愚留米の入院日記
日当たり良好の某法科大学院既習病棟を退院した法務博士の日記。しかし内容はほとんど趣味のディベートの話
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第16回ディベート甲子園の感想(3.中学決勝の感想とまとめ)
引き続いてディベート甲子園の中学決勝について感想を書きます。こちらは、僕なりの判定を示した後、議論の改善点を考えていくことにします。先に結論を言うと、僕は今回の中学決勝は実際には負けてしまった否定側に投票すべきと考える立場です。それを前提に、ではなぜ否定側は負けてしまったのか、ということで議論を見ていこうという趣向です。
そして、高校、中学と決勝戦を中心に議論を振り返ったまとめのようなものを、最後に書いておくことにします。


第16回ディベート甲子園の感想(3.中学決勝の感想とまとめ)

中学決勝の総評
第16回ディベート甲子園の中学決勝(動画はこちらから・肯定側立論<途中、エビデンスが飛んでいて変な内容になっているので、続きの部分に飛んでください>/続き)は、創価中学校と東海中学校の対戦となりました。名門同士の戦いということもあって、両チームとも高い完成度の議論を用意しており、スピーチ的にも(少なくとも競技ディベーター的には)聞きやすく、レベルの高い試合でした。特に、第一反駁での両者の攻防は非常に充実しており、高校生にとっても見習うべき点の多い試合だったというべきです。

試合結果は4-1で肯定側の創価中学校が勝利しておりますが、票も割れており、後で述べるように、否定側に投票すべき理由も有力であると考えられることから、高校決勝と同様に僅差の試合でした。それだけに、この試合から学ぶべきことはたくさんあります。以下では、前回書いたシステム解析ないしその核となる「両チームのストーリー」や、それを基礎付ける細かな議論の応酬について、特に後者に比重を置きながら見て行きますが、スピーチの方法など、選手の皆さまが学ぶべきポイントはほかにもたくさんありますので、きちんとフローを取った上で再度見直すなどしてみるとよいでしょう。

中学決勝の私的判定
この試合は4-1で肯定側が勝っていますが、僕は否定側に投票するべきだと考えます。以下、その判定理由の要旨を書きますが、これは肯定側に入れることが不可能だと主張するものではなく、判定を論難する趣旨ではないので、そのような前提でお読みください。

メリットに関して
まず、スタンスに述べられた議論を評価して投票理由とすることができるかどうか判断します。
最初に挙げられたスタンスの話は詰まるところ「みんなが自分の利益を主張しあう中で『公共の利益』を発見しよう」というものですが、これは①みんなが意見をきちんという、②それを通じて何か新しいものが見えてくる、という2つの内容に分節可能です。
これに沿ってメリットを見ると、①については1NRで「理性的でなかったり関心のない人間が参加すると民主主義にとってかえってよくない」という趣旨の反論がされていることから、「みんなが参加しさえすればよい」という形で意見表明の機会を与えること自体に肯定的評価をすることはできないと考えます。さらに、後述するデメリットを考慮すると、新規投票層が意見をきちんと表明するとは考えがたいことから、みんなが利益を主張しあうのだろうかという疑問が生じます。
②については、そもそもメリットの中身が「若者向けの政策をもっと取り入れよう」とか言っていて、現在把握されていない新しい何かが出てくるという話になっていないこと(さらには1NRによれば既に民主党のマニフェストにそんな話が出ている)から、肯定側はスタンスの考え方を正当化できていません。
以上より、スタンスに沿って肯定側に投票することはできず、またメリットの内容がスタンスで補強されているという関係性も見出しがたいという結論になります。

若者向けの政策が実現されて持続可能な社会になるという本筋の議論について。
肯定側が言えているのは「無党派層である現在の棄権者が参加して影響力を持つ」ということだけで、彼らが若者向け政策とか持続可能な政策に投票するといった立証はないし、政治家が若者向け政策を打ち出すという立証もありません。要するに、投票率が上がるだけで若者vs高齢者という対立軸が出てくるとはいえないということです。
加えて、1NRによる反論、とりわけ高齢者の数が多いという話があり、自然に若い投票者が増えるだけでは結果は変わりないと評価すべき事実が認められること、これにより、政治家の掲げる政策が変わるという点についても、「政治家も数の多い方を優先するのではないか」と考えるのが合理的と思われることから、メリットの解決性は十分でないと評価することになります。

以上のほか、現在でも若者向けの政策は一定程度取り上げられているということも踏まえると、メリットはほとんど評価することができないことになります。

デメリットに関して
一方デメリットは、現在よりどのくらい変な政治が当選するのかという具体的なところは良く分からないものの、不適格な政治家に投票する可能性の高い有権者がそれなりの数出てくることは示されています。
肯定側は大要①オーストラリアでは、浮動票の取り合いで結果が僅差になり、自分の投票が結果に反映されるので関心が出ている、②選挙により市民が政治的に教育されるという2つの反論を出していました。これに対して、2NRで読まれたフィシュキンのエビデンスは「『強制投票制度では』投票に行っても投票者の知識や政治的関与に影響がないことは確証されている。オーストラリアでもダメだった」ということを言っており、 ①については実例で否定された形となり、②についても蒲島のエビデンスが強制投票による政治参加のことを念頭においているとは思われないこととの関係でフィシュキンを信用すべきということで排斥されます。したがって、肯定側の反論はいずれもにわかに信用できません。

総括
そうなると、そもそも新たな投票者が世代間格差を是正するようにきちんと投票するかは怪しい上、結果に反映されるという部分もAffの立証が足りず、デメリットで言う当選者の質の低下という可能性が認められることになりますから、意欲のない人間を入れて民主主義を脅かす(1NRでされたスタンスへの反論)リスクを避けるために否定側に投票すべきと考えます。

否定側はどうすべきだったか
上記の判定はそれなりに理由があると思いますし、とりわけ選挙による教育効果の論点で読まれた2NRのフィシュキンのエビデンスがかなり良質であることを踏まえると、おそらくこの判定の方が無難ではないかと考えられるのですが、実際には否定側は4-1で負けてしまいました。
講評を聞いてみると、スタンスと若者向け政策実現という内容の乖離について指摘があったり、僕の判定に沿ったような意見もあったようですが、メリットについては概ね「若者の投票率が上がることで若者向けの政策が増えていく」という点が否定されきっていないという判断がされたようです。デメリットについては、新たに参加する意欲のない有権者による影響がどの程度かわからないという疑問があり、さらに政治参加による教育効果についても、フィシュキンのエビデンスには具体性がないということで肯定側の反論を一定程度認めるという判断があったことがうかがわれます。

それでは、否定側がこの試合において、例えば僕が出した判定のような形で投票を得るためにはどうすべきだったのか。以下、大きな視点と小さな視点の2つに分けて考えてみます。もちろんこれは、肯定側はどう議論すればより確実に勝てたのかという分析でもあります。

スタンスないしシステムの議論
講評で瀬能先生もおっしゃっているように、両チームが自分たちの理想とするあり方をシステムとして提示して戦うことは、一定レベル以上の議論を目指す上でとても重要です。そのことについては高校決勝でも書いたところです。
この試合では、肯定側が「全員参加が素晴らしい」という理想を掲げているのに対して、否定側はそれに対する反論として「変な人が入るとかえってよくない」というカウンターのスタンスらしきものを出しているものの、明示的に自分たちの理念を語ることはありませんでした。ここに一つの敗因があったと評することも可能でしょう。

これも講評で言われていましたが、否定側が取りうる一つの立場は、「強制させてまで参加させることが果たして望ましいのか」というところです。講評では投票しない自由という考え方との関係で語られていましたが、おそらく政治参加との関係でヨリ本質的なのは、政治参加は自発的であるからこそ意義があるという考え方に立脚した立論でしょう。自発的でない投票においては、それこそ否定側の言う「親に言われたから」のような誘導の影響を受けやすいでしょうし、よく考えない投票も多そうです。また、むりやり投票させられることでは政治意識の向上や教育効果といったものは生じないかもしれません。こうした、個々の議論を構成する起点こそ「自発的でない投票はよくない」という考え方であり、ここを理念的に裏付ける議論が一つあれば、試合の見通しがぐっとよくなっていたはずです。

否定側がすべきだったもう一つの仕事は、肯定側のスタンスと称される議論を完全に切り崩すことです。
否定側も、「意欲のない人が参加するとかえってよくない」という形で反論をしてはいますが、その前に指摘すべきことがありました。それは、肯定側のスタンスで読まれたエビデンスは「みんなが自分の求める利益を主張しあう」ということを前提としていて、投票を強制して参加させる必要性の正当化には至っていないということです。これは質疑あたりで「今は言いたいことがある人が投票してるんですよね」「言いたいことがない人を強引に選挙に連れ出しても意味がないんじゃないですか」とでも聞いておけばよかったところです。
また、肯定側のスタンスと、若者向け政策の充実という具体的な話の関係性についても、問題として取り上げるべきでした。この試合で見られた、スタンスと具体的な話の乖離は、肯定側のスタンスが「対立を通じて新しい答えを見つける」ことに価値を置いているのに対して、肯定側があげているのは単純に「問題があるのは分かっているが一方が弱すぎて実現していない」例に過ぎないということです。これは、「肯定側もエビデンスで実際紹介してくれたように、既に若者と高齢者の世代間対立があること自体は分かってるじゃないですか。年金の問題も若者の就職難もみんな知ってますよ」とでも説明できるところで、その延長線上に「民主党のマニフェストが若者に配慮している」といった反論を位置づけたり、「プラン後も対立のパワーバランスは変わらない」ということで高齢者割合についての反論を行ったりすれば、否定側の議論がスタンスとの関係でも肯定側の議論を切り崩しているのだということが見えやすくなります。

肯定側は、スタンスと具体例を整合させるような議論を工夫すべきでした。例えば、若者はまだ社会とのつながりが弱いから選挙に参加しにくく、そのせいで影響力が不当に低い&自分たちの問題に関心を持ちにくいが、強引に参加させると目覚める…みたいな。肯定側は「無党派層なので結果に影響が出やすい」という説明を選んでいるのですが、スタンスが「自分たちの利益」という議論をしていて、具体例も世代間対立という形で私益の衝突という話になっているところまでは整合しているのに、解決性のところで突然「無党派層」という話が出てきて、私益に基づいて投票するのかどうかという話が飛んでしまっています。そのあたりが、スタンスと具体例を乖離させている大きな原因であったように思われます。

細かな論点の処理
この試合では、第一反駁が活躍して議論が各所でぶつかった分、それらの評価が勝敗を決めているところがあります。否定側は、いくつかの論点で、自分たちが勝っているという説明が不十分で、そのせいで判定上もかなり損をしているのではないかと思われるところがあります。

最初に、証拠資料同士の比較がうまくできていなかった点について。試合のポイントとなった2NRのフィシュキンのエビデンスですが、これはきちんと説明していれば肯定側の反論を完全に潰せていたものであるはずです。上でも僕の判定として述べましたが、フィシュキンのエビデンスのよい点は、①オーストラリアが失敗していたという内容を含み、実証的な反論になっているところと、②強制参加させた場合と明言しており、より論題に即していることの2つです。これを、肯定側が選挙の効果(意欲向上と教育効果)について述べた2つのエビデンスにそれぞれ対応させ、自分たちの資料の方が説得的であるときちんと述べられれば、この論点の評価は違ってきたでしょう。
講評では、フィシュキンの資料は具体性に欠けるという話があり、確かに「接戦だと意欲がわく」という話はなかなかに具体的で否定しにくいところですが、ここは否定側立論からも資料を援用し、実際にオーストラリアの上院議員がダメだと言っているという話を引っ張ってきて、とにかく実証的に否定されているというところをプッシュすれば、かなりの割合で説得できるはずです。
証拠資料のチェックという点では、1ARは否定側の「家族に影響される」というエビデンスについて、プラン後に若者へのアピールが増えるので若者は自分で考えて入れるという反論をしており、相手の資料が自分たちの議論に当てはまるかきちんと検証しようとする態度において見習うべきものです。ただ、これは「プラン後に若者へのアピールが増える」というのが本当なのか怪しいところで、立論での証明が不十分なため、個人的には評価しづらいところではあります。否定側はむしろ、プラン後むりやり投票させられるような若者はより影響を受けやすいと反論すべきところでした。

次に大切なのは、自分たちの反論の機能がどういうものか、きちんと意識するということです。例えば、高齢者の割合は高いままだという議論は、政策が若者向きになるという解決性を切りにいっているのですが、この反論が解決性を切ることができるのは、①選挙になれば最終的には高齢者が勝つ、②政治家も票田の高齢者を優遇したままになるだろう、という2つの推論を可能とするからです。否定側は、この2つの解釈をきちんと説明した上で、②については別のエビデンスで補強するなどすれば、より効果的に解決性を否定できたはずです。
反論の機能という点では、1NRが重要性への反論として読んでいた「20代は関心が薄い」という議論については、それで何を言いたいのか分かりにくいところがありました。関心がない人間を参加させる必要がないという話は、デメリットやスタンスへの反論(ダメな人が入ると良くない)との関係で評価すべきなのか、それとも関心がないからプラン後も自分たちの利益を主張しないと考えられるという解決性への反論も含むのか、それとも単に「関心がない人が損をしても深刻ではない」といった意味合いなのか。いずれもありうる解釈ですから、単にごろっと読むのではなく、どのような伸ばし方が一番効果的か(複数の切り口で伸ばしてもよい)、きちんと考えて出すべき議論でした。

まとめ~中高両決勝の感想を通して~
以上、中学決勝を素材に、割れる試合を自分たちに有利に持っていくためにはどういうことを考えればよいのかということを考えてきました。このような振り返りは当然普段の練習試合でも行われるべきであり、システム的な大きな視野の「戦略」についても、細かな論点の処理という「戦術」についても、考えれば考えるほど見えてくるものがあります。限られた練習試合の機会でこうした振り返りをどれだけやっていけるかが、選手の皆さまが来年円了ホールに立つことができるかどうかを左右します。こうした「振り返りの重要性」を少しでも感じていただければということで、中高決勝について比較的詳細に検討を加えてみた次第です。

また、決勝をあえて批判的に検討し、あるべき議論の方向性について一定程度踏み込んでコメントしたのは、ディベートというのが単に「相手を打ち負かそうとする」競技ではなく、自分たちの立場をどれだけ魅力的に構築し、相手の議論も踏まえてより現実的なストーリーとして展開できるかを競う競技であるということを僕なりに伝えたかったからです。
昨今では技術革新によってディベート甲子園の決勝戦が誰でも見られるようになったわけですが、その一方で、ディベートについての誤った理解もすぐに拡散し、動画で選手の皆さまが早口で話している――まぁ、普通の人からしたら早いことは否めないでしょう。僕はどこかイカれてしまったのか、まったくそう感じませんがww――のを見て、印象論でディベートを表面的な言い合いのようなものと感じてしまう人もいるかもしれません。しかし、決勝戦もそうですが、優れた試合というのは、試合内容を通じて論題についての考えを深めるきっかけになります。また、そこで行われている議論は、相手を論破するという浅い目標に立ったものではなく、望ましい社会のあり方という観点から、相手の分析も踏まえつつ自分たちの立場が掲げる理念を戦わせるという、極めて深い思考に基づくものです。

そうした「ディベートの意義」をこんなブログに書いたところで、ディベートを誤解している人に直接何かが伝わることはないでしょう。しかし、ディベートの意義が社会に理解されるには、ディベーター一人一人が議論の水準を高めようと努力し、「よいディベート」について各自がイメージを持って競技に取り組むということが一番効果的ではないかと僕は考えています。そして、そのような実践こそが、実際にディベートという競技が選手個人の人生を、ひいては社会をより豊かにするための必須条件でもあります。
ディベートの誤解を解くということはそれ自体さほど重要ではありませんが、ディベートが正しい形で使われ、その力が社会をよい方向に変えていけるかどうかというのは、ディベート実践的に極めて重大なことです。それが実現すれば、ディベートに対する誤解などというものは、勝手に消えていくものでしょう。そのための一助として、少ないながらも選手や関係者が見ているこの場において、僕が考える「よいディベート」の要素を、具体的な議論展開に即して解説させていただきました。

というわけで、単なるディベートの技術論ではなく、日本に山積する課題を自分なりに考えるための一つの方法論として、ここまでのエントリの内容を受け止めていただければという期待を込めて、今年度ディベート甲子園の感想を閉じさせていただきます。
最後になりましたが、地区予選も含めて、今大会に参加された全てのディベーターの皆さま、大変お疲れ様でした。これをスタートにして、皆さまがさらなる高みに羽ばたかれることを確信しております。
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