではないと考えています。Kritikへの理解は低めのジャッジなのだとは思いますが、別にKritikは取らないと決めているわけではなく、JDA決勝でKにagainstしたのも、Kを認めないからではなく、Kを出した側の枠組に沿っても説得されなかったからです。また、例えばクオータ論題で回っていた?ジェンダーに関するKritikは、好みかと言われるとうーん…ですが、議論の展開次第では入れることもあり得ると思います。

※練習試合で、なんとこのブログの記事が引用されているのに接しました。なぜか本名で読まれていてビビりましたが、そういう需要もあるようなので、本記事では著者の情報を記しておくことにします。肩書は使えそうなものを適当に使ってください(なお、以下の論考は著者個人の見解によるものであり、所属する団体等とは無関係です。)。もっとも、個人的には、K対策にエビデンスを読む必要はなく、納得した話があれば反論のネタに使ってもらうくらいでよいと思っています。是澤先生や矢野先生が何か言ったからといってジャッジが説得されるというものではなく、ましてや謎のスヌーピストの意見でジャッジが説得されるということはないでしょう。

論題関連性要件の必要性に関する一考察

Author:天白達也(てんぱく・たつや) 弁護士/法務博士/全日本ディベート連盟理事/スヌーピスト

はじめに
本稿では、Kritik(クリティーク)と呼ばれる、政策論題において政策の純利益(メリット・デメリット)とは異なる観点から投票を求める議論について、それが満たすべき条件として「論題との関連性」が必要とされるべきであるということを論じます。ここでの問題意識は、予測・対応すべき義務をいかなる意味でも負わない議論や、その試合で出した議論に帰責することができないような議論を理由に敗戦とされるべき謂れはない、ということにあります。
以下では、最初に、「論題との関連性」について定義した上で、論題との関連性を満たすことが投票の前提条件であること、換言すれば、これらを欠く議論には投票すべきでないことを、主にJDAルールを念頭に置いた解釈論や、教育性ないし公平性という基本原理に基づき論証します。続いて、論題との関連性の有無を判断する方法として幾つかの基準を提示します。最後に、多くのKritikで主張される、ジャッジの役割論や試合外への影響を重視すべきといった議論が、これらの要件を不要とする理由とはならないことを論じます。

論題との関連性を投票の要件とすべき理由
本稿では、アカデミック(調査型)ディベートで一般的に採用される政策論題を念頭に置いた上で、「論題との関連性」を「論題に規定された政策を肯定ないし否定する議論であること」と定義します。その上で、論題との関連性が投票の前提となる要件として求められるべきであることを論じます。以下、論題との関連性を満たしているかを問題とする要件のことを「論題関連性要件」と呼びます。

論題関連性要件を要求すべき理由は、論題の実行の是非と無関係に、論題の特徴やら理念ということを理由に、結果的に論題と異なる対象を議論しようとする「すり替え」を許すべきでないと考えるためです。詳細は後述しますが、論題との関連性を欠く議論も相手にしなければならないということになると、準備の負担は増大し、論題から想定される議論を深めていくということができなくなります。論題と関係なく議論をしたい人は、その論題を対象とするディベートの大会ではないところで議論すれば足りるのであって、論題が所期しない議論を認める必要性はありません。このような問題意識が、本稿の前提とするところです。
以下、論題関連性要件が投票のために必要となる理由について論じます。

§ 主にJDAルールを念頭に置いたフォーマット上の根拠
JDAのウェブサイトでは、我々が行っているアカデミック・ディベートをこう定義しています。

アカデミック(教育)ディベートとは: 議論の教育を目的とし、ひとつの論題の下、2チームの話し手が肯定する立場と否定する立場とに分かれ、自分たちの議論の相手に対する優位性を第三者であるジャッジに理解してもらうことを意図したうえで、客観的な証拠資料に基づいて論理的に議論をするコミュニケーション活動。


我々が行っているディベートは、ひとつの論題の下、肯定側と否定側に分かれて議論するコミュニケーション活動です。このフォーマット上の特徴は動かしがたいものです。
では、ひとつの論題の下、我々は何を議論するのか。この点、JDA大会ルール第3条2項及び3項は、以下に引用するとおり、肯定側が論題を肯定し、否定側がそれを妨げる役割を担うこと、つまり、論題が肯定されるかどうかを議論するということを定めています。

第3条 (側)
1.ディベートにおいて、二つのチームは、肯定側、否定側に分かれる。
2.肯定側は、論題を肯定することをその役割とする。
3.否定側は、論題の肯定を妨げることをその役割とする。
4.論題の肯定、およびそれを妨げる方法は、ディベーターの議論に委ねられる。


JDAルールでは、この後に続く第5条で「ジャッジは、試合中の立論および反駁の内容に基づき、試合の判定を行う。」と定めています。この条文だけを見て、ジャッジの判定は論題と関係している必要はない、という主張がされていたことがありますが、これはルールの解釈を完全に誤っています。JDAルール第5条は、その前にある第3条が定める役割を踏まえて、立論や反駁の内容に基づき、肯定側が論題を肯定できたか、否定側が論題の肯定を妨げることができたか、を判断するということを規定したものです。そう読まなければ第3条を定めた意味はないわけで、第3条を無視して第5条だけを論じる解釈が成り立つ余地はありません。

仮に、上記のような側の規定がないとしても、ルールに明記されていないから考慮しなくてよい、ということにはなりません。例えば、JDAルールには、立論や反駁の役割や、ニューアーギュメントに関する規律は定められていませんから、ルールだけを見れば、2ARで新たにメリットを出すことも自由にできるはずです。しかしながら、ジャッジや選手は、こうした議論はNew Argumentとして許されないと考えるはずです。なぜなら、ルールに規定されていなくても、反論機会を奪うようなスピーチは認めるべきでないからです。認めるべきでない議論は、それがルールに書かれていないからといって許容されることにはなりません。
論題が定められ、それについて肯定側と否定側に分かれて議論する以上、側の役割が書き込まれていないとしても、論題関連性要件は必要であると解すべきです。続けてその実質的理由を見ていきます。

§ 教育性ないし公平性からの基礎づけ
アカデミックディベートでは、教育的ポテンシャルを最大化するために、あらかじめ論題が決められます。論題により議論のエリアが明示されているからこそ、選手は、そのエリアについて知見を深め、十分な準備の下で議論を準備できるのです(伊豆田ほか3名『現代ディベート通論復刻版』13頁参照)。逆に、論題に無関係に議論が出せるのだとすれば、我々は何について準備すればよいのか分からず、事前に議論を深められません。また、片方が過度に有利な論題であれば公平性やゲーム性が損なわれます。
このような理由から、大会運営者は、論題の設定に意を払います。全国教室ディベート連盟では、論題検討委員会を設けて論題を策定しています。JDAでは、論題候補について議論の可能性や公平性等、文言の適切さ等について公開で討議する機会を設ける等しつつ、会員の投票で論題を決定しています。このような手続を経て論題を定めるのは、良い論題が良いディベートの前提条件となるからです。

論題を無視するということは、こうした教育的配慮や公平性の担保を放棄するということと同義です。さらに言えば、論題を無視して、一方当事者が好き勝手に投票理由を定めることを許せば、著しく不公平な帰結をもたらすことになります。双方独自に投票理由を提起させればよい、ということになれば、もはやディベートは何でもありのトークイベントに堕してしまいます。ではどうしてこんなに時間をかけて論題を決める必要があったのか、ということです。
このような見地から、単に「論題と関連している」というだけでなく、論題に規定された政策を念頭においた議論であることが要求されるべきことが導かれます。単に論題と関係する――例えば「論題の政策が支持する理念と共通する」など――というだけの理由で論題と紐づけられて議論対象が無制限に拡大されては、論題が担保しようとする教育性や公平性は損なわれてしまいます。したがって、関連性を規律する何らかの基準が必要となるところ、政策論題の策定時には、論題に規定された政策の実行の是非を念頭に置いた議論を想定して論題の吟味がされているはずですので、それを基準にして関連性を限定することが妥当でしょう。このような限定をかけた上で許容される議論のフィールドは、一般的な選手が論題から予想し、準備する(ことが期待される)議論の範囲とも概ね一致するでしょう。

§ 競技性からの要請
上記にもかかわらず、論題関連性要件を欠く議論も認めるということになった場合、どうなるでしょうか。予想外の議論で、事前の準備が全てふいになるという事態が生じかねません。
事前に準備すべきと言われたテーマと関係ない議論で負けてしまう環境下では、かみ合った議論は出来ず、予想外の議論で負けるというつまらない経験しか得られないことになり、選手は離れていきます。英語アカデミックディベートが同様の問題に直面しています。全日本英語討論協会が2019年に実施したアンケート(2019年7月13日「アカデミック・ディベートの競技人口減少に関するアンケート調査」)で、「アカデミック・ディベートに興味を失った理由、他活動の方が魅力的に思った理由」に対する190人の回答結果において、複数回答ではありますが、実に80人、42.1%もの人が、「論題の政策に関すること以外の議論をしたくなかったから」と回答しています。そこでは主にTopicalityなどが念頭に置かれていますが、論題と無関係に提出される議論(Kritik)を相手しなければならないという状況も、同じく、興味を失う理由になるでしょう。

論題関連性要件の判断基準
§ 基本的な考え方
論題関連性要件は、肯定側ないし否定側の議論が、①論題に規定された政策を肯定ないし否定する議論である場合、または②相手方の議論の問題点を論じる議論である場合に充足されます。
①は既に述べたとおりですが、②を満たす場合でも論題関連性要件を認めるのは、非命題的なプランから生じるデメリットも投票理由になることと同じ考え方です。相手方の議論(論題関連性要件を充足している前提です。)に問題があることを示すことができれば、当該相手方の議論に投票すべきでないということを通じて、自分たちに投票すべきとの結論を導くことができます。このような議論が成立する場合、相手方には投票を失うべき帰責性が認められるため、上述した教育性や公平性の趣旨からも、(論題との関連性を問わず)投票することが許容されます。

政策形成パラダイムに基づく議論は、通常、自動的に①により論題関連性要件を充足します。しかし、論題関連性要件は、政策形成パラダイムのみを許容するものではありません。逆に、政策形成パラダイムに基づきメリットデメリットを論じる場合でも、論題関連性要件を欠くことはあり得ます。例えば、肯定側のプランが論題と無関係である場合(出来の悪いびっくりケースで稀に見られる事態です。)は、Topicalityの問題というより、その前提である論題関連性要件を欠くものと処理すべきように思われます。

§ ①を満たすかどうかの判断方法
上記①を満たしていると言えるかどうかを判断する最も簡単な方法は、当該議論が肯定側であっても否定側であっても成り立つものではないか、という点をチェックすることです。どちらの側でも投票理由として主張され得るということは、その議論は論題を肯定するものでも否定するものでもないということになるためです。
例えば、2019年秋JDAの決勝で否定側が提出した、最低賃金に関する対抗言説として論題を否定するというKritikは、当該対抗言説は論題を否定する理由としてではなく、論題を肯定する理由としても主張し得ると考えられます(公開された原稿からは現にそのように準備されていたようです。)。このような議論は、結局、論題の肯定と否定のいずれにも資することがないものであって、論題と無関係である、と評価すべきことになります(もっとも、当該議論については、最低賃金を上げる=論題を肯定する、という態度と不可分の問題を論じていることを強く説明すれば、論題関連性要件を説明する余地はあると思います。)。
また、ディベートコミュニティについて論じるような議論も、一般的に、上記の理由により論題関連性要件を充足しないものとして棄却されるべきことになります。

上記チェックをクリアしたとしても、論題に規定された政策そのものとは関係ない議論である場合、論題関連性要件の充足をを否定すべきです。例えば、「この論題に規定された政策は多様性の尊重を理念としている。したがってディベートコミュニティの多様性を高めるための提案を主張する自分たちに投票すべきだ」といった議論については、論題から何らかの価値・理念を抽出してはいますが、そこから、論題と無関係の議論に話をすり替えています。論題から何らかの価値・理念を抽出できるとしても、それと同様の価値・理念は別の論題ないしテーマからも抽出可能であると考えられますし、そもそも論題の当否は特定の価値・理念の当否とイコールではないので、結局、その価値や理念を論じたところで、事前に指定された個別具体的な論題を肯定ないし否定することにはつながりません(かわいい、という価値観を肯定したとしても、それがスヌーピーを肯定したものか、ピカチュウを肯定したものかは分かりませんし、かわいいというだけで直ちに電気を帯びて危ないピカチュウが肯定されるわけではありません。)。

以上を満たせば、さしあたり、論題関連性要件の充足を満たすことができます。メリット・デメリットでなくても、論題に規定された政策を行う(支持する)こと、行わない(反対する)ことに存する問題点を議論できていれば、論題関連性要件の観点からは問題ないということができます。

§ ②を満たすかどうかの判断方法
仮に①を満たさないとしても、相手方の議論に内在する問題点(例えば、差別的な価値観を内包している等)を取り上げていると言えるのであれば、論題に関する議論の問題点を論じているということをもって、論題関連性要件の充足を認めることができます。

もっとも、このような議論に論題関連性要件の充足を認める実質的根拠は、相手方に帰責性(落ち度)があると言えることにあります。したがって、相手方にとって避けようのない問題を論じているという場合、帰責の前提となる結果回避可能性がない(避けられない以上、避けなかったことを非難できない)ことから、そのような問題提起によって論題関連性要件を充当することはできないと考えるべきです。例えば、クオーター制導入論題において、男女の差について論じること自体が望ましくない、という議論を提起する場合、論題の性質上、男女の差を全く論じずに議論することは不可能と考えられるため、そのような議論は論題関連性要件を充足する理由にならない、と考えられます。
これは、上記①の検証方法である「肯定側と否定側のどちらでも当てはまるのではないか」という話とも重複します。相手方の議論に対する問題提起という体を取るだけで、上記①のチェックを潜脱することはできません。

結局のところ、①の話も②の話も、論題について論じることを指定されている当事者にとって準備することが期待される(準備しなかった場合当該当事者の責任になる)議論と言えるかどうか、ということを問題としているということが言えます。このような理解は、教育性や公平性、競技性といった上述の趣旨からも当然に導かれるものです。

論題関連性要件に対して予想される批判に対する反論
上記の論題関連性要件に対しては、少なくないKritikで主張される、ジャッジの投票への影響力や、議論の公共性ないし市民教育の必要性といった考え方から、論題に制約される必要性は乏しいという反論が予想されます。

まず、ジャッジの投票への影響力をいう議論ですが、そもそも、ジャッジの投票に特別な影響力があるという前提が疑わしいです。ジャッジの投票は、せいぜい、その議論に対する競技的な評価を示すものにすぎません。Kritikその他の議論が認められた、ということは、そこで論じられた価値観等が支持されたということを必ずしも意味するものではなく、反論が拙かったのでやむなく投票したというケースも含まれ得ます。受け手である選手も、そのような議論でも投票が得られるのか、と考える以上に、そこで論じられた問題について深く考えることは稀でしょう。むしろ、ディベートという競技の場で議論することで、当該問題を「競技の中のお話し」にしてしまい、深い検討を妨げることすら懸念されます。
また、仮にジャッジの投票に、その基礎となった議論の内容に関する何らかの発信的効果があるとしても、ジャッジは、特定の価値観を称揚ないし否定する目的で投票を行うべきではありません。ジャッジの任務は、論じられた内容に基づき論題の当否について判断することであって、論題と関係なく議論された内容にたまたま納得したからといって、それを支持する「善行」のために任務を放棄することは許されません。

次に、議論の公共性ないし市民教育の必要性から、論題に囚われない議論を求める立場に対しては、そもそも公共の議論においてもテーマを無視して論じることは許容されていないという指摘が可能です。原発反対を訴える市民集会でジェンダー平等の話を論じられても、参加者は顔をしかめるだけです。良い話だから論題(テーマ)と違っても聞いてほしいというのは、それこそ市民社会の良識に反する振る舞いです。
また、ディベートにおいて殊更公共性や市民教育を強調することにも疑問があります。選手以外の観客も多数いるようなパブリックスピーチの場などであれば特別な考慮があり得るかもしれませんが、事前に論題を定め、一定の経験者をジャッジとして選任している競技大会において、論題を無視した公益的な議論(そもそもここでいう「公益」にはかなりの偏りがあるようにも思います)が尊重されるべき根拠はないでしょう。

以上に共通して言えることですが、社会への影響といったことを考えるのであれば、なにも、論題や競技的フォーマットによる制約のあるディベートの試合を表現の場として選ぶ必要はない、ということです。
こう述べると、ディベート以外の場で議論できるということはディベートの場で議論してはならないということを意味しない、という反論が飛んでくるでしょう。しかしながら、論題関連性要件との関係で言えば、論題が定められている以上、それを無視すべきと主張する側において、なぜ論題を無視してでも語る必要があるのかということを積極的に論証する必要があります。ディベートでないと議論できない、というやむにやまれぬ事情があれば別論、そのような事情がないのであれば、論題を無視したスピーチに票を与える理由はないし、対戦相手としても、そのようなチームに票を持っていかれるようではたまったものではありません。
そもそも、ディベートの試合では、対戦相手は共感したかどうかとは別に競技上の要請として反論しなければならないわけで、問題提起に対して真摯な応答がされることはもとより期待できません。そのような場所でわざわざ論題と関係ない「大事な」話をしなければならない理由はどこにあるのでしょうか。その理由は、当該チームの独りよがりを超えて、相手方にも我慢を強いることを正当化するだけのものなのでしょうか。そのようなことが問われなければなりません。

むすびに代えて
競技ディベートが、論題を事前に定め、論題を肯定する側と否定する側に分かれて議論するということには、議論の範囲を適切に制約することで教育的効果や公平性を高めるという実質的な意味があります。このような制約の下で、選手は、論題に関する調査や試合の準備を進め、議論を楽しみます。論題関連性要件を欠く議論は、このような前提を無視して、選手にとって準備が期待されない議論を理由に負けるという理不尽な結果をもたらすことで、ディベートの教育性、公平性を破壊し、選手をディベートから遠ざけることにつながります。このような議論は、パラダイム云々の問題以前に、ディベートという競技の想定から外れていることを理由として退けられる必要があります。
この要請は、投票の前提として論題関連性要件の充足を求めることによって満たされるものであり、ディベーターにおいても、このような論点があることを意識して、Kritikをはじめとする諸議論を検討する必要があります。真にディベートの試合で論じられる価値のある議論であれば、論題関連性要件を充足することは可能であり、かかる要件の充足が必要であることを意識して立論することは、これまで聞き手にとって分かりにくかったKritikの議論をより分かりやすく説得的にすることにもつながるものと期待されます。本稿が、論題に関連しない議論で疲弊する選手の救済のみならず、価値ある意欲的議論のブラッシュアップにも貢献することがあれば幸いです。

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