愚留米の入院日記
日当たり良好の某法科大学院既習病棟を退院した法務博士の日記。しかし内容はほとんど趣味のディベートの話
良い議論とは何か、そしてそれを目指す意義
ディベート甲子園高校論題が道州制に決まったというニュースもあるようですが、これについては次の機会に書くことにして、今日は別の話題を取り上げることにします。もちろん、入院日記(法律関係)とは関係ないことです。考えさせられることはいろいろあるのですが、立場上書けないので。

さて、今日の話題は、「良い議論とは何か、そしてそれを目指す意義」というものです。こんなテーマで突如文章を書くのは、春の陽気で頭がおかしくなったとかそういうことではなくて、震災の影響もあるとはいえ時期的に大学では新入生のサークル勧誘時期ということもあって、大学でディベートを続けようかと考えている人に対して何か書くことがないかなぁと思ったからです。大学からディベートを始めるという人も大歓迎なのですが、多分そういうことはここを読まないだろうから…。
あと、後輩などの議論を聞いたりしていると、自分なりにいろいろと思うところもあって、ここでもたまに書いているように小言のようなことを言ってたりするのですが、結局僕が何を言いたいのかということを十分整理して伝えたことはそんなになかった気がするので、そのあたりの説明も兼ねています。なんか弁論部の後輩とかも読んでるらしいので…。

というわけで、今回の記事はいつも以上に誰に向けて書いてるのか謎のイレギュラーな内容になっております。書き終えて読み直してもなんだかよく分からない内容になっているのですが、そういうものだと思って読んでいただけましたら幸いです。


1.良い議論とは何か、あるいは良くない議論とは何か
選手がディベートで目指すことにはいろいろあると思うのですが、その中に「良い議論をしたい」という目標があることについては、ほとんど異論は無いと思います。もちろん僕もそのように思っていますし、今ではそれだけが目的になりつつあるような気もしています。

では、ディベートにおける「良い議論」とは一体なんでしょうか。これを定義するのは難しいことで、人によって議論の好みは違うし、魅力的な議論のあり方というのは複数存在するので、こういうものがよい議論だ、と決めることはできないように思われます。
ただ、「良い議論」の逆にある、「良くない議論」「つまらない議論」というものについては、自分なりにいろいろと思うところがあって、そういうものは自分ではやりたくないし、ジャッジや観客として見るときにも厳しいコメントをしているような気がします。以下では、自分がどういう議論をよくないものだと考えているか、整理してみることにします。

準備不足とかディベートの基本的理解が不十分であるといったような問題は措くとして(そういうのはまぁしょうがないかなぁと思うだけです)、個人的に一番残念に思うのは、ある程度ディベートに慣れてきた選手が「こういう議論出しておくといいよね」といった感じでマニュアル的に議論を出していて、それが透けて見えるというものです。
例えば、挙証責任の転換ということで原則っぽいことを言っているエビデンスをとりあえず読んでおいて、しかもそれが自分たちの議論に全然即していないというパターンで、こういう議論を聞いていると、選手の議論構築に対する誠実さを疑わざるを得ないところです。だって、これは聞き手がそういう安いマニュアルに従って議論を評価するものだと決めてかかっているわけで、聞き手をなめてかかっていることを意味するのですから。
以上の次第で、とりあえずこういう議論を出しておかないといけない的な発想というのは、良い議論の対極にある思想だと思うので、判定上も厳しくチェックされるべきでしょう。

もう一つ残念に思えるのは、いかにもディベート便宜的な議論を、そういうものだという自覚を十分持たずに回しているような類の議論です。
まだJDAのサイトには速記録が上がっていませんが、JDA-MLに流れていた今年の春JDA決勝戦でも、そのように感じた議論があるので、少しだけ紹介しておきます。この大会の論題は「外国人労働者を認めるべき」というものだったのですが、決勝のAffはプランとして「60歳未満のものについて、単身かつ3年の期限付きで就労ビザを発行」し、ビザについては「60歳未満で、かつ日本で就労しているものについては更新を認め」、「更新時点で失業しているものは、帰国を義務付け」るという内容の規定をおいています。これは要するに、外国人労働者が家族を呼んできたりして社会保障費が増大するのを防いだり、働いてない外国人が国内にとどまることを防ごうという腹積もりのプランなのですが、これは言ってしまえば外国人を働く機械だと捉えるものであって、都合が良すぎる政策だというべきものです。まぁ、そういうものだと割り切って議論を展開するという道もあるでしょうし、実際にシンガポールのように「外国人労働者はバッファだ」と言っちゃう国もあるわけですが、このようなある種ケチ臭いプランを出しているのが単なるディベート戦略だとしたら、もっと考えた方がいいんじゃないかなぁと思ってしまうわけです。これは、ビザを取るときに外国人に同意を求めるプランを入れれば何とかなるという、そんな話では断じてありません。

ただ、上記のような議論が存在するとして、それに負けてしまうというのであればそれはやっぱり「良い議論」とは言えません。僕が「良くない議論」だというのは、それが卑怯だとかいう話ではなくて、そういう議論はディベート的にも強くないだろうという意味です。
例えば、上記の例のうちなんちゃって挙証責任論については、その原則が議論に即していないことを明快に指摘すればそれまでですし、ケチくさいプランについては、上記の例であれば外国人労働者の権利という観点からDAを作ればいいし、ちょっとイレギュラーですがKritikに仕立ててもよいでしょう(が、Negはこのような反論を準備していなかったようで、この点は残念です)。場合によっては、TopicalityやCounterplanで牽制することもできそうです。巷でセオリーと呼ばれている飛び道具は、こうしたケチくさい議論を真っ当に排斥するという場面でこそ、光り輝くという側面があります。
このようにして、なんとなくそれらしいことを言っているようで違和感のある議論に対して、的確に反論するというのは、一つの「良い議論」の形だといえるのかもしれません。このように考えると、僕が「良い議論」だと言っているのは、要するに真っ当な疑問をきちんと形にして提示できているということ、もっと言うなら「きちんと考えて議論を出すこと」という当たり前のことに帰着されるということになります。これについては、後で再び触れることにします。

2.本質的な議論とは何か?
「良い議論」に関係して、僕はよく「本質的な議論をすべきだ」といったことを口にする癖があるようです。しかし、本質とは何かというのもまた難しい話です。ここでも、本質的でない議論とはなんだろうということから、逆に考えてみることにします。

前に日米安保廃止論題で練習試合があったときに、弟が「全然分かってない議論が出ていた」という話をしていました。そこで問題とされたのは、日米安保のせいで原子力空母が事故るリスクがあるからこれを解決すべき、といったケースです。これは、「本質的でない議論」の典型例だと思います。
なぜ日米安保論題で原子力空母の話が本質的でないかというと、これが「原子力空母を日本に寄港させない」というCounterplanに弱いということ(まぁ、安保の効力も落ちるし、実効性にも疑問は出うるけど…)、これを言い換えると、日米安保条約の存在と原子力空母の問題は関連性が低すぎて微妙だということ、すなわち原子力空母の問題が日米安保条約をどうこういう理由になるのかという疑問があるということになります。
そして何より、この議論が嫌悪感を催す理由は、この問題が「人がたくさん死ぬのを避けられる&反論がこなさそう」という理由で選ばれているように思われるところにあります。もちろん、ここで僕がイラっとくるのは、この議論が卑怯だとかいうのではなく、人がたくさん死ぬ問題を取り上げれば評価してくれるんですよね、という形で聞き手として安く見られているように感じるからです(被害妄想だという感想もあるかもしれませんがw)。この点については、矢野論文を読めというほかありません。程度は違いますが、奇抜さやインパクトの大きさだけを求めて深く考えずに議論を組むという点では、上記のような「非本質的」議論は、僕にとってはディベートに感じられないのです。

僕が本質的だとか本質的でないとかいう時に考えているのは、概ね以上のようなことです。これは、この論題でどういうことを議論することが説得的かという、勝つために必要なはずの思考様式と一致しています。おそらく、上記のような空母ADを考えた選手は、それが勝つための近道だと思ったのでしょうが、僕からするとそれはズレています。反論が来ないから強いとか、インパクトが大きいから強いとか、そういう単純な思考は、早い段階で卒業すべき稚拙な発想であって、論題を肯定/否定すべき理由として何が説得的であるかという、より大本のところから考えることが、勝ちを目指すということです。
「こういう議論が強い」とか「こういう議論は本質的だ」というものではなく、論題の背景にどういう問題があって、それをどう切り出すと説得的かということを考えた結果、本質的と評するに値するようなアイデアが出てくるというのが、正しい理解だと思います。

ここでも、結局のところ「きちんと考えて議論を出すこと」が、本質的な議論であるということの意味であるということになりました。
ここでいう「きちんと考える」というのは、想定される議論について一通り準備しておくという意味も含まれるのであって、ディベート甲子園に出場される多くのチームにとっては、このレベルの準備がまずは要求されているということを、一言断っておくことにします。特に高校生のチームなんかは、本質的云々というハードルに囚われて、地に足の着かない議論を展開しがちな気がしているのですが、まずは基本からということです。

3.良い議論を目指すということの意味
最近よく感じるのは、ディベートでは勝つことが大切なのであって、議論の内容より勝利が先立つのだというディベーターがいるように思われるということです。まぁ、僕も試合をするときには本能的に勝ちを求めていますし、(たとえ相手が職業ディベーターであっても)勝てるだけの準備をしてきたつもりで試合に臨んでいるわけですが、別に勝つこと自体は目的ではないし、そのようなところに目的を置くのも違うだろうと感じています。

まぁ、ディベート甲子園のようなイベントであれば、勝ち進んで決勝に行くことで思い出になりますし、青春的な雰囲気もあって優勝を目指したくなるし、目指すべきものであるとも思います。大学以降の大会でも、優勝を目指してやるくらいでないと、ディベートを楽しむことはできないというのもその通りだと思います。
しかし、誤解を恐れずにいうなら、試合に勝つこと、大会に勝つこと自体には、特に意味はないはずです。これも何度か書いた気がするのですが。僕自身、大会で優勝したからあの選手はすごいとかいうことを考えたことは一度もなくて、展開していた議論の中身であるとか、ディベートとしての生き様(!)であるとか、そういうところに共感する形で、選手を見ています。むしろ、自分の試合も含めて、試合に勝ったり大会に優勝したりという場面でも、中身的には大したことないと思ったことはいくらでもあります。

こう考えると、最終的にディベーターが満足を得られるのは、試合の勝ち負けといった皮相的なところではなく、自分が納得できる「良い議論」を展開できたかというところにあるように思います。相手の議論も良い議論であって、それを上回って勝つというのが一番ですが、何はなくとも、自分たちがきちんと議論できたかというのが前提です。なので、昨年の秋に出たJDAで、勝ったとはいえAffのプランのケチ臭さを矢野先生に指摘されたときはリアルに穴に入りたくなったし、最後に職業ディベーターに破れたときも、悔しいと感じたのは負けたこと自体ではなくて、自分たちの議論が至らなかった点にありました。
また、このような姿勢でディベートに臨むことによってこそ、聞いている側に何かしらの余韻を残すことができるのではないでしょうか。少なくとも自分にとって、これまでに印象に残っている選手は、スピーチが上手いとかそういうことではなく、議論に対する姿勢であるとか、議論の中身であるとか、そういうところに惹かれるところがありました。僕自身がそういうディベーターであるかについては自信がありませんが、どうせ試合をするのであればそういう選手でありたいと考えて、自分が出したいと思う議論を出来るだけ詰め込むというズレたディベートをしていた次第です。

高校までディベートを続けていて、大学でもディベートを続けるという選手にとっても、そこでの動機は表面的な勝ち負けではなく、自分の納得できる議論というところに置かれるのが理想的なのではないかな、と個人的には思っています。
というのは、大学以降は高校までと違ってチーム・学校に対する責任という側面が薄れ、自分たちのやりたいように議論を作ることができるし、ジャッジも(特にJDAでは)考え抜いた議論を遠慮なく出しても受け止めるだけの力量を持っています。また、大学から学ぶ専門的な内容を踏まえて議論を考えることができるというのも、当然ながら大きいです。勝ち負けを超えて良い議論を目指すというのは、それ自体「考える楽しさ」を最大限享受することでもあるし、他の試合を見る目も変わってきて、よりディベートという競技を楽しく感じられるはずです。あのチームは優勝してるから強いだとか、あの議論はなかなか反論できないから強いだとかいう、安い(!)視点で試合を見るより、面白い議論が出ていないかという観点で試合を見るほうがずっと楽しいです。

そして、かなり対象が絞られてしまって恐縮なのですが、わが母校の弁論部(ITBと呼ばれております)なんかは、良い議論というものを考える上でよい環境が整っているのではないかな、というように思っていたりします(唐突ですいませんw)。
ITBというところは、(最近もそうだと思いますが)伝統的に「適当に考えた議論」に対して非常に厳しいサークルだし、弁論という活動を通じてディベートを相対化できるという点も、ディベートにとって有益です。最近はテクニック的なところも先輩が指導してくれるようですし、もし僕も含めた先輩が間違ったディベート理論を解説していたり、ディベート便宜的なことばっかり言っているような場合、下克上的に先輩を批判することが許されるサークルでもあります。この雰囲気のありがたさは、自分が先輩になって、後輩に適当なこと言ってたら締められるという緊張感を感じるときなんかに強く感じます(別にマゾというわけではなく)。あとそうですね、部室には漫画なんかもたくさんあって居心地がよいです。

4.まとめになってないまとめ
なんか最後は謎のサークル宣伝(?)になってしまいましたが、結局言いたいことは、高校以降もディベートを続ける意義があるとすれば、それは勝ち負けを超えた「良い議論」を目指すことであるし、それはおそらく高校を卒業したからこそ本気で目指せる目標であるという側面もあるので、是非高校卒業後もディベートを続けていただきたい、ということです。
まぁテニスとかほかに楽しいこともあるかもしれませんが、それはいろいろな意味で非本質的というべきものですw
コメント
この記事へのコメント
わかるのだけれど・・・
そこに意義があるということはわかるのですが、自分が今すぐそれを目指すかといわれると、まずは勝てる穴のない議論をつくりたいと考えます。(もちろんさすがに本質的でない議論で相手をびっくりさせて勝つことを狙う、ルールの裏をかいた戦略を使う等はしませんが。そもそもそれらが本当に強いのかについては疑問があります。)
やはり勝つということにはそれだけのインパクトがあると思います。どんなにいい議論を作っていても、負けてしまうのであればそれまでです(既に『強い』という定評のある方なら別でしょうが)。まずは自分自身がコンスタントに勝てる状態、少なくとも安定して穴の少ない議論を作れるようになるまでは勝ちに走ってしまうと思います。コンスタントに勝てるようになれば、その次の目標として今度は「いい議論で勝つ」と考えたいなとは思いますが。

矢野先生やぐるめさんのおっしゃっているような現実世界で通用するような「実践」的なディベート、いい議論を目指すというのも最終的には大切だと思いますが、その前段階としてそもそもロジカルに議論を組み立てられるようになるというステップを学ぶために競技をする面もあると思います。したがって、ロジカルな試合ができてコンスタントに勝てるにもかかわらずずと勝ちだけを目指し続けることについては「次の目標として『いい議論』を目指してもいいのでは?」とも思いますが、当初の目標として勝ちを目指すことを非難する必要があるのかという点には疑問を感じます。

まずはある程度きっちりと段階を踏んだ(ロジカルな)議論をつくることができるようになって、それによって勝てるようになってきたら次は良い議論を目指すという流れでも悪くはないと思うのですが、いかがでしょうか。初めからいい議論を目指す必要性はあるのでしょうか?
2011/04/16 (土) 06:05:08 | URL | くりこ #x9mex98s[ 編集]
コメントありがとうございます
>くりこさん
ディベートに対する取り組み方にはいろいろありうると思いますので、上記の内容はあくまで僕の私見です。その上で、くりこさんのコメントを踏まえて、僕の思うところをもう少し敷衍しておきます。

まず、「安定して穴の少ない議論を作れるようになる」ということが前提であるということは、全く異論はありません。上の本文でも、第2節の最後でそう書いています。
そもそも、本文で書いた「良い議論」というのは、勝てる議論とかなりの部分重なるはずです。

その上で、僕の考える「良い議論」が単なる「勝てる議論」と異なる部分があるとすれば、それは「選手なりのこだわり(自分はこの論題をこんな風に捉えているんだ、というニュアンスで伝わりますかね?)が出ているかどうか」というところにあるような気がします。反論のあるなしとか勝率がどうとかではなく、こういうストーリーで論題を議論したいとか、この切り口の議論は面白いとか、そういう発想で作られた議論は、回していても楽しいし、聞いていても「上手いなぁ」という以上の感動を味わえます。

例えば、本文であげた今年の春JDA決勝(当事者の選手には悪い取り上げ方ですが…というかここで取り上げるとだいたいロクなことがないのですがw)についていうなら、ケースのほかの部分の完成度などから察するに、おそらくAffは外国人の権利DAとかKritikにもそれなりに反論は用意していたと思うのです。それを引き出せなかったNegがまずは力不足だったというのはそうでしょう。
しかし、僕がもしAffでああいうプランを出すのなら(出しませんけど)、1ACの段階で「外国人労働者をバッファとして使うことに問題はない(むしろ割り切っててよい)」という価値観を何らかの形で入れ込んで、そういう割り切った形でのストーリーを見せることを試みると思います。契約自由がどうとかいうズレた価値基準を切れば時間はできるでしょう。
そうすれば、最終反駁で「Negの立場は外国人との共存とかいう崇高な理念を取る結果、一時的にでも働きたい外国人を排除し、かえって共存を妨げている。割り切った政策で外国人を受け入れることの方がよい」といった感じでケースを伸ばしきれます(リサーチしてないのでアレですが、割り切って入れるからこそ本当に残りたい人は帰化するとかいう議論もありうるんじゃないでしょうか)。
上記のような議論の回し方は、もしかしたら勝率にはほとんど影響しないかもしれません。しかし、聞いている側に対して「Affは外国人の扱いについてこう考える」という筋を明確に示しているという点で、聞いていて面白くなるのではないでしょうか。僕としては、そういうことを考えたくなるのです。

で、話は戻りますが、僕が上記のような「良い議論」云々ということをいうのは、くりこさんだったり、上で紹介した議論を回している方については、基本的な議論の回し方について十分習熟しているのではないかと思うからです。
くりこさんだって、僕が見る限り、勝てないとか弱くてパートナーが見つからないとかそういう問題ではなくて――上手くなったらパートナーが見つかるという単純な問題でもないでしょう――、そもそもフリーでディベートをしている選手が少ないというだけのことではないでしょうか。むしろ、くりこさんが後輩と組んで出るとか、そういう段階にきているのではないでしょうか。

特に、(もう面倒なのでTDN式表記法で名前を出すと)TMK君なんかは、僕よりずっとスピーチが上手いと思いますし、個人的にはスピーチの整理具合は職業ディベーターを僅かに上回っているくらいだと感じています。
けれども、やっぱり僕からすると、彼のディベートはきれいだけど、たとえば職業ディベーターだったり瀬能先生がやってるディベートとは何かが違う気がします(僕の回してる議論との関係ではノーコメントにしておきますw)。その何かというのが、本文で書いたところに出てるんじゃないかという気がします。
*ただ、個人的には、職業ディベーターも毎回面白い議論を出しているわけではないと思います。伝聞ですが、日米安保論題のFinalの議論は、正直あまり面白くありませんでした。ここまで来ると好みのお笑い芸人的な話になってしまうのかもしれませんが…

というわけで、ある程度レベルが上がった選手については、勝った負けたという話を超えて、自分なりの観点を試合で見せるようなこだわりを持った方が楽しいと思うし、それが聞き手にフィットしたとき、「良い議論」というのができてくるんじゃないかなぁと思う次第です。
選手が試合で勝ちを目指すのは当たり前だし、それはディベートに習熟する上で必須なのですが、勝ち負けだけで議論が評価されるというのはつまらないですよね。また、まだ基本がおぼつかない初心者に対しても、勝つためのポイントを教えるのはいいとしても、勝つことそれ自体が目的だというのは言い過ぎでしょう。武道でもそんな教え方はしないと思うのですが、それはディベートでも同様だと僕は思います。

そして、サークル勧誘との関係で言うと、ある種議論に関する武道的なあり方を教えるのがITB(のはず)だということをいいたくて、本文のようなことを書いたというわけです。
2011/04/16 (土) 15:13:26 | URL | 愚留米@管理人 #tX1BiP8k[ 編集]
ぐるめさんやその他ベテランさんがたが「いい議論」「つまらない議論」という話をなさっている時いつも私は何がいい議論でなにが良くないのかの境界がわからないなあと思ってしまいます。もちろん、明らかに良くない議論というのはおそらくこういうものじゃないかなあ、と思い浮かぶものはあります。本質的でなかったり、ルールの裏をかいた議論の出し方をしてみたり・・・こういったことは避けるべきだと思っています。自分自身も、明らかに怪しいことについては自分で考えてわかる範囲ではやっていないつもりです。ただ、自分の回す議論がもっとベテランの方々から見て「いい議論」と評される議論であるかについては正直まったくわかりません。基本的には、穴のないものを目指してストーリーを考えて議論を作って・・・とやっているつもりです。しかし、そうやって考えた結果であっても例えば「人の命」をインパクトに据えてあるとベテランの方から見れば安易にインパクトを設定したと見られてしまっている場合だってあると思うんです。挙証責任だって、1つの試合に挙証責任が出てきたからその人は考えずにだしたかというとそうでもないかもしれないわけです。勝つチームは一定程度自分たちの議論のストーリーを持っているとおもいます。そう考えると「いい議論」か「つまらない議論」かで勝敗が決まっていることはルール上ないにしても、「その選手なりのこだわり」が出ている(いい議論、描いてるストーリーがその選手なりのものなのか)かどうかはその試合だけでなくその人の人柄(から推察したその人が議論を組み立てるプロセス)で判断されている部分も大きいのではないですか?

「まだ基本がおぼつかない初心者に対しても、勝つためのポイントを教えるのはいいとしても、勝つことそれ自体が目的だというのは言い過ぎでしょう。」
この考え方はある程度ちかいのかなあ、と思います。勝ちを目指すと言っても勝つためになんでもやっていいと思っているわけではありませんし、まず絶対にそうは教えません。繰り返し申し上げていますように、私は「まずは穴のない議論を作ってみようよ」と議論の組み立て方やスト―リーの立て方を教えると思います。ただ、結果として出来上がったものが果たしてベテランの方がおっしゃる「いい議論」かどうかはちょっとわからないんですけれども。ぐるめさんのおっしゃるように穴がない議論を作れば基本的には「いい議論」になるとはいえ、「基本ではないもの」がでてきてしまうかのうせいは否定できないですし・・・
2011/04/17 (日) 04:12:59 | URL | くりこ #x9mex98s[ 編集]
直接のお返事になっていないところもありますが
(くりこさんではないですが)僕の言いたいことがうまく伝わっていないところがあるようで、僕の言い方が下手くそだということもあるとはいえ、あまりこの問題について長く説明するのはよくないようにも思っているのですが、せっかくですのでお返事差し上げます。
*上記との関係で、質問に直接関係ないことにも一部言及します

「良い議論」と「勝てる議論」の関係
繰り返しになりますが、僕もディベーターですから、勝てる議論が良い議論だし、競技としてもそうあるべきだと思っています。なので、僕が上記で書いているのは、こういう議論は強くないはずなのに過剰に評価されている、という主張です。

ですから、僕は、インパクトに人命がすえてあるからダメだとか、国防問題で人命救済を論じたらダメだとかいう、そんな意味不明のことを言っているわけではありません。どういう文脈でそのインパクトが出てきているのか、そのインパクトが論題との関係でどれだけ尊重されるべきか、そういうことをしっかり説明しろと言っているだけで、僕は特におかしなことを言っているわけではないと思います。
挙証責任の話についてもそうです。自分たちの論じている問題領域とどれだけマッチしているか、なぜ挙証責任が転換するか説明できているのかというのが問題となっているのであって、例えば外国人労働者の流入規制という入管政策の問題において、契約自由の原則という一般論が本当に妥当するのか、そんな話をするよりは外国人が(プランとの関係で)一時的にでも日本で働きたいと思っているとか、企業が受け入れを求めている実際の声であるとか、そういうものを入れたほうが遥かに有効であるはずなのにどうしてそうしないのかという、議論としての強さの問題を言っているわけです。

なぜ「良い議論」を問題としているのか
そして、上記のようなズレ――少なくとも僕(や僕の知る限り少なくない数のジャッジ)が感じているもの――が生じている理由は、彼らのディベート能力の欠如ではなく――むしろ彼らは本当によくリサーチしているし、経験も積んでいる――、どこかディベート便宜的な、あるいはマニュアル的なところに囚われて、十分考えられていない部分があるのではないかと考えています(この分析には異論がありうるでしょうが)。

その上で僕が「良い議論」の意義を問うているのは、そのように考えることで、議論についてより深く詰めることが可能になると考えるからです。
例えば、スパイクプランを考えるに当たって、それを入れることによる「試合上の」有利不利を考えるということはあるでしょうし、それは当然必要なことです。しかし、それ以前に、ディベートの試合を離れてそういう規定を設けることが妥当かどうか、どうしてそういう規定を設けるのかということを考えることがなければ、かかるプランを導入するにあたって生じる問題を十分捉えきれないところがあると思います。本文の例についても、労働していない外国人を追い出すというプランを単に社会保障費の議論等へのスパイクとして入れるというのではなく、短期的に調整弁と割り切って外国人を入れる政策であると認識した上でその内実を詰めていけば、ケースの中身も膨らむし、スパイクとしての価値も向上するはずです。

良い議論、すなわちストーリーのある議論を作ることの意義
上記のように、試合での議論という場から離れてものを考えることで、より骨太な議論を展開することができるだろうというのが、僕の主張です。そこでは、それぞれの選手の自分が作った議論に対するこだわりないし信念のようなものが「ストーリー」として問われてきます。
そういうものが感じられるとき、ジャッジはそれを避けて通れませんから、自分なりの観察に基づく一貫したストーリーを立てるということは、極めて有効な戦略になります。試合上で反論があるかどうかというフローの上での戦略を練るだけでは、予想外の反論が来たときにガラス細工のように崩れてしまうことはあるかもしれませんが、スパイクやその他の議論を出す「自分なりの必然性」をしっかり持っていれば、どのような反論に対しても耐えることが出来るはずだ、ということです。

「良い議論」を作るために必要なもの
議論にストーリーがあるかどうかというのは、(当たり前ですが)議論を作った人の人柄(?)とかで評価されるものではありません。例えば、多分直接話したとは思いますが、昨年僕も見た秋JDAの決勝は、TMK君の回していたNegの議論の方がストーリーとしてよかったと思いますし、僕もNegに手を挙げています(契約論による説明はあの論題はやっぱり違うと思うのです。まぁそれを説明できずに僕も負けちゃったわけですが)。

ただ、議論に対する考え方が、ストーリーの巧拙を決定付けるところはあると思います。例えば、ディベートで論じている議論を「ディベートのテーマになったから」という理由だけで捉えるのではなく、自分なりの価値観に立って議論を組み立てようとしているか、というところは、実際の議論の出来栄えに大きく影響してくるでしょう。
そんなものはディベートではない、と言う向きもいらっしゃるかもしれませんが、僕はそうは思いません。人間社会の問題をテーマにして、人間にジャッジしてもらう以上、どういう価値観に則って議論を組み立てているかというのは、説得の上で極めて大きな意義を有するはずです。
もちろん、それ以前の段階(リサーチの充実度やスピーチのテクニック)で差がついてしまう試合は少なくなくて、というか残念ながらそのレベルで勝負がつくことがほとんどであるため、上記のようなポイントで勝負が決することはほとんどないわけですが、それでも高いレベルの試合では、(試合の戦術を超えた)どういう意図で議論を練ってきたかということが、無視できない差異をもたらしてくるのではないでしょうか。
*もっとも、僕自身も、そのレベルで勝負を決するだけ準備を詰めて臨めた大会というのはほとんどないわけですが…

まとめ
以上、直接のお返事になっていないところもありますが、「良い議論」について思うところを書きました。
再度まとめると、上記で言いたかったのは、僕のいう「良い議論」が変に教条的なものではなく、ほとんどの部分で「勝てる議論」に重なるということ(もちろん、「そういう議論が評価されるべきだろう」という矢野論文的な意味合いも含んでいるのですが、実際の試合では準備の充実度とかで勝負が決まっているので、現在は矢野論文にあるようなひどい事態は生じていないと思います)、試合の勝ち負けに囚われずに議論を眺めることが逆説的に勝利につながるのだという2点です。

もちろん、「良い議論」というのは一つところではなくて、考え抜かれた議論というのは複数存在しえます。また、僕が批判している本文中の議論についても、良く考えられている部分はたくさんあります(ですから、春JDA決勝のAffの議論は、プランのところが安易に見える部分と挙証責任の部分以外は、さすがによく作りこまれていたと感心しているし、他の大会についても、僕は意外と(!)彼の議論を褒めてるのだということを誤解のないように伝えておいていただきたいですw)。
ただ、僕が本文やコメントで書いたような点については、ある種類型的に考え落とされているような気がしていて、それはヨリ強い、面白いディベートに向けて求められていることなのではないかということで、書かせていただいたということです。
その意味では、僕の書いていることは、自分自身にとってもレベルの高い要求であって、いきなり目指すべきものでもないわけですが、幸いにも今のディベーターの中には、少ないながらそれを目指せるだけの実力者がいるわけですから、頑張っていただきたいということです。

まぁ、実際試合に出なくなる(予定の)人間にそんなこと言われてもという話ではありますから、その点で無責任だと言われればそれまでですが…。
2011/04/17 (日) 10:13:26 | URL | 愚留米@管理人 #tX1BiP8k[ 編集]
こんにちは。
この記事には直接関係のないことなのですが、愚留米さんがおっしゃっている矢野論文は「ディべとディベート」のような内容でしたよね。あの中で矢野さんの言っているような「ディベ」が、本当に昔は行われていたのですか?
私は現在、高校生で矢野さんの言っているような「価値のあるディベート」ができているかは疑問です。しかし、それでも、あの論文中で述べられているようなレベルの「ディベ」が行われていたと言われると、さすがに疑いを隠しきれません。
本当にあの論文で述べられているような「ディベ」が行われていた時期があったのですか?
また、行われていたとしたら、どういった経緯でそれは改善されていったのでしょうか。
記事とは関係ないことですみません。読んで、気になりましたので質問させていただきます。
2011/04/17 (日) 18:45:53 | URL | 冷静になれないディベーター #-[ 編集]
>冷静になれないディベーター さん
 まず基本的事実を確認しておくと、あの矢野先生の文章が書かれたのは第3~4回甲子園のあたりなので、その時はまだ中高生の大会でも「スタイル」というものが確立していた時代ではありません。
 ただ、他の(というか大学の)大会ではそのような風潮はかなりありましたし、実際にその流れは中高生大会にも若干進出し、宇宙人eviさえなかったものの、第5回とかでは超高速スピーチ13点反駁とかやってのけて意気揚々としているディベーターがいたくらいです。
 そして少なからず矢野論文的なディベートが増えてきてしまい、それに危機感を抱いた一部の生徒が、「良い議論って何だろう」というのを考えるディベート合宿が開かれたりしました。
 どういった経緯で改善された、というのは、そういうボトムアップの活動と同時に、特に中高生日本語大会において、ジャッジが積極的にそのような議論に苦言を呈し続けたのが大きいと思います。
 ちなみに、本当にそんな議論があるのかどうかと疑問に思うのなら、一部英語ディベートの大会でも覗きにいくといいと思います。「論題の主体は漆(Japan)である」という伝説の解釈を生み出した母体ですから。
2011/04/17 (日) 19:01:10 | URL | smr@とおりすがり #-[ 編集]
勝たせてしまう方も悪い
競技である以上、勝った議論がいい議論とみなされるのはある程度仕方がないので、結局のところ淘汰圧が働いてないのがいけないのだと思いますよ。

件の彼は意図的に自分の得意なテリトリーに議論を引き込んでおり、またそれを隠すどころか誇っているにもかかわらず、彼に挑む人たちは、なぜか馬鹿正直に同じ土俵に乗っていって撃沈しているように見える。

確かにプランをひねられると、DAは通りづらくなるけれど、文中でも触れられているようにTopicalityやCounter Planで付け入る隙は生じるわけで、そちらに主軸を置いた戦略を組み立てればいいのに、そのような工夫があまり見られません。

これはD甲子園の功罪でもあるのだろうけれど、NETの議論が本筋で、あとは余技と見られている節があるのは非常に残念。

なので、良い議論とは?勝てる議論とは?ということを語る以前の問題として、それらを比較検討できるほど色々な議論を試してみたんかと問いたい。

とはいえ、色々試せるほど大会の機会が充実していないじゃないかとか、偉そうに語るばかりではなく勝負の場に出てきて手本を見せればいいじゃないかと逆に問われれば、なかなか答えられない現状であるのもまた事実なので、若い人たちを責めてばかりもいられないのですが。
2011/04/17 (日) 21:13:52 | URL | 委員長 #j7kPgX2Q[ 編集]
確かにそうですね
> 冷静になれないディベーターさん&smrさん
僕は矢野論文執筆当時のディベート大会の状況は良く知らないのですが、高校時代に矢野論文を読み、そんなことあるのかよと思いながら、後半に書いてある「ディベート」の考え方に強く共感して今日に至っています。
矢野論文は主に英語ディベート界に対する問題提起で、パッチを見る限り、現在では純利益の議論に関して論文中のようなひどい事態は英語ディベートでも起こっていないと思います。
一方、いわゆるいちごTといった意味不明の「せおりー」が議論される現状は今でもあるようで、この点については本ブログの『擬似「セオリー」批判』という記事で批判しているところです。ただ、この問題は矢野論文が取り上げた問題とは微妙にずれているのですが(もちろん矢野先生は批判的立場に立たれています)。

そのほかについては、smrさんの補足にお任せします。日本語ディベートで論文にあるようなひどい議論がされていたというのは、僕も知りませんが…。
僕が本稿で矢野論文を取り上げたのは、現在のJDAなんかで回っている議論は、完成度は高いものの、矢野論文にあるようなヨリ深い分析が欠けているところがあって、そのせいでいろいろ損をしている&大学以降ディベートを続けることの価値を十分に発揮してないんじゃないかと思ったからです。
ちなみに、ディベート甲子園でも、残念ながらまだ数は少ないものの、本当によく準備されたチームの議論については、理念的な部分まで練りこまれた優れた試合を見る機会もあります。皆さまも是非その域を目指して頑張ってください。

>委員長さま
まさにそのとおりで、僕も含めたディベーター全体が議論について考えていかなければならないことだと思っております。なので、上記の問題提起は、たまたま取り上げてしまった一線級のディベーターに向けただけでなく、彼らと戦う全ての大学ディベーターに向けて書いたつもりです。

まだまだ「良い議論」を語るほど議論が煮詰まっていないといわれると自分にとっても耳に痛い話ではあるのですが、当然検討すべき議論をきちんと検討して大会に臨むべきというのはもちろんのこと、その中で自分なりに議論について考えてみるというのはあっていいと思うのです。
そのためには、もっと大会が必要であるとか、偉そうなこと言ってる僕自身も出陣すべきだとか言われると確かになんともいえないのですが(前に出た秋JDAは結局いつものように職業ディベーターに負けてしまったし…)。

何はともあれ、一線を退いた立場からではありますが、よりディベートの水準を高めるという意味で、今回の駄文が何かしらの刺激になればというところです。
そういうわけで、読み手の方におかれましては、このブログの通例同様、基本的には(悪例として取り上げてしまった議論も含めて)今後への期待を前提として記事を書いているのだということをご理解いただければ幸いです。
2011/04/17 (日) 21:53:26 | URL | 愚留米@管理人 #tX1BiP8k[ 編集]
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2011/04/29 (金) 23:25:42 | | #[ 編集]
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