愚留米の入院日記
日当たり良好の某法科大学院既習病棟を退院した法務博士の日記。しかし内容はほとんど趣味のディベートの話
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論題肯定的現状でCounterplanが提出された場合に生じる理論的問題についての覚書
あと1か月で埼玉にある研修所に強制収容されて勉強漬けになるので、今のうちに骨のある記事を書いておくことにします(ネット環境もなくなるおそれ大)。というかそろそろ普通に勉強を始めようというところでもあるわけですが。

今回は、JDA論題が原発廃止になっていることから、これに関係する理論的問題をいくつか取り上げて検討してみようかと考えております。具体的には、現状でも脱原発だとかいう話が出ている関係で、現状が論題を肯定してしまう「論題肯定的現状」(これは僕の命名なので正式な用語ではないです、ご注意を)が生じてしまう可能性があるということに加え、原発廃止ではCounterplanが提出されることが多く予想されるということから、論題肯定的現状において否定側がCounterplanを提出する場合――後述のとおり、事実上提出を強制されることになりかねない――に生じうる問題について考察してみることにします。


論題肯定的現状でCounterplanが提出された場合に生じる理論的問題についての覚書

問題の所在
現状が論題を肯定してしまうという論題肯定的現状において肯定側が論証すべき事項については、若干の争いはあるものの、通説的見解では「肯定側はあくまで『論題は望ましい』ことを示せばよいのであって、現状が論題を採択しないということを内因性として証明する必要はない」とされています(参考として拙稿およびそれに基づき書かれた事例研究を参照のこと。その他、通論復刻版79-82頁など)。これは、論題肯定的現状において、現状維持というオプションは否定側の側には属さない――現状がもっとも望ましいとしても否定側には投票されない――ということを意味しています。
このような理解を前提とすると、論題肯定的現状において、否定側は現状維持でない立場を支持しなければならないことになります。そこで、否定側には、Counterplanを提出することにより、現状とは異なる、論題に反対する立場を積極的に打ち出すことが求められます。そのような背景でCounterplanがいわば「強制的に」提出されたという事情は、Counterplanの評価方法に何かしらの影響を与えうるものと考えられます。

そこで、以下では、両サイドが提出する政策システムの評価という観点から、①提出されたシステムを把握・評価する方法、②「現状維持」というシステムの論題充当性判断の方法、③提出されたシステムの評価が拮抗する場合の推定(Presumption)の置き方の3点について、論題肯定的現状という特殊事情を考慮することが理論的にどのような影響を持ちうるのかという観点から、若干突っ込んで検討してみることにします。

1.試合中に出たシステムのうち何が判断対象となるか
§1 現状維持は特別な立ち位置を占めるのか?
Counterplanについては理論的に様々な論点があるのですが、そうした諸論点を考える前提として、肯定側・否定側はそれぞれどのような形で自らの政策システム(以下単に「システム」と表記します)を選択できるのかという問題を考える必要があります。これは、「肯定側は論題を肯定する複数のシステムを選択できるのか(Alternative Justificationの可否)」「否定側は矛盾した複数のシステム(Conditional Counterplan)を支持できるのか」「各チームは試合のいずれかの時点で自らの支持するシステムを絞らなければならないのか」「ジャッジはディベーターが明示的に選択していない同時採択(Permutation)によるシステムを評価対象として加えてよいのか」といった具体的問題を通じて現れる「どんなシステムの出し方が許されるのか、そしてジャッジは試合中に出たシステムのうち何を見るのか」という問題だと表現することができます。

この点においておそらく通説的と考えられる見解は、両チームとも最終的に支持するシステムを1個に絞るべきであり、ジャッジは最終的に選択されたシステム(明示的な選択がない場合、推測により選ぶことになるのでしょう)を比較して評価を下すという立場でしょう。これは、各チームには議論倫理上立場の一貫性が求められるという考え方や、複数のシステムを支持するという立場は議論が拡散してよくないという教育性・ゲーム性の事情を考慮したものであり、それ自体それなりに合理的です。
しかしながら、このように、各チームが支持するシステムを前提として判定を行うという考え方は、明示的に支持されない立場についての扱いによっては、具体的な議論の評価に際して混乱を生じさせたり、妥当性を欠くことがあるように思われます。それは特に、現状維持という立場が積極的に支持されなかった場合に顕著です。
例えば、弾道ミサイル防衛計画(BMD)中止論題において、否定側が「BMDを前提としてアメリカとの軍事協力を緊密にする」というCounterplanを提出し(競合性はあると仮定してください)、同時に中国との外交衝突を論じるメリットに対して「『現状のままでも』経済的問題から日中関係は改善していく」という内因性へのアタックを行った場合を考えます。Counterplanには軍事協力が強固になりすぎることでの大きなDA(戦争に巻き込まれるリスクなど)がついてCaseを上回れなくなったが、一方で内因性のアタックによりCaseがなくなったという場合に、どちらが勝つのが妥当でしょうか?

上記の例について、否定側がCounterplanの立場を最後まで支持し、選択していたということを重視すると、肯定側はBMD廃止の意義を何ら示せなかったが、否定側の支持した立場はより悪いので、肯定側に投票すべきだということになります。それでもよいという考え方も可能ですが、この場合にCaseが立っていないのに肯定側に投票するのは気持ち悪いという向きもあるでしょう。その気持ち悪さの原因は、この例においては、論題を否定する「現状」が最も無難であると考えられるにもかかわらず、否定側の選択によってその「現状」を評価から排除していることにあると考えられます。それでは、この例でなぜ「現状」はそのような存在感を発揮しているのでしょうか?
その第一の理由は、否定側の反論が内因性の反論として「現状」を引き合いに出していることにありそうです。ここで、Counterplanとして現状と異なるシステムを支持しておきながら、そのような反論が許されるのかという疑問も生じうるところですが、結論から言うとそのこと自体には問題がないといえます。というのは、内因性に対する反論は「論題採択の必要性の有無」を論じるものであって、否定側が拠って立つシステムとは直接関係ないからです(無論、肯定側の再反論として「米軍との軍事協調強化という事情があると外交関係は違ってくる」という議論はあり得ますが)。ここから言えることは、相手が支持するシステムがなんであろうと、肯定側は論題採択の必要性を言うために、論題を採択していない状況――多くの場合これは「現状」である――との対比で議論を展開しなければならないということです。Caseの評価では相手方のシステムの選択にかかわらずそのような要求にさらされているのに、最終的な判定においてはその要求がスルーされてしまっているということが、上記の例で「現状」を無視して肯定側に投票する気持ち悪さを支えているといえそうです。
「現状」が存在感を持つ第二の理由は、それが明確にイメージしやすく、多くの場合議論の前提にもなっているということにあります。上記で述べたとおり、少なくともCounterplanが出る前のCaseは現状を前提として論じられており、またCounterplanを出しているとしても、少なくない否定側の議論は現状を前提としても当てはまるものだったりします。そして何より、現状はまさにジャッジや選手が現在生活し、各種報道などで認識している状況そのものですから、議論されないとしても一定の理解が備わっています。その意味で、現状というシステムは、選手がプランという形で出さなくても当然にありうるオプションとして想定可能であり、選手が明示的に選択しないとしても、現状維持というシステムを評価することは比較的容易です(Counterplanの出ていない普通の試合では、否定側は当然に現状維持を選択したものとして判断されているわけですし)。そのように想定が容易な「現状」というオプションを考慮すると、論題を否定する「現状」が一番よさそうに思えるのに、否定側があえて極端な立場を選択したがために、肯定側に投票するということが果たして妥当かどうかということは、議論の余地がありうるところではないでしょうか。

以上のように考えると、システムの選択にかかわらず、少なくとも「現状」というオプションについては、常に評価対象のシステムとして考慮されてもよいのではないか、ということが言えそうです。これは「各チームが支持した結果」とは独立に「当然考慮されるべき立場」として現状を位置づけるという考え方により、上述した通説的なシステム把握方法と矛盾しないとも思うのですが、「各チームの選択」に重きを置くのであれば、積極的に選択されなかった「現状」は無視されるという帰結となるでしょう。上記指摘を踏まえてそれを妥当とするかどうかは、最終的には各論者の価値判断に委ねられるところです。僕自身は、上記のような違和感を好ましくないと考えるので、現状維持というシステムを当然に判断対象に含める立場をとっています。
なお、同じような問題意識から、「Counterplan+肯定側のシステム」という完全同時採択状況を当然に判断対象として含めてよいかという議論もありうるところで、僕はこの点についても積極に解しています。さらにいうなら、僕自身は出されたシステムすべてが並列的に判断され、もっともよいシステムの帰属(命題的か否か)によって勝敗を決すればよいという形で、側の支持する立場とシステム評価を完全に切り離している(これについては過去の拙稿(上)(下)――ただしTopicality as solvency attackという考え方を中心に、現在は異なる考え方をしている部分も少なくありません――やフィロソフィーなどに説明があります)のですが、この点について書きだすと一本別の記事ができてしまうので、今回は説明を省略します。

§2 論題肯定的現状を考慮するとどうなるか
さて、以上のように「現状」からなるシステムを判定対象としてどのように考慮するかで議論がありうるということを前提として、論題肯定的現状ではシステム把握の方法にあたって何か変化があるか、考えてみることにしましょう。

論題肯定的現状では、「現状」は肯定側のオプションになると考えられます。今季論題でいえば、肯定側のプランは30年後を目途に原発廃止を行い代替発電は石油・石炭・メタンハイドレートなどを利用した火力を主とするものであるのに対し、現状の政府が40年度を目途として天然エネルギーを中心とした脱原発を決定したという場合、「現状」を当然に判断対象に含めるなら、肯定側は最初からシステムを2つ支持している、ということになります。
しかし、「現状」というシステムが否定側のオプションである場合と比べて、上記のように肯定側に最初から2つの支持システムを認めるということは、肯定側が有利すぎるようにも思われるところです。それは、そのように解する場合、否定側は火力発電による代替発電を前提としたDAだけでは勝てず、肯定側が明示的に主張していない天然エネルギー中心の代替発電を踏まえたDAを出す必要があり、それは否定側に過度の負担を強いるものだと考えられるからです。

通常の論題を念頭にして「現状」を当然考慮の中に入れた論者が、上記の点を問題だと考える場合に、とりうる選択肢は二つあります。一つ目は、矛盾を解消すべく、通常の場合でも「現状」を当然考慮に入れることをやめてしまうことです。この場合、「現状」を考慮しない違和感が復活することになりますが、そこは「選手の選択だから仕方ないね」と割り切ることになります。じゃあ最初から割り切れよという話ではあるのですが…。
二つ目の選択肢は、論題肯定的現状がある場合とそうでない場合を分けて議論する可能性を考えることです。例えば、肯定側は「提案者」の立場であるから、提案しない立場については審理が求められたものとは言えず、したがって「現状維持を主張しない」ことは「現状というシステムの積極的排除」を含意するのだ、という形で、プランの提出行為について否定側とは異なる重みを持たせる議論がありえそうです。もっとも、これは、上で述べた、「現状」が重みをもつ第二の理由との関係で若干苦しいところがあります。あるいは、やや理由づけが弱いものの、公平性などの要素を考慮して区別するという立場もありうるところです。

一方、肯定側が「現状」を当然に自らのオプションとしていても構わないのではないか、という考え方もできます。これはAlternative Justificationを肯定する見解と同様の理由が当てはまるところで、オプションが複数あるというだけで一方が有利になるものではなく、それぞれのオプションに十分理由がないのであれば、それは各個撃破すれば済むだけですから、単に現状維持が勝手に肯定側のオプションになるだけでは、そこまで否定側に不利にはならないだろうということが言えます。また、「論題を肯定する」という共通点がある以上、論題を肯定している現状維持のシステムと、肯定側が提案するシステムには同時に反論できる可能性があるはずです(逆に、反論に共通点がない場合、それぞれのシステムごとにADも共通していないと考えられ、したがって肯定側の議論が拡散を余儀なくされて否定側にとって楽になります)。
このように考えれば、否定側の不利益というのは実は大きくなくて、「現状」の存在が明らかである以上当然考慮してよい程度の議論だということができます。また、現状が論題肯定的であるということが公知といえない場合、否定側から論題肯定的事情を出さなければ問題が生じない可能性もあります(この点に関しては、後述するところの「ジャッジが知っている事実をどこまで判定に考慮してよいか」という問題が出てくるところではあります)。
個人的には、結局は現状の動きによって「現状維持」というオプションが肯定側に有利にも不利にも働きうるというだけのことであり、現状維持というあり方が当然に考慮されてよいものだとすれば、両サイドともそれを意識して議論すべきだし、またそれは十分可能だということで、論題肯定的現状においても「現状維持」を当然に考慮対象とすることはできると考えています。

以上、論題肯定的現状というイレギュラーな要素を考慮しておかないと、システムの評価方法についての一般論を固めることはできないだろうということでした。

2.現状維持というシステムの論題充当性
上述のように「現状」の存在を当事者の援用がない場合でも考慮するという見解に立つ場合、論題充当性を独立の投票理由として「肯定側のプラン(立場)が論題を支持しているかどうか」を問うだけのものだと解する通説によっても、肯定側が提出したプラン以外のシステムについて論題充当性を判断する必要に迫られる場合が生じえます。
というのも、現状維持が最も望ましいシステムだと判断される場合にそこからどちらの勝利が帰結されるかを判断するために「現状は命題的なのか」という問いに答える必要が生じるからです。

では、当事者がシステムの細目について説明しない「現状維持」というシステムについて、どのような方法で論題充当性を判断すればよいのでしょうか。
この点について、通常の論題充当性の議論と区別して問題となりうるのは、現状維持というシステムの中身をどのように認定するのかということです。この点については、現状が論題肯定的であることを疑わせる試合内の立証を参考にすることになりますが、それを超えていわゆる「公知の事実」を判断基底とすることが許されるかという点については議論のありうるところです。
これを否定的に解する見解として、ジャッジの知識に基づき現状を論題肯定的と解して肯定側のオプションにしてしまうことが否定側に不意打ちになるという議論はそれなりに説得的なところですが、私見としては現状維持の内容を考慮するうえで公知の事実を排除する必要性はないと考えています。というのも、論題充当性以外の議論であれば、議論の前提となっている「現状」の中身については、ジャッジはある程度公知の事実を考慮しているといえるところ、それを論題充当性の部分だけ無視するというのは不自然であるし、「現状」の中身について当然判断対象になるのだという考え方を前提としてしまえば、その背景にある「現状については議論の前提として当然考慮されるべき」という価値観が論題充当性の議論にも妥当し、不意打ちという批判は当たらなくなると考えるからです。

また、現状維持の命題性判断が必要であるということになると、その判断における推定の所在という論点も生じうるところです。もっとも、ここでいうのは「命題的か否かという二値的判断のためのゲームのルール」としてのそれであって(こちらの記事を参照のこと)、いわゆるTopical Presumptionという考え方ではありません(これについては、関係ない記述も多くて恐縮ですが、過去の記事を参照のこと。その1その2)。
肯定側のプランについては、肯定側が提出したものであることから、形式的に肯定側に立証責任を負わせる(したがって真偽不明の場合非命題的とする)のが妥当だと考えられますが、現状維持というシステムについては、どちらが出したものでもないので、いずれに推定を置くかは難しいところです。とりあえず私見としては、わざわざ論題の是非ということで議論が設けられていること自体が、現状が改革されるべきものであり「論題を採択していない状況」であることを前提とするものであるという形式的理解が可能であることから、肯定側に立証責任を負わせる(したがって肯定側が命題的であると立証しない限り、現状は非命題的=否定側のオプションとなる)ものと考えています。

3.Plan対Counterplanの判断における推定の所在
§1 一般論としてのCounterplan提出時の推定の所在に関して
Counterplanが出た際の優位性の判断において、推定を肯定側と否定側のいずれにおくかというのは、なかなかの難問です。実はこの点について過去に職業ディベーターことGeniocrat氏のブログで議論したことがあるので、その内容を振り返りつつ考えてみることにしましょう。

まず前提として、一般的に「推定は否定側におかれる」(AD=DAであれば否定側に投票する)といわれている根拠として、支持する立場の不確実性を考慮するという見解があることを押さえておく必要があります。要するに、推定には根拠が必要であって、それはたとえば「不確実な立場を避けるべきである」という考え方に基づき、「現状を変化させる不確実性がある以上、肯定側のプランは不利な推定を受ける」という形で推定が設定されなければならないし、その不確実性の所在についてはチャレンジの余地があり、不確実性が実は現状(あるいは否定側のCounterplan)にあることがわかれば、推定の所在は転換されうるということです。

このように、Counterplanの不確実性がきちんと議論された場合であれば、推定の所在について不確実性などの指標を用いて判断できるのでよいのですが(もっとも、そのような議論があればAD=DAのような話にはならない気もしますが…)、問題は両者が明示的に議論をしなかった場合です。この場合にいずれに初期的な推定を置くか、すなわち「推定の推定」をどう考えるかということについて、見解は分かれうるところです。
この点につきGeniocrat氏は、①Counterplanは新しいシステムの導入であり、議論を拡散させて一個一個の検証時間を削るものだから、それに値する価値が求められる、②Counterplanは後で提出される分だけ検証できる時間に乏しく、一般論として肯定側のプランより質が低いと考えられる、という2点の理由から、Counterplanに不利な推定が置かれるべきであると考えています。
これに対して僕は、①については肯定側が論題の範囲内から政策を選び出せるよう、否定側にも自由に立場を表明する権利があるはずだから、Counterplanにだけ特別な価値を求めるのは不当であり、②については肯定側もCounterplanを考慮して議論を構築すべきであり、後出しされるので検証時間が短いといって否定側に責任を押し付けるようなことは認めるべきでないということから、上記のような推定の置き方には理由がなく、不確実性やプランの検証可能性(上記②の理由について、Counterplanが2NCで出たような場合には、否定側に不利に判断されてもしょうがないという一事情にはなるでしょう)をジャッジの側で考慮し、選手の主張立証がない場合でも柔軟に推定を定めるべきだと考えています。そのうえで、どうしても差がつかない場合は、ゲームのルールとして、論題を提案する肯定側を負けとしてしまってよいだろうというのが、当時の僕の見解です。

さらに、これは当時論じませんでしたが、現在の僕のように、ディベートの勝敗を側と切り離し、最良のシステムの帰属によって決しようとするのであれば、優劣つけがたい最良のシステムが複数ある場合にはまず最初にそれらの帰属(命題的かどうか)を機械的な推定(前項で論じました)により判断し、最良のシステムとして命題的なシステムと非命題的システムが併存している場合には、命題的なシステムも「望ましい」といえるので肯定側が勝ち、という形で整理されることになりそうです。
ただこの場合も、最良のシステムかどうかというところでシステム間を比較するので、そこで推定の必要性が出てくると考えることもでき、なかなか悩ましいところではあるのですが、そもそも「どんな選択が望ましいのか」というところで、試合で議論されていない「不確実性」や「議論が出てきた場面」などの別指標で推定を考えること自体が不自然であり、そういった議論は試合中に議論評価の方法として堂々と行われるなら別論、ジャッジの側で推定を用意しておくこと自体を否定し、論題採択が十分魅力的なシステムといえるのであれば肯定側を勝たせてあげればよいではないかと考えると、上記のような判断枠組みもありうるところでしょう。ただ、この点については推定論を完全に捨てることにまだ踏み切れないところもあるので、今のところ疑問を留保するにとどめることにします。

§2 肯定側が論題肯定的現状を支持した場合の推定の所在
前節の最後で書いた内容はともかく措くとして、Counterplanが出た場合の推定の所在にはいろいろな考え方があるわけですが、それではここで肯定側が論題肯定的な現状の維持を支持する立場をとり、これに対してCounterplanが提示されたという場合に、推定の所在をどのように考えるべきでしょうか。

この点について、「肯定側が現状維持、否定側がCounterplanによる現状変革を言う以上、不確実性が大きいのは変化を伴う否定側だから肯定側に有利な推定を置こう」という見解が考えられるところですが、これは若干安易に過ぎるように思われます。というのは、論題肯定的現状といっても、それは「現状がすでに論題を採択・実施した状態にある」ということを意味するのではないからです(そんな場合もあるのかもしれませんが…)。例えば「30年後までに原発を廃止する」ことが決まっていたとしても、まだ原発全廃がどれだけ進んでいるかはわからないのであって、この場合現状維持の立場はまさに「変革の真っただ中」と評価することが可能です。

ここで考慮されるべきは、疑似内因性を否定する通説の理由づけであるところの、論題が採択されていない状況を論題が採択されていない理由(通論では「中核動機」とされており、仮説検証パラダイムでは要求されている要素です)と切り離して客観的に捉えることで「論題を採択すべきかどうか」というテーマを正しく論じるという考え方です。
これによれば、現状維持が論題採択を意味しているのか、プランによって新たに論題採択がなされるのかという違いは、論題が採択される理由の相違に過ぎず、それ自体は重要でないということになります。そして、不確実性を論じるにあたって比較対照されるものは、あくまで「論題がない状態=非命題的システム」と「論題がある状態=命題的システム」であって、その意味では肯定側は常に変革的です。ただ、否定側がCounterplanにより新たな変革をも提案するのであれば、それは肯定側の提案とは別個の不確実性を根拠づけうるところです。
結論としては、論題肯定的現状であるこということは、推定の所在について何らかの影響を与えることはないと考えるべきことになるでしょう。この帰結は、内因性において「既にやっているから導入の必要なし」という反論が却下されることと同じで、「既にやっているから確実性がある」というようには考えないのだ、と説明すれば、通りがよいのではないでしょうか。ですから、論題肯定的現状において現状維持とCounterplanが衝突する場合にも、Counterplanの優位性に関する推定の所在論を普通に考えればよいということになります。

4.まとめ
以上の考察を要約すると、論題肯定的現状に関する考察は「現状」というシステムの扱い方を意識することにとって少なくない意義を有するものの、理論的に見解が分かれる点において結論を左右することはさほどないのではないか、ということでした。これは、疑似内因性批判で強調される、議論の対象は「現状」ではなく「論題」の望ましさなのだという原則の再確認という意味合いを持っています。

もちろん、上記の議論は僕の私見ですから、ほかにもさまざまな考え方がありうるところだと思います。実際の試合でこうした論点が問題となることはほとんどないでしょうが、ディベート理論について考える上ではなかなか面白い素材だと思いますので、プレパの息抜きにでも考えてみてはいかがでしょうか。
あと、いつものとおり、私見に対する感想や批判も大歓迎です。9月中旬まではゆとりをもってお応えできると思います。
コメント
この記事へのコメント
コメントははじめてですが、いつも楽しく読ませていただいています。

論題肯定的現状や、それに伴う「現状」の扱いについて、自分の中で整理できていなかった部分についてとても勉強になりました(僕が記事をきちんと理解できているかには疑問が残りますが…)。
以下、記事に関した質問を2つ挙げさせていただきます。


まず1つ目は、1§1におけるジャッジによるシステム選択の可能性に関連する論点です。
1§1において、Plan,Counterplanが提出されている場合でも、肯定側も否定側も支持を表明していない現状維持というシステムをジャッジが選択しうるとされています。このような判断に基づくと、ジャッジが肯定側・否定側の主張するシステムから離れて、よりよいシステムを独自に選択し、そのシステムの帰属において勝敗を決定するという可能性が示されているように思われます。この論点から、スパイクプランとの兼ね合いで一つの疑問を持ちました。

例えば、肯定側が論題的なプランと一緒に非論題的なスパイクプランを提出した上で、論題的なプランからのみ発生しスパイクプランの有無によって大きさを左右されないメリットを主張し、否定側は現状維持の立場を支持した上でスパイクプランからのみ発生するデメリット提出し、最終的にデメリットがメリットを大きく上回ったと仮定します。この場合、実際の試合においてはおそらく否定側に投票するジャッジが多いように思われます。

しかしながら、この試合において提出されたもっとも望ましいシステムはスパイクプランなしの肯定側プランであり、その採択が論題を肯定していることは明らかです。この場合、1§1において「現状」を選択するジャッジの判断を認める立場においては、ジャッジが「スパイクプランなしの肯定側プラン」という新たなシステムを選び、それを根拠に肯定側に投票するという行為を認めることが出来るのでしょうか。

もちろん、「現状」と「プラン」は明らかに質的に差異があることはある程度明らかですから、その部分を根拠にしてこのような敷衍を行うことを否定することも出来ると思います。しかし、「現状」をシステムの選択肢の一つとして認める理論の「もっとも望ましいシステムが採用され、その帰属において勝敗が争われるべきである」という問題意識に基づけば、むしろジャッジが積極的によりよいシステムを独自に考え選択し、その帰属によって投票を決定づけるという考え方もあり得るところだと思います。

現実的にはあり得ないような事例である感が否めないのは申し訳ないのですが、是非コメントをいただけたらと思います。

2つ目の質問は、3§2における、論題肯定的現状を支持する肯定側とCounterplanを支持する否定側が衝突した場合における推定の所在についてのものです。確かに疑似内因性における通説を考慮に入れれば、現状が論題的であるか否かが推定の転換そのものに影響を与えないということに関しては理解できた気がしています(もう少し、自分の中でかみ砕いて理解したいとは思っています)。

この上で僕の疑問は、そもそもなぜ否定側に有利な推定を働かされるのかという「転換」以前の根拠について、記事で取り上げられている通説的見解とその解釈では決定できないのではないかという疑問です。記事のように論題肯定的現状を支持する肯定側に不確実性を見て取る場合には、同じように論題否定的現状を支持する否定側にも一定の不確実性を見て取るのが妥当ではないでしょうか。この場合、通説的な不確実性を根拠にした推定の基準では、そもそもの推定がどちらに有利におかれるべきかが決定できないように思われます。この場合、はじめに推定を否定側に有利においておくという根拠はどのような点に求められるのでしょうか。

推定に関しては僕自身が非常に勉強不足のため、的外れな質問になっていたら申し訳ありません(的外れであれば、その旨を指摘していただければ幸いです)。

以上が質問になります。よろしくお願いします。
2011/09/03 (土) 01:06:32 | URL | ひさりん #EmfdiDR2[ 編集]
コメントありがとうございます
>ひさりんさま
いつもご覧になっていただいているようで、どうもありがとうございます。
さっそく質問に答えさせていただきます。

1.システムの把握方法について
ご質問は、スパイクプランを除いた命題的プランだけからなるシステムのように、ジャッジが提出されたプラン条項から最も望ましいシステムを作り出して評価対象とすることはできるのかということでした。

結論から言うと、そのような考え方も理屈としては成り立ちうると思います。ただ、それが妥当かどうかは別の話です。
本文中で僕が述べた問題意識は「容易に認識できる最も望ましいシステムについて、選手が出さなかったというだけで評価しないというのはいかがなものか」というものでした。そこからすれば、スパイクプランを除いたプランからなるシステムを考慮することもありえます。
一方で、現状というシステムは当然前提にされているといえる一方、試合中に出てきた任意の条項を組み合わせるという形で新たにシステムを作り出す行為は、選手の提示したシステムを組み替えるという点で、現状そのものからなるシステムや、プランとカウンタープランの同時採択(僕はこれを把握対象としています。関連して、本文に明らかな誤記があったので少し修正しています)など、出されたプランを取捨選択する行為が含まれないシステム把握と異なる評価をすることが可能です。
いくら側とシステムを切り離すとしても、当事者が全く主張していないシステムを任意のプラン条項を組み合わせて作り出すというのはさすがに予測可能性を欠き、不意打ちの度合いが大きいと思いますので、僕は「一部同時採択や一部取り出しにより生じるシステムは主張がない限り認めない」という立場を支持しています。これは結局のところ、ジャッジの裁量に基づく「望ましい判定の追求」と当事者主義的要素をどこで調和させるかという問題で、究極的にはジャッジの好みによるところなのかな、と思います。もちろん、妥当性のレベルでいろいろ批判のありうる問題ではあるので、僕の考え方も含めて、いろいろ議論の余地はあります。

あと関連して、スパイクを除いた肯定側プランというシステムは認めないとしても、抽象的に「論題を肯定する」という立場を観念することは可能かもしれません。
ご案内のとおり、肯定側にプランを出す義務はなく、プランが出ない場合は抽象的に論題を肯定する立場というものを想定して議論を評価することになりますので、肯定側がプランを出した場合でも、かかる抽象的立場は前提のまま残っているという考え方に基づきます。
ただし、そうした抽象的な立場がメリットの解決性を示しているといえるかはまた別の話ですが。

2.初期の推定が否定側に置かれる理由
そもそも推定というのは羽毛のよう軽い、ゲームのルールとして仕方なく出てくるものだという理解を前提として考えると、初期の推定を否定側に置く理由も、かなり形式的なところで足りるはずです。
僕としては、肯定側は「すべき」という論題を支持する立場であるから、否定側より説明責任があるということで、本当に真偽不明の場合は否定側に投票することにしようということで理解しています。これは、両チームがどのような立場をとっている場合も妥当する理由づけです。

なお、不確実性などで規律される、一般的に「推定」と称される基準は、いわゆる「ゲームのルール」として0=0の状況(それこそ両チームとも一言もしゃべらなかった場合など)を処理する場合以外において、議論の評価の方向性を定めるという、より位置づけの重い議論として理解できるのではないかと考えているところです。
例えば死刑論題で立証責任の所在を議論している場合、あれは「困ったら肯定側」といった主張でありつつも、実際にはジャッジが各議論を評価する際の背景として、0=0のような極限的状況より広い場面で一方に有利な結論が出るよう機能しているところがあるように思います。これは、推定の問題ではなく、議論全体あるいは特定の議論についての「論証責任」を設定し、心証形成に必要な説得力の度合いを上下させているものだと理解することができそうです。

こうした「推定」概念の限定化については以下の記事で書いているのですが、それと独立した「論証責任」のような概念の可能性については別途検討してみたいところです。
(参考)http://lawtension.blog99.fc2.com/blog-entry-62.html
2011/09/04 (日) 01:41:29 | URL | 愚留米@管理人 #tX1BiP8k[ 編集]
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