愚留米の入院日記
日当たり良好の某法科大学院既習病棟を退院した法務博士の日記。しかし内容はほとんど趣味のディベートの話
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千種杯でジャッジをしての感想~「論じ方」を身につけるということの意味~
去る26日、千種高校討論部の主催で開催された千種杯なるディベート大会の審判に行ってきました。論題は首相公選制の是非です。
高校時代は選手としてお世話になったのですが、そのような大会にジャッジとして関わる機会ができたというのはなかなか感慨深いものがあります。運営してくださった千種高校関係者の皆さま、お疲れ様でした。

何故か大会講評のスピーチをすることになり、そこでいくつかお話しをさせていただきました。せっかくなので、そこで話した内容を一般化して、今年最後の記事として記しておくことにします。

最初に、この大会でジャッジしての感想を素直に記しておくと、論題が難しかったこともあり、水準を満たさない議論が多かったというのが正直なところでした。特に肯定側については、予選で見た3試合のうち2試合は肯定側立論を聞き終わって勝負がほとんど決まっていた――全く評価できないという状況で、残る1試合も立論段階からメリットはほとんど認められないという評価でした。
そして、そのような結果になってしまった理由は、リサーチが不足しているということに加えて、ディベートで要求される「論じ方」を十分身につけていないことにあるというのが、僕の見立てです。そこで、以下では、皆さんが身につけるべき「論じ方」とは何かということ、そしてそもそもの前提として「論じ方を身につけることの意義」について、思うところを書いていきます。

1.「論じる中身」の前に「論じ方」があるということ
議論についてよく言われることとして、論題の本質を捉えた議論が大切であるとか、深い分析がどうとかいうことがあります。というか僕もよく言っているわけですが、こうした「論じる中身」は、いきなりパッと出てくるものではなく、物事をどうやって考え、どう議論として構成していくかという「論じ方」を身につけた上ではじめて生まれてくるものです。
しかしながら、僕も含めた多くのジャッジ・指導者は、「論じ方」と「論じる中身」をきちんと分けて指導することを怠ってきたところがあるように思われます。よい議論をしてほしいということが先行してしまうということや、少なくない選手が「答え」を求めがちで、どうやって議論を作るかということの指導があまり要求されてこなかったことなどが理由なのでしょうが、いずれにせよ、論じ方について意識的に指導をする機会というのは、冷静に考えてみると、意外なほど少ないです(この点、以下でいう「論じ方」とは違うとはいえ、英語ディベートでは定期的にセミナーをやっているようで、素晴らしいことだと思います)。

教育的観点から言えば、競技ディベートという舞台において選手が身につけるべきは、特定の論題についての「よい議論」ではなく、どんな論題に対しても通用する考え方、議論の方法です。以前に演劇主義批判といったことをしたこともあったのですが、そこで問題としてきたのも、それが議論の方法を教えるという目的から完全に外れてしまっているからでした。
中高生のディベーターにとって、現役選手として試合に出られる期間は必ずしも長くありません。そういう事情もあって、じっくり議論の方法を学び、それを実践するという形で大会に挑むことは難しいのかもしれません。また、大会で使用される論題はどれも社会的に大きな意義を持っており、自分なりにいろいろと思うところがあって、そこから「いい議論」をやってやろうという気持ちが盛り上がるということもあると思います。しかし、本当に「いい議論」を展開したいと思うのであれば、論じ方をきちんと身につける必要があります。
論じ方を身につけてもいないのに、中身のある議論を展開しようと思っても、それは多くの場合空回りするだけで終わります。僕は全国大会で、そんな議論をたくさん見てきました。それは、ディベートで身につけるべきことを十分身につけられていないという意味でも、ディベートの楽しさを100%享受できていないという意味でも、非常にもったいないことだと感じます。

ここで急いで付け加えておくと、僕が言っている「論じ方」というのは、どうやってスピーチするかとかいう方法論ではないし、どういう反論のパターンがあるかという議論のノウハウめいたものでもありません。もっと根っこにある、どのように物事を考えていくかということが、僕が大切だと考えている「論じ方」の中身です。以下では、その具体的な中身について、簡単に説明していきます。

2.何が問題なのかということを突き詰めること
ディベートで求められる「論じ方」の第一は、その論題で何が問題となっているのかを突き詰め、そこから議論を起こしていくということです。

僕がいつも口を酸っぱくして言っているのは、いわゆるメリット・デメリットの3要件をしっかり理解し、それに沿って議論を分析・展開できるようにするということです。これは本当に大切なことで、未だに不十分な人が多いのでよく勉強してほしいと思っているのですが、この3要件思考の中で一番核となるのは、現状のシステム/プラン後のシステムの問題点を分析する内因性・発生過程(のInitial Link)です。
特に内因性については、論題が問題とされている理由そのものといってよいわけで、ディベーターが一番心を砕くべき部分といえます。単に「問題がある」というだけではなく、それが論題にある政策の不在により生じているということ、換言すれば「論題と関係する問題であること」をしっかり示し、その上で問題を具体化していくことが、肯定側の責任です。

首相公選制論題で具体的に言うなら、首相を公選でなく国会議員が選ぶということによりどういう問題が起こっているのかということが、きちんと示される必要があります。僕が見た試合の中では、「民意が反映されていない」というふわっとした話がされて終わることが多かったのですが、国会議員だって国民が選んでいるのですから、その議員が首相を選ぶことが民意に反するとは直ちにいえないし、そもそも民意って何なのか、民意に反すると何が問題なのかということも、ここからは全く伝わってきません。
これをもう少し突き詰めれば、例えば「国会議員が選ぶ」から「首相候補者は国会議員の要望に合わせてアピールすることになり、国民の望む政策とずれが生じる」といった説明をすることになります。このようにして少しでも問題点を特定しようとすることではじめて、自分たちが立証しなければならないことが特定され、重要性や解決性の議論も具体化されていくのです。

そこでは、問題点を想定した上で、「なぜそれが論題と関係するのか」ということを突き詰める姿勢と、「具体的にどういう問題なのか」を掘り下げていく姿勢が求められます。これは、結果的に、与えられた論題の本質(と考えられるもの)に肉薄することにつながるわけですが、上記のような姿勢を論じ方として身につけることなく、論題の本質なるものを議論しようとしても、得られるのはジャッジの不可解な表情だけというオチになってしまいます。

3.実際の社会を観察して自分で考えるということ
ディベートで求められる「論じ方」の第二は、論題の背景となっている実際の社会をしっかり観察し、それを元にして自分で議論を考えるということです。これは当たり前のことだと思われるかもしれませんが、実際にはなかなか難しいことです。

「自分で議論を考える」というと、資料偏重主義はよくないといった批判がされるのですが、物事はそんなに単純ではありません。資料の中身を鵜呑みにすることは間違っていますが、それは論証のために資料が要求される必要性を否定するものではなく、資料の用い方についてしっかり考える必要性を提起するものです。
私たちは多くの場合、現実の社会を、ニュースや書籍・論文などの「資料」を通じて観察することになります。全ての現場を見に行くことはできないからです。しかし、自分自身が足を運ばないにせよ、誰かの報告や思考を踏まえて自分で考え、自分なりに問題を掘り下げた上で、自分たちの議論を構築するということは可能です。大切なことは、自分なりに実際の社会を観察し、そこから自分で考えるという姿勢です。

首相公選制であれば、私たちは、観察すべきたくさんの対象を見出すことができます。日本の国政については、現在進行形で様々なニュースが報道され、現在の首相も多方面からその資質を問われています。既に首長公選が実現している地方自治では、鹿児島県の阿久根市長や名古屋市の河村市長が全国的にも話題となっています(特に名古屋の例は、名古屋開催の大会だけにもっと論じてほしかったが、全く議論に出てこなかった…)。首相公選制が実現しているアメリカの政治も、観察対象としては見逃せないところです。
こうした実際の政治について、ニュースなどで事実を確認し、それに対する識者の見解や分析を調べることで、自分なりに現実についての認識を持つことができます。そこから、自分なりに考えることではじめて、血の通った説得的な議論が出てくるのです。

千種杯においては、「首相を国民が選べばみんな納得する」という議論が出てきたりしたのですが、上記のようにして(あるいは常識から)現実を追っていれば、そのような単純な議論になるのだろうかという疑問は当然に出てくるはずです。例えば、鳩山首相の支持率は、就任当初は高いものでした。鳩山首相についていうなら、国民は総選挙を通じて積極的に信任したといって差し支えないはずです。それが今ではどうか…ということを考えれば、選んだからその後どうなっても納得、というのが、いかに現実離れした議論であるかが、よく分かるはずです。
そもそも、国民の中に、首相として選びたい人間が特別にいるのだろうかということについても、自分の中で問い直してみてよいことです。抽象論として「国民は首相を選びたい」という話をするのは簡単ですが、それをジャッジに納得させるためには、まず自分が納得できなければなりません。こうやって考えていくと、例えば「自分には選びたいと思える首相候補がいない。これはもしかして、首相公選でないから国民にアピールする必要性が議員になかったり、リーダーシップを発揮しにくいからではないか」という、他の議論の可能性を思いつくということもあります。

4.おわりに
ディベートをする上で大切になってくるのは、上記のような論じ方、すなわち、問題を考える姿勢をきちんと身につけることです。先輩に教わった作業を言われるままにやること、何となく論題について話すことだけでは、議論の方法をきちんと身につけることはできません。どうしてそういう作業をするのか、何に基づき、何のために論題について話し合うのかということを意識することではじめて、ディベートに費やす時間が「議論のトレーニング」として有益なものになります。

皆さんが、その論題限りではないディベートの実力、議論する力を身につけたいと思うのであれば、まずは外形的なテクニックではなく、どのように考えていくのかという点を見直すべきです。そんなの言われなくても分かっているという方にとっては余計なことかもしれませんが、僕の見る限り、こうしたことを本当に分かっている選手はとても少ないです。僕自身も、偉そうなことを書きながら、自分がどうなのかについて100%自信があるとは言えないのです。
それでも、確信を持っていえることは、自分で観察した結果に基づいて自分で考え、問題を突き詰めていくという姿勢は、ディベートでよい議論を作るための唯一の道であり、また社会において有益なことを成そうとするために必要なものであるということです。

来年の論題はまだ決まっていませんが、それがどのようになるとしても、上記のような姿勢を持っているかどうかが、皆さんの議論の出来を決定付けることになるでしょう。来年、素晴らしい議論に出会えることを期待して、今年最後の長文を終わることにします。

それでは皆さま、よいお年を。
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