愚留米の入院日記
日当たり良好の某法科大学院既習病棟を退院した法務博士の日記。しかし内容はほとんど趣味のディベートの話
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甲子園ディベーターに再考してほしい4つの「常識」
最初に、8月13日の某即売会でラノベ同人誌を購入してくれた方々に、どうもありがとうございます。15部売れたと聞いているのですが、どマイナーラノベを取り扱った初出場サークルで15部売れるというのはなかなかないことですので、購入者の皆さまには本当に感謝しております。
冬コミにも参加申込みをしているそうなので、またそこでも原稿を書く機会があるかもしれません。次回執筆の機会があるとすれば、登場キャラに僕が考える本当の意味での「セオリー」を議論させて暴れてもらうSSでも書きたいと考えています(あと、その頃には例のディベート新書もできてるかな…と。しかしページ数の問題もあり自費出版するには高すぎるので売るにはきつすぎますか)。そのときはまたよろしくお願いします。
*あと、同人誌に若干誤記があったので修正内容をこちらに記しておきます

と、一部マニア向けのコメントはこのへんにしておいて、本題に入ります。
ディベート甲子園も終わり、選手の皆さまも次のシーズンに向けた準備をはじめ、あるいは受験など新たなステージに向けた活動に入っておられることかと思います。というわけで、これまでのディベート活動を振り返るという意味で、僕から皆さんにいくつか気をつけてほしいことを書いておくことにします。
といっても、その多くは前から書いている内容で、要するに「皆さんが当たり前だと思っていることの中には再考を要するものがたくさんあるよ」ということです。大会前だと急に考え方を変える余裕もなく、ディベートそのものについてゆっくり考える時間はありませんが、大会が終わった今であれば、ディベートの取り組みについて落ち着いて振り返ることが可能なはずです。これから書く記事が、そうした皆さんの振り返りに少しでも役立てば幸いです。


1.立論の構造を見直してみよう
最初に、ここで何度も取り上げているのですが、なかなか改善が見られない「立論の構造」について書いておくことにします。

今大会でも、ほとんどの肯定側立論は、最初にプランを述べた後、現状分析→発生過程→重要性、という順番で説明をしていました。しかし皆さん、これって本当に分かりやすいですか?
よく考えた上で「これより分かりやすい構成ってないじゃん!」というのであれば堂々とこのままいけばよいのですが、このような構成を採用している理由が「先輩に言われたから」「他のチームもそうしている」といったものだとすれば、そんなものは無視して、分かりやすい構成とは何か考え直してみてください。
以下では、大学以降の競技ディベートで一般的に用いられる構成方法を説明します。なぜそのような構成が採用されているのかということについても説明しますので、皆さんなりに考えた上で、納得されたのであれば是非採用していただきたいし、そうでないのなら皆さんの考える「分かりやすい構成」を実践して、洗練させていってください。ちなみに僕自身も、全ての試合・議論で以下のような構成を取っているわけではありません。例えば死刑論題のJDA2007秋大会のケースなど。

冒頭で述べた構成が分かりにくいのは、①「現状分析」なるラベルが何を言いたいのか分からない、②プランから生じる影響であるところの「発生過程」(解決性)がプランと離れたところで述べられてしまっている、③現状の問題のインパクトを述べる「重要性」が現状分析とされる問題指摘部分と離れたところで述べられてしまっている、という3つの問題があるからです。
そこで、一般的には、現状の問題(内因性)→重要性→プラン→解決性、という順番で議論を行います。これは、全体として「こんな問題があって、これは解決しないとまずい。そこでこのプランを導入しよう。すると問題は解決する」という、論題導入を提案する自然な流れになっているという利点があります。

また、細かいところで言うと、論点につけるラベルの名前も欲考えるべきです。ディベートでは現状の問題をどう分析するかが重要になってくるわけですが、これを安易に「現状分析」などというラベルでまとめずに、具体的なラベル(内因性という言葉を使わなくてもよいし、場合によっては具体的な問題――道州制であれば「地方に自由がない」などの名前をつけてもよいかもしれません)をつけるだけでも、中身が自然と変わってきます。
皆さんはメリットやデメリットのラベルについてあれこれ悩むと思いますが、そうであれば「現状分析」などという、何を言ってるのかよく分からないお決まりのラベルについても、考え直してみるべきです。そうやって一個一個の意味を考え直すことが、ディベートという競技の理解にもつながってきます。

少し話はそれますがラベルとの関係で言うと、最近「内因性」や「固有性」という用語を使うディベーターも出てきましたのですが、使うのであればきちんと意味を分かって使うようにしましょう。
大会でよく見かけた間違いが「このメリットには固有性がありません」というもので、これはディベート用語的には間違っています。ただし、意味合い的にいうと「このメリットは論題に固有に発生するものではありません」と言えばそんなにおかしくもないところです(ただ、それだけだとメリットへの批判になっていなくて、現状でも解決するという意味合いまでいえないといけません。それを表現するディベート用語が「内因性がない」という言葉です)。ディベート用語を知らないジャッジも多いので、一番安全なのは用語を使わず自分の言葉で説明しなおすということですが、そのためにも「用語の意味」をきちんと理解しよう、ということです。

以上、立論の構成に関するお話しでした。ちなみに、上記説明に係る構成はディベート甲子園のガイドラインにも構成例2として説明されていますし(まぁ、中の人が共通しているので当たり前だが…w)、今年の高校決勝で東海高校が読んでいた肯定側立論も概ねこの構成に従っています。参考にしてみてください。

2.無意味なナンバリングは身を滅ぼす
これも何度か書いているのですが、引き続いて議論の構成に関して、「ナンバリングのしすぎ」に注意しようという話をします。

実は僕も昔そういう時期があったのですが、とりあえず全ての議論(主張+証拠)に番号を振ろう、というチームが散見されます。後で番号を元に議論を説明しなおそうという気があるのならまだしも、特に理由もなく、番号を振らないといけないのだと誤解して番号をつけているチームもあるのではないかと思います。しかしこれは、意味がないどころか、かえって自分の首を絞めかねない行為です。

議論に番号を振るということは、自分たちの番号に区切りを入れることだと思ってください。本の見出しと同様、区切りというのは、意味が変わる部分で入るものですし、聞き手としても「番号が変わるということは違う話をしているということなのだな」と受け取ります。それなのに、何でもかんでも番号をつけてしまうと、どこに区切りがあるのか分からなくなるため話が未整理のままになってしまいます。議論につける番号は、議論の内容と対応してつけられる必要があるということです。
さらに悪いことに、番号をつけすぎることは、本来一緒になって理解されるべき議論の位置づけが見失われ、評価されるべき議論が評価されなくなってしまうことにつながります。例えば、前に述べた議論の実例として海外の例を紹介する場合に、それぞれの番号を違えてしまうと、海外の例がどういう位置づけで紹介されているのか分からず、判定で考慮されなくなってしまうことがあります(実際ありました。僕は頑張って補ってその議論を取りましたが、そのように補わないジャッジはその議論を取らず、それを理由に判定が割れています。無論、悪いのは変な番号を振ったディベーターです)。
パソコンでファイルが階層構造になっていることがありますが、ナンバリングというのは議論の論理にそういった階層構造を導入するための道具です。これは便利な反面、使い方を間違えるとわけがわからなくなってしまうので、必要なときに必要なだけ使うようにしてください。何でもフォルダを作って一つずつデータを入れても、不便になるだけでしょ?ということです。

では、どのように議論にナンバリングを振ればよいのか。
番号を振るのは、基本的には「大きく話が変わる場合」か、並列に出てくるいくつかの議論を整理するときです。それ以外の場合は、接続詞で議論をつなげるようにして、論理の流れが相手に伝わるようにしましょう。
とにかく、立論を書くときに「なぜそこで番号を振るのか」といったことをきちんと考えるようにすること。それが、有益なナンバリングをするための第一歩です。
あと、関連して、証拠資料に番号を振っているチームもあったのですが、これは時間の無駄だと思いますのでやめたほうがよいでしょう。

3.資料の出典は読み飛ばすものではない
続いて、昨今一部業界人の間で盛り上がっている、エビデンスの扱いに関係する事項です。

少なくない選手が、ジャッジは資料の中身はよく聞いているけど、出典部分は一応書き取るだけでそんなに考慮していないから、時間をかけて読む意味はない、と考えているように思われます。その証拠に、ほとんどの試合では、普段のスピーチ(特に証拠の内容など)はそれなりにゆっくり読んでいるのに、資料の出典部分は急にスピードを上げて読み飛ばしています。まるで、聞かれると都合が悪いかのように。

率直な話、これはとても印象の悪い行為であるとともに、資料の価値を自ら下げているもったいないことです。
そもそも出典の明示はルール上要求されている行為ですが、その理由は単に「読まなければならないから」ではなく、資料の信用性を担保するための重要な情報だと考えられているからです。そこがきちんと聞き取れないという場合、ジャッジはその資料を信用できません。ルールに照らせば、その資料を無視することも許されます。
もっとも、(選手の皆さんもそうたかをくくっているのかもしれませんが)実際の試合で、出典が早かったなぁというだけで資料を排除するということはまずありません。しかし、その資料が勝敗を決する展開になってきた場合に、出典が早かったりしたことを理由に資料の信用性を低く評価するという処理を取ることは十分ありうるところです。何しろ、出典の読み飛ばしというのは「分かりやすい不備」であり、それを理由に判定を出すというのはとても楽であるとともに正当性もあるところですから、迷ったジャッジがそう判断してもおかしくありません。出典を読み飛ばすというのは、そういう隙を与えてしまうということなのです。
また、リアルな話として、露骨な読み飛ばしはコミュニケーション点にも悪影響を与えるでしょう。僕自身も、読み飛ばしが気になった立論に高い得点をつける気にはならないところで、5点や4点をつけてもよいかなと思ったスピーチでも、読み飛ばしが気に障るとそういう気が失せてしまいます。今年はコミュニケーション点も同数になって抽選でリーグ突破できなかったチームもいると聞いていますが、もしかしたら資料の読み飛ばしがその原因になっているかもしれない、ということです(当該チームのスピーチは聞いていないのでこの点は分かりませんが)。

出典との関係で言うと、出典に著者の肩書きや年号が付されていない例も結構散見されるところで、これも改める方がよいです。特に年号については、これが出てこないと資料の特定が困難であるということで、理論上は出典不備により証拠を排除するのが原則と考えられるところです。
また、中略が結構多い資料もいくつかあったように思います。中略がよくないのは、それが不当引用につながりかねないということもそうですし、何よりジャッジが中略に気を取られて資料の中身に集中できないということに問題があります。そのようなリスクも踏まえて、よい資料を探すようにしてください。

4.「比較」は第二反駁の必須内容ではない
最後に、第二反駁でよく言われる「比較」というスピーチについて考えていただきたく思います。

皆さんの多くは、「第二反駁では比較をしなければならない」と教わっていることかと思います。しかしながら、第二反駁で比較が必須ということはありません。少なくとも「それでは比較をします」という形でスピーチを行う必要は全くありません。誤解を恐れずに言えば、「比較」に対するこうした理解は、現状の問題に「現状分析」と名前をつけるのと同様、形式的にスピーチをしようという惰性に基づくものに過ぎません。

第二反駁の目的は、相手の議論より自分たちの議論が優れていること、つまりは「自分たちの立場がより説得的であること」を示すことにあります。そして比較は、そのための道具立ての一つに過ぎません。
最終的にジャッジは両者のメリット・デメリットを比べて投票を行いますが、そこでの「比べっこ」は、なにもメリットとデメリットをそれぞれ数字化して比べるというものではなく、もっとざっくりした、「どの議論をポイントにして議論を評価するか」「どのような見方で議論を見るか」という考え方に基づいてなされるものです。そのような思考過程に第二反駁が貢献するためには、議論のポイントを分かりやすく示した上でそこに決着をつけたり、議論を評価する観点を示した上でそれに基づく評価例を見せてあげたりすることが必要です。いわゆる「比較」は、こうしたスピーチをするための一つのテクニックであって、それ以上でもそれ以下でもありません。

それでは、具体的にどんな形で比較というテクニックが活用できるのでしょうか。
ひとつは、個々の論点に決着をつける上で、両者の議論を比較する手法です。結論がぶつかり合っている論点について、互いの証拠資料を比べてどこに違いがあるか、どちらに優位性があるかを示す作業は、立派な「比較」です。言うまでもなく、これは第二反駁固有の技法ではなく、第一反駁でも行われるべきものです。

もうひとつは、皆さんが考えている「比較」に近いスピーチで、全体の議論を貫く評価観点を示し、それに基づいて両者の議論やメリット・デメリットを大きく評価するというものです。ここで僕が単に「基準を示してメリット・デメリットを比べる」と書かなかったのは、第二反駁が示すべきは単なる「基準」だけではないし、比べられるのはメリットやデメリットにとどまらないからです。
第二反駁には、議論を評価する観点として、自分たちが依って立つシステムの価値を打ち出すことが求められます。それは、単純に「量」や「確率」といった基準に回収されるものではありません。どういう社会が理想であるのか、何が求められており何が避けられるべきであるのか、そういったものを示す中で、自分たちの議論がその観点から見てどれだけ魅力的なのか、または相手の議論にどんな問題があるのか、といったことを説明するのが、第二反駁の仕事です。もちろんその中では「量」や「確率」といった基準で測られる議論も出てきますが、そのような基準は独立して出てくるものではなく、システムの価値を語る中で出てくるものです。例えばそれは、「原発事故という不可逆で巨大なリスクの存在からして、メリットの起こる確率が小さいことは何ら問題とならない」とか「日本はこのままでは財政的に身動きが取れなくなる。だからこそ、その前に、経済的格差という短期的問題を呑んででも道州制導入で効率化を図り、長期的な地方自治の存続を目指すべきだ」といった形で語られます。先に自分たちの議論のストーリーがあって、それを説明する便法として下位基準が出てくるのです。

そうすると、比べられる対象も、メリットやデメリットにとどまらず、その背景にある、両者が依って立つシステムの価値そのものにまで拡張されます。ルール上、試合の勝敗はメリットとデメリットの比較で決せられるとありますが、メリットとデメリットの評価・比較に際しては、その前提となっているシステムの評価・比較が大きな影響を持つからです。
ですから、説得力ある形で両者の議論を「比較」するためには、メリットとデメリットを比較するということで両サイドの反論をまとめなおす(いわゆる「メリットは発生せず、デメリットは残っている」みたいなスピーチは論外!)だけではなく、残ったメリットとデメリットをそれぞれ評価したうえで、それらを自分たちの考える望ましい価値観の下で位置づけるとどうなるのか、示すということが必要になってきます。高校決勝で例えるなら、日本の破綻を防ぐために資源配分の見直しによる効率化を図る肯定側にとって、弱者切り捨ての危険性を言うデメリットはどう映るのか、逆に、競争による効率化が合理的に弱者を切り捨てかねないと危惧する否定側にとって、住民のニーズに合わせた効率化というメリットはどのように考えられるのか、それが語られねばなりません。

そこでは、独立して「比較」というスピーチの項を設けるのはむしろ不自然です。議論をまとめることが、自然と議論の比較としての要素を帯びてくるというのが、本来の総括スピーチです。比較は「しなければならないからする」ものではなく、自分たちの立場から議論を振り返っていけば、当然にされるものです。もちろん、その巧拙には自然と差が生じるところで、この点については僕自身にとっても難しいことですので、あまり偉そうなことは言えないわけですが…。
ただ、このように比較の意味をきちんと考えると、よくある誤解である「ディベート甲子園のメリット・デメリット方式では価値に関する議論を扱いにくい」などといった考え方もなくなり、より懐の広い議論を目指せるようになるのではないかな、と思います(まぁ、カウンタープランがないのは議論的にはいろいろ窮屈なところで、選手の皆さまには是非大学や社会人でもディベートをやってほしいと思っているところです)。
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